はてなキーワード: 麻痺とは
共感した.自分も,(まわりと比べたら)早い段階でPCやネットというものに触れたことがきっかけで,そこから広がる世界こそが周囲との差別化要因だと思い込んで今ここに至っているようなふしがあるから.
ネットの向こう側にはとにかく情報があふれていて,分相応な情報だけ丁寧に渡してくれたりなんてしない.そこが,とても手強いところだと思う.現実社会の場合,頻繁に接する人々というのは,接するようになる過程でそれなりにバックグラウンドの共通化が行われるので,ある意味,分相応な情報しか入ってこない.そして,その分相応な相手(と言うとなんだか失礼な気もするけど)が,ある日突然,雲上人になってしまうなんてことも基本的には起こらない.昨日まで英単語を知らなかった人が,今日いきなりネイティブレベルになってることなんて,ない.そういう変化には必ず,時間という生々しい,リアルなリソースの消費が伴っている.
要するに現実社会では,日常的にフェーズの全く異なる情報発信に触れ続けることはあまり無いんじゃないかな,と思うわけです.そういう場もたまにはあるけど,それは日常に対する単発的な刺激として用意されるものであって,日常的にはやっぱり身の丈にあった範囲で暮らしていて,(できる人は)健全な程度の切磋琢磨をしている.
ところが,ネットの世界には分不相応な情報がありふれていて,色々なスキルを既に持っている人たちの情報が容赦なく飛び込んでくる.相手は億単位の頭脳を抱える集合知なのに,日常的にその勇姿に触れ続けていると,それが持つスケールやスピード感に対してだんだん感覚が麻痺してしまう.そうなると,自分の前に現れてくるものに対して,妄想としての自分はどんどんそれらを取り込んでいって「まともに」成長していくことになってしまうし,現実としての自分は時間ばかりが経ってしまって,それらの義務がぎっしりつまった袋をずるずる引きずりながら重い足取りで歩き続けることになる.
・・・のかなぁ.
ある種の人々は言いようのない劣等感を感じている。というか、青春期、人々の多くは言いようのない劣等感を感じているように思う。それは書物で見る限り昔からのようだ。
「その劣等感はどこから来たのか?」とか「どんな理由で感じるのか?」という問いにはあまり意味はない。おそらくそれは青年が何者でもなくて何が出来るかもわからない不安感から生じているのだとは思うけれど、そんなことが分かったところで劣等感はなくならないからだ。正解でも不正解でも、あんまり意味がない。
十代でなんとかしないと、という焦りはこないだの青木君の小四なりすましの話に似ている。僕もそうだった。僕らの世代だと登大遊氏なんかが結構輝いてて、ああいう感じにならなきゃ、と思っていた節はある。十代の時になにか成し遂げないといけない、そのためには誰かに認めてもらわなければならないという焦りは、どれくらいの「大人」に理解してもらえることなのだろうか?
http://anond.hatelabo.jp/20141202220427
上の増田は嘆いているけれどその苦しさってそこまでユニークじゃない。「大人」の多くはその苦しみを経過して(乗り越えてとは言わない)大人になっているよ。
大人だってむかしは若者だったし若者だった以上にチンピラだった。Webの情報支援がなかった昔の若者はいまの若者以上に何も出来なくてずっとずっとボンクラだった。大人の多くは自己努力で青春だの成長だのしてきたつもりでいるから、上から目線で説教したりするかもしれかもしれないけれど、それって高度成長期があったせいであって別段昔の若者が優れてたわけじゃない。
断言する、昔の若者はボンクラだった。公平のために弁護すると、それは昔の若者の能力が低かったというよりも、さまざまな課題解決のためのフレームやマニュアルが共有化されていなかったせいだ。だからその時代、口コミや師弟関係や親族関係が重要だったしコミュ障は今よりずっとスポイルされてた。また、だからこそ「無鉄砲な行動力」が重要視されていた。体当たりでノウハウを積み重ねるというのが今よりずっと意味があったからだ。(なぜならそうして取得したノウハウは簡単には共有されないので差別化の原資になったからだ)。
今の若者はWebによる情報支援があり、さまざまな課題に関して極上のマニュアルを入手することが出来る。遭遇しうるありとあらゆる問題に対して、それを解決した先人がいて、おおよそどうすればいいのかわからないということがない。進学、就職、研究、技術的な学習、恋愛、人間関係、法律問題。様々なマニュアルや手記がWebにはある。少なくとも手がかりは存在する。
そのメリットがある半面、隣を走ってる同年代の姿もよく見えるようになって、それが劣等感レンズとして視界をゆがめている部分があるにせよ、それでもこの情報支援は大きい。今の若者は昔の若者の無意味に強気なボンクラさに比べて、様々なことを実にスマートにこなす。紳士だし慌てないし礼儀正しいし、誤解を恐れずに言えば「有能」だ。
それはおそらく、いわれのない劣等感にさいなまれている増田でさえ有能なんだ。
オタクがサブカルを敵視したのか、サブカルがオタクを差別したのか、はてなブックマークのコメント欄も白熱しており、ヤンキーも巻き込んで混然としています。
http://hatenanews.com/articles/201412/23089
だから、この記事に見られるようなオタクとサブカル、あるいはそれに加えてヤンキー同士の抗争というのも実は本質的ではない。本質は劣等感だ。
いわれのない劣等感がまず先だって存在し、その劣等感は消去できない。麻痺させるしかない。劣等感を麻痺させるいわば痛み止めとして、この種の抗争が存在する。ほとんどすべての人間は、無名の置換可能な消費単位でしかない。若者であればそれはなおさらだ。そんなことは当たり前なのだから、そこで劣等感を感じるべきではない。しかし青春期の自意識にとってはそうではないので、劣等感を感じるし、その劣等感を痛み止めするために、近しい場所にいる別の消費者を罵倒してるだけだ。
歳をとるとその過程で様々なケーススタディを経験するし、見聞する。若いころ、世界には才能ある人(100点)とクズ(0点)しかいないように思う。
もちろん年を取ったこの世界にも100点の人と0点の人はいる。でもそれ以外の点数の人々もいるってわかってくる。わかってくるっていうのは、例えば42点の人がいるということじゃない。そんなことは(理論的には)若者の時だってわかっていた。
わかるのは「42点の人と41点の人の間にある差」だ。そのわずか1点の差が、彼我の間の明暗を分けるというような例をたくさん目にすることになる。「1点の差の大きさ」が実感としてわかるようになる。そもそもある年代を100点で分割すれば、任意の社会人が自分の職場で見ることのできる人間の幅なんて5点差くらいしかないんだ。「俺の今いる会社にいるのは38点~43点」とかそんな感じ。しかしたかがその5点の間の距離が、越えがたく遠いということもわかる。新入社員39点が40点に成長するのはすごく大変だ。
そしてこの点数はジャンルや技能ごとに分かれていてその種類も百種類じゃ利かないってこともわかってくる。つまりどういうことかというと、人間ってのは恐ろしく膨大なパラメータで構成されていて、若いころ思ってたよりもその距離感は遠く、埋めがたく、複雑だってことだ。マクロに見てみれば確かに消費単位としての人間なんて似たようなものだけど、ミクロに見てみればAさんにできてBさんにはできない、って問題にあふれすぎている。卑近なことでいってみれば「議事録を手際よくまとめてコピーして事前に配布しておく」程度のことでさえ、人間と人間の間には差があって埋めがたい――それが中年になるとわかる。
その種の格差ってのはもちろん絶望でもあるんだけど、一方で解脱というか、いいことでもある。
少なくとも「世界は才能ある人(100点)とクズ(0点)でできている」みたいに乱暴で便利で安易な絶望には向かわないですむようになる。
世界を二種類で塗り分けるってのはずいぶん簡単で、その若い絶望は手抜きだったんだな、ってわかるようになるんだ。
若者はまだケーススタディが足りてないから「俺は0点だ!世界はクソだ!」とか叫ぶけれど、ちゃんと観察を続ければ(たとえば)自分は28点だってのがわかってくる。もちろん自分が28点しかないってのは、そりゃたしかにがっかりするけれど、27点の人との間にある圧倒的なアドバンテージも同時にわかってくる。それが解れば、28点全部を放り出して「俺は0点だ!」なんて思いもしなくなる。
それに遠いとはいえ29点の方向もわかるようになる。29点になる為の1点を100分割して28・01点のためになら多少歩くことだってできる。これはなにも努力至上主義みたいな話ではなくて、どちらかというと、真っ暗で見たことも聞いたこともない砂漠に放り出された時、地図を持ってるのと持ってないのとでは大違いだ、という話に近い。努力をしなきゃならん、すべきだ、という話ではなくて、自分に何が出来て何ができないか(=自分の点数もわからない)で生きていくのは、生死にかかわるほど不便だってのももちろんだけど、ただわからないというそれだけで死ぬほど不安で不幸なことだって話だ。
そんなわけで、ここでいう若さ特有の劣等感は嵐みたいなもので中年になれば消える。すくなくともどっかの職場で働いて自分の姿が見えてくれば薄れていく。1点の差を乗り越えるためにグダグダ数年を過ごせば、懐かしくなる程度には過去になる。そこだけは、おっさんとして、安心してもいいんだよ、と言いたい。
鈴木大介氏の著作『最貧困女子』(幻冬舎新書、ISBN-13: 978-4344983618)を読みました。
売春などを生業としつつ、風俗の世界からも、福祉からもの世界からも排除されている女性たちに関する本です。
もちろん、現在のことを書いた本です。
感想を書こうと思ったら、ぜんぜん指が進まない。
読んだ直後はそうでもなくって、スラッと書けると思ってました。
何がそうさせたのか?
それは、たぶん全編に渡って通奏低音にように響く、著者である鈴木大介氏の絶叫ではないかと思います。
”本音を言えばルポライターとしての僕の心情は、もう限界だ。”(p.210)
当事者である女性たちに共感するのではなく、彼女たちのことを、見てしまった者、知ってしまった者としての苦しみが吐露されていました。
自分自身、短い間でしたが、かつて風俗業界の周辺で働いていたことがありました。
そして、どこでも、あっと言う間に「適応」という名の心の麻痺を完了させました。
風俗の世界で、絶え間ない選別が行われていることを知っています。
障害者福祉の世界で、それまでの生活の中で培ってしまった「面倒くささ」ゆえに居場所が見つけられない人を知っています。
そのことに対して、「そういうもの」と思ってしまった自分がいます。
仕事をしてお金をもらうため、そんな自分を維持するための防御として。
本の全編に渡る絶叫は、鈴木氏の「適応」しないぞ、という叫びのように思えました。
とはいえ、本の記述は決して感傷的ではなくあくまでロジカルです。
ロジカルでないと、見えなくなってしまうのが、最貧困女子だからです。
幼少期には、家庭からはじき出され、それと連動して児童福祉から「見捨てられ」、
少女期には、地元の女子グループからはじき出され、何より地元からはじき出され、
そんな絶え間ない選別と排除の結果、最貧困女子が生まれていると、鈴木氏は書きます。
丁寧に記述することで、鈴木氏は「でもそれって自己責任でしょ」というエクスキューズを封じているように思えました。
自己責任論は、ありとあらゆる立場から発せられていて、そのひとつでも「あり」としてしまえば、最貧困女子の存在が見えなくなってしまう。
個人的に読んでいて辛くなったところは、彼女たちの成功体験と失敗体験についてのところでした。
失敗体験の話からいきましょう。
”だが問題は、その補導時の対応だ。基本的に、警察の少年課や地域の少年補導員、児童相談所などは、万引き少年少女の補導時には親や施設の先生などの保護者を呼び出すという、杓子定規の対応しかしないことがほとんどだ。確かに少しは話を聞いてくれるから、少女としても、『この人は頼れるかも』と淡い期待を抱くが、最終的な対応である『保護者の呼び出し』『虐待する親のいる家や居心地の悪い施設への送還』は、彼女らにとっての裏切り行為となる。これがいけない。”(p.88-89)
緊急的に福祉の対象となるべき状況にあるにもかかわらず、当事者自身が、頑なに福祉による救済を拒否する心情の根底には、上記のような幼い時期の失敗体験(福祉や行政は助けてくれない)が横たわっている。
失敗体験は、強力に刷り込まれて、福祉による救済への反発力として働きます。
次に成功体験です。
家と地元からはじき出された女の子は、路上に出ます。さしあたって必要なものは、毎夜の安全で温かい寝場所(居場所)です。
それを与えてくれる人間は、まず第一に買う男であり、風俗のスカウトであり、アウトローなセックスワークの関係者たち。
(ああ、また書くのが辛くなってきた。)
彼女たちが、そういう方法で居場所を確保できたことは、成功体験となります。
失敗体験と同様に、成功体験も、強力に刷り込まれて、肉体と尊厳を犠牲としてその日その日をやり過ごすことへの親和力として働きます。
ただし、その対価の価値が「若い女だったから」に過ぎないので、年齢を重ねたり、さらに若い女性が現れて相対的な若さを失ったりすることで、簡単に崩壊してしまうものです。
障害者福祉、特に就労支援の世界で、よく言葉にするのが、まさに成功体験と失敗体験です。
社会に出たことのない人や、何らかの事情で社会からはじき出された人に対して、自信と経験を身につけてもらう方法として、とにかく小さいことから成功体験を積み重ねるということをします。
それを繰り返すことで、社会へ出る(戻る)ための基礎体力をつけてもらいます。
とはいえ、本当にそれがいいのかどうかは、当人にしかわかりません。
支援する側として、この手法ですら相手によっては押し付けではないかと思ってしまうこともあります。
彼女たちのケースに目を通すと、成功体験と失敗体験は、(それが外野の人間が望んでいるベクトルと正反対だったとしても)やはり強烈に人の心に作用するものだと、図らずも証明されてしまったような気がしました。
この本で鈴木氏は、後半で風俗やセックスワークで働く女性を分類し、状況を少しでも改善するための方策を提案しています。
幼少期には、子供たちが、夜でも居ることができて、ご飯が食べれて、ゲームができて、年長者になってもウザくならない(重要!)、シンプルに「居たくなる居場所」を作ること。
思春期には、街で出てしまった少女たちを「家に帰す」に終始することのない、「『少女自身による独立』への意思」を尊重した支援を行うこと。
また、少女たちが恋愛に依存しやすいことを肯定して、自爆的な失敗をしない恋愛ができるような「恋活」の重要性。
そして、それら全てを踏まえた上で、支援の制度が整わない間の、苦肉の策としての「セックスワークの脱犯罪化・正常化・社会化」。鈴木氏は、本文中で、明確に未成年者のセックスワークを「非人道的」と否定しているので、まさに苦肉の策として提案しています。
そして鈴木氏は、これらの提案を、専門家でもない一介の記者が考えた稚拙な提案と、何度も何度も前置きしながら書いているのです。
その前置きの中からも、冒頭に書いた鈴木氏の絶叫が聞こえてくるようです。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm24833899
いや、どうなのさこれ……
「真夏の夜の淫夢」というゲイ向けのアダルトビデオを楽しんでいるコミュニティが、ネット上に存在する。
楽しんでいると言っても、別に彼ら自身がゲイというわけではない。
彼らが主に楽しんでいるのは、このアダルトビデオの中に挟まれる寸劇の、素人の役者たちのあまりに酷い演技や拙いシナリオなのだ。
実際、その寸劇の「大まじめにバカをやってる」感はすごくて、笑わずにはいられないような雰囲気があることは否定出来ない。
(でもこういうアダルトビデオの寸劇が笑っちゃうくらい酷い出来なのはヘテロセクシャル向けのAVだって同じだ)
彼らはこの「真夏の夜の淫夢」というAV内の台詞を頻繁に引用しながらネット上で会話をする。
そんな彼らの一連のノリに「なんかホモって笑える」「ホモって面白い」という蔑みの感情が入ってることは疑いようもないだろう。
それでもこのコミュニティがこれまで大きく問題にならなかったのは
「ホモセクシャルを笑い者にしてるんじゃなくて、このアダルトビデオの寸劇が面白いだけなんだよ!」
「別にホモだから面白いんじゃない。素人の演技やバカな台詞が面白いのだ」というわけだ。
それはどう考えても嘘なのだが、それでも建前として一応機能はしている。
これはだめだろう。どう考えても。
ネタ元になっている槇原敬之の「軒下のモンスター」という曲は、一聴すれば明らかなように、アーティスト自身のセクシャルマイノリティとしての苦悩を赤裸々に歌った歌だ
「俺達はホモが面白いと思っている」「ホモという下等な奴らが真面目に何かを主張しちゃってるの笑える」
という本音を何の建前もなく日の下にさらけ出しているということになるのだ。
何しろ、実際のホモセクシャルの人たちの切実なステートメントや心の叫びをバカにしているわけだからね。
そして、それが大きい批判も晒されることなく許されるのは、日本がそういう価値観が一般に許容される国であるということだ。
こんなコミュニティがネット上で一大勢力を築いている状況が海外に知れたら、中世ジャップランドと罵られてもなんの反論も出来ないんじゃないか?
国全体でホモセクシャル迫害してるロシアのこと悪く言えないんじゃないのか?
だって文化レベルであからさまな蔑視がまかり通ってるんだから。
これを読んで「こんなおふざけに大まじめになっちゃってバカじゃないの」と思ったなら、あなたの頭は大分麻痺しているので気をつけたほうがいい。
あとで身に覚えのないことで刺されても知らないよ。
http://anond.hatelabo.jp/20141025173500
あなたは自動車運転により、大量殺人犯になるんですよ。交通刑務所行きもある。
それに見合う娯楽とは思えませんね。自身が自動車を運転せずできる代替案だっていくらでもあるでしょう。配達という手段もある。
自動車の要らない楽しいデートすら組めないようでは、都会の人間に負けていますよ? 自動車中毒、自動車依存は割に合わず、寿命も短い。地域の寿命も縮める。
自動車は他者へだけでなく、自分の死傷により重度障害や死亡もありうる。そうなると親や大切な人を喜ばすどころではなくなりますね?
この本質に目を背けず、善良で利口な判断ができるはずですよね。
自分の息子二人には「車の免許なんか取るんじゃない」と教えたという
青山さんは言う
「車なんか危ない、乗らないほうがいい、乗らないことにこしたことはない
車はステアリングをちょっと間違っただけで人様の人生を壊してしまう。
・それなのに自動車メーカーは乗用車を快適なものカッコいいものという間違った認識で売りつけようとしている
・本来、運転中に音楽を聴いたり談笑したりタバコを吸ったり飲み物を飲んでていいはずがない
・なぜなら原発作業中や電車の運転中と同等の、尊い人命を預かる一時のわき見も許されない労働行為であるからである
・自動車社会の本質は100万もの人身事故と大震災並みの犠牲者を毎年同じだけ生み出す欠陥システムである
・運転することは、飲酒どころか単なる不注意でも刑務所に入れられ人生を終わらせる可能性がある割の悪い労働である
・任意保険に入っても被害者への賠償は担保されても加害者となった自分の生活が保障されるわけではない
・不当な責任をかぶせられる不条理に嫌気をさして、賢い人から運転にはかかわらないようになってきている
・自動車免許は低所得の必要条件となっても高所得へのパスポートとはなりえない
・危険な作業は専門家に任せるのは社会の常識であるのに運転という危険作業を自分で行うのはなぜ?
・首相や大臣や一流企業の経営者の多くが自分で運転をしないのはなぜか?
・逆に一般人であるあなたが運転するのはなぜか?事故を起こして人生を終わらせ社会的に葬られても誰も困らない駒だからである
・よって駒として切り捨てられたくないと思うなら車の運転はしてはならない
自動車を運転する必要のない地域に移住する人々が、いま増え続けている。
http://news.azwad.com/post/31975473123/1
http://www.city.kamagaya.chiba.jp/kakuka/toshiseibi/atmkamagaya/imawatasi.htm
『野蛮なクルマ社会』
http://www.obihiro.ac.jp/~philosophy/Yaban.html
http://melma.com/backnumber_16703_5796048/
自転車側が第一当事者の割合はたった15.4%であり、自転車より悪質な自動車運転が蔓延しているのが日本の交通実態だと明らかになった。
思いを紡ぐ: 危険な通学路、全国に6万か所
http://tomosibi.blogspot.jp/2012/09/6.html
http://uemuraakifumi.com/sub7_teigen_numazu.html
自動車害 暴走自動車により地域の劣悪化、危険化が蔓延している 自動車害の深刻化と共に進む過疎化
http://blog.livedoor.jp/kuroiamakitune/archives/51557653.html
県内初「ゾーン30」 車両速度30キロに規制 和歌山市高松地区で設置
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130315/wky13031502110004-n1.htm
http://www.pressnet.co.jp/osaka/kiji/120512_01.shtml
http://www.y-yamasita.com/diary.cgi?no=110
http://www1.ubc.ne.jp/~jichisoken/column/2008/column200810.htm
事故を誘発した違法駐車運転に6千万円の賠償命令 消防車や救急車の行く手を阻む違法駐車 緊急事態現場への到着、未だ遠く
http://www.city.minokamo.gifu.jp/home/kouhou/IHAN/1.html
http://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mesf4001.htm
なぜ日本人ドライバーは法を知っていながら交通犯罪行為を繰り返し暴走を続け、国内外で道路を危険化するのか
制限速度・・・守らない!深刻な騒音公害と危険をまき散らしても知ったことか!→自動車規制取り締まり強化&交通刑務所服役へ
横断歩道・・・渡らせない! http://blog.jablaw.org/?eid=1074745 横断歩道で歩行者や自転車を加害し逮捕、交通刑務所で懲役生活へ
横断歩道前の菱型マーク・・・意味知らない!ブレーキランプ無点灯が示す狂気。速度超過も併せて犯す。
歩道・・・安全不確認の我が物顔飛び出しで歩行者、自転車、を加害し交通刑務所服役へ http://d.hatena.ne.jp/delalte/20111021/1319158025
歩道&車道&自転車レーン・・・違法駐車で事故誘発。自動車の我が物顔な危険行為により尊い命が犠牲になり、ドライバーに6千万円の賠償命令 http://www.city.minokamo.gifu.jp/home/kouhou/IHAN/1.html
子供らが学校へ通う通学路・・・オラオラ!自動車様のお通りだ!プップー!(クラクション) 速度超過xスレスレ追い抜きx異常接近x警音器使用制限違反x徐行義務違反x横断歩行者等妨害?知るかボケ!
上記交通犯罪はすべての道路で日常的に繰り返されている。歩道のない通学路でさえも!
交通犯罪危険運転自動車撲滅のため、自動車規制取締強化を市長や知事、議員等に要請しつづけよう。
あなたの「まち」、これからどうしますか? コンパクトなまちづくりを目指して ──自動車不要で誰しもが安全安心、快適、便利に暮らせる地域づくり 国土交通省
http://www.mlit.go.jp/crd/index/pamphlet/01/index.html
いくら気をつけていても、大勢の児童ら市民らを殺傷させて道路を血の海、地獄絵図に変える殺傷力をもつのが自動車という凶器。
地域の安全のため、自動車への規制取り締まり強化、自動車抑制施策の推進、自動車の運転なしでも快適に暮らせる子供からお年寄りまですべての人にやさしい地域の実現、これらを議員や警察、知事、市長ら等に要請しつづけよう。
2 : 車を捨てるといいことばっかりじゃないですか[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 21:39:29.01 ID:gEM4FMoW0 [2/7回(PC)]
・毎年数十万から100万円以上のコスト削減が出来、その分生活にゆとりが生まれる
・ガソリンの充填、車検・点検、消耗品の交換補充や洗車、税金、保険、車の買い替え、事故や違反の対応などの手間から開放される
・車を捨てることで生活の場を郊外から都心に移す事が出来、通勤時間を減少させ自分の時間を増やせる
・郊外のどこへ行っても同じ郊外型SCやファミレスから、街中の変化に富んだおしゃれなお店での買い物・食事へ生活の質をシフト出来る
・会社帰りの近所のお店での買い物が増え、週末をジャスコでつぶされることがなくなる
・海外旅行などにシフトし国内でも新幹線や送迎バスを利用し、飲酒制限や事故や運転ストレスとは無縁の休暇旅行
・駐車違反の心配や駐車場を探すムダな時間、駐車時間の拘束から自由になれる
・違反点数の心配、交通事故の不安、加害者になる可能性がなくなる心理的負担の軽減
・車での移動中使えなかった時間が、読書・モバイル・睡眠などに使えるようになる
・他人の目のある公共交通の利用が増え、いつの間にか服装にも気を使いオシャレになる
・車を捨てれば温暖化ガスの家庭排出量の3割を減少させることが出来、事あるごとにそれを人に自慢できる
3 : 車の運転で犯罪者になる[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 21:41:26.37 ID:gEM4FMoW0 [3/7回(PC)]
「そんなことは滅多にないだろう...」
と思われるかもしれません。ですが、冷静に考えてみましょう。
人身事故は、年間約100万件です。
クルマの利用人口(約5千万人注1)から換算すると、普段運転しているドライバーが人身事故をする確率は、一年で2%です。
つまり、3分の2のドライバーが、「事故でケガをさせて」しまうのです。
注1:「余暇開発センター」の調査より、「普段、クルマを利用する」人口を算定
注2:1 - [1-(100万人/5千万人)]50 = 0.64
交通事故で亡くなる方の人数は、年間約1万人です。
先ほどと同じ計算でいくと、一生で死亡事故を起こす確率は、1%注になります。
つまり、100人のドライバーのうち一人は、死亡事故を起こすのです。
注:1 - [1-(1万人/5千万人)]50 = 0.01
交通事故死のうち、約1/3が「運転者」です。
つまり、300人のドライバーのうち1人は、事故で死ぬのです。
④250人のドライバーのうち1人は、「人をひき殺して」しまう
つまり、250人のドライバーのうち一人は、見ず知らずの人をひき殺してしまうのです。
http://www.plan.cv.titech.ac.jp/fujiilab/info/accident.html
4 : 車の運転はバカがするものby鈴木正文[sage] 投稿日:2014/09/25(木) 21:43:31.11 ID:gEM4FMoW0 [4/7回(PC)]
・それなのに自動車メーカーは乗用車を快適なものカッコいいものという間違った認識で売りつけようとしている
・本来、運転中に音楽を聴いたり談笑したりタバコを吸ったり飲み物を飲んでていいはずがない
・なぜなら原発作業中や電車の運転中と同等の、尊い人命を預かる一時のわき見も許されない労働行為であるからである
・自動車社会の本質は100万もの人身事故と大震災並みの犠牲者を毎年同じだけ生み出す欠陥システムである
・運転することは、飲酒どころか単なる不注意でも刑務所に入れられ人生を終わらせる可能性がある割の悪い労働である
・任意保険に入っても被害者への賠償は担保されても加害者となった自分の生活が保障されるわけではない
・不当な責任をかぶせられる不条理に嫌気をさして、賢い人から運転にはかかわらないようになってきている
・自動車免許は低所得の必要条件となっても高所得へのパスポートとはなりえない
・危険な作業は専門家に任せるのは社会の常識であるのに運転という危険作業を自分で行うのはなぜ?
・首相や大臣や一流企業の経営者の多くが自分で運転をしないのはなぜか?
・逆に一般人であるあなたが運転するのはなぜか?事故を起こして人生を終わらせ社会的に葬られても誰も困らない駒だからである
・よって駒として切り捨てられたくないと思うなら車の運転はしてはならない
イスラム過激派について、「ネタとして」と言いながら、大目に見ている連中が多いよねという話をしていたときに聞いた話だ。
結論だけ言うと、「ネタとして」と言って、誰もおかしなものをおかしいと言わずにいると、だんだん「ネタ」じゃなくなるのだと。
「ネタとして」と言ってるうちに、感覚が麻痺するし、そこで使われている特殊な用語への抵抗感もなくなるのだと。
そこにお墨付きを与えているのが内田樹のような「まじめそう」なネット著名人なので、
「大丈夫っぽい」というイメージだけは重ねられていて、こじらせると大変らしい。
ここ読んでる人の友達にこじらせかけている人がいたら、
人質の首を切って殺しているのを撮影したビデオを世界中に流すのは、おかしいだろ?」
ということを言ってやってほしい。
はじめての解剖実習。
白い半透明なビニールにつつまれて、遺体が各テーブルの上に置かれている。
あー、これが…と、そのときはまだ平気だった。
うっ、と気分が悪くなった。
ビニールの覆いのチャックはあけられないな・・・と思った。
みんなが席について、教授が軽く説明をした。
うちの大学ではC大とは違いセレモニーなどはなくいきなり始めるらしい。
今日がオリエンテーションだけだと思っていた私にとって、二重の驚きだった。
初めの数秒は無心で黙祷していたのだが、考え始めてしまうとお願いしますだとか、ありがとうございますだとか、すみませんだとか、さまざまな感情が渦巻いてくる。
結局は大切に勉強させていただきますと「彼」に誓い、それから再び無心になろうと努力した。
さて、解剖がはじまる。
Aがあっさりとチャックをあけてしまい、中の布をめくる。
人の皮膚がみえる。白い。
手が出せなかった。
体表観察。
うわーと思いながらも、ほかの人がおそるおそる手を触れ出すのをみながら、そろそろと手をのばす。
あっ、というかんじで鎖骨にふれた。
冷たい。でもたしかに、人肌ではある。
一度触れてしまうと、すこし抵抗が和らぐ。
実習の手引きを参照する必要がある。
俺まだこっちの手はきれいだからなんていいながら、Bが手引きを広げた。
1か所ずつ触れながらすすめていくと、少しずつ抵抗が和らいでくる。
きれいな皮膚に傷をつけるっていうのは、やっぱり私には無理だった。
それに続いてDも鎖骨のあたりに横に割をいれる。
うわぁ・・・と思っていたが、おそるおそる私も鎖骨に沿って割をいれた。
メスは思った以上に鋭く、スーっと吸い込むように切れた。
皮剥ぎ。表皮と真皮を剥ぐ。
処理が施されているからか、皮膚が予想以上になめし革のようになっていて驚いた。
これが脂肪かと思いつつ、一瞬吐きそうになる。
甘いような、甘くないような。
時々ふと気持ちがわるくなり、しゃがんで手を休めた。
皮剥ぎがすすみ、腋あたりまですすむ。
Aのメスは先輩からのもので切れ味が悪く、脂肪組織がこわれて脂が液体となってたまる。
それをみて再び気分がわるくなった。
首を剥いで広頸筋をみる。また胸部にて皮静脈などをみる。
神経は結合組織と見分けにくいが、あらゆるところに走っていた。
ちょっとした手術で神経を切断してしまい麻痺がおこるというのも頷ける。
他に脊髄神経前皮枝や腋窩リンパ節などをさがしつつ、その日の実習は終えた。
観音開きにした皮膚をもどし、再び布をかけた上で保湿液を上からかけ、ビニールのチャックをしめた。
はじめるまでは解剖実習なんて絶対無理だなんて思っていたが、やってみると案外できてしまうものだった。
体が疲れたというよりも、そうでないどこかがはげしく疲労しているような感じだった。
※この内容が実際の解剖体験に基づいたものであっても死体保存法に反しているとは思いませんが、礼節を欠くなどと思われるかたがいらっしゃることを想定し、あらかじめ『解剖実習の手引き』に基づいた創作であることをここに宣言しておきます。
境内は神域であり原則畜獣立入禁止なんだが、ごく普通に「散歩中ですよ」みたいなさわやかな顔して犬連れて入ってくる奴が非常に多い。
とはいえ地元の人間は殆どいなくて、他地域から来る人間や旅行者が大多数を占める。
常連にも犬連れが居るのかというとこれが一人もおらず、犬連れて入ってくる奴らはと言えば見た事もない連中ばかりだ。
しかしそれでも境内に犬の姿が絶えないんだから年間どれだけ一見さんが来てるのかっていう話でもある。
まあ私も犬は割と好きな方なんで、犬来ても仏頂面で「かわいい」と思って眺めるだけなんだが、流石に立場上あまりよろしくない。
境内での犬どもはいきなり知らない場所に連れて来られたせいか大抵おとなしいので問題が起きる事もないが、放置するのもまずい。
たまにリードすらつけずに飼い犬を野放しにしているとんでもない奴も来るが、犬も飼い主も問題起こさないので注意しづらい。
まあ犬嫌いの奴にとっちゃその犬がかわいいか無害かなんて関係ないわけだから、リードつけてないだけで十分な迷惑行為とも言えるんだが。
ただ、犬連れて旅行とかするくらいだし飼い主も感覚が麻痺してるのか、普通に犬連れて受付に来たりする。
受付者「…すみません、ワンちゃんはお外で待っていて頂けますでしょうか?」
夫「(気付く)ん?何で外行く?」
妻「犬は外で待てって」
こちらは常識を説いただけなんだからわざと悪意にまみれた翻訳をして夫を焚き付けるんじゃねえよクソ飼い主。
こういうのがあるので、犬連れの受付はスルーするようにしている。
他にも、
断られるのがハッキリわかってる質問を敢えてして一度断られたのにそこでまだ食い下がるんじゃねえよ常識考えろクソ飼い主。
というのがあったり、
飼い主「〇〇、〇〇、〇〇、タマ…」
受付者「…。(まあお婆ちゃんの名前かもしれないし…)」
飼い主「ジョン…」
受付者「……。(もしかしたら外人の家族がいるのかもしれないし…)」
飼い主「ミケ…」
ですが~じゃねえよ家族の名前言えって言われてんだから自己判断でペットの名前付け加えてねえで言われた通り家族の名前だけ言ってりゃいいんだよクソ飼い主。
というのがあったりするので、
どちらかというと大人しいペット達よりも無理難題を言い立てる飼い主の方が普通に畜生に見える。
人間の飼い主達よりもペット達の方が神社ではずっといい子にしている。
で、こういう事が続いたりしたので職場でも犬連れの参拝者に口頭注意するようになったんだが、これがまるで効き目が出ず、犬の数が一向に減らない。
そんなやり方では、口頭で注意した飼い主が、その後家に帰ってから口コミで「あの神社で犬連れてたら注意された」と広げ、やがて犬連れてくる人が減るのを期待するくらいしかない。
こりゃ長期戦を覚悟しなきゃならないか…と思っていたところ、ある日突然、境内をうろつく犬の数が激減した。
“景観保持の為こんな無粋なモノを張りたくない”としぶる向きも多かったが、ダメモトで、入り口に張り紙を一枚張る事に。
「境内に犬を連れて入らないで下さい」
あっさりと、犬の数が激減した。
要は、「犬連れて入っちゃダメ!って書かれてないから入ってオッケーなんじゃね?」って思われてたって事なんだろうな。
そういう事じゃねえんだがなあ。
ちょっとだけ調べてみました!
どうでもいいけどid:blueboyさんはいい加減自分の意見に自分でスター付けるのやめて欲しいなと思った。「おれの意見は正しいからおまえら注目しろ」って趣旨なの?
blueboy氏はどれほどの自演スターをつけてるのかと思ったら、1個で拍子抜け。何とかノート事件(実験ノートではない)の時にある人がお仲間に大量のスターをつけていたのを見てきたせいで、感覚が麻痺しちゃったのかな
ああ……ついにつっこんでしまった/「この星はセルフスターかなー?」ってニヤニヤ楽しんでいたのに/はてなスターの使い方は自由でいいんじゃないかと思います
話題になったのって今回が初めてじゃなかったんですね! 迂闊でした!
こちらの方も「毎回のようにセルフスターして」という印象を持たれていたようですね!
また、氏が少なくとも2012年からセルフスターしてたことも分かりました!
blueboy氏のセルフスターが物悲しい。例によってblueboy氏以外で疑問に思う人がいたら質問に答えます。blueboy氏からの質問もコメントしてくれたら答えます。間違いだらけのブログに反論するのは面倒くさい。
氏は今回、ご自身のスターは消してまわったそうですけど、他人のブコメまでは消せないんですね! ちょっと気の毒ではありますね!
でも、ちょっと探しただけでこれだけ証言が集まったとなると、「嘘つき。夢でも見ていたのか?」はあんまりなんじゃないかと思いました!
生き物として当たり前の感情なのかもしれないけど、遺体がこわくて仕方ない。
これまでの人生で直接見たのは2回ぽっちで、どちらもお葬式の場だったから、きちんと顔を整えられていた。それでもこわかった。
特にこわいと感じるのは、ばらばらになってしまったり、大きく損壊した遺体。いや、もちろんこれだけこわがっていることは自覚しているから、ネットでもやばそうなリンクは踏まないようにしているし、実際に(画像・動画でも)見たことはない。
それでも、想像するだけでこわい。こわすぎる。こうして生きている状態を保っていることが奇跡に思えるほど、人体の組成やら構造やらって壊れやすいのだなと思うとちびりそうなほどこわい。
報道の定型句、「全身を強く打って死亡」の意味を知った夜は寝つけなかった。交通事故でもばらばらになっちゃうのかよ…やべえよ…こえーよ…。
最近はホットエントリーで、特集清掃の業者のbefore/afterの写真を見てしまって、やはり眠れなくなった。人って液体になるのかよ…超こえーよ!!
いっそのこと、感覚が麻痺するほど遺体写真を見まくった方がいいのかもしれないとすら思う。それぐらい、想像の中の遺体がこわすぎる。
「死」そのものがこわいとか、亡くなった方の無念が想像されてこわいとか、幽霊がこわいのではない(と思う)んだけど、この感じ、ご理解いただけるだろうか…。
今もこれ書いててこわくなってきた。
○末松委員 そこはちょっと今度また示してください、どんな研究でどんなことをやっているのかというのを。ぜひそこは開陳していただきたいと思います。
それと、この具体例として、はり、きゅう、マッサージの方々と話すと、やはりかなり大きないろいろな差別を受けているというんですね。例えば、かなり体が悪いから、医療サービスの消費者としての患者の立場から、はり、きゅうに行ったと。もう大変な状況になっていますねと言われても、保険を申請したいと、保険という含みで言ったら、医者に行ってくれ、医者の同意がないとだめなんだと言われたというのは、もうごまんとあるわけです、こういう例が。
西洋医学の医者と言われる方々が、どうして東洋医学の、これはシステムとして同意をするということがあるわけですよね、この同意をするということができるのか。東洋医学を彼らは勉強していないはずなんですけれども、それに対してどうしてそこの同意権なるものが必要なんですか。そこはおかしいと思うんですが、いかがでしょうか。
○中島政府参考人 ただいまの点でございますが、これは、はり、きゅうとマッサージで若干事情が異なるところもございますので、まず、はり、きゅうの施術につきましては、科学的なメカニズムが必ずしも十分まだ解明されてはおりませんものの、鎮痛等一定の効果が経験的に認められるということから、慢性病、例えばリューマチとか神経痛とか、こういったものですけれども、これに対しまして実施される場合であって、また医師による適当な治療手段がない場合、こういった場合に限って療養費の支給対象としているわけでございます。
東洋医学に十分な知見を持たない医師が同意を与えるのにふさわしいのかという御指摘につきましては、このはり、きゅうについての同意書につきましては、今申し上げましたような慢性病であるということ、それから医師による適当な治療手段がないということを保険者が確認をするためのものでございまして、必ずしも東洋医学の知見を前提としているものではないわけでございます。
また、マッサージにつきましては、筋麻痺等の麻痺の緩解、麻痺を緩めるということ、あるいは、関節の拘縮等により制限されています関節の可動域の拡大というようなことを目的として行われる場合等で、医療上の必要があるものにつきまして療養費の支給対象としているということで、今申し上げましたような筋麻痺、関節拘縮等があるということ、それから医療上の必要があるということを保険者が確認するということで、この場合も同様に東洋医学の知見を前提としているものでは必ずしもないということでございます。
○末松委員 あなたがおっしゃるその東洋医学の知見を前提としているものじゃないということは、つまり東洋医学の科学的な知見がないという前提に立っていて、それがわからないから、だから、だめなんだ、だめなんだと言っているにすぎないんですよ。患者の立場から見たらどう思うかというと、本当に困るんですよね。
だって、西洋医学の医者が適当な治療例がないと。それは、西洋医学でできない面というのはたくさんありますよ。そういった面がないからといって、では、お医者さんがどんどん向こうへ行きなさいといったら、自分の商売上がったりみたいなことも、経営面というのもやはり頭に浮かぶわけですよね。そういったときに、患者の権利として、いや、私はちょっとこういったものは東洋医学系のものにかかりたいから、だから、そこは患者の権利を守る立場から、ここはこういうふうに、私は行きたいので行きますという、つまり、そこで医者の同意という行為がなければおかしいと。同意がないというのは、やはりおかしいんですよ。
そこは、何といいますか、患者の権利としてもう少ししっかりとしたものをつくるべきじゃありませんか。
○中島政府参考人 これは、現在の給付対象を、審議会等の御議論も経てこういった状況に設定をしているということでございまして、このはり、きゅう、マッサージのサービスについて、そういった患者の権利というようなものを尊重した形式に改めるかどうかということについては、今後の議論だというふうに考えてございます。
○末松委員 あなたの言うその審議会というのは、東洋医学の関係者は何人ぐらい、何%ぐらいいるんですか。
○中島政府参考人 私の現在思い浮かぶ範囲では、東洋医学を専門としているという方はおられないと思います。
○末松委員 つまり、こういうことなんですよ。実際、こういうことなんですよ。だから、そうしたら認めるわけがないですよ。
だって、保険のパイは一定なんですよ。そのうちのパイの食い合いみたいな、こういう発想でとらえられたら、国民の患者としての権利が侵害されているということにぜひ気づいていただきたいんですよ。そこをきちんと見ないと、本当に効果がないからだということだって、結局は、医者がそう言えば一切そういう保険もおりない。私なんか、正直言って、医者にかかりたくないから、逆にそっちの予防の方を重視したい。そういった国民の声をすべて無視しちゃうことになるんですよ。
厚生行政として、そこはおかしいと思いませんか。そこは、ある程度の反省をすると同時に、さっきの科学的な知見ですか、それは国主導で進めていかないと、やはりそこが一切進まないということになりませんか。もう一度お願いします。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/162/0058/16204060058002c.html
ネットが基本無料で無限に遊べて、それに感覚が麻痺したネットユーザーの声がでかくなって、目に付くっていうだけのことだと思う。
強烈な一冊。
JKお散歩やJKリフレなどの所謂JK産業で働く少女達へのインタビュー集というのが基本的な構成で、途中途中にJK産業で働いた経験のある少女31名へのアンケート結果が挟まれる。筆者の仁藤夢乃氏は1989年東京都生まれの女性で、中学生のころから「渋谷ギャル」をやり高校は2年で中退したという経歴で、JKのときにメイドカフェで働いていたこともあるらしい。まあ少女達に寄り添える立場ってやつっすね。
ただし最後の2章程度を除いては過剰に筆者の意見が前に出ることはなくどちらかと言えば乾いた筆致で少女達から見たJK産業が語られる。それと同時に奴隷商たちによる「愚かな」少女の誘導マニュアルが筆者の視点から淡々と紹介されていく。愚かな、と書いたのはその手法が我々読者からみた場合にあまりにもチープだからだ。ある少女は「ホームページがあるからまともな仕事そう」と思い、求人登録サイトでバイトを探していた別の少女はJKであれば誰にでも均質に送られるスカウトメールを「選ばれた」と認識してJK産業に入っていった。働き始めると、売上が良ければ褒められ、売上が落ちれば優しく励まされる。そしてそれにやりがいを感じる。「私は必要とされているんだ!!」
裏オプの状況についても語られている。働き始めて数ヶ月で感覚が麻痺し、胸を触らせる・パンツを見せる・抜き・本番……などを始める少女がいる。一方で、「裏オプやってる娘には負けたくない」という高い意識()を持ちナンバーワンになる少女がいる。前者は「そういう自分」にまあいっかと適応し、後者は奴隷商たちのやりがい搾取に適応した結果だ。
売りをやるような女は頭悪いからしゃーないwwwと言う意見があるが、全くそのとおりだ。彼女たちは頭が悪い。まだ子供だから常識は知らないし、まともな教育環境にもない。家に金がないからといって彼女たちがバイトで貯めた金の半分を取ってくる親がいる。ついでに言うとJK産業で働いた場合、稼いだ額の半分を店に収めるので1/4しか金が入らない。分数のできない女子高生だ。3/4を搾取する大人のマニュアルに気付かず、親を客観視することができず、優しく声をかけてくる店長のことを「優しい親戚のおじさんみたい」と思ってしまうほどに愚かだ。おかしな金銭感覚を教育されたまま、後はお決まりのフルコースが待っている。JKお散步→キャバ→風俗→羊水が腐ったのでさようなら~
まあこの手の家庭環境に問題があったり、ヤンキーなりいじめ被害者なりで学校からはじかれたりした層をタゲった構造は昔からあったわけで、現代の闇がうんぬんとかいう話ではない。ただし誘導手法のマニュアル化が進むとともに高度化も進んでいるらしい。タイトルでは「関係性の貧困」とあるが、むしろ強調されているのは衣食住に困窮した少女達の「セーフティネット」としてのJK産業だ。家に居場所がない少女には「住」だけでなく金がないので「衣食」もない。そういった少女に奴隷商は「住」を提供する。10畳の部屋に大勢の少女が暮らす。JKお散歩は「食」を与え、仕事で得られた収入が「衣」を与える。明らかにどっかで見た構造が流用されてんな。まあいい。彼女たちは自立できたのだ。少なくとも家族や学校に縛られていたときよりは。
さて、誰が(何が)悪いのか。頭の悪い少女?女子高生に欲情する人間(レズの買春者もいるそうで)?奴隷商?
では、最も効果的な対策は何か。頭の悪い少女を売春で逮捕する。女子高生に欲情する人間を買春で逮捕する。奴隷商を殲滅する。どれも効果があるだろう。ただし、いずれもJK産業で生活する少女の「居場所」を奪うという点では同じだ。奴隷商は高度化されたセーフティネットを提供し、少女は愚かしくもそれに惹かれて、居着いている。狂った構造だ。だが、恐らくこの構造に学んだシステムこそが社会が提供すべきセーフティネットである。金儲からないから難しいのか知らんけど。
ちょっと違うと思う。
彼女の件は「ムキになって」で出来るようなレベルのシロモノとはちょっと違う。
ベルのシェーンの件もそうだけど、決して「ムキになって」捏造を繰り返したわけじゃない。
最初は研究を行ってる中で、少し手を加えるとより良い結果が見えることに気づいて、少しだけ手を加えて報告を行った。
それがうまく言って評価につながり、教授陣はその結果を元にした新たな結果を求めてくる。
この時、まだ本人は手を加えたと言ってもその先少し頑張ればその結果は得られるものだと思っているしそこまで罪悪感が無い。
が、それを繰り返していくと、徐々に手におえないほど、恣意的な捏造を行わないと矛盾が出てきてしまうことがある。
この時、もしかすると本人は手を加えること自体を「悪」とは思ってないかもしれない。
あるいは小さな捏造を繰り返していくうちに麻痺していくのかもしれない。
いずれにしろ、大きな結果になっていくに従い、結果を疑うものは当然増え(それはどんなものでも同じ。たとえ今では本当に凄い大発見と確定しているものでも)、
大きな目に触れることでバレる。
実はその時点まで、「勘違いや間違いだろ」等と強く責められる事はない。
勿論、研究者同士での議論で、結果について文句を付けられることはあるが、これも上で述べたのと同様、研究界ではアタリマエのこと。
論文がはじかれる、なんてこともNatureレベルなら別に恥ずべきことでも何でもない。
つまりは「ムキになって」と言うことになるシチュエーションすら無く、単に小さな嘘の積み重ねの結果、
で、実際の所、そういうことは研究の世界とか関係なく何処にでもある話。
その嘘の積み重ねがあまりにうまく行きすぎて、また、あまりに大きくなりすぎた例が今回の彼女の件、というだけ。
小さな嘘の積み重ねなら誰でもしたことがあるだろう。
研究なんかの世界でそんなコトしたらバレるに決まってるし、いずれにしろ先は無い
(研究としてそれ以上発展のさせようが無いから定年間際でどうしたって功績が欲しい人以外はやらない。