あるとすれば人の数だけ死後の世界はある。
生物学者のユクスキュルが提唱した『環世界』という概念をご存知でしょうか?
同じ空間を認識していても、その認識者の認識機能の差異によって、脳や心に創り上げられる世界は千差万別で、
同じ空間を認識し・生きながらにして、全く異なる世界を認識し・生きているという考え方です。
つまり言ってしまえばこの現世だって、人の数だけ異なる世界があるのです。
まして恐らく、あの世では現世の五感とは異なる認識機能によって観測するのだろうから、現世以上に環世界の差異が大きい可能性も大。
加えて、教祖があの世で観測した世界を教義に記す能力と、教祖があの世の世界が複数あることを観測する能力はまた別ですから、
例えば「あの世には野球部があったぞー!」という教義は真実でも、その教義に従っていれば将来その野球部に入部できるのは真実だとしても、
あの世には野球部以外にサッカー部もあるという事実を認識できたか…というのはまた別の話で、だからと言って野球部の教義は嘘にはならない。
実際以上に科学で判明している事を過大評価した科学的事実云々ではなく、科学技術信仰のような人の信仰自体は自由ですので。
この世に影響を与えてないものが、人の魂(コア)を動かす、ってところ。
先の環世界的な話でもあるのだけれど、例えば、人の認識機能は3次元な訳ですが、超弦理論などでは実際には10次元だそうです。
そして、蟻の認識機能はこのうち2次元だけとも評されるように、人間の認識機能もこのうち3次元だけで、
(嘘か真か、盲目の数学である者ポントリャーギンは「5次元図形を視覚的に思い浮かべることができた」なんて話もありますし)
実はあの世というのはこの世の4次元目以降にすぐそこに存在し、別に魂が動かされるとかそんな大層な話ではなく、
脳による認識機能が失われて初めて認識できる環世界にあの世があると考えれば、何も矛盾しないのではないのでしょうか。
それこそ、その認識機能が特異的に鋭敏な人がいたら、その人が教祖としてそうやって微かに観測できた世界を教義に残した…
なんて仮定すれば、先の複数ある死後の世界を一つと錯覚した件も含めて、諸々矛盾しないことになると思います。
…因みに言うまでもないとは思いますが、私も個人的な宗教観などは貴方に近いです。が、ここはあくまで論理的な思考実験としての話ですのでw
要は「死後の世界や宗教の教義を簡単に否定できる程の認識能力や材料を私達は持ち合わせているのか」って話です。
では、その時喋った私は一体誰なんでしょうか?
面白いですね。凄く興味深いですね。
ただ、麻酔は確か飛行機の飛行原理と同じく、科学的にはその原理が解明されていない事柄ですから、断定的なことはやっぱり不明でしょうね。
単純に済ますのであれば記憶を失った酔っぱらいと同じ状態なのかもしれません。