はてなキーワード: ウェンディとは
アンサイクロペディアで行われているエクストリーム・スポーツという設定の、その年で行われた謝罪会見で不謹慎の度合やこれまで見なかったありえない謝罪会見を扱った晒し記事
起こした不祥事というよりも謝罪会見の内容を重視するので全ての不祥事や不謹慎の内容を扱っているわけではないが、ほとんどの場合は謝罪会見もセットされているので問題はない
(ロシア・ウクライナ、イスラエル・ハマス、アルメニア・アゼルバイジャンなどの戦争については謝罪会見なんかするわけないので、このあたりでは扱われない)
1998年から自由情報という個人ホームページで独自に展開しているテレビ音楽番組という設定の、その年で不祥事や不謹慎なことを起こした人間やユニット、組織などを晒すための企画
こちらもテレビマニアである自由情報の独断と偏見が強い関係や、そもそも出場歌手の枠数の問題もあって全ての不祥事や不謹慎を扱ってはいないが、「選出に漏れたもの」も含めると8割以上を網羅していると言っても過言ではない
もちろん発表された後に引き起こされた不祥事や不謹慎は審査されていないためか、羽生結弦は夫妻のまま、池田大作は「Wikipedia訃報2023年」で無理やり対処されている
低能先生や銃殺された元首相botなどを批判するために作られたとも言われている自分もやべーやつの一つと言われている晒し増田
上記2つと比べると増田以外の範囲はないのだが、増田における不祥事や不謹慎の確認にはなるとされている
ブラック企業大賞企画委員会がその名の通りブラック企業に皮肉的に賞を与えてその会社に対して業務改善を促すための企画
2019年まで開催されており、ワタミフードサービスや電通などの大規模で有名な企業のブラック企業が明かされていた
現在はコロナの関係なのか開催されていないためエントリ登録時は外していた(復活求む)
また海外版と言えるものとしてパブリックアイ賞となるものもあるが、こちらも現在は賞みたいなことはしていない模様(ただ怪しい企業の審査みたいなことはしているらしい)
Twitterの不動産関係者が募った「全国宅地建物取引ツイッタラー協会」が実施する、話題になった物件・事件を選出する賞
こちらは好意的に話題となった物件(例のプール)や事件も扱われるが、基本的にろくでもないまさにクソな物件や不動産関連の不祥事・不謹慎な事件が扱われることが多い
一応、ある弁護士が「この物件に対してクソと言うのは業務妨害になるのでは」と指摘しているが、そもそもそういうクソな物件だからそういう風に言われることについても考慮すべきである
ウェンディー・ノースカットという人物が勝手に開催している「バカな行動で自ら死亡、或いは子孫を作れなくなった人間」を皮肉的に表彰して晒上げる賞
不祥事というよりも不謹慎の方面だが、原因は全てバカな行動というものであるため、いわゆる『しくじり先生』などのような反面教師としての教訓として確認すべき有用な情報でもある
残念ながら我が国ジャップからも「ニコ生主富士山滑落事故」と「フォークリフトパレット現場猫案件」の2件が受賞しているため、†悔い改めるように†
鉄血・W・00の女性人気・BL人気が高いのに比べると、水星の魔女はBLの余地みたいなところに予め除草剤撒いてあるかのように感じた。
ガンダムジャンルの中では一番と言っていいくらいBLが少ない作品だと思う。女性ファンの大半は男女カップリング(エラスレ・グエスレ等)に行っていた。
・シャディクとグエルは料理の仕方で覇権カプになれた関係性だったけど、シャディク→ミオリネとグエル→スレッタを特大にしておくことで芽を摘む。
・シャディエラとエラグエも絡ませない。特にエラグエは4号も5号も「スレッタを巡って争う」ような少女漫画構図にしてBL的解釈不能にしておく。
・グエルとラウダも近親相姦に抵抗ない腐からすれば美味しい関係性だったけど、兄弟対決のモチベーションにペトラ負傷を混ぜて最終回もラウペトにして芽を摘む。
・コミュニケーションスキルが高く性格もよく健康的(?)過ぎて一切BL解釈されない地球寮男子たち。
オルコットとナジが最終回でも一緒にいたとか、ケナンジとオルコット(リドリック)の過去の関係への勘繰りとか、まあほぼ無いと言ってもいいくらいの状態だった。
○ご飯
朝:なし。昼:酒。手羽先。サラダ。パスタ。夜:チキンカレー、ジャガイモとオクラのカレー、ナスキーマカレーの三種のあいがけカレー。
○調子
○アニシャドF
アニシャドの縦軸の話全部ほったらかして、この二人の関係値だけを延々とやってほしい。
時々アリスとミモリを交えてほしい。
大好きこのアニメ。
宝箱全部開ける程度にはモチベが高い。
楽しかったーーー。
コインをいっぱい集めると言うサブ目的のおかげで爽快感あって楽しいコースが多かった。
DLCコースはどうしようかなあ、ちょっとピンとこないからパスかな。
サンシャイン>NewWii>New2>3Dランド>ワールド>ランド2>3>1>ランド>ギャラクシー2>ギャラクシー>64>2>NewDS>USA
って、これメーカーはどうするんだろ。最初から入ってるコースだけ遊ぶとかかな。まあ一旦飛ばすか。
○NewスーパーマリオブラザーズU DX
というわけで早速購入してプレイ開始。
今日はブンブンを倒しただけ。2Dマリオでブンブンめっちゃ久しぶりだな。3Dだと3Dランドであったばっかりだけど。
あと急に全然脈絡のないこと書くけど、クッパ七人衆全く覚えれない。
名前は言えるんだよ、ラリー、ロイ、ルドウィック、ウェンディ、イギー、レミー、モートンでしょ。
で、紅一点のウェンディ、髪の毛ふさふさのルドウィックは見た目が違うから大丈夫。
この中でロイはスマブラで散々擦られたからグラサンがロイで、そうじゃないのがモートンって覚えれた。
誰が誰だかさっぱり覚えれなくない?
最近ぼくが好きな双子メイド(メイドではないが衣装がメイドっぽいと言えなくもないかも知れない双子アイドル戦乙女)はロザリア&リリアですね。
こういうやつですね。https://www.youtube.com/watch?v=Qk28iBN7NS8
ちなみにこれは2016年10月(日本版は2017年2月)にリリースされた崩壊3rdってゲームですね。
2021年時点で比較しても国産のどのガチャゲよりも見た目リッチな3Dモバイルアクションゲームになっていると、個人的には思いますね。
それもそのはず、この技術的オーパーツみたいな作品は今原神でゲームトレンドのトップを走っているmiHoYoの作品だからですね。
コミカルなキャラクターながらも、どちゃくそシリアスなSFシナリオである本作の中なので困難に翻弄されるのは既定路線なんですがね。
また大御所声優ばかりでおばさんボイスが多いこのゲームの中で、この二人の若々しさは特筆すべき癒やしをもたらしてくれますね。
原神プレイヤーからするとウェンティとウェンディの例から言って、西風教会の気怠げおっぱいシスター・ロサリアと崩壊のロザリアは似たような見た目なのかと想像するかもしれませんが、全然違いますね。
ちゃんとロリ双子ですので心配御無用、しかも姉のロザリアの方のボイスはパイモンと同じなんですね。
数多くの原神ミームを作り出してきたマスコットキャラのパイモンと同じ声色ながら、ちょっと少女っぽさを感じる演技を見てほしいですね。
しかし個人的にもっと好きなのがリリアの方で、この子のボイスが非常にかわいいのですよね。
天真爛漫なおバカキャラのロザリアとは反対に、落ち着いたツッコミキャラなのですが、クールとも違うんですよね。
端々から姉を大事に思っていることが伝わってきますし、おっと失礼ぼくともあろうものが語りすぎてしまっていたようですね。
これを語るにはこの欄は狭すぎるというやつですね。
まあでもぶっちゃけて言うとあれですね、日本のカルチャーを日本人よりよく分かっているmiHoYoの作るキャラクターなので、あれですね。
双子メイドキャラの代表格であるあれの影響を受けている部分が多かれ少なかれあるような気はしますね。ピンク髪と薄い水色髪なあたりとかがそれですね。
ちなみに崩壊3rdにはよりガチのメイドキャラであるリタ・ロスヴァイセがいますが、そちらは瀟洒なお姉さんでスマートに大鎌を振るって戦うS級戦乙女なんですね。
瀟洒なメイドといえば東方のあれですが、この世界、時を止めるスタンド能力的なものはシステム化されて大体のキャラが持っていますのであれですね。
ともあれ冒頭に挙げたキャラ紹介ムービーを開いていないのならぜひご覧になって、ビジュアルが好みに引っかかったのなら触れてみることをおすすめしますね。
もしこれを読んでいるのがストゥーデントの皆さんであれば、今日ゲームを始めるなんて愚行を犯してはなりませんね。
ぼくはいいんです。夏休みの宿題も人生の宿題も、一切やらないまま40年近く生きてきたツワモノがぼくなんですよね。
それはどうでもいい話でしたね。ではこのへんで失礼しましょうね。
増田:"『受け攻めとかいうポルノフェチの押し付け基地外文化』が英語圏で一般的って主張でいいか?"
だからいいですけど
↓
▼ サウスパーク
校長「えー、今日はアジア系の子達が描いてくれた絵を紹介しようと…そこ!うるせえぞ!!さっさと口を閉じろ!!
絵を、生徒会長:ウェンディ・テスタバーガー司会で紹介しようと思う。」
ウェンディ「皆さんこんにちは。うちの学校にアジア系の新入生が来たのはご存知ですね。そこで今日は、彼女達の文化である「ヤオイ」というアートスタイルを紹介しようと思います」
▼ 英語圏二次創作投稿サイトAO3の使い方
http://otakucrossing.com/how-to-use-ao3-fanfiction/
AというキャラクターとBというキャラクターであれば、Aが攻めでも受けでも、同じようにABと書きます。
どちらのキャラクターが手前に来るかには、これという決まりはなく、語感や、なんとなく攻めっぽいキャラクターが前に来る傾向がありますが、表記ぶれも多くあります。
AB、BAどちらの記載順になるかは、検索ページの「Relationship」の欄でキャラ名を入れると、そのキャラを含むshippingの一覧が表示されるので、そこで把握することができます。
ABと書かれていて読んでみたら、実際にはAが受けだった……とか、同じ作品内でABが立場を入れ替えるいわゆる「同軸リバ」、ということも多かったり。
日本ではたびたび、どちらが受け攻め論争だとか、ABとタグづけされた作品に「素敵なBA」とコメントする是非などが議論になっているのを目にしますが、
英語圏においては、そもそも受け攻めという概念や、そこへのこだわりが日本ほど強くないようです。
この理由についてはよく海外のアニメファンの友人とも不思議だよねと話すのですが、
一つにはpolitical correctness(ポリコレ)と呼ばれる、「政治的社会的問題の観点から物事はかくあるべき」という暗黙の了解によって、関係性は対等であるべきで、一方に「攻め」や「受け」の役割を押し付けるべきではない、という価値観を英語圏の人々が持っていることが一因ではないかと考えています。
- General Audiences(全年齢向け)
全年齢向け
- Teen And Up Audiences(ティーンズ以上向け)
- Mature(成人向け)
校長「えー、今日はアジア系の子達が描いてくれた絵を紹介しようと…そこ!うるせえぞ!!さっさと口を閉じろ!!
絵を、生徒会長:ウェンディ・テスタバーガー司会で紹介しようと思う。」
ウェンディ「皆さんこんにちは。うちの学校にアジア系の新入生が来たのはご存知ですね。そこで今日は、彼女達の文化である「ヤオイ」というアートスタイルを紹介しようと思います。ヤオイは見下されてしまう事の多い形の愛の美学であり、愛は神秘的なものだという事を教えてくれます。
リサ・アキモトさんの作品、「トゥイークとクレイグ 禁断の愛」」
トゥイーク「え"っ?!」
ウェンディ「ケリー・ゾウ さんの幻想的な作品、「クレイグとトゥイーク、月夜の踊り」…」
クレイグ「は?何だよこれ」
ウェンディ「ヤオイ・アートにおける『攻め』は、『受け』との関係性において優位な事が多いです。ヘザー・ニシムラさんの『トゥイークとクレイグ: ボオイズ ラブゥ』が良いお手本になるでしょう。」
ウェンディ「ヤオイはこういう形だけに留まらず、『百合に蛙にトゥイークとクレイグ』のような作品もあります。」
スタン「わけ分かんねぇ…トゥイークとクレイグはゲイじゃないんだろ?」
カイル「もしそうなら僕達がとっくに知ってるはずだよ」
バターズ「じゃあなんであの子達は二人をああいう風に描くの?」
ジミー「そもそもヤオイが何なのかもよく分からなくて、こっ、混乱してるよ」
スタン「トゥイークとクレイグでこんな絵を描くような奴らなら… 僕達で同じような事をする可能性だってあるんじゃないか?」
クレイグ「なんでこんな事するんだ?」
腐女子2「(韓国語:ジャンパーの中、どうして分かったの?)」
クレイグ「今何て言った?」
続きは下記ページでどうぞ
翻訳まとめ — Tweek x Craig(サウスパーク) 和訳
この手の変な精子を掴まされる件って生物学上の父と管理団体に対する訴訟はできないのかな?
米ジョージア州在住のウェンディ・ノーマンさん(Wendy Norman、51)とパートナーのジャネットさん(Janet)は、女性同士の結婚ではあった
https://news.nifty.com/article/item/neta/12239-812205/
一方のジェームズは、ウェンディさんとその他の親達に向けて「皆さん(子供の両親)の信頼を裏切って、本当に申し訳ない。それはやってはならないことだった。自分にとっても気分の悪いものだし辛いと感じる。子供達については末長く幸せで平和な人生を送ってほしい」と謝罪の言葉を述べている。
米ジョージア州在住のウェンディ・ノーマンさん(Wendy Norman、51)とパートナーのジャネットさん(Janet)は、女性同士の結婚ではあったが、精子バンクを利用しIQ160で博士課程卒の病歴や犯罪歴もない男性を精子ドナーとして選び、2002年にウェンディさんは無事男の子を出産して名前をベンと名付けた。
しかしベン君は小学2年生の頃から学校で癇癪を起こしたり学校から抜け出し森に逃げ込むなど問題ばかり起こしていた。後にベン君は注意欠陥・多動性障害(ADHD)に加えうつ病と診断された。
その後、ウェンディさんはジャネットさんと離別し、ベン君よりひとつ下の息子を持つステファニーさんとの生活をスタート。
ある日ステファニーさんはベン君のコンピュータ画面を見た際に背筋が凍る思いをしたという。
何故なら彼のコンピュータからは、Googleで「どのように義理兄弟を殺せるか?」「どうやったら自殺できるか?」と検索した履歴が見つかったからだ。
14歳を迎えた頃からベン君は、自分の父親が誰なのか知りたがるようになった。
そして最終的に精子ドナーの番号と精子バンクの社名を頼りにジェームズ・クリスチャン・アゲレスという男に行き着く。
ところが見つけた写真は警察のマグショットだった。IQ160で博士課程卒の病歴や犯罪歴もない男のはずが実は博士課程どころか大学を卒業しておらず、強盗を働いたため刑務所で過ごし、1999年に統合失調症と診断されていた。
ジェームズは自分の経歴を詐称し精子バンクに登録していたのだが、彼の精子によってベン君を含め36人の子供が誕生していることが分かっている。
チー牛の遺伝子を保存しても良い事なんてなにもない
作品を読み進めたいのに、どうしても気になって読み進められない。
この度話題になっている河出書房の文藝の文藝賞受賞作品の「推し、燃ゆ」についてである。
この作品の主人公が推している「推し」の「真幸くん」のモデルが、ほぼ確実に3月下旬に謹慎処分を受け、7月1日付で仕事に復帰した、ジャニーズグループ「Snow Man」の「岩本照」がモデルなのでは、と感じさせる描写が多く、そちらばかり気になってしまっている。
物語は主人公が推しているアイドル「真幸くん」がファンを殴り謹慎処分が下るところから始まる。
先述の岩本照の謹慎は2017年ごろの未成年とのホテルでの飲酒を文春に報道されたためであった。
しかし、彼は2014年ごろに、粘着質なファン(所謂「ヤラカシ」と呼ばれる迷惑行為を行うジャニオタ)を殴って謹慎している。
当時はあまり話題にならなかったが、一部ジャニーズのファンの間では帰ってこないのでは、と言われていたりした。(また、この度の謹慎は2度目であることから、今度こそ帰ってこない可能性もあるのではと一部で話題にもなった。ファンの皆さんは帰ってきて良かったですね。)
また、子供時代に「ピーターパンのミュージカル」に「ピーターパン役」で出演していた「推し」と言う描写がある。
そして、岩本照も子役時代にピーターパン役ではないものの「ピーターパンのミュージカル」に「ジョン(ウェンディの弟役。演出により変わるかもしれないがフライングするシーンがある)役」で出演しているのだ。
もちろん様々なアイドルを調べた上で(もしくは作者自体がアイドルのファンである可能性も十分あるだろうが。)、さらに読者に伝えたいことは別のことだと言うのは重々理解しているつもりなのだが、あまりに自分の人生の近くにこの物語が横たわりすぎている。
岩本照のファンではないが、青春時代、岩本照周辺にいた、もしかしたら炎上するかもしれなかった推しのいちファンとして、誰かとこの想いを共有したくなってしまったのだ。
みなさんの「推し(およびその周辺)、燃ゆ」エピソードは何かも気になる。
なんの脈絡もなく、役にも立たず、面白くもない文章を書いてしまい申し訳ない。
書いて満足したので本編に戻る。
anond:20180903115144 。3回目。
視聴環境は引き続きバンダイチャンネル(https://www.b-ch.com/titles/1109)。お得パック使用で7日間見放題(約千円)。
NHK の全マクロス大投票の感想は、カムジンに投票したけどあい君に負けてグババに勝ってた、シェリルの人気凄すぎ(好き嫌いが強く分かれるキャラクターだと思っていたけどここまでとは)、星間飛行の順位には納得いかん、です。
スタジオぬえがストーリー監修ではなく、また時系列順で一番未来な作品。主人公がジャーナリストでヒロインの一人がバルキリーのエースパイロットなど設定面が異色。感想を三行でまとめると
スペースが余ったので、さわりだけまとめる:
地球人類の殆どが死に絶えた地球外人種ゼントラーディー人との衝突から半世紀、地球は SDF-1 マクロスの残骸を仰ぐマクロスシティを中心に、地球圏共存体として復興をとげていた。あの大戦争により完成された、歌を感情に作用させる戦術兵器として用いる「ミンメイ・ディフェンス・システム」により、十数年ほどのスパンで散発するはぐれゼントラーディ軍との先頭は全く問題となっていおらず、統合軍は過信を抱き腐敗しつつあった。 そんな時に十年ぶりとなるはぐれゼントラーディ軍が太陽系に現れた。民間人のみならず多くの軍人でさえも勝利を確信するなか、ミンメイ・ディフェンス・システムにより敵の動きが鈍る。しかしその瞬間、戦場に統合軍のものではない異質な歌が流れ始め、敵の動きが激化し、統合軍は戦線を維持できず敗走してしまう。地球人類はついに歌を持つ文明と出会ってしまったのである。
これまで鑑賞してきたマクロスシリーズでは、主人公が軍属のバルキリーパイロットであったのに対して、II の主人公ヒビキは民間メディアの人間であるし、ダブルヒロインが敵の歌姫と軍のエースパイロットであったりと、違いが新鮮であった。総じて面白かった。
SF 作品としても、デニスの「宇宙は広い。地球が宇宙に君臨する最も優れた星などと考えるのは大間違いだ。」、「地球が最も優れた文化を持っているだと、ふざけるな。文化が何なのかも分からなくなっていやがるくせに。偉そうに言うんじゃねえ。」という言葉に仮託されるように、SF 的批評観をもって異文化コミュニケーションを描き出そうとしていた。人と人が分かり合うことというテーマを、明確に初代から引き継ぎ発展させていたのもよし。初代で確立したミンメイアタックの否定から入るストーリーは初代でのボドルザー艦隊との決戦を知らないと歌の価値が分からないし、地球文化に染まったイシュタルをミーム汚染として排除するシーンは初代の展開のオマージュだろうし、SDF-1 をシンボルとして活用する終盤の展開は初代の背景がないと成立しない。まさにマクロス II というタイトルにふさわしい作品内容だ。初代の超時空要塞マクロスの発展としてはよくできている。
少々残念な点としては、地球文化側が一方的に与える立場であったこと。これはマルドゥークの一部が地球人語を話していたことから推測できるように、彼らもまたプロトカルチャーを引き継ぐものであり、しかし地球人と異なり歌を戦意高揚の兵器としか理解していなかったから、だろうが。
だから、つくづく内容量に対しての展開の早さと話数の短さがもったいないと感じる。良い短編とは長編小説が書けるネタを惜しみなく使ったものだ、という冗談もあるが、とにかくこの内容ならばもっと初期イシュタルとのコミュニケーションや復興したマクロスシティの様子、発展した地球圏の風俗をしっかりと描いて欲しい。またのちの作品である 7 や F などで導入された設定(移民船団、フォールドブースター、民間軍事会社 SMS、マクロスクォーターなど)を考えると、統合軍の危機に駆けつけない他船団など不自然さがある。
初代マクロスではできなかったことをやろうぜ、という感じであった。マニューバもしっかりと描いていたし、変形の意味付けもしっかりあったし、1992年ということを考えたらこんなものではないだろうか(プラスが異次元すぎる)。雑多な感想を書くと、基本的に孤軍奮闘のマクロスにおいて大艦隊戦は珍しい気がする。マルドゥークのメカは普通に格好良いが、ゼントランのブサイクなメカの方が丸くてかわいくて印象に残る。民間のバルキリーというアイディアはすごくいいので、もっと他の作品にも出そうよ。
今作での一番のお気に入りは、6話にちらっとだけでた超巨大デストロイド・モンスター。大きいのは良いことだ。
腐敗している描写などはあったが、大艦隊戦にエース部隊など、統合軍が一番輝いている作品は本作であろう。
主人公のヒビキを中心として、敵の歌姫(イミュレータ)であるイシュタル、統合軍のエースパイロットであり何かとヒビキと衝突するシルビーのダブルヒロイン。さらにイシュタルに執着するマルドゥークのフェフ様とシルビーへの好意を隠さないスマートイケメンエースパイロット(名前忘れた)を揃えており、正直恋のレースの行き先が全然見えなかった(いや最終話になるまで恋の駆け引きが殆どなくて、急に大人のシーンになってびっくりしたとかないよ)。
イシュタルは純度100%の美樹本絵美少女の上に、おとなしい性格、ブカブカのシャツ、スリットのある下着とかカップを強調したドレスとか男のロマンが詰め込まれたようなキャラクターだ(イミュレータの服装ハレンチすぎない?)。しかし増田はソバカスがチャーミングなシルビーに一票を投じたい。ツンケンしたところもいいし、SDF-1 に賭けたり遺言ビデオレターをノリで撮るなど思い切りの良さはピカイチだし、何より上層部からは目をつけられ民間人からは苦情をぶつけられると言う板挟みのところがいい。初代でも未沙派だったし、増田には中間管理職系の人が刺さるようである。戦う軍人ヒロインでしかもバディものいいよね…
ところで気がついたのだが、マクロスでダブルヒロンの時って年上系ヒロインが正義? 初代:未沙(19歳)とミンメイ(15歳)、II:シルビー(同い年くらい?)とイシュタル(年下っぽい)、ゼロ:サラ(16歳)とマオ(11歳)、そしてフロンティ:シェリル(17歳?)とランカ(15歳)。製作陣の趣味なのだろうか。増田は、妹系か姉系か選べと問われれば姉系と即答するので問題はないが。
ちなみに今作で一番かわいいと思ったのは、5話でちょびっと映ったウェーブのかかった紫髪のイミュレータの娘。一番渋カッコいいのはエクセグラン司令。
敵(マルドゥーク)も歌を持っていると言うことで、ポップカルチャーである地球の歌と軍歌であるマルドゥークの歌の対比はよかった。ということで印象に残った歌は「バルキリーで誘って」とイミュレータの歌。前者はアイドルソングの時代感がいいし、後者は聖歌や民族音楽のような異質感がある。ただ全体的に歌が少ない!もっとイミュレータの歌が聞きたかった。
地球側のアイドルであるウェンディさん。二つ結びの髪の毛にコテコテではすっぱ口調など十分に現代でも通じるキャラクターだと思う。
『キャプテン・マーベル』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向けですぞ。
ほどよく100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。ふむふむ満足であるぞ、と思いつつ帰路についた。とは言え、帰路において考察が止まらないとかはなく、色んな部分が程よく狙ったように及第点ではある。
MCU(マーベルヒーローの映画シリーズ程度のことだと思いねえ)ファン的にはくすりとわらえたり、ほろりと出来たりする要素はありつつ、全体としてのアクションやCGバトルの派手さも有りつつ、脚本もウザくならないように欠点塞ぎつつ、いい感じというのが個人評価。大傑作じゃないけど程よく佳作。
『キャプテン・マーベル』は良かった。しかし、実はその良かった部分が自明じゃない。様々な要素が程よく及第点だから全体合計で佳作なんだけど、何か突出した、訴えかけてくる部分が見つけづらい。
でもそれって無いわけじゃない。無かったら上映後もっと気持ちが尻すぼみになったと思う。だから良かった部分をちゃんと言語化しておくほうが良いと思ってのメモだ。
いろいろ考えてたのだけど、『キャプテン・マーベル』は空っぽなところが良かった。その内面というか、背景が、他のヒーローに比べてポジティブに空白だ。そこが素晴らしく良かった。
ヒーローというのは超越的な存在で、それは能力的なものもそうなのだけど、内面的にもそうである必要がある。「信じられないほどの苦境や絶望に対して敢然と立ち向かう断固たる決意」みたいな部分だ。しかし一方で、ただ超越的であるだけではなく視聴者である凡人の僕らと地続きである必要もある。そうじゃないと視聴者はヒーローに感情移入することが出来なくて、彼らの苦悩や活躍を他人事の白けた話だとしか思えなくなってしまうからだ。
アイアンマンやキャプテン・アメリカというスーパーヒーローであっても、彼らの抱えた周囲から無理解へのいらだちや、内面の孤独や、大切な人を失ってしまう絶望という様々な苦難は、もちろん具体的な状況は違うのだけど、僕ら一般人が生活を営む上で出会うそれらと変わりがない。ヒーローはヒーローでありつつ僕らと同レベルの人間存在であって、その同類が困難に向かって立ち上がるから胸が熱くなる。
マーベルというアメコミ企業は、扱ってる商品の性質上、ヒーローの専門家であって、ヒーローについて多分毎日毎日めちゃくちゃ真剣に考えているから、そういうドラマの基本を十分に研究していてヒーローを生み出している。
その結果、例えば肉親を悪の襲撃や事故で失ったり、自分の将来の希望を奪われたり、社会からの拒絶で友を失ったり、両親との関係のコンプレックスがあって取り戻せなかったり、愛を交わしたパートナーに去られたりする。……よくあるなー。
そういう内面的な危機を乗り越えた「から」精神的に強いヒーローなのだー! ばりばりばりー! みたいなシナリオは本当に多い。でも、それってなんかこう……やりすぎて陳腐になったり、これみよがしな悲劇ドラマになったりもする。
言い方は悪いが「こんなにひどい目にあったんだから超絶能力を手に入れてもええやん?」みたいなエクスキューズにも見えてしまうのだ。ドクター・ストレンジお前の映画のことだゾ。
この「1)なんだかんだで凡人→2)内面的な困難や絶望の超克→3)不思議な出来事が起きてヒーローパワー入手!(2と3は順不同)→4)乗り越えた主人公の爽快なアクション!→5)解決!」というドラマ構造はすごく強力なテンプレなのであらゆるメディアで見ることが出来る。
この構造において、ヒーローの内面的な資格は「不幸とその超克」だ。
でもたぶん、『キャプテン・マーベル』はそこに対して距離を取った。
ドラマを支えるために一応取ってつけたようにその構造はあるのだが、その部分には明らかに重心をおいていない。
主人公キャロル・ダンヴァース(キャプテン・マーベル)は、たしかにクリー人に洗脳されて傭兵扱いされてたわけで、そういう意味で裏切られていた(っていうか洗脳されてたって相当ひどい過去だよな。エリア88の風間シンよりやべーだろ)わけだけど、じゃあそれが彼女の内面の悲劇であり彼女の中心か? というと別にそんなことはない。
クリーの指導者である超AIにたいしても自分を騙していた直接的な上官にたいしても、別段そこまで復讐の意思はなさそうだ。現に上官のヨン・ロッグは叩きのめしたけれど宇宙船にわざわざ乗せてクリー星へ送り返している。
映画を見終わったあとに振り返ってみたけれど、彼女が内面的な意味でヒーローになったきっかけというか契機となるイベントは実は本作のメインな時間軸中に存在しない。そのイベントの欠如は、従来の判断によればドラマ設計の失敗を意味するはずだ。でも、設計失敗の割にこの映画は破綻してないしちゃんとドライブされている。
これってどういうことなのか? 内面の葛藤を経ていないキャロルは前述のヒーローの資格においては失格であるはずだ。しかし画面の中の彼女はさっそうとしてて格好いいし、見ていて気持ちいいし、応援も出来るしヒーローに見える。これってどういう設計なのだろう?
結論から言うと、その資格論にたいする本作の返答は「主人公キャロル・ダンヴァースは最初からヒーローだった」だったいうものだ。
この「最初から」というのは、文字通り子供の頃からという意味で。
作中でインサートされるように、キャロルは、子供時代の記憶としてカートレースの事故にあう。子供野球で三振する。軍の教練において体力勝負で負けて周囲から笑われる。つまり、僕ら凡人がするような挫折を一通り普通にやっている。
そして彼女はなんだかんだ人生につきものの紆余曲折を経て、当時まだまだ女性に対しては門戸を閉ざしていた空軍パイロット(エリートの象徴でもある!)に実験部隊ということで潜り込んでテストパイロットになる。
その実験部隊でトラブルが起きて、キャロルは恩師ウェンディ・ローソン博士を助けるために飛行任務に立候補し、その騒動の中であわや命を失うというところまで行くのだが、それはさておき。
その実験部隊で同僚でもありキャロルの親友の黒人女性パイロット、マリア・ランボーのセリフに「その時(恩師を助けるためにパイロットに立候補したときの)のあんたはまさにヒーロー登場! って感じだったよ」というものがある。過去を回想する形で親友が主人公を思い返した言葉だ。
この立候補のとき、キャロルはスーパーヒーローの能力を持たない普通の地球人だったわけだけど、にもかかわらず、「まさにヒーロー」だったわけである。
能力のみならず、内面の危機においても主人公キャロルはこの時点で、ヒーローにつきものの特別な悲劇は経験していない。恋人を謎の組織に殺されたりしてないし、四肢を切断されて生きる力を失ったりしてないし、故郷を帝国に焼き尽くされたりしていない。
この作品は「それでもいいんだ」と言っている。そこが良かった。
つまりカートレースの事故から負けん気で立ち上がったとき、子供野球で三振したけど凹まずに再挑戦したとき、軍の訓練の綱登りで落下してもへこたれなかったとき、そのときキャロル・ダンヴァースはすでにしてヒーローであった。あらゆる困難に「なにくそ!」と立ち向かったとき、「すでにしてヒーローの資格を得ていた」わけだ。もちろんアクションバトル映画であるので、主人公キャロルはヒーローの能力を得たあとにも虐げられたスクラル人を助けようとして銀河規模の争いに身を投じる訳だが、それはなにも特別なことではなくて、「眼の前の困難に対して意地や義侠心で立ち上がる」ことそのものは子供時代と変わらない。
あらゆる人のあらゆる人生につきものの、しかし本人にとっては重要な、日常の無数の挫折や失意から立ち上がること、諦めずにチャレンジするその姿勢、それこそがヒーローであると『キャプテン・マーベル』という作品は主張している。
それはつまり、主人公キャロルだけではなく、広く開かれた一般凡人である視聴者への無言のメッセージでもあるのだ。「ヒーローになるにあたって特別巨大な悲劇や喪失も必要ない」。「この映画を見ている圧倒的多数の普通の人々も十分ヒーロー足りうるよ!」と言っている。
これは脚本家が、従来のヒーロードラマに対してまだまだ満足せずに、ドラマの構造として一歩先に進もうとした野心の結実のように思える。
そのチャレンジがとても良かった。
アメリカ映画において、とくにハリウッド映画において、さらに子供をターゲットに含めたヒーロー映画において、ロールモデルっていうのはすごく重要なポイントだ。ロールモデルっていうのはざっくり「目指すべき人物像」とでも言えると思う。「こういうのが良い人間です」という制作側の提案、という側面がハリウッド映画には確かにある。
日本ではちょっと馴染みのない考え方かもしれないけれど、要するに子供の頃に課題図書で読む偉人伝と同じような役割の文化装置だ。二宮欣二とか野口英世とか夏目漱石とか聖徳太子とか。あのような人々の物語と同じようなジャンルとしてキャプテン・アメリカやアイアンマンがいる。
人々は彼らに憧れるとともに、彼らを通して、正義や公や仁愛や克己を学ぶ。どういうモデルが「目指すべき人物像」になるかっていうのは、当然制作側/脚本側の提案によるんだけれど、その背景には当然制作当時の(主にアメリカの)世相が反映されている。
近場で言えば『アクアマン』では主人公アーサー・カリー が抱えた苦悩は、まさに「移民二世が抱えるアイデンティティ問題」「おれはどっちの子供なのよ?」であって、すごく現代的だった。
『アントマン』においては「娘に愛されたい父親としての俺と、金を稼ぐ社会の中での俺のどっちを選べばいいの?」というこれまた現代的でヴェットな問題が提起されている。『インクレディブル・ファミリー』においては「あっれー。なんか嫁さんのほうが稼ぎ多くて俺ってばヒモみたいな生活になりつつあって、家庭内での俺の地位とか、俺のオトコとしてのプライドとか、どうすればええん?」という現代的な――なんか世知辛くてしょっぱい話になってきたなあ。
MCUにおける二大ヒーロー、キャプテン・アメリカとアイアンマンは「能力を持つものの社会貢献」をめぐる物語で対立する。世界を救う能力を持つヒーローは、なんで救う義務があるの? というわりと古典的で、でも正義をめぐる物語としては避けて通れぬ踏み絵のようなテーマだ。
その問答に『キャプテン・マーベル』は踏み込まない。主人公キャロルは行動するが、行動に前だつ問答はない。それこそが彼女の提示したヒーロー像で「アメリカ人の目指すべきロールモデル」だ。
困難を前にしてくじけない。不撓不屈。弱者に対して自然に寄り添う慈愛と、押さえつけてくる不当な力に対する反発。しかしそれらは、そういう問題がなにか特別大きな悲劇だから、滅すべき悪だから立ち上がるというわけではなく、ごく自然に「それが私だから」というスタンスで、重く扱われない。そこで重要なのがくだらないユーモアと友人と日常であって、災厄を目の前にしてもひょうひょうと立ち向かう。ただ、絶対にくじけない。破れても失敗しても「もう一度」チャレンジする。
主人公キャロルはその戦闘能力においてMCUのなかでもかなり最高峰に位置すると思うのだけど、政府の超人兵士計画で生まれたキャプテン・アメリカよりも、悲劇を背負った社長で発明家で大富豪でちょいワルモテ親父のトニー・スタークよりも、その内面の姿勢において一般的な視聴者に近い。「顔を上げて誇り高く自分らしく生きる」だけでヒーローとして立っている。
その軽さ、明るさ、が心地よい映画であったと思う。
"Sometimes It Snows in April" はアメリカのミュージシャン、プリンスの楽曲。
プリンス自らが主演、監督を勤めた映画『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』のサウンドトラックでもある8枚目のアルバム
"Parade" (1986年発売)に収録。プリンスが作詞、作曲、プロデュース。
プリンスのバンド、ザ・レヴォリューションに在籍していたウェンディ・アンド・リサが作詞に加わった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Sometimes_It_Snows_in_April
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