はてなキーワード: 機構とは
塩は3g→15gだったらとても食えない味になる
公式設定では
・ガンタンクの120mm低反動砲の射程は最大260kmである
ということになっていて、そのどちらもが
「アリエンティwww」みたいに馬鹿にされることが多いが、これらは別に数字の間違いでもなんでもなく「合理的に考えたらそうなる」設定である。
→そもそもザクマシンガンは対MSを想定した装備ではなく、また地球連邦軍の軍備は比較的装甲が薄いトリアーエズ迎撃機やセイバーフィッシュであったため、それらを宇宙空間上で撃破するためには弾の速度よりもより多く弾幕が張れることが重要だった。宇宙空間上に低速で大量に配置された榴弾もしくは炸裂弾はMSに比べて急旋回などの機動に劣る戦闘機には脅威だったはずだ。
また、多少弾の速度を速めたとて戦闘機以上の兵器にとっては効果が薄く、戦艦などの守りが固い固定目標に対してはザク・バズーカやヒートホーク、対艦ライフル等が用いられたためザク・マシンガンの用途は限定的だった。
→「低反動砲」というメッセージから分かる通り、ガンタンクの砲は戦車などにある薬莢にのみ弾体があるものではなく、RAP弾と呼ばれる「ロケット推進を用いた砲弾」であることは想像に難くない。
これは北の将軍様がことあるごとに飛ばす飛翔体と発射機構こそ違えどほぼ同種のものとみてよい。
現実に艦船から発射されるLRRAP弾では150mm級の砲から160km以上の射程を持つものも存在している。
ガンタンクの運用思想は「ミノフスキー粒子による電波妨害下にて相手レーダー観測距離外、関知領域外からの圧倒的アウトレンジ攻撃」であり、これは基本的に曲射砲としての運用である。
砲撃目標の設定は観測機や偵察部隊からの情報をもとに決定されるものであり、敵ゲリラ基地を長距離砲撃によって制圧するものであり、当然MS戦などの「移動する目標」との戦闘は想定されていなかった。
上記二つの説については筆者の妄想が多分に含まれるものであるが、
「おかしい設定」等ではない、ことは理解してもらえたものかと思う。
増田ら諸君に於かれても、少し特徴の強い設定に出会った時は単に否定せずこのような形で設定に妄想で整合性を加えてほしいものである。
正確には「連続してN年以上準備会スタッフを務めた方は、以降スタッフとして参加することはできません」のようになるのかな。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/WrtEJcCm2ckvevt/status/1161143229779025920
のコメントで言われているけど、準備会の「上層部」の意志決定が硬直化していることが事実であるとすれば、現状SNSや他の媒体でなされている今後のコミケに関する議論のほとんどに意味がないことになってしまう。
もしこうした状況に対して、世の中の他の組織(営利企業や行政機関とか)のように、民主的に選挙されるガバニングボードを設置するとか、運営プロセスを透明化するとかなれば、それだけのために専門家を(いわば「参加者の枠外から」)連れてくるほかない。そうすればコミケの「理念」(もしくは「建前」)が大いに傷つけられるのではなかろうか。これはよくない。
だとすれば、そうした大それた企業統治機構を整備するより、「定年制」を導入することで「上層部」の意志決定プロセスに一定の緊張感をもたらすことができると思う。仮に世代を超えて「派閥」が形成される危険性があるにせよ、スタッフの実務から離れた人間が組織を腐敗させるほどの影響力を残すのは難しいだろうし、何より、スタッフ数不足の問題に対して、「新規スタッフとして参加するハードルを大きく下げる」という効果が見込めるだろうし。
ナレッジマネジメントの視点から言っても、経験を持ったスタッフを一定期間ののちに強制的に排除することで、明文化された形で組織内に共有されるよう促すことができる。運営に関する知識の属人化を防止することで、(今後小さくはならないであろう)コミケの規模に対応できるノウハウを蓄積することができるかもしれない。
にわかの参加者ではあるが、コミケとはまったく畑違いの大規模イベントに(仕事として)関わった経験があり、その大変さを知っているだけに近年の準備会と一般参加者の間のコミュニケーション不全には心を痛めている。考慮に値しない意見なのかもしれないが、議論の一助になればよいと思い投稿した。
「少女像」展示、どうなる? 実行委で検討へ。芸術監督・津田大介氏が会見(声明全文)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/daisuke-tsuda-press-conference_jp_5d44111fe4b0acb57fcad537
税金云々の話や機関や審査機構の話はまた別問題なので、ここでは触れない。
読んでいて、津田大介氏に対して心の底から本当に消えてくれないかなと思った。
本当に迷惑だよ。
こう言うのも炎上商法とか言うのかな?
何故ならこれだけ多方面に迷惑かけておいて、今もふざけた事ほざいているから。
とんでもない地雷仕掛けてくれて、しかも炸裂させてくれたんだ、ふざけんなって人も多いだろうし、これ見る限り、怒ってる人もだけども呆れている人も多いよ。
これ右も左も思想なんて関係なく、頭を抱える人も多いだろうよ。
今回津田大介氏のこの行動は様々な多方面に迷惑かけているだろう、本当に。
表現の自由自体、個人的にも守られるべきだと思うし、あの表現が不快だから潰せと言う風になれば、お前ら以前それを潰せと言っていただろうと相手に逆の口実を与えかねない危険性があるし、それこそそれのせいで、全てのイベントや表現が潰される口実に使われる事に使われるのも目に見える。
だから少しでも表現の自由や言論の自由を厳守し、守られるべきと言う人ならば、これ自体の表現つまりはこいつらのイベントも中止させてはいけないと言うしかないのよ。
それを判った上で津田大介氏はこんな事を悪意をもって、今回このイベントを行ったと言うのが、この記事を読んでいて判るのよね。
下手な前例なんてできた日にはそのせいで他業種の様々な表現すら潰されかねない事案だからな。
だからこそ、他業種の全く関係ない、多くのイベントや色んな界隈に迷惑をかけて、それらも一緒に巻き込んでぶっ潰したいのか、こいつは?と言う風に思えるのよ。
正直な話この記事を読んでいて、更なるこいつの悪意しか感じなかったよ。
やる前からリスクもあって、こうなるのは判っていたとかふざけるなとしか思えないんだわ。
それと表現の自由を盾にするならば、津田大介氏はその津田大介氏に対しての批判的な批評自体も甘んじて受け入れるべきだと思う。
今回判っててやっていたならば猶更だよ。
それは最低限、表現者や審査機構として作品を出した責任であろうよ。
記事を読んでいて、その批判的な批判に対しても自身は表現の自由を盾にして逃げているスタンスが本気で気に入らない。
何にしても今回の件は本気で他業種の様々な多方面に広域で大迷惑をかけているのが気に入らないよ。
本当に心の底からふざけていると思ったよ。
世の中には、社会人になったら一生ものとして1つは持っておけと言われる高価格帯のアイテムがいくつかある。高級腕時計、財布、バッグ、礼服、革靴、万年筆などが挙げられるだろうか。これらは一度購入すれば数十年も使用に耐えるものがあるし、ビジネスシーンで有利が取れたり、使えば使うほど味が出てくるなどとさえ言われることがある。しかし私は、ビジネスでは全く役に立たないであろう「高い双眼鏡」を1台買うことを強く勧めたい。それも10万円クラスの、持ち運びしやすいコンパクトなタイプだ。「双眼鏡なんて一生使うことない」「双眼鏡に10万円もかけるとか頭おかしい」というのが一般的な感覚だろうし、「一生ものに10万円は安すぎる」「30万出してスワロやツァイスの40mm買え」というのが双眼狂たちの言い分かもしれない。が、私に言わせれば、あらゆる場所に毎日持ち運びできるコンパクト双眼鏡を持っていない人生はもう考えられない。
他の「一生もの」と比較してみると、高級腕時計や財布は確かに所有欲を満たしてくれ、どこに行っても胸を張って使えるファッション性がある。だが時刻の確認だけならスマートフォンやスマートウォッチでもできる上に、そちらの方がはるかに高機能で、人生をちょっと豊かにしてくれるいろいろな体験ができる。財布は現金やカード類を収納するという機能しか持っておらず、その機能自体が人生を劇的に豊かにすることはない。
一度所持してもらえばわかるのだが、双眼鏡には、双眼鏡でしかできない体験というのがあるし、大事に扱えば親子三代にわたって使えるとまで言われるほど頑丈な機器だ。パソコンやスマートフォンなどの電子機器とは比較にならない寿命の長さであり、またこれらには決して代替ができない道具でもある。
では私がなぜ「新社会人」に双眼鏡を勧めるのか。学生時代よりは高い製品に手を出せるぐらいのお金があり、かつ若くて体力があって、ひとり旅や友人との旅行、何の気なしに街を歩くこと、美術館や博物館巡り、コンサートやライブ、ハイキングや登山などのアウトドア活動といった、双眼鏡が最も活かせるシチュエーションである「外出」がしやすいからだ。「友達いないから旅行とか行かない」「仕事で疲れてて外に出る気がしない」「家でガチャ回してる方が楽しい」という声もあるだろう。逆に考えるんだ、「高い双眼鏡を買ったんだから、せっかくだし外に出てたくさん景色を見よう」と。そうして得られた体験は間違いなく一生の糧になる。家でアニメを見たりガチャで爆死したりするのもいいけれど、たまには外の空気を吸いに出かけてみよう。何も電車や車で何キロも離れたところに出かける必要はない。空を流れる雲や、電線に止まっている鳥、街中の高層ビル、遠くに見える山々、夜になれば月に、双眼鏡を向けてみよう。肉眼では特に何とも思わなかっただろうが、双眼鏡を通して見る世界がとんでもなく豊かなことに驚くはずだ。近所で使うだけでなく、連休の旅行やハイキングで使えば旅が何倍も楽しくなるのは請け合いだ。もちろん、新社会人だけでなく、双眼鏡を1台も持たずになんとなく人生を過ごしてきた人たちにも強くオススメしたい。
「外に出て景色を見るだけなら、双眼鏡なんか使わなくてもいいじゃん」という反論もあるだろう。この点に関しては自分の目で確かめてもらうのが一番なのだが、一度見てもらえれば全てが理解できるはずなので述べておこう。いい双眼鏡で見る景色は、肉眼で見るよりもずっとずっと美しい。いい双眼鏡は、ガラスを通して見ていることを全く感じさせないほど見え方が自然で、なおかつ肉眼で見るよりも透明感があって色彩豊かに感じられ、普通に見ていたのでは気づかないディテールもはっきりとわかる。うまく写真や画像で表現できればいいのだが、自分の目の前に圧倒的な迫力で美しい景色が現れることの素晴らしさは、実際に味わってもらわないとなかなか伝わらないのが歯がゆいところだ。双眼鏡を一度も覗いたことがない人や、地方の電気屋でよく売られている数千円程度の双眼鏡(ほとんどは粗悪品レベル)しか見たことがない人は、ぜひ街中の大きな量販店で、3万円を超えるような双眼鏡を覗いてみて欲しい。それだけでも、きちんと作られた双眼鏡がいかによく見えるかがわかるだろう。
私は記事の冒頭で、「10万円クラスの持ち運びしやすい双眼鏡を買え」と書いた。そしてつい先ほど、「3万円を超えるような双眼鏡を覗いてみろ」とも書いた。実を言うと、3万円クラスの双眼鏡があれば十分にいい景色が見られるし、耐久性もバッチリだと言うのが私の意見だ。しかし3万円クラスで、覗きやすく満足のいく見え味を手に入れようとすると、ある程度筐体が大きく重たい機種(具体的にいうと対物レンズ径30mm以上)から選ぶしかないのが現実なのである。人にもよるが、これぐらい大きな双眼鏡を毎日持ち歩くのは厳しいという人が多いと思う。1万円クラスの小さい双眼鏡にもオススメできる機種はある(後述)のだが、どうしても携帯性・耐久性・防水性・覗きやすさ・見え味のどれかを犠牲にせざるを得なくなってくるし、一生使える相棒とするには少し頼りないところがある。
毎日どこへでも持ち運べるほどコンパクトで、見え方が優れていて、耐久性も高い(防水付き)のものを手に入れようとするとどうしてもコストがかかってしまうのだが、ここでは「せっかく高い買い物をしたのだから毎日使おう」という心理がはたらいて、結果的に人生が豊かになるような買い物をしてもらうため、あえて予算は度外視し、記事執筆時点でコンパクト双眼鏡では世界最高峰と言える機種を紹介しようと思う。
それがCarl Zeiss社から出ている「Victory Pocket 8x25」だ。倍率8倍と10倍のモデルが出ているが、圧倒的に8倍をお勧めする。(低倍率をお勧めするのにはそれなりに理由があるのだが、長くなるので割愛)
光学機器に詳しくない方にとっては聞きなれない会社名かもしれないが、カメラレンズや双眼鏡の世界では超一流と言われているドイツのメーカーであり、その品質は折り紙つきだ。実売価格9万円超えと決して安くはない(むしろ超高い)が、その性能は「この1台を買えば全てがうまくいく」と(私に)言わしめるほどである。メガネのあるなしにかかわらず問題なく使え、独特の折りたたみ機構によって収納時にはとてもコンパクトになる。そして視界の広さ・見え方・解像感は30mm径の大きな双眼鏡に匹敵するか、超えていると感じるほどだ。朝から夕方までの明るい時間帯であれば、どこにでも持っていけてあらゆるものをしっかり捉えてくれる最高の相棒になるだろう。
それ以上の細かいスペックについてはあえて語らない。Google検索すればいくらでもレビューが出てくるし、それらを見るよりも実際に自分で使ってみれば全てわかるはずだ。ただし、どんなに高級な双眼鏡であっても自分の目に合う・合わないという相性問題があるので、できれば実店舗で実物を触ってから購入することをお勧めする。また、意外と双眼鏡の正しい使い方というのは認知されていないので、知らない方はぜひ正しい使い方を調べてから店に行こう。使い方を知らないせいで「全然見えないじゃん」と勘違いし、双眼鏡を買わないで人生を終えてしまうのは本当にもったいない。
それから、もし夜に夜景や星を見るために双眼鏡が欲しくなったという人は、残念ながらZeissの技術をもってしても厳しいので、コンパクトタイプの双眼鏡は諦めたほうがいい。6倍30mmや、8倍40mmクラスのものを別に買おう。そのクラスの双眼鏡の選び方については、日の出光学という日本の小さなメーカーが自社のホームページでたいへん詳しく紹介してくれている。他のメーカーのものを検討している場合も含め、双眼鏡の購入前には目を通しておくといいだろう。https://bino.hinode-opt.jp/column/tsukaimichi.html]
また日の出光学の製品は、比較的低価格かつ性能は最高級品と遜色ないレベルなので、双眼鏡の魅力に取り憑かれた方が2台目以降に手に入れるのにとてもお勧めだ。私は観劇用の低倍率機として「A4」(5倍20mm)、手持ちでの星見用に「B+」(6倍30mm)を所有している。いずれも「Victory Pocket 8x25」よりはかさばってしまうのが難点だが、特定の用途で使うサブ機として持つにはとても優れた製品だ。
いきなり双眼鏡に10万円近く払うのは抵抗があるという人は、日の出光学の「A5」を1台目のメイン機として買うのも大いにありだろう。1万円台なので比較的気軽に買えるはずだし、5倍という低倍率に抑えているおかげで、安くコンパクトな割にとてもよく見える。また5倍という低い倍率はコンサートなどで使い勝手がよく、あとで「Victory Pocket 8x25」のような高倍率機を買い足しても決して無駄にならない。万が一気に入らなかったとしても、注文後1ヶ月は無条件で返品を受け付けているのでほとんどリスクなく購入できる。防水機能がついていないことと、非常に人気なのか頻繁に在庫切れになっているのが惜しいところだ。
長くなってしまったが、とにかく、いい双眼鏡というものは人生をとても豊かにしてくれる。これから40年、50年と続く人生において、最高の双眼鏡は最高の相棒になってくれるはずだ。ぜひ、自分の人生への投資だと思って、まずはCarl Zeissの「Victory Pocket 8x25」を手に入れてみてほしい。いい双眼鏡沼を!
高専について知りたい人や高専に職を求める人に向けて、いわゆる高専に採用され働いてみた感想を書いた。
高専と一口に言っても色々ある。上から下まで序列ができていて学生や教員の質は雲泥の差であるらしい。上は大学編入予備校と化したお受験高専から、下はコネと気合と根性で中級技術者という名のほぼ技能工を企業に送り出す工業高校のようなものまでが同じ「高専」という言葉でひとくくりにされている。ここに書かれているのはあくまで最下層の淀んだ高専の話であるということにご留意いただきたい。
当たり前だけれど、自分が働いた職場以外のことはほとんど知らない。学会で会った知り合い、部活引率先の懇親会で交わした会話などからほかの高専のことは推察するしかない。私の見てきた世界と、学会などで出会う高専生を比較すると平均的な高専生は素直で良くできると思う。だから、私が感じてきたよりは高専全体のポテンシャルは高いはず。
高専の使命は「実践的技術者の育成」なのだそうだ。実際に私が高専で目にしたものは、平均かそれ以下の学力をもつ田舎の中学生を集めて、食っていける程度に躾と学習を施し、会社へ送り出すというものだった。また、ひとり親家庭など経済的にハンディを抱えた中学生を職業に結び付ける「社会の落穂拾い」でもあった。ここまでこの文章を読んで、あなたは「なるほど高専は社会に役立つすばらしい高等教育機関だ!」と納得したかもしれない。高専がどんな役割をもつ場所なのか、知ってほしい。
実のところ、高専教育は学力以外の「教育」が多い。博士を取って専門を極めてきた人たちにとってはカルチャーショックだろう。この「教育」に馴染める人は高専に残るし受け入れられない人は去っていく。教育のためにすることは会議だ。会議、そして会議のための会議、すべては教育的配慮というふわっとした美名のもとに決まっていく。子供だからと悪人がのさばり、善人が去っていく。
担任をすれば、すべての時間は学生に割かれる。あれもこれも、すべて担任のせいにされる。
寮や部活は前時代的な暴力が支配する世界だ。さすがにいまは身体的暴力はないが、言葉の暴力は公認され教員は暴力を擁護する側に回らなければ運営できない。高専では強くなければ生きていけない、そういう当たり前のことを見せつけられる。それが教育なのだろう。
高専の求人には博士の学位がほぼ必須だ。だから、私は高専教員が独立して研究を行うことのできる仕事なのだと思っていた。働いてみて、高専教員が研究できる仕事というのは嘘じゃないとわかった。しかし、研究に裂けるリソースは驚くほど小さいし、年齢や職位が上がれば上がるほど研究の割合小さくなることが容易に予見できるというのは辛い。
学問的な研究は否定こそされないが歓迎されないと感じる。「実践的技術者の育成」こそが主目的であり、研究はそのオマケであるべきという雰囲気を学校ぐるみで感じた。そんなもの無視している先生もいたけど。時間が限られているので仕方がないが高専での研究内容はよく言えば流行りに乗った、悪く言えば軽薄なものばかりだった、骨太なものは煙たがられる傾向にあった。日本の研究自体が即物的なものに誘導されつつあるので、もうじき高専は過剰適応として絶賛されるだろう。
上司の意向など誰にも邪魔されずに研究テーマを設定できるから、うまく研究を手伝ってくれるパートナーを見つけることができればいいかも。
ちなみに、高専の教員リストには工学博士などの学位がズラッと並んでいる。しかし実際のところ、高齢高専教員の学位は、お上の意向でしかたなく取得したハリボテみたいなものだと知ってほしい。
高専機構というお役人様の改革病に付き合わされて、高専は疲弊している。小さな予算をもらうために企画書を書き仕事を増やし、高専教員は様々な機関の下請けにされそうになっている。そしてこれからクビキリはないにせよ、退職者の不補充で地獄が始まる。
学生たちはよく言えば純粋だし、別のいいかたをすれば子供だった。子供相手には誠実さだけではダメで、チカラで黙らせるみたいなスキルが必要だ。子供が好きで思春期の悩みに向き合って人格的な成長を引き出したい人にこの仕事は理想的かもしれない。でもそれって、工学博士という条件じゃない気がする。
愛すべきテキトーおじさんたちが大好きだった。仕事でやらかした数々の失敗伝説を持つおじさんたちがいて、人生の教訓みたいなものを生で見せてくれた。
私が見てきた高専教員には三つのパターンがあった。第一に間違って高専に来ちゃったポスドクタイプで、こういう人は雰囲気ですぐわかるし数年ですぐ辞める。第二は熱血教師で、学生指導も卒研指導も大好きみたいなワーカホリックだ。そういう人は自分が忙しいだけじゃなく周囲の仕事も増やしていく困ったタイプだけれど、この層で高専の運営は回っている。第三は重鎮タイプで、誠実で穏健なおじいちゃんや、数々の失敗伝説や奇行エピソードをもつ勇者まで様々だ。あなたは、どんな教員になりたいのだろうか考えてみてはいかがだろうか。
いったい、高専教員として長くはたらき続けている人たちは、何に喜びを見出しているのだろうか、私にはわからない。だから、長く働き続ける理由を見つけられたらいいかもしれない。
「高専で研究できなければ、どこにいっても研究できない」という名言を盾に揺さぶりを掛けてくる人がいるかもしれない。それは、ブラック企業の「ここを辞めたらどこでもやっていけない」と同じ構造なので惑わされないように。高専の他に行き場がなければ高専で自らを鍛えてもいいかもしれない。ただし、転職という退路は常に意識しておいたほうが良いと思う。
実名ながらパワハラなど高専のおぞましい実情をほのめかす良質な高専退職エントリもあるのでご参考まで。人材が定着せず次々と求人が出るのはそれなるの理由があるのでしょう。
高専教員は学生からの「勉強教えて~!」の質問攻めに無い知恵を振り絞って切り返すという面白さがあったり。卒研発表会後の学生の笑顔を見れるという喜びもある。この仕事やっててよかったなって感じることもある。しかし、週末や連休になると部活引率で早朝から駆り出され、こんな人生求めてたのかと悩む。嵐の夜は宿直でビクビクしながら眠れない夜をすごすことになるし、救急車の音が聞こえると、学生が巻き込まれていなければよいのだがと心配する仕事である。
集団的自衛機構であるNATOが作られたヨーロッパと違い、アジアにおけるアメリカの対ソ連戦略は日米同盟や米韓同盟に代表される多数の二国間同盟によって実施された。これをハブアンドスポークという。
そのハブアンドスポークモデルを脱してNATOが存在するヨーロッパに近い状態を実現するための戦略が日米韓の防衛協力であり最終的には日米韓の同盟を目指していたのだが、日本と韓国それぞれの国内での民族主義者による反発やアメリカファーストを標榜するトランプによってしっちゃかめっちゃかになっているのが今。
ASEANは南シナ海での中国の活動に反対する声明も出せない状態だし頼りにできない。
インドはUS-2を買うふりをしたりして日本から最大限色々と引き出そうとしているが中国と完全に対立するつもりもないし信用出来る国ではない。
当然の如く病院食で、塩気が抜かれた食事が出るのだが、1日3食の食塩量を合計したら、ほぼ6gだった。
退院して、退院後は食塩にも気を付けなきゃならんなあ、と考えてるが、それで調べてみたら、WHO(世界保健機構)が目標とする食塩摂取量って、1日なんと5g以内らしい。
自分が食べてて、塩気が少ないと思ってた病院食ですら、1日に6gの食塩があった。
WHO基準は、「病院食より、食塩を少なくしろ」という内容になってる。
1日5gの食塩摂取で食生活してる人って、全世界70億人のうち、1億人いるのか?
もしいたとしても、パプアニューギニアの奥地とかで、そもそも食塩精製の文化の無い原始食生活の民族とかしか、いないのではないか?
全く味付けに塩醤油ソースを加えなくても、そもそもパンとかうどんには食塩が加わってるから、味無しパンを食べるだけで、WHO基準に達してしまうのではないか?
「動物心理学」は動物の学習、知覚、認知、生理機構といった諸形質の放散と収斂の原理と過程の解明を目指す心理学の一領域である。
心理学全体の中ではマイナーではあるが、国内の研究者の集まりである「動物心理学会」は、実は数少ない戦前から続く (1933年発足) 学会であったりもする (ただし、悲しいことに、動物心理学が学べる大学は減り続けている)。
だが、動物心理学を学びたいと思った学生が、何から手を取ればいいのか、あまり紹介の記事が世に出回ってない気がした。そこで、独断と偏見で、オススメの書籍を挙げてみた。番号はオススメ順とかではなく、特に意味はない。気になったものを読めば良いと思う。
(1) 動物たちは何を考えている? -動物心理学の挑戦- (技術評論社)
日本の動物心理学の主だった研究者たちが、動物心理学の代表的な研究について平易に語った本
(2) パピーニの比較心理学―行動の進化と発達 (北大路書房)
マウリシオ・R. パピーニ (著)
日本語で鈍器のような大きさでまとまっているのはこれくらいか?
(3) 鳥能力―小さな頭に秘められた驚異の能力 (化学同人)
渡辺 茂 (著)
筆致が軽やかで、ベッドの上で寝転がりながら読んでも十分に理解できる。書名通り鳥限定であるが、名著である。
(4) ハトがわかればヒトもわかる―比較認知科学への招待― (共立出版)
渡辺 茂 (著),
動物行動学の創始者のローレンツがいかに動物と向き合い、その行動を観察していたのかを記したエッセイ
ローレンツの論文は難解で読みづらいことで有名だが、一般向けの著書は対照的に驚くほどとっつきやすい
(6) タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源 (みすず書房)
哲学者である著者がダイビングでタコ・イカと接することを通じて彼らの生き方
タコとて侮るなかれ。動物心理学を志す者が覚えていてほしい動物との向き合い方がぎっしり詰まった一冊である。
(7) 動物心理学史―ダーウィンから行動主義まで (誠信書房)
R. ボークス (著)
動物心理学が、いかなる過程で独立した分野として成立したのかを述べた本
ダーウィン (著)
言わずと知れた、ダーウィンの古典である。いつ読んでも何かしら発見があるもので、それが古典が古典である所以なのだ。
余談だが、動物行動学の論文でダーウィンが扱った問題を再び取り上げるときは “Charles Darwin once said…” という殺し文句で始めることがある。
「脳」の起源と、その発生、さらには脊椎動物の脳のデザインがいかに生じたのかを、ホヤから霊長類研究者まで多彩な研究者が論じた本
図や動画が手に入るURLのQRコードがついてくる嬉しいおまけつき
(10) 感覚器の進化―原始動物からヒトへ水中から陸上 (ブルーバックス新書)
岩堀 修明 (著)
眼はいかにして出来上がったのか?感覚器 (視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚) が現生の形になった進化の道筋を解説した本
ユクスキュル (著), クリサート (著)
比較生理学の祖、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルが豊かな想像力で動物の生理学的機序からその「環世界」について語った本
名著中の名著である
ヤーコプ・V・ユクスキュル
同著者が、生物の生きる、その固有な世界像について、当時の解剖学的知見と合わせてより詳しく解説した本
(13) あなたのなかのサル―霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源 (早川書房)
フランス・ドゥ・ヴァール (著)
ドゥ・ヴァールはかなり擬人主義的な研究者で、研究者によって評価が真っ二つに分かれる。動物心理学も一枚岩ではない。氏の著作に同意するかどうかは、自分をどのような立脚点に置きたいのかをはっきりさせる意味でも一度は目を通すと良いだろう。
スティーヴン ミズン (著)
人間の心はいかに生まれたか?スティーヴン・ミズンは「元は個別の用途に進化させた認知機能が、文脈を問わず適用できるようになった」認知的流動性により、高度に柔軟な我々の心が生じたと考える
内容は既にやや古いが、独創的な論考の面白さは色褪せない
佐藤 方哉 (著)
行動主義心理学のエッセンスが詰まった本。絶版なので図書館で探そう。
「行動主義」的なものの見方は、認知研究では棄却すべき対立仮説として扱われることが多い。しかし、実際にはその対立仮説は多くの場合単なる誤解であり、藁人形を叩いているに過ぎない。
箱田 裕司 , 都築 誉史 他
比較認知科学は、動物心理学の中でも、動物の認知機能を種間で比較し、その種差や共通性を描出する分野である。比較認知科学の実験では概念や手続きが認知心理学のものを援用することが多い
従って、認知心理学についてよく知るのが重要なのは至極当然なのだ
池内 昌彦 (監修, 翻訳), 伊藤 元己 (監修, 翻訳), 箸本 春樹 (監修, 翻訳), 道上 達男 (監修, 翻訳)
今日、科学の分野間の壁はますます小さくなり、生物学と動物心理学をことさらに区別する必要性も薄くなりつつある。
とはいえ、原書版は鈍器のように重たいので、エッセンシャル版の方が挫折しないと思われる。
泰羅 雅登 (監修, 翻訳), 中村 克樹 (監修, 翻訳)
同様の理由で、自身が神経科学を取り入れるか別に、神経科学についてもどこかで通っておいた方が良いかと思われる。
そもそも、「動物心理学に固有」な方法論というのは現代にはなく、近隣領域と連続的なつながりを持って成立しているのだ。
心理学の成り立ちに関して、コンパクトかつしっかりまとまった本
歴史を学ぶと、どこかで役に立つ。物理学者エルヴィン・シュレディンガーの言葉を引いておこう。
歴史は, あらゆる学問の中で最も基本的なものである。なぜなら、人間の持つ知識には、その成立条件や解決してきた問題や, 果たすべき機能が忘れ去られた場合, その学問的意義を失わないものは存在しないからである。
横澤 一彦 (著)
視覚に興味があるなら、読んでおいて損はない。
(21) メイザー学習と行動 (二瓶社)
ジェームズ・E. メイザー (著), James E. Mazur (原著), 磯 博行 (翻訳), 坂上 貴之 (翻訳), 川合 伸幸 (翻訳)
学習完全に理解したマンになりたい人が必ず読む本。学習完全に理解したマンになりたいなら読もう。
次に読む本としては『オペラント心理学入門―行動分析への道』も良い本である。
(22) 古典的条件づけの理論―パヴロフから連合学習研究の最先端まで
入門レベルでは「犬とベルと唾液」くらいにしか教わらない古典的条件づけが、いかに奥深く、理論的な探求に富んだ領域なのかが概観できる。例えるなら魔術書である。
(23) 感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ (ダイヤモンド社)
これも動物の研究者の本ではないが、ダマシオは身体性を重視する立場の認知神経科学の方向を作った一人だ。
ダマシオは多作で、『デカルトの誤り』『自己が心にやってくる』など、他の著書も面白い。
リチャード・ドーキンス (著)
進化学流布の急先鋒、ドーキンスの一般向け書籍。同氏がスリリングな筆致で進化について語る。
『利己的な遺伝子』の方が有名だが、オシャレさでは『盲目の時計職人』の方が上だ。
V・S・ラマチャンドラン (著), サンドラ・ブレイクスリー (著)
これの動物の研究者ではなく、ヒトの神経科学者の本であるが、大変面白い逸話がたくさん載っているので挙げた。
続編に『脳の中の幽霊再び』『脳の中の天使』も出ていて、どれも楽しく読める
鳥にも我々と同じように目・耳が二つ、舌が一つ、皮膚には触覚受容器が備わっている。しかし、世界の見え方はまるで違うことがわかっている。彼らの感覚世界について、鳥類学者が一般向けに語った本
鳥の代表的な認知研究について、各項目2p程度でまとまった入門書。どんな研究が、どのような方法で行われているのか、ざっと知るにはぴったりである。
ちょっと邦題が間抜けな感じがするが、原題は "Bird Brain: An Exploration of Avian Intelligence” である。
生物という視点から「心」がどのように形成されたのかを解説した本
まとめ方が独特だが、面白いことには間違いない
岡ノ谷 一夫 (著)
動物のコミュニケーションはヒトの「人間らしさ」について何を語るか?
元が高校生向けの連続講義であったらしく、大学生なら誰でも読める。
おまけ
リチャード P. ファインマン
グレーゾーン解消制度を利用して、公正取引委員会の建物に、第二記者クラブ(既存記者クラブに非加盟である記者のための記者クラブ)を設立する事が可能か確認をしたい!
第八十九条
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。
キー局の株を保有してクロスオーナーシップを実現して、
「記者クラブ廃止」「独立機関設立」…国連特別報告者が提言 大手メディアはほぼ無視
記者クラブが一番の既得権益層なのよ 会見からフリーを排除する 無料のものを有料で売ってんのよ 税金が使われてるのよ
「税金によって運営されている官庁の持つ公的情報を、なぜ私企業の業界団体にすぎない記者クラブが流通を独占するのか」という非クラブ記者の問いは「政治機構」としての記者クラブの正当性を問うています。
記者クラブ―情報カルテル: ローリー・アンフリーマン (著), 義之,橋場 (翻訳), Freeman,Laurie Anne (原著)