はてなキーワード: 進化論とは
この文書で何が批判されているか知りたいだけの人は、一番下の節「まとめ」までジャンプ。
清水先生の講演についてここ一週間くらい悪口をTwitterで書いてた江口先生に、それブログに纏めてよと言ったら気が乗らないと断られてしまったので
「うまい人びとは、前に書いた辞書的定義や約定的定義や明確化定義や理論的定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます」
と最新のブログで書かれているのを、清水先生の講演を題材に自分なりにスケッチしてみる。
続き、というか中間にあたるのだが「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセル・カルチャーってなんだろう」を書くかは未定。
つまり、この記事は書き起こしで言う「Part1 〜学問の自由とその濫用〜 」の検討が中心だが
最後の方で全体を対象にする前に他のPartの検討を書くべきところ、途中で力尽きている。
とはいえだいたいPart1の検討とほぼ同じものを繰り返すだけ
を先に見ていることが前提。
の説明はほぼ書かないので、分からなければブログを参照するように。
1998年 国際大学協会(IAU)声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」による定義です。
「学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由」
人びとがその言葉をどう使っているかを国語辞典の載っているような形で説明している。
「一般的には、〜〜、というふうに考えることができる。」
「従来はそして一般的には、〜〜、というふうに理解されています。」
世間一般の用法という文脈なわけですから、当然、スライドの引用の言い換えに相当する語釈が、聴衆には予期される、
同じく 辞書的定義 が与えられようとしているものと解釈されます。
実際に与えられた定義を見てみましょう。
ある種の公の定義であるIAU声明に対する言い換えとして、清水先生による定義を読んでみると一つ気にかかるところがあります。
と非常に具体的な形になっています。
世間一般の用法として紹介される割には、議論のあり得るところで
「こういうのは多数派も少数派もない、学問の独立って話なんですが、多数派からの圧力は特に抵抗しにくいので」
というふうに説明するほうが世間の認識とあっているように思える。
とはいえ、ここまでならば、代表的な「外部からの圧力」を並べただけ、ただの例示ゆえに言い換えの範疇であり、辞書的定義のままだと受け取ることもできる。
ただ、ここで私が書きにくくて困ってしまうのが、清水先生が「具体的に」何を批判されているのかさっぱりわからないことです。詳しくは後の節でも取り扱います。
「現代の誰かが主張している「学問の自由の侵害」とは、〜〜だ」と、清水先生が定義していると読める箇所を、少し文言を修正の上、抜き出します。
見事にすべて 説得的定義 ですね。江口先生のブログで挙がっている
「中絶とは、女性を望まない負担から解放する安全な外科的処置である」
などと同じ形式となっている。
ただ、読みながら何を論じているのかわからなくなって辛くなってしまうのは、
中絶の例ならば、中絶の 辞書的定義 は共有されているという前提のもとで、 説得的定義 を用いているのに対し、
清水先生は、この文脈での「学問の自由の侵害」とは 辞書的定義 の学問の自由の侵害とは全く異なるものだと論じていることです。
(下の2節は「どう論じているのか」という細かいレトリックの解説なので
どう辛いのかについては、「批判対象の曖昧さ、具体性の欠如」でページ内検索してジャンプ。)
これらは学問の自由の侵害の定義として読むことができるものであり、
先に導入された説得的定義「社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立て」とは対義の関係にある。よって等号で結ばれることはありえない。
ゆえに、「従来から論じられてきた一般的な節(辞書的定義)」学問の自由ではない、という論証。
しかし、これはIAU声明にはなく清水先生が付け加えた箇所のはずですね。
先程はただの例示と見ればという限定をつけて辞書的定義と認めました。
逆に言えば、「そうでなかったら学問の自由でない」というふうに使うならば、もはや例示ではなく、清水先生の独自見解です。
すなわち、この時点で辞書的定義として導入された学問の自由という概念が
「学問の自由を〜と私は定義します!」という約定的定義へとすり替えられているのです。
一旦まとめると、
「よくわからないものを」「なんか悪そうに定義して(説得的定義)」、
「その悪そうな要素にぴったり当てはまらない要素を、一般的な定義の中に紛れこませる(定義のすり替え)」
学問の自由とは
「力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、 研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのもの」
まさに、
「うまい人びとは、前に書いた辞書的定義や約定的定義や明確化定義や理論的定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます」
そのものですね。
この一節は憲法学の理論を援用しているため、少し強引ですが理論的定義を示したものとも言えるでしょう。
実際、この定義を根拠に「学問の自由の侵害」を「なんか悪そうに定義した」説得的定義に対し
これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
なぜかけ離れているのかというのは詳しく述べられていませんが、
要は憲法学の理論「憲法は原則としては国家権力を監督するものであり、私人間効力の議論も私人相互に大きな権力差がある場合の話である」という話でしょう。
権力差をどう捉えるか、例えば「学界から事実上キャンセルできたというのは、権力差があったといえるのではないか」というのが憲法上の論点になるわけですが、
そこを 説得的定義 から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図でクリアするわけです。
ここまでいろんな種類の定義を用いたレトリックが使われてきましたが、
正直なところ、説得的定義から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図を用いた時点で
直感的にはそれは学問の自由ではないでしょうという話になります。
ゆえに最も問題になるのは、そう定義されるのが具体的になんなのかです。
清水先生は「こういった言説が具体的にどう現れてきたのかご説明したい」と30分近く説明してくださっているのですが、
書き起こしを全文検索してもらえればわかるのですが「学問の自由」を直接的に濫用している例として挙げられているといえるのは、
Horowitzによる、Academic Bill of Rights (ABOR) のみです。
ほか間接的な繋がりとしては「ポリティカル・コレクトネス」「キャンセル・カルチャー」の事例が話されているのですが
これも抽象的な定義の操作に時間を割いていて、具体的な文脈はほぼない。学問の自由とどう関係するかも全くと言っていいほど書かれない。
詳しくはそれぞれをどう定義しているのか、という点を検討する必要がありますが、
これは別の記事「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセル・カルチャーってなんだろう」に譲り、
当記事「(1) 学問の自由ってなんだろう」では、直接的な例、ABORに絞ります。
清水先生はABORを曲解して参照しているのではないか、という指摘もあるのですが、
とりあえずここは論点にせず、清水先生の解説をそのまま採用します。
ABORの主張は、
「ナチスの政治哲学の擁護であるとか、あるいは進化論の否定であるとか、 そういうものを学術的に正当な主張の一つとして教えるべき」
「ナチス肯定論文を学問の自由で擁護することはできない(マルコ・ポーロ事件)」じゃないですよ?
むしろ、何が相手だろうと自由であると肯定する、過激な自由論者ほど否定する内容です。
「大学でナチスの擁護を正当な主張の一つとして教えるべき」、自由でもなんでもないじゃないですか。
まとめると、
最終的には、そして本質的には、清水先生は「学問の自由」について議論の余地のないことしか言っていません。
じゃあなんで議論になるのか。
清水先生の立場からすれば、「学問の自由」の濫用だと当然問題視しているであろう例が
清水先生にとって非常に身近な例であるはずのそれは2例あります。
このちょうどいい2人については講演では全く触れない。
特に後者の呉座先生については質疑応答で「学問の自由」を求めている人として名前が挙がったにもかかわらず、
「ちょっとわからない」「詳しくない」「法律の専門家ではない」「裁判をはっきりきちんと見ているわけではない」「労働争議であって学問の自由ではないんじゃないかなぁ」
との返事。
「そうです。呉座さんの事例こそが私が批判した「学問の自由」の濫用です」ではなく「詳しくない」。
訴訟の原告の1人であるからには詳しくないわけはないのですが、文字通り解釈するならば
この「学問の自由」の濫用批判において、呉座先生の事例は検討すらされていない、ということになる。
またこの回答の続きとして、呉座のことを言っているわけではないという注釈付きで、「学問の自由では擁護できない」例が出されました。
せめて多少は「学問の自由」と文脈がつながるように「酷いセクハラ・パワハラを長年犯してきた超一流哲学者が大学から追放されたことを、学問の自由で擁護はできない(ジョン・サール事件)」くらいにしましょうよ。
文脈がわかるくらい解説をつける具体的な例については、当たり前を超えてもはや関係のない例しか出さない。
それでいて、批判対象に対して一般に共有されるような辞書的定義には触れないで、
何を批判しているのかも厳密には不明確なまま、説得的定義に対する抽象的な定義操作を元に議論を行う。
自民Twitter炎上で注目 「ダーウィンの進化論」とは:東京新聞 TOKYO Web
ダーウィンは「生き残ることができるのは変化できる者である」とは言わなかった。英語で流布しているのはこうである。
It is not the strongest of the species that survives, nor the most intelligent that survives. It is the one that is most adaptable to change.
The evolution of a misquotation | Darwin Correspondence Project には、この誤った引用の由来が解き明かされている。これをうけた日本語の記事もある。
じつはこれはダーウィンの言葉ではない。彼の考えでさえないのだ。科学史家の調査によれば、これは元々1960年代に米国の経営学者レオン・メギンソンがダーウィンの考えを独自に解釈して論文中に記した言葉であった。それを他者が引用を重ねるうち少しずつ変化して、最後にダーウィンの言葉として誤って伝えられるに至ったものである。
では、どういう考えを解釈していたのだろうか。すくなくとも、こうは書いている。
ある土地にすむ生物の多くが変化し改良されているとしたら、競争の原理と生物相互の関係をめぐる重要な原理により、あまり変化せず改良されなかった生物種は消滅させられる定めにあることが理解できる。そういうわけで、長い目で見ると、同じ地域にすむすべての種はなぜ最終的には変化するのかという理由がわかってくる。変わらない種は絶滅してしまうからなのだ。(強調引用者)
原文では
When many of the inhabitants of any area have become modified and improved, we can understand, on the principle of competition, and from the all-important relations of organism to organism in the struggle for life, that any form which did not become in some degree modified and improved, would be liable to extermination. Hence we see why all the species in the same region do at last, if we look to long enough intervals of time, become modified, for otherwise they would become extinct. (強調引用者)
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3186s
53:06~57:07
David Horowitz, Academic Bill of Rights (ABOR)
ポリティカル・コレクトネスを巡って提示されたこの図式、
すなわち既存の差別や抑圧への批判を、それこそが自由の侵害であるとして批判し返すというこの図式は、
この後現在に至るまで、とりわけ大学を中心に学問の場において着々と展開されてきています。
例えばDavid Horowitzによる、学問の権利法案ABORというんですが、
これは、学問はあらゆる問題について政治的に中立の立場を採るべきであり、
学問の自由とはそのようにして常に複数の観点が提供される環境において成立する、というふうに主張します。
これだけ見れば、これだけ見れば、リベラルな多文化主義的な主張かなっていうふうに思いかねないんですが、
Horowitzの主張は、これが先ほどの庵逧先生のご発表ともちょっとつながるんですけど、
それが当代の学術領域において、どれほど学問的に反駁され否定されているものであろうと、
特定の問題について異なる見解があるならば議論の双方の側を教えるべきであると、
実際にそういうような授業になっているかどうかを、
授業内容を調査する仕組みっていうのを大学は作るべきだ、いうふうにHorowitzは主張する。
このABORの問題を、アメリカ大学教授連合AAUPというところが問題点を指摘する声明を出しているんですが、
そこで述べられているように、これは学術的知見の蓄積に裏付けられた主張であるか否かにかかわらず、
例えばナチスの政治哲学の擁護であるとか、あるいは進化論の否定であるとか、
そういうものを学術的に正当な主張の一つとして教えるべきだと、そういう議論なんですね。
だから何が学術的な裏付けのある議論であるかについて、学術的コミュニティで蓄積されてきた知見を認めないという点において、
ABORは「学問の自由」を唱えつつ実態としては学問の自由を侵害している、いうふうに言うことができる。
Turning Point USAによるProfessor Watch List (2016)
「リベラル/左派の横暴に支配された大学において、差別されている保守派学生を守る」
「差別や抑圧への批判や対抗の言説が、その言説に同意しない(差別的、抑圧的な)主張をする自由を抑圧し、そのような考えを持つ人々を差別している」
ABORは、リベラルあるいはレフトの価値観に大学が乗っ取られていると、だといいなと思うんですが、
でも大学は乗っ取られてる、それと異なる、つまり保守派の主義主張の学生や研究者の「学問の自由」が侵害されているから、
それを守らなくてはいけないという構えを取っています。ただこの構えが実はただの口実でしかない。
「学問の自由」というのがここでただの口実でしかないことは、例えばもっと後2016年にTurning Point USAという、
これ、学校とか大学で保守派の価値観を擁護・推進することを目指すアメリカのNPOなんですが、
そのTurning Point USAというのがProfessor Watch Listというのを作ってまして、これを見るとよく分かる。
Professor Watch Listは、
教室において保守派の学生を差別し左派プロパガンダを推進する教員を暴き記録するということを目的としています。
このリストは、リストに加えられた教員とか研究者あるいは大学へのメールなどでの攻撃というものも当然誘発することになって、
先ほども出てきましたアメリカ大学教授連合AAUPは、このリスト自体が学問の自由への脅威だというふうに批判している。
ABORから10年以上が経って出てくるProfessor Watch Listというのは、
ABORとは異なって、最初から「学問の自由」というのを活動の根拠として打ち出してないんですね。
にもかかわらずそれ以外の点つまり、リベラル左派の横暴に支配された大学において、
差別されている保守派の学生を守らなくてはいけない、これが「学問の自由」の擁護であると、
そういうふうにABORはなるんですけど、でもその構えというのはそのままABORから踏襲されてる。
ブッシュ・シニアのミシガン演説を思い出していただけるといいんですけれども、
差別や抑圧を巡るこういう逆転の構図っていうのが、ここでは非常に重要な働きをしている。
ポリティカル・コレクトネス論争からProfessor Watch Listまで、30年近くあるわけですけど、
「学問の自由」というのがどう使われてきているのかというと、差別とか抑圧への批判あるいは対抗の言説が、
その言説に同意しない、つまり差別的あるいは抑圧的な主張をする自由というものを抑圧するんだと、
そういう考えを持つ人々を差別するのだという形で抑圧側と被抑圧側を逆転する、ある種支点の働きを担ってきたわけなんですね。
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
それが間違っていたと判った時に、
内容を捨てたり変更したりするプロセスを内在しているかによる。
科学合理性に基づいて行動する人は、もちろん間違うことがあるし失敗もするが、失敗後やり直したときに自分の行動を変更する可能性が高い。
オカルトや宗教に基づく人は、生きているうちに己を変えることが無い。解釈によって現実のほうを変更したり、自分以外の非敬虔なやつらのせいにしたりしがち。
反宗教主義といって、そういう観点から宗教を批判している一派がいて、言ってること面白いぞ。
パロディ宗教はカルトっぽい雰囲気を出してカルトを嘲笑するって文化があったり、政教分離がなされるべきシーンで政教分離がなされていない場合は明らかにパロディ宗教だとわかるのにそのパロディ宗教の敬虔な信者だと名乗って宗教を優遇する政策を止めたりする活動がある
パロディ宗教の代表格スパモン教はオレゴン州教育委員会が公立学校で進化論と並行してインテリジェント・デザイン説(知的存在=神が創造した)を教えようとする動きを見せ始めたことで、それに反発したボビー・ヘンダーソンが中心になって成立
ここでいう知的存在=神とは一神教の神すなわりキリストなので、キリスト教を元に酷似した神話や教えを持つ宗教としてスパモン教は作られた
つまりインテリジェント・デザイン説を肯定すると創造者はキリストではなくスパモンである可能性を否定できなくなるというわけ
今回のEmacs教会もまた、わざとカルトっぽい雰囲気を出してカルトを嘲笑しつつ、実態は政治や宗教から最も遠い位置に居るボランティア集団であることがわかるっていうレトリックだな
プロジェクトヘイルメアリー、星を継ぐもの、バビロニア・ウェーブ、天冥の標、息吹を読んで、今は果てしなき流れの果に、を読んでいる。
ランキングみたいなものを検索してみても似たりよったりのちょっと古い作品ばっかり
予想を超えるSF読者先輩様方からのコメント、ありがとうございます
自分の考えるハードSFが分からんとのコメントがあったので...
自分にもハードSFが何なのかよくわかってないが、空想科学の裏付け感が強くあるみたいな感じかなぁ
実際には、「読んで面白かった作品の作家がハードSFというジャンルで紹介されていることが多かった」、と帰納的な感覚でハードSFって呼んでるところがある。
星を継ぐものは進化論とかの話で「ああ自分も知ってる気がする!」となりながら一緒に考える気になるのが面白かった。そうなるとミステリー的な楽しさか。
バビロニアウェーブは解き明かすというより舞台装置としてあるって感じだったけど、人間の未知との向き合い方にリアリティとロマンを感じた。
三体は普通に映画みてるみたいだったな。暗黒森林理論とかなるほど感があった。それと、三重振り子的なカオスが天体規模のものに適用されるとこうなるみたいな発想が面白かった。
ブクマの米にもあったけど、天冥の標が他と比べてソフト気味というのもそうだと思う。ただ天冥はサーガ感がすごい良かった、でかい物語感。キャラが分かりやすくて入りやすかった。
息吹は宇宙モノじゃないけど、人の心みたいなのが表れてると感じて、それが良かった。特に息吹は命とは何なのか?を考えさせられた。
実際の科学(あるいは説得力のある架空理論)が下敷きに置かれたファンタジーって、ともすればこの世界もこうなる可能性があるのかもしれないみたいな感覚になることがあって、
そういう物語を経ると世界とか命とか自分について問い直すことがあって、その体験が得難い...自分の求めるSFってハードかどうかに限らずそういうものかもしれません(わかりません)
間違い。BLは専門家も認めるポリティカリーにコレクトな表現です
溝口 BL作家のすごいところは、ゲイの人に気を遣ってとか、ゲイの人に一生懸命たくさん取材をして、というわけではない人がほとんどで、自分たちの楽しみを追求しているだけ、という人が多いのに、それでも、リアルなゲイの方から見て、ポリティカリーにコレクトな表現にたどり着いている人が大勢いることです。
大学非常勤講師。ビジュアル&カルチュラル・スタディーズPhD。著書『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』(2015)、『BL進化論〔対話篇〕 ボーイズラブが生まれる場所』(2017)が2017年度「Sense of Gender」賞特別賞受賞。
これね。
数年前の話になるけど映画「スカイスクレイパー」が公開されてた時に「ロック様とネーヴ・キャンベルの子役二人が黒人なのはおかしい。話の中でもこどもが養子だという説明もなかったし不自然」とかツイートしてる人がいたんよ。
あのー、ミックスレイスでも養子でも家族はただの家族ですから。家族の人種構成はストーリーとは何の関係もないんだからむしろ説明する必要がないわな、と思ったよね。
(海外)映画好きにありがちなんだけど「自分はこんなに詳しい。コレの本当の意味は......」とか言うのに夢中で「外国の物事をその国のものとは違う常識で判断している自分」に気が付かないんだよね。自分は人より詳しい、と思ってるから余計に。
だから、自分の言ってることは自分の偏見に基づいたものだ、ということが理解できない。
そりゃあ視聴者の一部には美女レズカップル好きもいるだろうし(それはたぶんアメリカだけではないしアメリカ人全部がそうではないよね)制作側にもそういう思惑はあったのかもしれない(なかったかもしれない)。でもたとえそうでも、類似の例をいくつメディアの中に見つけることが出来ても「その国では同性パートナーを公にしている人、人種の異なる家族は普通にいるし、だからドラマの中にいてもリアリティがある」のは「ちがいます。」とはならないんだよ。それは「違わない」の。
それにね、「社会の中に同性カップルが普通に見られる」ことと「進化論を否定する人がいる」「『聖書は同性愛を禁止している』という人がいる」「トランプが大統領に選出された」「黒人に平然と暴力を行う人がいる」は全部それぞれ別のことだよね。トランプ以外は日本にも(他の多くの国にも)当てはまるし。
それで「人権とか根っこの部分で、驚くくらい日本より遅れてることも多い国じゃん。」とか言われても「それってあなたの感想ですよね」としかならないよね。
だいたい元々の増田は「登場人物のカップルがたまたま同性。それだけ。あー、普通なんだ。と思った。」といってるだけで誰が誰より「人権とか」進んでるとか遅れてるとか言ってないよね。
「日本は遅れてる」と思ってるのは誰なんでしょうねえ? 誰かそんなこと言ってましたか?
自分の知らない異文化に触れる時に本当に大事なのは「自分は知らない」ということを自覚することだと思うよ。
「自分は知らない」ことを知っていれば新しいものを見た時にそれは「自分の知らないものだ」ということに気付くことが出来る。
「自分は知ってる」気になっていると新しいものを見た時にそのことに気付かない。そして知らないことを「自分の知っていること」の範囲内で理解しようとする。その結果として自分の理解が間違っていてもそのことに気づかない。
その理解する過程に「相手をどうにかして貶めたい」という感情が入り込んでいるともうどうにもならない。
もう初めからその理解が間違っていることは確定したようなものなんだけど、間違った方向に理解していくのを自分で止めることは出来ない。
あと本筋とは関係ないけど、大統領選挙は国民投票じゃないから(笑)
感情的になってないことないこと書いてると自分の偏見だけじゃなくて無知も出ちゃうよね。ポロッ、と。
くわばらくわばら
ちがいます。
ERでもフレンズでもレズネタが出てきたし、ドラマでレズが出てくる時、圧倒的に多いのは「白人で美人タイプ」でしょ?
統計を取ったことはないけど、「レズのキスシーン」の方が何倍も「ゲイのキスシーン」より多いと思うんだよね、体感的に。
キラキラしたイケメンのゲイキャラは登場しても、性的に描かれるのは断然レズキャラ。
多様性の尊重じゃなくて、本当に単に「美人のレズが見たいだけ」なんだよ。
何せゴリゴリの保守で有名だったFOXのドラマでも、白人の美人レズネタは出てくる。
向こうの有名なネットミームに「gay moment」(gayは同性の意味でレズにもつかう)ってものがあって、それだけレズファンがいる(またはそれを狙った制作者のあざとい展開に「辟易としてる」)ってこと。
後からキャラクターの性的志向を無理やり変えて、それに何の意味があるのか?って。
創作物に同性愛者が出ることが大事〜って理屈なら、グレーなキャラに白黒つけろ(レズにしろ)って要求はそもそも「アウティング」の強要に繋がる考えじゃないの?って。
君たち、セクシュアリティを全然尊重してなくない?って、普通は疑問に思うでしょ。
あれも、実は「レズものが好き」なやつらにとって、エルサってキャラが「ビンビンにレズ妄想に合致した」ってだけの話なんよ。
マイノリティ当事者とかキャラ本人のセクシュアリティのことじゃなくて、自分たちが楽しむためにキャラをレズにしろ、という要求を「ポリコレぶって」無理強いしただけなんだよ。
こんな感じで、アメリカドラマにレズが多いのは先進的だからとか多様性なんかじゃなくて(それも多少あるにせよ)、あれは単なる性的嗜好でしかない。
製作費に出資する側も、そうすれば評価と売上の両方が得られるから、みんなそういう流れになってる。
資本主義は正直だよ。
未だに進化論を否定して「聖書は同性愛を禁止している」って叫ぶ奴が半分いる国だし、国民投票でトランプが大統領になる国だし、黒人への暴力が平然と行われてる国だし。
人権とか根っこの部分で、驚くくらい日本より遅れてることも多い国じゃん。
何でもかんでも「先進的」なわけじゃないんよ。
嗜好を満たしつつ「多様性を重んじてるフリ」ができるから、(美人の)レズは「ポリコレ業界」では重宝されてるわけ。
アメリカのゲームは先進的~とか言う人いるけど、「クィア系の女キャラ」はかっこよくて奇麗な(男からも女からも人気が出る)デザインが多いからね。
エンターテインメントなんだから、本来それが正しいことだと思うけど。
ネタバレになるけど、何を隠そうパーソンオブインタレストこそがそういう「美人のレズカップルネタ」で人気を稼いだ作品なんだよね。
今後、露骨に美人レズ二人の恋愛がピックアップされた話になってくよ。(黒人女警官は、さてどうなるでしょう?)
多様性じゃなくて、BL(の逆)みたいな「嗜好品としてのレズ」なのがよーーくわかると思う。
美人のレズが出たら視聴者としての自分は嬉しいけれど、少なくともこれをポリコレだとか先進的と呼ぶことには抵抗があるし、しなければいけないと思う。
このニュースについて。
ウーピー・ゴールドバーグさん ホロコースト発言で出演停止に | アメリカ人種差別問題 | NHKニュース
私は増田ではホロコーストオタクとして有名な人だ(自分でそう思ってるだけだ)が、ホロコーストって調べれば調べるほど深くて広くて細かくて、どんなに学んでもその難しさが一向に消えないくらいの難しさがある。どっかで読んだ話では、どんな歴史学者でもホロコーストの全てを知ることは無理と言われるくらいだ。
私のホロコーストに対する関心部分は偏っていて、否定論にあり、否定論の理屈を反論・批判する部分に特化しているわけだけれども、ホロコースト否定論の中心となっている欧米の否定論者は否定論を主張することを商売にしているプロなので、情報量があまりに多いため、それを調べて反論する方も大変である。欧米にはそれを細かく反論する人たちもいるので、そこを参照すれば済む部分も多く助かってはいるが、一方で知らないことも多いのでその否定論に対する反論の内容がよくわからない、みたいな悩みもないわけでもない。
そのホロコースト議論(否定論に関係ない部分も含め)で難しい部分は色々あるが、当時の一般的な認識を理解するのが難しいというのがある。何故、ナチスドイツ=ヒトラーは「ユダヤ人」を絶滅させようとしたのか? は、簡単なようでこれに答えるのはなかなか難しい。
この問題については、様々な角度からの検討がなされており、現在では明確なユダヤ人絶滅計画はそもそもなかったのではないか? とすら言われているようでもある。否定論者がうるさく言うように確かにヒトラーのはっきりした命令書や、ユダヤ人絶滅を命じたと言う明確な証拠は残っていない。もちろん、間接的な証拠はいくらでもあることは言っておかねばならないが、ユダヤ人問題の最終的な解決を最初に言い出したのがヒトラーではないことだけは確かなのである。
「ユダヤ人」って、何かわかりますか? これ、なかなか簡単に説明するのは難しいのです。単純な説明だと、ユダヤ人=ユダヤ教徒、でありそう思っている人も多いだろうし、間違いでもありませんが、ナチスドイツは「ユダヤ教徒=ユダヤ人」とは見做さなかった、と言われたら「え?」となる人もいるのではないでしょうか。ナチスがドイツの政権を獲得して2年後に発布された「ニュルンベルク人種法」、すなわちユダヤ人の公民権を明確に剥奪した悪名高い法律にはこう書いてあります。Wikipediaからコピペします。
4人の祖父母のうち3人以上がユダヤ教共同体に所属している場合は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」[18][16][3]。
4人の祖父母のうち2人がユダヤ教共同体に所属している場合は次のように分類する[18][3][16]。
ニュルンベルク法公布日時点・以降に本人がユダヤ教共同体に所属している者は、「完全ユダヤ人」
ニュルンベルク法公布日時点・以降にユダヤ人と結婚している者は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
ニュルンベルク法公布日以降に結ばれたドイツ人とユダヤ人の婚姻で生まれた者は、本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
これを読めば分かる通り、ユダヤ教徒=ユダヤ人なのではありません。「本人の信仰を問わず」とはっきり書いてあります。この法律でこのようにユダヤ人の範囲が定められたのには理由があって、そもそもユダヤ人とは何か、定義すらなかったのです。そこで、「血さえ繋がっていたらユダヤ人だ」と極端なことまで主張する人も多かったのですが、そんなことを言い出すと、ユダヤ人の範囲が膨大な人口に膨れ上がり、影響が大きくなりすぎるため、その範囲をできるだけ狭めたのがこの定義です。野放図にユダヤ人を認めると百万人をはるかに超える人口になったのが、このニュルンベルク法の定義により77万人程度に収まることになりました。この定義でも、まだまだ十分ではありませんでしたが(有名なヴァンゼー会議では、その大半がユダヤ人の範囲について確認の話だったようです)、要するにユダヤ人をなんとかするべきと考えながら、ユダヤ人がなんであるかはっきりと知っていたわけではなかったのです。
自身の信仰を変える人はそうは多くないので、アバウトには「ユダヤ人=ユダヤ教徒」は遠からず合っているとは思いますが、少なくとも当時は人種、乃至は民族と捉えられており、ユダヤ人だけでなく、ロシア人はスラブ系民族、ドイツ人はゲルマン民族でありアーリア人などと、人種・民族として人間が区別されると考えられていたのです。この辺から話が難しくなっていくので、私にもそんな難しい話はできませんが、人種間で優劣があると考えられるようになっていたのです。その背景には、科学の発達があり、進化論があります。人種・民族の優劣は進化によって決定され、遺伝的なものであると考えられるようになっていたのです。広義的な優生思想ですが、狭義的には安楽死作戦(T4作戦)で障害者を殺したのははっきり優生学として考えられたからです。
そして、ユダヤ人達は歴史上、古くから色々と差別を受けてきたわけです。大きな話としてはキリスト教の発達と共に、ユダヤ人は社会的な差別を受けることが多くなりました。ユダヤ人が「ゲットー」に住まわせられたのはナチスドイツが初めてではなく、中世にもありました(ただしナチスドイツ時代ほど悲惨なことはなかったようです)。しかし、近世代に入ってユダヤ人に対しての偏見として大きな意味を持つようになったのは、ユダヤ人には富裕層が目立つことでした。これには理由があり、歴史的に金融的な仕事は卑しい仕事としてキリスト教社会では規制されていたのですが、ユダヤ人には認められていたからです。ところが、それによりユダヤ人(の一部)が富裕となると、資本主義の発展と共に、ユダヤ人の影響力が大きくなり、20世紀初頭、影響力の大きかった偽署『シオン賢者の議定書』に代表されるように、ユダヤ人が世界支配を企む陰謀者だのようなことまで言われるようになるのです。ヒトラーも相当程度、『シオン賢者の議定書』を信じていたとされます。そして、ドイツが第一次世界大戦に敗れ去って、不当に領土を奪われ、膨大な賠償金を課せられて国が酷いことになったのも、ユダヤ人のせいだと思われるようになったのです。こうした、社会的な悪影響をユダヤ人のせいにする考えは欧州では広く当たり前のように行われていたのです。ヒトラーもその一人だったに過ぎません。
ホロコーストが何故起きたのかについては、以上のような背景事情を認識する必要があります。だから、例えばユダヤ人を根絶させるためにユダヤ人に対する不妊治療まで行われました。ユダヤ「教徒」を問題にするならば、単純に日本がキリスト教にやったように禁教にして仕舞えばいいのですが、そんなことはしませんでした。ユダヤ人はあくまでも「人種」だったからです。ユダヤ人は特徴的な外見を持っており、当時はその外見的特徴をやたらに強調した差別広告も珍しくなく、またユダヤ人の識別図まで公式に作られたのです。これによって、ユダヤ人ではないのにユダヤ人と間違われて収容所送りになる人さえいました。ナチスドイツはユダヤ人排除政策として最初は、ユダヤ人のシオニスト(ユダヤ人の国を作るべきと考える人)と協力してユダヤ人のパレスチナ移住を推進しましたが、途中でやめています。何故なら、それではナチスの管理外にユダヤ人を温存させることになり、将来的な憂慮すべき問題として残ってしまうからです。イスラエルは欧州に近すぎると言うのもありました。だから、マダガスカル計画にように可能な限り遠くの土地に強制移住させることまで考えたのです。結果的には戦況の悪化と共にそれも不可能になり、ドイツ支配地域内で虐殺するしかなくなってしまいました。
それもこれも、ユダヤ人を人種として災厄の元凶=悪と考えたからです。未だにそのように考える人は後を立たず、反ユダヤ主義が絶えたことはありません。ウーピー・ゴールドバーグが番組を二週間出演停止になった理由は、人種問題が黒人・白人間にしかないのような印象を与えることを述べたからだとされているようですが、だとするならば、もちろんそんなことはありません。白人至上主義者の多いアメリカでは、同時にその白人至上主義者の多くは反ユダヤ主義者でもあり、ホロコースト否認論者もかなりいます。その根底にあるのはあくまでも、ナチスドイツと共通する「人種差別」であることは間違いありません。
個人的には、「人種」という考え方にはほとんど意味がないと思っています。不当な差別を生むばかりの概念であり、悪影響しかないのではないでしょうか? 極端な言い方ですが、人種が違っても、人間でありさえすれば基本的には交配が可能なわけですから、こうした「混血」の存在こそ人種という考え方は誤っている証拠ではないか? のようにさえ感じます。
身長差別(英: Height Discrimination)、あるいはハイティズム[1](英: Heightism)は、身長に基づいて個人を差別することをいう。原則として、身長がある集団内における通常の許容域に属さない個人に対して行われる差別的取り扱いに関する言葉である。
身長差別は、平均身長より大幅に背の低い男性に対して行われるのがもっとも一般的である。また、こういった差別は一般的に受け入れられ、無視されている[2][3]。高身長の女性の中には、身長を小さくするため、多量のエストロゲンを使う人もいる[4]。
研究によれば、人間の脳は身長を社会的ステータスや健康状態を見極める指標として用いている傾向が確認できる[5]。脳は自動的に身体のサイズを、リーダーとしてのポテンシャル、権力、強さ、知性と結びつけている。この効果は生後10ヶ月ほどの幼児にも見受けられた[5]。身長は、ある個人の栄養状態が良いことや、高い社会的ステータスを持っており、したがってリソースを幼児に供給してくれることを示す指標となっているからだと、進化心理学者[誰?]は理論づけている[5]。また、身長は他にも一般的な健康や身体的な強さをも示すが、後者は支配力を行使する上で有用になりうる[6]。前述の特徴と身長の自動的な連想は、女性を評価するときよりも、男性を評価するときに、より強くなると見られている[5][6][7]。
ある研究によれば、環境要因を排除した場合の身長の遺伝率は55.4%(標準誤差は4.4%)であるという[8]。
"ハイティズム"という用語は、社会学者であるSaul Feldmanが、「The presentation of shortness in everyday life—height and heightism in American society: Toward a sociology of stature」と題した論文で用いたのがはじまりである。この論文は1971年に開かれたアメリカ社会学会(英語版)で発表された[9][10]。ハイティズムという用語は『Second Barnhart Dictionary of New English』(1971年)にも掲載されており[11]、1971年発行のタイム誌に掲載されたFeldmanの論文によって広まったとされる[12]。この単語は、「接辞の変わった用法」を通じて新しい単語を提供するタイム誌の慣習の一つの例であるといえる[13]。ただし、タイム誌自身は、この単語が1991年版の『Random Webster's College Dictionary』に収録されるのに反対していた。彼らは、『ランダム・ウェブスター』を「読者の気分を害さないように必死で、良い用法だけをのせる」、「疑問符が浮かぶような数多くの用法に権威を与えるが、そのうちの多数はポリティカル・コレクトネスの考え方に染まっている」辞書の例としてあげている[14]。 ハイティズムという語句は、セクシズムという語の用法を模倣するような使い方、特に偏見や差別に関係した使い方が増加していることの一つの例として見ることができる[15]。
ハイティズムはデートでの選好においても一つの要素となる。身長が、性的魅力においてもっとも大事な要素だという人もいる。
高身長の男性の方がかなりの程度生殖に成功しやすいという事実は、高身長男性がより結婚しやすく、より子供を持つ可能性も高いことを示唆する研究により証明されていた。例外は、戦争などで著しく男性が少ない社会だけだ[29]。しかしながら、最近の研究では、この理論に疑問符をつけるものも多くなっており、身長と子供の数の間にはなんの関係もないことがわかっている[30]。さらに、脚の長さや脚と体の比率に関する研究では、高身長の配偶者に対して著しい選好がみられるという考え方と対立する結果が出ているという。2008年の研究では、高身長にしろ低身長にしろ、極端な場合は魅力が減るとの結果が出ており、2006年の研究では、脚と体の比率が低い男性と比率が高い女性は美的アピール度が増してみえることがわかっている[31][32]。進化生物学的観点からいうと、これらの発見は身長と健康に関するデータと一貫性があるといえる。したがって、生物学的論拠、もっと具体的に言えば、背の高い配偶者への選好に関する進化論的論拠は疑わしく、具体的なエヴィデンスを欠いている。また、Journal of Family Issuesに発表されたある研究では、高身長への選好は進化論的なバイアスというより、社会的期待によるものだと示唆する証拠も見つかっている[33]。
行動経済学者のダン・アリエリーの研究によれば、アメリカ人女性は高身長男性とデートすることに対して並々ならぬ選好をみせ、低身長の男性が魅力的と判断されるには、高身長男性よりもかなりの額を稼がなければならないという[34]。また、オンライン・デーティングを研究する社会科学者によれば、男性も身長の低い女性を好むとされ、実際に低身長の女性と高身長の男性はより多くメッセージを受け取る傾向にあった[33]。ただし、女性は高身長の男性を理想とするが、実際のヘテロカップル間の身長差は、理想の身長差ほどは開いていないこともわかっている[33]。
2012年に行われたある研究では、男性も女性もトレードオフの手法を用いて身長差について妥協しようとしていることがわかった。男性は妻よりも1%高い賃金を稼ぐことで、1.3BMI分を埋め合わせている可能性があり、女性は高等教育を1年多く受けることで、2BMI分を埋め合わせている可能性がある[35]。さらに、2015年の研究では、男性も女性も高身長の配偶者を持つことで、利益を得ていることがわかった。夫の側では、妻の身長と相互関係にある優れた点、たとえば教育知識などに起因する長所を得ることができる。妻の側でも身長の高い配偶者を求めているが、これは高身長者は高賃金を得やすいからである[35]。また、全米経済研究所の調査によれば身長の低い男性は、若いが著しく教育水準の低い女性と結婚する傾向にあったという[33]。
それでもなお、ポスト工業化社会における文化的レベルでは、身長と魅力の間の社会学的関係は存在するといえる。この文化的特徴は、一方で近代化した世界には適応することができるが、他方では超自然的な人間の本質というわけではない[36]。ヘテロ女性の出会い系サイトでの行動に関する定量的研究では、高身長男性に対する著しい選好が示され、女性の大部分は平均よりもかなり身長が低い男性を受け入れないことが示された[37]。フローニンゲン大学とバレンシア大学での研究では、魅力があり、肉体的に優位で、社会的に力を持つライヴァルに対してもっとも不安を感じていた男性は、自分たちの身長が高ければ高いほど、嫉妬を感じにくかった[38]。この研究では、ほとんどの女性は他の女性の身体的魅力に嫉妬を感じていたが、中ぐらいの身長の持ち主はほとんど嫉妬を感じにくかった[39]。オランダとスペインの研究者によって作成された報告では、平均的な身長の女性はもっとも繁殖力が強く健康的な傾向にあるから、似た特徴を持つ女性に対して脅威を感じにくい傾向にあったと述べられている[40]。
アメリカ精神医学会の公式月刊誌である『American Journal of Psychiatry』に発表された調査結果によれば、スウェーデン人男性では身長の高さと自殺率の高さに強い負の相関関係があることがわかった[48]。これは、成人男性の精神障害の原因に子供時代から晒されていることの重大さの表れかもしれないし、低身長の男性が成人になってから生活の中で直面するスティグマや差別を反映しているのかもしれない[48]。1,299,177人のスウェーデン人男性を18歳から、最大で49歳まで追跡し、出生、徴兵、死亡率、家族、戸籍などのデータのレコード・リンケージ(英語版)による研究を実施した[48]。すると、身長が2インチ(5cm)増加すると、自殺のリスクが9%低下することがわかった[48]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BA%AB%E9%95%B7%E5%B7%AE%E5%88%A5
よくネットとかでも、批判や詰りの文脈で「自分の頭で考えろ」みたいな言い方をよく見るけど、
言うほどみんな自分の頭で考えてるか?
結局、情報の取捨選択をするうえで、何にプライオリティーを置くかって話だけど、
案外みんな権威主義的に生きてんじゃないのっていう。
世の中、自分の頭で完全に理解できることなんてたかが知れてるし、
世間の出来事に何か判断するにしても材料が揃ってることの方が少ないし、
結局信じたいものを信じて生きているだけなんじゃないの?
お前らは天動説を信じて生きていたあの時代の大多数と同じなんじゃないの?
本当に自分の頭で考えて、「地球は動いている」と言っているやつのことなんか、馬鹿にしていたタイプなんじゃないの?
そして今、「地球は動いている」と信じているのも、結局世間でそういうことになってるからそうなんだろうと思ってるだけなんじゃないの?
進化論だって、相対性理論だって、世間の大多数がそうだと言ってるから、偉い人がそう言ってるから、そうだと信じてるだけなんじゃないの?
お前ら、本当に自分の頭で考えてるの?
恐らく、優生学とはなにか、のところが曖昧だから解説にたどり着いてないところがある。
そして科学でないことが優生学が誤りである理由の大部分である。
ナチス政権は、当時、「最新の科学と合理性に基づいて政策を進める」と標榜していた。その「最新の科学」の筆頭が優生学であったのだが、実は優生学は科学的根拠に乏しく、今でいう俗流進化論の水準にも達していない。当時からしてもすでに素人っぽい勘違いや都合の良い前提を数多くの含むものであった。
科学ではないので、科学として優生学の誤りの詳細を検索しても、大して詳しい解説は出てこない。それが主に語られているのは、文系科学の分野だ。学問ではないので、単語としても、優性思想、とか使う。
ナチスがなぜ誤りだったのか、みたいな歴史分析の本を探すのが近道だろう。
一番大きいのは、自然界は弱肉強食である、という素人にありがちな勘違いを採用していること。
優れた遺伝子を持った人が優れた子供を残せば反映するであろうそれが進化だ、とかいう考えが根本にある(そしてなぜかアーリア人が優れていてユダヤ人が劣っているとかいう話にする)。
これが明確に間違いで、自然界は弱肉強食ではなく、適者生存である。ライオンやゾウであっても滅びるし、アリやミジンコであっても繁栄する。また、アフリカで繁栄したアリンコをヨーロッパに運んで来たらそれだけで滅びる。兵士に適した遺伝子を持った国民が増えたら、農業が壊滅するかもしれないし、パソコンの天才になる遺伝子を持った人は、ナチス当時は無能以外の何物でもなかったかもしれない。万能の天才になる遺伝子は、伝染病に抵抗できない特性を同時に持つかもしれない。
つまり、優れた遺伝子、などと言うものはない。何が優れているかは場合による。
それは当時の進化論でもすでに判っていたが、ナチスはそれを判ってなかった。科学を判ってない奴らがぶち上げたのが優生学という訳だ。
ナチス以前にも、類似の発想がずっとあり、差別に活用されてきたからだ。
これは20世紀よりも更に前にあった科学分野だ。頭蓋骨の大きさが判れば、脳の大きさがわかる。脳が大きいということは賢くて優秀である。そして、白人の頭蓋骨は大きく、黒人の頭蓋骨は小さい、という話だった。実際には、そんな事実はなく、骨相学の専門家はわざわざ頭の大きい白人と頭の小さい黒人の頭蓋骨を一生懸命に探し出して、それをデータと称していた。そんなこんなでブームは消滅し、いまでは疑似科学とされているのだが。
つまり、差別に科学(っぽさ)を利用するという発想は、優生学以外にも普遍的だし、常に行われているのだ。
それ故に、科学っぽい差別言説を言おうものなら、「てめえ例のイカサマをしようとしてるんじゃねーだろうな?」という目を世間から向けられる。母さんオレオレ、オレだけど、みたいな電話が家にかかってきたときの感じに近いかな。