はてなキーワード: 機構とは
モーター調整を基準にして、機構的ロックもエネルギー量を与えるべきだってことか。
https://togetter.com/li/1419255
コメント数が千にも達しようかというコメントで異常に盛り上がってる珍しいまとめだが、わかってる人とわかってない人のやり取りなだけではなくて、どうもより深いことを考えてる人が結構いるらしくて興味深い。
簡単に言うと、
「ただテーブルの上に置かれている重量物の仕事量はゼロ」vs「いやそんなことはない」
である。
普通に読むと、前者の圧倒的勝ちなのであるが、どうもそうでもないらしい。
2体とも質量mの物体を両腕で腕を直角に曲げ腰あたりの位置で保持しているとしよう、片手でも良い。
右側のAはモーター出力調整で保持し続けているためエネルギー供給がなされている。
左側のBは腕の角度を機構的にロックしているだけでエネルギーは供給されていない。
一応、Aは音も振動も立てていないとしよう。要するに2体は見た目、区別がつかない。
等価ではないとするのが前者である。エネルギー供給がなされているじゃないか、と。
エネルギー供給が途絶えると物は保持できなくなるじゃないか、と、
機構ロックもエネルギー供給と等価とみなせる筈だ、というのが後者である。
同じ状態にあるのだから、機構的ロックも等価なエネルギー量を与えるべきであろう、と。
彼は決して物理学の欠陥を主張しているのではない。
細かい話だが、ロック機構に存在するであろう分子間力とか結合力など、そういうことを言っているのである。
エネルギー供給と、それらのロック機構が内部的にもつ力は等価なのだ、と。
なるほどなと思うが、疲れという用語が、疲れたら嫌だろ?という意味を内包している。
そして元の質問が人体の話になっている。
そういうわけで、前者が正しいような気になって引っ張られてしまうのだ。疲れるのが嫌な人間だから。
だがよくよく考えると、「ロック機構」で象徴されるような自然界の力が働いてなければ、前者も成り立たないのである。
故に実は、前者は説明していることは誤っていないのにもかかわらず、後者の方が正しいのである。
ところが、疲れはダメという考え方に囚われると、前者が正しいことになってしまう。
お分かりいただけるだろうか?
その願いを達成したいなら「今すぐ死ぬ」ことが唯一の正解だ。
死ねば達成される願いを叶えるために生きてはいけない、自己矛盾は精神を確実に蝕む。
そもそもをして、人間の人格や精神と呼ばれるものは、生存のための危険回避を目的として発生したものだ。
死へと近づく行為や状態に対して恐怖や不快感を抱ける生物が生き残ってきた結果が、生存競争の真実だ。
(勘違いしていると勘違いされたくないので補足するが、生存競争というものはそういったレースやゲームが存在したのではなく、単に生き残りやすい連中が生き残ってきたというそれだけの結果論である)
死へと近づくような行為を苦痛として認識する無数のセンサー信号の集合体こそが意識である。
無数のトレードオフとデッドロックに対してより生存確率の高い回答を吐き出せる性能を持った連中が偶然生き残り続け、その中でたまたま生まれてきたものを私達は意識だの知性だのと呼んでいる。
実際、知性を持つということが生き残り子孫を反映させることにおいて如何に強力な武器となるかは今の人類の繁栄を見れば分かる。
その機能、機構は端的に言えば「生き延びるために苦痛を回避しようとする」というものだ。
そして、生存戦略に基づいた行動を取ることによって報酬系が刺激されるわけだが、文明社会の急速な発展に自然淘汰の速度が追いつかずバグが無数に発生しているのが実情だ。
その状況に対して、ただただ苦痛を回避するという原始的な欲求を加速させていくことは心に巨大なバグを生む。
そのシステムが構築されだした頃、私達はまだ自死というものを理解していなかった。
だが、今は違う。
事業仕分けをやった旧民主党政権といい、脱ダム宣言をした田中康夫といい、千葉が台風15号で散々な目に遭っているときに呑気に過ごしていた森田健作といい、選挙で上手く人心をつかんで権力の座についた人々って人の感情の扱いには長けていたんだろうけど、治水とか土木・建築とか理系の技術的な話を理解する能力なさそう。
もともとそういう専門家として選挙で当選したわけじゃないから知識がないのは仕方ないけど、専門家の意見を謙虚に聞いて「何をどうするのがベストか」を判断するのが権力者のあるべき姿じゃないだろうか。
もっとも平和なときだと「既存の役所の枠組みを壊して何か新しいことをやってくれそう」な人に投票する手合いが結構いるから、八ッ場ダムみたいに今までの政権(というか官僚機構)が粛々と進めてきたものをぶち壊すのがカッコいいみたいに思われちゃったんだろうなと思う。
が、今回の台風でそういう「何か新しいことやってくれそう」な人々は実際非常事態にぶち当たると結局何もできないことが判明した。
霞ヶ関の官僚機構には非効率な部分や縦割り行政の弊害とかいろいろあるかも知れないけど、基本的にはエリート集団なので、彼らを「税金泥棒」とか「人員を削減しろ」とか非難してモチベーションを下げ、組織を疲弊させる連中は最終的に国民の首を締めることになると思う。
自衛隊に関しては災害のたびに株を上げているとは思うが、それでも彼らに厳しい目を向ける人々は一定数いる。
東大や京大(当然その他のエリート校を含む)を出た連中が霞ヶ関を就職先として選ばなくなるのはけっこう深刻な事態だと思うぞ。
教員に対する要求が過度に高くなり、「ブラックな職業」として認識されたがために教員採用試験の倍率が下がって優秀な人材を集められなくなってきているのと同じ現象が起こると思う。
公務員の安定した身分と給料に対する妬みが、かえって重要な仕事を黙ってやってくれる人々の足を引っ張っていることに選挙民は気づくべきではないだろうか。
主義(ism)の問題ではなく、機構(system)の問題ではないか?
民主主義でない国家ものきなみそのシステム自体が機能不全に陥っているようにしか見えないので、俺は、パッチを当てようが何をしようが近代の「国家」というシステム自体が大量のハック・クラックを受けてそろそろ有効期限切れな(そして更新保証ももう切れてる)のではないかと思ってる。
そうなると、むしろ一見枯れたと思われている技術で作られた「目に見えるシステム」で構築された集団・社会の方が、今後有効なのかもしれんね。地縁血縁とかファミリーとかそういうの。そうして中世に逆戻りか。だが、壊滅的な破局を迎えるよりマシなのか。
のちに色々ニュースになった官民ファンドは、経産省の意味深なプレスリリースが出されたその日のうちに話題になってた。
あれ最初に見つけ出した人偉いと思う。
株式会社産業革新投資機構から申請のあった「平成30事業年度産業革新投資機構予算変更の認可について(申請)」に関して認可しない決定をすることについて
https://www.meti.go.jp/press/2018/12/20181203003/20181203003.html
https://b.hatena.ne.jp/entry/www.meti.go.jp/press/2018/12/20181203003/20181203003.html
追記はしない美学を貫こうと思っていたのだが、ひとつだけ。デブは己の体重さえ管理できない自分に甘い人間、と言う人がネット上で増えているようで辟易している。
太りやすさがどれほど体質に左右されるものか、服薬にによってどれほど太るか、その辺をもう少し皆が理解できると良いのにと思う。
幸いなことに、自分はまだ体重をセーブできなくなってはいないが、先のことはわからない。現に実父は痩せた人だったが、60手前に副作用で小太り体型になった。いつ自分もそちらに行くことになるかはわからない。
思うに、肥満者を医療費の金食い虫扱いするのならば、健康体重以下の人間も皆等しく叩くのが筋の通った行動であるはずだ。実際に日本人の体重は、美容体重〜標準体重を彷徨っている方が殆どだろう。こうして、人間の個体差に不理解な人を見るとなんだかなあと思う。
欧米の「あなたはあなたのままで美しい」というような「美しいデブ」運動には大手を振って参加したいとも思わないのだが、やはり敢えて反対派に転じてしまう人が多いあたり我々日本人の性なのだろうか。「みんなちがってみんないい」と言えとまでは思わないが、「みんなちがう」という事実を皆が受け入れられてこその多様性ではないかと思う。
かなりぼかして書くが、病気になって(今は薬で抑えている)以来怒りっぽくなった
以前はむしろ温厚な方で、友人が憤っているのを「まあまあ」と言いながらよくそんなに怒れるなあと関心していたぐらいだったのだが
今はかあっと怒りが頭を支配して、感情を周りや物にぶつけてしまう
今まで怒りっぽい人間を嫌っていたのだが、今はそんなことは言えない人間になってしまった
自分が穏やかでいれたのは単に脳内の物質やらなんやらの濃度や調節方法やらの関係であった、その幸運をまるで自分の人徳のお陰と考えていたのはあまりに傲慢であった
怒りっぽいのに怒りをぐっと堪えて生きてきていた人間の方が、生まれつきの思考回路に胡座をかいていた自分より余程立派であった
昔はすぐに手が出た幼馴染も今ではすっかり真面目なビジネスマンである、彼がそこに至るまでどれほどの我慢があっただろう
性格は少しはコントロールできるものだが、やはり遺伝的気質は日常生活でも感じるところであるし、生まれつきの差異は理解しあって思い遣って生きていくべきものなのかもしれない
今更ながらこんな風になってしまって、苦しいのは苦しいのだが、今までのほうが幸運だっただけとも考えられる
この歳になって感情との付き合い方を練習するのは難しいが、それに気づけたのは良い学びだった
事故、病気で性格が変わるというのはよく言われるが、年齢とともに脳の反応機構も変化していくものだろう
女性の更年期障害は有名だが、男性も(少なくとも父を見る限り)ホルモンバランスのせいか何か知らないが性格は変わっていく
先月、日本国有重工業清算事業団の資産整理の一環として放出されたタクトスイッチ、T-303(黒)。
私には入手できなかった。今回の放出分、32510台は完売したそうだ。今後の発売予定分もすでに予約で完売という。
私が生まれるより以前には多くの趣味人口が在った分野のようだが、昭和99年の今では古臭い趣味として認識されている。
世代の違う親に言わせれば例えば、切手収集みたいなもののように映るようだ。
デザインや絵柄しか違いのない切手に比べたらスイッチには、筐体を形作る樹脂の手触りや質感、眼に映る色、端子の鈍い輝き、そして何と言っても機種による様々なクリック感。
大きなものではなく、嵩張らないので例えば自動車のような趣味と比べ所有するのに場所をとらず、多くの種類を所有できるのもいい。
採取した昆虫を陳列するよう離れの書斎に並べてある私の多くのコレクションのうち、気分で選んだお気に入りのスイッチを手にしてその感触を味わう。
冬の暖かい部屋のなか、柔らかな椅子にくつろぎラヴェルの録音を再生する。
そしてその単調な変わらないリズムに合わせ、スイッチを左手に取り、クリック。
午後は、そうした至福の時間を得て過ぎた。
この、スイッチ収集という趣味の市場は世の中に、昭和初期に急に現れたらしい。
どういうわけかは不明である。はじめは細く好事家の間での国の生産計画の情報交換などの会合や、あるいはコレクションの展示会、交換会などが行われていたようだ。
国立国会図書館に存在もするその会の名簿を調べると、参加者には国防機構内のテクノクラートや財閥系の重工業企業の社員の名前の存在が目立つ。
そしてその趣味の市場の人数規模は、この頃では大きくは、なかったようである。
その後、先の大戦中の国家高揚のなか、敵性語であるのでスイッチとは言わないがこのころではすでに開閉器収集というジャンルの趣味が市民の間には広く存在した。
昭和15年2月 東亜開閉器公社発行の、季刊開閉器句報創刊号も私のコレクションの一部だ。
スイッチを手に遊ばせながらブラウン管から聞こえるニュースに耳を寄せると、本営の報道官が伝えている。
先週も三沢基地より、北の方向への弾道ミサイルが2発発射された。
ニュースはヨーロッパ共同体の経済状況に続けて本営、および日本原子力研究製造開発機構の広報官らによる記者会見を写している。
先ごろ国会を通過した法案、憲法66条2項の改正を適用した結果の条項は、兵器を発射する装置を制御する管制官の責任は日本の行政システムの中には存在しないよう、恣意に解釈できるようだ。
一度外れた箍を再び同じにはめることが難しいことと同じように、多く憲法が改正される機会のある今日ではあまり興味のない類のニュースだ。
古くからのスイッチ収集家の私から見たら、必要は感じられないのだが最近のスイッチの内部にはただのスイッチ以上の何らかの機能もあるようだ。
また、市民用通信網上に在る、政府の機密に近しい噂のあるページによると、スイッチ部品の販売元は各民間商事企業ではあるのだが、製造は全て国が一元して行っているという話も見る。
製品の処機能が増えるならば趣味の幅が広がるしまた、国が管理しているのならばその製品の品質も安定するであろう。