はてなキーワード: 逆転現象とは
元増田です。仕事終わってはてブ覗いたらまさかのホッテントリ入りに驚いた。
たくさんコメントをいただけてとっても嬉しい。色々落ち着いたらコメント全部印刷してお守りにするね。
実はまだ社員になる実感がなくて、正社員登用は本当に嬉しいんだけど、正直なところまだ一枚隔てた別の世界の話のように感じてる。
でも、まず母に喜んでもらえて、たまたまお茶した友達も喜んでくれて、はてブの人たちにもお祝いしてもらえると、
これは本当のことなんだってじわじわこみ上げてくるものがあるよ。
すごくすごく嬉しいから、調子に乗って追記するね。うざかったらごめんね。というかきっとうざい自分語りが入ります。明らかに蛇足です。
実はこれでも今まで働いてきた職場の中で一番お給金が高いのでした。
具体的な金額で書くと1000円前後。これで交通費が半分でも着くと私の住んでいる地域ではかなりいい感じ。
ちなみに一番最初の職場では750円、その次では850円と転職するたびに少しずつ上がっていきました。
なので私の中では、時給1000円でも十分高い部類に入ります。
仕事について、元記事では特に評価されたパソコンやシステム関連について重点的に書きましたが、
実際は窓口で受付や来客対応をしながらもちろん外線電話も取るし、会議等が非常に多いので資料や機材の準備をしたり、
それから年に3度ほど規模の大きな催しがあるので、その予定を組んだり外部の先生に依頼をしたりなどをしています。
そもそもにして今いる部署が、事務職としては恩人でもある社員さんと私の二人だけで始まり、大体手探りで仕事をして、何度も失敗をしながら作り上げてきました。
今でこそ人員が増えて役割分担されているけれど、最初の年は経理的なこともしていたし、そういえばPRビデオみたいなものも作ってました。
さすがに有名大学の教授クラスの人への連絡まで任された時は荷が重いなあと思いましたけれども(※今ではもうとっくに慣れた)。
時給が安いという実感はなかったし、安くても部署を作って運営してきた実感があったので、何ともなかったです。
派遣という立場ながら、仕事を任せてもらえた(というより放り投げられた)ので、やりがいだけはありました。今思えばやりがい搾取ってヤツでしょうか。
しかし、好きなことを好きなようにできるのはとても楽しいし、できないことができるようになることもまた楽しいので、あまり気になりませんでした。
ブコメでは派遣元へ支払われる紹介料がべらぼうに高くて人買いだの女衒だのと派遣元が叩かれていますが、
私自身はそこまで派遣会社に悪感情はないし、派遣社員という制度や身分が嫌いでもありません。
最初の職場は市役所の臨時職員で、1年経ったら辞めざるを得なくて、そこから半年間就活をしていましたがうんともすんとも言わず、正直病んでいきました。
その頃の私は派遣なんて悪い文明! と思い込んでいたけど、もうこれ以上無職でいる訳にもいかず、派遣会社を頼りました。
増田ではこんな長文を書く私ですが、リアルではかなりの口下手で、面接がとても苦手です。
そんな私にとって、登録すれば仕事をくれる派遣会社は本当に有り難い存在でした。
派遣社員としてでも与えられた業務をこなし、人に感謝されたり上手く仕事ができた手応えを得れば、生きている実感が湧きました。
特に今の派遣会社は、元々の時給が高いだけで(※自分比)継続勤務による昇給はなかったし、交通費もこの1~2年でやっと支給されるようになりました。
あと後述の理由で辞めたいと言った時も辞めさせてくれなかったし、社員になりたいと希望を出してその交渉をしてくれていたのか分からないし、
無期雇用の話を言い出したら有耶無耶にしようとしていたし、本当にいいところがない……。
・これから
正社員になって一番嬉しいのは、あらゆる研修に出ることができること。
社内メールで内外関わらず色んな研修のお知らせが来るのですが、派遣社員の立場だとどうしても出席ができなかったので(正確には優先順位が低い)。
特に前々から行きたいと思っていた研修に、別の社員さんが出席することになったときは本当に悔しくて仕方がなかった。
一番参ったのが、後からやってきて仕事を教えた社員さんに結構理不尽な扱いを受けたこと。
今の部署に長くいるので、後からやってきた社員さんに仕事を教えるという逆転現象も多々発生していましたが、
とある社員さんに仕事を大体教えたら突然当たりが強くなって、どう接すればいいのか分からなくて本当に困った。お前所詮は派遣だろ、って明らかに見下した扱いです。
なんかもういいやー、と思って派遣元に退職を伝えてもなんか本気に取ってもらえなくて、また困った。
その社員さんとは今は和解しているのですが、私が社員になると知ればまた当たりが強くなるだろうなー。
かつては派遣会社で仕事をもらって生きている実感が湧きましたが、派遣先の会社で社員になれるほど認められて、私はようやく人間になれた気がします。
こんな蛇足にまで長々お付き合いいただき、ありがとうございます。
これ以上はもう何も書きませんが、ここまで読んでくださった方にも素敵なことがありますように。
注意:
(実は学歴だけ高くても大企業入れない人って結構いるんですよね、そういう人がフリーに多い気がします。つまり変なやつが多い。協調性ないとか)
>報酬が高い
>危機感が落ちる
自立自生できないには危険(私はできません)
メリット・デメリット眺めると、昔フリーターというものが出た時に目指した姿な気がしますね
とは言っても、全体的にそんなに数居ないし
平均的な人がフリーになって上手くいくとは思えないので今後も増えないでしょう
でもここ15年で書いた小説未満の駄文は全部合わせて100行未満!
それなのにいつか小説家になれると思ったままなんだからオラワクワクすっぞ!
マジで唐突に覚醒していきなり文庫本1冊分ぐらいならアッサリしあげてそのまま芥川賞GETとか思ってるのかねオレは。
流石にいい加減現実見ろよと思うんだけど、こんなくだらん妄想でも将来に対して何か明るいビジョンを持っておかないと人生が嫌になって電車ダイブかましそうだ。
俺を発狂させないためのストッパーになるからって事で、実現する気のない夢を見続けているのかも知れないな。
夢を実現させるのが目的ではなくて、夢を見ること自体が目的となっているという歪な姿が俺の諦める理由はいくらでもあるのに諦めるとは到底思えないこの夢の正体なのか。
なんだそれ……
聞かせる奴によっては
「アドラー心理学は本当だったんだ!」
とでもほざかれそうなレベルで滑稽な手段と目的と過程と結果の逆転現象が起きてやがんな。
とはいえ
今更現実を見て現実的な夢(人生の目的・目標)を探そうとした所で、何か見つかるとも思えないな。
日本百名山制覇?
山登り自体が面白いとは思えないのでヤマノススメオタクにでもおまかせします。
軽く漫画を練習してツイッターで白ハゲ漫画描いてチヤホヤされる?
承認欲求には飢えてますが飢えてるなりにグルメですのでそういう担がれ方はちょっとね。
今更頑張ってもそんなお金が稼げるとは思えませんね。
お金稼げるように頑張る?
頑張りたくない。
安くて美味いお菓子を沢山食べる?
健康的な体づくり?
頑張りたくない。
小説家になるためにまずは本を沢山読む?
往年の名作ゲームの制覇?
ゲームも飽きてきた。
大体どれも飽きてきた。
恋?
人付き合いにももちろん飽きてる。
この人生は本当に何がしたいのか。
多分もう何もしたくないんだ。
小説家になってチヤホヤされたいってのも、人生をやりきって1人の人間分として十分な結果を出したと自分に言い聞かせたいんだと思う。
それと一度ゆっくりしてそのまま再起不能になっても問題ない程度の金を手っ取り早く手に入れたいのだろう。
人生に疲れてるんだ。
とにかく一度休みたいんだ。
いつだって結果を求められる。
休んでいる間すら、何か仕事の役に立つヒントは掴めたのかと問いただされたりする。
休み方にすら有意義であること、リフレッシュしきる事、休み明けからはバリバリと働けることが求められる。
とにかく疲れる。
休まらない。
どこまでも休まらない。
一度冬眠したい。
もしもこれが一人プレイのゲームならとっくの昔に一度セーブして別の事をやっているだろう。
レベリングに疲れたRPGや、クリア後のトロフィー集めにウンザリしたゲームからそっと距離を置くように、そこから離れて別の事をやりたい衝動でウズウズする。
もしこれが本ならば一度閉じて別の事をしているだろう。
小説家を目指してると言っておいて実際は全く書いて無い奴らしいありきたりな表現だと自分でも思うけど、表現のしかたはともかく気持ち的には本当にコレなんだ。
寝ている間は人生のことを忘れられるはずなのに、夢の中でもふとそれが夢であることに気づいた途端に自分の本体が現実に有り、そのハードウェア上で動くソフトウエアとして夢が存在しているという事実に気づいてしまう。
眠っている時間は休んでいる時間であり、それはつまり、休んでいる時間にしっかり休んで仕事等で結果を出すための準備の時間として扱われてしまうのだ。
現実でバリバリ頑張るために必要なクールダウンに過ぎない眠りの時間は、結局は現実の一部のままなのだ。
夢から醒めて現実から帰ってきたとき、再び二度寝する事も出来ないわけじゃない。
仕事場に一度電話を入れたり、そもそも休日だったりすればいいだけだ。
でもそうじゃないんだ。
二度寝して三度寝して四度寝してトイレに行って少しお腹を満たして歯を磨いて五度寝して……それを百億回繰り返してもまだ百億一度寝が出来る状態を俺は求めてるんだ。
実際に百億回二度寝がしたい訳じゃない。
無限に休んでも何ら咎められる事がない、完全に人生の時間が止まった休憩時間が欲しいんだ。
でもそんなのは手に入らない。
だけど金を沢山持ってセミリタイアをしてみせたのならそれに近いことは出来る。
でもただ金を持ってるだけじゃケツ吹く紙にしかならなくなった時に困る。
それと単に沢山金を手に入れるんじゃなくてしっかり人間社会に貢献したという形で金が欲しい。
そうじゃないと何だか納得できない。
納得できない状態で何もしなくて良くなると、自分のような弱い人間はきっと自分を苛め抜いて自滅するだろう。
たとえ金の価値が何度暴落してもそのたびに何度でも金を手にするような力が欲しい。
そんな方法として、何か自分にも出来るような物として、自分は小説家で億万長者という幼稚園児レベルの夢を見たのだろう。
小説は文章を書くだけだからもしも俺が超天才だったなら才能が覚醒さえすれば(どんな前提だ)、億万部だって楽勝に達成できる。
意味不明だ。
冷静に考えると意味不明過ぎる。
だけど意味不明な物に根拠のない自信を持つと逆に理屈が通ってる気がしてくる。
スポーツや絵と違って才能の無さを証明するのも難しいという事が一役買っている面もある。
とにかく俺には夢が必要だったんだ。
滅茶苦茶でもいい。
その夢に向けて歩もうとする気力すら無いけど、その消えかけの気力を夢が支えているんだ。
何がどうなってそんな事になっているのかもう分からんけど、俺の心はいつの間にかそういう構造になっていたようだ。
最初に言ったけど本当にこんな奴どこにでもいると思う。
とにかく休みたいという願いを持ってる奴も沢山いるだろう。
天国の話に人が惹かれるのは、そこで幸せになれることよりも、そこに行けばもう頑張らなくてよくなるからなのかも知れないな。
ただ単に頑張らなくてよくなりたいだけなら死ねばいいけど、死ねば頑張らなくてよくなった自分を観測出来なくなる。
それだけじゃない。
それを無理に捻じ曲げれば自分の中から出てくる言葉が自分をいつまでも切りつけてくるようになる。
そういったシステムから脱するには、肉体を捨てた上で観測者としての意識を残して、努力を不要とする世界に行く必要がある。
もしかしたら俺は小説家なんて目指してないで(全く書いてないくせによく言う)、神にでも祈るべきなんだろうか。
でも流石に話がうますぎるな。
小説家を目指してるせいで見え見えの作り話に見えちまうぜ。
あと一応言っておくと、私は女性です。
自由に持論をゴチャゴチャ述べるので、気が向いた人だけ読んでください。
まず大前提としてスカート強要どころかスカート推奨もクソでくだらない風潮っていうのは言っておきます。
それに限らず、日本は企業も社会も本当にゴミで、自分達がおかしいなんて1ミリも考えないし自浄作用もない。本当にクソだよ。
で、そのうえでファッションにおいてスカートスーツが正式である、とか、スカートスーツのほうが実際には美しい(美しく着こなしやすい)、という話をします。
理由は、
と
2.男性の体型と女性の体型は異なり、女性特有の体型に対してはパンツよりもスカートのほうがマッチする
のふたつです。
まず、基本的にファッションは「遡る方が正しい」という前提があります。保守的であればあるほど堅苦しく、狭く、差別的で、また正式であるということ。
大体同時に女性蔑視的であることも伴うので、スカートスーツは「正式」だからこそ「強要する風潮はクソ」であるという持論も、両立します。
正式ということは「正しい」という話ではなくて、ファッションはそういう性質を持つ文化だということね。
ある人の受け売りだけど、要は、カジュアル(庶民)な服装に対して、ドレス、スーツ、ビジネス的な側面を持つ服装は、正装、つまり「政治に参加するようになった市民が、政治を行っていた貴族の服装を真似た」っていう経緯が本来あるわけ。イギリスでね。
だから、少し前のスーツスタイルというのはジャケット、ベスト、パンツの三つ揃いに、シャツ、ネクタイ、革靴が必須で。
あとはハンカチーフだの、紳士たるもの、ハットにステッキは必須だの。
バカバカしいけど、バカバカしいことを装って社会階級を示したり、連帯感を持ってきたのが「ファッション」という文化なんだな。
要は、それが貴族のものから市民に解放されて、イギリスからいろんな場所を経て日本に来て、サラリーマンなる労働者階級(イギリスでは今も労働者階級とスーツを着る階級とは断絶があるけど、日本はその境目が曖昧とされてる)
が着るようになって、「シャツ、スーツ上下、ネクタイ」が最低限の要素として残った、ということ。
たまにネクタイも要らないけど。就活で、かつ女性のスタイルでは見ない方が多いかな。
長く話したけど、要は身も蓋もない理由だけど、スカートスーツは「パンツスーツよりも前にあった」という理由でも既にパンツスーツに長じているし、また、
女性のファッションの変遷を見ても、女性がパンツスタイルを始めたのはかなり近年になってからのことで、スカートのほうが先んじているから、スカートスーツに軍配が上がる、ということです。
ふたつめに、「スカートはタイトスカートよりも広がっているもののほうがカジュアル」だけど、
という、スカートとパンツのシルエットにおけるフォーマル、カジュアルの逆転現象もあります。その話がふたつめの理由に繋がるのですが。
スカートは、膝丈前後のタイトスカートが最もフォーマルなイメージを受け、また、マキシ丈のスカートなど、裾が長くなり、広がったほうがカジュアルな印象を受けます。(素材の話もありますが割愛します)
パンツに関しては、逆にスキニーパンツなどで脚の太い部分、細い部分を強調したほうがカジュアルな印象を受け、腰から足首まで長さが均一(足首の布は余る)ほうが、よりフォーマルな印象を受けます。
これにより、パンツスーツは基本的にブーツカットよりのシルエットのものが多いです。
これは実際に見てみた方がわかりやすいです。
これは歴史的変遷もありますが、同時に、見た時に受けるイメージ(私だけがそう思ってるわけではなくて、ファッションにおいては大体共通の見解だと思います)でもあります。
そうでなければ、歴史的経緯だけを見たら、
ロリータファッションなどでスカートをふくらませたほうが、女性においてはより保守的、よりフォーマルになるはずだからです。
しかしこれについても、受けるイメージなどという曖昧なものではない説明もできます。
つまり、就活を始め「女性のスーツ姿」というのは極めて新しいものであり、また、これは「遡ればマリーアントワネットが正式である」
のではなく、「女性を男性の政治参加者に近づける」のが目的であるからです。
要は、スカートスーツであれパンツスーツであれ、下半身に関しては「女性特有の凹凸を消す」ことがフォーマルな印象になりやすい、ということです。
女性は太ももが太くふくらはぎが細いので、膝丈のスカートは全体的に凹凸の違和感を無くすということです。
パンツスーツでふとももがパツパツになってしまってる女性、いますよね。
パンツスーツのほうが、どちらかといえば凹凸ができやすいので、全身のIのラインが乱れ、着こなしによりますがフォーマルに着こなすのが難しいということです。
スカートでもふとももパツパツの人いますけどね。パンツは全身を眺めた時の、落差、違和感が目立ちやすいのです。(そんなことないと思う方がそう思うのは自由です。)
よって、上記の二つの理由によりスカートスーツのほうがパンツスーツよりは「正式」なのです。
実際はそこまで考えておらず単なる押し付ける側のスケベ思考なので、早く選ぶ側が隠した差別もしないほど、本当の意味で「どちらでもいい」になってほしいなと私も思います。
世の中は解説に溢れている。
どこへ行っても、誰と何をしても、僕らが感じて気付くより先に、そこには誰かの定めた答えがある。
誰かが作った答えを染み込ませることで、そのモノの本質を理解した気になれるから。
不完全な言葉で紡がれたその答えによって、仮初めの満足を得ることができるから。
一つ一つのモノと向き合って、それらを理解するには到底時間が足りないから。
本ひとつにしても、日本で年間8万冊以上も新しいモノが出てきている。
Webメディアを含めれば、数限りない新しいモノが日々生まれている。
インターネットの発展により爆発的に増えたコンテンツの供給量は、僕らの理解力を遥かに上回った。
しかし恐ろしいことに、それら一つ一つに誰かの答えが付属している。
まるで、答えに取り憑かれた何かがいるかのように。
モノ本体ではなく、誰かの記した答えの方に価値が移ったのである。
別の見方をすれば、モノ本体の価値を理解しきれなくなった僕らが、モノ本体を切り捨てたといえる。
そもそも、何の思いも発していないコンテンツが溢れ、解説を読むだけで十分といえるモノで溢れるようになった。
人に対する評価もそうだ。
ソーシャルな情報が世の中に溢れ、実際にその人に会わなくても、その人の「答え」を知ることができる。
会うまでわからない何かより先に、誰かがつけた不完全な答えがある。
これから先の未来では、人にまとわりつく誰かの答えがもっと強さを増していくし、その流れは止められない。
実際の本質とは異なる、誰かがつけた答えの無意味さと不正確さに。
そして、評価だけが残り、他人から切り捨てられていく自分に対しての惨めさに。
そんな未来が迫っていると思いつつ、
改めて問いかけるとその誰かの側にいることが怖くなった。
ポリコレに関わる話でよく見る現象がある。アンチポリコレな人がポリコレ的な批判をするというやつだ。
最近ブクマを集めている例ではこれ(http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20161109215129)だろう。
内容を簡単に言えば、ポリコレによって言論が抑圧されて云々というよくあるやつの変形バージョンだ。
さてそんな発言をしたetc-etc氏は、Ryo氏なる人物に脅迫されたらしい。恐ろしいことだ。
この話題に関してついたブコメには当然ながら脅迫への批判が多い。
そして興味深いことに、ポリコレを腐しながら、同時に脅迫への批判すなわち"ポリコレに則った批判"をしている人々がいるのだ。
アンチポリコレにもかかわらず、Ryo氏を"ポリコレの棍棒で殴"っている。
なぜだろう?彼/彼女らの忌み嫌う行為ではなかったのか?ポリコレを振りかざして人を批判するというのは。
ある種の人たちは:
"自分"から"他者"への攻撃的な言説、それに対する批判をこそ"ポリコレ"と呼んでいるのだ。
"他者"から"自分"への攻撃的な言説、それに対する批判については"ポリコレ"と見なしていないのだ。
なぜなら「"自分"への攻撃的な言説」にポリコレ的観点からの批判が含まれるゆえに。
だからこそ、"自分"を攻撃してくる"他者"への反撃は、ポリコレどころかむしろアンチポリコレな言説だと認識しているのだ。
だから「脅迫はいけない」「被害者が脅迫と感じた時点で脅迫だ」などという(彼らにしてみれば)実にポリコレ的な批判も、アンチポリコレ的な意図で発することができる。
もちろん"自分"が「脅迫はいけない」「被害者が脅迫と感じた時点で脅迫だ」と批判された場合、それはポリコレであり、"自分"の自由を侵害する恐るべきものと認識される。
忘れてはいけないのは、同様の機序でポリコレ擁護者がポリコレに反する言動をすることもあるということだ。
"他者"→"自分"の攻撃をアンチポリコレとすれば、"自分"→"他者"の攻撃はポリコレになるわけだ。内容に関わらず。
なんとも不毛なことだ。
追記
こんなに早くトラバがつくとは嬉しい限り。
実は味覚って慣れが大いに影響してるから、
っていう構造になってる。
結局食い合わせOKなのって幼少より慣れ親しんでるだけで適応可能になったってだけ。
そしてその食い合わせが好きって人がいるなら、事実その食い合わせには美味いと感じる何かがある。
逆にたこ焼きとご飯が無理っていう大阪人が多いのは大阪人にとってたこ焼きはおやつなのでご飯どきに食べる機会がない。
あるとしたらスーパーのたこ焼きを買って帰って食卓に出す近畿外の生活圏になるので逆転現象が起きてる。
面白いでしょ?
食わず嫌いっていうのは極めて的を射ている。
食わないことには好きにならない。
かくいう俺もクリームシチューとご飯とか無いわと思ってたけど
良く考えるとラーメンライスとかやるし、いけるのかもしれないとふと試してみたら普通にいけた。
自分のできなかった食い合わせができるようになった瞬間は楽しくなる。
好きだという感情がない。
これは悲しい。
あとはちゃんとスープの中に肉の味を感じれるかどうか。
肉の味を感じることでご飯との相性が引き立つ、飯を食いたくなる。
【2―2 「漫画原作」と、その将来性 】
上述の地上波を基軸とした戦略の頭打ちのため増加したのが人気漫画の映画化である。
数十万人から数百万人の原作ユーザーを取り込める可能性があるのと同時に、
公開前には原作掲載雑誌の表紙で告知するなど、出版側からの宣伝チャンネルを確保できる。
「かにそして徐々に紙の雑誌の「死」が近づいている」
山田順 | 作家、ジャーナリスト、出版プロデューサー 2015年3月24日 16時24分
http://bylines.news....n/20150324-00044178/
>コミック誌の販売部数は3億9755万部で、19年連続のマイナス。これはピーク時の3分の1である。
>「コミック誌が売れない分、コミックスでカバーしてきましたが、コミック誌で作家は育つので、
>電子版からの収益は紙に比べたら圧倒的に低いうえ、出版社の取り分は少ない。
>これは明らかなカニバリズムで、それは書店売上を奪い、出版社を疲弊させ、出版不況を深めていく。
>これらの不況は、明らかに著作者、漫画家を直撃している。
>日本の出版業界における電子書籍化は欧米とは異なっていることを知る必要がある。
以下に書くことは読み手の都合で考えた場合、自分と同じ位の認識レベルの人にとっては今さらだし、それ以上の人にとって不十分ということになる。そもそも私の認識や前提とする知識が間違っている可能性も否定できない。なので個人の思考をアウトプットした日記として、または知の反復作業として読むことを推奨する。
映画メディアの場合が主。テレビ放送ならば「特別編」などとして、普段の放送より長くしたケースが多い。「刀語」のように1話をおよそ1時間、1ヵ月ごとに放送という変則的なスタイルもある。ただ、1話毎の期間が空きすぎていて視聴者がついて行きにくいのか、変則的すぎてこのスタイル自体はあまり流行っていない。
時間は長い上、映画ならば作品に対して直接お金を払って貰うということもあり、制作体制は大掛かりかつ高いクオリティのものが多い。テレビで放送する「特別編」の場合でも、特に気合が入れて作られることが多い。
これで作られるアニメは、原作があるにしろ普段はテレビで放送されているものにしろ、壮大にしつつも1話完結型のエピソードが多い。「亡国のアキト」のような各章に分けて、章ごとに映画メディアなどで提供という特殊なケースもある。
また、原作やアニメ制作会社側などの事情から、予定されていた話数で完結させることができず、かといって2期にするには帯に短し襷に長し。ということで、後に改めてこのスタイルで提供する場合もある。ただ、映画メディアでそれをやる場合は賛否両論の声が大きい(基本、金を払わなくても享受できるようにしてきたものを、最後の最後に支払いを要求するという提供側のスタイルが利己的だという批判。或いは「正当な対価を、作品そのものに対して支払いたい」という消費者からは比較的シンプルな形だとして受け入れられている。もちろん、その他にも様々な理由での批判、賞賛の声がある)。
30分とはいってもOPやED、間に挟まれるCMなども含まれるため、実質的な内容はこれより短い。また、内容を増やすためにOPやEDをカットしたり、逆に前回のあらすじなどで尺を稼ぐケースもある。そのため、「実質的な内容」という観点から見た場合アニメによって、また話数によっても幅は大分ある(なので便宜上それらの幅は考慮せず、かつ後のカテゴリについても大分ザックリしたカテゴリ分けで所感を述べる)。
最もポピュラーなスタイルで、個人的にパッと思いつく有名な作品を例に挙げるだけでもキリがない。
実質的に20と数分とはいえ、その長さのものを一定以上のクオリティで、かつ週に1回のペースで作ることはよほどのことがない限り物理的に困難とされ、実際には1話放送の前からストックを貯めておき、1週間以上かけて1話を作ることが普通らしい。
つまり一応の理屈の上では、このストックと現在進行形で製作しているものとの話数の差が縮まると、「できなかった」ということだけは避けるためにクオリティを下げて、作業効率を上げる必要が出てくるということになる。他の仕事にもいえることだが、納期を厳守することは社会では基本で、信用に関わるからだ(まあ、クオリティなど他のものが犠牲になった以上、それはまた別の問題として対処する必要はあるだろうけれども。作り手など提供側の事情がなんであれ、受け手にとってその作品自体が評価の対象であることは変わらないしな)。
これで放送されるアニメは、ストーリーやキャラクター、舞台設定など「非日常的な要素」が多分に含まれた内容であることが多い。日常のものを何の加工もせず切り取っただけではエンターテイメント性が低く、それを1話に20分以上観せ続けられても、視聴者はついて行きにくいからだ。もし、それでもエンターテイメントとして成立するならば、それはスタッフたちがそれだけ優れているともいえる。
こちらも「実質的な内容」という観点で見た場合、実際の時間は減っている。私がパッと思いつくのは「よんでますよ、アザゼルさん。」あたりだ。
放送される際は他の15分アニメとセットで放送されていたので該当しないかもしれないが、ネット配信の際は分けられているし、別々のアニメなのだからこちらで扱う(恐らく制作しているところとかも違う……よな?)。 あと「ドラえもん」など、1話完結型でそれが10~15分くらいのものをセットの場合も、「別々のアニメ」と広義的に解釈してこちらに含んでもいいかもしれない。
時間が減ったのだから、その分クオリティが上がったり、それが安定したりする。……というわけでもないらしく、15分で作られることを前提としたスタッフの配備、そしてスケジュールを組んだりするケースもあるようで、30分と比べてクオリティが安定しやすいとは一概にいえないようだ(ただ理屈の上では、「時間の短さ」というアドバンテージだけで考えるなら制作するための労力は下がるわけで、仮に全部の作品を把握できた場合、傾向としてこちらのほうがクオリティは安定しているということはあるかもしれない。ないかもしれない)。
これで作られるアニメは1話完結型のエピソードだったり、次回に引っ張ることはあまりない傾向。「のび太が道具を使って調子に乗ったままその1話は終わり、何らかの因果応報オチで終わるのは次回」みたいなのは基本的に避けられるということだ。仮にあっても、数話もかけることはない。
随分ぞんざいなカテゴリ分けだが、短いアニメは便宜上ここに全て含めて述べさせていただく。私が真っ先に思い出してしまったのは「チャージマン研!」だが、これから述べる話の例としては不適当なので、「チャージマン研!」のことは忘れてくれ。
放送する媒体や形態は最も多様で、番組コーナーの一部として放送されることも多い。ネット配信だと関連商品の宣伝を前後に挟んだり、配信したものとは全く違うアニメや商品のCMが挟まれたりもする(制作会社や提供する会社が同じという関連性は一応ある)。30分アニメのネット配信だとCMがなくなりやすいということも考えると、この逆転現象は中々に面白い(まあ、そもそもネット配信するのとテレビで放送するのとは事情や立場が違うから、考えてみれば当たり前なのだが。それを踏まえてなお、短いアニメの方がその傾向なのが面白い、という意味だ)。
短い内容のものを週に1回のペースであげるなら、1話完成させるのは上記のものよりは理屈の上では楽といえるはずで、その分クオリティは安定しやすい傾向(ただ、これは15分の部分で述べたことと似たようなケースで一概にはいえない。それでも割合としては増えるんじゃないだろうかという推測)。内容が短いので視聴者的には「物足りない」と思われるかもしれないが、「腰を据えて観なくていい」という側面もある。コスパに優れているといえ、最近はこのスタイルでアニメが作られるケースも増えてきた印象だ。
これで作られるアニメは、15分のとき以上に1話完結型の傾向。15分で書いたことと理屈はほぼ同じだが、これだけ短くなってくると、「その短い中でエピソードを起承転結しっかり作る」ということの困難さが顕著になりやすい。これを解決しやすくするためには、元となる原作がある場合は1話完結型が主になるだろう。或いは、起承転結がコンパクトで調整しやすい、4コマ漫画などが選ばれる。もしオリジナルなら、キャラクターや舞台設定などを好き勝手に弄くっても咎められないので、融通が利かせやすい(このことは他のカテゴリでもいえることだが、短いアニメは1話完結型が多い傾向なので特に利点となる)。
以上だ。
クリスマスが週末という曜日の並びから、「ひょっとしたら9連休になるんじゃないか」という期待をよそに、月曜もしっかり働いってやっと今日から冬休みになったのだが、別段帰省の予定もなかったので、ひとつ映画でも観ようと、「クリード チャンプを継ぐ男」を見てきたら、わりと良かったので見所を紹介しようと思う。
ネタバレ上等で書いてるわけではないが、それでもほんのりネタバレはしちゃうかもしれないので、観る気満々のひとは読まないほうが良いかもしれない。
巷の映画紹介で紹介されてる程度に物語のあらすじを紹介すると、かつてロッキーと死闘を繰り広げた伝説の王者、アポロ・クリードの隠し子、アドニスが、自らの情熱を注ぐ夢として、ボクシングの道を選び、トレーナーを頼むため、すでにボクシングの世界から遠ざかっていたロッキーの店の門をたたく。初めは拒むロッキーだが、やがてアドニスとともに頂点を目指すというおはなし。
さて、このアドニスだが、とにかく周囲からの愛されっぷりがハンパない。
隠し子ということもあり、出自こそ施設だが、その後引き取られた家庭で良い教育を受け、投資銀行の社員になり、会社からは高級車で「家族2人で住むには広すぎじゃないの?」というような家に帰ってくる。
良い家で育ち、良い教育を受けた2世のお坊ちゃんなのだが、じゃあいけ好かない奴なのかというと、これが思わず可愛がりたくなる様な素直な良い奴で、まず自分を施設から引き取ったアポロ夫人、メリーアンに愛され、すったもんだでボクシングの道を志してからも、ロッキーは実の息子の様に愛情を注ぐ。物語中盤では恋人も現れ、終いには色眼鏡で見ていた様なストリートキッズたちまで彼を応援する始末。
彼は彼で、学のないロッキーを案じて、息子のごとく的確で愛に溢れたアドバイスまでする。
彼を包む環境そのものが豊かな愛で包まれており、妙にほっこりした気持ちにさせられる。
一方、彼が挑むチャンピオン、リッキー・コンランは、リバプールの港湾労働者の息子で、あまり良い教育を受けた風でないので、対戦前に相手を口汚く罵ったりするし、トレーナーとの関係も「こいつあんまり愛されてねーなー・・・」という気の毒な感じで、見ていて切なくなってくる。
黒人の方のアドニスの方が、良い教育を受け豊かな愛もあふれる世界で育った良い奴で、白人のチャンプが、下流から腕一本でのし上がったのに粗野でトレーナーにもいまいち愛されてない、という感じで、白人が主人公になりがちなアメリカ映画にあって、バックグラウンドの逆転現象がおきている。
物語の視点も偉大な父の名前を巡る2代目の苦悩だったりして、「下層からののし上がり」ではなく「恵まれた奴にもそれなりに大変な事はある」という方向からのストーリーになっている。
この映画は、無名のライアン・クーグラーの情熱に、シルベスター・スタローンが応えて、ロッキーシリーズを託したという。
その若造の脚本にのって出てくるロッキーのジジイっぷりといったら。
スタローンも真面目にやっていて、そのヨボヨボぶりは物語が進むにつれどんどん加速していき、絵面がNHKドキュメンタリーかよという感じになってくる。
中盤では、人種を巡るちょっとしたやりとりがあるんだが、そのピリッとした空気でまた、スタローンがボケることボケること。
スタローンを見て感じる「凄い人だけど、この人ひょっとしたらバカなんじゃないかなぁ」というイメージを飄々とやってしまう。
よくぞまあスタローンもこれを「よしやろうぜ」って言ったなと思う。
見所3:ボクシングシーンの迫力
ロッキーシリーズでは、どうしてもボクシングのシーンがスローモーになり勝ちなきがするのだが、今回はピチピチの若手が主人公ということもあって、なかなかのスピード感。
敵役のチャンプを演じるアンソニー・べリューは実際に英国チャンピオンでもあるボクサーという事で、迫力あるボクシングシーンとなっている。
画的にも、派手に血が舞う感じで、痛さが伝わってくる。
気になる点を挙げるとすれば、主人公アドニスは魅力的だが、どうしても「ロッキーの愛弟子」感が強い事か。
スタローンとしては2もやるぜといったとか言わないとかで、そうなってくると、「ロッキーのとこの子アドニス」が、ロッキーのジジイ圧を乗り越えて、本当に物語全体を支配する魅力ある主人公として独り立ちできるかがポイントのように思う。
そんな感じで、ちょいちょい「おっ」と思う見所もあり、全体としても派手な盛り上がりにこそ欠けるもが、親子愛、師弟愛を感じつつ、しっかりスポ根ものの感動が伝わってくる良い映画だとおもう。
年末にやる事が決まっていない諸兄、スターウォーズの盛り上がりについていけない方などは、こちらもどうだろうかと思う次第であります。
http://honeshabri.hatenablog.com/entry/soap_anime
・豆腐メンタルな子豚たちが不安で切る前に、早々にヒロインを確定させて安心させてやる必要がある。その制限時間が3分なのだ。この「3分」という制限時間は動画に関わるものならば経験から知っているものであるらしい。
・漫画だと、冒頭の7ページ。キャラクターを好きになってもらう。映像なら3分が限界ですが、YouTubeやニコニコ動画なら20~30秒でしょう。
・結論的に3分はちょうど人間の心理にぴったり合うというのがだんだんわかってきたのです。これが第1点です。なにしろ視聴率20%、2000万人のデータですから、これは圧倒的です。
ここではっきり示されているように、
豆腐メンタルな豚ら誰でもそうするということだと言い切られている。
2000万人がみんなそうする、平均的な、没個性的な行動にすぎない。
つまり、3分切りや1話切りはオタクと真逆の態度であるといえる。
よって、1話できりました、3分で切りましたということともに、僕は一般人ですアピールをするのなら何の問題もない。
しかし、なぜかオタクにおいてはここで逆転現象が起きる。3分で切っておきながら、それゆえに僕はオタクとして優れているとアピールする人間が出てくる。ごく平凡的で没個性的な行動をとっているにもかかわらず、なぜか1話で切りましたという宣言をオタクとして誇らしい宣言であると勘違いしているあわれな人が少なからずいる。
おそらくだが、3分切りや1話切りを宣言する人間は、己の選別眼を誇りたいのだと思う。
1話で切る判断ができた自分SUGEEEEEE!っていいたいのだろう。
だが、自慢している人間の発言をよくよく見てみると、1話切りした対象は
ハナヤマタだったりシュタインズゲートだったり、血界戦線だったり、がっこうぐらしだったりする。
つまり、彼らは別に作品の善し悪しを評価できたわけじゃないのだ。
そりゃできて当たり前だし、むしろそれだけなら見る必要そのものが無いはずだ。
3分も時間をかけているだけ時間を無駄にしている。まして1話まで見てる人は何をしていたのだ。
そう考えると、本人が何か勘違いしているかバカである、ということ以外やはり何を自慢しているのかさっぱり理解できない。
私は、オタクの間でだけこの逆転現象が起きる理由がさっぱりわからない。
なんので、こういう行動をとっている君たちに問いたい。
君たちは一体何のために一話切り、3分切りを声たかだかに叫ぶのか。
自分たちの行動が2000万人が普通に取る没個性的行動だという自覚がなかったのか。
それともそれ以外に何か有意義な何かをできているという主張があるのか?
ketudan ”3分で切っておきながら、それゆえに僕はオタクとして優れているとアピールする人間”←マジレスすると、オタクであることへの自負とかオタク的優劣とか意識するのは2世代前の感性であり書き手はシロクマ世代。
違うよ。ぜんぜん違うよ。これブルーにさいの話だよ。彼いつも言ってることが40過ぎのおっさんにしか見えないからketudanが勘違いするのはわかるけどね。