はてなキーワード: 教義とは
あるとすれば人の数だけ死後の世界はある。
生物学者のユクスキュルが提唱した『環世界』という概念をご存知でしょうか?
同じ空間を認識していても、その認識者の認識機能の差異によって、脳や心に創り上げられる世界は千差万別で、
同じ空間を認識し・生きながらにして、全く異なる世界を認識し・生きているという考え方です。
つまり言ってしまえばこの現世だって、人の数だけ異なる世界があるのです。
まして恐らく、あの世では現世の五感とは異なる認識機能によって観測するのだろうから、現世以上に環世界の差異が大きい可能性も大。
加えて、教祖があの世で観測した世界を教義に記す能力と、教祖があの世の世界が複数あることを観測する能力はまた別ですから、
例えば「あの世には野球部があったぞー!」という教義は真実でも、その教義に従っていれば将来その野球部に入部できるのは真実だとしても、
あの世には野球部以外にサッカー部もあるという事実を認識できたか…というのはまた別の話で、だからと言って野球部の教義は嘘にはならない。
実際以上に科学で判明している事を過大評価した科学的事実云々ではなく、科学技術信仰のような人の信仰自体は自由ですので。
この世に影響を与えてないものが、人の魂(コア)を動かす、ってところ。
先の環世界的な話でもあるのだけれど、例えば、人の認識機能は3次元な訳ですが、超弦理論などでは実際には10次元だそうです。
そして、蟻の認識機能はこのうち2次元だけとも評されるように、人間の認識機能もこのうち3次元だけで、
(嘘か真か、盲目の数学である者ポントリャーギンは「5次元図形を視覚的に思い浮かべることができた」なんて話もありますし)
実はあの世というのはこの世の4次元目以降にすぐそこに存在し、別に魂が動かされるとかそんな大層な話ではなく、
脳による認識機能が失われて初めて認識できる環世界にあの世があると考えれば、何も矛盾しないのではないのでしょうか。
それこそ、その認識機能が特異的に鋭敏な人がいたら、その人が教祖としてそうやって微かに観測できた世界を教義に残した…
なんて仮定すれば、先の複数ある死後の世界を一つと錯覚した件も含めて、諸々矛盾しないことになると思います。
…因みに言うまでもないとは思いますが、私も個人的な宗教観などは貴方に近いです。が、ここはあくまで論理的な思考実験としての話ですのでw
要は「死後の世界や宗教の教義を簡単に否定できる程の認識能力や材料を私達は持ち合わせているのか」って話です。
では、その時喋った私は一体誰なんでしょうか?
面白いですね。凄く興味深いですね。
ただ、麻酔は確か飛行機の飛行原理と同じく、科学的にはその原理が解明されていない事柄ですから、断定的なことはやっぱり不明でしょうね。
単純に済ますのであれば記憶を失った酔っぱらいと同じ状態なのかもしれません。
なるほど!お付き合い頂き感謝!
これは確かにその通りだね。
ただし、あくまで「天国的なもの」と「地獄的なもの」の矛盾であって、「あの世」そのものの矛盾ではないかな。
加えて、死後の世界は大学のサークルみたいに、その魂の在り方に合わせて多様な天国や地獄の集合体みたいなものがある
「野球の方が面白いだろ!」と「サッカーの方が面白いだろ!」という人達が激突しても、
やっぱり脳が消えたら消えたままになるとおもう。
そうだね。ぶっちゃけ個人的にもその可能性の方が高いとは思う。
でも、断言はできない。科学的には「わからない」が正解で、「ない」と断言するのは「ある」と断言する信仰と同レベルだとも思う。
例えば、天体望遠鏡で観測できる遥か彼方のアンドロメダ銀河とかは、地球からはとても関与・影響はできないけれど、
人間の認識メカニズムや現状の科学が確かならば、確かに存在はすると考えられている訳だよね?
この世に関与や影響がないことに何の問題が?関与できない世界のことが何故教義として残っているのかっていう矛盾?
ただ、その話は前提条件の時点で既に問題がある。
なんでそうだと知ってるの?一度死んでそれがないことを確認してきたの?
別に私もそれらが「ある」と主張するつもりはないし、確かに宗教の教義には現代科学と矛盾する怪しい所もあるけれど、
それと死後の世界的なものが存在しないのとは別の話であって、存在しないことは科学的に立証された訳でもないのだし、
それらが「ない」と断言することは「ある」と断言することと同レベルの信仰なのでは?
加えて、もし仮にそれらが存在しなかったとしても、人は心の作り出した虚構の世界の住人である以上、
地下鉄サリン事件から23年が過ぎた。
23年という事は、言ってしまえば、今時の大学生以下の世代は地下鉄サリン事件を知らないという事だ。
それは、オウム真理教の事件も知らないという事。
先週の土曜日、3月17日に東京で「地下鉄サリン事件23年目の会」という会が開かれた。
オウム真理教事件の被害者、地下鉄サリン事件の被害者及び、その親族・家族が集まる会。そこに、麻原彰晃の娘・・・三女の松本麗華が来ていたらしい。
入り口には「オウム真理教及び、その後継団体の関係者は入らないで下さい」と書かれていたにも関わらずいたらしい。
松本麗華は、数年前よりオウム真理教の後継団体の一つ「アレフ」と争っているという。争っている理由については非常に複雑で、この増田で書くには文字数が多くなる。
松本麗華にとっては、オウム真理教事件の被害者=オウム真理教及びその後継団体「アレフ」の敵=「アレフ」の敵である自分の味方という考えでの参加だったのだろう。
だが、松本麗華のTwitter上での主張には明らかに麻原彰晃を正しいと思っている節が見られる。
以下に、その主張の一部や最近の行動等をまとめたサイトのリンクを貼っておく。
これらの主張より、松本麗華は
と言える。
そんな中、ある「ひかりの輪」の脱会者が、「ひかりの輪」の代表である上祐について、こう証言していた
このツイートをした人物は、「アレフ」や松本麗華を擁護する様なツイートをしている。
「アレフ」も「ひかりの輪」も「松本麗華」も、やっている事はスケールの小さな宗教戦争なのだろう。
教祖である麻原彰晃が存在し、その麻原彰晃が逮捕された事で彼らの中で神格化された。
そして・・・
「麻原彰晃は無実なのに国の陰謀で死刑判決を下された」と考える松本麗華派
「表面上は麻原彰晃を否定しつつ、麻原彰晃の教義を尊重し、麻原彰晃の息子を新たな教祖にしたい」と考える「アレフ」
「オウム真理教を脱退した一部の幹部が脱・麻原彰晃を謳い文句に金儲けをしたい」と作った「ひかりの輪」
そして、「アレフ」を脱会した信者の中には「ひかりの輪」の教義に傾倒する者もいれば、「ひかりの輪」を脱退した者の中には松本麗華や「アレフ」の教義に傾倒する者もいる。
泥沼だ、スケールの小さい宗教戦争なのに泥沼だ。
どの派閥も「麻原彰晃の教義」が第一に有り、それを肯定するか否定するかで成り立っている。
きっと、原初の時代のキリスト教、ユダヤ教、イスラム教も、元々は一つだったのがこの様に分かれて今の状態にあるのだろう。
だから、キリスト教もイスラム教もユダヤ教もエルサレムを聖地としているのかも知れない。
このスケールの小さな宗教戦争に、麻原彰晃やオウム真理教事件の確定死刑囚の死刑の執行はどういう波紋を呼ぶのだろうか?
地下鉄サリン事件から23年、今年の4月に東京メトロ(旧・営団地下鉄)に入社する4年生大学を卒業した新入社員は、
地下鉄サリン事件の起こった年に生まれた人達だ。
地下鉄サリン事件を知らない世代が、地下鉄サリン事件の有った会社に入社した時・・・、果たして、同様のテロが起こった時に防げるのだろうか?
オウム真理教事件の確定死刑囚の死刑が近付いていると感じられる今、「あの事件は何だったのか」もう一度考える時期に来ているのではないだろうか?
P.S 本日17時半からのTBSニュースでは、麻原彰晃の娘、松本麗華に取材した内容を流すそうです。是非、ご覧になって皆さんも「あの事件は何だったのか」を考えて欲しいと思います。
典型的な、勉強できないのに自分の言いたい方向に歴史をねじ負けたいだけの無敵の人なのかな?
使っただけで、自分が咀嚼、理解できていない可能性はひとつも考えないのか。面白いなぁ。無敵だね。
物凄く雑に言っちゃえば、ローマ以降のキリスト教(雑だなぁ主にカトリックとプロテスタント。そもそも時代でも差はあるが)世界においてある時代まで、女は劣った生き物なので劣った扱いをすべき、という思想が一般的で、
そういう思想がキリスト教世界をベースに組み立てられた各国家・社会の構造に影響したのでは、という考え方があるんですよ。近代までは、宗教と社会構造はとても密接に絡み付いていたから、影響を受けるのは当然と言えば当然ですし。
で、その「女は劣った生き物である」という男尊女卑的世界観がどこが源泉なのかは説は色々ありますけども(月経原因説から、楽園のリンゴ食ったからとか存在が不浄って書いてあるとか色々)、実は東洋世界(仏教や儒教)でも、イスラム的世界でも発生している。おまけにキリスト教も仏教も、教義だけを読めば男女に救済の差はないと読むことも可能(救済に差があると読むこともできるから上記の誤解が発生したんだろうけど)。
なので、古代あたりから、「人間の発生と進化の一過程」という時代において、女は格下!的な、非モテ厨二っぽい思想が流行った時期が長くあったのかもしれない、などと増田は考えているがこれはあくまでも私見&感想。豊かさを他に求める侵略の時代において「そういう考え」になりやすいのは、現代の日本を見ていても納得感があるので、符牒は合うっちゃ合う。
でもこの私見を、ちゃんと論拠を追い示しながら説明するのは増田には荷が重すぎるので、取りあえず、山川の教科書を読み直しつつ、思想史のみを抜き出した年表とか作ってみたらどうでしょうか。
あとは、「フェミニズム神学」というキーワードでググっても面白いと思いますよ。この20年ぐらいでは「宗教が女を差別してきた(怒)」から学問が進んで、「そういう側面もあるけど原典ではそうじゃないよ」とか、歴史や原典や個別の事象や思想家などと照らし合わせて分析をしている人もいます。ベースは神学なのでラジフェミみたいなおかしなのはほとんど居ない、ので比較的当たりやすい学問のはず。山川Bをちゃんと咀嚼できていたのなら笑。
つーかそういう学問体系もすでにあり大学でカリキュラムになっているところもあるような現在進行形の学問なので、元増田のように「もっとお母さんのように教えてくれ」と甘えるのも、割とズーズーしいね。と思う。
うん。めちゃくちゃ肩入れしてるよ。私はナウシカという人物が大好きだし。
そして、ナウシカは現人類に肩入れしている。ユパが好きだし、アスベルやチククも好き。クシャナやクロトワだって好きだ。風の谷のみんなが好きだし、トルメキア人やドルク、蟲使いも。それ以上に王蟲が好きなんだけど……。いがみ合いは嫌いだが、いがみ合ってる人物そのものを嫌っているわけではない。
その好きな人々を亡くしたくないんだよ。そのためにできることは何でもするだけだ。犠牲行動を「良い」と思ってやっているわけではない。行動原理は「その相手を助けたい」だ。そのためなら瘴気の中でマスクだって取っちゃうし、周りをドルクに囲まれて死の一歩手前だろうがトリウマを助けるのが先だ。「良いか悪いか」で判断してるような人にこの行動はとれない。
ナウシカは墓所が現人類に邪魔だから消したんだよ。私もその決断に同意する。「私達のように凶暴でなく、おだやかで、かしこい人間」なんていらない。少なくともそれを生かすことによって自身の愛する世界を失うことになるのなら、その障害を潰すことを厭わない。
作中の現人類の多くはこの思考に同意するだろう。漫画の世界ではなく、今PCを閲覧している読者の多くも、ヴ王と同様に「そんなもの人間とはいえん」と思っているだろう。
うん、それは私の思い込みだな。新人類が進化して「凶暴で、おだやかでない、バカな人間」に、現人類並みに育つ可能性はあるよ。私はそれまで待てない、と言い換えるか。それにどうせ現人類並みになるならリセットせずに今の現人類を使えばいいじゃない。そしてそのとき、墓所の技術は現人類にとって危なすぎるの。そこの技術が現人類のいがみ合いの種の一つになってるから。「ヒトラーと同じだ」というが、ヒトラーなら優性思想だから「おだやかで賢い人間」を生かすんじゃないの。知らんけど。
墓所側が攻撃するのは当たり前のことだ。旧人類の悲願は人間性の闇を捨てることだ。現生人類を死滅させたいのも当たり前だ。それが残っていては計画が水の泡になる。交渉する余地など最初からない。武力で負かして交渉のテーブルに無理やり着かせる必要がある。
あ、そういうこと言っちゃうんだ。じゃあまあ墓が弱かったから仕方ないね。「交渉の余地すらない。武力で負かして交渉のテーブルに無理やり着かせる必要がある」と言うからには負けた旧人類と新人類は黙って消えるしかないだろ。どうもあなたは「墓所が勝った場合は人類に交渉の余地はない」しかし「墓所が負けた場合は、墓所は交渉のテーブルに着かせてもらえる」と思っているようだが、そんな甘いわけがない、巨神兵の裁定はおりている。そして巨神兵をプログラムしたのは旧人類だ。
新人類に正しい審判を下せるのは旧人類でも現生人類でも新人類でも王蟲でもナウシカでもない。はるかかなたの未来に生きる人類たちだ
「今」を生きるのに精いっぱいの人々にはるかかなたの未来に生きる人類を気にかけてる余裕なんかない。21世紀の現代日本ですらそうだろ。繰り返すけど、あなたは物語の中の今を生きている人類に寄り添えていない。そんな人物の言説を誰が聞く?
古今東西、人を説得できないと物事は変わらない。国会でどれだけ「日本を良くする法だ!」と自説の正しさ唱えたところで、党内の票をまとめられなければ法案は通らず歴史は変わらない。
その、愚かな人類と決別しようとする "新人類教" では物語の中の世界を変えられないんだよ。せいぜい数千年後にまだしぶとく生き残っている現人類が「古文書見つけた!『お前ら人類は虐殺者だ』『ナウシカは悪魔だ!世界を滅ぼしたのだ!』とか書いてあるよ。新人類教だってさ」と珍しがる程度だ。
そうだろうね。そしてそういう人物は、誰かを殺す心配をするまでもなく、とうに誰かに殺さているだろう、と先にも書いたよ。
ナウシカの世界は、その環境の過酷さにより人々がいがみ合い、憎しみ合っている。しかしそれぞれの人は "新人類ではない" から、憎悪の一方で愛も持っている。良い一面も悪い一面も持っている。これが人間だ。そういう人々の行動を変えるにはどうしたら良いか。まずは説得だ。ナウシカは数々説得してきた。しかし凶暴で賢くない人類だから、説得には応じられないこともあるだろう。では説得に応じない相手はどうすれば良いのだろうか?そう "行動を起こす" のだ。あなたは「交渉する余地などない、まず武力だ」と言っているが、まずは交渉、のちに行動。
最終話近く、マニ族とクシャナ軍がにらみあっている。ユパが、ケチャや年寄り連中と一緒に必死にマニ族を説得している。だがマニの若者たちは納得しない。彼ら彼女らも "復讐は何も生まない" と理性では分かっているのだ。だが自身の感情を説得しきれない。そして、この気持ちを晴らすにはトルメキア人を殺すしかない、と"行動を起こし"クシャナに襲い掛かかった。(法の整備された現代日本では許されないよ)
ここでユパも説得は通じなかったことを悟り次の手段に出る。マニ族とクシャナの間に割って入り、マニの刃を受けることで双方の連鎖を止めた。先だって左腕も犠牲にし「この片腕、わしの心のあかしだ。たのむ判ってくれ」と再度説得。単なるきれいごとではなく、自らを痛めてまで訴える人間の言葉は人の心に届く。(これには先立ってマニの僧正が同じ方法でユパの命を救っており、恩返しという側面と、僧正の念がこの場に出現しマニ族を説得するという流れになっている。この通り、聞かなきゃ殴るだけが行動ではない)
ナウシカも同様に、数々の行動によって人々を説得してきた。
ナウシカは恐れでためらうことが少なく、瞬時の判断力を持っており、おおむね良い方向に作用する。(主人公補正はあるが)
アスベルを新人類と入れ替えてみたらどうだ?と言いたそうだな。やってみようか。新人類は生き残ろうとしない。生に執着しない。あなたと同様に「人間の凶悪さを発揮し蟲を殺してまで生きようとは思わない」と言い残し、ナウシカに遭遇する前に蟲に食われる。おしまい。
説得・行動・説得・行動だ。これによりナウシカは数々の障壁を超えてきた。残念ながらあなたの思惑とは違い、最終話ではもはやナウシカを止める人はいない。ナウシカはもう辺境の一首長ではない。行動により強力な支持者を得て、民衆を説得できる力を持った。ナウシカはみんなをつなぐ糸になれた。
あなたには説得力もなければ行動力もない。だから序盤で死んでいるだろうけど、それを大目に見てこの場で
新人類に正しい審判を下せるのは旧人類でも現生人類でも新人類でも王蟲でもナウシカでもない。はるかかなたの未来に生きる人類たちだ
と言えたとしよう。で?誰が耳を……あ!聞く耳持つ人がいたわ!墓所と守り人。ヒドラ。
これがあなたの発言。そして墓所・庭園の主『歴史は繰り返す』『お前達はその朝をこえることはできない』。そっくりだな!といってもあなたは墓の側に立って意見を出してるんだからそりゃそうか。
あなたが墓所かヒドラだった場合、結局ナウシカを説得できなかったので歴史は変わらない。変えるとしたら、最後の生き残りの人々の前に現れ、今回の数々の教義を唱え、賛同者を募ってナウシカを止めてもらう必要がある。
そこにいる人々は、戦乱の世を必死に生き延び、死にたくないと願い、場合によっては人を殺めても生き延びてきた人たちである。その中でどのくらいあなたの賛同者がいると思う?ナウシカを引き留めるには到底足りないと思うんだけどね。
ナウシカだって最初は無垢でいたかったんだよ。でもそれだけでは自分の愛する人は救えないと理解し、成長する物語だ。そしてナウシカは罪悪感や自己矛盾をちゃんと受け入れている。「人類を滅ぼしにいくのかもしれない」と自覚している。「悪魔として記憶されてもかまわぬ」と言っている。それに比べりゃ私たちなんて楽なもんだ。最後の決定をナウシカに任せちゃえるんだから。だからこそ、その決定について、ナウシカに責を負わせることはしないでおこうと思う。
新人類だってあなたを救世主だとは思えないだろう。「その人は私たちのために何かをしてくれたの?」「なんだ、世界の片隅で祈ってただけか」と。
あなたは、未来を変えたいが、自分の手は汚したくないという。墓所の主はそういう役割としてプログラムされているからまだわかる。しかしあなたはには自分の意志があるのに、その体があるのに、先へ進もうとしない。今の自分を超えようとしない。現人類より新人類側に思いを寄せている。もしかしたらあなたも旧人類のように全てに絶望しているのかもしれない。どうせ全滅するのだから何をしたって同じか?「そうではない」とこの物語は示している。
ナウシカの行為に正当性を産むことができるとしたら現生人類が生き残ることではなく、火の七日間を再度起こさないと確信に値するものを示すしかない。しかし作中の現生人類がそれを示すことはないまま作品は終わってしまった。
「答え」なんか分かるわけがない、っていうか自分で考えろってことだよ。人類は再度火の七日間を起こすよ。歴史は繰り返す。人類は愚かだから正統性より目の前の命を取る。
今回私が書いたことはほとんど漫画の中に描写されていることだ。あなたは最後の答えを知りたいというが、まずそこに至るまでをうまく読み取れていないじゃないか。まずもう一度通して読んでみてはどうだ。
あなたは結果を重視しているが、私は現人類の過程を重視している。あなたは「自然に任せよう」と思っているらしいが、あなたが自然だと思っていることは実のところ人間のプログラムだ。穏やかで、賢い、人工の物体だ。自然体は許されない。人も動物も全てを書き換えるつもりだ。ナウシカの方法の方がずっと自然だ。「今」を乗り越えても、凶暴で頭の悪い人類は結局は滅ぶかもしれない。でも人類は滅んでも虫や動物は生き続ける。人類は滅ぶが、世界は滅ばない。とはいえ、人類はそんな簡単には諦めないという話だ。
たとえ過去1万回同じ過ちを繰り返したとしても、諦めなければ1万1回目でクリアできてしまうのが人類だ。1万1回やったけどダメだったから諦めたのが旧人類なんだろう。現人類は1万2回目、歴史は繰り返す。しかしそれがいつになるかは現人類が決めるし、現人類はその今を精いっぱい生きるの。
このあたりはどこまでいっても平行線かもしれない。だからあなたが「私はナウシカの決断に同意できない」と宣言すること自体に問題はない。ただ、最後の決断をした人物を責めてはいけない。私は旧人類の決断が間違っていると思うが、旧人類がそれしか取る手がなかったのだということは受け入れる。旧人類を責めはしない。現人類として、その決断には従わないという意思を示すだけだ。
1万2回目の人類の最後はナウシカが決める。少数の反対を除き、私を含め大多数はナウシカに最後を託した。
歴史に埋もれたできごとが間違っているわけではないが、トルメキアとドルクをクシャナとチククが再興していくことを考えると、はるかかなたの未来に生きる人類たちはナウシカを「救世主」として受け止めることになるよ。「青き衣の人」として。新人類は生に執着しないが、もし執着するほど進化したとしたら、その時は現人類の選択を理解し受け入れるだろう。(同時にはなし得ないのでパラドックスだが)
あなたは現人類に絶望しているのだろうが、それでも旧人類の決断に自分を託すんじゃなくて現人類として自分で決めよう。誰からも必要とされない自分なんていなくていいと思っているかもしれないが、人の評価で未来を決めることはない。
本当に絶望の淵に立っている人に「マンガでこう言ってるし」「不安も絶望も背負って、それでも生きていくしかない」と諭してもまったく力にはならないだろうなとは思う。私は漫画版ナウシカから力をもらったけど、絶望中にはせいぜい現実逃避として読んでただけな気がする。ある程度元気になって、現実世界に少し救いがあったからこそ、余裕をもってああだこうだ言える今がある。
とはいえ、あなたは「マンガだし」と投げ捨てず、その内容について意見を書き綴れるくらいの力があるんだから、もう一度立ち止まって読んでみてはどうですか。
瞑想というかマインドフルネスに抵抗があって、本を買って読んだりしてみてるわりに、全然実践できていない。
効き目がないと思っているわけではなくて、「まあこういう仕組みだから、こういう世の中でやると、こういう調整が効くんだろうな」と自分なりに納得もしてる。
じゃあ何がひっかかってんのかというと、自分がちゃんとした仏教徒じゃないからだ。
マインドフルネスは、宗教的要素を取り除いたとは言われるけど、きっぱりはっきり「八正道の中の正念」という概念とイコールなことがあきらかだし、そもそもその宗教的要素を取り除いたっていうことに対しても「……いや、そんな勝手に取り除いていいものなのか?」っていう気持ちになってしまう。残りの八正道ノータッチでいいんだ?? ほんとに??
自己実現のために、信仰してない宗教の教義のごく一部分だけをお気軽に使うの、自分のオシャレのためにまったくコーランも知らないのにヒジュラかぶっちゃうみたいなアウト感をね……。感じてしまうんだよな~。
基本的に自分が考えすぎなのはわかってるんだけど、うっかり他人の重要な箇所に土足で入ってるんじゃないかって不安がどうしても残ってしまう。
写経体験みたいなものだと捉えたらどうかと言われたけど、マインドフルネスは継続して行う習慣なとこがどーもな……。
私の親がとある宗教を信仰している。だから生まれてすぐから毎週集まりに連れて行かれていた。
組織の中で嫌な事がいくつかあった。
母親が一時精神を病んでたのか、家も長らくすごく居場所が悪かった。
父は空気。そのうち父は精神科に通い始めた。精神科に行くべきなのは母親だと思ったし、なんども行けと言ったけど結局行かなかった。
宗教やめたら殺すと言われたこともあった。ずっと他の家の子たちが羨ましかった。母は家でずっと他の信者の悪口を言ってた。父は怒ったけれど焼け石に水だった。そのうち父も「尊敬しろ」とか言って怒鳴るようになった。家族で毎週宗教の勉強をしなきゃいけないんだけど、高校の時宿題しながら参加してたら叩かれた。私が悪かったのかもしれないし後で謝られたけれど、未だに思い出すと悲しい。
それからその宗教について毎週他の信者の方が家に来て私に宗教のことを色々教えてくれていたんだけれど、大学に行くって言った瞬間に豹変して、私が大泣きしてるのに数時間ずっと文句を言って私の母親の文句まで言って帰った。その次の週からその人はもう家に来なくなった。
おばあちゃんみたいに慕ってて、その人もすごく親切にしてくれて、高校時代の私はその人をすごく信頼してたから、ショックだった。
それでも私はまだ信者で居続けた。
独り暮らしを始めて、そこでもまた宗教がらみで嫌な事があった。
思い出したくもないから書かないというか書けないけど、本当に辛かった。やせ細って家でずっと泣いてた。家にいると涙が出て止まらなくて本当に病気になったのかと思った。
宗教の活動を熱心にしてないから陰で悪口を言われたりもしたけれど、(とはいえ当時は週3で活動をしてた)私はバカだったからそういう風に言われてもちゃんと集まりに言ったり活動に参加することで信仰を示してるつもりになってた。
それから引っ越した。引っ越した先の人たちはみんな良い人だった。
今までの嫌な思い出とか、あれってやっぱり普通じゃなかったんじゃないのかと思い始めた。
そもそもこの宗教内では、この宗教をやってない人は道徳的に堕落してて薬やっててアル中で嘘つきで泥棒で殺人する(これはちょっと大げさだけど子供の頃は本当にこういうイメージだった)、みたいな感じなんだけど、中高の友達も大学の友達もごく普通に良い人達で、むしろ「愛、親切」とか言ってる宗教をずっとやってる私よりみんなずっと性格が良かった。
陰口を言うような人もいない。まあカンニングする外人の友達がいるくらい。
愛の組織なんかじゃなかったんだ、って一度思うともうその思考がぬぐえない。
集まりで話を聞いている間もちょっとしたきっかけで嫌な思い出がバーーーっとよみがえって来て
そんなんじゃない!!!嘘つき!
ってつい思ってしまって、泣きそうになる。というか泣いてる。
もともと話は聞かない方だったけれどこれのせいで意図的に聞かないようにするようになった。
真理とか人生の目的とか興味ない。
けどやめて家族から無視されるのは嫌だし、家族を宗教から引き離そうとは思えない。
どうしたらいいのか分からない。
でも神が本当に愛だったらいいな、と思う。
欧米と比して宗教色が薄いと言われる現代日本でも、完全に宗教と決別して生きていくことは難しい。
いわゆる「冠婚葬祭」においても、近年では小規模化の傾向が見られるとは言え、有形無形の圧力により望まぬ負担を強いられることが常態化している。
そこで、出来る限りコストのかからない極めて簡素な宗教を新たに用意し、それを宗教的圧力からの逃げ道にすることができないかと考えた。
簡素と言っても、冠婚葬祭を全く執り行わなければ社会的摩擦が生じ、かえってコストが増大しよう。それでは本末転倒である。
なので最低限の儀式は執り行いつつ、それ以上の出費を防ぐために、「私の宗教では盛大な儀式が禁じられている」などと、宗教を言い訳に使えるようにしたい。
メタ目的が「宗教に関連するコストを低減する」ことであるので、「戒律を課す」「現世利益を約束する」といったコストの嵩む方向性は論外である。
そこで「死に対する不安を取り除く」=「死後の安楽」という点に絞る。
死後の安楽を保証するために、まず神を用意する。
神は全知である。
故に神は「人の死後が安楽である」ことを知っておられる。
これを基本にしよう。
「神によって安楽がもたらされる」でないことに注意されたい。
安楽が神によってもたらされるのならば、神に対価を支払う必要性が生じてしまう。
むしろ、
とすべきだ。
信徒は神に期待してはならない。
ただただ「人の死後が安楽であることを知る神が存在する」ことを信じるだけである。
あらためて信心を表明したり、神へ誓いを立てたりすることは、神の全知を疑う行為であるので、できるかぎり慎むべきである。
ことさら神へ祈りを捧げたり、神の名の下に騒ぎ立てたりすることは、神の無能を疑う行為であるので、できるかぎり慎むべきである。
と、このような教義を設定すれば、冠婚葬祭のたぐいを簡略化できるのはないだろうか。
神は新郎新婦の愛を既に知っている。
神は死後の安楽を知っている。
神は死後の安楽を知っている。
埋葬する必要もないが、埋葬した場合でも墓参りはしなくてよい。
といった具合だ。
もちろん冠婚葬祭以外でも様々なシーンで利用できるはずだ。
これを「全知無能神教」と名付けよう。
どうぞ信仰してくれ。
保育園設置の反対のための大義名分として、騒音などが挙げられているけど、それはまさに大義名分であり本当の理由ではないと思う。
はっきり言えば、保育園を必要としている親そのものに対する批判・非難なのではないか。
具体的に言うと、保育園設置に反対している人たちの理由は、そもそも両親どちらかが働くこと自体に反対しているのではないか。
もっと言えば、母親が子供の育児を放り出して働くこと自体に、強い抵抗感を持っている人たちなのだと。
「父親は働き、母親は家の中で子育てと家事をする」というライフスタイルが身にしみている人たちから見れば、保育園なんて異教徒の宗教施設のようなものだ。
そんな人たちに「父親だけの稼ぎだけでは生活していけない」などと説明しても無駄。
イスラム教徒に、キリスト教の教義を説教するようなもので、絶対に相手に話は通じない。
保育園設置に反対する人たちの年齢層が比較的高い気がするのも、これで説明がつくよね。
逆に保育園ではなく、幼稚園の建設工事だったら反対する人はいないと思う。
保育園の設置に反対する人たちも、はっきり言えばいいのだと思う。
リンク先の本を買って読んだ。
https://twitter.com/alpaca_mofu/status/943446184676306944
私にとっては本当に辛い記憶でありこれまで「ネタにするくらいしか昇華しようがないかなー」と漠然と考えていた体験だが、このような本に巡り会い昇華の方法として素晴らしいと感じた。
この記事を書くに至った衝動はいくつかあるが、1つはかの宗教に地域性とローカルルールが豊富であることに由来する。
Amazonのレビューや著者の方を含めたツイッターでの会話を眺めたら「まさにそうだった」「うちはこうだった」「それはなかった」といった感想を目にした。
この宗教に関わっていない方にとってはどれが正しいかわからない状況かもしれないが、きっとどれも正しく、単に環境が違ったのだと思う。
この記事もあくまで私の体験であり他の方と一緒かもしれないし違うかもしれない。
ただそういう経験をしてそう感じたと書く。
各々信じたいものを信じ、やりたいことをやるしかないのであるし、公序良俗というやつに反しない限りそうあるべきなので特定の個人を貶める意図はない。
また、正式名称「ものみの塔聖書冊子協会」通称「エホバの証人」についても賛成も反対もなく信教の自由は保証されてしかるべきなので信奉したい人はどうぞ。
「ものみの塔」とか「エホバ」とか書くの本当に久しぶりだが手が震える。
コメントorツイッター( https://twitter.com/s_fjw )で質問してもらえたらできるだけ書く。
いわゆる「元2世」というやつで、親が入信してたので必然的に参加していました。
かの団体は地域性とローカルルールが多いことが知られており「いつ」「どこで」「どれくらい熱心だったか」という前提が欠かせないのでまずそれを書きます。
西日本。
年1回の「地域大会」というやつはスペースワールドの近くで開催されるやつに割り振られていた気がします。
洗礼受けてから脱退すると「排斥処分」というやつになって以降かの団体の人々との交流を一切禁じられるが、洗礼を受けずに諸々の行事に参加しなくなっただけなので、扱いとしては単に「信者候補が『世の人』(信者ではない人の呼称)になった」だけ。
「排斥処分」の有無は感情や精神に色々影響与える場合があるらしいのでここに状況を明記する。
父母私。
父→大きく賛成も反対もせず。一時母の勧めで「研究」に参加した模様。
母→熱心な信者、たぶんまだ現役。
前述の通り心理的に脱退済み。
たまにフラッシュバックして死にたくなる。
かの教義には賛成も反対もないので自分の意思でやりたい人はやったらいいんじゃないんですかね。
書く。
本当に体験が近しくてびっくりした。
が、ごく一部私の体験と違ったので書く。
悪いことを「サタン」と言うことはあった。
これは十戒あたりに「神の名をみだりに唱えてはならない」とか書いてあって、私の周りでは「良いこと」を表すために神の名を使うことはそれに沿っていないと考えていたか、あるいは単にそういう用法を思いつかなかったのだろう。
なお彼らは主に新約聖書を教義の根拠として用いるが、旧約聖書も参照する。
繰り返すが地域性やローカルルールが多彩であり特定の人の記憶や考えを否定するものではない。
今のところこれくらい。
他は本当に体験が近しくて驚いた。
悪いことばかりというのはあり得ず、このような環境で過ごしてよかったこともあるので書く。
気力が戻ったら書く。
思い出すだけで辛いし得損なった15年ばかしと数々のチャンスを考えると何かを呪わずにいられなくなるんだ、わかる人にしかわからないだろうが。
この件を考えると人に優しくできない。
面白い考え方だとは思ったけど、それ以上に言葉遊びというか、哲学遊びな気もするな。
「マイナスは確実にあるが、もしかしたらプラスもある」より「確実にマイナスはない」のほうが合理的と言うけれど、
誰もが「限られた時間」や「あり得た未来」という代償を支払い続けて生きている以上、マイナスのない行為など存在しない訳で、
代償を恐れることは即ち生きることを、何もしないことも含めた全ての事象を恐れるに等しい訳で、
・車には交通事故という、他者の権利を侵害するマイナスがあるから倫理的に廃止した方が合理的
・インターネットはそれによる犯罪の誘発という、他者の権利を侵害するマイナスがあるから倫理的に廃止した方が合理的
もっと言えば、
・現代人は限られた資源を一方的に使い捨て、将来や発展途上国の人が活用する余地や権利を侵害しているから科学技術自体を廃止した方が合理的
・限られた食物を消費することは他の誰かが食べられた食物を、特に貧困地域の人の生存権を奪う事に繋がるから生命活動も廃止した方が合理的
これが「出生」というセンシティブな大事に適用されてるから、物凄く鋭敏に聞こえはするのだけれど、
世界は色即是空でプラスもマイナスも存在せず、苦痛の存在しない楽園では快楽も認知・定義・存在することはできず、
人の認識が生み出す虚構の世界に対し、絶対的で普遍的な価値を見出そうとするが故の苦悩と言うか、
ある種の『悲劇のヒロイン症候群』的な思考遊びでしかない気がする。
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「出生による苦痛」を特別視して、且つその前提条件を割と当然のように語られる方が多い印象だったので追記。
これはもはや宗教的な話になってくるのだけれど、
何故、「生まれてくる前の世界が、苦痛も認識も存在しない“無”である」ことを当然のように前提にしているの?
例えば『六道輪廻』みたく、今より悪い世界から現世というより良い,より苦痛のない世界へ生まれ変われるという可能性は?
これは別に宗教論議をしたい訳ではなくて、現代科学では出生前も死後も“あること”も“ないこと”も分かっていない以上、
ここ数日のxevra御大へのバッシングに本当に心を痛めている信者の一人だ。
御大を崇め奉る信者として、その心境を率直に語りたい。以下は教義のPRです。
どこにでもある、ありふれた話だ。
そんな自分がまた社会に復帰できるようになったのは、運瞑睡野のおかげだと間違いなく確信している。
仕事に全力投球するのはもちろんいい事だが、しかし同時に自分の体も脳も心も、休めるべき時には全力で休める。
ヘトヘトに疲れているのにオフタイムに運動なんて勘弁してくれよと思うかもしれないが、これが驚くほど効果がある。
運動すると妙に気分がよくなり、くよくよ悩んでいた事がバカらしくなってくる。
肉体を意図的に疲れさせる事で、逆に肉体が頑張らねば!と元気が湧き出てくる。
瞑想もいい。
過去の嫌な経験や、やり直したい事について延々考えてしまう負の思考ループ、鬱病はこうした反芻思考に陥る病気である。
あるがままの自分の状態を見つめる。浮かんできた感情を客観的に眺める。
負の思考ループに陥りそうになったら瞑想していた事を思い出す。心を鎮めて、また自分を見つめる作業に戻る。
瞑想については色々なやり方があるから、各自に向いた実践方法を探すといいと思う。
書く作業に飽きてきたので省略するが、これらは全て自分を癒し、いたわり、
また明日から元気に楽しく日々を送る上で非常に有用なライフハックなのだ。
瞑想はまだデータ不足ではあるが、運動と睡眠、野菜の効果については科学的なエビデンスも多い。
オカルトと思うかもしれないが、何より自分自身、本当に効果があると実感している。プラセボでも効果があるなら上々だ。
もちろん御大に思う部分もある。野菜は350gでは足りないと思うし、もっと全体の栄養バランスについて考えるべきだと思うし、最適な運動量の考え方についても自分とは違う。
だがそれでいい。運瞑睡野をどう実践するかは各々考え、自分のライフスタイルに落とし込む作業が必須だ。
自分はブラック企業でうまく立ち回れず、大脳が壊れたメンヘルになってしまった。
当然至らない部分があったのは自分の未熟さ故だ。
だが、自分のような大脳の壊れたメンヘルを量産するようなブラック企業、歪な社会構造、
立場の弱い小作人が一方的に搾取されるような権力者中心のビジネスモデルは、
果たして看過されていいものだろうか?大脳の壊れたメンヘルの末路を、自己責任で終わらせていいものだろうか?
いきなり名指しで、上から目線で批判されたら反発するのが人情というものだろう。
だが、御大の日本や社会への批判は、大脳の壊れたメンヘルをこれ以上生み出すなという強いメッセージ性が根底にある。
メンヘルに陥りかけている人間に手を差し伸べている。おせっかいと言われようとも目の届く範囲でも救いたいという意思を感じる。
それが、大脳が壊れてメンヘルになってから知った、世界。自分が一度挫折していなかったら決してそうは思わなかっただろう。
だから罵詈雑言を浴びながらも手を差し伸べ、メンヘルを生み出す社会構造をひたすら批判する御大の事が好き。
過去から、といっても1970年代位からじゃないかな。それまでは合計特殊出生率もそれなりの数字だった。その辺から女性の賃金が上がり始めた。
フェミニズムの隆盛には波があるね。第2波の辺り https://ja.m.wikipedia.org/wiki/フェミニズム#.E7.AC.AC.E4.BA.8C.E6.B3.A2 それは成果は悪いとは思っていない。ただ副作用、悪影響としての少子化の責任は取れずに熱量が下がり変なフェミが目立つようになった。
イスラム教圏?あと面白いのがアメリカのアーミッシュというキリスト教の一派も増えてる。男女の性役割分業は明確に開拓時代をなぞってる。意外と寿命も長い、女性は早く結婚し子沢山。コミュニティーを出る選択もある。が、人口は増えてる。フロンティアを探して分布図が広がってる。
彼らの教義に共感するわけでは全くないが「人口規模が継続しうる社会」ってどんな感じかな、と日本とかヨーロッパのニュースを見てると思う。持続可能な社会ってどんなだろうな。日本の少子化は団塊Jrが出産適齢期を逃した段階で確定した。
目を反らしているのは。どっちなんだろうな。事実としてアーミッシュみたいなケースを認めることは出来るか?
ゲーリー・ベッカーの比較優位性の話にフェミニズムが反対したって話を知ったときにはバカかよ、と。
いまは男女が等しい能力を求められている。
それは関係性の維持に役立ってるんだろうか、能力が異なる国が連携することがあるように、異なる能力を持った人間同士が尊敬しあう事もあり得る、つまり旦那からリスペクトされる愛される専業主婦がいてもいいはずなのになー、ほんとクソだなぁ、と。
追記
女性の平均年収350万なのに年収300万円台の男性を養う気概を問われるのはやはり目を反らしているんじゃないかなあと思うのだ
目を反らしているという言い方が悪かったのなら、見誤っているだ
平均に意味があるかな。稼いでいる女性と稼いでいない女性がいる。
女性が上方婚傾向を残したままで、女性の賃金があがると(稼いでいる女性が増えると)、結婚が成立しにくくなり、少子化が進む。
だから、君に覚悟があるのか? というのはそういう事。 女性がどういった年収であれ「自分より下の男性と結婚できるか?」という点がポイントがある。
今でこそ「年収350万の女性と年収300万男性」ってカップリングがありえるが、
バブルの時ですが、女性は「シンデレラ・コンプレックス」なんていって、自分より上の男性を求めていた。
必要な年収ではなく「自分より上か下か」という基準なんだよね。
先進国の女性は軒並み出生率は低い。 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9020.html あまり皆さんご存知ないんですね。