はてなキーワード: ダミアン・ハーストとは
http://moro-oka.hatenablog.com/entry/2016/12/12/055556
>当然だが作品をつくる作家だけがいてもアートは成り立たない。
>それを見る人、理解する人、評価する人、批判する人、そういったそれぞれの「反応」があって初めて作品はアートとして成り立つ。
>作家がどれだけ頑張って素晴らしい作品を作っても、それを真摯に見てくれる人がいなければ、何の意味もない、
>李禹煥の石はただの石になり、Chim↑Pomのビルバーガーはただの廃墟になり、ダミアン・ハーストのサメはただのホルマリン漬けのサメとなり、
ごもっともだったりそこはどうかしらだったり思うところが色々ある記事なんだけど、
一番気になったのはこのセンテンスについてで、趣旨からは外れた些細な部分かもしれないが
真っ先に「デュシャンは頑張って便器作ったわけじゃねーだろ」とつっこんでしまったのだった。
作家と作品と場所だけで、アートは成り立たないんだろうか。本当に?真摯に見てくれる人の目が絶対に必要?本当に?
他者の目がなくても、まずは場所とモノの二者関係で成り立ったのがデュシャンの作品だったり、ダミアン・ハーストだったりなんじゃないのか?
芸術を志す(した)人が『僕らは芸大に通ってるだけの普通の隣人ですレッテル貼らないで』って言い立てながらその口で
芸術には未だに『真摯に見てくれる人』の目が必要なのかと思うと、おそろしくがっかりする。
結局それは他者の奇異の目はいらないと言いながら、真摯な目は必要とするという、非常にご都合の良い宣言にほかならないのだから。
アートとして成り立つ作品の前段階には、多分、アーティスト自身と作品との戦いがある。
アーティストがアートという謎と真摯に向き合った結果がデュシャンの『泉(便器)』で、李禹煥の『もの(岩)』で、
ダミアン・ハーストの『ナチュラル・ヒストリー(ホルマリン漬けサメ)』なら、
それを初っ端から"理解する人、評価する人、批判する人"などと真摯な目を期待しなければ成り立たないほどに
そのアートは軟弱ではないはずだし、それを見た人の好奇の目すら飲み込んで人々を頭の中を???でいっぱいにするからこそ、
>しかし、こうした注目は、危険ではありますが、あるいは悪いことではないのかもしれません。
>その注目を、もっと深いところまでわたしたちが持っていくことができれば、わたしたちのやっていることを理解してもらえるチャンスになるかもしれません。
>芸術というものの重要性に気づいてもらえるかもしれません。そうした期待を込めて、書きました。
結局彼女の書きたいことは、「芸術家という人の“こと”」であって「芸術」そのものについてではないし、
それならば彼女が就活してるだの、近況で夢を背負わされて辛いだの自分自身の出来事の記述に終始してることに納得できる。
でも、それは彼女の作った芸術作品でもアートでも何でもないし、私は「芸大生とはなんぞや」という議論と
「芸術というものの重要性」の議論は全くの別物で、前者を特に議論しようとは思いもしない。
衝撃的な事件だったし、単純に猟奇的事件に興味があったのもあり、
その後インターネットで少年Aの顔写真を見たり、まとめているサイトで事件の詳細を読んだりしていた。
被害者、加害者が出した本は読まなかったが、『絶歌』は発売後すぐに買い、読んだ。
まず、サムの息子法が、とか言っている人もいるが、これに関しては現状の日本の法律で問題ない以上、文句言っても仕方がないことである。
また、世界各国で適応されている法律ならまだしも、一部の国の一部の州でしか実施されていない法律をあげるのは、都合が良すぎる。
文章に関しては、ネットでは批判的な意見が多いが、良く書かれていると思った。少なくとも僕にはこのような文章は書けないなと思ったし、
文章力はどのように身につくのだろうかとも思った。高校、大学と出て学んできた身なので、自分が恥ずかしいとも思った。
そういえば、『黒子のバスケ』脅迫事件の被告人意見陳述も読み応えがあったなぁ。。
中身に関してだが、この本は大きく分けて、少年院に入るまで、出た後の二部構成になっている。
少年院でどういった生活を送っていたのかも気になったので、そこが書かれていないのは残念に思った。
一部と二部では文体が異なる。一部では、少し厨二的というか、見えていた世界が人と異なるような表現が多く、少年の異常さが表されている。
二部では、淡々とした文体で書かれていて、更生されているかのような印象を持った。
しかし、これは意図的に文体を変えているものだと感じられた。当時の少年時代の日記がそのまま公開された。とかならこのような違いがあることも分かるが、
書いたのは現在の少年Aのため、このように文体が変わるのには違和感がある。
少年Aは犯罪の原因は、自分の性癖にあると言っている。親しかった祖母の仏壇の前で、マッサージ器を性器に当て、初めての射精した事から
死と性が関連するようになってしまったとのことだ。
猫を殺した時も、射精したし、被害者の首を自慰行為の道具としても利用したとのことであった。
しかし、同級生に対して暴力行為を振るったことは、性衝動とは一切関係ないので、性癖のみが暴力、犯罪の原因とされているわけではなさそうである。
また、被害者の首で自慰行為を行ってから、その後射精をしなくなった (少年院時代のみ?)という記述があったが、今現在はどういったものを対象に性を感じる
ようになっているのかが気になる。今でも死と性が関連していると思うなら、今後も事件が起きる可能性がありそう。
家族は悪くない。と書かれているところが多数あるが、客観的に見て異常。同級生に暴力を振るった時の母の注意の仕方とかは、軽い喧嘩を注意するレベルで、
おかしいだろうと思った。
成人し、出所してから仕事もちゃんとしているし、生きる力が強いと感じた。また、金に対する執着もあるため、『絶歌』の印税は相当本人としては嬉しかったんじゃないかと思う。
金に困って犯罪するタイプではないと思うが、印税を与えることによって少し大人しくなるのではないかと思った。別に『絶歌』を買ったことを正当化している理由ではない。
社会人生活を送っている時、同僚にインスタントカメラで写真を撮られた時、切れてそのインスタントカメラを振り払い、壊したみたいなエピソードがある。
写真に撮られることがナーバスになっているということを表したかったのだろうが、単純にキレやすい人間みたいな印象を受け、恐怖を感じた。
その後、ホームページ公開したりしていて、良い体しているなとか、ナメクジ写真はダミアン・ハースト的でもう少し評価されても良いんじゃないかとも思った。
ネット上では『絶歌』の批判ばかりだが、読み物としてもそれなりに楽しめるし、超有名犯罪者の文章を一度読んでみるのも良いのではないかと思う。