はてなキーワード: 不可能とは
id:arrow1953 のまんだらけの「禁書房」はオタクのキモさを周囲に知らしめる絶好の機会 - サブカル 語る。について批判する。
「若い女の子の多く集まるお店の前。」というのを考えてみた時に「そもそも、自らの性癖を周囲(しかも女性)に晒すことになる店なんぞに客はやってくるのだろうか?」という考えはなかったのだろうか?いやいや、おそらくあったのでしょう。ということはむしろ「女性たちに自分の性癖を晒すことになる」のが大前提であり、それこそこのお店の最大の「ウリ」と判断したのだと考えるほうが自然。
いや、それは不自然だw
まず、中野ブロードウェイはテナント部分も区分所有であり、以下のような理由が考えられる。
で、客が来るか来ないかでいえば、もともと周辺はまんだらけや、他のアダルトショップもあり、回遊性という意味では特に支障が無い。
つまり、目の前のファンシーショップのことを気にしていなかっただけ、と考える方が明らかに自然だろう。気に入らないものに対して、無理に悪意を見出そうとするのは人の心理ですが、書いていて気づかないのは、はっきり言ってかなり重症である。
一般的な形で社会にコミットしているエロ好きオタクや非オタクな社会人の皆さんはそんな環境を「キモい」と思うでしょう。社会にコミットできているエロ好きオタクにとって迷惑このうえありません。
社会というものについて深く考えることもできず、ただ性欲をダラダラと人目を憚らず周囲に垂れ流すだけの節度のない「オタク」ははっきりいって「ジャマ」。
しかし、そもそも「社会」とは何だろうか。単に、"いかがわしいものは排除する"程度の話であれば、それは、「社会」の話ではなく「世間」の話に過ぎないと増田は考える。これが、もし「社会」の問題であれば、ファンシーショップやその客側の利害や権利、まんだらけやその客側の利害や権利を洗い出して具体的に特定し、それを比較衡量し、なおかつ人権といった普遍的とされる概念に照らして判断する必要があるし、もし規制するとしても、最小限度の範囲で利益を考慮したかたちで行われる必要があるだろう。
id:arrow1953 の言い分を要約すると「"キモイ""節度のない""社会に対応できない非常識なオタク"は"ジャマ""迷惑"だから"駆除"すべき」といったことを言っていると思われる。ここで、注目すべきは「駆除」の条件である。
これらの、主観的な悪徳の評価は、おうおうとして少数民族や異端の迫害、村八分を行う理由として使われてきたものである。ちょうど先日9月1日は関東大震災の日だったが、その際に行われた朝鮮人やその他外国人、「アカ」、その他の余所者などの人々に対する虐殺は、このような理由のはっきりしない主観的な悪徳の評価が大きな背景としてあった。id:arrow1953 の主張は、関東大震災で虐殺に及んだ「普通の人々」とほぼ同じである。
なお、ちゃんと人権を学んだ人は「公共の福祉」つまり、権利の衝突から、必要最小限の自由の制約ということを考えるし、仮に自分が不快に思ったとしてもそんな感情はクソどうでもいいものとして棄却しちゃんと合理的な思考をするように訓練されているし、市民(≠大衆)はそう訓練されなければならないと増田は考えている。
ゾーニングを守ってさえいれば
この、「ゾーニングを守る」の一言で済ましてしまうことが、大きな問題である。
まず、完璧なゾーニングというのは不可能である。どんなに隠したところで、そこにそういうものがあることは隠すことができない。なぜならば、ゾーニングは中に何があるかを明示しなければゾーニングにならないからだ。また、厳しいゾーニングで広告宣伝が制約されたり、不便な立地に追いやられれば、当然に、売上や客足に影響するだろう。また、ゾーニングの対象をどのように選ぶかという問題もある。たとえば、ユダヤ人の経営する商店は特定街区にゾーニングするとすれば、それは単なるゲットーだ。
このように、一言で「ゾーニング」といっても、営業の自由やそれによる利益に対して配慮し、合理的に規制しうる最小限度の範囲で行うための子細な検討を要するはずである。それらを抜きに「いかがわしいアダルトショップが悪い!」みたいな雑なお気持ちで「ゾーニングしろ!」と吹き上がるのは、はっきり言って、コリアンタウンでデモをやる在特会の連中とさして変わらない。
鼻で笑っちゃうんだが上級国民を引きずり下ろすってどうやって?
たとえばあの悲惨なオリンピック開会式にしたってだれか責任を取りました?
- 組織委職員 日置貴之 氏「基本コンセプトはダイバーシティー&インクルージョン(多様性と調和)」
組織委職員 日置貴之 氏「五輪招致の起源だった "復興五輪" という言葉をコンセプトにたまたま書いてないが省いたつもりはない」
組織委職員 日置貴之 氏「岩手、宮城、福島の方々へのメッセージは(演出を)みてもらえばわかる」
ー コンセプトが全て英語だが高齢者の方も読むし日本の新聞なので日本語表記がほしい
組織委職員 日置貴之 氏 「コンセプトの日本語は用意していない。世界に分かってもらいたいということで英語のみになった」
↑ 母国語って知ってるかな?🤔
・語彙力がない(言葉の読み方を間違っていることも多い)
・テレビを全く見ない、インターネットもやらないのでスラングも知らないしオタク知識もない
・香料が苦手で化学物質も苦手なため衣類が基本的に謎の匂い、さらに本人は恐らくワキガなので臭い
・スマホをほとんど見ない、一緒にいる時にスマホを触ると怒る(こちらは初回からオタクでスマホゲームを嗜むことを話している)
・少食すぎる(しかも「炭水化物を摂ると眠くなる」という理由)
・カフェで働いていたにも関わらずカフェインにも弱いので紅茶もコーヒーも飲めない
・反応が薄く、話してもこちらの言ったことを理解しているのかよくわからない
・感情が読めない
・色々遅いタイプなのか、言いたいことを後からまとめて長文で言ってくる
・LINEの短文のやりとりができない、LINEが返ってくるのに丸一日以上かかる
・猫背
・家庭環境が複雑そうだがなかなか話してくれない
・単純に顔が好みではない
・別れた途端にこちらのこととしか思えない人物がひたすら責められる小説を書いて送ってきた
思い返してみると、何故付き合ったのか全く分からないレベルだった(コロナ禍の冬にマッチングアプリで知り合ったので、夏場の匂いなど分からないことがたくさんあった)。
その確固たる事実が、私を奮い立たせてくれる。理不尽をやり過ごす勇気になる。
実際に奮い立ったこと一度でもあるのか?
私は学歴厨だ。
自分の大学よりも上なのか下なのか常に探りたくなる衝動に駆られる。
まあよくない事であるという自覚はあるが、そういう話が回りでされている時だけ
いわばゴキブリホイホイならぬ学歴ホイホイといったところである。
大人になってまで学歴厨なんて恥ずかしいと思うこともあるのだが、
うちの会社の理不尽クソ野郎どもが軒並み自分より低学歴又は同じ程度の学歴だからだ。
理不尽クソ野郎どもに囲まれて仕事をするのは地獄だが、ここで私の学歴厨が功を奏すのだ。
例えば理不尽に怒られたとする。
勿論、高3の模試がどうだろうが大学どこに受かろうが仕事出来るやつが会社では偉い。
それは100も承知で分かっている。いいか、ここ重要だぞ。それは1 0 0 も 承 知 で わ か っ て い る。
だが、心の中で、こいつは自分がすらすらといていた問題を解けなかったやつなんだろうなとか、
自分が発表を見て笑っていた掲示板サイトの前で泣いてたやつかもしれないんだなとか、そこまで想像すると
どんなに偉くなっても、最終学歴は消えない。お前がF欄卒だったっていう恥ずかしい事実はけすことが出来ない。
少なくともあの時、私の方が一生懸命頑張れた人間であり、難題をクリアできた人間であるという事実は絶対に消えないのだ。
その確固たる事実が、私を奮い立たせてくれる。理不尽をやり過ごす勇気になる。
そして、少なくともあの時は自分の方が勝っていたのだから、今の状況を打開することが不可能なんてことは絶対にないはずだ。
どうだ。本物の学歴厨は、自分を奮い立たせる道具にその性質を使うんだ。
学歴厨、なめんじゃねえ。
「続・鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」(https://anond.hatelabo.jp/20210829124450)の「鴻巣解釈の検討」の項だが、Twitterで鴻巣自身から、その読み筋についてのツイートは削除したので言及するのはアンフェアだと指摘されたため、これによらない形で検討する。
なお、その後鴻巣は私のアカウントをブロックするアンフェアな挙動に出た。「そういうツイートをしていた」ことは紛れもない事実なので、記事の当該箇所を修正するような対応は取らない。
さて、参照できるのはEvernoteくらいなので、解釈に相当する部分を引用しよう。
ここで、帰省して初めて、母と二人で話した。
父が体調を崩してからの二十年、幸せだった、と母は噛みしめるようにしみじみと言った。(わたしは-筆者註)驚いて声を飲みこんだ。
母本人の意識や記憶と、傍から見た"現実"に齟齬があるのだなと思いました。
じつは、父が体調を崩してから(も)「不仲なころ」はあったということだろうと。
その後に、主人公の母が父を「いじめ」ていたことを父の亡骸に詫びる場面があります。
いよいよ蓋を閉めるというときになって、母がお棺に顔を寄せ、「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」と涙声で語りかけ始めた。「お父さん、ほんとにほんとにごめんなさい……」と繰り返す声を、ぼんやり寄りのポーカーフェイスで黙って聞いていた。p43
このいじめが二十年間の看護・介護中に起きたとは特に書かれていませんが、いつ起きたことなのかの明示もありません。
父が病気になる前にも、看護・介護中にもあったのだろう、そういう物語として、わたしは読みました。ここが、作者の意図と違うと指摘されているところです。
(鴻巣友季子、「8月の朝日新聞文芸時評について。」https://t.co/x7kg81XQPc?amp=1 強調は原文ママ)
①「記憶の中の母は、わたしから見ると、家庭という密室で怒りの発作を抱えており、嵐になるたび、父はこらえていた。/不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞くと、母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた」。〈わたし〉がここで思い浮かべている「記憶の中の母」が介護中であるか否かという問題。
②単純に母が「覚えてない」と言ったことを理由に、記憶全般があやふやになっていると判断し、「母本人の意識や記憶と、傍から見た"現実"に齟齬がある」と解釈してよいか、また「じつは、父が体調を崩してから(も)「不仲なころ」はあったということだろう」と解釈してよいかという問題。
①については「鴻巣解釈の検討」の項目で、鴻巣Evernoteが無視している「それから、/「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない? この二十年は病気という敵と一緒に戦っていて、関係が変わったとか」/と言ってみると、母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた。」の記述から否定した。また、ここは母との会話であるから、母も「病気になる前」と「この二十年」は別だと、つまり「不仲だったころ」は「病気になる前」であるという〈わたし〉の前提を共有していると取らなければ非合理的である。無論、実は会話が噛み合っていないのだと読んでもよいが、その読みがテクストを豊かなものにするかよく考えた方がよい。
②についても、母は「母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた」ので、記憶が全く失われてしまっているとは考えにくい。言われれば思い出すのだ。また、「母本人の意識や記憶と、傍から見た"現実"に齟齬がある」と仮定する(鴻巣は「思いました」としか書いておらず、そう判断する合理性を説明していない)のであれば、父の棺の蓋を閉める際の「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」が介護中を/も指しているとすることは非合理的である。この仮定は、「夫を虐めた記憶」を含め、母のすべての記憶がそもそも偽りかもしれないという、読みの未決定状態をもたらすからである。この仮定のもとでは、「弱弱介護の密室で」「虐/待した」を事実であると確定することは、〈母〉も含めた作中人物の誰にも、テクストを読む誰にもできない。よって、介護中の虐/待を作中世界で起きた出来事として捉えることは、合理性を欠く、評者の「主観的」な決定行為にすぎない。
鴻巣の読みがいかに非合理的であるかをここまで確認した。私は「非合理的である」ことを示したまでで、「不可能である」とは言っていない。また、「非合理的な読み」は「解釈」と呼ぶに値しないと考える。
なぜ鴻巣の読みが合理的でないと示さねばならなかったかといえば、それが鴻巣の主張が成り立つための必要条件であることを、鴻巣自身が認めているからである。
もちろん、今回の小説で「じつは父は生きていた」などの読解を書評で行うのはおかしいと思います。「合理的な解釈であれば自由ではないか」という意味です、念のため(桜庭さんは当然おわかりと思うので、桜庭さん宛てではなく、これを読む方々に宛てています)。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
鴻巣友季子の読みは合理的ではないと私は考える。桜庭の代弁ではない。私個人の考えである。だが、私の考えは合理的であると考える。
よって鴻巣に自身の読みが合理的であるということを説明してから議論するよう提言したところ、このやりとりを最後に鴻巣にブロックされた。
先程のリプライと重複しますが、フェアであることに拘るのであれば、まずご自身の読みの合理性を説明するべきではないでしょうか。桜庭さんは「覚えてない」「覚えてたのか」の呼応を論拠にご自身の解釈の合理性を説明しているのですから。— 祝辞 (@yugatoh) August 30, 2021
すでにこの件には応答しました。失礼します。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 30, 2021
鴻巣と桜庭の議論はリアルタイムで、公開で、Twitterで行われており、何が自分の主張を正当化するかについてもツイートで宣言している。この「応答」はTwitter上で行われているはずだが、私には確認することができない……わけがないんだから、ブロックなんてしない方が得だと思うんですけどね。
私は、「介護中の虐/待を作中世界で起きた出来事として捉える」「評者の「主観的」な決定行為」は自由であると認める。
しかし、それを個人の読みとしてではなく、作品の要約(としてどう見ても読める箇所)に断定で書くという行為は別の問題である。
見積もり、設計、実装テスト…というフローで、見積もりで失敗したら挽回なんてできないんだよな
仮に見積もりをそこそこまともに取れたとして、設計がまずいのに実装・テストで挽回することも不可能
契約がアレで、見積もりも何故そうなったみたいな数値と線で、体制も出来ず空気は澱んで、たまに発狂するかのように怒鳴りつける声と咳が聞こえて
ひろゆきと専門家の対談動画をいくつか見ていたが、ひろゆきの態度が明らかに疑似科学的だったので驚いた
対談では終始自分のほうが正しく専門家が嘘を言っているという態度で議論に望み、実現不可能な仮定を持ち出しその仮定の上では正しいといった主張を繰り返している
自身の主張が誤りである可能性を全く考えず常に正しいという態度はまさに疑似科学そのものなので、この人が科学の分野について発信し多くの人がその動画を見ている現状はとても危険だと思った
自立自立うっセーわ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1766308
ただニートしてるだけの話なんだけど
ニートできるうちは別にニートさせときゃいいじゃん。ニートできるんだから
親が死んだらどうするのとかほざいてるけど、親が死んだら自立するか死ぬだけだろ
大抵の人は死なないから生きるし、バイトでもなんでも底辺の仕事を続けるだろう。そんでそれすらできない馬鹿だったら(多くの場合ニートになってる時点でそれすらできないだろうけど)、生活保護で生きるでしょう
そんだけだが
そもそも自分で生活できないっていう理由でニートしてるんだったら、そもそも自立自体は不可能であってニートをして生きる以外に選択肢ないし
自立して欲しいと思うのは自由だけど、人間を強制的に自立とか言って放り出すのは、勝手に他人を操作しようとする傲慢な態度でしかない
自立して欲しいことと、自立しなければならないの間には、天と地ほどの差がある。この人が自立したらなんだっていうんだ。親は安心なのか?そんなことない
今度は結婚して欲しいとか言い出して、孫を見せて欲しいとか言い出して、無限に要求がくる
あほくさいんだよなぁ。
自分の思い通りにならないからってこうやって癇癪起こすやつうっぜーんだわ
子供がニートになるなんざそんくらいのリスクは子供産む時点で背負って当然だろうがよ。甘んじて受け入れろ
不良になって誰かぶん殴ったり、交通事故で人を殺したり、テロをしたりしたわけじゃないし。子供は生きてるだけでいいだろ。違うの?
自分が自立する話ならお好きにどうぞってなるけど
あなた方と関係のない他人の話だし、その人が自立しようがしまいがどうだっていいと思うんだけど、なんで他人を強制的にに自立させようとするんだろう。意味わからん
俺なんんかは、たまたま自立できるだけのモチベーションもあって、仕事も楽しくて一人暮らしできるだけの稼ぎもあるし、何より実家の人たちと生きるのとか煩わしすぎてゼッテー嫌だっていう感じなので、一人暮らし最高すぎて一人暮らし以外やりたくないんだけど
他人に口出しされて強制的に実家暮らししろとか言われたら、は?ふざけんな!ってブチギレるわ
ニートに自立しろって強制するのはこれと同じで、お前の生活が気に入らないから俺のいう通りの生活環境に移行しろって、上から目線で説教垂れ流してるのと同じだからな
少なくとも親が自立して欲しいとかいううっすい感情だけでコントロールできるようなものじゃないんだよ
何を目的に子供を作ったのかわかんねーけどさ。ニートになるのは想定内なわけ。それで相続するような資産もないとか言って困るってんだったら、そら備えもなく子供作った親の責任だわ
それを棚に上げて働かないから困るとかアホか
このての困るってのは、世間体が悪から嫌だとかいう親自身のわがままが大半だろう
何もニートしてる本人のことを考えてないのが丸わかり
https://news.livedoor.com/article/detail/6159527/
経済力がない、容姿が悪い、性格が悪い、しかも若くない人を好き好んで選ぶ人はいない。
もしそのような人がいるとしたら、搾取しようと企んでいる人たちだけである。
逆の立場になって考えればわかるはずである。相手にも選ぶ権利があることを。
これは辞書的な意味通りの差別である。しかし、社会的に許容されている合理的な差別である。
このような境遇になってしまったことについて、努力が足りない・自己責任だというつもりはない。ただ運が悪かったのである。
悲しいことに人生は一度しかない。人生のリソースは限られている。見込みが薄いことに肉体的・精神的・経済的リソースを投入し続けるのは合理的でない。
大人になってからいきなりプロスポーツ選手を目指す人は、いるかもしれないが、極めて過酷なハードルであることは理解できるだろう。
いかにして孤独でありながら幸せに生き、幸せに孤独死するにはどうすれば良いのか、を考えるべきである。
そして我々でそのような社会を構築しよう。
大体痴漢について話すと「私もずっと被害にあってました!!厳罰求む!!!!」という被害者側の訴えと「冤罪が~~~」という男性側からのカウンターが一方的に押し付けあう形になってしまう。正直この押し付け合いには心底うんざりしている(そもそも両者の意見共に他者とのコミュニケーションを目的としていないのだが)。そこで違う視点、すなわち「痴漢という現象が理解されにくいのは何故か」という部分を性差の視点から考えてみたい。これは上の意見の押し付け合いが「実は性が違うことによる共感できなさ」が根底にあると個人的に感じているからだ。
とはいえ私自身、女という性を持ち、痴漢にも少なからず会ってきた(今でもたまに会う)。なので100%客観的に記述し考察することは不可能であるので意見等々は積極的に受け付ける。論理だてて物を書くのが苦手なので、思いついたことをそのままの順で書き連ねていく。また、ここでいう痴漢は「電車内でのもの」をひとまず指す。
そもそも痴漢という現象をご存じだろうか。ここまで読んだ人であれば「知らない」とは答えないだろう。しかし、この現象の理解度合いに「その人にとって痴漢が身近かどうか」はかなり大きく影響していそうだ。私を初め「ある程度混雑する公共交通機関を頻繁に使う」という経験がある女性の場合、少なくとも一度は「痴漢らしき行為」にあったことがある人が多いと思う。一方で男性の場合、たまに「自分も痴漢(痴女)に会った」という人がいるが、ごく少数であろう。多くの場合「知識としては知っている」という感じだと思う。たとえて言うならば、私は「コンビニでは万引きという犯罪が起こっている」ということは知識として知っているが、バイト経験もないし実際にやったこともないので「知識として知っている」状態に過ぎない。
そうなると痴漢に対する態度に性差が出るのは仕方がないような気がする。万引きを例に出すと私自身「万引きされた店の店長さん大変だなぁ」と思うが、コンビニの店長がそれに対して「絶対に許さない!!!!!厳罰にしろ!!!!!」などと言っていたら「いや、そこまでの犯罪ですかね・・・」とか「万引きよりこの店長が怖い」などと思いそうである。やはり「実際に被害にあっている者」と「知識として知っている者」の間にはかなり大きな壁があるように思う。痴漢に関してもSNSなどで検索してみると、痴漢経験のある男の人の多くが「痴漢に会う女性の気持ちや怖さが分かった」という感想を言っていたりする。
また、「実際にどういった痴漢行為が行われているのか」という部分の認識の違いも重要だと思う。多くの痴漢行為の場合、肉体的な意味では正直そこまで大きな被害を受けない(精神的な部分は後述)。例えば電車内でお尻を触られたり、なんとなく股間が押し付けられる、といった痴漢被害を受けるという部分に認識の差はないだろう。そうなると男性側が「いや、それで厳罰とか。。」と思うのは当然だし「それくらいちょっと振り払って抵抗すればいいじゃん」と言いたくなるのも自然だろう。しかし、女性の多くは「痴漢とはもっと酷い被害を受けるもの」という認識が根底にあるような気がする。自分の話で恐縮だが、私は下着の中に手を入れられ性器に指を入れられたり、精液を服に付けられたり、手を引っ張られ男性の股間を触らせられ射精された(もちろん服越しだが)ことがある。そして意外と、この手の酷い痴漢経験を持っている者は少なくない(念のため言っておくが、多くもない。頻繁にこんなことが電車内で起きているほど日本はヤバくない)。しかしそういう経験があると、軽微な痴漢(語弊があるが)よりもそうした深刻な方を基準に痴漢を捉えるようになるし、自身があっていなかったとしても「自分もそういう被害を受ける可能性がある」と考え感情的になるのも自然だと思う。しかし客観的に考えると、そうした酷い被害は頻繁に起きていない。そこに「リアル感を持つ者」と「知識として知っている者」で態度が異なる理由の大元があるような気がする。
性欲の性差も重要なテーマだと思っているので取り上げる。私は女性なのでそれこそ知識としてしか知らないのだが(そんなこと無いわ、という方がいたら突っ込んでほしい)男性は「たまたま触れてしまった異性」に興奮するようだ。一方女性の場合、そうしたことはあまりない。下世話な例で恐縮だが男性にとって「女性の胸や足が当たったら勃起する」が女性にとって「男性の筋肉や股間が当たっても濡れない」のである(たまに「イケメンなら良いんだろ」と言われるが、そんなことはない。いわゆるイケメンに痴漢されたこともあるが、いつも以上に怖かった記憶がある)。この辺は子孫の残し方に関する進化的な解釈が妥当だと個人的には思うが、この違いを受け入れられず「これだから男は」となる女性は結構多い。また男性側も上記のような「イケメンなら~」のように、どこか「男性的な性欲」を中心に女性の性欲を理解しようとしてしまいがちである(「上手い痴漢だと濡れるんだろ」などもそうだ)。両者は全く別物であるということを知っておくだけで、痴漢の話題に関するコミュニケーションは促進されると思う。
実はこのことを考えていたのがこの日記を書くきっかけとなった。数日前、とある増田が「痴漢を受けて辛いのは肉体的な被害ではなく「自分が弱者だと認識させられること」である」という旨の日記を書いていた。これはまさに言いえて妙だと思った。上にも書いたが、基本的な痴漢被害において肉体的な被害は軽微である。しかし精神的な被害は実は結構大きい。
これまた私の例で恐縮だが、少し細かめに痴漢とその後の思考に関する記述をしてみる。例えばお尻を触られ、すぐに振り払い、それで痴漢が終了した場合を考える。肉体的な被害はかなり少ない(数秒触られただけ)が、それでも数日は引きずる。その感触は消えないし「被害を受けた自分」についてぐるぐると考えてしまう。隙があったのかな、とか、次もまたあったらどうしよう、とか。なんとなくどんよりした気持ちが続くのだ。この程度の痴漢でこれなのだから、例えば「股間を押し付けられ続ける」という抵抗自体が難しい場合や「振り払ってもやめない」のような抵抗自体無意味な場合はもっと傷つくことになる。
こうした被害の連なりの中で徐々に「自分が無力なこと」を頭に叩き込まれていくのである。勿論多くの人の前で声を出すのが難しいということもあるが、私の場合「何をやっても私じゃ辞めさせられないから耐えよう」と思うようになってしまった。小さな経験によって人の思考はダメージを受けるものなのかもしれない。この辺の機微も「知識として知っている」者には理解が難しいと思うし、被害を受けた側としても一枚岩で「こういう考えになるんです!」と言えるようなものでもないので、どうしてもスルーされがちになってしまう部分だと思う。でもとても重要な問題である。
少し長くなってしまったし、書いて一時間ほど経ってしまったのでここでひとまず辞めておく。「なぜ男性側は冤罪について主張しがちなのか」と「なぜ女性側はことさら感情的に被害を訴えるのか」という一番書きたかった2つを書けなかったのが心残りだが、色々思い出して疲れてしまった。議論は大歓迎なのでぜひ。
ドイツを出したのは「全員PCR検査」(笑)は不可能だから現実的に一番近いことをやっている&日本と国の規模がそこそこ近い国、かつ私がよく知ってる国を例としてあげたまで。日本の人口と今現在のPCR検査のキャパどれくらいか分かってる?四則演算できたら「全員PCR検査」(笑)がどれだけ荒唐無稽か分かるはずだけど・・・。物理的に不可能なことを雑に「やれやれ」言っても何も進まないだろ?国民全員にPCR実施がそもそも不可能だという現実を見ろよ。
・NHKのニュースによると7月27日から8月2日までの1週間に全国で行われたPCR検査は12万7700件。恐らく現在1日2万件の検査が可能。(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200807/k10012555431000.html)
・ドイツでは一日のPCR検査キャパが10万ちょっと。1年前のニュースなので今はもっと増えてるかも(医療ベンチャー多くて大量のPCR検査が可能なドイツでこれくらい、日本は知らない)
・仮に日本が1日にその5倍、一日50万件検査できるようにするとする。(それに掛かる財源や人員はどこから?という疑問を無視する。)
・一日に50万人検査したとして、1億2557万人検査し終わるまで=つまり「俺が言ってる全員PCR検査」(笑)が終わるまで何日掛かるでしょうか?
・「俺が言ってる全員PCR検査」(笑)実施中、人の流れはどうすんの?検査済みの人が一度でも未検査の人と会ったらその時点で検査済みの人がコロナ罹ってないかどうか不明の状態になるけど、もう一度検査すんの?そしたら全員検査一生終わらないけどどうすんの?
大抵の人は割り算ができるから「全員PCR検査」( ー`дー´)キリッとかアホらしいことを主張しないだけで『雑に「どうせできねえよ」とか言い張ってる』わけではない。できるというなら1億2557万人全員PCR検査(笑)実行のための実現可能な案を示してみれば?財源、人員、その期間の物流はどうするのかetcなど興味あるわ。
・外出禁止←仮にこれを可能にする法律が通ったとして、自宅に食品配達したとしても法律も罰金も気にしないで出歩く人間は一定数いるしそこからコロナは広がる。
「ぼくの かんがえた さいきょうの ころな たいさく」を鼻高々に披露する前に算数のお勉強したら?そもそもPCR検査拡充論とか去年からずっと水虫専門家の上センセが言ってるし。上センセがPCR推奨してるのは割り算ができないからではなく、他の意図があるからだろうけど・・・。周回遅れですごいアイディア思い付いたかのように意気揚々と「全員PCR」とか真面目に言ってる人がいることにビックリだわ。なんにせよマスク・手洗いうがいしましょう。可能ならワクチンと。
「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」(https://anond.hatelabo.jp/20210826203711)の著者です。
非本質的な、《誤読か否か》を議論するコメントが依然として多いので、記事を改めて補論を書きます(文中敬称略)。
元の記事では鴻巣の意見から矛盾を示すために使ったまでで、「解釈」という言葉を本文で一切用いずとも問題を整理できるし、他にも鴻巣の矛盾を指摘できるのでそうします。
「作中に描写がないこと」を「作品に書いてあるかのように読める断定で書いた」こと
である。
そしてこの点について鴻巣はスルー、もしくは無理筋の意見を出しているのみである。
①27日13時39分
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
②27日16時43分
繰り返しになりますが、そういった解釈の豊かさ、多様性が大切である一方、今回の
「直接描写されていないことがあたかも書かれているように掲載されてしまった」
は異なる問題だと思います。
ここは、どうも平行線で、同じやり取りをずっと繰り返しているので、そろそろやめたほうがよいかなと。— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭自身は鴻巣との対話をやめたが、外野はこの点について把握しておくべきであろう。
Aさんが重病にかかり、病院のICUにいる描写がある。
場面が転換して、葬儀のシーンになり、棺が運ばれていく。
Aさんの友人が泣いている。
「Aは死んだ」という明示的な記述はなくても、「死んだ」と理解する合理的な理由があります。
あらすじとして「Aは亡くなり……」と書くのはNGでしょうか?— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
このツイートが議論として成立するためには、「描写がある」「明示的な記述はなく」という仮定は客観性を持たねばならない。「主張が正しいか」という検討以前の条件である。
よって鴻巣は、桜庭が言う「直接描写されていないこと」は、主観ではなく客観としなければならない。
④27日11時6分
なにが作中に有り、なにが無いか、その判断もまた作者桜庭さんの主観にすぎない、ということはお分かりいただけないでしょうか。つまり、あるひとりの読者=作者の主観だということです。「読解の自由」はお認めになると。それは作中になにが書かれているかを決める自由でもあるのではないでしょうか。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
お分かりいただけただろうか?
鴻巣は桜庭の言う「直接描写されていないこと」を「なに」という言葉に置き換え、「あるひとりの読者=作者の主観だ」としている。この矛盾について解決しない限り、鴻巣の意見は無理筋であり、鴻巣は桜庭と議論する土俵にも立てない。
なお、鴻巣は主張が成立しないのだから、厳密には「平行線」ですらないだろう。
テクストに「ない」ことを「ある」かのように書いた(ことが検証できる)あらすじなどという珍妙なものを読む機会がないので、そのようなあらすじを目にしたのちにいざ対象のテクストを読み始めた者がどう反応するのか、筆者には確たることは言えないが、あらすじに書かれた鴻巣の解釈だけを前提とし、桜庭の提示した(あるいは以下で私が説得的に示す「真っ当な」)解釈に思い至りもしない、という可能性はあるだろうと考える。
それは「読み」が閉ざされたことを意味する。なお、「どこかでおかしいとわかるはずなのでそうはならない」と言うのであれば鴻巣の書いたあらすじが頓珍漢だと認めることになる。
また、鴻巣はEvernoteでは「作品紹介のあらすじと解釈を分離するのはむずかしいことです」と述べていたが、「むずかしいこと」ではなく「不可能な」ことにすり替わってしまった。
たいへん明快なご解説を拝読しました。今回、作者は「あらすじと解釈の分離」という一点に要請を収斂されました。仰る通りそれ自体は不可能なのですが、「読む」という行為この根本的なことが、意外にも一般に理解されにくいようなのです。— 🐈🦔鴻巣友季子(『翻訳教室 はじめの一歩』(ちくま文庫)) (@yukikonosu) August 27, 2021
こうしたすり替えをわざとやっているのであれば大した度胸だと感心する。同時に、不誠実な書き手だと評価する。
ついでなので、鴻巣の読解が「曲解」であることも示します。(「誤読」とは言いません。桜庭が使わないので。)
不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞くと、母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた。離婚の話が出たことなど具体例を挙げてみるが、「そうだったっけ?」と不審げになる。それから急に目を光らせ、「人の記憶って、その人によって違うね?」と言った。
瞬間、母とわたしが同じ過去の〝ある時〟……七年前に最後に会った時のことを思いだしているとわかったが、いま対立するのは不毛だと、「ふーん……?」と目をそらした。
それから、
「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない? この二十年は病気という敵と一緒に戦っていて、関係が変わったとか」
と言ってみると、母ははっと息を呑み、「そう、その通りだ」と大きくうなずいた。
(桜庭一樹「少女を埋める」https://note.com/sakuraba_kazuki/n/ne3b7aa29cd58)
「不仲だったころ」は「病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってた」を指すのではなく、介護していた「この二十年」を指すというのが鴻巣の読解です。
この読解を支持できる方は根拠をつけて教えてください。「病気になる前」であるという解釈をあえて却下する理由込みで。
なお、この点についてのツイートを鴻巣はなぜか削除していますが、ツイートはこちら(https://twitter.com/maffumi/status/1431506303784943616?s=20)へのリプライの形でした。(スクリーンショットを見たければTwitterに上げても「私は」構いません。)
さて、(桜庭も言及している)「母は「覚えてない」と心から驚いたように見えた」に呼応する、
いよいよ蓋を閉めるというときになって、母がお棺に顔を寄せ、「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」と涙声で語りかけ始めた。「お父さん、ほんとにほんとにごめんなさい……」と繰り返す声を、ぼんやり寄りのポーカーフェイスで黙って聞いていた。
内心、(覚えてたのか……)と思った。
(Ibid.)
の「内心、(覚えてたのか……)と思った」も、「不仲だったころもあったよね、と遠慮がちに聞」いたのも、「もしかしたら、病気になる前は、お互いに向きあってたから性格や考え方がちがいすぎてぶつかってたんじゃない?」と言ったのも、すべて〈わたし〉なので、「不仲だったころ」をいつとするかによって、母が「お父さんを虐めた」のがいつだったと〈わたし〉が考えているかも決まる(と考えるのが普通だと思いますがどうですか?)。
当然のことですが念のため言っておけば、実際にいつ「虐めた」かは、作中世界では〈母〉のみが把握し、〈母〉の心中に作品の視点は入り込めない。よって問題となるのは〈わたし〉がどう考えているかを、〈わたし〉視点の文章で解釈することです。
私は「不仲だったころ」を「病気になる前」としか解釈できません。よって「虐めた」のも「病気になる前」としか解釈できません。
困りました。私の読解力がないんでしょうか。解釈の自由を標榜する皆様、お知恵をお貸しください。
「テクスト解釈の可能性は無限である」と言っても、それは「解釈の対象、つまりは焦点を当てるべきもの(事実やテクスト)が存在しない」ということにはなりません。「テクスト解釈の可能性は無限である」と言っても、それは「どのような解釈の試みもうまくいく」ということではないのです。
(ウンベルト・エーコ『ウンベルト・エーコの小説講座:若き作家の告白』、和田忠彦、小久保真理江訳、筑摩書房、2017年、48頁)
もう無理でその似てる男性芸能人の顔のほうに意識が引っ張られて体が反応しなくなってしまう
せっかくすごくタイプの顔なのに一度これが起こるともう何度見てもダメで
最近キツかったのはこの子似てる顔が全然出てこない、でもかわいい、いい!
ってけっこう時間をかけて確かめてきたつもりの女の子が、ふとした瞬間「千鳥の大悟の目の下のくま取ったらちょっと目が似てない?」と気づいてしまって
そこからはもう大悟にしか見えなくなってあーめちゃくちゃかわいい大悟だ、でも大悟だ
ウフって笑顔を見てももうコントやん、大悟のコントやんと思ってしまい思わずノブに寄せたツッコミをしたくなってしまう
どう考えてもかわいい女の子だ でもエッチな事をしてる想像をしようとするとどうしても大悟が出てきてしまうのだ
ただ話してるとか仲良くしてるだけならなんとか気配を消せるんだけど
エッチな事を想像した瞬間に限って大悟がスッと顔を出してくるのだ
セックスの最中によぎってしまって急激に萎えるという経験も何度もある
考えるにモテるような容姿の持ち主はそれだけ芸能人などで似てる人というのが思い浮かびやすいはずだ
芸能人というのは人に好かれやすい容姿をしていることが多いし、それだけパーツのどこかとか共通点が見つけやすいのだと思う
それがわかったところで、では誰にも似てなさそうな個性的な顔立ちの人なら大丈夫では?とも思うのだけど
1(https://anond.hatelabo.jp/20210828215226)のつづき
第九話では、トップジョイの正体と過去が明らかにされる。もともとダークスポーツ財団で「作られた」トップジョイは、ショックサーキットという枷を掛けられ、スパイ行為を「ほとんど」強制されていた。これまで意思を持ち、それを自由に行使できると思われていたロボットが、実はそうではなかったということが、ここで明らかになる。
もちろん、ショックサーキット自体は第一話の時点でマッハウインディに埋め込まれた形で登場している。ダークスポーツ財団がロボットたちに背反を許さないようにし、彼らの自由を奪っている事実は、物語の冒頭から提示されていた。
だが第九話から続くトップジョイの物語は、マッハウインディがショックサーキットに苦しみ、そして克服した第一話・第二話とは少し様子が異なる。マッハウインディが自らダークの元を去り、早々にショックサーキットを切除して完全にダークとの絆を絶ったのに対し、トップジョイはそこから第十三話まで、「自らの意思で」ダークとの関係を持ち続けているのである。
トップジョイが――シルバーキャッスルに好意を抱き、マグナムエースから手を差し伸べられていたにも関わらず――なぜ十三話までダークとの縁を切らなかったのかについては、明確な描写がなく、少々解釈が難しい。ここから先は憶測の比重が非常に大きくなるので、ご容赦いただきたい。
第九話で、トップジョイはフェアプレーを重んじるシルバーキャッスル、及びそれに共感する子どもたちを「理解できない」と言った。「ラフプレーをすれば客は喜ぶ」「客を喜ばせるのがアイアンリーガー」だと。
これは、シルバーキャッスルを内部から撹乱するというスパイ行為による言葉ではない。トップジョイの本心だ。彼は本心でラフプレーを正しい行為と捉えているのである。同じ本心で、第八話でキアイリュウケンとオーナーの絆に涙し、子どもたちと純粋に交流を楽しんでいる一方で。
同時に、九話ではトップジョイの過去と思いが垣間見える。「楽しむ」ことを大切にした結果、バスケットチームから放逐された過去。それでも忘れられない、バスケットリーガーである自分に向けられた観客の歓声。あの場所に戻りたいという思いが、トップジョイの根底にある。
彼がぎりぎりまでダークとの絆を絶てないでいたのには、この思いが大きいのではないだろうか。トップジョイがダークに従っているのは、ショックサーキットだけが理由ではない。もっと根底の、自分の存在そのものに関わる意思ーーあるいは、心ーーである。
これは完全に僕の推測であるが、第八話で示唆された「ロボットは、人間に役割を与えられ、それに相応しいように設計・プログラムされて生み出される」という事実を踏まえると、トップジョイのこの「意思(心)」もまた、ある程度製造者によってプログラムされたものではないだろうか。
作中で、ロボットの意思や思考、心が人間にプログラムされたものだという直接的な言及は(現状)ない。だが彼らが「注文に応じて製造される商品」としての一面を持つ以上、ロボットが人間の赤ん坊と同じようにまっさらな状態で納品されるとは思えない。彼らは製造された時点である程度の機体性能、そして知能と知識を有し、そこには人間の意向が相当程度反映されていると考えるのが自然である。
「トップジョイ」という名前であるがーー彼らがある程度完成された状態で世に出るとしたら、彼らの名前は、その機能・性能にちなんだものであるのだろう(もちろんまったく関係のない場合もあるかもしれないが)。ロボットの機能・性能は、つまりは製造者が彼らに込めた役割と期待である。「ジョイ」つまり「喜び」。彼は、人に「喜び」をもたらす存在としての役割を期待されたのではないか。故に、ああいった明るい性格に設定され、他者の喜びを自分の喜びとするような性格にプログラムされたのではないか。そして、そのプログラムされた心でラフプレーに喜ぶ観客たちを見て、それを自分の喜びとして、そして正しいこととして学習したのではないだろうか。
(製造された時点でラフプレーを正しい行為としてインプットされていた可能性もあるが、第九話のトップジョイの「教わった」という言い振り的に、その可能性は薄そうである。)
だが、その期待は裏目に出た。明るく楽しくを第一義とする性格はチームメイトの反感を買い、彼は本来活躍するはずだったバスケットコートに立つことができなくなった。その後、シルバーキャッスルにおいてはーー彼自身の純粋さから、本来のスパイという立場を越えて、彼らに好意を抱いているにも関わらずーー逆にラフプレーを許すことができないシルバーキャッスルの皆の心を理解できず、孤立してしまう。
そして、ダークから虐待を受けても、マグナムエースたちから手を差し伸べられても、本当に自分が望むことに気づきかけても、プログラムされた心で過去に学び、感じた喜びを忘れることができず、ダークとの繋がりを断つことができなかったのではないか。
人間の都合によってプログラムされた「心」によって、トップジョイは傷つき続けていたのではないか。
人間と全く同じように喜び、悲しみ、悩み、傷つく「心」を、人間の都合によって作り出すというこの世界の不気味さが、トップジョイによって突きつけられる。
そして、第十一話でのS-XXXの結末が、それを決定的にする。
S-XXXはこれまでのロボットたちとは違い、意思や感情の乏しい存在として描かれる。それは本来、僕たちが「ロボット」と聞いて思い浮かべるイメージに近い。
S-XXXはテンプレート的な「ロボット」として、命令だけを忠実に実行し、サッカーのフィールドで「戦争」を繰り広げた。そして最後は、マグナムエースによって破壊される。
第十一話では、これまでよりも明確にロボットが「商品」であることが語られる。S-XXXはアイアンソルジャーという「商品」として、敵を殲滅する者としての役割として与えられ、その破壊力を期待され、品定めされる。彼のロボット然とした意思や感情の薄さは、兵士として忠実に命令を実行することを求められ、そうプログラムされた結果なのではないだろうか。
しかし一方で、S-XXXは「敵を倒す」という目的に対し非合理的なシルバーキャッスルの行動に困惑し、動揺する。そして、マグナムエースの「新しい道」という言葉に、ほんの一瞬であるが、本来あるはずのなかった「迷い」を見せた。
S-XXXにも、心は存在した。
なぜS-XXXの製造者が「兵器」であるロボットに「心」が生まれるような知能を搭載したのか、その理由はよく分からない。スポーツ選手であるアイアンリーガーであれば、人間がある種のカタルシスを得るための機能として、人間と同じような心や感情を搭載する理由もある程度理解できるが、迷いが命取りとなる戦場に送り込む兵器に、それは不要のはずである。
もしかしたら「心」というものは、それは製造者の意図的なものではなく、自分で学習し、アップデートしていくことができるほど高度な知能には、逃れられない副産物なのかもしれない。
いずれにしても、例え人間にほとんどをプログラムされたものであったとしても、兵器であったS-XXXにさえ、心は存在した。そして僅かに、けれど確かに「新しい道」へと進む可能性があった。
にも関わらず、第十一話の商人たちは、彼を徹底的に「商品」として扱った。そしてS-XXX自身も、「戦場でない場所には存在不可能」と語っている。
ロボットは、人間によって役割を定義されている。そしてその役割を果たせなければ、彼らは自らの存在意義すら失いかねないのである。
この『アイアンリーガー』の世界に横たわる現実を受け止めるのに、相当な時間を要した。いや、実際まだ受け止められてはいないのかもしれない。人間は自らの都合によって、自分たちとほとんど変わらない心や感情を持つロボットを役割という枠に押し込めて生み出し、その存在をも人間の都合によって左右する。この神の模倣とも思える傲慢さに、幾たび怨嗟を吐いたかしれない。
一方で、自らの意志で生き、誇りを持って戦っているロボットたちを哀れみ、同情を寄せるようなことは、彼らに対する侮辱ではないかという思いもずっとあった。
僕の心は千々に乱れ、分裂し、二転三転し、自己矛盾に苦しむ日々が続いた。「ロボットがスポーツをする子ども向けのアニメ」を観てそんな感情に取り憑かれるなど、一体誰が予想できよう。
しかし、である。一通り憎悪と煩悶に身を投じた後に、ふと気づいたことがある。
ロボットたちが置かれた現実は、結局、僕たちの生きる現実と同じなのではないか、と。
僕が七転八倒している時、僕に『アイアンリーガー』を教えてくれた先達は、一つの問いを僕に投げかけた。「ならば、アイアンリーガーはどうなったら幸せなのか」と。
頭を殴られたような衝撃を受けたせいで、僕がその時どのように答えたのか、正確には記憶していない。「彼らが、やりたいことをやりたいようにやれる」のようなことを言ったような気がする。
月並みな言葉を振り絞りながら、僕はぼんやりと「どこかで聞いたような話だな」と思った。よくある話。人間の幸せを語るときに、よく言われるような言葉だと。
そして、僕の思考は再び振り出しへと戻った。『アイアンリーガー』に最初に感じた、違和感にも似て、それでいて温かかった感覚。人間とロボットが、同じ意志や心や感情を持つ存在として、同じように生きている世界。
第一話でマッハウインディはこう言った。俺たちロボットも「人間と同じなんだよ」と。
それはつまり、人間もまたロボットと同じであることを意味する。
この国で生まれれば(その実態はどうあれ)、僕たちは一応、自由意志(ここでは各種の哲学定義を無視して、単に「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」という意味で用いる。)を認められた存在である。
しかし、完全に自由な人間など存在しない。人間もまた、さまざまな制約の中で生きている。親、夫、妻、上司、部下、教師、学生、老人、若者、友人……そういった役割や立場を与えられ、家庭環境、ジェンダー、経済力、文化、時代、価値観……そんなあらゆる枠に押し込められながら、社会の中での「あるべき姿」「あるべき意志」を定義され、それに応える「社会人」に育てられてゆく。それは、人間、あるいは「社会」の要請で意思や心をプログラムされるロボットと、実はそう大差ないのではないか(語弊を恐れずに言えば、教育とは一種のプログラミングである)。
真に自分の望むように生きている人間などほとんどいない。皆、社会の中で折り合いをつけながら成長し、社会の中で生きている。そして、労働市場の中で自らの価値を計られ、自己の存在意義を証明し続けることを要求される。
(そうあるべき、と思っているのではない。ただ事実として、それが資本主義社会の一側面であることは否定できないとも僕は考えている。)
その姿は、役割を与えられ、商品として売買されるロボットに重なる。
もちろん、『アイアンリーガー』においてロボットたちが置かれている状況は、僕たち人間より深刻だ。彼らは自らの存在の前提として役割がある。役割がなければ彼らは存在し得ないし、その役割への期待に基づいてプログラムされた意志や心の拘束度は、人間のそれよりも遥かに強い。
しかし、あらゆる寓話がそうであるように、度合いが強いからといって、それが全く違うということにはならない。制約の中で、それでもなお自らの意志を貫き通そうとするロボットたちの姿に、僕たちは僕たちの姿を見るのである。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに書いてあったことだが、アンガス・テイラーという人は、フィリップ・K・ディックの書くアンドロイドについて(「機械的な行動パターンに侵された」、あるいは「内面的に阻害された」)人間の隠喩、象徴であると述べたそうだ。そして訳者の浅倉久志氏は、この作品の中に「人間とは何か?」というテーマに取り組んだとしている。『アイアンリーガー』も、それと似たような物語ではないかと、僕は思う。つまり、『アイアンリーガー』に登場するロボットたちもまた、僕たち「意志を持つモノ」、つまり人間の隠喩であり、『アイアンリーガー』は、「意志あるモノが自由を手に入れる」物語ではないかと。
こんなことを考えているうちに、僕は『BEASTARS』のことを思い出した。『BEASTARS』の登場「動物」も、姿形は動物のそれであるが、やはり人間と同じような意思や感情を持つ。彼らを通して描かれているのは、そういった心を持つモノたちのドラマだ。人間と同じ意思や感情を持つモノたちが、しかし肉食・草食動物それぞれの身体的特性、言い換えれば宿命という強制と制約を背負いながら、学校という一つの閉鎖社会の中で苦悩し、ぶつかり合い、時には折り合いをつけながら生きていく。負った宿命の中身や程度は違えど、そこに描かれているのは紛れもなく心を持つモノーーつまり僕たちの物語である。
と、このような書き方をしたが、あくまでこれは『アイアンリーガー』(や『BEASTARS』)という作品に僕たちが心を動かされる「絡繰」、結果論をそれっぽく言い募っているだけである。『アイアンリーガー』は(恐らく)寓話ではないし、アニメスタッフが彼らロボットを人間の象徴、あるいはその苦悩の投影先として選んだ、というのも(なんとなくだが)違うような気がする。正直、単にロボットが好きなだけな気がしてならない。
これについては、象徴や隠喩というよりも、同じく『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに引用されていた、次のような表現が相応しいように思う。(原典に当たっておらず申し訳ない。)
「ディックにおいて、人間とアンドロイドの生物学上の、あるいは自然科学上の区別は、まったく無意味である。(中略)ディックは、『アンドロイド』と『人間』の形式上の区別には関心がない。(中略)ディックの世界では、そもそも人間と機械、自然と人工といった単純な二分律は棄却されている」(『銀星倶楽部』12 後藤将之氏「フィリップ・K・ディックの社会思想」)
『アイアンリーガー』に描かれているロボットたちの生き様を語るのに、彼らが生み出された経緯や理由に潜む人間の驕慢さなどは、意味をなさない。彼らの前で、人間が自分たちと同じ心を持つモノを恣意的に生み出すという行為の是非を問うことは無意味である。いかに彼らのルーツに薄ら寒い人間の欲望が渦巻き、彼らの意志が人間によって指向性を持たされているとしても、それは彼らが「その」自らの意志で決断し、戦い、生きてゆく征途の輝きを何ら曇らせるものではない。
彼らは、ロボットとしての宿命を背負う自らの存在を呪うことはない。背負った宿命の中で、心を持つ故に葛藤に苛まれながらも、心を持つ故に抱いた意志で、自らの宿命を乗り越え、未来を切り開いていく。フェアプレーをしたい。スポーツをしたい。道を極めたい。この場所にいたい。君と一緒にいたい。たとえ世界がそれを許さなくとも、世界がそれを笑おうとも、自らの意志で在りたいように在る。その姿は僕たちと地続きのものだ。彼らはロボットであるから尊いのではない。僕らと同じであるから、眩しいのである。
某所にも書いたのだけれど、シン・エヴァはメタ構造をもつ物語であること。つまり「はてしない物語」や「月光条例」のように、自分たちがフィクションの世界にいるということを登場人物たちが知っている物語である、ということを理解すると、いろいろとわかりやすい。
まず渚カヲル。彼は世界が虚構であることを知っているだけではなく、過去繰り返された全てのエヴァの物語のことを記憶している。
今回の世界で、世界が虚構であることを最初に気がついた人間は葛城ミサトの父親。彼はエヴァンゲリオンイマジナリーという存在を使えば、自分たちが物語をつくる立場にまわれると考えた。その思想を受け継いだ碇ゲンドウは、自らの目的であるユイとの再会を目指してイマジナリーがいる裏宇宙を目指した。
たぶん赤木リツコもうすうすは気がついてる。だから、世界が何でもありだ、ということを知っていて、不可能に近い作戦であっても結局はこなしてしまう。冬月先生に至っては、フィクションに不可能なんかない!とばかりに、世界が虚構であることを利用して好き放題の限りをつくしている。
そして裏宇宙にはいったシンジも、また世界が虚構だということを知るものとなった。最終章の彼は新劇場版の世界を知っているだけではない。カヲルのように、全てのエヴァの世界を知っているし、もしかしたら現実の庵野監督や緒方恵美の存在すら知っているかもしれない。もちろん世界がアニメであることも知っている。
なので、それぞれの登場人物の願いを叶えたり、世界を作り替える選択をしたり、マリをパートナーに現実に近い世界を選んだりした彼の動機は、新劇場版の彼がたどった物語を見ただけでは理解できない。彼は何度も繰り返された物語の主人公たちの総意として、決断を下している。エヴァンゲリオンという物語を終わらせることを。だからこその、あの台詞になる。
「とりあえず政権交代」とかほざいている奴らは、その思想に共感するのは自民憎しで頭の中が染まっちゃっている人たちだけということに気づいた方が良いんだよなぁ。
現野党第一党である立憲に対して「とりあえず」でも政権を任せるに値しないと思っている人がいる。
反自民だけど、「とりあえず」のために野党第一党に入れるよりも、他の真に政権を任せるに足ると思える野党に投票する人もいる。
「とりあえず」なんて言葉だけで、そうやって考えて政党を選んでいる人たちの投票行動を変えられるなんて思っているなら、人様を馬鹿にし過ぎだって話だ。
フジロックに参加した部下が発熱。後日、その上司(Twitter)も発熱。
最新ツイートまで見てみると、どうやら主の会社では懲罰委員会が開かれるべきか会議された模様
○本題
また、そうすることが可能なのかどうか。
フェスに参加するのは悪なのか?
法律などに詳しい人、もしくは似た事例を知っている人教えてください
↓
↓以下Twitterより
社内から高熱のため会社休むって子が出たんですが、その子のFacebookみたらフジロック普通に行っててこりゃあ参ったという話😇😇😇
https://twitter.com/sakuhshun089/status/1430344011986849794
直属の上司の私は一応そりゃあ怒ってるんだけど、さらに上で旅行大好きだけどこのご時世で丸一年どこにも行けてない上司が核融合レベルで怒り狂ってるのでこちらを抑えないと延焼で死にそう😇
https://twitter.com/sakuhshun089/status/1430345220474892288?s=21
陽の者部下、PCR陽性だったようです。
https://twitter.com/sakuhshun089/status/1430440498888515586?s=21
笑わなきゃ正直やってられないし延べ時間で12時間以上社用車の運転席と助手席で一緒だったし車内でマスク外すタイミングもあったから正直僕はもう駄目です墓前には新型デュラエースをお供えください。
https://twitter.com/sakuhshun089/status/1430441759083929605?s=21
とりあえずフジロックスプレッダーの彼をウチの会社側としては解雇したい流れで一応労組側としては反発せざるを得ないんだけど組合員からも突き上げ食らっててどうすればいいのかわからない状態になってしまった。
https://twitter.com/sakuhshun089/status/1430875204608086016?s=21
「このご時世でろくな感染対策もしていないであろう野外フェスに参加して、あろうことか酒飲んでる画像をSNSに上げてるって他の社員へ直接的に危害加えてるよね」的ご指摘いただくとちょっとぐうの音も出ないんですよね…
https://twitter.com/sakuhshun089/status/1430875970374828032?s=21
フジロックがこの間の日曜で発熱が昨日の夜からだったってことなので、新型コロナだったとしてもフジロックで感染したのではない可能性が高いのかな?
その代わり、その発熱した本人がフジロックでスプレッダーになった可能性は十分ありそう。
https://twitter.com/sakuhshun089/status/1430345871921541127
フェスっていう形式上、感染ゼロに封じ込めるってのはほぼ不可能でしょうから、観客数をもっと絞るとか酒類の持ち込みを厳に禁ずるとかしてもよかったとは思います。
感染源の疑いが強い職場の後輩の子も、仲間とキャンプサイトで酒盛りしてたようで…/(^o^)\
https://twitter.com/sakuhshun089/status/1431116683322671108?s=09
https://twitter.com/sakuhshun089/status/1431102829825978368?s=21