はてなキーワード: 教義とは
猫を探してるんだけど、挫折して三度目くらいかな、嫌な思いばかりするのでいいたい。
めちゃくちゃ里親応募者の人格やプライバシー、個人情報をうるさく聞いて人をジャッジする癖に、
自分たちは宗教活動、政治活動しててその教義の押し付けをしてきたり
猫の飼育状況に関しては応募者たちよりよっぽどやばい環境で雑に猫管理してたり、まず最初から応募者を「詐欺師か動物虐待人間か?」という疑いの目で見るところから始めて当たりがきつかったり、
こっちはたくさんの猫の世話で忙しいのよとばかりに雑で失礼な態度とられたり(管理しきれてないなら囲うなよ。虐待してるのはそっちだろ)、ひたすらどうでもいい雑談の相手に拘束したり、……かいてて思い出しゲンナリするが、そんなんばっかりで本当にひどい。
そうじゃない団体もいるだって?いるなら教えてほしいよ。どこにいるのそんな「優良」慈善団体。
たいてい関わると体力ゲージガリガリに削ってついでにSAN値も削ってくる。
「すでに一匹いて、マンションの規約で二匹までしか飼えないから、もうあと一匹しか引き取れません」つって話が進んでたのに
唐突にトップのおばはんが二匹いらないかといってきて、断ると「子猫の社会性が育たない!」とかキレたおして譲れませんの一点張りになるとか、なんかそういうわけのわからない団体めちゃくちゃ多い。げんなりする。
大抵、窓口になってるおばさんは条件がゆるくて、トップにいるおばはんがめちゃくちゃガチガチのマイルールもってて仕切っている。
芸能人が名前出して宣伝してた、メディアに露出の多い東京の某団体もそう。
動物を助けてるんだから善人の看板持ってるつもりで選民意識と義憤で活動してるおばさん多くて
「自分は正義の人!だから自分の考えは正しい!やってることは百パー正しい!」ってもうそこの認知が揺るがないから、そういう自己の在り方に疑問のない人達って本当にひたすらめんどうで、
もうめんどくさいからペットショップでネコ買いたくなってきた。
かわいそうな猫を一匹でも減らしたいって思いもあるのに。
生体販売でビジネスやってるペットショップは、この世からなくなればいいと思ってるけど、
ネコの譲渡に関わってくる「慈善活動家(社会からの認証に飢えてる専業主婦のおばさん、おばあさん)」がやばすぎて、いままた何度目かの挫折中。
今飼ってる愛猫の伴侶が欲しくて探してるんだけど、この子を見つけるまでも本当に苦労したし、伴侶をみつけるのにまたこのやばい連中と知り合わなきゃいけないってだけで鳥肌立ってしまって挫折してしまう。
うちの子を譲ってくれたおばはんのことも、我が家では「キ〇ガイババア」と陰で呼んでいる。
エサは市販のものは駄目、手作りもしくはオーガニック食品を!とか、どこそこの政治家はこんな動物虐待に加担している!とか、
私はこんなに身銭を切って猫ちゃんたちを助けてるのよ話を延々2時間人んちに来て話して、出したお菓子に全部手を付けて帰った。
そもそも、こちらはわざわざ野良猫の里親募集に応募して長い取り調べを受け、それでも不幸な猫を幸せにしてやりたいと思ってる側なのに、
あいつらこっちはしりたくもない「心無い人間による犬猫の虐待情報」めちゃくちゃおしえてきて嫌な気持ちにさせるし、
応募してきた人間を自分の好みで判断して譲渡してて、猫の為じゃなくて自分の承認欲求を満たす手段としてやってるおばさんが多すぎていやになる。
猫の世話で忙しくて髪の毛ばさばさ、服も汚くてよろよろ、体臭なんかもう獣のにおい移っちゃってて臭うし(無自覚)、薄汚くて怪しげなおばさんを家に上げなきゃいけない嫌な思いまでしてるってのに、
猫たちはなんにも罪はないが、おばさんの肯定まではしてない。
どうにかしないと私ほど忍耐力のない人たちはペットショップで買って、そんで捨てたり多頭崩壊させてるよ。
条件あわないことも多いけど、保健所への直登録で、希望の子が出てくるのを待つしかないのか。
いたとしても毎日はりついてるおばはんたちがいち早くかっさらっていくんだけどな。
やりきれない。
バロンデッセ(観測気球。ある計画などに対する反応をうかがうために意図的に公表される意見など)について分析。
同会が麻原裁判の再開を求める理由として挙げている主要なポイントは以下の通り。
(1) 「麻原を吊せ」という世論に押された裁判所が1審のみで裁判を終結させたために死刑判決が確定したのは不当である
(2) 一審判決では麻原がなぜサリン事件を指示したのかについての動機が解明されていない。判決の根拠とされた、「リムジン謀議」についての井上嘉浩死刑囚の証言は、後に井上死刑囚自身がNHKに当てた手紙で否定しており、判決の根拠は消えている
(3) 自分が処刑されるということすら理解していないかもしれない松本死刑囚を治療せず処刑するのは問題である
問題は(1)と(2)だ。
「死刑執行が近いのではと言われオウム問題が注目を浴びる中、お調子者の著名人が雁首揃えてその話題に便乗してくるだけなら、まだ笑って済むかもしれない。しかしデマを流し、実際には深い関わりがあると思われる重要人物との関係を明確にしないのは、よく言えば不誠実、悪く言えば偽装。アレフの勧誘等に利用されかねないという問題点と合わせれば、社会的に有害な会とさえ言えるのではないか。呼びかけ人・賛同人になっている著名人たちは、この会に名前を連ねるリスクをもう少し考えたほうがいい」
藤倉善郎氏は、(3)の詐病について言及を避けている。その理由を推測。
(A)教祖は発狂しているが、(B)心神喪失状態でも死刑執行は必要、という矛盾を解消するためには、(一つの解決策として)日本の刑法を改正すれば良い。
第479条
「えーと あ 我々がやっていた免罪符のランダム性についてですが 第12項によると『賭博にあたる行為を推奨していない』と書かれています なので禁止もしていない と解釈することもでき」
「生活教の七戒の一つ、『営利を介した宗教活動を禁ずる』。是非が明記されていないものについては、生活教の基本信条と七戒を参考にします」
だけど、どうもニセ教祖は話についていけてない。
俺たちと同じで、聖書をマトモに読んでいなかったっぽいな。
「え それって矛盾しませんか どうして こんな曖昧な表現にするんですか」
「賭博に抵触するものを全面的に禁止すると、娯楽だったり、保険などに入ることすら広義的にはダメだとなってしまうからです。それは心身の健全さや、生活における安寧を、かえって損なうことになります」
その後も応酬が続く。
あ、このあたりのやり取りは話の構成上、読み飛ばしても何ら支障はないぜ。
「有償であることについてもそうですが、免罪符の中に“転生”という概念を持ち込んでいるのも看過できません。生活教は、原則として“今”を重視した体系であり、確証のない未来を約束するものではないからです」
「ちょっと待って 生活教は死生観について言及していない これは否定もしていないってことで 輪廻転生も解釈次第では」
「肯定も否定もしていないものについては、基本信条と七戒を柱に考えます」
「えー では 死生観については えー」
「生活教の時間概念は、基本“今”とそれに直接繋がる“身近な未来”を重視しています。免罪符は、そのどちらでもないですよね」
「でも 保険を否定しないということは 遠い未来の保証についても 否定していないのでは」
「それは“今”を生きる糧に繋がるという、可能性を考慮した場合においては、です。もし、あなたの免罪符が無料であるか、輪廻転生が何らかの補償を約束するものであるなら話は別ですが」
「うーん うーん」
「どちらも満たせていませんよね? あなたのやり方は、確証のない未来を担保にして“今”を搾取している。明らかな教義違反です」
だけど、付け焼刃ではどうにもならず、教祖に「都合のよい解釈だ」と論破され続けている。
「更に、あなたが免罪符販売の際、『主の降臨日』だとか『主の生誕日』記念だと言っていましたが、これもおかしい」
「え いや あるじゃないですか 世間でも期間限定の催しは 多少の開きは認められているはず それに生誕日や降臨日といったものは解釈が分かれ」
「そうじゃなくて。そもそも生活教に“主”といったものは存在しません。生活教は体系そのものを信仰しているため、神の存在を認めこそすれ、崇拝しているわけではないですし」
え、そうなの?
「え、そうなんすか?」
「そういえば、現象について説明するとき、いつも精霊がどうとかって言ってた気がする……」
「まあ教祖が言ってるんだから、そうなんだろう。どっちでもいいよ」
仮にも信者名乗ってるのに、そんな反応でいいのか。
こうして十数分に及ぶ応酬は終わった。
パッと見、教祖側が一方的だった形だけど、俺たちの目線では違っていた。
そこで、傍聴していた信者の投票によって判決を下すことになったんだけど、信者たちも判断できなかったんだ。
教義がどうのこうの言われても、その場で理解している人間は教祖しかいなかったってわけ。
馴染みのないスポーツ観戦の、解説を聞かされているような状態だ。
みんな、大体の雰囲気で観ていた。
「んー、免罪符を売ってた人がニワカだったのは明らかだし、有罪確定っぽいよね」
「話の流れとしては、そうなんだけど、何か普通の展開過ぎて面白みに欠けない?」
生活教の信者たちは、面白半分で入信しているから、当然この期に及んでも「面白さ優先」だ。
司法国家なんて知ったことではない世界で、道理なんてものは判断基準にはならない。
そのせいで形勢は、変な方向に傾きつつあった。
「でもなあ、オイラあの免罪符にかなり金使っちゃったから、擁護したくないんだよなあ」
だけど、ここでカジマが何気なく放った言葉が、信者たちに新しい風を送り込んだ。
「……ん? 待てよ。あいつが有罪になったら、返してもらえるんじゃないか。免罪符に出したお金」
万札つぎ込んだカジマはまだ分かるけど、小銭しか出していない他の人たちまで賛同している。
みんな、自分たちで金をドブに捨てたって認識はあるけど、実のところ後悔も未練もタラタラだったんだ。
汚水まみれになってまで拾いたくはないが、労せず拾えるなら話は別ってことか。
「投票の結果、満場一致で『有罪』となりました。免罪符を売っていた者は、自治体に引き渡された後、個人的な制裁を受けます」
みんなが、その結果に拍手をしている。
俺も同じ穴のムジナだけど、さすがについていけない。
これで、めでたしめでたし。
……でもよかったんだけど、この話には続きがある。
「生活教ではない以上、私が介入できる範疇を超えています。生活教は他の宗教をダメとはいいませんし、改宗は迫れませんよ」
釈然としねえ。
やっぱり宗教って、くっだらねえと改めて思った。
でも、くっだらねえものほど、人はなぜか面白がりたいのかも……とも思った。
『異端審問』?
なんだ、そりゃ。
俺には馴染みのない言葉だったけど、それを聞いていた信者たちは色めきだった。
「まさか、このご時世に、こんな所で拝めるなんて!」
みんな、その場から離れるのをやめて、再び渦中に集まってくる。
俺はイマイチついていけてないけど、みんなの興奮ぶりを見ていると、ただごとじゃないのは肌で感じる。
気になって、タイナイとカジマに尋ねた。
「ねえ、異端審問って何?」
「オイラも詳しくは知らないっすけど、要は宗教をテーマにした裁判って感じ」
「その目的は様々だけど、今回の場合だと免罪符を売っていたあの人を、生活教の人間ではないって証明するための裁判ってところだろうね」
なるほど、話が見えてきたぞ。
ニセ教祖のやっていたことは、そもそも生活教とは何ら関係のないことだと、その裁判で断定したいわけだ。
信者たち目線では、単なる内輪モメが“異端審問”なんていう物珍しさによって、ちょっとしたエンターテイメントっぽく見えるようになる。
教祖にそんなつもりはなかったのだろうけど、結果として名誉挽回と信者の確保を両立する、ベターな回答を出したわけだ。
もちろん、信者たちにとってはどう結果が転ぼうと、構わない。
ただ、なんとなく刹那的に盛り上がればいい。
こういうのって、あらかじめ予約しておかないと借りられない気がするんだけど。
当日に都合がつくなんて、変な力が働いてないか。
裁判所みたく厳かな雰囲気もなく、みんなが同じパイプ椅子に座っている。
まるで、大人の学級会だ。
「本日、昼ごろ。免罪符を売る、生活教徒が出没。ですが、この者が、生活教を騙る人間ではないかという指摘が入ります」
自治体は中立的な裁判官、および“執行者”として参加していた。
俺たちや当事者はともかく、自治体は余計な仕事を増やされてるから、とばっちりだ。
「生活教、教祖。彼が生活教徒ではないことを証明するものはありますか」
証明するものっつたって、信者の多くが自己申告で成立しているような、ユルい宗教だぞ。
当人が生活教徒だと宣言した時点で、水掛け論にしかならない気がするけど。
「生活教の基本教義が書かれた聖書、『ワーク・ライフ・バランス』の3ページ目をご覧ください」
そんなの、いつの間に作ってたんだ。
「あー、そういえば、そんなのいつも配ってた気がするっす」
「流し読みした限りでは、底辺ブロガーの自己啓発みたいな感じだったから、マジメに読む気が起きなかったんだよね」
この日のためにでっちあげたとかいうわけでもなく、当初から一応あったらしい。
4月4日、京都・舞鶴で行われた大相撲の地方巡業の際、土俵上であいさつ中に倒れた舞鶴市長に、周囲の女性たちが救命活動のために土俵上に上がった問題について、メディアを通じて大きな問題になっている。
医療関係者と報道されている女性が救急救命中、行事が「女性は土俵から降りてください」と繰り返しアナウンスし続けたことが大きくクローズアップされている。
歴史ある大相撲の伝統として、土俵には女性は上がることはできない「女人禁制」の原理原則からすれば当然の話である。
しかし、世間はそうは受け取らなかったようである。この土俵問題を報じているヤフーニュースのコメント欄をザッと読んでみても、女人禁制の制度自体に対する批判が多かった。
ちなみに、私自身も個人的には大相撲・土俵の女人禁制には批判的だし、もっと言えば皇室の男子継承についても改革するべきだと考えている。
ヤフーニュースやテレビの報道番組の中で言われていた批判の中で印象に残ったのは「女人禁制の原則を守った結果、救急救命行為が行われずに、市長が死んでしまったらどうするのか」という論理である。21世紀の現代社会なのに、女人禁制のしきたりは時代遅れではないのか、と。
しかし私から言わせてもらえば、「女人禁制」というしきたりは、しきたりという古めかしい言葉で表現される以上の意味を持つ、「思想信条」に等しいのではないか。
私たち一般人から見れば女人禁制なんて、頭のおかしい考え方そのものに思えるが、大相撲関係者の人たちから見ればそれは教義と同じことなのだ。
大相撲関係者の胸の内を想像してみると、死人が出たとしても女人禁制の原理原則は守るべきことなのだと!
ここで思いついたことがある。中東・イスラエルとパレスチナの中東戦争のことだ。
ご存じの通り、中東戦争の火元であるエルサレムにはユダヤ教とイスラム教、キリスト教の聖地となっている。
ユダヤ教徒によって神聖な存在である嘆きの壁、ムハンマドがここで昇天したと信じるイスラム教徒にとっての岩のドーム、そしてキリスト教徒にとっての聖墳墓記念聖堂の3つである。
この3つの宗教をめぐって、あの地域の人たちは50年以上も戦争を続けている。
私たち日本人から見れば、中東の砂漠の中の地面を巡って殺し合いをするなんて、あの土人どもは頭がおかしいだろうとしか思えないことであるが。
しかし彼ら(ユダヤ・パレスチナ・周辺諸国の人たち)からすれば、「教義のためなら死をも厭わない」と本気で考えている人たちが多いということだろう。
そして21世紀の現在でも、彼らは殺し合っている。