世の中は解説に溢れている。
どこへ行っても、誰と何をしても、僕らが感じて気付くより先に、そこには誰かの定めた答えがある。
誰かが作った答えを染み込ませることで、そのモノの本質を理解した気になれるから。
不完全な言葉で紡がれたその答えによって、仮初めの満足を得ることができるから。
一つ一つのモノと向き合って、それらを理解するには到底時間が足りないから。
本ひとつにしても、日本で年間8万冊以上も新しいモノが出てきている。
Webメディアを含めれば、数限りない新しいモノが日々生まれている。
インターネットの発展により爆発的に増えたコンテンツの供給量は、僕らの理解力を遥かに上回った。
しかし恐ろしいことに、それら一つ一つに誰かの答えが付属している。
まるで、答えに取り憑かれた何かがいるかのように。
モノ本体ではなく、誰かの記した答えの方に価値が移ったのである。
別の見方をすれば、モノ本体の価値を理解しきれなくなった僕らが、モノ本体を切り捨てたといえる。
そもそも、何の思いも発していないコンテンツが溢れ、解説を読むだけで十分といえるモノで溢れるようになった。
人に対する評価もそうだ。
ソーシャルな情報が世の中に溢れ、実際にその人に会わなくても、その人の「答え」を知ることができる。
会うまでわからない何かより先に、誰かがつけた不完全な答えがある。
これから先の未来では、人にまとわりつく誰かの答えがもっと強さを増していくし、その流れは止められない。
実際の本質とは異なる、誰かがつけた答えの無意味さと不正確さに。
そして、評価だけが残り、他人から切り捨てられていく自分に対しての惨めさに。
そんな未来が迫っていると思いつつ、
改めて問いかけるとその誰かの側にいることが怖くなった。
今ある沢山の前提に疑いを持つ人が増えるのはとてもいい事。個人を取り戻そう。