はてなキーワード: 全面的とは
ちょっと横ですけど。
恋愛している状態って「気持ち」なのに、なんで禁止できるのかと。
まぁ、この場合の「恋愛禁止」は「交際禁止」って事なんでしょうが。
国民的アイドルが「めっちゃ片思いしてます」って言ったらどうなるんですかね。
それはそれで美しい話にならないですかね。
少女漫画脳でアレですけど。
なんかこう、好きだー!っていうパッションを大事にして欲しい。
交際…とか不倫…とかじゃなくて。そういうね、それこそいかにも日本ぽい湿った感じじゃなくて。
人によっては、執着だったり惰性だったりもするかもしれない。綺麗なだけじゃないけど、
そういう気持ちの機微が、文学やら映画やらになるんだと思うので。
そういう意味で、恋愛してるアイドルもいたらかわいいなーと思うんですけど。
纏まらなくてすいません。
AppBank株式会社様の元社員が非社会的組織とつながりがあったと一部報道等がなされております。
当該事案の関係者として、一部報道機関からの問い合わせをいただいておりますので、事実関係を含め、弊社の見解等を表明させていただきます。
2) これまでの経緯について
Appbank様が非社会的組織と繋がりがあった事実を、報道各社からの連絡により認知したのは2016年2月であり、報道が波紋を広げている旨を確認しました。
3) 被害の発生原因等について
弊社としては発生原因等を追究する立場にはなく、よって発生原因等については全くの不明です。
弊社は、本事案の全容解明に向け、全面的に関係当局の捜査に協力しております。
4) 弊社へのお問い合わせについて
当該事案に関しては、関係者であると誤認された以外は全くの第三者であるため、当該事案に関するお問い合わせに回答する情報は持ち得ておりませんことご了承ください。
5) 今後の対応について
今後、公表すべき事項が生じた場合には速やかに開示いたします。
テンプレ作っておきました。
ご活用ください。(^^)
日々勉学に勤しむ高二のあたしは中学の時から腐女子で結構な数のBL漫画を持ってる。息抜きに読んでTwitterに感想あげたりするのが好きだった。密かな楽しみ、みたいな。周りの子はいわゆるオタクという子は少なく、腐女子なんてほぼ居ないしあたしも周りに合わせて腐女子を隠しながら生きてきた。その中でも何人か腐女子をカムアウトし合った子と貸し借りしたり、あたしの腐女子活動は凄く密かだった。のに。
一気に買った漫画と返ってきた漫画で本棚に戻すのをめんどくさがってしまったあたしが全面的に悪い。いつも閉じてるカーテンのうしろに詰んでた十数冊のBL本と、いつの間にか全開のカーテン。
詰んである本の周りはいつもより片付いていて、あっ、と思った。
あたしが何をしたんだ............
一応理解者(同棲15年目)はいる(結婚したら勝ちっていう人の意見には全面的に賛同です)
そう、男をふるいにかけるって点では優れてるといっちゃおかしいけどガクトさんみたいに「パイパンじゃないと気持ち悪い」みたいな価値感の男とは一緒になりたくねえからそれは別にいいんだけどね(パイパン厨って声大きいよね。なんなの?)
しかしちょっとした剃り忘れとかで公共の場で衆人環視に合うのはつらいし毛そってかぶれたりそれこそ陰毛の手入れなんて粘膜近くにも生えてるからちくちくが粘膜巻き込んで肌が荒れたり、物理的に辛いところもある
常識っていわれると辛いけどなるべく人に不快感与えないように夏はがんばってはいるよ。処理は毎回いろんな理由で泣きながらだけど
まあハゲよりは辛くないのかなって思うけど
ちなみになんとかさんの毛深さJPGはみられなかったんだけど
自分の毛深さは相当業が深いよ。他人の写真で悪いんだけどhttp://ks.c.yimg.jp/res/chie-que-13117/13/117/425/128/i320これくらい
一部の人は問題ないと思ってるようだけど、2chの反応を見てると既に被害者が加害者になり始めている。
被害者なんだから大丈夫なんじゃ、とか甘いこといってる人いるけど、既に社会構造全体の弱者と強者の対立軸が見え始めてる。
考えなしに被害者側の情報公開しすぎると、遺族がぼこぼこにたたかれるぞ。
はてな民はしょせん2ch民だろ的にあまくみてたり忌避してる人がいるけど(弱者じゃないから気づかないのかな?)、俯瞰的にみると
ここまで弱者と強者が切り離され始めてるのかってもっと危機感持つべきだと思う。
被害者を叩いてる人たちはどうしようもないクズだけど、同時に彼らも救済しなければならない社会の構成員だからね。
彼らが如何に満たされなければならないのかって点は考えないとならない。
もし、2chネラーがネトウヨが多いから嫌いでどうでもいいって考えの人いたとしたらそれこそネオリベ的な嗜好に陥ってることを自覚して欲しい。
※追記
id:cybercurry ねらーだけを救済するという意味ではなく、社会全体として弱者とどう接するべきなのかということ。あのような感情を持っている人が2chねらーだけだとおもいますか?
すこし極端な例になりますが殺人を犯したからといって社会的なケアを怠って彼らを更に放置するべきなのか?といえばわかりやすいかもしれませんね。←この意見にもし、殺人犯は罰を与えて放置すべきというのであればそれはいわゆる弱肉強食な論理ですよね?
もちろん、そうしたほうがいいという意見を全面的に批判するわけではありませんが、普段左派リベラル的な態度をとっているのであればよくよく考えなければなりません。
id:triggerhappysundaymorning 経済的に困窮している人たちが被害者を裕福な人たちの一員と見ていて、弱者から搾取している加害者の一人だとみなし始めているということ。
その結果として、被害者が更に被害を被り始めているという意味ではそのとおりです。
ああ、あと記事の主題はもう一個あって、弱者の考え方をトレースできてないと危ないよっってこと。
被害者達だから大丈夫でしょうみたいなこといってる人いたけど、経済的弱者がひどく憎しみ始めてるっていう事実を認識していれば被害者の情報を過度に晒す危険性がわかるはず。
増田にとって「食事の準備」と「食べる事」はバラバラの出来事なんだろうけど、世間的に食事って言うのは全部そろってから食べるもの。レストランに複数人で行ったとき、先に料理が出された人が無言で食べ始めないで「お先に頂きます」と言ったりみんなの料理がそろうまで待っていたりする経験はないだろうか。彼女がせっかく準備しているのに無断で先に食べ始めるのは裏切りに近い。
単純に増田が逆の立場になって、彼女と一緒に食事をしようと準備をしているのに彼女が先に何も言わずに食べ始めていたら?
小学校の給食の時間にまだ準備が残っているのに自分の献立が全部そろったからと言って先に食べ始める同級生がいたら、それは「些細なうっかりミス」になるのか?
そして箸の件はきっかけでしかなくて、それ以上の「口に出すまでもないけどちょっと許せないよね」が彼女の中にたまっていたはずだ。
そういった生活面でのエラーが多いのは増田の特性でどうしようもない事なんだと思うけれど、それを彼女に「理解してくれ」っていうのは酷だろう。
増田が増田自身と戦う気がないのに、彼女にだけ増田の特性を強いるのはかなり辛い。
共同生活をして2年でこれだけこじれるなら、これからもっと不幸になっていくだけだ。
今からでも遅くないので、増田の特性を受け入れてくれる人か、逆に増田が「何があってもこの人を受け入れる」という人を探したほうがいいと思う。
イケダハヤトはアフィリエイトのために実際の人物に会社辞めろと煽るのさすがに問題ある
そろそろ、はてなユーザーだけでもいいから集まって広告出してる企業に抗議してもいい頃だと思う。
基本的にイケダハヤトはどんだけアホなことやって炎上してもPV増えるだけで構わないって思ってそうなのだが、その結果が今の会社辞めろ煽りである。
会社辞めろと煽っておきながらその記事に転職の広告を貼っているのだからわざとだと言われても文句言わない。
今まではアホだとは思ってたがクズだとかカスだとは思ってなかった。
それはいくら煽ると言っても不特定多数を対象としていたからだ。
でも個別の人間に対してそういう勧誘をかけたりする記事を書いたりする行為を平気でやってる人間は問題だ。
話しかけられた人間からしたら怖いじゃん。 ネット上で目立つ人から直接会社辞めろって声かけられてうれしいやつがいるか?
そういうのをネタとして流してくれそうなやつを狙ってるんだろうけど死ぬほどたち悪いは。
法律的には違法ではないし、イケダハヤトは違法でなければ何言ってもOKくらいにおもってるって言ってたけど
元の会社の利益を不当に害する方法で、転職の勧誘や従業員の引抜きを行った元従業員とその会社は、従業員を引抜かれるなどした会社に対して損害賠償責任を負う。 ... 従業員引抜き行為のうち、単なる転職の勧誘にとどまるものは違法とは言えない。
それなら、もうネット民もイケダハヤト無視して広告出してる会社に文句入れたほうがいいかもね。
あんたのところのアフィリ貼ってる人、ネット上で堂々と個人向けに会社辞めろとか煽ってますけどこういう人のところに広告出すんですかんと。
ちなみに転職の広告だが、1ユーザーがコンサルを受けるところまでいけば2万円から3万円の報酬が支払われる。
イケダハヤトは投資は全くやっていないであろうから、証券会社以外で一番割のいい広告なのだろう。
そして、そういう広告にターゲットを起きだしてから急に煽りが増えたようなきがするんよね。
仮に1ヶ月イケダハヤトのブログから転職系の広告を全面的に禁止して、それでもなお同じ煽りするか?
しねえだろ。じゃあカネのためだろ。カネのために他人の迷惑顧みず、そうやってはしゃぐのか。
余裕あるようなポーズ取ってるけど思った以上においつめられてんのかね?
なににかはわからんけど。ほんといい加減にして欲しい。
ずっとバカにしていた相手が、ある日を境にノーベル賞級の偉人になった時、そんな経験をする人は、自分の価値判断や評価基準、人間を見る目を全面的に疑った方がいい。
ノーベル賞とまで言わずとも、仕事で成果を出した、というのも同じ。
その認識の仕方・考え方・価値観は、あらゆる面で、ノーベル賞級の人間とは別の方向を向いているということだから、ノーベル賞とは真逆の結果を出す人生を送る嵌めになり、自分の人生にも大いに影響を及ぼす事になる。
すくなくとも、株や競馬とかのギャンブルには向いていないので手を出さない方がいい。
そして、そんな経験をする時は、大幅に自分の価値観を修正し直さないと死ぬまで一生、成功とは無縁の、失敗をし続ける人生になるよ。
合本版で安かった時に「円環少女」を買い、3巻まで読んだ。1巻目の感想。
良いところ
・人間世界と魔法との関わり方が秀逸。ヒロインや第二ヒロイン、1巻の主敵の魔法能力が魅力的。つまり魔法まわりの設定・世界観が魅力的。
悪いところ
・文章力がひどい。当初は筆者の個性やレトリックかと思ったが、すぐに「これまともな校正がついてるのか?」と疑うようになった。第2部である2ー3巻ではある程度改善され、求めたい水準よりやや下というところまで来ている。
・ヒロインが幼すぎる。年齢的に。成人である男性主人公に恋愛的な関係を迫ってくるが、主人公は保護者的立場からそれを全面的に却下しないので気持ち悪いことになっている。
・イラストの男性主人公が若すぎないだろうか。もうちょっとおっさんみの影があってもいいのでは。話中で主人公のイラストを見るたびに「違うんじゃね」という気持ちになってしまう。
神に讃えあれ
国民よ
この「緑の行進」四十周年記念式典は、いつもの行事や通過的祝典ではありません。それどころか、王国の領土保全を完成させる過程における重要な局面なのです。
我が国土の解放、そして平和と安全の強化の大いなる達成に続いて、我が国はサハラの人々がれっきとした国民となり威厳のある生活を楽しめるようにしようとしてきました。
今日、「緑の行進」の40年の後、我々は、その有利不利にかかわらず、サハラ問題についてこれまで対処されてきたやり方からの、金利生活者経済や特権からの、民間部門の参加が貧弱であることからの、そして中央集権的なメンタリティからの、根本的な決別を求めます。
何故今日、40年の後なのでしょう?
そう、何年もの犠牲と、政治的かつ開発志向の努力の後に、我々は成熟を達成しました。
今、国家の一体性統合過程における新時代の夜明けと、我々の南部地域の祖国への完全なる統合の達成のために、機は熟しています。
「南部地域開発モデル」の実行と進歩的地方分権化の適用は、その過程の一部です。
国民よ、
私は是が非でも、南部地域の我が国民達へ彼ら自身の仕事をこなすのに必要なすべての手段を与えて、彼らが彼らの地域を開発できることを確かめたいのです。
太古の時代から、このサハラの人々は学者や季節的交易者として知られてきました。彼らは額に汗をして生計を立て、威厳と誇りを持って暮らしていました。厳しい生活環境にも関わらず、誰からの助力も期待していません。
私が話しておりますのは真のサハラウィ、彼らの祖先とモロッコの王との間にいつも存在していた忠誠の絆へと身を捧げて続けてきた本物の愛国者のことです。
我等が敵たちのものの見方に乗せられて彼らを支持する少数の者についていえば、それらを許す余地は我々の間にはないのです。しかしながら、本心に立ち返り悔い改めた者に祖国は、概ね寛容かつ寛大であります。
国民よ、
「南部地域開発モデル」を実行することは、これらの地域の我が同国民への我等の義務を果たすことに我々がどれほど身を粉にするかを示すもので、それゆえに統合的開発のモデルとなるでしょう。
我々はこの「開発モデル」に、統一祖国へとこれら地域を統合すること、そして、経済的ハブとして、またモロッコとそのアフリカのルーツとの間の決定的な絆として、サハラ地域の影響力を拡大することを望んでいます。
そのために私は、利用できる全ての手段を集めること、全能の神の御恵みにより、ラユーン=サキア・エル=ハムラ、ダフラ=オウド・エッダハブとゲルミム=オウド・ヌーンの諸地域にて社会・医療・そして教育のプログラムとともに、多数の主要計画を遂行することを決断しています。
インフラに関しては、この地域の道路ネットワークが拡大されるとともに、国際標準に準拠した二車線道路がティズニットとラユーン、ダフラを繋ぐために建設されることになります。
私はまた、アフリカ各地とを結ぶハブ空港を南部地域に設ける検討をすることも、政府に求めました。
私の念願の一つに、アフリカ他地域とモロッコを繋ぐためにタンジエとラグイラを結ぶ鉄道を実現することがあります。今日のマラケシューラグイラ線完成のために今必要となっている資金の確保に助力いただけるよう、全能なる神に祈ります。
我々にはまた、「偉大なるダフラ大西洋港」を建設し、南部にて主要太陽光及び風力エネルギー・プロジェクトを遂行して、ダフラと国立送電網とを接続する意思があります。
我々の目標の一つは、これらのネットワークとインフラをアフリカ諸国へと繋げて、これにより諸国の発展に寄与することであります。
もちろん私は、これらのインフラが、それ自体では、国民の生活状況を向上させることができないと理解しています。それゆえ私は経済発展を推進し、人間開発計画にてこの行程をサポートすることを切望しているのです。
強調しておきたいのは、この点について天然資源からの収入は、この地域の人々の便益の為、そして彼らとの協議と協力にて、この地域へと投資され続けるであろうということです。
地域の資源と製品の利用と振興のために、ダフラの主要海水脱塩プラントや、ラユーン、エル・マーサ、ボジュドーの産業区と施設類の設立のような、幾つかの計画が遂行されるでしょう。
これらのイニシアチブをサポートするために、国内及び海外の投資家のために明快さと競争力とが共存して、彼らがこの地域の発展に貢献できるよう、投資しやすい法的枠組みが制定されることを切望しております。
経済構造を拡大し、事業と社会経済をサポートし、定収入を発生させ、特に若い人々の雇用を創出するために、経済発展基金も立ち上げることになりましょう。
国民よ、
私にとって、最も重要なこととは、サハラにおける我々の同国民の尊厳…とりわけ、若い世代の尊厳…が保護されることを確実とし、彼らの愛国心と祖国への傾倒を強めることであります。
よって私は、人口の殆どのセグメントで要求されている公平と社会的正義の原則を維持するため、社会保障システムに立ち戻り、これをさらに透明で公平なものとするよう、政府に求めています。
さらに、サハラの人々の心臓と心の中で特別な位置を占めているハッサーニ文化を考慮して、サハラの伝統の保存と推進のために必要となるメカニズムを、とりわけ、この国の南部に劇場、美術館、カルチャーセンターを建設して、強化することを切望しております。
人権についてですが、モロッコは、全能の神のお恵みにより、国家の動員、良好な治安統制、そして国民社会組織との建設的連携を通して、たくみに我が敵の目論見を打ち砕きました。
そのうえ、憲法にて定められた機関であります国家人権協議会とその地域委員会は、権利と自由の保護を任務としておりますが、如何なる違背があろうとも、これに対し、公的機関、市民社会組織、そして国民との対話と協力を通じ、取り組んでおります。
国民よ、
進歩的地方分権化を遂行して、モロッコの信用を強化するとともに、公約を重んじる国であることを示すのです。
私が国会開会式で強調したように、この地域で選ばれたオフィシャル達は、国民によって民主的に与えられた正当性により、国家機関だけでなく国際社会とも向かい合う、南部地区居住者の真なる代表者となります。
進歩的地方分権化の遂行は南部地域が最優先であることを確かなものとするために、一連のプログラム契約が、中央政府と本地域との間で、開発プロジェクトの実行に関する其々の義務をはっきりさせるために、締結されることになりましょう。
私はそれゆえ、王国の他の地域の経験が繰り返されることを期待して、権限委譲の立法文書の採択を急ぐこと、適任な人的資源と資金とを移転してこれをサポートすることを、政府に対し命じています。
我々はまた、地域部局に対し、この地域の物事を地方レベルで動かしていくのに必要な特権を与えるための、本当の行政権限移譲勅許状の準備を急がねばなりません。
私はそれゆえ、我々の南部地域の居住者とその代表者達が、彼らの責務を遵守することを期待します。今や、彼らが自らの物事を執り行って自身の要求を満たすために、制度化された開発関連のメカニズムを設定しているのですから。
国民よ、
モロッコが何かを約束するときは、言行をともにします。我が国は、履行できないことは公約しません。
ですから、我々は世界に向けてこう言いたいのです:他とは違って、我々、モロッコに居る者は、空疎なスローガンを使うこともなければ、幻想を売ることもしないのだと。我々が何かを公約するときは、その内容を履行して、大地の上で物事を執り行うのだと。
今日、モロッコは「モロッコのサハラ」をサブーサハラのアフリカ諸国との通信及び通商のハブとすること、そしてそれを達成するのに必要なインフラを建設することを誓いました。そして今一度になりますが、我が国はこの約束を守るでしょう…敵たちが好むと好まざるとにかかわらず。
ところで、ティンドウフでは…アルジェリアのですが…人々が、貧困や、絶望、収奪そして基本的人権の侵害に苦しみ続けています。ですから、私はこう問うべきと思うのです:
「何百万ドルもの人道的な援助はどこに行ってしまっているのか…一年あたり6千万ユーロも?…分離主義者たちの装備、プロパガンダ、そして弾圧に費やされる莫大なユーロについては言うに及ばず。」
「分離主義者の主導者たちが腹立たしくも裕福で、欧州やラテンアメリカに不動産や銀行口座を所有しているという事実を、どう説明できるのか?」
「どうしてアルジェリアは、人口がせいぜい四万人のティンドウフ・キャンプの生活条件を…例えば、アルジェの中程度の人口の区域と同程度にまで…向上させようとしないのか?」
これはつまり、彼らの威厳を守る住宅6,000軒を、アルジェリアは建てることができていない…もしくは建てるつもりがないのだ、40年にも及ぶのに…ということなのです。
どうしてアルジェリアは…モロッコに軍事・外交で対抗するために莫大な額を費やしているのに…ティンドウフの住人達をあのような恐ろしい、非人間的な状態で生活させておくのでしょうか?
かのサハラの、自由で立派な息子たち・娘たちを、人道援助を乞う者に変えてしまった者どもには、歴史が裁きを下すでしょう。
彼らがサハラの女性や子供たちの集団の悲劇を利用して、彼らを戦利品に変えてしまっており、違法な商業活用だけでなく外交的論争のための道具としても使っているという事実を、歴史は物語ることになるでしょう。
ティンドウフのキャンプに居られる人々に問います:ご自分たちの生活状況がすさまじいというのに、あなた方はそれで良いのでしょうか?このキャンプに居られる女性は、息子さんたちや娘さんたちの間に広がっている絶望と落胆の意味を理解しておられるのでしょうか…期待できる展望も未来もないというのに?
あなた方は、このような非人間的な状態などよりも良い扱いを受けるに値するものと、私としては信じております。あなた方がこういったことに耐えるのだというなら、誰を責めるわけにもいかないでしょう。そうしている間にも、あなた方の目前でモロッコは、その南部地域の発展を強力に推進していき、この地域の居住者が自由で威厳のある人生を楽しむのを確実にしていくのです。
国民よ、
この「サハラ問題」は、モロッコがその歴史のなかで初めて直面した問題ではありません。この国はシバ(無法)と混沌を知っています…保護領統治のもとで生きながらえ、占領を耐え抜きました。この国は、現代国家を築こうとして独立を勝ち取るうえで、不和と争いの時季も経験しました。
困難な状況に直面する度に、モロッコがいつも昂然として、強固であり団結していることが判ります。何故かといえば、モロッコ人は、自分たちが同じ運命のもとにあると信じ、自らの普遍の価値と領土の保全を維持しており、この王と民との間にある密接な絆と団結へと、全面的に委ねているからです。
進歩的地方分権化の遂行と開発モデルの適用を開始することにより、モロッコは、我々の領土保全に係る不自然な論争に対する不変の解決策を見出す機会が多くなることを望んでおります。
そのように信ずる理由はただひとつ、2007年にモロッコは、国際社会の呼びかけに積極的に応じ、この袋小路から出る道を見出すための案を編み出したからです。
そうして我々は「南部地域の為の自治イニシアチブ」を提案しました。その国際団体からは、真剣で信頼できる提案であるとの判断が出ております。
昨年私が「緑の行進」の記念日を祝う式辞にて指摘したように、このイニシアチブは、モロッコが提供できる精一杯のところなのです。その遂行は、国際連合機構の枠組みでの最終的な政治的解決の達成にかかることとなります。
モロッコの一部について何か別の譲歩を待っている者たちは、思い違いをしています。それどころか、モロッコはそこで与えるべき全てを与えています。モロッコは、このサハラを守るために、自らの息子たちの血を惜しみなく捧げています。
我々は、それ以上の譲歩をしなければならないのでしょうか?一部の国際非政府組織たちが、我々に望んでいるような?
我々は、こういった敵対的態度の裏にある理由を知っています。彼らの狙いは、この国を分割することなのです。しかし当の彼らには我々のことに干渉する権利などないことも、我々は知っています。
これは、国際組織内のある団体がモロッコの歴史を知らないままシナリオを創り出そうとするのに対処するうえで、我々が支持しているのと同じ原則です。そうしたシナリオは、エアコンの効いたオフィスで創り出され、現実から遠く離れて、モロッコ・サハラに係る地域紛争の解決のための提案として示されているのです。
モロッコは、如何なるものであれ、深刻な結末をもたらしかねない愚かで危険な行動方針も、「自治イニシアチブ」で生まれた前向きな趨勢を転覆することが狙いでしかない実行不可能な提案も、いずれもお断りいたします。
モロッコ製品への敵対的キャンペーンに対しても、モロッコの団結と不変の価値を守る政治と防衛のセクターで発揮されたのと同じ、犠牲と献身の精神に則って、立ち向かっていくことになります。我々の製品のボイコットを求める者たちについては、歴然とした国際法違反でありますが、彼らにはそうさせておきなさい。とはいえ、彼らは自ら決めたことの責任を執らなければならなくなるでしょう。
モロッコには、立ち上がるであろう大規模プロジェクトの恩恵で、この地域に生まれる投資機会から利益を得るために、自らのパートナーを…国家も、グローバル・カンパニーも…招待する権利があります。
丁度、我々がモロッコの北部と南部とを何ら区別していないように、トマトにおいてアガディール産とダフラ産の間でも、イワシにおいてララシュ産とボジュドー産の間でも、燐鉱においてコウリブガ産とボウクラア産の間でも…広く知られるデータで裏付けられているように後者が我が国の埋蔵量の2%に満たないとしても…我々の目には何らの違いも、みとめられないのです。
同様に強固な意志と揺るぎなさをもって、モロッコ・サハラの法的状態を疑おうとする企てにも、この国の北部地域でと全く同じように、この土地、この南部地域にて力と特権の完全なる行使を行う我が国の権利へ疑問を投げかける企てにも、モロッコは立ち向かっていきます。
これはつまり、我々の正当性を良く知らしめ、我が国がなしている進歩をスポットライトで照らし、我々の敵のもくろみに対抗するための、取り組みの強化と警戒の維持、これら全てを、我々は総動員で行っていかなければならないということです。
国民よ、
緑の行進を特徴づけたのと同じ献身と犠牲の精神を保ちつつ、我々の南部地域の開発を推し進め、その地方の息子たちや娘たちの尊厳を護ること、そしてこの国家の領土保全を維持することは、我々の集団的責務です。
そのようにすることが、「緑の行進」の考案者…私の尊敬する父であって後の王ハッサン二世陛下…安らかにお眠り下さい…と、この国の栄誉ある殉教者たちへの、忠節の証しとなる筈です。
アッサラーム・アライクム・ワロマツロー・ワバラカア-トゥ
京大ミス・ミスターコンテスト2015がTwitter上で盛んに行われた批判(と一部中傷)により中止に追い込まれた。私自身は京大生でもジェンダー論界隈の人間でもないのだが、この過程を見ていて多くの疑問を感じたので、ここにまとめていく。別にミスコン批判について詳しく解説する記事ではないので、そのようなものを期待していたなら別に読まなくていい。
基本的にはこのtogetterに沿って発言していく。ミスコン批判者側のパースペクティヴがわかりやすく整理された良いまとめであると思う。最初に断っておくが、私はミスコンをやめさせることには賛成であり、その意味でミスコン批判者側である。ミスコンを開催するようなやつらは大抵が最も憎むべきタイプのキモい人間である。しかし今回、ミスコン開催反対派としていち早くステートメントを出していた人々の持つある決定的な傾向が私にはないと感じたので、普通の意味でのミスコン批判を〈ミスコン批判〉と呼び、この記事で疑問を投げかける対象となるものを「ミスコン批判」と呼ぶことにしよう。
注意しなければならないのは、私は「ミスコン批判」者に敵意は全くない、ということだ。ミスコンを中止に追いやったこと、ただその一点に関しては全面的に肯定したい。この記事が特定の人々に対する人格攻撃に見えたのなら先に謝罪しておこう。申し訳ない。私が考えたことのどこが間違っているのかをわかりやすく教えてくれるひとが現れれば、私は満足だ。
11月16日に「京大ミス・ミスターコンテスト」なるアカウントが取り上げられたことから騒動は始まる(アカウント作成自体は7月のようである)。
【開催】本日より京大ミス・ミスターコンテストを開催します!???????? 11/29まで1日1回投票を受け付けております????是非サイトをCHECKしてみて下さい????✨ ▶︎http://www.missmisterkyoto.com/
これまでに何度かミスコンに関し議論が繰り広げられてきた(そして開催を阻止してきた)京大でのミスコン開催がこの時点で全くと言っていいほど問題視されていなかったという事態を重く見たひでシス氏らは、「京大ミス・ミスターコンテスト2015の問題点まとめ」なる文書の公開及びミスコン運営団体に対する公開質問状の提出を実行した。
「京大ミス・ミスターコンテスト2015の問題点まとめ」草案 です。気が付いた点があれば自由にコメントや編集をしてください。 https://t.co/ZZeaWzn81b
.@kyotomissmr 京大ミス・ミスターコンテスト(京大ミスコン)に対して公開質問状送りました。https://t.co/ENgjjDZwvk 多くの京大生たちが貴団体のコンテストについて違和感・疑問点を抱いています。生産的な対話となることを期待し、誠実な回答を希望します。
正直に言うと私にはこの公開質問状の意味がわからない。大学当局主催ならまだしも、単なるひとつの学生団体(企業が関わっているかどうかは本質的な問題ではない)にこのような物々しい文書を送りつけても「一部のTwitterユーザーに臨場感を提供できる」ことくらいしか得られないだろう。
今回、貴団体が「京大ミス・ミスターコンテスト」をWeb上で開催していることを知りました。しかし、私はこのコンテストにどこか違和感を覚えざるを得ませんでした。それは、これまで京大において積み重ねられてきた、ミスコン開催を巡る歴史と議論をまったく軽視しているように思えたからです。
「これまでのミスコン開催を巡る歴史と議論を軽視している」のは当たり前ではないか? そんな歴史と議論を認知している学生がいったどれ程いるというのだろうか。私が部外者であるから知らないだけでほんとうは多くの京大生――あくまでも「当時の」――がミスコン問題を認知している、という可能性もあるが、そもそも前回類似の問題が取り沙汰されたのが2012年(なんと3年も前である! 当時の2回生は留年・休学あるいは大学院進学していなければもういない)らしいということからも明らかであろう(そしてあなたが京大生ならば、2012年から2015年にかけてあなたのフォロー欄にどれだけの変化があったか考えてみてほしい)。2012年のミスコン問題について調べたところ今回のものとは異なる質の問題だとも感じたので、実質2004年まで遡って議論を追っていく必要がある。Twitterも存在しない時代じゃないか。突然「これまでのミスコン開催を巡る歴史と議論」などと言われても混乱するだけだ。
今回議論に参加したわれわれ京大生の多くは本コンテストの開催を知りませんでした。京大の名前を冠しているにも関わらず、京大生への認知不足に不信感を感じる覚える意見が多く出たのは事実です。「大部分の京大生の知らぬ間に京大ミス・ミスターコンテストを開催し既成事実を作ろうとしたのではないか」等の疑問点や不満を持っている方が多くいます。ミスコン開催容認派からもこのような声は聞かれました。本コンテストの告知をどのように行ったか具体的にご回答下さい。
これは単なる団体の体力の問題だろう。7月にアカウントを作り、9日間でフォロワーを300人まで増やし、ビラも配っていたのに「知らぬ間に」などと責めたてるのはちょっと厳しすぎる。普通にかわいそう。「京大」名義の使用には許可が必要という話は置いておくとして、京大の名前を冠しているかどうかは本質的に重要な要素なのだろうか。逆に、誰の目から見ても十分な告知が成されたところで京大の名前を冠しても良いと言えるのだろうか。ところで私の大学のミスコンも毎年知らぬ間に終わっている。あれが外見至上主義的だなんて思ったこともない(し無自覚に外見至上主義を推奨しているようにも見えない)。
「美」のほうには噛みつくのに「知」のほうには噛みつかない理由についてひでシス氏は以下のようにツイートしている。
ちなみに「人を社会的に容姿で順序付けることはよくない」と考えている人たち、その理論も論理力という権力勾配に乗って展開されてること、人を学力で順序付けることに関してはどう考えてるのだろう。ぼくは「学力による順序付けは生産性向上を通じて人類の幸福に影響する」で一応決着つけてるんだけど
故にこの批判の核、と言うか土台は、ガッチガチの功利主義であることが明らかとなった。「普遍的な道徳が前提とされていて、それに従っている」というわけではないらしい(「ミスコン批判」者の中には功利と道徳の混同が見られるステートメントを提出する者が多く見られた)。功利に基づく批判はホリィ・セン氏の以下のツイートの後半と衝突する。
「容姿」という価値基準が絶対化してしまった世界――「顔という牢獄」――からの逃げ場はあるべきで、京大はその逃げ場を担っていると思う。もし京大がミスコンを許してしまったら、他大学も「右にならえ」でしょうよ。ある種の「多様性の維持」のためにも、ミスコンは阻止しなきゃならん。マジで。
〈ミスコン批判〉とは「多様性の維持」のためにミスコンを阻止しようという運動であるという側面を持つ、ということか。「功利」という価値基準が絶対化してしまった世界――「ユーティリティという牢獄」――からの逃げ場もあるべきである。もし京大が功利主義を許してしまったら、他大学も「右にならえ」でしょうよ。ある種の「多様性の維持」のためにも、功利主義には断固として抵抗しなきゃならん。マジで。
今回気になったのは、そういった少しでもマシな社会を引き寄せるための泥臭い活動を、シニカルを装って冷笑したりこのヒドい現状をさも世の中の真理のように説いたりする言説があったことですかね。「たしかにおかしいとは思うが仕方ない」と言った瞬間に少しでもマシな社会は手から離れていってしまう
良い社会を実現するためには何をやってもいいのだろうか。功利主義的には良いんだけど。社会的に悪い影響を与えるというただその一点だけを根拠にして、単なる一つの企画を弾圧することを手放しで称賛するような風潮を放置しているとさらにとんでもないことになるのは火を見るより明らかであろう。正当かつ普遍的な理由で反対していないのだから、中止の時点で追及はやめるべきである。
先程のホリィ・セン氏のツイートに従うなら、今回のミスコンを功利主義的に弾圧することは避けるべきなのだ。ホリィ・セン氏のツイートそれ自体が京大における 「多様性の維持」という価値基準が絶対化してしまった世界――「ダイバーシティという牢獄」――を象徴してしまっているのが残念ではあるが。
さて、公開質問状に戻ろう。
突然「容姿による人間の順序付け」というワードが出てきたが、ミスコンと何の関係があるんだ? そもそも「ミスコン」と「容姿」の間に直接的な関係はあるのだろうか。これらの間接的・結果的な「つながり」がこの一文によって再生産されている、ただそれだけである。
c. 所謂「女性らしさ」や「男性らしさ」の押し付けに繋がることについてどういった意見を持っていますか?
大学という本来容姿や性で判断されてはならない場でこういった企画を行うことは問題だ。という意見が寄せられています。
ミス・ミスターコンテストは、ほとんど容姿で判断されるコンテストと言って過言ではなく、そういったコンテストを男女で分けて行い、女性(男性)同士を比べてその中で1番を決めると、「この人が女性(男性)の中で1番」という「基準」が生まれてしまう。その「基準」は女性(男性)らしさの押し付けに繋がっているという意見が出ました。
同上。直接的には繋がらない。最初からルッキズムが浸透していることを仮定しており、本末転倒である。また、ミスコンごときが出場者以外への特定の価値基準の「押し付け」に繋がるとは到底思えない。
公開質問状についての主要な議題は以上である。この質問状とTwitterでの制御の効かなくなった批判・中傷によりミスコンは中止となった。
今回のコンテストの中止を決定いたしましたのでご報告いたします。
中止の決定の後4時間ほどで公開質問状に対する回答が送られてきた。ただ多くの質問に説明責任がないとして回答しないもので、不誠実だと感じられた。
説明責任はない。どうして説明責任があると思ったのだろう。純粋に、不思議だ。
京大ミスコン問題2015の公開質問状に対して回答が得られたので、議論用のDocsと総括用Docsを作成しました。ご自由にコメント・編集下さい。 回答と議論: https://docs.google.com/document/d/1BybFd2Th2NzTMQ3AK76kTrVjxB7S0jkMBSjVKGdQ4oE/edit 総括とこれから: https://docs.google.com/document/d/1L8bcokWX-gEHD0ecqT8UC_NyDBrboPULl3TSlZewjY4/edit
また、以下のような危うい意見もあった。
ミスコンの基盤となる差別的価値観は日常の模倣で、「ミスコン」はステージだけでなく日常で行われ続けているという事を認識してたら、一つ企画が中止になったところで「勝利」なんて言えないと思うけど。。ミスコン反対もクエストになってどうすんの。 >京大ミスコンクエスト
このような発言をすることによって差別的価値観を再生産し続けると永遠に闘い続けなきゃいけなくなりますよ、としか言いようがない。自足自給はやめましょう。
ちなみに言っておきますけど、ミスコンの内包している問題的構造は日常の中に浸透しているからこそ今回ミスコンがミスコンとして具現化した・言い換えるならばミスコンは日常的にも起きている、というのはその通り。
同上。
moralistよりもethicistになりましょう。そして自分たちがやったことについてもう一度よく考え直してみましょう。
以上、眠くなってきて最後の方はテキトーになっているが、ここで終わろう。言葉をうまく選べているか不安だが、最初に述べた通り、攻撃の意思はない。
質問の件に触れる前に前回の補足と今回の質問に関係する部分をお話ししたいと思います。話が長くなって申し訳ないです。くどかったら飛ばして下さい。
ものには何でも「値ごろ感」とでも言うべきものがあり、それはその値段の歴史でおおざっぱに決まっているようです。原価や需給のバランスというのは経済学的には価格決定の要素として解説されるのですが、マクロにはともかくミクロや日常レベルではそこまでビビッドは要因にはなりません(人間の目は店頭で需給バランスが可視化して見えるというわけではないですからね)。書籍で言えば文庫本って500円から1000円弱くらいだよなあ。ハードカバーって2000円から3000円くらい? そういう肌感覚です。もちろんこれは永遠不変のものではなく、値上げしたり値下げしたりがおこなわれ、受け入れられ日常化する繰り返しです。いまから10年ほど前、おそらく文庫本の平均価格は50円ほど安かったと思いますし、僕たちが子どもの頃(というとばらつきがありますが)週刊少年ジャンプは200円を切っていました。
前回はなした「ハードカバー3000円ほどで売り出して、後に廉価版で700円ほどの文庫で出し直す」というのも、この値ごろ感が関係した結果です。最初から3000円の文庫でだし、部数が伸びるに従って値段を下げることは(少なくとも法制上や原理上)不可能ではありませんが、みなさんの「値ごろ感」が邪魔をして、3000円の文庫は購入してもらえないのです。なかには「いいや俺は本棚圧縮のために喜んで金を払うね」という方もいらっしゃいますが、それは少数派です。
さて、値ごろ感の話ですが「ハードカバーって2000円から3000円くらい」の本は売れます。多くは売れません。しかし少なくとも、その規格の本が現在でも毎月出る程度には、世間に受容されているわけです。「この大きさの商品に2000円から3000円くらいは払うよ」というのが一定読者層からは理解を得られていると考えられます。それは文庫も同じです。文庫サイズで500円から1000円弱(じりじり値上がりしています)は世間に「まあ、そんな値段のアイテムだろう」と思われているわけです。パッケージと値段のセットはセットであって、たとえば「ハードカバーと文庫の間の大きさで、値段も真ん中くらい」とか自由に決めてもなかなか浸透しません。書棚のサイズの問題や整理の問題もありますし、なにしろ値ごろ感は皆さんの内部の常識ですからそれを固定化するのに時間やコストがかかります。
角川ホラー文庫とかあとハヤカワとかの、
さてやっとこの話が出来るのですが、「B6程度のソフトカバーで1000円~1500円程度の小説を売る」というのは、最近「発明」されて「根付いた」新しい値ごろ感なのです。
いやいや昔からあったよ、という指摘もあるとは思いますが、いまほど安定できたのはごく最近のことだと思います。(さらに以前はカッパノベルスなどのノベルス判型があった地位なのですが、仮想戦記没落のあたりで徐々に廃れて行ってしまいましたね)
この新しい値ごろ感は、Web小説などをきっかけに広まったように思います(ここは私見です。きちんと統計などを蒐集すれば別の経緯かもしれません)。
新しい値ごろ感の発見というのは、そのまま、新しい読者層の発見でもあります。いってみれば「文庫しか買ってくれないと思っていたライトノベルユーザーが、少し大きめの判型であれば1200円だしてくれるのだ!」というエウレカでした。はっきりとした統計データなどはもっていませんが、現場の肌触り的な感覚で言えば、a)初期ラノベを読んでいた読者の皆さんが年齢を重ね可処分所得が増えた結果、1200円程度のレーベルでも購入してくれるようになった。b)すべての国内大衆小説が多かれ少なかれラノベの影響を受ける中で、文庫判型ではないライトノベル(の隣接したなにか)が要請された――などの実感を持っています。
日常的に書店に行く皆さんであれば判ると思うのですが、ここ数年の間に書店ではB6判型ソフトカバーのライトノベル的な書籍がふえていませんか? Web小説が主流ですがそれ以外の参入や、ボカロ小説と呼ばれるものや、自動文学的なもの、推理小説とライトノベルのハイブリットのようなものも見られると思います。それはこの「新しい値ごろ感」=「新しい判型と価格のバランスポイント」が皆さんに受け入れられ、希望があると出版社が判断したからです。もちろんそれが全面的に善だとはいいません。まだ固まっていない規格でぼったくってやれ、というような出版社やレーベルがあるかもしれませんし、読者的には「文庫で良かったのに」と思われるかもしれません。
とはいえ、新しいチャレンジなど10して1つか2つ成功すれば万歳ですから、この「B6ソフトカバーで1000円~1500円」というチャレンジは、最近の出版業界では(かなり)成功した部類だと言えます。
元増田です。
直感だけで書いた記事に、丁寧なご解説下さりありがとうございます。
勉強になりました。
ですが、テロとの戦いで最良の手段は、「無視」なんじゃないかっていう結論な気がしてしまいました。。。
どんな被害が出ようが、どれだけ多数の人が亡くなろうが、無視するという選択を取り続けていれば、テロリズムの価値は無くなっていくのでしょうか?
もちろん、それは現実的には不可能なのかもしれませんが、思考実験として、それは成功可能性大なのではないですか?
たとえば、子育てで、子どもはいたずらをして親や周囲の気を引こうとしているのだから、いたずらを辞めさせたいなら、叱りつけるより無視を続ける方が良いという子育て法と、なんだか似ている気がします。
現実に割と最近取られた戦術として、延坪島砲撃事件後の韓国側の対応が挙げられると思います。
延坪島砲撃事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%9D%AA%E5%B3%B6%E7%A0%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
この事件で、韓国側には「報復」という選択肢はあったはずなのに、「防衛」以上の対応はあえてしなかった。
もし、報復行動をしていたら、全面的な戦争突入も避けられなくなるから、韓国側だけが一方的に被害を受け、民間人の死者まで出ていながら、それ以上の対応をしなかったのだと、思います。
もちろん、この砲撃は一応事前通告されていて、「テロ」とは言えないですし、今も朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の間は緊張関係にあるのですが、実際の交戦はその後起こっていない。
これって、すごいことだと思います。
当時アメリカは、テロとの戦いを表明することで、自由と民主主義を守る名目を建前にしていながら、逆にその根本的倫理を縛り付け、辱めてしまった。
テロリズムは、自分たちがのし上がるためではなく、相手の地位を失墜させる手段として、実際に功績を挙げてしまったということですよね?
テロを相手に、戦おうとすればするほど、自分で自分の首を絞めていく。。
それがテロリストの目的であるとするならば、無視以外の選択肢など、見当たらないように思えてしまいます。
欧米政府のスタッフは当然この辺りの原則は百も承知の上でやっていると思いますよ。
小学校の帰りの会で、ケンカ相手の男子生徒を憎むあまり「○○君はいけないと思います」つって直接関わってないクラスメイトを強引に自分サイドに引き込もうとする頭の足りないブスみたいだ。
んで引き込まれる人々のまた滑稽なこと。
甚大なダメージをくらったフランスを応援したいという気持ちもそれ自体はいい。
プロフィール写真に国旗を重ねるというその発想が気持ち悪いのよ。
国旗掲揚とは愛国心のひとつの発露であり自らの国民としてのアイデンティティを示すものだ。
震災以降の、頑張ろう日本の日の丸掲揚の数々は、そういった動機によるものだと理解している。
お前はフランス人なのか。親兄弟にフランス人がいるのか。フランス人の友達がいるのか。
あるいはフランスを旅行したときにその風土や国民性に魅せられ、なにがしかのシンパシーを感じているのか。
それならまだわかる。
友人に、フランスに短期留学を繰り返し、学んできたことを仕事に全面的に活かしている人がいる。
しかしそれ以外のやつら。
あるいはテロに対抗してるつもりになっていいことしてる気分になりたいだけだろ。
フランスを応援したいなら、フランスを応援しますという声明を出せ。
軽々しくプロフィール写真にそんな加工を許すな。
ただ顔写真が三色になってる大部分のやつらの軽薄さが気にくわないだけだ。