はてなキーワード: 腕力とは
そうやって自分の気に障った見ず知らずの人間が不幸になると想像して気分良くなるのって
暴力で不当に他人をコントロールするクズから腕力をリジェクトした残りカスみたいな
この世で一番みじめな生き物だと思うの
とにかく意味もなく殴られ、容姿や喋り方をからかわれ、荷物を隠されたり、机に花瓶を置いて葬式ごっこをされたり、給食を捨てられたり一通りの仕打ちは受けた。
俺は弱かったからいつも負けたけど、時には泣きながら口では反抗していた。
とか
「一生恨んでやる!」
とかそんな感じだったような。
とにかく腕力では勝てないから、泣きながらそんな泣き言を言い返していたような気がする。
高校卒業後、俺は地元を出て都内の専門学校に通いそのまま都内で就職した。
地元ではそんな扱いを受けていたから成人式で帰ったきり、ほとんど子供の頃の友達には会わなかった。
29で結婚し子も授かり、40代となった今ふとそのいじめられていた頃の記憶が蘇った。
あいつら今何しているんだろう?
幸いにも俺はつらい経験をしたがそれがフラッシュバックするような心の後遺症はなく、今が充実しているしわざわざ思い出すこともないことだと気持ちに折り合いをつけられていたのかもしれない。
成人式の時も含め同窓会の類は一切不参加だったが、一回くらい行ってみるかという気分になった。
フェイスブックで高校の友人の名前から検索すると小中時代の名前が少し出てきた。
その中でも比較的俺へのいじめには関与していないがお互い名前は知っている程度の実家が近所の同級生に軽い気持ちで友達申請を送ってみた。
返信はすぐに来てDMをやり取りするようになった。
「〇〇たちってどうしてる?」
俺がいじめを受けていたことは公然の事実であり、〇〇の名前を出すことでその子も返信しづらいであろうことは分かっていた。
しばし間をおいて「実はね・・・」という返信に書いてあった事実に俺は衝撃を受けた。
俺をいじめていたグループは〇〇を中心に4人いたのだが、なんと〇〇を含むそのうち3人がもう故人となっていた。
〇〇は数年前に自死。
あとの2人は20代の頃に同乗していた車の交通事故で亡くなったとのこと。
4人ともクラスの中心的な人気者で、てっきり同窓会でも張り切っているのかなと思ったがまさかのことだった。
残り1人も俺と同じく(笑)音信不通だったのでどこに住んでいるのかも分からないという事だ。
そして同窓会も久しく開催されていないらしい。
俺くんが元気で良かった。
今はこうやってSNSで簡単に連絡が取れるが、もしネットもろくにない時代だったらどうだろう。
同級生ならみんな知っている俺が4人にいじめられていたという記憶。
俺の両親が早逝している事情もあり音信不通の俺の情報を知る手立てはほとんどない。
こんな事があったら同級生の間だと「俺くんの呪いだ」とかそんな風に悪く言うやつもいるかなぁと想像してしまった。
怨霊の正体ってこういう因果の関係で勝手に生まれるものなのかもしれないなぁと思った。
でもまああれだ、まだどこかで元気に生きていると思う(願う)M田くん。
俺は元気です。
なんかブクマ集めてるけど、納得できないわ。
だって現実では、かわいそうランキング(権力勾配認定)でそんなにかわいそうじゃないとされてる奴らへは、嫌悪の公言すら許されてるじゃないか。
君がトラバで書いた内容は、「心の中で嫌う自由と、その嫌いを公言する自由は別で、公言する自由は制限されるから気を付けよう」ということだと理解した。
これが、現実で一律に通用してるルールならある程度頷くけどさ。というか昔は俺もそのシンプルな切り分けに頷いてて、他人をその理屈で説得しようとしたことすらあったけどさ。
でも実際には、あいつらに対しては嫌悪を表明してもよい、と扱われてる対象が沢山いるじゃん。
サムいダジャレをいう奴、仕事ができない奴、コミュ障アスペ傾向空気読めないオタク、チンピラ、ホスト、ロリコンショタコン、メンヘラ、アル中パチ中、服装のダサい奴やだらしない奴、体育会系、オッサンオバサン、デカくて腕力ありそうな奴、老害、富裕層、強大な国家としてのアメリカ、など。(これだけあげた中には一個や二個反論が思いつくかもしれんが、それは俺が例示をミスっただけで話の大筋は覆らんからな)
「サムいダジャレばっか言う人ってマジでキツいわ」「体育会系のノリが嫌すぎる、近寄らんとこ」みたいなのは、Twitterに書いてもエッセイに書いても友達との会話で出てもほぼ問題がない。
たしなめられるにしてもマイノリティを嫌った時の猛烈な責められ方とは違う。
これって結局、権力勾配があるからマイノリティや弱者は手厚く保護されるべきだが、マジョリティや強者への保護は薄くしますよっていう、しょっちゅう非難されてる逆差別じゃないか。
こういう話をすると、これからだんだんとマジョリティへの攻撃や嫌悪表明も咎められるようになっていくでしょうみたいに言う人もいるが、そんな理想的未来が来ることはまずありえない。
どんな層への嫌悪も咎められる社会って、持続ができないだろ。一歩一歩地雷を踏んでないか確かめるようなコミュニケーションを日常からやるなんてコストがかかりすぎて崩壊する。
だから「この弱者層への言及で地雷を踏んだら致命的に咎められるので気を付けましょう、それ以外は強者だし言及で地雷を踏んで咎められてもダメージ少ないのでリラックスして語っていいっす」という逆差別がどこまでいってもまかり通る。
老化で鈍感になり、センスや気遣い力が落ちたやつらは弱者じゃないのかい。
ギャグの面白さはたまたま世間と違う好みに生まれ育ったんじゃなく自分の意志で決めてることで、サムい人は「つまらないこと言うぞ!」とわざと顰蹙を買ってるから、そこら中で嫌いと言われるのが妥当なのかい。
俺は、老化で足腰が衰えたり、たまたま男だけどバレエが好きに生まれ育ったりたまたま普通に話す時どもったり顔や体がゴツくて怖いのと近い、仕方のない要素だと思うけど。
(以前、センスが悪いなら黙ってればいいだけだろなんていう、ある種の人間は楽しい会話への参加を求めず沈黙しろってヤバい抑圧を無自覚に書いてる奴も見たが)
もしも強者弱者認定がそこそこきっちりできたとしても、強者なら嫌悪を公言されても受け入れろという非対称性を盾にした逆差別の問題は残るしな。
それにしても、こういうかわいそうランキングの線引きや逆差別の問題って指摘されすぎて、してる側の方が一つ覚えって言われそうだが、それでも問題が残ってるなら指摘されるべきだわ。
あと一応言っとくが、だから弾圧や差別もオールオッケーにしろとは言ってないぞ。
そういう趣旨だと思って読んでた奴は、正義vs悪とか差別vs反差別みたいな、白黒わかりやすいイデオロギー闘争に夢中になりすぎだから自覚しときな。
逆差別なり恣意的な弱者強者認定なりの問題があることを認めろ、そこを見ないふりした説教や説得はするな、そういう不誠実な説教の尻馬に乗るな、自分たちは正しく筋が通った考え方をしているという安心感を捨てて、「ワルモノ」からの疑問や反論があったらちゃんと自分たちを疑え、それでも総合的に考えて犠牲はあっても断罪の剣をふるうべきと判断したなら構わないがその剣を振るうのは最小限かつ手加減するくらいの理性を持て、可能ならアフターケアもしろ、という話だ。
こういうこと書いてる俺自身は自分を疑ってないんじゃねえのという点については、その自問自答も入れてたらクソ長くなるので省略してるからな(自問自答が十分である自信は確かにないが)。
少なくとも今日の俺はまだわずかに世の中や社会に期待しているから、こういう立場だ。
まあ、この記事にトラバしてるやつにはすでにすっかり絶望してもっと過激なこと言ってる増田がいて、俺はその絶望と諦めにも大いに同情するけどな。精神病の調子が悪い時の俺はもっと破壊的な気分になる。
ブクマカ 元増田の趣旨は「マイノリティを抑圧してはいけない」で、マジョリティへのヘイトは許されてるとは書いてない。お前の主張と何も矛盾しない。書いてないことを読み取るな。
書いてなくたって、マジョリティや強者(と認定された層)への悪口が甘く見られている現実は目を開けりゃ見えるだろ。
いわば議論の前提だ。
紙幅にも文章書く元気にも限りがあるので何もかもカバーした話をしろなんてことは言わないが、強者叩きは許されてる現実があるってのは重要だろ。
不都合だからって重要な要素への言及を避けて、都合のいい部分だけ使って綺麗な断罪の剣を研ぎあげる、その輝きに人々が群がって正しいと持て囃す、そういうことのズルさと危うさを問題視してるんですよ俺は。
マジかよ。
田舎土人は腕力で全てを解決し、動けない人間から順番に死んでいく世界だと思ってたけど、まさかスマートスピーカーを理解できる知能や高齢者を保護するような高度な感情があったとは。
暖かくなってきたといえば自転車。
ただちょっとまって。
自転車に乗るときはちょっとしたことに気をつけるだけで快適さが格段に上がるから!
別に本格的な自転車じゃなくても、ママチャリでも大事な部分は変わらないよ。
ということで一気に羅列!
自転車乗りには当たり前すぎることだけど結構抜けてる人いるよね。
タイヤに空気が入ると、タイヤ自体の地面に対する接地面が減るので摩擦が減ります。
摩擦が減るということは、つまり余計なエネルギー消失がなくなるということ。
つまりつまり漕いだエネルギーが失われづらくなるから、快適に進むってこと。
それに空気圧が低いと中のチューブがホイールと段差に挟まれてパンクも起こりやすくなるから危険です。
少なくとも月に一回、もしくは乗る前に必ずタイヤを指で押してみて、弾力が弱ければ空気を入れましょう。
・チェーンや駆動部の油
乗っているときにキコキコ言い出したらチェーンの油がなくなってると思ったほうがいいです。
ペダルをクルクル逆回転させながら、ギアとチェーンが噛み合う部分にスプレーすれば全体に満遍なく行き渡ります。
油をさすと錆びによる摩擦が緩和されるので、要するに余計なエネルギー消失がなくなって漕ぎやすくなるということ。
タイヤの付け根、ペダルの足を乗せる部分やギアの回転部分など。
要するに回転しながら摩擦が発生する場所に油をさしてあげることで回転をスムーズにすればいいって考えるとわかりやすいです。
・ブレーキ
このどちらもが作用することで、ブレーキを握っても効きが悪くなってきます。
ブレーキの効きが悪い=制動距離が長くなる分スピードが出せなくなる。という無意識にストレスの原因となります。
ブレーキを握ってみて、タイヤを押さえるときの力の伝わりが悪いなって思ったら、ワイヤーのテンションを調整しましょう。
ブレーキパッドは自分で交換もできるけど、左右の調整とか開きとかにちょこっとだけコツが必要なので、購入店で交換してもらうようにしましょう。
・サドル
いわゆる座るところ。
まずは高さについて説明。
サドルの高さは、基本的に無理なく地面に足がつく高さである必要があります。
道交法で定められたものでもありますが、いつでも足が地面につくという心理的安全性が何より大事だからです。
その上で、ペダルが一番下になったときにできるだけ足が伸びる高さに調整しましょう。
サドルが低すぎると、膝が中途半端に曲がったままペダルを漕ぎ続けることになり膝への負担が大きくなってしまうからです。
次に硬さや形状について。
ママチャリはゆったりと座って長時間乗ったり、街中の段差に耐えられるように比較的大きくてクッションが強い作りになっています。
しかし、例えばスポーツ自転車の場合だと、サドルが大きくて柔らかいと漕いだときにももが下に下がった状態になることをサドルが反発してしまいます。
そうなれば漕いだエネルギーが無駄に消失してしまうので、少しのクッションを犠牲にしてでも座面の小さい尖ったサドルのほうがおすすめになります。
まずは通販サイトなどで手に入る手頃な価格な割に評価の高いものなど試してみるとよいと思います。
ペダルの重さを変えることのできるギア調整について、いつも同じギアのままにしていたりしませんか?
どういうときに変えればいいのかいまいち分かりづらいギア比率ですが、とてもシンプルなルールがあるので覚えて帰りましょう。
それが、1分間に100回転です。
走行中に、ペダルを1分間に100回転させるくらいで走ると、もっとも負担なく走れる状態だと言われています。
つまり、漕ぎ始めはギアを軽く、スピードがでてきて足の回転が余剰になり始めたらギアを重くしていくという感じです。
100回転ってどれくらい?って思うかも知れませんが、1秒に1.5回転くらいと思えばなんとなくわかりやすいかも知れません。
重いギアのまま力任せに漕いでいる人をたまに見かけますが、すぐに足に乳酸が溜まってしまだけでなく、膝の故障にもつながりますので注意しましょう。
・ハンドルの高さ
自転車で快適に走行するためには、空気抵抗がとても大切になります。
スポーツタイプの自転車の場合、ハンドルの高さを下げることで上半身が下がり、空気抵抗が少なくなることで走行速度が改善されます。
ただし、常に前傾姿勢を維持することになるために、腕力を始めとする体幹の強さが必要になります。
自転車に乗りなれてきたら徐々に下げていくとよいでしょう。
・ライトの角度
夜道を安全に走るための注意点です。
最近では車のヘッドライトと見分けがつかないくらいに明るいLEDも増えてきました。
ここで注意したいのは、ライトがいわゆるハイビーム状態にならないようにすることです。
前照灯の役割は、はっきりいって対向車や歩行者に居場所を知らせるためだと思ってください。
特に街中では、暗い夜道を照らせるほどの光量がそもそもありません。
それなのに、前方の歩行者の顔が確認できるような高さに調整してしまえば、歩行者にとっては目くらましのような危険な状態を押し付けていることになります。
これは車のドライバーにも言えることで、そのライトが眩しすぎるせいで、周囲の安全確認が行えない状況に陥ってしまうことにもつながります。
本来、安全性を一番に考えるなら、3~5m先の地面が照らされている状況が障害物の発見などにつながり理想的と言えます。
夜道を走っているとき、数メートル先に前照灯の反射が見られないようであれば、角度が高すぎることを意味しているので、周囲の安全を確認した上で調整しましょう。
うん。というか、ハイビームのまま販売するような販売店は本当に滅びろって思う。お前らが啓蒙しなくて誰がするんだよ。
潜在的な事故の原因になりえてることなので、早急にメーカー団体などによるガイドライン化を望みます。
以上。コロナが流行ってから久々に乗ったなーって人は一度見直してみてください。
もし手つかずのまま乗っていたとしたら劇的な変化があるはず!
自転車はよく走ってよく止まるのが一番。
先日も述べたように自分はポーの作品が好きではあるのだけれども、ミステリの黎明期は今でいうところの禁じ手を平気で使っているものが多く、純粋にストーリーを楽しもうとするとずっこけることがある。とはいえ、論理と推論をたどることによって面白い話を作りだすのを始めたのは彼なので、ミステリが好きなら読んでおきたい。確かに意外な真犯人ではある。
同じく、今でいえばお粗末な話も時折あるのだけれども、ホームズとワトソンの関係が好き。中でも「三人ガリデブ」でワトソンのピンチに思わず熱くなったホームズは必見。なんでこのシーンが好きなのかというと、聡明すぎてどうしても人を観察対象としてしまうホームズが、知的ではあるが彼ほどではないワトソンを心から思いやっているからだ。知的に対等ではない人間を愛することができるかどうかは、鋭敏な知性の持ち主にとっては人生最大の試練だ。女性人気が高いのもうなずける。
ルパンシリーズのこの巻だけ親が買ってくれたし、何度も読み返していたのだが、なぜか続きを読もうとは思えずに現在に至っている。ミステリというよりは冒険小説に近い気もするが知恵比べ的な面もあり、そこが面白かったのかもしれない。しかしそうすると、これをミステリ100選に入れるかどうかは迷う。ライトノベルの定義がライトノベルレーベルから出ているかどうかだとすれば、東京創元社か早川書房から出てはいるからミステリとしてOKかもしれないが。
自分は新世界の神になれると信じて殺人を犯したのに日和ってしまい、純粋なソープ嬢に救われる話。これも謎を解くというよりも心理戦を描いている。心理戦というかやっぱりドストエフスキー名物の神経質な人間の独白だ。基本、ドストエフスキーの登場人物にはまともなやつなどおらず、この作品も例外ではない。主人公の妹をつけ狙うロリコン野郎だとか、娘がソープで稼いだ金で酔いつぶれ、その罪悪感からまた飲むというどうしようもない親父だとか、神になり切れなくてプルプル震えている主人公だとか、そういうキャラが最高なのだ。これではまったらドストエフスキー五大長編を制覇しよう。ミステリじゃないのがほとんどだが、心配はいらない。ドストエフスキーの過剰な語りにはまった人間の前ではそのようなことは些事だ。
ちなみに高野史緒「カラマーゾフの妹」は二次創作小説として最高なのでみんな読もう。
こういう非人道的な植民地を持っていた王様の銅像だったら国民から倒されても文句は言えんよな、的なベルギー領コンゴをモデルの一つとしているのだけれども、これってミステリかね? ひたすら謎の人物を追いかけて、地理的にも深いところへ分け入っていき、目的の人物と出会うが彼はあっさり死んでしまうというあらすじは、神話的な単純さと力強さがあるが。クルツは何を恐ろしがっていたのかで語り明かしたい本である。
自分は育ってきた境遇上英米のわらべ歌(マザーグース、ナーサリーライム)は身近に感じるのだが、そうではない読者がどこまでこの趣向を楽しむことができるかどうかはわからない。
この作品で特筆すべきことは、探偵が犯人と対決するときの命を懸けた大博打だが、今の倫理的な読者はこの方法で犯人を裁くことが適切と考えるかどうかはわからない。ミステリにおける倫理(後期クイーン問題とかそういうの?)を語るなら読んでおきたい。
確かに単体で一番面白いのはこの作品だけれども、せっかくだからドルリー・レーン四部作は一気読みしたい。ただ、衝撃の真犯人といわれても、すっかりすれてしまった現代の読者からすればそこまでショックを受けないかも。そういう意味では登場人物の反応も大げさに見えてしまう。
個人的には「Zの悲劇」以来(テコ入れのために?)登場したペイシェンスという活動的なヒロインが女性史の観点から興味深い。当時としてはすごく斬新なヒロインだったんじゃなかろうか。恋人と一緒にパンツを買いに行くし。
クリスティはどれを選ぶか迷う。ただ、わらべ歌物の中ではなじみが少なくても楽しみやすいんじゃなかろうか。一人ずつ減っていくという趣向は非常にわかりやすい。謎を解く手記が多少不自然といえなくもないが気軽に読める。
ちなみに舞台版ではハッピーエンドに改作されているのもあるとのこと。
「チャーリーとチョコレート工場」など児童文学の作者としても知られる。児童文学ではスパイス代わりだった毒がメインディッシュになっている。
ところで、読者諸氏は年末に「岸部露伴は動かない」をご覧になっただろうか。ドラマ化されていないが、シリーズの中に命を懸けて賭けをする場面がある。あるいは、「ジョジョの奇妙な冒険」第五部でライターを消してはならないという賭けが出てくる。その元ネタとなったと思しき「南から来た男」が収録されているので、ジョジョファンは一読をお勧めする。オマージュや翻案とはこういうのを言うのか、って気持ちになる。なお、ダールは「奇妙な味」の作家としても知られている。
筆者はフィリップ・マーロウの良さがわからない。必要のない危険にわざわざ飛び込んでいき、暴力的な人間を挑発する。ただし、この作品が日本の文化に与えた影響は大きい。
ハードボイルド小説以外から例を挙げよう。一つは村上春樹のいわゆる鼠四部作だ。「羊をめぐる冒険」での鼠の足跡を訪ねてのクエストはチャンドラーの強い影響を受けている。あるいは「ダンス・ダンス・ダンス」の警官による拷問や親友の犯罪が明らかになるシーンの元ネタも見つけることができる。一度村上春樹の登場人物の系譜はどこかでまとめておきたいと思っている(村上春樹のヒロインをまとめていた増田と自分は別人)。
もう一つは「スペースコブラ」の「坊主… 口のききかたにゃ気をつけな… オレは気が短けえんだ!」「腹を立てるとなにをするんだ? うさぎとワルツでも踊るのか」の元ネタがあること。「……俺は頭が切れやすくってね」「頭が変になったら何をするんだい? 地リスとタンゴを踊るのか?」。どこがかっこいいのかは残念ながら筆者にはわからなかった。
エーコについては書きたいことがたくさんある。キリスト教と笑いについて問いを投げかけたこと、中世を舞台にしているようで当時のイタリアについての無数の言及があること、それから次の名言。「純粋というものはいつでもわたしに恐怖を覚えさせる」「純粋さのなかでも何が、とりわけ、あなたに恐怖を抱かせるのですか?」「性急な点だ」
しかし、この作品で一番深刻なのは、キリスト教文学であるにもかかわらず、主人公の見習い修道士以外の誰もが、誰のことも愛していないことだ。キリスト教とは愛の教えであるはずだ。弱いものに施したことは、神に捧げたことになるはずで、福音書にもそう書いてある。しかし、修道士たちは貧民を見捨てて権力争いに明け暮れ、異端審問官たちは民衆を拷問し、主人公を導くはずの師匠も人間を愛していない。彼が愛しているのは知識だけだ。
主人公は、言葉の通じない村娘とふとしたきっかけでたった一回の性交を行い、彼女に深く恋し、それでも魔女として告発された彼女を救えない。彼が村娘の美しさを描写する言葉がすべて、聖書からのつぎはぎなのが痛々しい。
勿論、知的な遊び心にもあふれている。主人公の不可解な夢の持つ意味を解き明かした師匠は「もしも人間が夢から知識を得る時代が来たら世も末だ」という趣旨の台詞を漏らすが、これはフロイトへの当てこすりである。同じく、深刻な場面で、とあるドイツの神秘主義者が「梯子をのぼったらその梯子は不要なので捨ててしまわなければならない」と述べたことが言及されるが、ウィトゲンシュタインに言及したジョークである。中世にこんなセリフが出てくるはずがない。
難解かもしれないが何度でも楽しめる。なんだったらあらすじを知るために映画を先に見てもいい。ちなみに、この映画のセックスシーン、村娘が修道士を押し倒すのだけれども、多感な時期にこんなものを見たせいで女性が男性を襲うアダルトビデオが好きになってしまった。そういう意味でも自分にとっては影響が深い作品。
人間嫌いだった筆者が最高に楽しんだ本。文明が野蛮に回帰していくというモチーフが好きなのだ。何を持って野蛮とするかは諸説あるが。大体、中高生の頃は自分を差し置いて人間なんて汚いという絶望感に浸りがちで、そういう需要をしっかりと満たしてくれた。舞台と同じ男子校出身だしね。
三部作の一冊目。実はこれ以外読んでいない。読んだ当時は、双子たちのマッチョ志向というか、とかく異様に力を手に入れようとするところだとか、著者がフランス語で書いたにもかかわらずフランス語を憎悪しているところとかが、何とも言えず不快だった。
今読み返したら、双子たちが過剰に現実に適用しようとする痛々しさや、亡命文学の苦しみに対してもっと共感できる気がする。個人的には頭が良すぎて皮肉な態度を取り続けるクンデラのほうが好きだけどね。「存在の耐えられない軽さ」よりは「不滅」派。
子供の頃より腕力がなくてやり返せず、口も回らずにいつも言い負かされ、片想いしていた女の子といじめっ子が仲良くなるのを横で見ていた自分にとって、自由と財産と恋人を奪われたことへの復讐を主題としたこの作品にはまることは必然であったと思う。とにかく面白い。特に、モンテ・クリスト伯が徐々に復讐心を失っていく過程が、非常に良い。
大人になって完訳版を読むと、ナポレオン時代の国際情勢を背景がわかってさらに面白かった。
犯人当てや宝探しなど派手な展開がてんこ盛りだし、犯人の動機の一部は自分が醜悪に生まれたことに端を発しているから、貧困とか弱者とか非モテとかそういう問題に敏感な増田にとっても議論の題材にできそう。
読んだからと言って別に正気が失われないけれども、チャカポコチャカポコのくだりで挫折する読者が多いと聞く。大体あの辺りはあまり深刻にとらえず、リズムに乗って楽しく読めばいい。スチャラカチャカポコ。
話のテーマは、基本的には原罪的なものだろう。自分が人を殺しているかもしれないという恐れ、親の罪を受け継いでいるかもしれないという恐れ、それから生きることへの恐れだろうか。
難解な雰囲気は好物だが、かなり自己満足的でもある。ヴァン・ダインの二十則破りまくりだし。言葉の連想テストで犯人を指摘し、余計な情景描写や、脇道に逸れた文学的な饒舌にあふれ、探偵があっさり暗号を解読して、事件の謎を解く。作者の知識の開陳を素直に楽しみましょう。ただ、これ読むんだったら澁澤龍彦の本を何冊か買ったほうがお得であると思うし、膨大な知識が注ぎ込まれているがリーダビリティの高い点でもエーコに軍配が上がる。
差別用語が出てくることで有名で、先ほど出てきたわらべ歌による見立て殺人の影響を受けている。
血のつながりによる犯行の動機や、実行の決め手となる偶然の出来事、その皮肉な結末が個人的に好き。自分は謎を解くことよりも、犯人たちの心理状態、特にその絶望のほうに興味を持つからだろう。
メタフィクションを個人的には愛好しているのだけれども、話が入り込みすぎていて結局どういう話であったか覚えていない。巻末の書き下ろしのおまけで、探偵が少年にパンツの模様を聞くシーンがあったことだけを覚えている。
とはいえ、癖のある登場人物から、大学の文学やミステリサークルの雰囲気を思い出して感傷に浸るのにはおすすめか。大体、小説を好きこのんで読む人間は大抵どこかこじらせているものだし、読みたいリストや他人にお勧めする本リストを作り出したらもういけない。そしてそんな奴らが僕は大好きだ。
以上。
ってか株価上げればネットでルサンチマン振り撒いてる底辺以外の支持は得られるんだよね結局。
コロナ前までは就職市場にも波及して売り手市場になってたから未だに自民は若者には支持されているわけだし。
旧民主党の敗因は日銀理論の根強かった当時の日銀を黙らせる腕力がなかったことだし、安倍政権が長期化したのはそれが出来たから。
男の加害性、(腕力の強さ含む)と
女の加害性のなさを均衡にしないとダメだと思う。
女にナイフを持たせろ。
よくキモいオッサンが何にもしてないのに女に差別された〜〜って喚いたり被害妄想してるが、
圧倒的に男の方が加害性が強いんだよ。
腕力、性欲、キレてから暴力するまでの速さは女とは比べ物にならない。
それを男は頭に入れろ。
だから少しでも変だと思った奴はただそこにいるだけで警戒され避けられる。
それを俺は何もしてないのに差別された〜〜って喚くほうがおかしい。
爆弾が置いてあるだけなのに避けるのはおかしい〜って言ってるのと同じ。
問題は、世間の体感7割の男性は善良なのに、残り3割が頭のおかしい奴(男同士では普通だったりする)のせいで、
女全体で男に対するヘイトが溜まってること。
そのへんを男は理解してくれないと、
追伸。
今まで男にされた嫌なことを挙げようか?
嫌な目に遭ってる回数が違うんだよお前ら男とは。
もう若くなくて夢を目指すような歳じゃないと言われながらでも何らかを頑張らなければいけなくてつらい
今年で34になる。既にまあ若くはないわけだけど来年の誕生日が来たらもう制度上でも若者でなくなってしまう。
そんな節目だが体調を崩してもうどうにもならんので仕事を辞める。不定愁訴みたいなもんだから診断書なんかはもらえないだろうし傷病手当とかは考えていない。
普通に退職して職安へ行って中々決まらなければ失業手当をもらったり貯金を切り崩したりしながら次を探すのだろう。
年齢的に厳しいとはわかっていても今とは違う業界へ行きたい。(具体的に行きたい業界があるわけではなく、今の業界で1回メンタルを壊し3回身体を壊しているのでもう懲りた)
いや嘘、やりたいことはちょっとだけある。あるけどそれは10代で目指して20代半ばくらいまでに諦めておくべきようなもので、今更目指していいもんじゃない。
目指したとして芽が出るか、その後生き残れるかというとそんな気は全くしない。実力もコネもなく、年下の天才やベテランが跋扈しているところに壊れた身体と心で飛び込んでもどうしようもないことはわかっている。
どうしようもないことはわかっているんだけど、何らかで生計を立てなければならないのでそんな夢を目指さないにしても何らかの努力はしなくてはならなくて、しんどい。
結局コンビニバイトだろうが非正規事務だろうが倉庫作業だろうが、こんな歳ばっか食ってぼろぼろの壊れた奴にできることがあるとは思えないのだ。
どこで何をするにしても何かをおぼえたり、長時間働いたり、きつい環境に身を置いたり、何らかの努力や体力や精神力や記憶力のような資本は必要になってくる。できる気がしない。でも何かやらないと家賃も食費も賄えない。
健康でないので治験もできない。体調の都合で外仕事や力仕事もできない。長時間労働もやっぱりだめだった。頭も悪い。体力も腕力もない。経験も知識も若さも吸収力もない。もうできることなんかない。
みんな、えらいよ。
もうだめだ。
だからもしかしたらダブル節分の日をやる人多発するんじゃないかしら?
気を付けた方がいいわよ。
7月8月10月はなんか場合によってはカレンダーの印刷された物によっては
児玉清さんばりに言うと
なぜ角を取らない!って
児玉清さんが出演していたラストダンスの主題歌みたいに「さよならはダンスの後に」を歌っちゃうわ!
まあそんなことより、
方角分からなかったら、
私がずっとここで欲しいと言っている、
豆まくときのやつを
そんなパーティーグッズがあったら私買うし、
豆まいてるってレヴェルじゃねーぞ!
ってもうインターネットミームになりかねないこともないかも知れないわね。
だから私はどちらかというと、
こんなのもう節分じゃない!って
お父さんの首を守らなくっちゃ!って
節分!その前に首!ってダイレクトな名前の首の防具があったら、
それは避けられないわね。
でも圧縮空気で派手に豆をまくってメカニズムはありそうなものよね。
手放しで喜べるので手掴みで食べるけどね。
ニューヨーカーがホットドッグを食べながら街を闊歩するようなそれの日本版よ。
だから恵方巻きもホットドッグに見立てて手に持って街を歩きながら食べて闊歩して欲しいのよ。
私は手を汚さずにお父さんを豆バズーカーで抹殺出来ることが出来るのよ。
そう私の手を汚さずにね。
豆だって鳩が食べるってレヴェルだし、
ごめんね気が付かなくて!
鳩さんが食べやすいように水のお皿も横に置いて上げるの。
町で見かけるハトを見ていると水たまりの水を飲んでいるハトがいたりなんかして、
切なくなるわ。
そっちの水の方が少なからずしも水綺麗なはずよ。
例え筋力が充分にあったとしても羽前で蛇口を回せるとはとても思わないわ。
ここのお水のお皿からお飲みなさい!って
釈由美子さんばりにおゆきなさい!って勢いでお飲みなさい!って言うのよ
スカイハイだけにね。
だから私は方角がどうのこうのとかっての気にしないの。
とりあえず
明日は節分じゃないんだかんね!って力一杯言いたいわけなのよ。
鳩さんが水飲むで思い出したけど
飲んでる途中の猫さんの後ろ頭を押してあげたら、
押してと言われて押さないのなんて上島さんだけしか通用しないんだからね!
うふふ。
まあパッとしないけど、
今日海苔巻きあるから恵方巻きね!ってちょっと期待しちゃうわ。
今日は朝のホッツ緑茶ティーウォーラーを水筒に仕込んできました。
朝は暖かく温活で目覚める朝にして欲しいんだな!
私とのお約束よ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
この正月に手慰みに書くというだけの話です.
当時大学生だった僕は実家に暮らしていました.中古の家で,母親の話すところによると父方の祖父が「この家でなければ家に関して援助はしてやらん」とのことでこの家に住むことになったそうです.お世辞にもあまりいい家ではなく自分の部屋もないため,「静かに暮らすこと」とは無縁の家族の声は聞こえ放題で,神経質な僕には居心地が悪かったです.しかし近くの大学に通っていたこととお金の面で家を出るメリットよりデメリットの方が勝りました.
3年生の梅雨の時期の夕方に,ある老女が家を訪ねてきました.家には父親と僕がいて,インターホンが鳴るなり父親は僕に対応するように促しました.カメラ付きインターホンのスクリーンには,やや背の曲がった憔悴したような疲れたような顔の老女が映り込んでいました.「はい」と僕が対応すると
「〇〇か?」
と老女は言います.僕にはその「〇〇」という人物に思い当たる節はなく,スピーカーで聞いていた父親もなんのことだかわからないといった様子でした.否定をしたのですが,しきりに「話がしたいので出てきてほしい」というようなことを言うので僕が降りることになりました.正直なところ,僕は何かの事件に巻き込まれるのではないかと気が気ではありませんでした.僕は体も比較的大きく単純な腕力では負けるはずもないのですが,憔悴した様子でしきりに出てこさせようとする様子はただならぬ雰囲気を持っており,恐怖を全く感じなかったと言えば嘘になります.恐る恐る玄関の扉を開けると,老女が
「▲▲か?大きくなったなあ」
と今度は違う名前を言ってきます.その名前は僕の名前ではありませんでした.どうやら先ほどの否定が伝わっていないようでした.僕がなんのことだかわからないといった顔をしていると,
「覚えてないか.あんたが小さいころに会っただけやからな.お父さんはおるか?」
と言います.さすがに人違いされたままでは困るため,僕はその人ではないことを伝えた上で家を間違えてないかを確認したのですが,老女も何のことだがわかっていないようでした.すると父親も何となく普通ではないことを察したのか降りてきて僕にどういうことか説明を求めました.すると父親は何かに思い至ったのかその老女が訪ねていると思い込んでいる人の苗字を聞きました.その苗字は僕の苗字とは違うものでしたが,父親は全てを理解したようでした.
「☆☆さんはだいぶ前に引っ越さはりましたよ.ここに今住んでるのは✴︎✴︎です.」
と父親は言い,表札を指差して老女に見せました.老女は納得がいかないという様子で,今どこにいるか分かるかといったことを父親に聞いていましたが父親も知らないようでした.ともあれ
「ほんまか...そうか...」
と理解した老女は帰っていきました.この家は僕が1歳頃,つまり20年ほど前に住み始めた家でしたがその前に住んでいた親戚を訪ねてきたんじゃないかと父親は説明しました.続けて
「でも,あの人糖尿かなんかで亡くなったんちゃうかったかなあ」
と言いました.中古の家に住んでいるとこういうこともあるのかとか,引っ越したことが伝わっておらず亡くなったことも伝わっていないとは相当仲が悪かったのかなあなんて考えました.それで久しく会っていなかったが,何かに思い立ち話をしようとやってきたのかもしれません.もし仲を戻そうとしたなら残念なことだとは思いましたがあくまで他人事という感は拭えませんでした.
事態が変わったのはその日の夜22時ごろのことでした.あの老女がまた訪ねてきたのです.昼間のこともあり明確な恐怖の感情が生まれましたが,僕も父親もふと一つの可能性にたどりつきました.
ここからは母親に警察を呼ぶよう頼み,警察が来るまでの間に僕と父親で老女が認知症であるかを確かめる流れになりました.父親が,
「こいつと僕が昼間に会ってるんやけど覚えてる?」
と言うと,
「いや,覚えとらん.昼間来たんか?」
と老女は言います.間違いなく認知症でした.そこからは家はどこにあるのかとか誰かと暮らしているかとか連絡できる人はいるかという話を聞きましたが老女は一人暮らしのようでした.しばらくすると二人組の警察がやってきました.何となくこの時間に面倒ごとが舞い込んできて気だるそうな様子でした.近所から野次馬もやってきてなんでこんなことになっているのかとため息をつきたくなりました.父親が事情を説明するなり警察が老女に身分を証明できるものはあるかなどの確認をしましたがそういった類のものは持っていないようでした.さらに認知症の診断を受けているかと確認しました.すると,
と老女は答えました.この言葉が僕には強く刺さりました.「認知症患者は自分が認知症であることがわからない」ということを現実に見て,一人暮らしの老女が認知症である事態の重さに気づきました.結果的に老女は警察に保護されることになりパトカーを見届けましたが,その日は何となく眠りが浅かったです.
これで解決したと思い込んでいましたが,二週間後の昼間に老女はまたやってきました.その時も家にいたのは父親と僕でした.今度は事態の理解ができている分,スムーズに解決しました.やはり前回訪ねてきたことは忘れていました.この話を聞いた母親は,何回もこられても困るといったようなことを言っていましたが,「対応してるのは俺と親父なんやけど...」と言いかけてやめました.
そして数日後,今度は僕が一人の時に別の二人の男女が訪ねてきます.あの老女の親戚でした.詳しく尋ねてはいないため事実とは異なるかもしれませんが,おそらく男性の方が老女の兄か弟で女性は妻のように見受けられました.男性の目やあの猫背の雰囲気が老女にそっくりでした.以前から認知症であることを知っていたようでした.男性の方はとてもばつが悪そうであまり言葉を発さず,女性が菓子折りを僕に渡しながら謝ると男性も頭を下げてこられました.僕は他人に頭を下げて謝られるのが苦手です.自分がする分にはいいのですが,される側になるとこちらの立場が上で謝らせているような感覚になってしまいます.ましてや自分より何十歳も年が上の人が頭を下げる姿を見るのは忍びないことでした.せめて気分を軽くしてほしいと思いながら「いえ,全然問題ないですよ」といったようなことを言いました.菓子折りを受け取って二人を見送ってからも何となく居心地の悪さは抜けませんでした.
それ以来,あの老女は一度も訪ねてきてはいません.施設に入ることができたのかもしれません.この出来事は高齢社会と独居老人の話を聞くたびにいつも思い出す話になりました.この話をすることで認知症の患者が生きやすい世の中を作ろうと呼びかけているわけではないのです.もちろんそういう世の中ができれば良いことなのは間違いないのですが,僕はそのための具体的な行動を起こしているわけではなく,そういったことを呼びかける資格を持ち合わせていません.中古の家ならではの印象的な出来事を少し話したくなった.そういう話です.