はてなキーワード: 参政権とは
https://yt3079.hatenablog.com/
◎日本人は毎年数十万人単位で急減の一方で、移民(外国人住民)は毎年増加(コロナ渦で数年はずれるが)を続ける
→日本人と移民の人口比逆転は時間の問題「40年後の40才以下の3人に1人は移民?」
(出生率に変化がなければ、将来の人口動態もほぼ推計通りになる)
◎約90年で人口が半減するスピード(しかも子供が少なく老人が多い)。人種単位の持続性の観点では有事であり、危機的非常事態。それなのに対策は後手後手
→例えば、ウイルスの蔓延は現在進行形で悪化のスピードが早く、人権を制限してでも効果的で思い切った対策をとる機運も生まれやすいが、少子高齢化はダメージの時間的スピードが遅いために、切迫感が低く、結果、対策が「常に」後手に回る。
◎現状の育児支援中心で自由意志に期待した少子化対策は30年以上、毎年失敗の連続。政府自治体の対策の対象世帯である「産みたくても産めない人。結婚したくてもできない人」はどれだけ存在するのか。被害者感情に流される対策は効果が出ていないのが現実。
→本当はお金ではなく、大変だから子作りをしたくない。面倒だから結婚したくない。だから育児支援で保育所をいくら作っても、育休を増やしても結婚に結びつかず、子供は増えない。(平均年収の倍で待機児童のない東京都千代田区の出生率は全国平均以下)
◎出生率低下の要因は未婚率の上昇と多産の減少。その原因とされる「格差拡大説」はどこまで正しいのか。
→独身に低所得者が多いのは「原因ではなく、結果」。1970年代までは、低所得者(年収200万円以下)でもほぼ結婚して子供がいたが、現在は戦時中よりもはるかに低い出生率。日本を含む先進国は生活が多様化しており、コスト要因の結婚の必要性と優先順位の低下により、低所得者から結婚を回避するようになった。
◎子作りしたい人への環境支援ではなく、子作り「したいと思っていない人」に子作りを促す対策が重要
→既婚者の完結出生児数は約2人であり、現実として子作りをしたい人は支援に関係なく、子供を作っている。問題は出生率低下の要因である未婚者の急増であり、結婚を諦めている人、意欲に乏しい人にどう働きかけるかがカギ。結婚は個人の自由だが、その自由により、社会の持続性を大きく損ねている。
◎動機に働きかけ効果だけ求めた少子化対策は次の通り。「3大義務同様に子作りの努力義務化の指針」「第3子以降に1000万円超など、多産ボーナス」「子作り負担のなく福祉を受ける40才以上の独身は増税(実質的独身税)」
→早婚に金銭的メリットが生じて、相手の理想ハードルが下がり、これまで結婚できなかった層も結婚相手の対象に。育児放棄など社会問題の増加より、少子化放置で起こる社会問題の方がはるかに深刻。消費性向の高い育児世帯と若年人口が増えれば内需が復活。
◎少子化対策の失敗は、効果でなく倫理的視点(受け入れられやすい育児支援のみ)で選ぶから失敗する。本来、負担の大きい子作りに対し、反発のない対策は効果も期待できないはず(作用反作用の法則)。先祖の多大な負担があったからこそ、現代人が存在する。現代人が身勝手な倫理やモラルで負担回避を正当化すれば、将来世代は先細りの一方。
→目的(少子化解消)は手段(人権に問題があるが効果を見込める対策)はを正当化するのか。メリットがデメリットを上回れば導入すべき(人が減り続ける悲惨な社会になっても、子供を作らない自由意思尊重が大事なのか? 倫理観や同義性の遵守より、手段が受け入れ難くても「問題解決を優先」すべき)
★本稿のポイント
少子化対策の「思い込み=(人権やモラルは少子化解消よりも重要)」を解消し、少子化対策にのみ人権やモラルを我慢すれば、効果的な対策を実行でき、少子化問題は解決可能。昔の子沢山を成立させていた周囲のプレッシャーや後継、労働の担い手などの子供が生まれる要素が無くなった現在、「法律一本の施行」で制度を作り、子作りに動機を与えて出生率の上昇に繋がる具体策を提案する。それを実行するには、いかにしてハードルとなる人権や倫理観を我慢してもらうのかの説得が少子化対策の本質にして、本稿の最大のテーマだ。少子化が解消し子供が増えれば、内需が復活し日本経済も回復する。本書では、このままの少子化状況が続いた場合の日本人に訪れる悲惨な運命とそれを回避するための、効果を優先した対策を提案、解説する。
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近代社会学の祖オーギュスト・コントは「国の未来は人口構成で決まる」と見抜いたそうな。人口を減らしながら常に高齢者が多い逆ピラミッド状の人口構成では、衰退は避けられません。合計特殊出生率1.36(2019年)と低迷を続ける日本。このまま人口が減り続ければ、国の発展以前に現日本人が将来的に存続できなくなります。存続できない可能性が高いのではなく、日本人の出生率が2を切り続ければ将来的に存続できなくなるのは物理現象です。それに対し、どこか他人事の日本社会と政治に問題意識を投げかけたいと思います。
問題は解決するより、発見する方が困難です。個人も組織も、自ら気づかない潜在的な問題により、傾いていきます。少子化問題は極めて深刻な問題にも関わらず、政府の少子化対策関連予算は先進国の中でも総予算に占める割合が低く、口では声高に危機感を高めていると言っても、財政支出の観点からは本気度が極めて低く、問題視していないレベルと明確に言えるでしょう。2019年末に決まった26兆円(真水4.3兆円)の経済対策でも少子化関連には1円も使っていません。使い先は電線の地中化など。。
現状の少子化対策は育児支援など環境整備の観点しかなく、30年間も同じような方向性の政策しかとられておらず、改善の兆しが全くないのに、「地道にやるしかない。環境整備が大事だ」と言い続けています。一方、日本人が減り続ける中で、近年の政府は実質的な移民政策に大きく舵を切りました。100年後の日本列島は日本人と移民の混在する国になっています。さらに、それ以降も出生率が大幅に回復しない限り、容赦無く日本人は減り続ける一方で移民の割合は増え続け、その時の日本国籍のルーツは海外由来になっている可能性が物理的に極めて高くなります。公用語が中国語などに変わっている可能性も十分あるでしょう。
そうはならない為の少子化対策。現状の育児環境改善策以外にも、視点を変えれば効果のある対策はあるはずです。出産育児は個人の権利に関わる問題ですが、残念ながら環境支援だけで結婚、子作りの有無を自由意志に委ねた現在の少子化対策では増えていない現実があります。それを改善するためには、より、子作りの動機付けに導く政策が必要であると考えます。しかしそういった対策は、個人の自由意志に反する可能性のある対策であり、モラルや倫理観の問題で実行に大きな障壁があります。しかし、動機付けの対策に有効性があって少子化が改善される可能性があっても、現代人のモラルや人権を優先すべきなのでしょうか。その優先順位がどうあるべきか、問題提起したいと思います。
少なくとも現状の育児支援中心の対策より、効果が見込めそうな対策を、モラルや現代人の自由や権利を理由に放棄してもいいのか。現代人のモラルや価値観はその人種の存続や持続性以上に重要な価値観なのかーー。
このように、少子化対策の具体策だけでなく、タブー視される少子化対策問題に対し、「どう向き合って、どう考えるべきか」。そういった観点を問いただすような内容になります。現在出尽くしている対策や論点とは違った観点と具体的な対策を提案し、実効性のある少子高齢化対策に繋げたいと思います。
【要点・トピック】
現状の少子高齢化が改善しないまま、実質的移民の外国人労働者を受け入れ続けると、いずれ日本人と移民が「人口比で逆転」する事になる。日本人の為の日本ではなくなり、多民族国家に変わる。日本人と外国由来の国民・住民の人口構成逆転に繋がる現象はすでに進行しており、人口構成比の逆転は時間の問題。不可逆になる前に手を打つべき。
政府、自治体の育児環境支援ばかりの少子化対策は結果が出ておらず、失敗との結論付けが必要。国民の自主性に任せれば、少子化は進行する一方。少子化の構成要素である未婚率の高まりは少子化現象の原因ではなく結果。日本を含む先進国が直面する少子化の原因は文明化による価値観の多様化で、結婚と子作りの優先順位が下がった事による晩婚化、非婚化が進んだ影響。現状の育児支援中心の対策の方針を「大幅に変えないと」今後もさらに日本人は減り続ける。子作りの動機付けをアメとムチの両面でやるくらいでないと解決は難しい。効果的な対策を打てば「翌年から」出生率は著しく反応する事が過去の事例からも分かっている。子供が増えだし、出生率が2を越えれば、日本の将来は明るい。
モラルや倫理観、自由意志を優先して、負担感のある少子化対策をせず、現状の効果が上がってない対策をなおもやり続け、その結果このまま滅びるか、逆にモラルや人権をある程度我慢して、有効性のある対策を実行し、安定した持続性のある社会にするかーー。
続きは以下にて
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◆このまま人口が減り続けると、どうなるのか
政権に関係なく、労働や消費の担い手不足という現実問題に対応するため、政府や経済団体は、外国人労働者という形態で、実質的な移民(国連の定義では1年以上住む外国人)の受け入れをさらに推し進めるようになるだろう。実際、2018年の「骨太の方針」でも外国人労働者受け入れ拡大の方針が決まり、2019年4月には改正入管法が施行された。彼ら外国人が高齢者になった時、どうなるか。もちろん追い返す事はできず、いずれは外国人移民の高齢化問題も出てくる。
このまま、日本人の人口減少分を外国人で補おうとすると、コロナ渦で数年はずれ込むだろうが、基本的には時間の進行とともに、日本人と外国人の比率が相反し、やがて逆転することになる。この点ははるか先の未来の事として、ほぼほぼ論じられていない。このままでいいのだろうか。すでに東京都内ではかつて外国人が多かった街は新大久保と観光地くらいだったが、今や主要繁華街で昼夜問わず、その割合は静かに増え続けている感がある。
◆出生率の数字は「人口が減っていくかもしれない」危険指数ではなく、数値が2.0を下回る状況が続けば「いつまでに人口がゼロになるか」の確定年数を導ける指数。内戦中のシリア、アフガンや北朝鮮より先行きが危ない少子化日本。
出生率を人に問うても、いまひとつ危機感が薄い。出生率低下と言っても、「人口がゼロになる事は無いだろう」「単なる警告信号のような数字だ」と、漠然と認識する人は多い。しかし、出生率の1.41という数値は男女2人の親から約30年後の次の出産サイクル時の出生数は1.41人しか生まれてこない計算だ。これを分かりやすく1人に置き換えると約0.7人になる。1年間の出生数が87万人(2019年出生数)だとすると、この世代が、第一子を生む頃の30年後は87万×0.7の約60万人、その30年後は約42万人。その30年後は約30万人とどんどん減り続ける。そんなバカなと思うかもしれないが、実際、第二次ベビーブームの1973年は209万人の出生数で、彼らが出産適齢期になった30年後の2003年あたりは不景気の影響もあって、出生率が1.26程度まで減っており、その結果、113万人と親世代の半分程度の出生数に落ち込んでしまった。団塊ジュニア世代は就職氷河期世代で不況と重なる運の悪さがあったが、現実的に、出生率が2を切ると、容赦なくその数値の割合だけ、出生数は減り、人口が減り続けるのである。
この危機感の無さには、「出生率」と言う単語にも問題があるのではないか。2018年に国会を通過した「働き方改革」も「残業代カット改革」なら法案は通らなかっただろう。それほど名前は大事だ。言葉は悪いが「人口半減期」のような数字で、出生率を人口が「半減する期間」で示した方が分かりやすいのではないか。例えば、今の出生率が続くと人口の半減期はおよそ80~90年だ。つまり、2100年ころには日本の総人口は6000万人に半減している計算だ。今の出生率が続いた場合に、半減するまでの期間を書いた方が、危機感は伝わり易いだろう。
内戦のシリアやアフガン、独裁政権下の北朝鮮ではいずれも出生率が2を上回る。いくら、内戦や政治不安で経済状態が悪くても、それにより大規模な内戦に発展しない限り年間1万人も死亡する事はない。しかし、日本では団塊世代が平均寿命を迎える2030年頃は年間170万人程度の人口減を経験することになる。そして、今後70年かけて日本の総人口が6000万人に減少すると予測されている。結果的に早く滅びる国がいい国と言えるのだろうか。
◆現日本人が外国人(実質的移民)に徐々に置き換わり、日本人はやがて少数派に転落して、いずれゼロになる・・・100年後に純粋な日本人は消滅へ。アメリカではすでに16歳未満で白人が過半数割れ。
「移民が来ても、混血化するから日本人の血は残るはず」というのは大きな誤解である。出生率が2を割っていれば、人口減少は続き、その減少を補うために、時間の進行とともに、外国人移民が入り続け、日本人の血はゼロになるまで混血化しながら希釈化され続けていく。
2020年6月には国勢調査局の統計を基にAP通信がまとめた情勢によれば、アメリカではすでに16歳未満で白人人口が初めて半分を割ったという。流入が急増するヒスパニックや黒人、アジア系に対し、白人人口が増えなかったためだ。アメリカでは1990年に75%だった白人の割合は2020年現在は60%に急減。たった30年で約20%も人種割合が低下したことになる。さらに2045年までに白人人口が半分を割るという推計がある。白人の出生率が2を切り続けて増えず、白人人口がゼロに向かい減っていく一方で、ヒスパニックとアジア系の流入がその穴を埋めているためである。アメリカの出生率は2を上回っているが、それはヒスパニックを中心に移民の出生率が高いためである。現在、アメリカは多民族国家だが、そのうち白人が減り、やがて黒人とヒスパニックだけの国になり、逆に多様性は少なくなっていく可能性が高い。
森元氏の発言及びその謝罪会見が袋叩きにされている一方、色々とアクロバティックな擁護も出てきて、基本的に「はあ? 何言ってんだよ?」という感じではあるんだけど、もうちょっと微妙に気持ちの悪い感覚があるので整理しておく。
…
以下は意訳なんだけど、
・「確かに発言そのものは問題、その反省を込めて、だからこそ現在の職責を全うしてほしい」
・「自責の念が強すぎて、むしろああいう感じの会見になってしまった」
・「そもそも、当該の発言が批判されているのはマスメディアの切り取りが原因で、ちゃんと全文を読めば森元氏はむしろ女性の活躍に期待している」
…という感じで、どれだけ多次元的な擁護の理屈をひねり出せるか、未知の競技が芸術点を争って火花を散らす。
どこかのバカがトンチンカンなことを言い始めたとき、たまたまそいつが権力を持っていたりすると周辺が頑張って支援しようとすること、それ自体はどの共同体でもあるんだけど、今回のケースで特に気持ちが悪いな、と思ったのは、なんていうか、擁護してる人たちに発言のリスクを取ってる自覚が全然感じられないことだな、と俺は思った。
一つの発言に対する基本的な反応が批判的なトーンで形成されているとき、逆に支持を表明することはいわば逆張りなわけで、自分にも延焼するリスクがあるわけじゃんな。っていうか、俺なんか小心者だから、多数派と同意見です、って口をそろえるときでさえ「でも、本当にこっちが正しいってことでいいのかね?」とかって不安になったりするんだけど、まあ置いといて、とにかくマイノリティに乗っかることには、本来危険が伴う。
じゃあ、今回森元氏を擁護していた人たちにその危険を冒している覚悟がうかがえたか、っていうと、あんまりそういう感じもしないんだよな。「まああいつら、まともじゃねえもんな」っていう色眼鏡はガッツリかかってるんだけど、それだけじゃなく、擁護って選択肢が普通に合理的な判断として成立してるっぽい。「ここはしっぽ振っといて全然安パイでしょ」的な感がある。
これは「(私の立場的には)ここはしっぽ振っといて全然安パイでしょ」と補足されるんだろう。政治的にはそりゃそういう判断もあるだろうけど、極論さ、「数字の2は偶数だけど(私の立場的には)奇数です」ってことはないわけじゃない。今回の件って、ある意味森元氏本人の発言以上に周縁部の度が過ぎてるというか、言論って空間において、逆張りするのがそんなノーリスクでいいんか、と俺はシンプルに驚いた。
まあ、会長は辞意を表明されたので、その辺の合理性の判断も実際に正しかったかどうかはまだわからないんだけど、例えば客船が航海中に大洋のど真ん中で船体に大穴が空いて物理的にはこれから沈みます、ってとき、普通は真っ先に脱出しようとするんだけど、「いや、大穴が空いたからこそ頑張って航海を続けてほしい」って船室で言い張ってたやつがいて、そしたら船が奇跡的にそのまま進んじゃって…みたいなことが、計られつつあった(というか、今回は無理かもしれないが、似たようなことはこれまで何回か起きていた)としたら、なんかすげえな、と思った。
…
良識ってやつはたぶん、「いや、あの発言は普通にクソだぞ」ってことをずっと言い続けないといけないわけで、大変だけど大事だよなあ、と思う。
非難というカウンターがないと、奇態な理屈でこねられた擁護ってなんとなく霧散してうやむやになるんだろう。だから、「お前あんときこんなこと言ってたよな。そのケツ拭いてから死ねよ」ってのは前提として大事なんだけど、ここから全然話が変わるんだが、それはそれですげえ怖いことだな、って感じもするんだわ。
それは、健全性をこの社会にもたらすってことの裏表として、悪辣な言動を割りの合わないものにする、非合理的な行為として定着させることがあるからで、それが達成されるまで、いわば双方で自分の主張に対する賭け金を釣り上げ続けてる状態に突入するわけじゃんな。今回の事例は、(俺の眼には)「健全性」対「時代錯誤で調子っこきのジイサン&とりあえず擁護しとけば最後は結局得になるでしょサポーター」って構図に見える。今回はたぶん後者が降参するだろうし、その方がいい。でも、将来的には別の局面で、「おいバカ」「なんだバカ」って言い合ってる状態になって、お互い自分が合理的だと思ってるわけで、それがどっちかが血反吐はいて「すいません、もう勝負続ける体力がありません」って土下座するまで続くのかよ、と思うと、それもすげえな、と思う。
…
いや、なんで体力切れ前提なんだよ、そうじゃなくて純粋に客観的な大義が達成されて悪弊が倒されるんだよ、って反論もあるだろうし俺もその方がいいと思うけど、なんかそう前進的な事例ばっかりでもないっていうか、なんか、最後のゴール地点に到達するまで、どれだけ精神上の流血があるんだよ、と思うと勝手に結構げんなりする。ぶっちゃけ、今回の事例は問題として解法がちょろい方だよな、これ以上の難問、対立を人間の知性は解けるのかな、その論争に参戦するのってお互いに言葉でしばき合うより良いことなのかな、とか思っちゃう。
…
たぶん、俺みたいな「この世に正しさはもたらされるべきだけど僕は疲れるのも自分が誤答するのもイヤなので何もしません!」みたいな連中に負けずに戦ってきた人たちの手で、普通選挙とか女性参政権とかアパルトヘイト廃絶運動とか成されてきたんだろう。後から「お、なんか世の中平等になってんじゃん。すげーな」とか言ってフリーライドしてる立場なので申し訳ないな、ってのと、でも疲れたくねえしな、ってのがいま一人の市民として結構あるな、というのが今回の森元氏の件で思った。
この増田は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長である、森喜朗氏の問題発言についての所感である。
多くの人がこの問題に対して擁護や批判を述べているが、その中で、最も興味深い話は下記の記事にある経団連会長である中西宏明氏の話だ。
https://mainichi.jp/articles/20210208/k00/00m/020/164000c
この発言の興味深い所は「本音の部分での考え」と「本音に対する評価」が混じっている所にある。こういった本音であるという事自体がけしからんと思う人がいる一方で、事実としてこういった本音があることを認識しているのは、現状分析としては正しく、その部分においてのみ一定の評価をしている人もいるだろう。
(尚、私は中西氏の発言についてはこの記事しか読んでいない事はお断りしておく。)
私はこの発言を通じて、性差に関して言えば、本音に対しての評価が正しくとも、決してそれを吐露してはいけないという事を改めて感じた。本音がどうあれ、先ずは本音を隠して、形式的な振る舞いをする事が大事なのである。そして、形式的な振る舞いをするにあたっては、様々な困難もあるわけだが、その困難は絶対に限りなく近い相当程度、受忍されるべきである。
「三つ子の魂百まで」という諺もあるように、私は、人の持っている潜在的な感覚や価値観というのは、一度ある程度構築されてしまったらそれを変えるのは容易ではないと思っている。
先程の本音に対する批判にも様々なものがあるが、その批判が本音の是正を求めるという意味であった場合には、本音では女性軽視の気持ちがある人に心からのジェンダーフリーを求めるのは不可能なので、全く無意味な批判となる。
批判の対象は本音を出してしまった事に対して向けられるべきで、私なりに批判してみると、
といったところだろうか。
私はタイムマシンに乗ったことが無いので想像であるが、もしも明治、大正時代にタイムスリップして当時の人に「100年後には女性に参政権がある」という話をしたら、さぞびっくりされるのではないだろうか。
今では女性に参政権があるというのは当然だと思う人が、ほぼ全てと言って良いレベルで殆どだろうし、もっと言えばあまりにも当然すぎて、当然を当然と思うことすら無いだろう。
我々の行うべき事は現在を変えるというよりも、未来を変えること、それに尽きるのだと思う。先人が努力した様に、我々も努力をし、未来の礎となり、未来の人にとって男女平等を当然とさえ思わせないようにする事である。
そのためにはどうするか。
先程の女性参政権を例に挙げれば、我々がこれを当然と思っているのは生まれてきたときから女性に参政権のある国に生まれ育ち、女性参政権に対して反対する声を聞くことの無い環境にあるからではないだろうか。(世の中色々な人がいるので、女性参政権に反対する人も中にはいるだろうが、少なくとも私は聞いたことが無い。多くの人も同様ではなかろうか。)
少し話が逸れるが、女性参政権を例に出したのは、若干不適切だと思う。実際に権利を手にしたわけであって、純粋に「形」だけでは無いのがその理由だ。ただ、私が伝えたいことがより伝わると考えて、あえて例に持ち出した事をご承知いただきたい。
話を戻す。
この事から考えると、我々が出来ることは「形から入る。そして、その形が自然になるまで根気強く待つ。」これに尽きるのでは無いだろうか。
根気強く待つ期間が世代を超えるかもしれないので、その間に傷つく人も相当数いるであろう。
もちろん、今の犠牲を甘んじて受ける事は無い。むしろ、今大いに抗うことがより良い未来に繋がる。
もう一度言う。
女性蔑視発言をした者が会長職にいるのは、形として相応しく無い。この一言に尽きる。
余人を持って代えがたい等々、様々な擁護と会長を続けるための理由が出ているが、これこそが前述した、形式的な振る舞い、ここでは森氏が会長を退く事にあたっての困難であり、「調整力」「これまでの実績」程度の事ではお話にならない。残った者で何とかならなくても何とかしなければならないのである。
スピード違反をしたドライバーが普段どんな運転をしているのか、どれくらいのドライビングテクニックがあるのか、その様な事は関係なく、ある一定のスピードを超えたら違反は違反である。
所感は以上。
蛇足になるが、別な側面から考えると、森喜朗氏を擁護する面々も、あえて氏を批判する必要は無い事を付記しておく。
失言の是非や氏の思想に対して批判したく無ければしなくても良い。形から入るという考え方に立てば、失言をしてしまったので会長職を退くという形が重要なので、氏のこれまでの実績や、(擁護する人から見た)人柄を否定しなくても良い。
先程、スピード違反の例を出したが、ドライバーがどの様な人間かは関係ないので、そのドライバーに対して「素晴らしいドライビングテクニックだ!」「普段は安全運転をする人だ」などの感想があっても良い。
私は本音の発露は良くないとしているが、感情が湧き出ること自体を否定しているわけではない。
私も30歳くらいまで「女性差別を感じたことがない」と思ってたけど、直接的な性差別だけが性差別じゃないんだよね。
なんで結婚の時は当然のように女性が苗字を変えるように思われてるんだろう、なんでマミートラックやガラスの天井って言葉があるんだろう、なんで母親のことだけ言及されるんだろう…と生きていく中で「あれ?」と思うことが増えたんだよね。社会構造自体が性差別に基づいてるんじゃないかって。
社会構造の問題ってことは、自分が理不尽な目に遭わなかったのはただ幸運だっただけ。自分より若い世代が生きやすくなるためにも、声を上げなきゃいけないんだろうなって思う。今の私達が普通に参政権を持っていて普通に働けて、っていうのは今まで声を上げてくれた先人のおかげだから。
中野 昌宏 【次回裁判 2月5日10:10〜 東京地裁610号法廷】
@nakano0316
あーいい人だけで国つくりたいなー
午前7:46 · 2020年9月4日·Twitter for Android
https://mobile.twitter.com/nakano0316/status/1301652742000189440
@ShinyaMatsuura
今回のパンデミックに教訓は多いが、一に「政治家には学力が必要」ということではなかろうか。かつての共通一次試験を復活させて、18歳と同時に受験させ、立候補予定者を800点ぐらいで脚きりすべきと思う。
午前10:32 · 2021年1月15日·Twitter Web App
https://mobile.twitter.com/ShinyaMatsuura/status/1349892259186003968
当事者だった場合、自分自身の利権に関して必死になるのは当然だけれど、自分に関係なければ冷淡で
LGBTとひとくくりにされるけれど、ゲイやレズのコミュニティでトランス差別はよくある光景だし
非当事者の場合も、自身の利権にデメリットがないあるいは許容できる程度のコストの範囲内でのみ
正しいことをしていると感じるためポルノのずりネタに、たまたま目についたカワイソウナヒトをこたつに入りながらチェリーピッキングしてるだけで一貫性を確保する理由なんてないし
女性に参政権や財産権すら認められていなかった時代の当事者が(男性と同じようになるように)「女性の権利拡大を!」と叫ぶことと
それでもさらに自身の利権を拡大することは自身にとっては良いことで
(今以上の)「女性の権利拡大を!」と叫ぶ際においしいとこするための免罪符として差異はある・ないを恣意的に使い分けるのが賢いわけで
・属性が特定の条件にはまる人物は被害者(女性、部落出身、黒人、在日etc)
特定行動例
・女性の性関連
・黒人の略奪
・特定行動について問題視するのは、セカンドレイプ、レイシズムなどとラベリングされる
・未成年が間違うのは当たり前だ
これ多分、男女とも学生で、特におとがめなしみたいになってたら、加害男子を退学させろの大合唱だろ
参政権知らない時点でガキかよ
こういうイキリアンチフェミ的なやつの頭の悪さにはいつも驚かされるが・・・
夫婦別姓の意義はいつも性がひとつになることで行政手続き上の手間が夫婦間どちらかに必要になること、その手間が非常に負担が大きいことの解消が目的で、特に女性が変更をせざるをえないことが多いのは日本的な課題だがメリット・デメリットで語ったときにメリットがあるからやってほしい、ということ。同性婚についても同様。異性婚しか婚姻の行政的メリットを得られないので異議申し立てとして求められていること。
それを差し置いて一夫多妻ならどうなのみたいな話にすり替えるのは頭が悪いし、一夫多妻のメリットってなんだよ、男女不平等な視点になっていることに気づけ無いのか、ナチュラルに差別主義的なのか、理解に苦しむ。仮に多夫多妻だったとして、そのメリットを享受するのはどういった場面か、というと夫婦別姓ほど喫緊の課題とは思えない。
金のある人間が養えばいいという考えに対していえば、本当に困っている人が必要な制度は婚姻制度ではなく再分配だし、再分配の仕組みとして男性が稼いでという視点にこだわるような制度設計をする必要性を感じない。
戦争論と戦争論2しか知らんけど「国は国民が義務を履行する見返りに権利を与える」なんて言ってたっけ?
正しい理屈であったにもかかわらず、当事者が求めてから実際に使えるようになるまで34年もかかったのが女性の参政権ですが・・・。
当時もあなたと同じように「なぜ変えなければいけないか」がわからない人がたくさんいたようですよ。
なんせ、衆議院を通過した後に廃案にされていたし、その15年後にGHQの指示があってやっとですからね。
実社会が見えていないのはどちらでしょう…。
「徹底的にたたいて謝罪に追い込んで排斥しないとね」に直結しているごく一部の過激派と、
私やあのキャンペーンを批判をしていた人全体を一緒くたにしている。
今回に関しては、メイン顧客の置かれた立場を全く理解していない企業に対して批判が募り結果として炎上に至り、
顧客からの正当なクレームをまともに処理しない企業は「正しい」んでしょうか?
正直、無視するのであれば、メイン顧客の心象はもっとマズいことになっていたと思いますが…。
20代後半以降のオタクが多い私のTLにATSUGIの広告が流れてきてから、
すぐに批判3:好き1ほど、男性からも女性からも反応がありました。
直後に共通の知人の男性が「タイツタイツうるせえな」と発言したことで話題がNGの空気が流れます。
その後、大手ニュースサイトから謝罪の件が流れてきた際に再び活発になり、その後は「うるせえな」の反応はありません。
自分の周りだけじゃないことを知ってやっと一考の余地ありと思う人は多いです。
そのせいで、世の中のお墨付きがない限り、当事者でさえ自分の感情を肯定的に話し合うことができない。
Not fo meが守れてないのはどっちかなーーと思いますね。
多数決で負けてなお、正しさの概念が覆らない限り問題を認識できない人って一定いますが、
セクハラをすれば社会的制裁につながるといったような、単純な奴が…。
女子社員が男性のお茶くみ係をして尻を触られるのが当たり前だったような時代から、今のように変化してきたことをお忘れなく…。
あくまでも「私がこう思うよ、こう見ているよ」を率直に書いてみる。
スカッとする以前に、メーカーから謝罪文が出たりして、「このキャンペーン・行いには何らかの問題があった」というのが共通認識になってきていい感じ。
当事者として意見を述べて、その質と量すなわち「影響力」で得た結果。
どれほど真面目に、個人のマイナスを社会に陳述したところで数がそろわなければ捨て置かれることは、よく学習しているので…。
社会を変えたいならば、つまり女性の社会的地位の向上とか生きづらさの解消とかを本気で目指しているならば、問題をきちんと一般化して「こうしたキャンペーン手法は女性全体にとって、ひいては社会一般にとってマイナスである」というセオリーを確立したほうが効果的(=説得力・影響力がある)だと思いますよ、というアドバイスなんだけど、大きなお世話なんですかね……。
このあたり、伝わらないと思うけど、世の中で問題をはらんだ常識を肯定する力が強い間、
自分のもやもやとした生きづらさや不快感をの原因を見つめて肯定したり言語化したりには往々にして時間がかかるものだよ。
MeTooがおきたときに、やっと「わたしもおかしいと思っていた」「そんなことがあったんだね、実は私も…」といえる状況が増えたところで、
分断されていた女性どうしがやっとお互いの話をオープンにできるようになった感じある。
一人一派といわれるように、経験や理想とする形には大きく違いがあることも(やっと)わかってきて、
なおかつ、いろんな方向にフェミニズムを誤解している人たちのせいで、集会場には武装勢力みたいなのがいたりするんで…。)
その次に、女性の参政権しかり、会社のヌードポスターやセクハラ告発しかり、個人の様々な経験で
「男性が納得しなければまともに取り合う価値の無い物として扱われる」ことは身に染みていたりするので、
要求が妥当かどうかを男性にジャッジしていただくような、お伺いを立てる行為そのものが好かれてないと思ったらいいんじゃないかな…。
増田本人がそうかどうかは別として、傾向として「お前は説明もできない馬鹿だから無視していいな」ってしてきた側に対して
「そんなこともわからないのに何偉そうにしてたの今まで」と思ってしまうものではない?
SNSによってわかりやすい圧力型の影響力を使えるようになって、理解されずともある程度の結果を得られるようになったのは革新的だと思うよ。
この方法はされて嫌だったことを仕返ししているような側面もあるけど、正直それ以外の方法ではもっと実現に時間がかるだろうと思うし、
されてみないとわからないだろうから、一度経験してみてほしいと思う気持ちは、正直私にもある…。
セオリーについてはね。
炎上が起きて謝罪文が出るたびに、ブランドイメージが悪くなる→既存のファンが他社に流れる→損失となる状況から学ばない企業はないと思うので、
個別に炎上を繰り返すことで社会全体の性的表現がよく検討されて最適化(=私からすればマイルドに)なっていけばいいと思う。
出来事と必要十分ラインの見極めは、ここしばらく続くだろう炎上とその後の展開によって決まると思うなあ。
あと、賛成反対どちらにもお祭り騒ぎが好きなだけの人や、怒りで言動が過激な人も含まれるので、時々ノイズのほうが大きく問題になるのが悩ましい。
本質をとらえずに対岸をカテゴライズしてまぜっかえす人のせいで話が変な方に曲がっていくのは、正直あほくさいと思う。
どれほどほうぼうから真面目にマイナスを陳述したとしても「納得できないので個人のお気持ち」などとジャッジ・揶揄されている現状はもうほんと、ダメなところの煮凝りみたいなもんだよ。
広告や表現、コンテンツから無意識に「みんなこんなもんだ」と刷り込まれている状況を変えたいから。
「これは企業やメディアのお墨付きを得た一般的な感覚ですよ」の量を減らしつつ「これを好むにあたりTPOを守らないと困りますよ」
「これはたいていの場合侮辱にあたりますよ」と刷り込む量を増やしたいとも言えるけど。
私には男性の生理現象を体験することはできないから、そこにどんなつらさがあるのかわからないけど、
それを建前にすれば、女性を侮辱していいものだと思っている人が世の中には多すぎるんだよ。
もちろん、配慮があって尊敬できる人もたくさんいるのは知っているよ。
だけど、この件は、ほかの苦しみがあるからといってプラスとマイナスが帳消しになるようなことではないから。
ほかの苦しみの八つ当たりで女性に向かう人まで出てくる地獄なんだよ。
結果として、女性が審美的な魅力を高めようとすれば多かれ少なかれ性的な魅力も勝手に高まってしまう。これは女性本人が異性の目を惹くことを意図していなくてもそうなる。オシャレとは本質的にそういうものではないだろうか?
そう思うのは増田が見る側・品定めする側だからしょうがないと思うし、
男性として日々生きてる中で目にする女性的なものにしょっちゅう心を動かされて、さぞや大変なんだと思うんだけどね。
少なくとも私は「性的な魅力を感じた」ってだけの理由で、通りかかりに顔にクソ塗り付けられるような感覚を、過去に会った少なくない男性達によって植え付けられてるから。
「クソを塗られないために目を付けられにくい恰好だと思ってるようだけど、逃げても無駄だよ」って言う行為だよ、それは。
書くだけ書いたら疲れてきた。
読まれなくてもいいや。
勉強しなさい。
皇室の構成員である天皇及び皇族も、日本国憲法第10条に規定された日本国籍を有する「日本国民」である[9]。天皇については、「日本国籍を有している」という前提で、天皇が「主権者としての国民」であるか否かが論じられ、憲法論の皇統譜についての箇所に「日本国籍を有する者でも戸籍に記載されない唯一の例外に天皇および皇族がある」と記載されている[10]。皇族については、皇室典範その他の法律により若干の制限はあるものの一般の国民との差異は本来大きいものではない。皇族の参政権は、皇族が戸籍を有しない為(詳細後述)、公職選挙法付則により当分の間停止されているだけである。しかし、実態として皇族の権利や自由は大きく制約されている。これは、「『皇族という特別な地位にあり、天皇と同じように制限されるべきだ』という考え方が市民の間で根強かったため」であるとされる。[11]
このようなことから、皇族には一般の国民に保障されている人権が存在しない[12]とされることもある。奴隷的拘束や苦役からの自由(憲法第18条)、居住移転の自由、職業選択の自由、外国移住・国籍離脱の自由(憲法第22条)等が事実上ない皇室の在籍者は、24時間体制で公私に関係なく所在や行動の目的を監視され、外出時も必ず皇宮警察の皇宮護衛官あるいは訪問する都道府県警察(警視庁および各道府県警察本部)所属の警察官による警護の下で行動しなければならないため、物品の購入方法は外出が不要な百貨店のカタログ持参による外商やAmazonのような通信販売を利用することが大抵である。Amazonなどの通信販売サービスの利用については宮内庁職員や私的使用人の名前で注文し、商品受取時に本人が対応することは一切ない。皇室の私的な交際相手であっても国民であれば、皇室の在籍者と電話やインターネット経由の連絡までは頻繁に行えるが、対面で会話する機会は殆ど無い[13]。
私はこれで私人と言うのは正直無理があるなと思ってる。
私人はこんな扱いされない。
政権批判/擁護をすごい熱量でやってる人たち、あれは義憤に駆られるなりして苦しみつつやってんだろうか
それとも一種の趣味として、楽しみとか達成感を求めてやってんだろうか
俺はノンポリってこともなく、自民党政権のことはわりと嫌いだし、嫌がらせの意味で選挙では共産党に入れるようにしてるけど、それ以上の何かをやろうって気にはならない
参政権さえ行使すれば俺にできることはおしまい、余暇の時間はTwitterとかはてブ見たりゲームしたりしよっ♪と思ってると、バンバン政治の話が出てきて面食らう
そんでまあそういうバチバチやってるのを見るのは結構楽しかったりするんだよなあ
自分でなにか書こうって気にはならないけど、右と左に分かれて戦ってる人らには結構感謝してる 面白いので…
でも彼ら自身はどうなんだろうなとも思うんだよな
彼らは全然楽しんでないのかな 自分の時間を削って趣味でもない論争に首を突っ込んでくれてるんだろうか
だとするとちょっとかわいそうな気もする
俺は正義感が弱くてよかったな