この世界のゲームには、「神ゲー」「クソゲー」という概念が存在し、前者は+、後者は-の意味をそれぞれ持っている。
私はこれについて疑念を抱いた。
大のゲーム好きである私はこれまでの人生を通して様々なゲームに触れてきた。無論その中には神ゲーもクソゲーもある。
結論から言うと、クソゲーはどう足掻こうとクソゲーだ。面白くないものをどういじっても面白くなるはずがないし、面白くしたいと思わない。
気がついたら短針が大移動している、などということは夢のまた夢。寝落ちでもしない限り、クソゲーに興じている間の時は悠久のようにさえ感じられる。
我々はクソゲーを購入したことを激しく懺悔し、事の再発防止を心に誓うのだ。(誓うだけでまたやってしまうのが人間の性だが。)
そして本題、神ゲーについて。
神ゲーは起動した刹那心が躍る。全身がそれを求め、プレイ時間に伴いプレイヤーを骨抜きにしていく。
私が疑念を抱いたのはちょうどこの部分だ。
[プレイヤーを骨抜きにしてしまうゲームを神ゲーと呼んでしまっても良いのだろうか。]
もちろんゲームというのは楽しくてなんぼのもので、前述のようなクソゲーはゲーをつけることすら失礼な、最早クソだ。法さえ許せば本物のクソとともにトイレに流してしまいたいくらいである。
しかし、人間も生き物である以上、この世に魂を置くことのできる時間は限られている。
その限りある時を神ゲーの誘惑に負けて貢いでしまうのはなにか負けたような気がするのだ。これすらも神ゲーによって培われた感覚なのかもしれない。
つまり、プレイヤーを骨抜きすることで人生から大切な時を奪う神ゲーはある意味においてクソゲーなのだ。
だからと言って人を骨抜きにしない神ゲーなど存在するはずもない。骨抜きにならないのはそのゲームがつまらないことを意味し、また法が許せばトイレに流してしまうことを意味するのだから。
要するにゲームはクソの必要十分条件ということだ。神ゲーの予感に浮き足立っているうちにその足元をすくわれてしまう。我々の足はクソによってすくわれるのだ。こんな気色悪いことは他にない。
ゲームで万事を語るなクズ