はてなキーワード: 人智とは
とはいえ、元増田の人生においては今更標準どおりに人生を堪能してみたかった!と思っても学生時代からすでに標準から外れたのだから、元増田は自分の人生に沿って、考えて行動して感じて、また考えて、をするしかあるまい。それが幸か不幸かは本来測りようがなく決められまいが、リア充を最高基準で捉えれば自明に他の人間は全員不幸だ。
DNAでいえば、人類からしたら異例の鎌形赤血球で、マラリアから守られ生き延びた地域・種族もいるし、標準ならいつでも何でも最高と決まってもおらず、何が幸するかは人智の認識レベルでは完全決定的でないからなあ。
なんて書いておいて何だけど、生まれ変わっても私は標準にするよ。
当時はオカルトブーム、新宗教ブーム、終末思想ブームがあったわけでさ。
今から思えば異常だけど、霊能力者がごく普通にテレビ出るわ、超能力者が科学者と討論するわ、夏になったら必ず心霊写真のコーナーがあって、霊媒師が「これは何とかの霊で……」って言ってタレントがまじめにうんうんって頷いてさ。
今から考えたら信じられないほど、「人智には測れない世界がある!」って受容されてたわけよ。
そりゃたいていの人は「そんなわけない」って思ってただろうけど、「ひょっとしたら……?」という空気は色濃くあったよ。
当時オウムを持ち上げてた文化人って、あれは面白半分に取り上げてたんじゃなくて、「科学じゃ認知できない世界があるのかも……」って空気のなかで、大真面目に「修行するぞ!」ってグループが現れて、勢力を拡大してたもんだから、「やべー! ついに来ちゃった?」って思ったんだと思うよ。中沢新一なんかさ。
とにかく当時の時代の空気をなかったものにして「オウムがやばかった」「当時肯定してた奴らは戦犯」みたいに断罪するのはちょっと違うと思うのよ。
というか、オウム的なものに惹かれるのって、多かれ少なかれ大抵の人にあったと思うのよ。
だってオウムは前世少女とかスプーン曲げとか霊視とか、その延長線上にあるもののはずで、それらは国民のほとんどが普通に受容していたものなんだからさ。
さ、さ、さ、さいこ~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!(ドンドンパフパフ~)
めっっっっちゃくちゃ最高!!!なにこれ!!!?こんなことあっていいの!!????さいこ~~~~
はじめからおわりまで、ず~~~~っと、どこめくっても、最高オブ最高!!!最高の極み~~~~!!!!!!
あああ~~~~~~~50000000000000000000回ふぁぼらせてくれ~~~~~~~好きだ~~~~~~~~
神(ここでは作家様のことを指す)天才すぎるよ~~~~~~~天才!!!!!!!
こんな奇跡のかたまりを生み出してくれてありがとう~~~~~~~神に感謝しかねえ~~~~~~~
特に最後のシーンのとこ最高~~~~~~~~~変な声あげて飛び上がっちまったよ~~~~~~~あ~~~~~~最高
どうしたらこんなオチ思いつくの????????神すぎる~~~~~~人智を超えてる~~~~~~~~~~~
このページを読むために稼いだ金と言っても過言ではない!!!!!!至高!!!!!!!!大好き!!!!!!!!
まあ、はしからはしまでぜ~~~んぶ最高なんだけど~~~~~~~~~~~~ほんとこれ何???????
ああああ~~~~~~涙でてきた…この最高すぎるシロモノを受け止めきれねえ…
ほんとに、ほんとにまじでいい、とてもいい、よすぎる、ほんとに心から天才、感謝と感謝と感謝、ただそれだけ
今日まで生きててほんとによかった~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~バンザーーーーーーーーーーイ!!!!!!!
欲深いオタクだから、もう神の次の新刊もめちゃくちゃ楽しみにしてるけど、無理せず、こんなクソオタク気にしないで、好きなように自由に書き続けて幸せになってくれ。頼む。金は払う。
というのが素直な感想なわけだが、このままだとあまりにも理性に欠けるので、これから体裁を整えてメールにして送ります。
取り繕った文章だと冷静に見えかもしれないけど、本当はこんなかんじなのです、神よ。伝わって欲しい、この感動。
どうしようもなくムカついたりイラつく事柄があって、それは理由とかはどうでもよくて単純にそう感じてしまうことだから仕方が無い、という側面がありますよね。
感情に理由をつける場合、解決手段を模索する時のみそれが適用されると考えれば、とにかくどうでもいいからムカつく、と簡潔に述べていればその事についてはこじれずに済むと思っています。
例えば相手が、それ考えは間違いであり、こちらにもこちらの理があるので正せ、というのであれば、両者共々折れるか戦うかするわけなんですけどそこで戦う事を選んだ場合理由が必要になってくるわけです。
あくまで平和的解決、若しくは健全な事態の収束、双方の納得を考えた場合必要不可欠になるものが理由であって、その内容が不健全であったとしてもどういった経緯で不快な感情を感じてしまうのかを道筋立てて説明できなければならないと考えられます。
現象には原因が必ずあり、それは感情にもハッキリとあることだと思うのです。
全てを説明する必要はない、相手がわからないのが悪い、と言ったコミュニケーションの隔絶、対話に対する拒絶等は片一方の確定的な「折れ」として扱うことが出来ます。
現象によるストレスの発生にプラスしてもう一つのストレスを生むわけですがこれには相手にストレスを与え、行動の抑制を促す効果を期待して行う事が大きく、いわゆる野性的な威嚇とも言い換える事ができると思います。
こういった野性的な威嚇はそこいらでよく見かける事ができます。様々な事柄を包括したコンテクストの押し付け等の不透明なルールに基づいた他者を排他する行動は非常に労力が少なく、かつ成功したモデルケースが多ければ多いほどこの「野性的な威嚇行動」を選択する機会は増して行くと思います。
そういった「野性的な威嚇行動」をより多く取るようになった人がモデルケースの少ない個人的かつ普遍的ではない嫌悪感を抱いた時にも「野性的な威嚇」の選択をとってしまうのではないでしょうか。つまり先程述べた通りの対話の拒絶が起こるわけです。
相手にみてとれる「対話の拒絶」状態は片方の健全な事態の収束を望む者にとっては、地獄に落とされたような気分の落ち込みを与えます。また、拒絶された側も相手を拒絶する「野性的な威嚇行動」に移るケースが多いと感じます。水掛け論、論点のすり替え、相手が折れるまで続く無意味かつ徒労を感じる罵倒の応酬、これらは全て威嚇行動です。
先程述べた「威嚇行動」と別の平和的解決とは、結果的に全てを無に帰す事を目指す行動です。また労力に見合った結果に終わる事は、現象における規模によって変動していくと考えられます。
また、解決とは折り合いを付ける場合にもそう呼びます。つまり現状に変化は無く、両者が状態を飲み込む事で解決とする結果です。これには不完全な箇所が多数あり、根本的な原因の解決が済んでいない状態ではありますが、原因の所在が明らかになっている状態にあります。両者に認識の齟齬はあるはずですが、自身の改善を促し問題の起きるキーそのものを消化する可能性をもたらしてくれます。
私が言いたい事は、話す気が無いように取れる一方的かつ単純で攻撃的な発言を見るとクソむかつき倒してしまうし目にすると気分を害するので消え失せてくれダボ共、くたばれ糞袋人間のゴミ、世界中の全てありとあらゆる生命ある物質から愛と称される施しをうけること無くすみやかに死を受け入れ、余生を享受する暇もなく地獄へ無限落下し続けるその様はまるで薄汚い腐った豚の腸、見た者は顔面蒼白になり路端で嘔吐あわや蛙の如く胃ごと吐き出す始末、阿鼻叫喚、地獄絵図、百鬼夜行悪鬼羅刹魑魅魍魎、南無三、神様仏様、織田無道様、御心のままにどうか私をお助けくださいませ、永遠に続くかと思われた地獄の果てに待つは地獄、これが無限地獄なのかと気づく頃には自失呆然五里霧中、意識は散り散りになり脳のシナプスは煙をたちあげ体は爆発四散雲散霧消あっぱれ、さようなら現世さようなら天国永遠とは苦しみの中に見つけたり、想像を絶する、人智の外から来たような苦しみを味わってほしい。よろしく。
増田や2chやTwitterにはバズ狙いの胡散臭い体験談・目撃談が語られる物だが、このエントリは本物だ。信じてほしい。
僕は本来不可視である天使の翼が見れる能力が備わってる(天使は普段人に扮していて一般人には区別がつかない)のだが、マクドに行った時に翼が生えてる女子高生に会った。
その女子高生は他の女子高生(普通の人間だった)たち数人と話し合ってた。
翼は低級から最上級までに品質が別れていて、環境が良くないとされる東京ではまず低級しか見掛けない。自分の地域でも上級をたまに見掛ける程度である。
しかしその翼は最上級だった。僕は思わず唾を飲み、その女子高生に話し掛けた。
「天使さんですか?」
その瞬間、僕と女子高生以外の時が止まった。
「あんたねー……そういう話をする時は、もうちょっと周りに配慮しなさいよ」
「すいません……つい。最上級の翼は珍しくて……」
流石にそう言われた時は僕も少しイラっと来た。
これでも目には自信がある方なのだ。天使の翼検定では一級も取っている。
「いや、どう見ても最上級でしょう」
そう答えると女子高生は呆れた様に指パッチンをして……近くにいたオッサンをハエに変化させた。
「どう?これでわかったでしょう?」
天使は人智を超えた力を持ち、脅威的な再生力・記憶の操作・主観的な時間操作(1秒を1年に感じさせたり)はできる。
しかし天使にもできないことがある。それは"運命"自体への操作と、生物の性質の操作……つまりは、別の生物に変化させることである。
「君も言葉遣いには気を付けなさいよね」
そう、彼女は神様だった。神は女子高生に扮してこの現代社会を見て回っているのだ。
そして翼は最上級なんてものじゃない……僕の眼が最上級より上のものを知らないが為にわからなかったのだが、
我々如きがランク付けすることも許されないほどのレベルのものだったのだ。
僕は今まで、時間の流れを主観的に遅らせて擬似的に止まっている様に見せているのだと思っていた。
が、それは間違いだった。彼女は実際にこの世界の時を止めていた。確か昨日の16時24分くらいの出来事だったと思う。
「うわあ誰そいつ?」
どうしても人智を超えた存在が人類にとって薬になるのか毒になるのかが焦点になってしまうので
AIを題材とする映画ってSFの皮を被ったハートフル映画以外は酷評されるよね?
それって「人間を上回る超知能」を書き手が人間だからこそ、著作者を上回る知能が登場しないっていう当たり前のことを
未だかつてAIを扱うSFは突破できてないことに起因してると思うし、事実、書いてる作品はない。
アイ、ロボットもオートマタもスピルバーグのA.I.も、その他、どれもこれもその点をAIというよりか「ロボット」としてしか見てない結末ばかり。
考えるAIならミスするはずがないような凡ミスを平気で犯して、それで人間の機転が勝ったという。
いやいや、機転で勝負しても本当にAIが相手なら勝てないでしょ。それただのロボットじゃん、みたいな。
とにかく、AIは夢のある題材にも関わらずSFでメインテーマにしたものが人気がなかったりクソ雑魚扱いされてるのはそこが原因だと思う。
チャッピーもあれはAIじゃなくてロボットとのハートフル映画でしょ実質的なメインテーマは。
あれをAI物としてプッシュするのは恥知らずだと思う。チャッピー好きに悪いけど。
PS:
たくさんコメント貰ってありがたい。
紹介されてる映画も今月は忙しくて無理だが来月に観て感想書きたいと思う。
「人智を上回る発想」
これ自体は人智を上回る以上、人間が考え付かないのは当たり前じゃん、と言われればそうだが、
ただ、視聴者がリアルっぽいと感じればこの問題は解決するのだ。
自分がまだしょんべんくさい12歳くらいのとき、2ちゃんねるは魑魅魍魎が跋扈する魔境(自分の中でのイメージ)で、アングラサイトは人智を超えた何者かによって制作されてると考えていた。
インターネット上に一丁前のホームページを建設する人はみんな神様仏様にみえた。
「このホームページの管理人、中学生らしいぜ」どこかのチャットでお兄さんが教えてくれた。
NuBoNBaなるニュースサイト(?)。
「(すげえ!)」
同じ中学生とは思えない情報の密度(そして内容が難しいからよく読んではいない)、またそのクールなページデザインにも衝撃を受けた。
圧倒的な格差を感じた。
「(中学生がこれを作った?)」
あの感動を与えてくれたホームページの管理人は「イケダハヤト」
知らなかった。
涙がでるほど震えた。
あのもやしみたいな男が?
僕は射精した。
本日記は、新海誠監督による劇場アニメーション映画『君の名は。』および『秒速5センチメートル』の結末に関する内容を含みます。
今日、新海誠監督作品『君の名は。』を観て、私はふたつのことを思った。
ひとつは、新海氏の監督作品でまだ観ていない、『星を追う子ども』と『言の葉の庭』を観てみたい、ということ。
もうひとつは、「新海監督って、一貫してるなァ」ということだった。「観てない作品があるのに、一貫してるかどうかなんてわからないだろ」
とは自分でも思うのだが、「一貫してるなァ」と思ってしまったのだからしかたがない。
『秒速5センチメートル』の二人は、なぜ最後に、本作のような形で、出会えなかったのかなァ、ということを考えた。
あの二人を、本作のような形で、出会わせなかったものはなんだったのだろう、『秒速5センチメートル』にあって、
本作になかったものなんだったかな、と考えて、それは、罪悪感とか後ろめたさのようなものではなかったか、と私は思った。
なぜ罪悪感なんかを抱くかといえば、「大切な存在を小さくしたのは、時の流れるままにした、他ならぬ自分だ」と思うからで、
一方の本作で罪悪感なんかを抱かないのは、「大切な存在を小さくするのは時間のせいでも自分のせいでもなく、
人智を超えた力によってそれをスパッと忘れさせられてしまうから」である。
喪失感はあるが、「喪失させたのは他ならぬ自分だ」という後ろめたさはない。
一緒に観に行った友人が、『秒速5センチメートル』で劇中の時間を多く割かれた恋愛のディテールが本作ではほぼ描かれないことを、
「欲をいえばもっと胸キュンしたかった」とか言って少し不満がっていたのだが、私はなんとなく、それはこんな理由じゃないかと思っている。
私の憶測に過ぎないが、『秒速5センチメートル』では、長い「時間」を見せることで、大人になった主人公が罪悪感というか、
後ろめたさというか、申し訳なさというか、そんな感情を抱いているのだと、観客に理解して欲しかったのだろう。
第2部以降、主人公が送る日々を見る観客は、「彼の心の中では彼女との思い出の領域はもう増えないのに、
その他の領域は大きくなるばかりだ」ということがわかる。
彼女の存在の相対的大きさの縮小に慣れようとする彼が、その「慣れようとした」という自覚によって、
思い出や、かつて抱いた強い想いを粗末にしているような疑念や後悔を感じ始めることも。
恋愛のディテールが長く描かれたのは、そんな第2部以降の時間とのバランスをとったからだろう。
一方、本作では、「何か大事なことが色々あったはずなんだけど、思い出せない」という、喪失感だけを観客に共有して欲しかったのだろう。
そのために、観客を「二人に恋をさせたものが色々あったのだろうけど、断片しかわからない」という状態に置くことを選んだのだろう、と私は思う。
本作で、再会を果たす直前の主人公は『秒速5センチメートル』のモードに入りかけている。
それは時間が経つにつれて、「思い出せないままにしている」自分を責める気持ちが徐々に強まるからだろう。
きっと、時間とともに何事かを忘却したり喪失したりすることに対して、罪悪感のようなものを感じてしまう、というのは、
しかし、本作の二人は再会できる。それはおそらく、本作の世界観では「忘れる」だけでなく「思い出せない」もまた、
時間のせいでも自分のせいでもないからだろう。「時間という要素によって、出会えなかった」物語を描いた人が、
「時間という要素がないのなら、出会える」という物語を描いたのだ、と私は思った。
新海監督の2作品、『秒速5センチメートル』と『君の名は。』の対比は、生花と造花を思わせる。
出勤と仕事の違いがわかりますか?ってきくと、たいていの人はバカにすんなみたいな感じで説明する。でも実態としては、なぜか出勤を仕事と捉えてるような人が多い。出勤している=仕事している、というような認識の人だ。会社に居さえすれば仕事したことになると考えている人は周りにいくらでも見つかるだろう。
そういう人でも冒頭の質問にはきちんと答えられる。出勤は職場に到着すること、タイムカードを押すこと、仕事は事務なら事務、営業なら営業として業務をまっとうすることだと。
例えばコンビニの店員のように、出勤しなければ仕事のしようがない職業もあるけれど、仕事は必ずしも出勤とイコールではない。直行直帰が明確に許可されている営業のような職種でなくとも、出勤せずにできる仕事は世の中には多い。出勤したからといってそれが仕事の一部になっているようなことはあまり多くないとも言える。
その仕事は何のためにやっているかというと、商売を回すためだ。電化製品を開発して売る、という商売を考えたとき、開発する、製品を売り込む、伝票管理や法的書類の作成などの事務作業を行う、といったことをやらなければいけなくなる。そのために開発部、営業部、経理部といった部署を設けて、その中で働いてもらう人を雇用し、開発部所属なら開発という仕事をしてもらうわけだ。
その人にやってもらいたいことは開発という仕事であり、備品の使用のために出勤してもらう必要はあるかもしれないが、出勤それ自体に価値はない。会社としても、法的にはともかく心情としては、対価を払いたいのは仕事に対してであり、出勤に対してではないだろう。
会社においては商売が至上命題としてまずあり、その実現のために必要な作業が仕事として腑分けされ、それを実施してもらう人を雇用する。職場でなければできない作業であれば出勤してもらう。これが大原則だ。
ところが、その肝心の商売を忘れて仕事しか見えてない人が居る。悪くすると出勤しか見えてない人すらいる。それが別に経営者ではなく雇用されたいち労働者であるのなら非難されるいわれはない。労働者は開発や営業は事務の仕事をするために居るのであって、経営をするために雇われてはいない。会社の商売について考えるのは経営者の役目であり、それが経営者の仕事である。
さて、では仕事ができる人は高給取りになれるだろうか。また、そうであるべきだろうか。
給料は会社の儲けから支払われる。儲かっていない会社が高給を出し続けるのは難しいだろう。いくら仕事のできる人がいても儲かっていなければ意味がない。完璧な書類仕事を迅速に行える経理や、高性能で安価で安全な電化製品を実現できる開発者がいたところで、営業がいなければ売上は上がらず、つまり儲からない。営業がいても、その製品を欲しがる顧客が圧倒的に少なければやはり儲からない。潜在顧客は見た目がダサいとか巨大すぎて部屋に置けないとか消費電力が多すぎるとかいった様々な要因で減っていくので、もっとも費用対効果の高い施策となるのは何かを見極め、例えば見た目が最重要で他の欠点は当面無視できると裁定するようなマーケティング部の働きによってようやく商売が軌道に乗る。その儲けをどの部の誰にどのように分配するかを考えるために人事評価を行う必要がある。
10年ほど経ってすっかり大所帯となると、各部署の人間は自分の仕事にだけ邁進しても回るようなシステムになっている。開発者は突然の電話対応に邪魔されずに開発に専念できるし、経理も必要に応じて外注やクラウドサービスを使っていて引き継ぎも簡単になっている。このころには人事評価で考慮すべき事柄の膨大さが人智の及ぶレベルではなくなっており、公正さは失われ、社内には不満が溜まっている。会社はより明確で納得感のある評価を行うため、誰にでもわかるようなことを重点的に採点するようになる。いわく、遅刻はたとえ1秒であっても減点評価となる、などだ。
仕事の内容が評価されず(評価されていないと感じて)、バカでも指摘できるところだけが給料に直結し始めると、仕事のできる人はとっとと辞めていくだろう。1秒も遅れずに出勤することを自分の強みにしたいなどと、仕事ができる人なら思わないからだ。
商売の良し悪しとはあまり関係ない勤怠のようなものを重視していれば、勤怠は優秀だが業績には貢献しない人が出世ないし昇給していくことになる。業務の出来不出来は二の次だ。その波が経営者すら飲み込んだとき、自身の仕事、すなわち商売について考えることを放棄して、社員全員が皆勤賞を取るにはどうすればいいのかといったことばかり考えるようになるだろう。
お父さんおじいちゃんあなたたち2人には共通の欠点があります。2人とも奥さんに逃げられそのくせ今でもその女性に未練タラタラ。
2人智也が女性の肝心の部分が分かっていないのよ。この先老後のことを考えてみて。1人で寂しく生きていくつもり。そんな孤独で不幸のお父さんとおじちゃん思った私はどうなるの。
2人ともどうやったら別れた奥さんを取り戻せるのか5輪仲良く暮らすためには何をすべきかそれがこの合宿のテーマよく考えてね。
大平が語る波楽しいあの思いでは側の話太一が語る母親の味は様プリン。パトリシアはイギリス南部のメッカ亀屯家のお嬢様でなんていうか気品に満ち溢れていたと言う話
冥界の王プルートの妻、プロセルビなはとてもやきもち焼きでプルートの恋人だった様子横の香りのする草に変えてしまった。でも本当はプロセルピナは2人の関係に行く嫉妬たわけでは無い。
プルートの端プロセル大日方とミンスは同じ要請国の出身でミンスは12名海外要請国と行き来することができた。明子は要請国の香りを運びプロセルピナ彼女の家を書くたびに嫌ます望郷の念に駆られて言った。その思いを高めるためにミンス奥さんに変えてしまおうがそれでも来ないきれず彼女はとうとう故郷に帰ってしまった。
プルートの端プロセル大日方とミンスは同じ要請国の出身でミンスは12名海外要請国と行き来することができた。明子は要請国の香りを運びプロセルピナ彼女の家を書くたびに嫌ます望郷の念に駆られて言った。その思いを高めるためにミンス奥さんに変えてしまおうがそれでも来来来れず彼女はとうとう故郷に帰ってしまった。
物の本にもミントの香りには思い出をより強く保つ好きな奴があるとされている。母さんが突然許すに帰ってしまったのは13の女道楽のせいではなく。
美しいだろうこれが日本の秋だよ。これが百合子の故郷の秋なんだ。でもおばあちゃんの故郷はミントの香りをするところだったんだ。
と言うわけでここまでで一環が終了。一家の時点で男ってこと言うわけでここまでで一環が終了。一環の時点でここまで情報量があったのかとびっくりしますね。あとこの作品が初めて出たのは1989年だそうです。私まだ生まれてねーじゃんすごいなぁ
>俺は今日を生きて、明日を見て、その上で未来を見て、家族まで見る甲斐性があるんだよ。甲斐性無しにはわからんだろ。
何勝手に人の言ってることパクってんだよw
お前は50代のことしか今まで言ってなかっただろw
言い負かされそうになったらサラッと自分の主張を変えるのがお前の世渡り術かw
それがお前の成長してきた成果かw
あと隕石落ちるとかーみたいなこと言ってるけど実際に人智を超えるような現象っていうのは起こり得ることだからな?
お前は3.11を予想していたのかと
同時多発テロの予想もできていたのかと
起こってしまったことでも起こる前に言えば荒唐無稽に聞こえるだろうが
現実は小説より奇なり、可能性が許されている限りは全てのことが起こり得る
AIはただの1例であって日本という1国が今後数十年の内になくなる可能性も全くの0ではねーから
災害が起きて1万人死ぬよりもむしろ可能性としては高いわ、災害の方は運悪く起こってしまっただけで
あーお察しお察し
やってあげてるって感覚が既にズレてる
全部自分のためだろーが
毎日怯えて生きてろよ
囲碁のルールは、「周囲を全て囲まれたら盤上から排除される」これに尽きる。他の全ての細かいルールはこの派生に過ぎない。
その上で多くの地を囲えば勝ち、というだけのゲーム。
そのシンプルさから生じる多様性は、限られた素粒子が集まり、わずかな規則のみで形作られる現実世界の縮図と言える。
一つ一つの石は単独では命を持たない。集まってある特殊な形態を持って初めて「生きる」ことが出来る。
それはまるで、一つ一つの細胞が寄り集まって一つの生物と成るさまを見ているかのようだ。
つまり、囲碁を解明するということは、この世界を解明するのと同じことなのだ。
その意味で、人工知能が人間に将棋で勝ったのと囲碁で勝ったのでは価値が全く違う。
しかし、人工知能には弱点もあった。石塔しぼりという中級者でもわかる手筋がわからなかった。
人智を超えた強さを持ちながら、素人レベルの手筋が理解できない。
不成や入玉という特殊ルールに対応できなかった将棋とは質が異なる。石塔しぼりはシンプルなルールからはみ出したものではない。単に人工知能が気付けなかっただけだ。
人に簡単に出来ることを人工知能にさせられないのは、人自身がなぜそれが出来るのか、その仕組みが分かっていないからだ。
人工知能を知ること、そして囲碁を知ることは、人自身を知ることに帰着する。
ディープラーニングだけでもここまでの能力が確認できたわけだが、それ以外にまだ人間にしか持っていない、簡単なシステムがあるのだろう。
それを理解し、人工知能に導入すれば、さらに大きなブレイクスルーが起きる。
そのような大きな夢を見ることのできる、貴重な機会だった。
人間には勝ったが、まだ強化を続けて欲しい。
人でなくて良い。
昔から、他人が不調なのを見聞きするとちょっとタイムラグを置いてから釣られて不調になる。なんなんだろう。
「頭痛いので早めに上がります」と先輩が帰った後、1時間後ぐらいに自分もめっちゃ頭が痛くなるとか。
「自転車でコケて左腕怪我したんですよ」と後輩が言っていた翌日、朝から左手がズキズキするとか。
「おなか痛くて」「熱が」「吐き気が」「切り傷が」「打ち身が」
100%ではないんだけど、何か他人の不調の欠片が頭に残ってしまうと感染する。
印象に残るとダメな感じ。
インフルエンザにかかる人が増える時期は、インフルエンザにはかからないくせに
「誰それが倒れた」「熱が○度あるらしい」という会話を聞くたびに熱だけが何度も出る。
学校では、保健室に行く奴や早退する奴がクラスにいると一定確率で自分も後追いをする形になるので、
便乗しようとするずるい奴扱いをされたり、仮病扱いされたりしてきた。
テレビからでも感染するので、人が怪我したり病気になったりしてる映像や病気を紹介する番組が苦手。
ホラー映画は自分からみることはないけど、たまにCMやザッピング中に目に入ってしまうと、
人智を超えた症状を自分の頭が再現しきれなくなるのか、シンプルに寝込んでしまうこともある。
呪怨かなにかのCMを深夜アニメの時間帯にやってた時期はしょっちゅう寝込んでしまってひどかった。
明らかに他人から影響されていて、ただの思い込みだろって自分でも思うんだけど、痛みや不調は現実に起こってしまうので無視できない。
楽しみにしていた予定をそれに潰されたことも一度や二度じゃないのだけれど、どうも他の人は自分ほど他人に影響されたりしないらしい。
遅ればせながらゴジラを見てきた。作品の感想は事前の期待が大きかったせいもあるがイマイチ。その理由を自分なりに一晩考えて出た結論が「人間にとって都合のいい存在としてゴジラを描いてしまっているから」。1954年に公開された初代ゴジラは明確な反戦・反核のメッセージを含んだ作品であり、水爆実験でよみがえったゴジラは、人間がコントロールできない「核兵器」という科学技術を使うことへの批判として描かれている。
人類が調子こいて水爆実験連発。その衝撃によりゴジラが目覚める。
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ゴジラを殺せる可能性のある、水中の酸素を破壊するオキシジェンデストロイヤーという化学兵器を若い科学者が発明。
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しかし博士はその兵器が戦争に使われることを恐れ、使用を拒否。
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ゴジラをぶっ殺すか? 強靱な生命力を研究対象にするべく生かすのか? 議論が割れる。
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結局、オキシジェンデストロイヤーでゴジラ死亡。博士は兵器の悪用を恐れ設計図を破棄し、自らの命を絶つ。
ゴジラは60年前から反戦・反核のメッセージとともに、際限のない科学への信頼に対する警鐘も鳴らし続けている。しかし、ラストでゴジラを倒すのは核兵器よりも強力な化学兵器であり、これは結局諸刃の剣である科学の呪縛から逃れられない人類を象徴的に描いている。「人類が核実験を続ける限り、第二第三のゴジラが現れるだろう」という最後のセリフは今もって有効だ。これがハリウッド映画であれば、「核兵器でも死なない大怪獣を倒した科学技術は素晴らしい! 人類の叡智バンザイ!」的なハッピーエンドになるはず。
ネタバレになってしまうので詳細は避けるが、なにが言いたいのかというとゴジラは大自然や神様といった人間にとってアンタッチャブルな概念の具現化であり、人類のために戦うヒーローになってしまっては興ざめということ。この辺はおそらく、神様が世界と人類を想像したというキリスト教的な欧米の世界観では理解しにくい存在なのかもしれない。それらの文化圏では神様とはこの世界のスタートとゴールを設定した絶対者であり、人類を正しい方向に教え導く役割を担っているのだから、試練を与えつつも最後にはハッピーエンド(人間にとって都合のいい)が約束されていなければならない。
その点、日本では不可侵な存在としての神様を描くのが得意なようで、例えば「もののけ姫」のシシ神さま。あれなんかは完全に、人類ともののけの人智を超えた存在として描かれている。シシ神さまにとっては森を守るアシタカも森を開発しようと企むエボシ御前も関係なく、ただ目の前の者に死と生命を分け与えるだけ。間違っても「お前は森を大切にしているから褒美として寿命を10年延ばしてやろう」とも「お前は森を破壊した罰として寿命マイナス10年!」とも言わない。人間の都合ももののけの都合も一切勘案に入れず、己の職務に忠実なだけだ。それは、どんなに弱者や善人が住んでいても地震や台風が発生するときは容赦なく発生するのと同じこと。つまり、本来自然や神様は人類の都合など考えない、極めて不条理な存在であるわけだ。
もうひとつの例としては、「ドラゴンボールZ神と神」のビルスさまも同じ。「プリンが食べられないから地球を破壊」「寿司がまずかったら地球を破壊」「ジャンケンに負けたら地球を破壊」といったセリフのオンパレードは、神様の不条理な一面をこれ以上ないくらいよく表している。初代ゴジラにとっては自衛隊であろうと戦災孤児であろうと自らの進路に存在する者は容赦なく踏みつぶすだけだ。
そんな人類の都合など考えないゴジラを期待して見に行った自分からすれば、なぜ98年のエミリッヒ版ゴジラがあんなにも酷評されているのかよくわからない。今作では日本の原発事故を絡めてはいるが、それもイマイチ批評性に欠け(というか単なる方便)、中途半端な社会派作品に堕してしまっている。
一つ興味深い点を挙げれば、人類がゴジラを「撃退」もせず「征服」もせずに「共存」の道を選んだこと。(続編のためにはゴジラが人類に撃退、征服されてしまっては元も子もないのだが)。これまでどんな凶悪な宇宙人も自然災害も撃退して乗り越えてきたハリウッド映画、これまで世界の警察を自称して世界中に西欧的価値観を広げてきたアメリカ。そんな、アメリカという国家が共存の道を選んだこのラスト、実はなかなかにレアなのではないかと考えている。メインキャストで唯一の東洋人である渡辺謙が発した「愚かな人間は自然を征服できると思っているが、そんなことはできない」というセリフは、「自然や子どもは管理されるべき」といったキリスト教の教えとは180度異なる。今回のハリウッド版ゴジラは反戦・反核のメッセージを含む初代ゴジラとは異なり、アメリカの外交の変化とリンクした作品として捉えるとまた違った一面が見えてくる。