はてなキーワード: 必要十分条件とは
その一報を父から聞いて胸中に去来したのは、幼き日の思い出ではなく、むしろ長じてから度々意識した故郷の衰退のイメージだった。
元より地場産業として誇れるものが取り立ててあったわけではない地元は、緩やかだが確実な経済的衰退と人口減少の影響を受け、公共施設の老朽化や各種インフラの経年劣化という形で自治体としてのほうれい線を隠す術を失っていった。
それでも、いや、それゆえに明確な転換点などなく、ただゆっくりとした老化から鈍感なふりをし続けた首長、自治体、そして何より住民が半ば共犯のように地元の腐敗と死滅とを看過していった。
だからこそ、いまさら太陽光発電などで延命を図ろうとする醜さにほとほと嫌気が差した、その実感があった。
それでも友人の結婚式に出席するために数年ぶりに帰省してみると、どうも聞いていた状況と乖離があったために改めて確認を取ったところ、どうやらこの度設置が決まったのはソーラーパネルではなく、例の宇宙太陽光発電の受電設備ということらしかった。
年齢を重ねたが故に知識と語彙の更新をやめた父をいまさら責める気も起きず、数か月前にニュースサイトで多少話題になっていたトピックに思いを馳せることで2次会の無聊を慰めていた。
令和4n-21年に決定された第n次エネルギー基本計画では、ついに原子力発電の占める発電電力量の占める割合が0%になった。
平成の震災とそれに連なる事故以降窮地に立たされていた原子力産業はついに時勢に降参し、明るい未来のエネルギーから歴史の教科書上の記述となることを選んだ、という建前を本気にしている奴は少々イデオロギーに傾倒しすぎているきらいがある。
現実は、国内ソーラーパネルメーカーの開発した、そこまで安価とは言えないまでもそこそこ効率改善の図られた新型パネルを推したい産業界が、細々と開発を続けていた国産ロケットのペイロードの使い途を探していた経産文科省に仮託した、おままごとのような科学技術的国威発揚の煽りを受けた全廃、と言ったところだ。
どこまで行っても消極的な退場に、却って日本という国を感じざるを得ず、左派メディアのこじんまりとした勝利宣言にわざわざ難癖を付ける余力もなかったと見え、平成後期から令和初頭に掛けてあれほど紙面を賑わした役者とは思えぬほど粛々としたレームダック期を享受していた。
実際、人々とメディアの関心は、中国による、気前の良い提供と、経済協力を人質に取った押し付けの中間の様な形で供与された受精卵遺伝子改変技術をどれだけ受け入れるかという議論にあった。
(科学技術という側面において現代日本が中国に対して如何にサブジェクト・トゥしているか、という話だ。宇宙太陽光発電所はさながらパクス・シニカに立ち向かうドン・キホーテのようだ、と明に暗に揶揄された。)
日米原子力協定の次回更新がないことは誰の目に見ても明らかであり、山のように余っているMOX燃料の行き先はIAEAも知らないようだった。
そんなことだから、中間貯蔵施設という名目の、事実上の最終処分場たる六ヶ所にすべてを押し付け、政府と行政と大多数の国民はNIMBYの精神を遺憾なく発揮することで各々の精神の安寧を獲得していった。
とにかく、ことの主犯たる国産宇宙太陽光発電所は「ひかり」という、加齢臭むせ返る横文字の候補群からはなんとか逃げ果せた通称を拝命し、20GWもの大電力を供給し始め、東京万博会場の灯りが一斉に点った日をもってひとまずのプロジェクト成功と見る向きもあった。
(日本による宇宙開発の数少ない世界的成功に肖って「はやぶさ」なんてネーミングを推す動きもあったが、流石にこの国にも一抹ながら恥の概念は残っていたらしい。また、「まりし」などという旧動燃の残留思念、いや怨念が具現化したかのような案も提出されていたもと聞くが、真偽の程は定かではない。)
実際、こんな大規模プロジェクトを実行する能力とエネルギーをこの国がいまだに持っていたことに驚いた。
ただ、ひかりから降り注ぐ高密度のマイクロ波を分散して受電する設備、すなわち受電所の立地が不足していると言う問題は依然として解決の目を見ていなかった。
安全よりも安心を求める国民性に変わりはなく(「焼き鳥デモ」の映像を見たときは流石に乾いた笑いしか出なかった)、電源交付金も雀の涙と来れば宜なるかな、積極的に手を挙げるごく少数の自治体は奇異の目で見られた。
とはいえ、大流量の循環水系のために沿岸部であることが求められる汽力発電でもなく、大規模な河川と高低差が求められる水力発電でもなく、只広い土地さえあれば良いというだけの必要十分条件は今まで大規模電源立地となることなど考えもしなかった自治体の目には福音として映ったらしく、それらの首長は新たな時代の権益ホルダーとなることを選んでいった。
反対に、新規制基準適合審査の遅々とした進展と繰り返される住民訴訟、そして最終的な結論としての廃炉の影響をもろに受けた原子力立地の反応はさっぱりであり、政治の影響をもろに受ける歳入に頭を悩ませられるエネルギー立地はもう懲り懲りと言った風情で、役人の誘いをアイリスアウトの向こう側に押しやっていた。
結局、ひかりの設計容量のすべてを受電するに必要な30GW分の受電所を運開当初から用意することを諦め、漸次募集という名の先送りを決定した政府は経産文科省を矢面に立たせることを選び、自らは飄々としていたというのだから大したものだ。
結局、運開から5年が経過した段階でもひかりの擁する200k㎡に及ぶパネルの3分の1は折り畳まれたままであり、白衣十人黒衣五人などと不必要な比喩を披露した大臣はメディアの総バッシングを浴びる権利を恣にしていた。
そうした、古式ゆかしい伝統的な時勢の中で、2次立地募集に手を挙げた自治体の内の1つが、我が郷里だったのである。
「親父が色々動き回ってたみたいなんだけど、さ。正直言うと、あんま関わりたくないなってのがあって」
私の友人であり本日の助演男優、またの名を新郎が、半分ほど空けたアサヒビールのジョッキをテーブルに慎重に据えながら、疲労を隠さぬ赤ら顔で言う。
彼の父親は町議を務めており、「太郎」というシンプルすぎる名前も出馬を見越して付けた名前だと言っていた。
(国政選挙に出るわけでもないのにな、とは彼の自嘲だ。)
その親父さんはどうやらこの度の誘致に際し懸命に旗を振っていたという。
しかし、僅かばかりとは言え受け取る交付金と、"多少の"造成による環境破壊と、電源立地になるという誇り(この価値観だけは共有が出来なさそうだ)と、それら3つをとりまく可愛らしい権力闘争の予感に、父親の説得と説教とに玉虫色の回答を重ねることでのらりくらりと回答の明言を避けてきたのだという。
彼のこの手の身のこなしは素直に凄いと思うし、そうした人付き合いに嫌気が差していた、というのは私の上京に係る動機の半分を占める。
「でもお前、今更そんなこと訊いてくるだなんて、本当にここの人間じゃなくなっちまったんだな」
この地でこの話題が取り沙汰され始めたのは軽く2年以上は前だという。
誘致か否かで侃侃諤諤の論争があり、どこに建てるかでまた侃々諤々の論争があり、さらに用地買収に係るあれやこれやのトラブルがあり、それでも最終決定がなされたのがひと月前というのだから、どれほど地元の世情に疎くなっているかを実感させられる。
あるいは、上京して好き放題やっている(ように見える)私に対する軽蔑と嫉妬の念が多少なりとも混じっていたのかも知れない。
なるほど、確かに私には家庭もなく、親族との濃密な付き合いもなく、仕事周りの土地付き合いもなく、自由気ままにやっていると言われても反論する材料がないことに気づく。
であるなら、こんな日くらい友人の愚痴と誹りを受ける義務も果たすべきだろう。
そう思って、コークハイを傍らに、言葉少なに彼の言葉に相槌を打つことに決める。
まったく、本当に大変な役回りだと思う。
返す返す、自分には出来る気がしない。
翌朝、久々に実家の自室で目を覚ますと(物置と化していなかったことに驚いた、こうした面に関する母の義理堅さには感謝しても仕切れない)、やはり気になっていた裏山に足を伸ばした。
アルコールが多少残ってはいたが、丁度良い運動だと体に言い聞かせて路を辿っていく。
子供の時から変わらない、というのはフィクションの中にだけ許される情景で、長らく人の手が入っていないことを伺わせる荒れ様には流石に心のどこかが痛んだ。
…いや、いや。
よそ者同然と化したお前が捨て犬に見せるような仏心を発揮して碌なことになるのか?
もはや何も言う権利などないことに遅ればせながら気付き、せめて在りし日の遊び場の記憶が損なわれぬよう、路の途中で踵を返した。
もう2度と見れぬであろう山の景色を視界から追いやり、そういえば客先から急ぎの問い合わせを受けていたな、などと頭からも追いやり、足早に帰路に就いた。
帰路。
実家への帰路か、東京への帰路か、自問せずとも回答は明白だった。
思い出深き裏山は、もはや私の裏庭ではない。
疫学的に因果関係を検討するプロセスを示すために作成された「因果関係を検討するためのガイドライン」
・時間的関係性 原因は効果よりも時間的に先行しているか(必須)
・生物学的妥当性 その関連性を支持する他の知見が存在するか(作用機序、実験動物での結果)
・量-反応関係 曝露の増加に伴って効果(健康影響)も増加しているか
・関連の可逆性 原因と思われる要因を除去することによって疾病のリスクが減少するか
・研究デザイン そのエビデンスは、しっかりした研究デザインに基づいたものか
・エビデンスの判定 どのような種類のエビデンスに基づいて結論に至っているか
[wikipedia:デンバー地震] (ブックマークコメントより)
1962年から1967年まで地震が頻発した現象である。一か月に数十回から多いときで80回以上も地震が発生していたが、これらの地震はデンバー近郊のロッキーマウンテン兵器工場 での廃液の地中注入によるものと解明された。地中注入による誘発地震の代表例のひとつであり最初の事例である。
”1962年3月に廃液の地中注入が始まったが4月24日に最初の地震 (M1.5) がデンバー近郊の地球物理観測所で記録され”
”調査により、震源はデンバー市の北の長さ75km長・幅40km・深さ45kmの狭い範囲に集中していることが明らかになった(略)。その後の精査により領域はさらに狭められ、ワンが着目していた地震は注入縦坑から半径8km以内であったことが明らかになった
”観測結果は注入量(1-9百万ガロン/月)と地震の発生頻度の関連を示し、1963年後半から1年間注入を中止すると、その間の地震の回数は激減し、1964年後半に注入を再開すると地震活動も元に戻った。”
デンバーから約300km西のRangely油田、Paradox Valley、2009年以降にオクラホマ州で発生している群発地震 などがWikipediaには挙げられている。注入されていたモノは水を中心とした液体である。
鳩山氏が言うように、注入の後に地震が起きている。ただしこれは必要十分条件ではない。
北海道の地震において注入量と地震発生の時間間隔はどうだったか
注入を継続し、同様の地震が群発しなければ、注入が地震の原因であった可能性は低まる。
一方、仮に今後注入を中止し、その後地震が起きなかったとしても、注入が今回の地震の原因であったとは言えないであろう。
因果関係ありとするものはここを重要視しているのであろう。 「デンバーや、シェールガスで起きたのだから、北海道で起きても不思議ではない(起きるはずだ)」
さすがに介入的実験は難しいであろう。(とはいうものの、実験可能な地理的条件を満たすのは日本国内では北海道くらいしかないのは皮肉なことである。)
この世界のゲームには、「神ゲー」「クソゲー」という概念が存在し、前者は+、後者は-の意味をそれぞれ持っている。
私はこれについて疑念を抱いた。
大のゲーム好きである私はこれまでの人生を通して様々なゲームに触れてきた。無論その中には神ゲーもクソゲーもある。
結論から言うと、クソゲーはどう足掻こうとクソゲーだ。面白くないものをどういじっても面白くなるはずがないし、面白くしたいと思わない。
気がついたら短針が大移動している、などということは夢のまた夢。寝落ちでもしない限り、クソゲーに興じている間の時は悠久のようにさえ感じられる。
我々はクソゲーを購入したことを激しく懺悔し、事の再発防止を心に誓うのだ。(誓うだけでまたやってしまうのが人間の性だが。)
そして本題、神ゲーについて。
神ゲーは起動した刹那心が躍る。全身がそれを求め、プレイ時間に伴いプレイヤーを骨抜きにしていく。
私が疑念を抱いたのはちょうどこの部分だ。
[プレイヤーを骨抜きにしてしまうゲームを神ゲーと呼んでしまっても良いのだろうか。]
もちろんゲームというのは楽しくてなんぼのもので、前述のようなクソゲーはゲーをつけることすら失礼な、最早クソだ。法さえ許せば本物のクソとともにトイレに流してしまいたいくらいである。
しかし、人間も生き物である以上、この世に魂を置くことのできる時間は限られている。
その限りある時を神ゲーの誘惑に負けて貢いでしまうのはなにか負けたような気がするのだ。これすらも神ゲーによって培われた感覚なのかもしれない。
つまり、プレイヤーを骨抜きすることで人生から大切な時を奪う神ゲーはある意味においてクソゲーなのだ。
だからと言って人を骨抜きにしない神ゲーなど存在するはずもない。骨抜きにならないのはそのゲームがつまらないことを意味し、また法が許せばトイレに流してしまうことを意味するのだから。
要するにゲームはクソの必要十分条件ということだ。神ゲーの予感に浮き足立っているうちにその足元をすくわれてしまう。我々の足はクソによってすくわれるのだ。こんな気色悪いことは他にない。
http://www.sekkachi.com/entry/Hitsuyou_Jubun_conditions
必要十分条件について、だ。
「この商品は必要十分な機能をそろえているのでお勧めです。」なんて書いてあるアレのことです。
たぶん同じように気持ち悪いと思っている人も多いんじゃないかと思う。
そのレビューを書いた人がほしいと思っていた機能がそろっている、ならばそれは「十分」なのではないか。
なんでわざわざ「必要十分」って書く?
日本語として「必要十分」という言葉を検索してみたけど出てくるのは数学の話だけで、評価するための言葉としての「必要十分」はみつからない。
なのでこの人達が「必要十分です」なんて言っていることの意味がわからない。どういう意味でこの言葉を使っているんだろうかと。
これを見つけるたびにいつも疑問に思う。
エセ経営者なんだろうが
(そうじゃないならこんな奴の下で働いてる奴かわいそすぎる。。。)
それ、最低限だろ。
それにお前いくつだよ!?
少なくとも40とかだよな?30とかの長若社長で20代の社長を「若い」って呼んでるのか?
おやじになっても他に何もないの?
必要十分条件、っていうのを、「言葉としての意味で」というのであればそりゃ正しいだろ。
「成功するまで続ける」ってのはそのまま「成功する」を意味するんだから。
そこを間違ってる。
そしてそこが一番重要なのを隠してる。
これがよくある最低最悪の詭弁。
バカなのか?そんなのが在るならいくらでも起業していくらでも簡単に儲けられるわ。
そしてもう1つが、「独占・寡占が可能な事業をやる」こと。
これも。
バカなのか?
それで金になるなら誰でも簡単に金持ちだわ。
そういう事業ですら散々失敗した人間が居ることも理解できないのか?アホなのか?
これは大学の同級生とかでもそうなんだけど、大学卒業後1年目はだいたいどこの組織に就職したやつもペーペーなのが、卒業10年後・20年後・30年後と時間が経てばたつほど皆偉くなって、極端な例だと大企業のトップと官公庁のトップと○○大臣が大学からの知り合い、とかなるわけですよ。
あのさ?例えば東大の同窓生ならトップになる可能性あるわな?アホか?
んで、偉い物同士、知り合い、とか言ってるのが学生時代一度も話したことのない様なただの同窓生、ってこともいくらでもあんだわ。
地方公立学校からの知り合い、とかなら別だが、それ以外はただのエリートコースに親の力で入れてもらってそこでコネも作ってるってか?
クソだな。
なので、1つ1つの「偉くない人」「自分とタメor目下の人」との取引/人間関係で、横柄な態度を取らない、裏切る/嘘をつくような行動をとらない、ということの積み重ねが長いタイムスパンで見たときに本当に重要。
お前が「目下でも」とか「偉くなくても」とか言ってるのは、
それ以外は「将来性がないから早く切るべき人間」とか言って切り捨ててるだろ?
あほか。
http://anond.hatelabo.jp/20151001133903
↑を受けて、なんとなく書きたくなったので、雑文失礼。
うちの会社も何だかんだで数百人規模で利益も億単位で出せるようになったので、若い経営者と飲んだりすると「成功の秘訣」みたいなことを聞かれることがあるんだが、正直なところ「これをやったから成功した」というよりは、幾度となく苦境が訪れたけど諦めずに続けていたら、気が付いたらそこそこ成功したと言っても良さそうな規模になっていた、というのが正直なところ。だからといって「成功したのは運が良かったから」というのはいくらなんでも謙遜しすぎて逆に嘘なので、じゃあなんだろうと考えると、やっぱり「忍耐」かなと。諦めないこと、投げ出さないこと。
必ずしも起業するのは大変でサラリーマンは楽だとは思わないけど、経営を続けるのは、特に組織を拡大させて維持させて食わせていく、というのは本当に辛いことが多い。一番メンタルをやられやすいのは赤字で会社がつぶれそうな時だけど、ある程度以上規模が大きくなると頻度の多さもあって人間関係まわりがメンタル負荷が一番高いように思う。幹部同士の対立、セクハラ対応、社員の不満の爆発、コアメンバーの離脱、などなど。人間関係の問題が発生しない月なんかほとんどない。もちろんその逆で「こいつと一緒に働けて、こいつが部下で本当に楽しい」というやつに巡り合うこともあるし、狙い通りに事業が上手くいったときの快感はハンパない嬉しさもあるけど、正直トータルとしてはストレスの方が大きいと思う。
だからこそ「そこそこ成功している経営者」って、このあたりのストレス/負担/痛みに慣れて鈍感になるか、常人には信じがたいメンタルHPの持ち主か、そもそも超自分勝手でストレスを感じないタイプか、どちらにせよ一個人としては人間性に問題があるとしか思えない人が多い。ただ人間性に問題を抱えて進めるのは「そこそこ成功」レベルまでのようで、ワタミしかりゼンショーしかりGREEしかり、やはりファンを作りにくく敵を増やすタイプの経営者は、どこかで必ず社会からしっぺ返しをくらって止まるので、突き抜けた成功者になると人格者比率が上がるっぽい。もっとも人格者を完璧に偽装できるようになった人格破綻者なのかもしれないが、完璧に偽装できていればもはやそれは本物と変わらないだろうし。
結局のところ、成功するための必要十分条件は「成功するまで続けること」以外には存在しないのですよ。
この2つの条件を満たす事業は「割と」成功しやすい、というのがあるんじゃないかと思っていて、1つはカワンゴ(ドワンゴ創業者の川上さん)が言ってることとだいたい被るんだけど、「よく分からない事業をやる」「自分ですら成功を確信できない事業をやる」こと。これは要するに、不確実性の低い市場では単純に戦力が強いものが勝つことが多くまぐれ勝ちが起きにくいので、弱小勢力たるベンチャー企業は、できるだけ「まぐれ勝ち」が発生しやすい不確実性の高い市場で勝負すべし、ということ。不確実性が低かろうが高かろうが、弱小会社の成功確率なんてどっちにしろ低いんだけど、参入する会社が10社しかいない市場で、極論勝率がランダムであれば、勝率10%もあるわけで。
そしてもう1つが、「独占・寡占が可能な事業をやる」こと。なんか経済学的な話ばっかりだけど、結局のところ利益の源泉は、素晴らしい社員でもなければ、優れたテクノロジーでもなく、素晴らしいプロダクトでもなく、独占なわけですよ。ソーシャルゲームがなぜ儲かるかと言えば、パズドラの「魔法石」をガンホーが「独占」しているからなわけですよ。独占価格で売れるから儲かる。カルテルのようなタイプの独占・寡占は独禁法で禁止されてるけど、ブランドによる市場細分化による独占とかF2Pを使った独占は真っ白な合法なわけで、合法的に「独占」が可能になる事業をやるべし。
これは大学の同級生とかでもそうなんだけど、大学卒業後1年目はだいたいどこの組織に就職したやつもペーペーなのが、卒業10年後・20年後・30年後と時間が経てばたつほど皆偉くなって、極端な例だと大企業のトップと官公庁のトップと○○大臣が大学からの知り合い、とかなるわけですよ。で、片方だけが偉いパターンはあまり役に立たないんだけど、お互いに偉くなればなるほど、「信用できる外部の有力者」が増えるわけです。
これはベンチャー企業にも言えて、10年前はお互いにマンションの一室でやってた他の起業家が、お互いに10年たつと上場企業の社長同士とか、もしくは提携していた大企業の担当係長が10年後は執行役員になってるとか、経営を長く続けていると「こちらを信用してくれる外部の有力者」がどんどん増えていくので、大きな事業提携とか資本調達とかが、本当に楽にできるようになる。なので、1つ1つの「偉くない人」「自分とタメor目下の人」との取引/人間関係で、横柄な態度を取らない、裏切る/嘘をつくような行動をとらない、ということの積み重ねが長いタイムスパンで見たときに本当に重要。
恩を仇で返してくるようなやつがいないわけじゃないけど、応報は割と人間行動の原則なので、特に今はショボイけど時間が経てば偉くなりそうな人には、大きな不利益にならない範囲で色々と恩を売っておくのが吉。ついでにいうと、ベンチャー業界だと真面目な話、誰が成功するか・誰が偉くなるかは本当に分からないので、とりあえず接する人全員に謙虚な態度をとっておくのが尚よし。
http://anond.hatelabo.jp/20150828082752
というのを自分で言ってそれが辛い、とのこと。
一般では良く「東大生は使えない」だの、「お勉強だけしてきた人間は機転が効かないし仕事には意味が無い」と言う事が言われる。
とかだろう。
まあ、だから実際そういう人間は居るけど必要十分条件ではないわけで。
で、まあそれは余り今回関係ない話なんだが、一方、はてなーには何故かこれを自称する人間が多い。
「俺は勉強は出来た、今の仕事が出来ないのは環境が悪いだけだ」みたいな、周りのせいにして結局何も出来ない高学歴、ってのも中には居るし前ははてなーでも
そういうのが多かった気がする。
だけど、ここ最近は逆に、それを認める様な形で、自分をダメな人間なんだ、周りはそれに気づいてくれ、と言う様な増田やブログが多い気がする。
これは、ADHDやアスペルガーを自称してる人たちにも同じ傾向が有るように思う。
昔はそのような人たちは全てまわりのせいにし、今の世の中が自分たちに合わせないのが悪い、たまたま自分たちがマイノリティーなだけで
マジョリティーな人間は単にマジョリティーなだけで得してる、と言った主張が多かった。
今でもそのような主張はよくあるが、はてなー界隈だと、逆に自分はダメなんです、それを分かってください、辛いんです、と言った内容を赤裸々に書いてる風なのが見える様になってきた。
高学歴辛い、と一緒の感じ。
ただ、これらに共通する別の項目として、裏に隠れた自尊心が強く見える所がある。
まあ、そもそもそれがなければブログなりWebに公開で書いたりしない。
上の増田の場合には自分がどれだけ高学歴でどれだけ試験とかが出来るか、を只管主張している。
ADHDやアスペルガーを主張する人たちもこの様に、この方面では人より優れているのだが、みたいな話をしたり、それでも何も無い人間は
アインシュタインなど、過去の偉人もこの様な病気だったのだが、みたいな、意味の分からない自分も優秀な人間の一部なのだが、と言う主張をしてくる。
この様に実は「俺は実は優秀なのに!」「周りが悪いだけだ!」と思ってる人間は思った以上に沢山居る。
というか、多かれ少なかれ誰もがそう言った事は思ってるだろう。
だからこそ簡単に共感を呼ぶし、逆に「自分だけ」を強く主張する人間に対しては激しく叩く様になるのだろう。
この様な事を書いてWebに公開する、と言う人間は、お前は出来る人間だ、と言われたい、持ってる本来の能力を認めて欲しい、
という欲求から。
その思いを素直に強くぶつけると簡単に叩かれるし逆に凹んでしまう、ということが鮮明になってきている。
だから、今は自分を弱者にして共感を呼び慰め、及び励ましの言葉をもらうようなものが増えたのだろう。
「共感」の中にはさらに共感コメント中で自分を主張してくる人間も出てくる。
だが、この様な事を書いてる人間は別に共感や慰め、励ましの言葉が欲しいわけではない。
「お前は出来る人間だ」「他に行けば出来るに違いない」「たまたま悪い所にいってしまったね、ほんとは凄い人なのに」
の様に、「実は凄い人だ」と褒めてもらいたいだけ、崇めてもらいたいだけ。
何故なら「自分は人とは違う凄い人間だ」と言うのが根底にあるので、
共感なんて要らない(お前は俺と同じレベルじゃないだろ、と)、慰めや励ましの様な上から目線は要らない、
というかそれらはすべて逆にムカつく対象だろう。
ほとんどの場合、ラノベにヒロインは必要不可欠であると水島や飯田は主張する。反例はもちろんあるが、ヒロインを据えたラノベがそうでないラノベよりも圧倒的に多いことは事実である。
このヒロインについて、水島は「フラッグシップヒロイン」という独自の単語を用いて説明している。フラッグシップヒロインとは、その出会いによって、主人公は平凡な日常から非日常へと放り込まれる、という点で特徴を持つヒロインである。水島はこのフラッグシップヒロインは一人であるべきで、また傍若無人タイプが好ましいと言う。日常が非日常へと変わるのは多くの物語で最初の1度であり、従ってそういった存在は必然的に一人であらざるをえないと言えること、前述の人物間のギャップを想定する場合、ヒロインが傍若無人であるならば主人公は面倒見のいい親切な人物となり、このような人格は読者の倫理観を満足させやすく、ゆえに感情移入させやすい、という点で効率的である。ゆえにこの水島の指摘はこれまでの内容とも矛盾しない。
一部の例外を除いて、ヒロインは主人公に惚れなければならない。榎本はヒロインが主人公に惚れる理由はしっかりと、読者に分かる形で描写するべきだという。一目惚れの場合は「外見に惚れ、次に魂に惚れなおす」という形で段階を分けるべきだとする。
突如登場したこの「魂」についての説明は一切ないが、筆者が理解する限り、この「惚れる理由」や「魂」とは主人公の「行為」であり、精神的な何かではない。
クーンツは登場人物の個性とは「行為」によって示されるべきだと言う。これは例えばヒロインは優しい性格の持ち主だ、と説明することよりも、読者がヒロインを優しい性格だと感じる行為を描写することの方が好ましい、という指摘である。
作中の人物はテレパシー能力が無い限り他人の思考を読み取ることはできず、その人物設定の書かれた地の文を読むこともできない。ゆえにその行為によってのみ、どういう人物であるかを理解していくことになる。もちろんクーンツや榎本が指摘するように、それらの行為には動機が必要である。現実と異なり、なんとなくで登場人物が行動していくことは読者は作家の思考放棄であり、ご都合主義だとみなす。
従って主人公はヒロインが惚れるに足る行為をなさねばならず、それは作中で明示的に描写されなければならない。
さらに、この指摘は主人公がヒロインに惚れることについてもまったく同じである。美少女である、ツンデレであるといった属性があるから主人公が惚れるのではなく、当該人物の行為によって主人公は惚れる必要があるのであり、さらにその行為が読者にとっても惚れうるものであればこそ、魅力的なヒロインとして意識づけられるものだろう。
水島は登場人物にオリジナリティなど不要であり、パクればいいとする。一方で五代/榊はそれを「チグハグで安っぽいもの」と批判する。両者の主張は実のところ特に対立するものではない。
西谷は次のような指摘をしている。
ライトノベル作家を目指している人の原稿を読むと、大ヒットした小説に登場したキャラクターの名前だけを変えて自分の小説に登場させ、自分ではそれに気がついていないことが多いのです
五代/榊が批判しているのはまさにこうした模倣だと筆者は考えている。水島は意識的に模倣しており、さらにそれはバレないようにするべきだ、と言う。バレない模倣とは一体なにかについて水島は特に踏み込まないが、この点で大塚は既存のキャラクターを抽象化し、別の値で具体化することが正しい模倣だという。例えばオッドアイという属性を「左右で異なる目を持つ」と捉え、そこから「左右で見える世界が違う」と具体化する。
確かにこれは既製品の加工、変形に過ぎない。ゆえに大塚はオリジナリティとは「パターンの組み合わせ」「パターンの再発見」なのだとする。この2つは、クーンツの「われわれは古い物語の要素を新しく配列し直しているだけなのだ」という指摘、また榎本の「オリジナリティとは「全く新しいもの」ではなく「読者たちが知らないもの、見たことのないもの」の呼び名だ」という指摘を端的に表していると言えるだろう。
一方、様々な属性をランダムに組み合わせ、新たなパターンの組み合わせを発見しようというワナビは珍しいものではない。スクール水着と巫女の組み合わせはこれまでにない!オリジナリティだ!といったそれに対し、大塚は「設定の上だけで奇をてらった個性やオリジナリティを追求しても意味がない」と指摘する。
繰り返しになるが、大塚はそれが「主題」と深く結びついていることが必要不可欠であるとする。主題と関係性を持たせられず、物語上の必然性もない「オリジナルな属性」に価値は無いと言っていいだろう。
プロットについての学術的定義としては例えばフォースターが有名であるが、それらを踏まえてプロットの定義を明確化した文献はフィールドぐらいしか確認できなかった。
よって本稿においては各説の最大公約数的に機能する定義として、「世界」や「登場人物」の変化を「出来事」とした上で、プロットとは「出来事の配列」と定義することとした。
さてこの「プロット」について論じるにあたっては、当然ながらプロット不要論と向き合わねばならない。
プロットに重きを置かない理由はふたつある。第一に、そもそも人生に筋書きなどないから。第二に、プロットを練るのと、ストーリーが自然と生まれ出るのは、相矛盾することだから。
このキングの著作を高く評価し、手本としても例に挙げているクーンツはプロットに関して次のように述べている。
作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでいく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。ばかげた話である。
ただしクーンツもごく一部の天才であればプロットを練らずとも名作を書きうるだろうとしていることは事実である。よってキングをその例外であるとすれば上記の見解の相違は回避可能となる。
ところが同様にプロットなど考えたりしないという主張は、例えば宮部みゆきや五代によっても主張されている。彼女らがクーンツより文才溢れる天才であり、キングと同格なのだとすることはさすがに暴論であろう。
しかしここでもこれは単なる手順上の相違に過ぎないと筆者は考えている。
まずキングは「原稿を寝かせる」ことを非常に重視している。書き終えた原稿をキングは6週間寝かせるが、それは「プロットやキャラクターの穴がよく見えるようになる」からだという。こうしてプロットの欠陥を認識し、書き直し、そしてまた6週間寝かせる。キングは欠陥を認識しなくなるまでこれを繰り返す。
確かにキングはプロットを事前に練っていないが、これは推敲における徹底したプロットの練り直しに他ならない。もちろんキングが筆の赴くままに書いてもそれなりの内容を書くことができる、という前提はあるだろう。しかしキングもまたプロットを最終的に納得いくまで練り込んでいるという事実は、単純にプロットなど不要だとする主張とは明らかに一線を画している。
宮部もまた、書き終えた後での推敲段階で物語の全面改稿を含む大幅な変更がありうること、よって発表後の現行を改訂できない連載小説などは「よく失敗」すると自嘲し、従って自分のやり方は非効率であるから真似するべきではない、と述べている。
このように彼らの意見をまとめると、プロットを先に練って書くことは確かに必須ではないが、それはプロットを練らないことを意味するものではなく、推敲段階で徹底して練り直さねばならない、ということと理解できる。先にプロットを練ることの効果は後で練るより執筆量の少ない段階で修正できることにあり、効率が良いという点に集約できるだろう。
以上のように整理したところで、ではプロットを練ればそれだけで自動的に良いプロットになるのか、といえばそうではない。重要なのは魅力的なプロットを作り上げることで、練るという行為それ自体ではない。
練り方という点でラノベ作家陣は様々な「プロットの作り方」を提案している。その内容には「どのように作るか」という手順と「どのようなプロットであるべきか」という構造についての両方の側面があり、極端に言えば前者についてはどうでもよく、明確に意識するべきは後者であると筆者は考える。
従って手順について詳細に踏み込む必要は無いと考えているが、似て非なる様々な内容が提案されている点を簡単に紹介したい。
キング同様、西谷は「最初のシーンから順に次のシーンへと書いていく」というシンプルなプロット作成手順を提案しており、そのメリットはスケールの大きい物語ができること、デメリットは時間がかかることだとしている。
他方、西谷は「主題をもとにして最初のシーンを考え、次にクライマックスとなるシーンを考え、その両者をつなぐシーンを考えていく」という手順も提案している。こちらは前者より物語の構造を決めやすく、早く書き上げられる手順だという((この指摘はプロット不要に関する筆者の解釈とも合致するところである))。
水島の提案はこの西谷の後者の説に類似しているが、「ヒロインと出会う事で主人公の平凡な日常がどのように変化するのか」「クライマックスで何をするのか」「ラストはどのように終わるのか」を最初に決め、次にその間を繋ぐ出来事を作っていくとするものである。
榎本は「(人物)が(行動)をして、(結果)になる」を最小プロットとして位置づける。その上で登場人物たちの目的、遭遇する事件、葛藤、対立、成長といった要素を盛り込みつつ、まず200字で作成するという。200字で納得のいくものが作れたら次に400字、800字と同様に徐々に増やしていく。これによって効率的にプロットが作成できるとしている。
大塚は上記とは全く異なり、下記の項目それぞれについて、暗示的な意味を付したカード(オリジナルでもタロットのような既製品でも問題ない)をランダムに割り振ることでプロットが作成できるとする。
割り振られたカードの暗示から想像を膨らませることで具体化するという。また、これとは別にグレマスの行為者モデル(主体、援助者、敵対者、送り手、対象、受け手の6種の役割をもつ人や物によって物語は構造化できるとする説)によってもプロットは作れるとしている。
これ以外ではさらに物理的な手順への言及もあり、例えば榎本は単語帳やExcelで各アイディアをカード化してこれらを並べ替えながら考えるのだとしていたり、大塚も場面単位で時刻、場所、人物、行動をカードに書き、それを時間軸に沿って並べて考えるのだ、としている。最後に1972年初版であるクーンツの指摘を挙げて本項を終わる。
プロット・カードとかストーリー構成リストとかの奇妙な発明品は、どれもかつて、作家がアイディアを得るための手助けをすると称して売られたものであり、この手のものは現在もなお売られている。が、実際のところ、そんなものはまともな作家にとって、まったく無価値に等しい。
ラノベ作家陣によるプロットの構造に対する言及は曖昧なものが多く、またまとまった説明になっていないものが少なくない。
いくつか断片的にこの点について言及している部分を拾い上げると、例えば西谷は「キャラクターに新鮮みがあること」「魅力的なストーリーであること」「類似作品と差別化できていること」といった要件を上げており、「魅力的なストーリー」とは何かという点については「主人公に苦労させる」「強い悪役を出す」「魅力的な仲間を出す」「新しい場所を訪ねる」としている。作中でそれぞれの出来事の起こる順番への言及は特にない。
水島は順序について言及しているが、「タイトルも含めて最初に読者をツカむ」「ラストシーン一歩手前で盛り上がる」「ラストは短くだらだらせず、良い読後感を与える」「それ以外は読者が飽きないよう時々盛り上がるようにする」というもので、具体性に乏しいと言わざるを得ない。
あえて言えば「どんでん返し」と「天丼」への言及があり、「どんでん返し」はクライマックスの決着、直前、ラストシーンの最後のいずれかに位置することで効果的に機能するが、当たれば評価を大きく上げるが外れると大きく下げる点に注意が必要だとしている。「天丼」は意外性があり、重要なことを最初は大袈裟に、二回目は間を空けた上でぼそっということで効果的に機能するとしている。
確かにこれらの要素は盛り上げるための1つの技術ではあるだろうが、プロット構造における要素とは言い難い。
さて、榎本は次のような構造をプロットが持つことが望ましいとする。
クーンツもまた、古典的プロットの成功パターンとして以下のようなプロットの構造を推奨する。
念のため触れておくとクーンツはミステリにはまた注意すべきプロット上の必須要素があるとして、それを15項目に別にまとめている。つまり上記だけであらゆるジャンルのプロットの必要十分条件であるとしているわけではなく、様々なジャンルの必要十分条件の最大公約数として機能するのだ、という指摘であると筆者は解釈している。
大塚はプロットの構造については後述するヒックスのそれが参考になるとして作中で丸ごと引用している。しかし同時にプロットの本質的構造はアラン・ダンデスを参考に「主人公の欠落が明かされる」「主人公は欠落の回復を目的とする」「主人公は欠落を回復する」の三段階であるとしており、これは榎本やクーンツの主張をさらに抽象化したものだと言いうるだろう。
ところでクーンツの主張するプロットの構造は「三幕構成」と呼ばれるものである((三幕構成とは序破急であるという言説はラノベ作家の本でもよく見かけるのだが、あれは世阿弥の風姿花伝における序破急の概念を正確に理解した上でそう言っているのだろうか。まさか読んだこと無いけど字面的にたぶん同じだろといった糞みたいな思考で「教科書」と自称するものを書いているはずはないので、風姿花伝の解説書、待ってます))。榎本は「起承転結」を用いて説明するが、上記のように両者はそれほど乖離したものではない。この三幕構成はとりわけハリウッド映画脚本の原則として確立されており、その端緒ともいうべきフィールド、そして大塚や乙一などが参照するヒックスについて本稿では整理する。
フィールドはプロットの理想的な構造を三幕構成によって説明する。三幕構成とはあらゆる物語はAct1, Act2, Act3の3つに分割可能だとする考え方である(その意味でいえばクーンツもまた「クーンツの三幕構成」というべき独自の三幕構成を定義しているというべきである)。これはパラダイムであり、ゆえに三幕構成は史上最高傑作にもメアリー・スーにも等しく存在する。
フィールドはこの三幕構成を下敷きに、次のような役割を持つ出来事が順に配列されることが望ましいとしている。
PlotPoint1と2はそれぞれ各Actの最後に、次のActへの橋渡しとなる機能が求められている。またMidPointはConfrontationの真ん中で起こることが望ましいされている。さらにはそれぞれのActはいずれも小さな三幕構成で出来ており、すなわちフラクタル構造であることが望ましいという(フラクタル構造への言及は榎本なども指摘するところである)。
映画脚本における理論であることから、フィールドはMidPointが上映時間のちょうど中央で起きることが望ましい、としている。
クーンツがあげる「ついに最悪の事態に陥る」はMidPointのようにも思われるが、クライマックスのようにも思われ、それが作中の後ろにあるのか中央にあるのか言及がないため、判断しかねるところである。これに対してフィールドは明確にそれを作品中央で発生するべきだ、としている点で、クーンツのそれをもう一歩先に進めたものだと言いうるだろう。
なお、MidPointは必ずしも派手なものである必要は無い。例えば映画「マトリックス」におけるMidPointはネオが救世主ではないとオラクルに告げられる場面である。争いの無い静かな場面であり、生命の危機に直面しているわけではない。しかし物語をこれまで動かしてきた大前提が崩壊した瞬間である。MidPointはこのようにもはや後戻りができず、先の絶望的状況の回避方法が読者に容易に想像できない出来事であることが期待されているものであり、派手な出来事 Permalink | 記事への反応(1) | 20:47
それが「頭がいい」必要十分条件なのかは分からないけど、その場が仕事だと仮定して、その手の話に付いていくための訓練としては
常に頭にスキーム図のようなものが浮かぶようになると、そういう話だと付いていきやすくなりそう。
利害関係、作用・反作用関係などが頭の中に浮かぶと、「次どうする?」「この仕組みはオッケーか」「起こりやすい問題」なんかは見えやすくなるはず
その議論に必要な事物すべてを把握し、それぞれがどういう関係性かを整理する。最初のうちは図に書いていくとよいと思う。
受験勝ち抜いてきた系の基礎学力がある人なら、速さ自体は慣れれば問題ないんじゃないか。
ちょっと待ってって言った人を小馬鹿にするような態度取るやつなんて、所詮その程度だから放っておいて「ちょっと待って」はしていっていいと思う。
『数学ガール ガロア理論』の第10章(最終章)がそれまでの章に比べて難しくて挫折するという感想がけっこうあるようなので、その補足的な解説を試みます。『ガロア理論』第10章はガロアの第一論文を解説しているので、解説の解説ということになります。
と進んでいきますが、ミルカさんはその途中で何度も、ガロアの第一論文のテーマが「方程式が代数的に解ける必要十分条件」であることを確認します。
なぜ何度も確認するかといえば、最後の定理5(方程式が代数的に解ける必要十分条件)以外は、一見したところでは「方程式の可解性」に関わることが見て取れないので、途中で確認を入れないと簡単に道に迷ってしまうからでしょう。定理2(≪方程式のガロア群≫の縮小)や定理3(補助方程式のすべての根の添加)は、目的の方程式を解くときに利用する補助方程式に関わる話ですが、やはり定理を見ただけでは「方程式の可解性」との繋がりはよく見えません。
そこで逆に、いったん「方程式の可解性」の話から離れて定理5を除外して、それ以外だけに注目します。
「方程式の可解性」から離れて見たとき、定理1から定理4までで何をやっているかというと、
ということ(ガロア対応と呼ばれます)を示しています。ミルカさんの言葉を使えば(p.362)、体と群の二つの世界に橋を架けています。
この体と群の対応関係を図で見ると、10.6節「二つの塔」の図(p.413、p.415、p.418)、あるいは
http://hooktail.sub.jp/algebra/SymmetricEquation/Joh-GaloisEx31.gif
http://f.hatena.ne.jp/lemniscus/20130318155010
のようになります(この体と群の対応関係は常に成り立つわけではなく、第8章「塔を立てる」で説明された「正規拡大」のときに成り立ちます)。
体と群に対応関係があること(定理1~定理4)を踏まえて、定理5を見ます。
「方程式を代数的に解く」というのは「体の拡大」に関係する話です。
「方程式の係数体から最小分解体まで、冪根の添加でたどりつくことが、方程式を代数的に解くことなのだ」
(第7章「ラグランジュ・リゾルベントの秘密」p.254)(ただし、必要なだけの1のn乗根を係数体が含んでいるという条件のもとで)
そこから、「体と群の対応」を利用して、方程式の解の置き換えに関する「群」の話に持っていくのが、定理5になるわけです(なお「方程式を解くこと」と「解の置き換え」が関係していることは、すでに第7章に現れていました)。
「≪群を調べる≫って≪体を調べる≫よりも(...)」
ここまでの話で、定理4までで行いたいことが「≪体の世界≫と≪群の世界≫の対応関係」だということが分かりました。
しかしこの対応を示すためには、まず、この対応関係における≪群の世界≫というのがいったい何なのかをきちんと定義しないといけません。
≪体の世界≫というのは「体の拡大」で、これは8章「塔を立てる」で説明されています。
一方、その「体の拡大」に対応する「群」は「方程式の解の置き換え方の可能な全パターン」なのですが、これが正確にどんなものなのかは10章以前には定義されていません。
(以下、4次方程式の例をいくつかあげますが、面倒なら流し読みでさらっと進んでください)
たとえば一般3次方程式では、解α、β、γの置き換え方は全部で6通り(3×2×1)あります(第7章p.252)。同様に考えると、一般4次方程式では、解α、β、γ、δの置き換え方は全部で24通り(4×3×2×1)あることが分かります。
ところが、x4+x3+x2+x+1=0という4次方程式を考えてみます。これは5次の円分方程式です(第4章「あなたとくびきをともにして」)。
x5-1 = (x-1)(x4+x3+x2+x+1)なので、この方程式の解α、β、γ、δは1の5乗根のうちの1以外のものだと分かります。したがって、解の順番を適当に選ぶとβ=α2、γ=α3、δ=α4という関係が成り立ちます。
これについての解の置き換え方を考えると、αを、α、β、γ、δのうちのどれに置き換えるかを決めると、それに連動して、β、γ、δがどの解に置き換わるかも自動的に決まってしまいます。たとえばαをβ(=α2)に置き換えると、(β、γ、δ)=(α2、α3、α4)は、
(β、γ、δ) = (α2、α3、α4)
↓ αをβに置き換える
(β2、β3、β4) = ((α2)2、(α2)3、(α2)4) = (α4、α6、α8) = (α4、α1、α3) = (δ、α、γ)
となるので、
(α、β、γ、δ) → (β、δ、α、γ)
のように置き換わります。αの置き換え方は4通り(α、β、γ、δの4つ)なので、この4次方程式x4+x3+x2+x+1=0の解の置き換え方は次の4通りとなります。
(α、β、γ、δ) → (α、β、γ、δ) = (α、α2、α3、α4)
(α、β、γ、δ) → (β、δ、α、γ) = (α2、α4、α6、α8)
(α、β、γ、δ) → (γ、α、δ、β) = (α3、α6、α9、α12)
(α、β、γ、δ) → (δ、γ、β、α) = (α4、α8、α12、α16)
あるいはx4-5x2+6=(x2-2)(x2-3)=0 という方程式を考えます。解は√2、-√2、√3、-√3の4つですが、この場合「√2と-√2の置き換え」や「√3と-√3の置き換え」は許されますが、「√2と√3の置き換え」は許されません。
なぜかというと、(√2)2 -2 = 0、という式を考えると分かります。この式で√2を√3に置き換えると、左辺は(√3)2 -2 = 1となり、一方、右辺は0のままです。このような等式を破壊してしまうような解の置き換え方は認められません。そのため、可能な解の置き換え方は4通りになります。ただし、4通りの置き換え方のパターン(解の置き換えの「群」)は、5次円分方程式のときの4通りの置き換えパターンとは異なっています。(α、β、γ、δ) = (√2、-√2、√3、-√3)と置くと、可能な置き換え方は
(α、β、γ、δ) → (α、β、γ、δ) = ( √2、-√2、 √3、-√3)
(α、β、γ、δ) → (β、α、γ、δ) = (-√2、 √2、 √3、-√3)
(α、β、γ、δ) → (α、β、δ、γ) = ( √2、-√2、-√3、 √3)
(α、β、γ、δ) → (β、α、δ、γ) = (-√2、 √2、-√3、 √3)
となります。
では、「認められる置き換え方」であるためにはどのような条件を満たす必要があるのかというと、それは
というものです。つまり解θの最小多項式をf(x)とすると、解の置き換えをしたときに、θはf(x)の根θ1、...、θnのどれか(この中にはθ自身も入っています)に移らなければなりません。この条件を満たしていれば、等式に対して解の置き換えをおこなっても、等式が破壊されることはありません。
解の置き換えであるための必要条件が出ましたが、この条件だけではx4+x3+x2+x+1=0のときのような、解の置き換えで複数の解の動きが連動しているような場合をどう考えればいいのかは、まだ分かりません。x4+x3+x2+x+1=0のときは一つの解の動きを決めれば他の解の動きが決まりましたが、方程式によっては解の間の関係はもっとずっと複雑にもなりえます。
しかしそれは、たくさんの解を一度に考えるから解の間の関係が複雑になって混乱するのです。
もしもx4+x3+x2+x+1=0のときの解αのように、ただ一つの解の動きだけを考えて全ての置き換えが決まってしまうならば、話はずっと簡単になります。
そして、その「一つの解の動きだけを考える」ようにしているのが、
です。
体に注意を向けたほうがいい。添加体を考えれば、補題3の主張は一行で書ける」
K(α1、α2、α3、...、αm) = K(V)
これによって、「解α1、α2、α3、...、αmの置き換え」ではなく、ただひとつの「Vの置き換え」だけを考えればいいことになります。
これと、解の置き換えの必要条件「解の置き換えをおこなったとき、解は、共役元のどれかに移らなければならない」を合わせると、「解の置き換え方の可能な全パターン」とは、「Vから、Vの共役への置き換えのうちで、可能なものすべて」となります。
そして補題4(Vの共役)は、「Vの(共役への)置き換え」をすると、もとの多項式f(x)の根α1、α2、α3、...、αmの間の置き換えが発生するという性質を述べています。つまり「Vの置き換え」によって「方程式f(x)=0の解の、可能な置き換えが実現される」わけです。
この考えにもとづいて「解の置き換えの群」を定義しているのが、定理1(≪方程式のガロア群≫の定義)の説明の途中の、10.4.4節「ガロア群の作り方」です。
(ガロアは正規拡大の場合にだけ「解の置き換えの群」を定義したので、正規拡大のときの「解の置き換えの群」を「ガロア群」と呼びます)
前節で、証明のかなめとなるVと「解の置き換えの群」が定義されました。Vの最小多項式fV(x)の次数をnとすると、次が成り立ちます(最小多項式は既約で、既約多項式は重根を持たないので、Vの共役の個数は最小多項式の次数nと一致することに注意する)。
※1 考えている体K(V)に含まれない数へのVの置き換えは「解の置き換え」には認められないので、「解の置き換え方の個数」と「共役の個数」は一致するとは限りません。
※2 「最小多項式」は8.2.8節「Q(√2+√3)/Q」と8.2.9節「最小多項式」で説明されていますが、最小多項式が既約であることと一意に決まること(8.2.9節p.282)は、定義(可約と既約)と補題1(既約多項式の性質)から証明されます。
そして、
したがって正規拡大のときには、
という等式が成り立ちます。この関係が「体と群の対応」の第一歩目になります。
ことを主張しています。
そして定理2(≪方程式のガロア群≫の縮小)と定理4(縮小したガロア群の性質)で、
ことを主張しています。
ことを主張しています。
このように定理1、定理2、定理3、定理4によって、体と群の対応が示されます。
方程式が代数的に(つまり冪乗根によって)解けるかという問題は
と言い換えられます。そして、
ので、「適切な冪乗根が存在するか」という問題は「適切な正規拡大が存在するか」という問題になり、体と群の対応により
という問題になります。この「適切な正規部分群があるかどうか」をもっと詳しく正確に述べたのが定理5です。
それでは改めて第10章を読んでいきましょう。
(追記: 数式の間違いの指摘ありがとうございます。訂正しました)
http://anond.hatelabo.jp/20120723230305
「○○と主張するなら、△△してみせろ。できないだろう。だから○○は嘘だ」
という論法。ペテンや詐欺などを暴く手法として用いられることが多い。
しかしここで重要なのは、△△できるということが○○という主張の必要十分条件であることだ。
もしこれらがつながってないと、どうなるか。
例1「カラスが黒だと主張するなら、100mを5秒で走ってみせろ。できないだろう。だからカラスが黒いというのは嘘だ」
これは明らかに発言者がおかしいと分かるし、現実にこんなことを言う人はいない。
カラスが黒いこととそれを主張する人間が100mを5秒で走ることが論理的につながらないことが明確だからだ。
ところが、なんとなく関係がありそうなことになると、「確かにそうかも」と信じてしまったり、元増田のように実際にそういうことを言い出す人もいる。
例2「『オスプレイの安全性が通常のヘリと同等』と主張するなら、『大統領専用ヘリを全部オスプレイに置き換え』てみせろ。できないだろう。だからオスプレイは安全ではないのだ」
『オスプレイの安全性が通常のヘリと同等という主張』と『大統領専用ヘリを全部オスプレイに置き換えること』には『ヘリコプターの安全性』が関係してくるため、この主張は一見正しいように見えてしまう。
しかしここで立ち止まって考えてみよう。
仮にオスプレイが世界一の安全性を持つとしたとして、大統領専用ヘリを全部オスプレイに置き換えることが可能だろうか?
軍用機と大統領専用ヘリ、求められるスペックは同じだろうか?離着陸に必要なスペース、機内の装置等など全く異なるだろう。
つまり、安全性とはまったく別の理由で『大統領専用ヘリを全部オスプレイに置き換えること』は不可能なのだ。
この手の主張は枚挙にいとまがない。
「『原発が安全だ』と主張するなら、『東京に原発を作っ』てみせろ。できないだろう。だから原発は安全じゃないのだ」
「『アポロが月に行った』と主張するなら、『もう一度月に行っ』てみせろ。どの国もしていないだろう。だからアポロは月になど行っていなかったのだ」
「『大阪城がオーバーテクノロジーでない』と主張するなら『第二の大阪城を建て』てみせろ。できないだろう。だから大阪城はオーバーテクノロジーだ」
などなど。
ああ、もう少し書きたいけど夜だから頭が回らない。
続きはやる気が残ってたらまた今度。
書きたい内容「例1と例2の違いについて詳しく」
仮に原発を推進したいなら、今回と同レベルの事故が発生したときに、どれだけの人的・経済的被害が発生するかを試算して、つまり100%事故が起こることを前提にしたうえで、どれだけのメリットがあるかを説明していくべきだと思うよ。そして、「何十年かに1回大規模な事故が起こったとしても、経済的にペイできるからいいか」と国民が納得すれば、国も原発と共存できるでしょ。
これを条件Aが必要条件だと主張してると読解するのは無理があると思うけどなあ
「条件Aは存続の必要十分条件」「条件Aは不可能」よって「存続は不可能」というロジックなわけね。了解。
総意を無視するという選択もありうるよ。「共に存続する」だけなら。その是非はともかく、っていうか俺は否定したいけど。
背の高い女の子っていう設定では、クラスで背の順で並んだときに一番後ろになるか、それより少し高いくらいが必要十分条件。
他の人も書いてるけど、日本人の平均身長は、女性は160なくて、男性が170ちょっと。
女にとっての170オーバーっていうのは、男にとっての180~190だからね。
「身長はある程度欲しいけど、あそこまでいくとちょっと引くかも」くらいの。
背が高い女っていうとバレーやバスケのスポーツ選手とかモデルなんてものが男よりも連想されやすいから、颯爽としてるイメージを持たれやすくてプレッシャーになったり、体つきのバランスが変になりやすいから気になったり(実際にアニメの頭身やスタイルの人間がいたらキモいとかに近い?)、背が高いから短いスカート履けないとかそもそも似合わないとかもうパンツスタイルが楽だしいいかとか、背は高くても顔は大した事ないからロクなあだ名つけられないとか、色々ある。
顔さえある程度よければモデル扱いされるしモテもするんだろうけどね。