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2024-03-14

[] 2024-03-14

箴言の「愚か者」に関する文を読むと、私自身が本当に愚か者に思えてきます

しかし「自身を賢いとみなす者」「軽率発言をする者」は愚か者以下の存在である箴言にはっきり書かれています

現代ソーシャルメディア時代をまるで言い当てているかのようです。

ソーシャルメディアSNSのこと)では、自身を賢いと思ったり、軽率発言をしている人たちがトローリングをしています

ある人は「匿名活動していたらそのせいで職を失ったので、実名活動するようになりました」と言っていましたが、匿名であろうと実名であろうと、口数が多ければ罪を避け得ないと言われます

かに彼は実名活動することによりたくさんのフォロワーに囲まれることとなりましたが、彼のマウンティングに傷つく人はたくさんいるようです。

私が嫌いなのは、知性で張り合おうと考える人たちのことです。

議論というのは、内容を見て判断するべきものです。それを、「低学歴が何を言っても無駄である」といったことを言う人がいます

まるで高学歴自分は賢いか議論する価値があるとでも言いたいような、そういう人たちがいるようなのです。

肩書が何であろうと、神の前ではみな一人の証人です。

その証人が正直なことを言っている限り、知性で張り合う必要はないのです。

ところで、私は最近、「ユーモア」というものがなんなのかわからなくなりつつあります

例えばちびまるこちゃんで、山田おちゃらけているときに、「ははは、馬鹿臭い」と笑うのは、嘲りに基づいています

あるいは芸能人ネタを見るときも、基本的には馬鹿らしさに対する嘲りではないでしょうか。

たくさんの「笑い」が、実は嘲りに基づいていたことを認識すると、何が良い「笑い」なのかわからなくなってきたのです。

一言えるのは、私が犬と遊んでいるときの笑いは嘲りではないということです。

そしてソーシャルメディア上の「笑い」の多くが嘲りに基づいていることを認識したので、「ソーシャルメディアを楽しむ」というのが、一体どういうことなのかわかりません。

単に情報を共有するのが目的であるなら、怒りを誘うような「おすすめ」も必要ないし、トレンドタグ必要ないでしょう。必要情報をくれる人をフォローすればいいだけです。

しかしこの「必要情報をくれる人」というのも厄介で、必要性に基づけば99%はノイズなのです。

すると、ソーシャルメディアの使いみちはもはや「仲のいい友人と連絡を取るためのツール」ぐらいで良いような気がしてきますし、知性をひけらかすために他人を煽る必要はないと思うわけです。

要約すると、「愚か者以下の存在」がソーシャルメディアユーザーには多くいますインフルエンサーがその例でしょう。

歴史的に培われてきた、箴言のような倫理観は、現代において軽視されているように見えます

ソーシャルメディアに保存された情報は今後何十年と経っていったときにどうなるのか。恥ずかしい黒歴史を溜め込むだけのものになっているかもしれませんね。

2024-03-12

[] 2024-03-12

10:11 正しい者の口はいのちの泉。悪者の口は暴虐を隠す。

メンタリストが、まるで「力のある人」しか善を為せないかのようなことを言っていました。

善とは、身近に存在するものです。

例えば結婚した夫婦家事を手伝い合うことで負担を分担します。これは一つの善です。

あるいは落とし物をした人がいれば、警察などに届けることができます。これも善です。

善に「大きさ」や「力」を常に要求するのは、功利主義者です。

かに、金をたくさん持った人がプロ慈善団体にたくさん寄付すればそれは立派な善をなせるかもしれません。

しかしそのこと自体を、庶民が行う身近な善を無価値にする理由にはなりません。

メンタリストも、箴言の言うところの「舌の罪」を犯していると言えますし、ホームレス侮辱するようなことを言っていたのが印象的です。

はいときプライドのために吐く愚者言葉というのは、本当に邪悪だと思っています

なぜ「力のある人しか善を成し得ない」などと言うのでしょうか。

それは自身を「力ある者」と見做し、「弱者男性」などを見下すといった傲慢存在しているかもしれません。

かに募金先を決めるといったシナリオでは、誰に募金すべきかを決める審美眼必要になるでしょう。

そのことを指して「力ある人を見極めよ」と言っているのであれば、それは立派なことかもしれません。

しかし「力ある人のみが善を成し得る」というのは全く間違っています

私も舌の罪を犯してしまいがちですが、「ソーシャルメディアでの発言を慎む」というのも、一つの善ではないでしょうか。

その場のプライド他者を見下し、いい気分になるのは賢さではありません。傲慢です。

他人尊重し、建設的な対話を重視していれば、「弱者が行う善」を無駄だと言ったりしなくなります

弱者でも善を成し得る」という事実嫉妬するべきではありません。

2024-03-04

[] 2024-03-04

精神錯乱した時は大抵奇妙な体験します。

幻覚と思えないほどの壮大さだったりするので、現実認識が危うくなります

精神が正常に戻ると、いかに秩序の保たれた世界が素晴らしいか、それを噛み締めるわけです。

世の中には変わった人間がおり、おおむね陰謀論の界隈に多いような気がします。

私は陰謀論など知らなくとも、異常な現象体験しているので、むしろ秩序と安定を好みます

しか陰謀論者は、陰謀批判しているフリをして、心のどこかでそういう世界を望んでいるように見えるのです。

コヤッキースタジオというチャンネルを偶然見ていたのですが、彼らも「真実」というものに、何か異常なものを求めている雰囲気があります

私は精神状態悪化した時に異常な現象体験するので「何らかの情報を信じると、実際にそれに関連する現実体験する」という可能性にいつもビクビクしています

きっとコヤッキー氏のような人は精神が極めて安定しているのでしょう。

「二度と体験したくない」という恐怖を体験したら、陰謀論を楽しむことはできないと思うわけです。

私の場合、それは死ぬかもしれないと思うほどの強い頭痛に関連付けられています

精神錯乱する時、いつも睡眠ができない覚醒状態になるので、寝れない日が限界まで続くと、そういう頭痛体験します。

その過程で、さまざまな不思議現象体験するので、体験と痛みが紐づいているわけです。

頭痛によって気絶して、何とか睡眠状態になりますが、その後一時的記憶喪失状態になります

どの記憶が失われるかは予測できませんが、この前それが起きた時は仕事に関することを忘れかけました。

「この前」と言いましたが、去年のゴールデンウィークでのことなのです。

2024-03-03

[] 2024-03-03

私はふと、このようなことを思いました。「自分他者のために何かをできているだろうか」

コスパタイパという言葉がありますが、私は「どうやって楽に、効果的に人のためになれるか」ということを考えてしまうのです。

そしてたどり着いたのは「仕事自分にできる範囲利益を得て、そこから一定の量を慈善団体寄付すれば良い」という考えです。

自分から慈善団体を作るよりも、既存プロフェッショナルお金を投じた方が効果的というわけです。

ただ、この考え方は少し傲慢を生む気もしています

「こういう善をしているから、多少の悪は許される」「私がしている善に比べれば、この程度の悪は大したことがない」といった具合に、善悪貯金感覚で見てしまうのではないかという不安があります

こうなると、生活をする上で身近な善行をする心が荒んでしまうのではないかと思うわけです。

他者尊敬する、弱者を助ける、身近な善を行う。こういう精神性が、「コスパ」「タイパ」という考えに蝕まれているのではないでしょうか。

あるいは期待を超えない無能者を見下す傲慢為政者なども存在するでしょう。行動の「効果」を重視する人は、期待を超えるように言うからです。

EA (effective altruism)については、このようにして功利主義的側面が含まれ可能性があります

経済功利主義精神を蝕む現代でも、惑わされずに、何が善で何が悪であるのかを見極めることが重要でしょう。

過度に相対主義に陥ることも、間違った絶対性を信じることも避けなければなりません。

2024-03-02

[] 2024-03-02

科学的にどうなの?と思いつつ少し前に受けた遺伝子検査の結果で特に気になっているのが、不安性の高さ、新規探求性の高さ、道徳性の低さです。

私は自分自身統合失調症であることに、妙に納得してしまます遺伝子自体矛盾するような行動性質を示しているではありませんか。

すこし神秘主義的ですが、苗字ゲマトリアは「悪魔」と一致します。

遺伝子ガチャではハズレを引いているようです。(といっても、産んでくれた両親には感謝しています

さて仕事調子どうでしょうか。最近のあるタスクで「これはちょっと難しいかもしれない」と思ったものがありますが、実装に着手する前に、要件確認・整理することに時間を長めにとったり、情報を集めたり、問題を部分問題に分解しました。

するとどうでしょうか。最初に「難しい」と考えてしまったのは単に情報不足であることがわかったのです。

情報を得て実装に着手してからタスクの8割をすでに完了しています

思い出せば、私がニート状態の時に、仕事を探す上で強い不安を感じていたものです。

「こんな仕事、できるんだろうか」とか「家から遠すぎやしないか」と言う具合に。

しかしそれも経験という情報不足が招いた不安です。いざ仕事に就いてみれば、不安も徐々に軽減されていったことがわかります

たくさんの様々な経験をすることは重要かもしれません。経験が伴えば、行動する前の不安というものを感じにくくなり、人生を楽しめると思うのです。

インターネットに引き篭もるのをやめ、外に出てみるのが良いかもしれません。

行ったことのない店で食事をとるとか、そういうった経験がおそらく私には必要なのです。

2024-02-25

[] 2024-02-25

最近SNS断ちをしていますTwitterFacebook、Bluesky、Mastodonなどを使わないようにしているのです。

それだけではなく、スマホにはブラウザさえ入れていません。これは、オフラインアクティティもっと充実させた方が良いと思ったからです。

そしてSNSには舌の罪が付きまといます。もちろん匿名ダイアリーもそうですが、特に短文投稿型のマイクロブログ軽率発言が増えてしまうのです。

箴言には舌の罪についていくつかの教訓があります。以下はその一部です・

1. 偽りを言う舌:主が憎むものとして「偽りを言う舌」が挙げられる。

2. 悪口を言う舌:「そしりを口に出す者は愚かな者である」と述べられている。

3. 制御できない舌:「言葉が多ければ、とがを免れない、自分くちびるを制する者は知恵がある」と述べられる。

4. 乱暴言葉:「優しい舌は命の木である乱暴言葉は魂を傷つける」と述べられる。

また、愚か者も何も言わなければ賢いと思われるとか、愚か者理解よりも意見を発することを好むとも書かれています

箴言の「愚か者」について学ぶたびに、完全に愚かさを排除した人は「精神的なスーパーマン」だとさえ思います

ソロモン自体が「しくじり先生」で、一時期忌み嫌われる偶像崇拝をしたらしいです。

よく日本人アニメの中で神の存在を「白髭の生えた老人」を描きますが、そうやって神を特定の形として表すことが偶像化であり、罪なのです。

さて、SNSを使う際に舌の罪を犯さないためにはどうするべきでしょうか。

まず真実を言うべきです。情報や誤解を招く可能性のある情報を共有しないようにします。情報を共有する前に、その情報が正確であることを確認すべきです。

そして攻撃的または侮辱的な言葉遣いは避け、尊重理解を示す言葉を選ぶべきです。他人プライバシー尊重し、許可なく個人的情報を共有しないようにすることも重要です。

建設的なフィードバック提供し、他人サポートし、肯定的な会話を促進するべきです。フィードバックを得たら、自分投稿他人にどのような影響を与えるかを定期的に反省し、必要に応じて修正するべきでしょう。

といっても無理に発言する必要はありません。最も良いのは、発言をしないことなのです。

私も匿名ダイアリー発言しなくてもいいように、紙の日記帳を買いました。それなのにこうやって発言してしまっているのは、まったくネット中毒というのは厄介だと思いますが、休日にしたいと思うアクティティがまだ見つかっていないのです。

両親は私に「結婚しろ」と言いますが、本当に結婚をするべきでしょうか。統合失調症の私の遺伝子を残して、子供が苦労するだけではないでしょうか。

最近英会話教室に行くのもやめてしまいました。節約のためです。

趣味のためにお金必要であるという発想が嫌なのです。お金を使わずにできる趣味が、今の私には必要です。

そしてその趣味は、善悪という点から見て善の側である必要がありますオンラインで発信するというのは、どちらかと言えば悪の側だと思うわけです。

そうですね...休日図書館勉強をするとか、部屋の中でヨガをやるとか、散歩をするとかが良いかもしれません。

積読結構あるので、図書館勉強すれば捗るに違いありません。

2024-02-18

[] 2024-02-18

見たい映画ありすぎて、計画的スケジュールを組まなければならないような気がしてきた今日この頃

デジタルミニマリズム」を試しているが、スマホの中にはブラウザもなければSNSもない。

自分にとってプラスになるツールのみをデジタルで利用するというのがデジタルミニマリズムだが、匿名ダイアリーについては日記を書くだけにとどめれば負の影響を最小限にできる。

いや、匿名ダイアリーなどやらない方がいいかもしれないが。

私にとってのデジタルの最大の悪影響は、実名黒歴史が結びつくことだ。匿名ダイアリーであれば、ストーカー以外は私が誰であるかはわかるまい。

最近も私が過去に作ったTwitterアカウントを削除するために、サポートに連絡して、2つのアカウントを削除した。

やはり精神不安定元凶ソーシャルメディアだ。有益なことをいうことを言う人がいるかもしれないが、統合失調症の私が精神安定するためにはスローメディアの方が良い。

さて映画の話に戻るが、スタートレックの全シリーズを見たり、ヤングシェルドンビックバンセオリーの全シーズンを見たりするためにはかなりの時間がかかる。

といっても終わらせることではなく、見ることが楽しみだから急いで見る必要はなく、毎日の娯楽として組み込んでしまえばいい。

やりたいことは映画鑑賞だけではない。コミックを読んだり、オンラインゲームをしたりして充実感を得たい。

ただ、Amazon Primeは、無料で見れる期間に制限があったりするものから、焦らされている気分になってしまう。

娯楽に時間を費やすことの満足度を最大化するためには、スケジュール必要だ。

月曜夜=ヤングシェルドン、火曜夜=ビックバンセオリー、水曜夜=スタートレック、木曜夜=ギャラクティカ、金曜夜=ドクターフー、土曜=オンラインゲーム、日曜=コミック

こういった具合に。

しか資本主義消費社会に騙されている気もする。私は節約中だ。それなのに、金のかかるコンテンツを次から次へと消費したら、浪費癖がつくかもしれない。

オンラインゲームをやるためには、それなりのスペックPC必要だろう。コミックもたくさん消費すれば値段は高い。

しかしたらAmazon洗脳されているかもしれない。

から考え直しだ。金のかからない趣味を探す必要がある。

2024-02-14

[] 2024-02-14

自己啓発本や伝記を読むのは負け犬だと聞いたことがあります因果関係が逆なのです。読むから負け犬になったのではなく、負け犬から読んでいるのです。

そういう私もいくつかのミニマリスト本を読んだことがあります。足るを知るというのは、本当に重要だと思うので、その哲学を深めたいと思っています

しかし単にエンタメ目的なら、アメコミでも買って読んでいた方がよいでしょう。

いえ、私はヤングシェルドンを見て、アメコミに興味を持ったのです。例えばXMenは、人とは違うミュータント活躍するストーリーですが、統合失調症の私に共通することがありそうです。

しかし私はシェルドンとは性格は違います。私は潔癖症でもないし、若い時のIQは低かったです。

かに小学生の時に1から10(あるいは100だったかもしれない)までの和を出せと教師に言われて、ガウスと同じことをして褒められたことはあります

しかしなんというか、常識とか倫理とか、そういった人々が共通して持っている知識の欠如が私を苦しめてきたのです。

その点はシェルドンに似ているかもしれませんが、シェルドン自然に善人になっているのに対して、私の子時代悪人のソレでした。

私に対して道徳感の重要性を説得できた身近な大人はいませんでした。大人になって本を読み、聖書を読み、獲得したのです。

しか道徳といっても、日常の行動の細かな点を見つければ悪が潜んでいるものです。

ソロモン王は舌の罪について述べています現代匿名ダイアリーTwitterなど、舌の罪を犯す場が多すぎて、しゃべらないほうが本当はいいのです。

16:30 人は目を閉じて暴言を考え出し/悪を果たして口をすぼめる。

まさに現代SNSのものです。しかしなぜしゃべらない方が賢いと思われるのに、しゃべってしまうのでしょうか。

私は普段、人と会話しないので、誰かと話したいと常に思っています。寂しいのです。

2024-02-09

[] 2024-02-09

与えられた仕事がない時は自分仕事を見つける必要がありますが、やる価値のあることは少ないのです。

やってコストになるならやらないほうがマシです。

それで、私は「これをやってほしい」とあちら側からやってくるのを切望しているのです。

社畜といえばそれまでですが、私は金儲けは得意ではないので、金儲けの戦略を考えるような話では戦力外です。

生産性を上げるためにこういうツール必要だ、作ってくれ」という話ならば、やる気が湧くのですけどね。

それはそうと、私のチェスの腕前は素人レベルなのですが、chess.comで勝つといい気分になります

結局、チェスとは1日における有限の集中力の割り当てゲームです。休日に朝起きて、朝食を食べた後ぐらいにやれば勝率が格段に増加します。

しか調子に乗って二戦やると、すでに集中力を使っているので負ける公算が高いのです。

何か新しい趣味はないだろうか、と探し続けてしばらく経ちますが、ブログ執筆というのが一番しっくりくるような気がしているのです。

私はこれまでに何種類かのブログを書いてきました。

学生時代サイバーセキュリティブログ就職後は自然言語処理ブログ、あとはいくつかの黒歴史です。

バカも黙っていれば利口に見えるというのは、聖書にすら書いてあります

ブログなど書いても、チェス集中力の話と同じで、いつか気力の弱い時にボロが出るだけでしょう。

それよりも一冊、フィクション小説を書いてみるというのはどうでしょうか。

いや、私は知っています。世の中には溢れんばかりの小説がありますが、その需要限界を迎えていることを。

例えばこういうのはどうでしょう。つまり、語り弾きの録音をして、soundcloudで発信するというのは?

しかすると、アウトプットのできる趣味を求めるのが間違っているのかもしれません。

そもそもアウトプット社会を前提とします。私の脳が社会本能を持ってしまっているために、社会に何かを出したいと思ってしまっているのです。

しかし誰かに認められることなく、家の中で数学をやっている虚しさを私は経験しています

結局学問というのは、社会に成果を発表してこそやる意味があるのです。今、卓上で宇宙真実発見したと言っても、虚しいだけです。

では趣味全般が、社会との交点を有意義さのために必要とするのでしょうか。

いえ、そんなはずはありません。私の母親趣味農業ダイビングをやっていますが、情報発信などせずに充実しているようです。

そうすると、なぜ私は社会のことを過剰に気にしてしまっているのでしょう。

それについては、たぶん私の「新規探究性」にあると思います遺伝的に私は新規探究性が高いので、ようするに新しいことをしたいのです。

社会からの反応は、その刺激を高める傾向にあります

インターネットに不満を感じ始めたのは、目新しさが減り、なにもかもがありきたりに感じ始めたからかもしれません。

私はtiktokが出た時も、「ありきたりなアイデアだなぁ」と思っていました。

マルチメディア動画画像テキスト・音声ぐらいしかなく、そのバリエーションで言えば、動画次元である再生時間」に制限を加えたSNSが出てくることぐらいは誰もが予見していたでしょう。

生成AIが出た時は、「AIもここまで進歩たか」とちょっと驚きましたが、触ってみるとすぐに飽きるのです。小説AI,ChatGPT,画像生成など色々試しましたが、AGIが出てこない限りはあまり驚くこともないでしょう。

「刺激」というのであれば旅を楽しめばいいのでは?それも悩ましいところです。体力と金がないので、旅に向かないと思います

どこか近くに、まだ行ったことのない美味しい料理屋でもあれば行ってみたいですけど、少食なんですよ。

2024-02-08

[] 2024-02-08

ビッグバンセオリーシーズンワンを見終えて、すこし寂しい気分でした。シーズン2を見るには購入する必要があったので保留とし、代わりにヤングシェルドンを見ています

個人的には、シェルドンとばあちゃんの絡みが好きです。正直者のシェルドンはうまくブラフを使うことができず、ばあちゃんに負けてしまうのです。「表情を信用できないなんて、一体なにが信用できるの」とシェルドンが言うと、「それが人生面白くするのよ」とばあちゃんは言います

さて、今日見た夢について話します。夢の内容は「サードバーティクッキー有効化すると自分に対する誹謗中傷が増える、という5chの書き込み話題になっている」というものでした。

これはどの程度信ぴょう性があるでしょうか。広告企業個人情報を売買して、匿名掲示板個人特定し、攻撃しているのでしょうか。

といっても、これは単なる夢の話です。現実ではより複雑なプライバシー侵害が渦巻いていることでしょう。

私は最近Xに対して、自分黒歴史アカウントを削除するようにサポートに連絡しました。するとサポートは「あなた本人だと確認できないので削除は無理です」と言ってきたのです。マイナンバー情報を伝えたので消せると思いましたが、確かに私は過去自分自身のマイナンバー画像ネット流出してしまった経験があるので、この方法で削除できたらちょっと怖いですね。

ところで、デジタルミニマリズムについて最近復習しました。自分にとってプラスになるアプリ以外はスマホから消す、ということですが、もうすでにそのようなことは自然にやっていました。XもFBも入っていません。

すると、こうやって匿名ダイアリーで書き込むことがプラスになっているかどうか考え直した方が良いでしょうか。

私は一つの仮説を持っています中毒者は代替依存物を見つけない限り、依存し続けるというものです。インターネット中毒者であれば、Xをやめても、別のSNSをやりたくなるというわけです。

匿名ダイアリー比較的マシな場所です。というのも、形式基本的に「日記」なので長文を残すことができ、長文であればかなり発散できるからです。

しか匿名ダイアリーデメリットは、他の投稿者ネガティブ投稿をしがちなことでしょう。匿名だと愚痴をこぼすものだと相場が決まっているのでしょうか?愚痴を書いてさらストレスを増幅させていると自覚していないようですね。

インターネットに充実感を求めるのをやめるべきだ」とわかってはいるのですが、「自分が楽しめるSNSはないか」などと調べてしまます

しかし私は「SNSが楽しめない」のではなく、「社会が楽しめない」のだと気が付きます

なぜあの人はチヤホヤされるのに、この人はそうではないのか。その差が存在することにも不快感はありますが、私は「チヤホヤされていない、再生数が数えるほどしかないYoutube動画」のほうが楽しめるタイプなのです。

すると「社会が人気コンテンツの流布を最大化」しているのと真っ向から対立していることがわかります

結局、私は「見せられているもの」に騙されているのです。ニュースコンテンツも私向けに表示されますが、連中が「私向け」といって表示するものが、つまらないのです。

2024-02-04

[] 2024-02-04

私は頭が悪いので「頭が良くなる方法」とよく調べることがあります

なぜかというと、数学チェス趣味であるというのと、仕事プログラマーであるのとで、頭をメンテナンスしたいからです。

そして最も重要なのは睡眠食事運動であることがどの情報にも書かれています

睡眠に関しては、努力はしています。夜更かしをしないようにしていますが、目が覚めてしま場合もあります

食事については疎かになっているかもしれません。こどおじなので、両親が作ってくれますが、朝は食べないことが多く、昼は卵かけご飯ぐらいしか食べていません。

そして最大の難点が運動です。私は過去に「美しいお尻になりたい」といって運動したことがありますが、1ヶ月しか続きませんでした。

ランニングしたこともありますが、やはり1ヶ月程度です。

苦しいと思うことを習慣にしようとしても続かないらしいのです。

しか運動が足りないことを補うために、部屋の中でぐるぐると歩き回ることがありますが、このような運動でも効果があるのでしょうか。

東京の人は割と歩く距離が長いようですが、私は田舎なので、歩くことが極端に少ないのです。

いや、田舎からというよりは、フルリモートの影響が大きいでしょう。

といってもフルリモートをやめるつもりはないですけどね。電車時間が往復で2時間かかるから、それがないだけでQoLが上昇します。

しか電車で通っていた時期もありました。その時はQoLの足しになるように、電車内での読書を必ずやっていて、毎月1冊は読破できたのです。

怠けた生活になってからは、読書さえも少なくなってしまいましたね。

増田SNSなどのデジタルに費やす時間を減らし、それを補う形で読書ができれば良いと思うのです。

デジタル空間に「ソーシャル性」を持ち込んで、良かった試しがありません。きっと、聖書箴言の言っていることが正しいのでしょう。

愚者ほど言葉数を増やすのです。

あるいはこうとも言います:雄弁は銀、沈黙は金

2024-02-03

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廃人日記と呼んでいるが、以前は勉強日記として綴っていた。

他の者も同じようなタグを用いるかもしれない。自己紹介価値は薄いが、それでも書いておく。

私は障害者手帳3級を持つ、精神障害者である統合失調症に冒された者だ。リモートワークでプログラミング従事し、静岡の片田舎に身を寄せる。

錯乱した時、必ず入院する。正気からは遠い状態になる。

趣味映画テレビの鑑賞、ボードゲームチェスポーカーを含む)、数学、そして読書精神的な悩みから実用書が多い)。文学は苦手だ。

こどおじであり、年収は200万円以下。弱者男性とは私にぴったり当てはまるだろう。

日記目的は、感情客観的に捉え、冷静になることだ。ジャーナリングともいう。

ただ、ありのまま文体だと、少々恥ずかしい。だからAIを使って文体だけを変換している。

たまにトロールコメントがつくことがある。理解が足りないからだと思う。だから自己紹介を書いた。

なぜ匿名ダイアリーを使うのか。退会後も記録が残るからだ。怯えるとSNSブログ衝動的に消したくなる。内容が残ることで、強気でいられる。

ちなみに、日記は主に以下の方法で書いている。

 

[方法1]

1. 概要を書く。

2. 「概要を深遠な文体に変えて、適当に脚色してください」とGPTに頼んでコピペ

 

[方法2]

1. 概要を書く。

2. 日記をですます調(or だである調)で統一し、適当に脚色してください、とGPTに頼んでコピペ

[] 2024-02-03

昨月の電気代がエアコンの消費により膨れ上がり、贅沢は排し、こたつの温もりに身を寄せる中で、寒風に抱かれる孤独感が深遠な情緒となって心に滲んでいた。

冬の訪れと共に、私の日常は厳しい節約の中に変容していった。エアコン暖房に身を委ねる余裕もなく、ただひたすら本に耽ることが、たった一つの慰めとなっている。

温かな空間に身を包み込まれることは幸福であるかもしれないが、時折、静寂に包まれた中で孤独な思いが私を襲う。この静寂の中で、自分と向き合う時間を手に入れることができる。

しかし、その孤独感にも独自の美しさが潜んでいる。熱いコーヒーを啜りながら、心の奥深くに沈む感情に触れることができる。

人は孤独な瞬間に、自己と向き合い、新たな気づきを得ることができるのかもしれない。寒さのなかにある孤独も、時には私にとっての貴重な経験となっているかもしれない。

話は変わり、仕事の進捗は素晴らしいが、給与は低調だ。フルリモートであることが唯一の救いではあるが、生産性向上が報われる給料の増加には至っていない。

からこそ、私は支払われる仕事必死に取り組み、効果的な利他主義実践している。経済的利益を最大限に引き出し、それを適切な慈善機関寄付することで、社会貢献果たしているつもりだ。

葛藤もある。つまり給与が低くても快適な現状に飽き足らず、より高給な場所転職するかどうかの選択肢が浮かび上がっている。

しかしここに悩みが横たわる。今の仕事が快適すぎて、その楽な状況を選び続けているのかもしれない。両親は「転職はしない方がいい」と言うが、私の日々は物価の高騰による節約との葛藤の中で揺れ動いている。

 

追記

私の日記インターネットトロールコメントしているらしいが、大歓迎だ。寂しさが紛れるというものだ。

2024-01-26

[] 2024-01-26

最近、我が老境において、喜びの種となりつつあるのは、ビックバンセオリーを眺めることでござる。

インテリ気取りのオタク愚痴っぽい振る舞いが、滑稽さを誘い出し、わが老眼に微笑みをもたらす次第である

シェルドンなる輩は、ひも理論の奥深さに耽溺し、しかデニスキムの出現以来、中東問題解決と称して、何やら意味不明提案披露し、微妙差別的言葉も交えておる。

年を重ねても理解に苦しむ世の謎は尽きることなく、これが老いというものかと、我が老いびれた心に感じ入りたり。

 

さて、余は昔より数学の魅力に惹かれ続けてまいりました。

まりにも純粋数学よりも、応用数学の方が余には心地よいものでござる。

したがって、利潤を最大化させんが為に必要な推薦システムの機巧に興味を抱く次第でござる。

しかし、これは単なる問題解決において容易なものではない。

ユーザープロバイダー、システム三者関係形式化し、マルチステークホルダー問題として考察すれば、トレードオフの難しさが浮かび上がってくる。

システム運用最適化すればするほど、マッチングの機会均等性が損なわれるという難しい事態が生じる次第でござる。

この機会均等の欠如が引き起こす長期的な悪影響として、プロバイダーの離脱が挙げられる。

しかしながら、絶妙場合では単価競争が巧みに行われ、我が利益も増進するであろう。

サービス価値が低ければ低いほど、プロバイダ離脱危機高まる

なぜなら、サービスのものが他社と競争しており、「そんなに高いなら他のところへ行きます」との言葉が飛び交うのでござる。

故に、効用だけでなく、公平性も見逃すべからざる重要な要素となる次第でござる。

 

話は変わり、老齢においても脳の活性化を促す趣味模索しておる次第でござる。

何よりも自分が楽しむことが第一であるが、たとえばチェスヨガ比較し、どちらがボケを防ぐに効果的かを考察せざるを得まい。

多くのエビデンスが示す通り、運動は脳の活性化寄与するものである

したがって、ヨガが優位であるようだ。

ヨガに励む動機をどうやって引き出すか。

まあ、美しいお尻を手に入れることを目指してみるのも悪くはないかもしれぬな。

2024-01-22

[] 2024-01-22

今日病院へ行きました。お注射です。お注射をしてしばらくは精神があまり安定しないようです。被害妄想を持ったりしてしまます

精神というのは、変動を検出すると不快感を持つような気がします。鬱の時も一定心持ちであればそれなりに安定しますが、いきなり躁になったりすると錯乱するのかもしれません。

そういえば、私はインターネット上に残した自分黒歴史の削除を試みました。

統合失調症自分名前検索すると、誰かが勝手に私のYoutube動画躁状態ときのもの)の音声をテキスト化したものが置いてありましたが、どうやらそのサイト自然言語アノテーションサイトらしく、編集は誰でも行えるようでした。そしてその情報に「著作権侵害です」とラベルをつけて削除してきました。

うそう、あと黒歴史ブログも残っていました。精神錯乱して浮世離れしていた時のブログですが、「フロントカメラ不細工でバックカメライケメンなのは、介入する観察者が異なるからだ!」みたいな意味不明なことを書き、セルフィーまで載せていたのです。

このブログはまだ削除できていません。というのも、Googleアカウントパスワードを紛失したからです。

Twitterにもいくつか精神錯乱時のアカウントが残っているのですが、それらも2段階認証を設定しており、ログインできなくなっているのです。

まあ、黒歴史というのはこのようにして、精神おかしくしている時に生成してしまものだとわかります

ところで、インターネット徘徊していたら、こんな文章を見ました。

まり人生意味を問うても無駄。その代わり人生あなたに問うている」というものです。

もしそれが本当ならば、精神錯乱して残した黒歴史を正常になってから振り返り、「この黒歴史、君自身はどう感じるのか?」と問うていることになります

まったく、人生って本当に性格が悪いですね。私が嫌な思いをしていることがわからないのでしょうか。それともその嫌な経験こそが、哲学的深淵なのでしょうか。

私はその性格上、刺激を欲しがっているのです。SNSをやるのは、誰かから刺激をもらえないかというちょっとした期待に基づいています

でも「いいね応酬」はしっぺ返し戦略的、機械的ものになります。私が誰かにいいねすれば、その分のいいねが返ってくるというわけです。

そんなくだらない刺激のために黒歴史を残すなんていうのは、一体どういうことなんでしょうか。

SNSの繋がりなんて、所詮は浅い繋がりです。オンラインだと、相手リアル存在するものだと忘れてしまう人もいるようなのです。

やはり一期一会というのは、実際にオフラインで対面で会話したことのある相手存在に対する「出会い」に感謝するような言葉であり、私をおもちゃにしようとしているネットトロールとの出会いというのは、そこまで感謝できるようなことではないと思うのです。

インターネット発言すれば、好感を持たれたり、恨まれたり、見下されたりします。しかもその発言が、本来の私の精神状態ではないことだってあります

「私」というものを、他人に誤解されることの恐怖が、SNSにはあります。もはや他人の目を気にして怯える場所です。

から私は、発言する時は匿名性を重視するのです。箴言にも、愚か者言葉数を増やしてしまうことに対する戒めがあるので、実名で語るシーンでは黙っておいた方が賢く見えるのです。

「話すは離す」という言葉もあります。結局、ネットであれカウンセリングであれ、悩みをぶちまけられる場所があれば、精神デトックスになります

そうやってぶちまけた内容というのは、恥ずかしい内容なので、やはり実名と紐づいてしまうと「目」の恐怖を感じます

まあ、浅い繋がりの人たちに「見下すな」と言うのが、そもそも無理なのかもしれません。字下げ増田を「高学歴愚者」などといって嘲笑う人たちがいますが、彼らは人の心を尊重することを軽視し、おもちゃにしています

かに愚者他人から見下されるような行動をしてしまますしかし、それが人間の弱さであり、弱さをお互いに認め合えるようになれば、「お前は愚かだ」などとインテリぶらずに優しい関係になれるのではないでしょうか。

無意味な戦いが世の中には溢れているのかもしれません。私は、愚かな人を守れる存在になりたいです。

2024-01-20

[] 2024-01-20

英会話スクールに払うお金がもったいなく感じ始めて、退会してしまいました。私のような低収入人間とって、節約生活の要です。

収入を増加させるために英語を習おうと考えましたが、効果のない学習お金を払ってももったいないのです。それなら英語学習用のアプリ無料で試した方がまだ効果的というものでしょう。

といっても、Duolingoは簡単すぎて、まったく勉強になりません。私はリーディングであればWeb記事をすらすら読むことができる程度の英語力があるようです。

なので鍛えたいのはスピーキングリスニングライティングです。ライティングであれば、ケンブリッジWrite and Improveというサイトがあります

リスニングについては英語コンテンツYoutubeで視聴すれば良いでしょう。スピーキングについても、スピーキング練習用のコンテンツYoutubeに転がっています

このようにして、無料で十分学習コンテンツ存在するのです。しかし、33歳にもなって、英語力を身につけて転職成功させるなど可能でしょうか。

給料を上げる一番簡単方法は、労働時間を増やすことです。私は短時間勤務で働いているので、これをやめれば給料は増えるのです。

今のようにリモートで働けて、仕事がそれほどキツくなく、給料もっともらえるような、プログラミング仕事はないのでしょうか。

やはり足るを知るべきかもしれません。もし私が結婚をすることを考えるのであれば、給料もっと増やした方が良いでしょう。

しか結婚を考えないのであれば、お金を使う先もないので、わざわざ転職する必要はないとも思うのです。転職するとしたら、今の会社が潰れた時です。

さて、私はなぜ英語を習うんでしたっけ?

2024-01-16

[] 2024-01-16

どうあるべきという話を聞きすぎて、どうありたいかを忘れてしま今日この頃です。

かに行動に伴う責任倫理というもの重要です。

しかし誰かの意見絶対ものであるかのように錯覚してしまうのは自分を見失う第一であるように思うのです。

何が悪いことであるのか、ということは、いい大人なのである程度わかっているはずなのです。

ところが、インターネットテレビでは、平気で一線を越える輩を目撃します。

差別正当化したり、特定の人の利益のために経済についての嘘を言ったり、誰かを頭が悪いと見下したり、バズるために誤解を生み出したりすることです。

そういう蛇たちの情報に影響されすぎて慣れてしまうと、自分が信じている善というものが混乱してしまます

私はインターネット趣味なのですが、情報に触れることから遠ざかった方がいいのかもしれません。

コンピュータに触るのは仕事だけにする。コンピュータに触らずにできる趣味を作る。

コンピュータ汎用性があり、文書閲覧、ゲーム動画映画コミュニケーション小説お絵描き絵画の鑑賞、勉強、こういうものコンピュータがあればできてしまます

しかし汎用的だからこそ、人につけ込む隙があり、搾取の道具にされています

私はコンピュータを使ってこの文章を書いていますが、もしかすると誰とも共有せず、紙のノートに書くべきなのかもしれません。

社会からの目を意識すると、自分とは異なる何かが手を動かし始めるのです。

ではコンピュータを使わずにできる趣味とはなんでしょうか?

普段なら、趣味検索コンピュータを用いて行うところですが、それではダメなのです。

自分の頭で考えて、必要ならば本屋図書館で本を探して、アナログに立ち返ってみること。

目的のための最短経路を一発で掘り当てるのは、もうつまらないのです。

ゆっくり旅路を楽しんだり苦しむ余裕こそが重要です。コスパタイパを意識して映画倍速再生するなんていうのは令和時代病気です。

仕事では最適化コスパ重要かもしれませんが、人生全体に対してそれを適用する必要はないのです。

そして「楽しみを最大化」なんていうのもまた令和の病気の一つでしょう。

ぼーっとする無意義な時間があってもいいし、楽しめないと思ったTVシリーズや本を最後まで見てもいいのです。

私は子供部屋おじさんなので、家の家事もっと手伝うことができます

風呂場の掃除洗濯物の取り込みしかしていませんでしたが、自分が使った食器を洗うぐらいのことはできるでしょう。

家族と過ごす時間を増やすこともできますし、昼休み時間散歩に出かけることもできます。あるいは朝冷水シャワーを浴びてリフレッシュすることも。

「めんどくさい」などと言っているから、スパイスが足りなくなるのです。

あらゆることをコンピュータ上でやろうとするのも、最短経路を一発で掘り当てようとするのも、結局はめんどくさいという怠け病です。

おそらく私が失っているのは、自分らしさというよりは、人間らしさです。

箱の中に閉じこもる生活をやめて、両親の家庭菜園に加わった方が楽しめるかもしれません。

2024-01-15

[] 2024-01-15

仕事もだいぶ慣れてきましたが、慣れたと言っても、所詮リモートワークでパソコンタカタするだけなのです。

ルスカ登録して匿名ダイアリーをやる頻度は減りましたが、自分の正体を明かして他者と会話するというのはどうも慣れないので、誰にもリプライせずに独り言投稿しています

ルスカ登録したメリットは、Xをやる頻度も減ったことです。Xは「おすすめ」がうざくて精神に響きます。おそらく、直近の投稿から感情を昂らせるような反応を捻り出しているのでしょう。

もうすぐ健康診断がありますが、ワクワクしています。なぜかというと、病院が海の近くで景色が素晴らしいからです。

やはり私は部屋の中に篭って退屈しているのかもしれません。

今までの趣味は「読書」と「インターネット」だったのですが、視覚思考以外のセンサーが刺激を渇望しているのです。

母は私に「結婚相手でも探せ」と言いますが、私の収入は低いので、子育てということになると責任を強く感じてしまます

かといって子供を作らないなら結婚する意味が感じられません。

「足るを知る」が重要なのはわかりますが、「これだ」と思えるような趣味を私は探しているのかもしれません。

オンラインチェスはたまにやるのにはいいですが、刺激が足りません。

おそらく私は、仕事をする気がないというニートを捕まえて友達になり、食事へ行ったり、ボードゲームをしたり、Youtube動画を撮ったりしたいのです。

しかニートといっても人間です。私が彼彼女時間を奪っている気分になるので、やはり却下ということになるでしょう。

そこで、ちょっと今閃きました。趣味スケジュール化です。

月曜日は何をやる、火曜日は何をやる、という具合に趣味を週ごとに設定してしまえいいんです。

毎日だと飽きてしまうことも、分散すれば楽しめる気はします。

たぶん、やると決めておかないとなにもやらないんです、私は。だから退屈感を感じているんです。

まあ、ぼーっと何もしないことが、実はいいことだったという可能性もありますが、とりあえずやってみることにします。

2023-12-17

[] 2023-12-17

年の暮れに差し掛かり、仕事の成果を振り返る時が来た。

私の仕事スタイルは、知識よりもIQに頼るという言葉がぴったりだろう。

Elasticsearchという検索システムを使いこなすにはどうすればいいのか、そんな問いに直面したとき、私は本を一冊読み込むような堅実なやり方ではなく、ドキュメントを目に焼き付け、実行しながら身につけるという方法をとる。

私はIQ馬力に例え、RQエネルギー効率に例えることがある。

RQとは合理的知性のことで、知らない人もいるだろうから説明しよう。

「1/2で100円、1/2で-10円」の賭けと、「100%で50円」の賭けどちらを選ぶか、という問題に対して正しい答えが出せる能力RQである

私は学生時代ミクロ経済学を学んだことがあり、成績も優秀だったので、「合理的経済人」がどのような行動をとるのかは理解している。

しかし私は統合失調症であり、RQのものは低いのだ。自制心がなく、ゲームなどにはまると抜け出せなくなる。

からエネルギー効率よりも馬力で突き進もうとする。何かツールフレームワークを学ぶときは、本を丁寧に読むのではなく、チュートリアルドキュメントを一日で吸収しようとするのだ。

実は私は引きこもり気味ながらも、スポーツは得意だった。特に体操はそうだった。

から学ぶ方法も、マッスルメモリに頼るという筋肉質な方法になってしまうのだ。

私が設定するパスワードは長いのだが、これらはマッスルメモリで覚えている。

同じようにプログラミングも、「とにかく実行を試す。試行錯誤トライアンドエラー。やってれば覚える」という感じだ。

パターン認識は、このような筋肉質な側面を持つのではないかと思うことがある。人工ニューラルネットワークも、同じようなものではないか

馬力でなんとかしてきたことはわかった。ではなぜ地道な努力を避けてきたのか。それは、汎用性の低いものを学ぶのに時間をかけたくないからだ。

プログラミング言語ならまだ汎用性があるが、具体的なツールについては、その場で理解できるし、時間をかける必要がないと思うのだ。

私が数学が好きなのは、まさに汎用性という観点からだ。エドワード・フレンケル教授は汎用数学を「ペンキ塗りのようなつまらないもの」と言ったが、まさにそのペンキ塗りが仕事をするうえで重要なのだ

そう考えると、私はコスパばかり気にしているという点でRQが高いのかもしれない。

でも、やっぱりコスパなんてつまらないと思う。何か深遠なる分野の奥深くに潜り込みたいのだ。

2023-12-16

[] 2023-12-16

今日は、英会話スクールに行ってきました。しかリモート英会話を学べばいいのに、なぜわざわざ足を運ぶ必要があるでしょうか。

私は仕事リモートなので、こうでもしないと運動をしないのです。つまり街を歩くという運動としての目的が、英会話スクールに行く理由なのです。

しかし、そうはいってもスクール代が1万円かかるので、節約のために辞めたいと思うことはあります。以前、一度そうやってやめたのですが、やはり家に籠って何もやらなくなってしまったのです。

なにより、人と会話する練習になるというのが最大の利点です。普段はあまり人と会話しないので、会話する機会があると人間不信感が和らぎます

ただ、体力があまりにもないので、英会話スクールから帰ってくると12から6時まで寝てしまます英語以外に何か有意義趣味はないものか...と悩みますが、私は社交ダンスというタイプではないので英語ぐらいでちょうどいい気がします。

東京に行けば大人数学スクールというのがあるらしいですけど、興味はないですね。数学のものに興味がある場合スクールというのは独学に比べて非効率なのです。

英語コミュニケーションが要点ですが、数学はそうではないので、スクールの利点がありません。本当は競技プログラミングとかオンラインチェスとかでバリバリとレートを残したいですけど、32歳にもなると若者の瞬発力に負けてしまます

「何者かになろうとする」という自分の行動傾向が存在するのかもしれません。集中できることに取り組んでその分野で名を知られたいとか、そういったことです。

しかしそういう虚栄心は捨てたいという気持ちのほうが強いです。ミニマリストというと語弊があるかもしれませんが、人生を楽しむうえで大切なことを残し、他人と競い合うようなことは無駄なので捨て去りたいのです。

あるユダヤ人Youtuberは、聖書を読み上げ「足るを知る者は富む」という真理について説明していました。私はすでに足りているのに、まだ何かを欲しいと願っているのかもしれませんし、そういう悪い癖は治したいです。

結局、私は「寂しい」のかもしれません。友達がいても寂しく感じてしまうのは、私が何かを言ったときに常に反応が欲しいと思ってしまうからです。

友達も暇ではないので、私に対して常に反応することはないでしょう。だから私は、「フォロワー数を稼ごう」などと、これまた虚栄心に満ちた発想を持ち、反応される確率を気にしてしまうのです。

私には「新規探求性が高い」という自覚があります。つまり、常に「新しい何か」を探しています

しかし「新しい何か」が見つからないときは非常に鬱憤が溜まります。「2023年の新しいソーシャルメディア」と検索して、確かに新しいかもしれませんが、求めていたものではないのです。

私が迷い、混乱するのはロールモデルの不在のせいかもしれません。様々な人を見てきましたが、有名人成功者ほど私が失望するような言動・行動をしているのです。

「何かが物足りない、でもそれが何なのかがわからない」これが私の悩みなのです。

2023-12-15

[] 2023-12-15

近くのホームセンター本棚を買いました。

しかし、こういった商品は運びやすいように組み立て式になっており、しかDIYしている気分になれるので一石二鳥なのです。

本棚を組み立て終わると、デスクの上に積んであった本の山をすっぽりと収めることができました。

しかし、私は本棚がもう一つ欲しくなってしまいました。

というのも、私は数学愛好家なので、リファレンスとして数学書を大人買いしたいのです。

仕事柄、特に線形代数や離散最適化のような数学は使いますが、私が興味のあるのはそういった実用志向アルゴリズムではありません。

しろ取り組みたいのは、フェルマーの最終定理ラングランズ予想のような、一見すると実用からは遠いけれど、数学本質を突くような深淵です。

数学には二種類の文化があり、アルゴリズム的な問題解決者と、深淵理論を目指す者がいます

プログラマーであればほぼ例外なく前者の立場になりますが、後者というのは「理論Aの理解のためにはBの理解必要で、その理解にはCの理解必要で、その理解のためには...」という階層が非常に深いものを表します。

はいまだに、コホモロジーとはなんであるかについてよくわからないのです。

コホモロジーGPTに対し「小学生にもわかるように説明せよ」とやったものが以下です。

コホモロジーは、数学の中のとても難しい概念ですが、小学生にわかやす説明するために、一緒に想像の旅に出かけてみましょう。

まず、コホモロジーは、ある種の「形」や「パターン」を見つけるための道具と考えてみてください。例えば、あなた宝探しをしていて、地図があるとします。この地図は、宝物がどこにあるかを示していますしかし、この地図はただの紙切れで、宝物自体地図にはありません。でも、地図を使って、宝物のありかを見つけることができますよね。

コホモロジーも同じようなものです。コホモロジーは、数学的な「地図」のようなもので、それを使って、数学世界に隠された「宝物」を見つけることができます。この「宝物」は、数学の中の特定パターンや形、構造などを指します。

しかし、コホモロジーはとても複雑で、大人でも理解するのが難しいです。だから小学生あなたがすぐに理解できなくても大丈夫です。大切なのはコホモロジーのような難しい概念に挑戦する勇気と、学び続ける意欲を持つことです。これからも、色々なことに興味を持ち、学び続けてくださいね!。

これじゃあ、なにも理解していないのと同じでしょう。結局、深淵理解するためには地道な努力必要です。

理論構築者の観点からみると、数学登山に似ていると思います

コホモロジーにたどり着くためには、集合論群論位相幾何学ホモロジー理論と順を追っていかなければならないのです。

これまでの私は、理論構築者ではなく、問題解決者だったので、「問題」という単位物事理解してきました。

アルゴリズムなので、問題を解くための前提知識はさほど必要なく、むしろ必要なのはIQです。

ところが、ラングランズプログラム超弦理論といった深淵は、IQに加えて、山登りの体力や努力時間必須になります

しかも、仮に山を登り終えたとしても、プログラマー仕事としてなんの役にも立たないのです。

深淵に取り組むというのは、そういう廃人的な努力必要とするので、職業的数学者でない限り努力の誘因が失われてしまます

深淵登山をして、誰にも認められることな自己満足して、何が楽しいのでしょうか。

結局、理解した物事を外側に発信(例えば論文執筆)して社会との接点を作らなければ、本当の廃人になってしまうでしょう。

まあ、廃人日記を書くぐらいだから、それでもいいんですけどね。

2023-12-12

[] 2023-12-12

無限は様々な人たちを当惑させてきた。周囲の物理世界で観察されるものはすべて有限。

観測可能宇宙原子の数でさえ、想像を絶するほど大きいとはいえ、やはり有限。

無限は本当に存在するのか?

数学はおそらく、無限とつながるための最も知性的論理的方法を与えてくれる。

数学的な無限理論は、19 世紀末ドイツ数学カントールによってほぼ独力で作成された。

自分アイデアを追求するために、カントールは途方もない勇気を示した。批判者たちに答えて「数学本質はその自由にある。」と書いたのである

数学では、選択された公理論理規則に厳密に従わなければならない。

しかし、そのルールの中においては、本当に想像力を羽ばたかせることができる。数学には独断偏見が入り込む余地はない。

カントールの考えは、無限大は数ではなく、むしろ集合の性質であるというものであった。

2 つの集合 A と B が与えられると、A から B への「写像(勝間さんじゃないですよ)」について考えることができる。

これは、 B の要素を A の各要素に割り当てるルールである

カントールによって導入された重要概念は、集合 A と B の間の1 対 1 対応である。これは、Bの各要素がAの1つの要素にのみ割り当てられるような、A から B への写像である

Aが有限数の要素 (たとえば、n) を持ち、B が別の集合である場合、B にもn要素がある場合にのみ、AとBの間に1対1の対応関係存在するという定義である。 

ここで、無限集合の概念を導入できる。これは、Aと有限集合Bの間に1対1の対応がないような集合Aである。たとえば、自然数の集合 N={1,2, 3,…}は無限集合である

ここまでの理論はかなり単純だ。しかしその後、カントールは驚くべき発見をした。互いに1対1対応していない無限の集合が存在するのである

言い換えれば、無限大にはさまざまなサイズがある。

たとえば、集合Nと実数の集合Rの間には1対1の対応がないことがわかる。

カントールの対角線論証とも呼ばれる証明があるが、これはかなり美しい証明と言われている。

そこでは実数の集合と自然数の集合の間には 1 対 1 の対応関係がないということが示されている。実数の「無限大」は自然数の「無限大」よりも「大きい」と言える。

この 2 つの間に「無限」は存在するのか? これは、数理論理学における最も深い問題の 1 つである、有名な「連続体仮説」につながる。

2023-12-07

[] 2023-12-07

今日仕事をお休みしました。そう、私はすでに傷病手当生活を脱しているのです。

休んだ理由としては、腹痛なのですが、昨日何かを食べたときに急激に体調を崩し、顔が青ざめて、倒れそうになりました。

それで今は腹痛がだいぶ収まったのですが、まだ気持ち悪さが残っています

それはそうと、嫌な思い出がフラッシュバックしました。

転職ドラフトというサイトの話なのですが、私につけられた金額は0円でした。誰も私に興味がないようです。

最近、paizaで登録から1時間以内にSランクに昇格しましたが、スカウトメールがうざくて困っています

やはり能力を示す場合は実際にコードを書けるという証明必要ですね。統合失調症患者が「私はプログラミングができます」と言うだけでは人々は疑うのです。

しかし私は転職に興味がないのです。というか、趣味がほしいです。趣味自体にも興味はありますが、趣味を通じて仲間を作ることにより興味があります

私は両親と会話することはあっても、普段仕事ではテキストでのみ会話をしているし、張り合いのある相手というものが少ないです。

やはり結婚を考えるべきでしょうか。私の友人は結婚をしてから友人同士の遊びというのを減らしているようですし、それなりの充足感というものがあるのでしょう。

統合失調症遺伝子を残すことは罪でしょうか。統合失調症患者結婚はやはり不幸を有むだけでしょうか。

結局、今物事に楽しめないのは、精神病薬が効いている証拠なのです。

2023-10-09

[] 2023-10-09-2

この日、英会話スクールNOVAの扉を再び叩き、再入会の申し込みを果たした。久しぶりのテストを受け、私のレベルは7.5であることが判明した。かつての私は8だった。その証拠か、私の言葉の嚢に穴が開いてしまったようだ。

しかし、一つの希望の星が輝いている。それはリスニングの向上である普段から英語世界に身を委ね、YouTubeの海を泳ぐことで、私の耳は徐々に磨かれているように思える。英語の響きが、私の耳に優しく届いている。

なぜ再びこの舞台に身を投じたのか、疑問が浮かぶかもしれない。私は孤独の中に身を置き、人との対話希薄な日々に病魔が忍び寄ることを懸念たからだ。人と語り合うことで、心に明るい光が差すかもしれない。

理想的には、英語を磨き、プログラミングとの融合からまれ仕事で、収入を高めたいと願う。しかしながら、今の仕事にも良さがある。短時間労働なので、余暇を充実させる時間が持てる。現在統合失調症の影に潜むため、仕事に執着する必要はない。余暇の過ごし方は慎重に選ばねばならない。しかし、私はコンテンツクリエイターとしての才能を欠いている。誰もが私の作品に興味を示すことはない。YouTube動画制作しても、誰もがそれを見てくれるわけではない。私が手にできる唯一のフォーマットブログだが、上級者向けのテーマは限られた関心しか引き寄せないことも理解している。そして、ブログ広告収入を得るためには、読者のリテラシーが低いことが難点である。その結果、稼げるブログは単なる脳死コンテンツに転落する。それは、怪しげなブログよりも、Bing AIの方がまだましであるブログは、アクセスを追求するためのものではなく、私自身の心の中を整理し、廃人のような日記のように記録するためのものとして存在すべきではないか

この廃人日記は、そのために存在する。しかし、私の内なる魂には、「意義あるものを創りたい」という渇望が渦巻いている。そして、その「意義あるもの」が何であるか、私には分からないのである

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[] 2023-10-09

数学書籍には、幾つかの類型存在すると思考深淵に耽る。まず、教育志向したものがあり、確実にステップを踏みながら数学底力を身につけることができると謳われている。次に、辞書的な性格を帯び、数学自身が自らの難問の鍵を求めるために、特定定理概念を参照するのに重宝される。最後に、最先端トピックを瞬時に理解するためのもので、その要点を端的に把握することが狙いとなる。従って、私はどのような目的数学の書に触れるのか、自己を問い詰めずにはおれない。

おそらく、私は最新の知識を迅速に吸収したいと願っているのだろう。しかしながら、そのために必要とされる前提知識は、敷居が高くなることがしばしばある。このようなときインターネットの広がる海を航海すべきか、精緻な教材と向き合うべきか、迷いに迷うのである

一般人でありながら、高度な数学概念理解するための近道、それはいったい何か。私は、フレンケル教授のような説明術が、多岐にわたるトピック適用されることを夢見ているのかもしれない。プリンストン数学大全という書物が私の手元にあるが、これは数学の骨子を簡潔に把握するには素晴らしい資源であると感じている。しかし、定理は単なる暗記ではなく、数学を生きた魂とするためには、他の科学領域との接点が必要不可欠だと考える。審美的な要素だけではなく、科学的な実験理論を結びつけるのである

確率論領域において、私はゲームを編み出し、コンピュータを用いてそのシミュレーションを行う方法を通じて、実験を行うことが可能だと思っている。テキサスホールデムポーカーの最適戦略が解明されたように、理論的な興味に基づいてゲーム選択し、コンピュータによるシミュレーションを行うのである経済における金融商品市場は、まさにそのようなゲームの一つだが、私は残念ながら、実際にお金投資することには興味を持たない。もし実際にそのような分野で実験を行うのであれば、利益と損失のリスクを冒すことなく、安全サンドボックス環境を用意するだろう。私の心の深奥に築きたいのは、理論モデルを探求し、それをシミュレーションする世界なのだ

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