はてなキーワード: ポリティカルとは
インターネットで「(90年代のオタクネイティブは秘していたような、女性に対して暴力的な言語表現が一般化してしまった」理由として、
00年代以前のインターネット社会では「女性がマイノリティだった」というのが大きいのだと思う。
女性嫌悪的な記事や、『ま~ん()』『腹パン』『糞女』などの『女性に対する明確な差別的言論』やセクシズムに溢れた表現が、
住み分けされることなく偏在し、男女双方の性嫌悪を再生産し続けている、という現状を重く捉えるためである。
後半、ポルノメディアのゾーニングについても触れるが、弊害が大きいのはむしろ、差別言論のほうであるように感じる。
かつてアングラサイトだった2ちゃんねるは、まとめサイトの存在によって「公」空間に引きずり出されてしまった。
ソース元となる「ニュース速報系」は、かつては「極端な思想同士が延々とプロレスをしている」一元さんお断り空間だったが、
雑談系板の分離、アフィリエイト排除のための板新設などを繰り返した結果、かつての「喪板(=モテない男性文化)」的な、
非モテ・ミソジニー文化が幅を利かせる空間として先鋭化した。客層をターゲットした広告が配置され、結果として女性差別と、男性向けの性表現で溢れかえる。
新たな住民が流入し、育ち、巣立っていくサイクルの中で、一般的な女性が見たら嫌悪感を持つ空間が醸成されてしまったのはほぼ必然といえる。
たまに誤解している女性がいるが、これを「日本社会の差別性の象徴」と捉えるのは正確ではない。
「もともと限られた男性たちが醸成した空間が、外部者である女性の目に触れるほどに一般化してしまった」が正しい。
なお、ここまでの推察は、既にあるまとめサイトをどうこうすべきという話ではなく、「結果としてやむを得ず現状がある」という過程の話である。
多くのインターネットサービスが提供しているのは、異文化衝突に対する、技術的アプローチによる解決だ。
Google的な広告モデルは、個人需要に対して徹底的にパーソナライズされる仕様になっている。受け付けない広告は、右上などに表示された×ボタンを押せば表示を止められる。
例えばtwitterは本来TLがデザインできる空間なので、攻撃的なタイプの「弱者男性(女性車両反対)」層、ツイッターレディースなどの、
IS○S的な用途は、本来、サービスのデザインに反する。「嫌いなものはブロックして見ない」が正しい使い方となる。
また、facebookは年々ポリティカルコネクトネス的な締め付けを強めているので、猥雑なインターネット空間が受け付けない層はそちらへ行くのが妥当、という側面はある。
とはいえ、情報リテラシーが高い、あるいは自制可能な人間ばかりでない。
そして、往々にして人間は、自分の空間をデザインすることではなく、差別者を批判することではなく、
『嫌いな』表現を攻撃する行為に労力を割いてしまう。現状、技術的手段が有効に活用されているとは言いがたい。
性差別を受ける体験から性嫌悪を強め、あらゆるセクシズム的な表現に対するアレルギーを発症する人は多い。
社会における表現の自由は「人権の総量」と同義であるといって過言でない。
表現規制が基本的人権の侵害に及んだ場合、社会的人権の確立が十分でない子供、そして次に女性が権利を奪われる。
この例は、事実上の男性向けポルノ規制法である青少年育成条例周辺の改正案が、全て、「子供の権利を奪う」方向に進んでいることに顕著だ。
焚書を及んだナチス・ドイツや、青少年健全育成法との内容的類似が指摘される、戦前の国家総動員法が物語る通りである。
一部東南アジア国家では強硬な規制政策が取られているが、独裁政権が横行し、「エロ本を買うより女を買うほうが安い」といった状況だ。
タイでは軍事政権に対するクーデターが起きたものの、短い平穏のあと、名君の死による大変な混乱が起きているのは周知の通り。
さて、「表現の自由」論について多くの行数を割くことは、ここではせず、過去や他国の先例に触れるに留める。
論じたいのは、見た目のイージーさに対して重要なリスクを持つ「社会法による規制」に訴えず、
女性が差別表現に傷つかないネット空間を用意するにはどうしたら良いのか、という部分だ。
まとめサイト女性の目に触れる、ということは、扱われるトピックに、女性にも共通する需要があり、
一般メディアのセクシズムに不満が出る、というのは、逆に捉えれば「セクシズムが除外された空間に需要がある」ということだ。
「クリーンな」と書いたが、女性向けキュレーションメディアの多くは
女性の趣味嗜好は細分化しやすいので、隙間需要はおそらく多い。
女性向けで、かつ、現行のまとめサイトに近いものとして「ガールズちゃんねる」「GIRL'S TALK」などがある。
まだ十分に一般化していない印象があるが、これらは、需要を上手く捉えたサービスだと思う。
ところで、女性向けキュレーションメディアの大半が「セックス」「恋愛」を全面に出している。
セクシズムこそが人を惹きつけ、湯水のように金を出させることは否定のしようがない。セクシズムは男性のみならず、女性にも深く根付いている。
社会的な建前が排除された女性向けメディア、「ガールズちゃんねる」「大手小町」あたりを見ても、女性の女性による女叩きは溢れかえっている。
それらを除外したサービスを作ったところで、収益を上げづらい(作るメリットが薄い)であろう、という推論は成り立つ。
視界内からセクシズムを排除したいならば、自らをゾーニングし、徹底的に安全な場所に引きこもる他はないだろう。
ここまで敢えて触れなかったが、女性向けのネット文化は、存在しなかったわけではない。
日本は性文化においても、女性への「slat shaming(ふしだら侮蔑)」的感覚が強く、また、女性のほうが趣味が細分化しやすい事情もあり、
女性向けの性表現は自ら「隠れている」のが実情だ。学級会文化、と揶揄されるように、同調圧力が非常に強い。
一般化する前の、かつてのオタク文化に近い傾向を持っているとも言える。
ただし、女性が男性向けの性表現に嫌悪感を抱くのと同様、本邦の男性も女性向けの性表現に嫌悪を抱く。
あらゆるネットサービスで問題となる、「腐叩き」に顕著だが、「腐叩き」が問題になっても、「女叩き」が問題になることは少ない。
「マイノリティ」の弱みだが、女性のインターネット利用は既に一般化しており、そもそも男女の大きな人口差はないので、人数的にはマイノリティではない。
「最近の腐女子がやりすぎている」のではない。男性向けの性暴力表現の一般性を考えれば、表に出てくるのは至極自然な現象だろう。迫害するほうが不当だ。
男性性への嫌悪から、女性差別表現と共に氾濫している男性向けポルノの規制を求めれば、女性向けの性表現も規制を受ける。
「ミラーリング」に必要なのは、個別のキンタマ潰しでもなく、ポルノバッシングでもなく、女性向けのポルノを、公空間に氾濫させることだと思う。
なお、筆者は少女の表象を好み、男性向け文化を主に嗜好してきた性別女性だが、
BL愛好女性の語りが好きだし、女性向けのゴアな表現の行き着く先がどのようなものなのか、強い興味がある。
同性が表象によって「性的消費」されることに抵抗はないし、異性に対しても特にない。
個人をイリーガルに侵害しない範囲に限るが(実在者の加害行為を扇動する気はない)、文化としては、更なる先鋭化に期待する。
攻撃的に、あるいは非攻撃的に、「自粛を求める」というものだ。何故書かなかったか。そもそも無理だと考えるからだ。
殴ったところで、他者加害傾向の強い人間は「反応があった」事実に溜飲を下げるだろうし、
攻撃的でない人は傷つき、嫌悪ないし憎悪を増幅させる。前向きな進展が起こるとは考えづらい。
空間のパーソナライズという形での技術的解決は更に模索されるべきだが、人間はそも身勝手で、経験外の事象への想像力を欠いた生き物だ。配慮を求めるのは非常に難しい。
一般社会では許されないような表現が溢れかえるインターネットの「公空間」だが、「すでにそのように形成されてしまった空間」において、性差別の欲望に抗うのは難しい。
現在の本邦において、男性も女性も、「男性嫌悪」「女性嫌悪」を内在させている。
「女性向け」のインターネット空間では、女性は性表現への渇望を隠さないし、お行儀よく振舞っているわけでもないし、男性を「消費」しもする。
最初から女性がインターネット空間でマジョリティだったとして、「自粛」などできる筈がない。これはそういう問題だ。
想像不可能な事象に人間は「配慮」なぞしないし、想像力の欠如は、体験することによってしか補われない。
男性にも、目に見える範囲で同性の表象が理想化され、客視され、消費される体験が必要なのだと思う。それこそが戦うこと、ミラーリングになる。
裏返しに言えば、ときに男性のオタクが憧れるように、「憧憬され」「求められる」のは、「女性」の特権ではないはずだ。
相互に消費し、消費され尽くす経験を経て、住み分けやお互いの線引きを探るか。社会法による規制という形で表現の自由、幸福に生きる権利が奪われることを望み、
共に滅ぶことを選ぶか。
「女性の生きづらさ」を改善するためには、空気を、構造を変えなければならない。
それは、「黙らせる」のではなく、自らが声を挙げ、表現することによってしか実現されない。
追記:本稿で取り扱いたかったのは、主として「女性に対する差別言論」が全く住み分けされない(されづらい)現状だったのですが、
表現上、ポルノメディアとの区別が曖昧になっていたので、一部をリライトしました。
ポルノメディアはかなりの割合でsexismを含むと認識していますが、それが単純な女性差別であるとは捉えていません(17:38)
http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20161020/1476918294
NYに住んでる者だが、日本で話題だったので先週末日曜日にタイムズスクエアのAMCで観てきた。
別に会場は終始いたってずっと静かだった。ゴジラが下に火を吐いたシーンは迫力があったが、それ以外はだれも興奮していなかった。アメリカ人は普通ちょっとでもアガるシーンがあればオーディエンスがすぐに反応する。手を叩いたり、大笑いしたり、Hooo!と叫んだり。特に公開初週の週末ではなおさらだ。それがほとんどなかった。最後申し訳程度に拍手がパチパチあったくらいだ。
後ろに座っていたアメリカ人二人組は明らかに終始失笑していたし、トイレに立った際に出会ったアメリカ人は「ゴジラ(第一形態)がなんだかweirdだね」くらいの感想だった。子供は「ママ、ゴジラが全然出てこなかったね」と言っていた。
個人的な感想としては「よくこんな3流の映画で日本全体盛り上がれるな」ということだった。まあ日本にしてはマシな作品を作ったということなんだろうが、それでもあの盛り上がり、持ち上げは異常だ。
まず演技が下手すぎる。最初のだらだら続いた閣僚内の会議のシーンは学芸会かと思った。あの防衛大臣みたいな女性の間抜けなしゃべり方や、菅直人チックな首相役のおっさんの過剰な決断力のなさの演出、こういうキャラがいた方が面白いんだろと言わんばかりの半沢直樹に出てたへこへこするおじさんのキャラ作り。ギャグ映画としてみていいのかシリアスな展開を表現したいのかさっぱりわからなかった。アニメキャラにしゃべらせらば違和感はないのだろうが、「そんなこと普通言わねーだろ」というセリフと大げさな演技オンパレードで、小難しい単語を連呼すれば緊迫感がでると思っている演出と相まって、チープさがすごかった。なんか映画観た後で批評を調べたらあのあたりの前半の会議のシーンを「リアリティのあるポリティカルサスペンス」などと形容しているようだが、失笑ものだ。。24やHouse of Cardsの政府内のやりとりなどと比べて欲しい。
そもそも、「国にとって重大事が起きた時の政治の決定力のなさ」を描きたいのかもしれないが、そんなの東日本大震災の時に見たばかりなのでなんの新しいメッセージもないし、見ていてちっとも面白くない。あれだけ前半時間を使って視聴者にストレスをためさせたくせに、全然それを映画後半のシナリオで解決させていない。閣僚たちが死ぬシーンももっとちゃんと描くべきだし、いっそ国会を木っ端微塵にすべきだった。主人公の矢口の立ち位置も中途半端で、これまでの決断力のない日本の政治システムを変えていく毅然とした態度があったかというとそうでもない。むしろ、矢口チームがギリギリまで粘ったが結局国連に核爆弾を落とされてしまった、東京は再び焼け野原になった、これを機に本当に日本は変わらなければいけない、という展開の方が、中途半端にゴジラを停止させてしまうよりメッセージ性が際立って良かっただろう。
あとCGがひどかった。第一形態のゴジラは敵の雑魚キャラかと思ったし、笑えた。街が壊されていくシーンのCGも、ボートとかCG感丸出しでチープさがすごかった。予算がないのだろうが、それならもっと夜のシーンを増やすとか、工夫できる余地があったはずだ。最終形態になって夜に大暴れするシーンは格好良かったから、もっとああいうシーンを増やすべきだった。血液凝固剤を使ってゴジラを止めるシーンでは、絶対にゴジラがまた振り切って動き出すと思ったが、なぜか米軍ミサイルなんかよりよっぽど威力のないであろう電車爆弾で都合よく倒れ、倒れたところに都合よく潰されず待ち構えていたポンプ車で放水開始し、それを都合よく口を開けたゴジラが都合よくチューチュー吸い続けて、結果止まってしまった。劇場全体が「えっ止まっちゃったよ」感でいっぱいだった。
あとなにより全体的なプロットの未完成感がすごかった。例えば今年DisneyのZootopiaを見たが、最初から最後までの1シーンも無駄がない。最初に出てきたなんでもないシーンも、実は伏線で、映画の最後の方にきちんと回収され、いささか伝統工芸品かのような緻密な構成美を感じさせてくれる。対してシン・ゴジラは、「今のやり取り必要あった?」と思う部分だらけだ。教授の調査を記者みたいな人に依頼するシーンとか、必要か?そもそも教授の動機や背景など最後までよくわからずじまいだし、石原さとみ役の人物の背景の説明が弱いから感情移入できず、最初から最後まで終始全ての言動が突飛で違和感しかなかった。
シン・ゴジラの真価は、これから広がるであろう一見さんによる批評の中にこそ有る。
つまり、「満点からマイナスされうる特撮映画」が帰ってきた、と言う意味だ。
1週間ほど前に話題のゴジラを見に行った。面白かったは面白かった。
が、事前ハードルが上がりすぎていたのか、粗(に私には見えた)の部分が結構気になってしまい、正直世間で言われている程に「大傑作」にはあまり見えなかった。
確かにその通りで、それは欠点だ。
それは、長年特撮ファンが受けたくても受けられなかった指摘だ。
「まあ、子供向けの怪獣映画にしては良く出来てたよね」という感想からの脱却。
「対象年齢を考えても酷い」とか「大人の視聴に耐えうる人間ドラマ」とか
そういった「オヤクソクを共有している視聴者」向きの話じゃない。
つまり、「ファインディング・ドリーと比べて」とか
だからこそ「大傑作」であり、それ故に「まあまあ面白かった」という感想が併存しうる。
最近は「ゼロからプラスして積み上げる特撮映画」しか無かった。
「(全体の質はハリウッドと比較しようも無いけど)特撮部分は良かった」
「(全体の質はハリウッドと比較しようも無いけど)ドラマパートはヒドイ」
みたいな「邦画の予算規模で制約の多い特撮映画において」という限定が常についていた。
粗はある。荒削りでもある。
それでも恐らくは邦画の現場における特撮映画のベストを尽くした映画だと思う。
それは特撮ファンなら邦画の環境に絶望せずに希望を見いだせる一筋の光であるし、
一般人から見れば、「怪獣映画だけど面白いらしいよ」と観に行ける映画になってる。
「日本の特撮映画として100万点」のシン・ゴジラで終わるならソレまでだ。
でもきっと「世界の映画の中で70点」のシン・ゴジラだと評価してもらえる。
怪獣を通じて、日本の災害を正面から描き、国のあり方をポリティカルな視点から捉える。
世の中は稼いだものが正義で、投資してもらえるのは評価された作品だけだ。
その意味で、きっと一般人からみても、投資に一口のれる出来じゃないだろうか。
ダシに使ったので、不満点に共感しつつ、違う視点を提供しておくよ。
映画観に行った後のファミレスでダベってる感じで読んでもらえればと思う。
(人は感じたことが全てであり、反論しようとは思っていない)
主人公の矢口が会議中に巨大生物に言及するのだが、この時点で矢口がそう判断に至った材料は精々ネットの動画程度であり、あそこでアレを「生物」と考えるのはかなり不自然だ。
シン・ゴジラの主人公格である長谷川博己演じる内閣官房副長官の矢口蘭堂は、
竹野内豊演じる内閣総理大臣補佐官(国家安全保障担当)の赤坂秀樹から
「会議は結論ありきで進んでいる。かき回すな」と助言を受けている。
また、エレベーターの中で、立場が上の人間に対して「楽観やこうあって欲しいという願望が、先の大戦で何百万人も殺した」とワリとハッキリ苦言を呈している。
矢口は生物と断定しているのではなく、「巨大生物の可能性を俎上に載せないのはマズイ」と判断しているのではないだろうか。
(ネット上の映像がフェイクであれば、それを作った人間の動機がテロで無いことを確認するまで安心しないタイプ)
ニュース映像での「巨大生物の尻尾」について、ニュースの真偽を問うシーンがないのは映画の都合だと思う。
ニュースの第一報だと見るのが妥当なシーンだし、それならアレは何のジョークだと笑うのが現実的ではなかろうか。
同種の別個体については、検討は並行で続けているが、映画の都合でカット、じゃないかな。
別個体だとすると、観客は「ゴジラ対究極生物なのか?」という疑念を抱きながら観ることになり集中力が削がれる。
(一つは倒れるマンションから逃げ遅れた家族、一つは溢れた川から逃げる男性、もう一つどこかで同じことを思った気がするが覚えていない)
たぶん、残りの一箇所は、自衛隊の戦車が潰れるシーンか、注入第一部隊の全滅の部分じゃないかな。
マンションの荷物を詰めていてマンションごと押し倒される家族、川からの逃げ遅れ(たぶん画面の奥側に向かって走る男性)は、
災害の描き方の問題で、ゴジラによる人死を描いているわけではないと思う。
あの一連のシーンで感じる「いまどこに災害が近づいてきているか一般市民には把握できない」という恐怖は演出として一貫していると思う。
(状況把握のしようがなく、気がついた時にはもう遅いという恐怖は、5年たってやっと直視できるようになった映像だと思う)
病院とか今まさに災害の現場は出てこず、災害が通り過ぎた後の映像だしね。
密室と俯瞰した映像に寄る災害描写は、予算制約を逆手に取った脚本の作り方の問題であり、
その意味で「巨大不明生物がなぎ倒したビルにも当然人が残っている」というのを伝える手法に限界があったのかな、と思う。
ほぼあの家族しか直接の被害は確認できないのに、それ以後の緊迫感は違う。
だけど、アレ入れて欲しくない、というのも判る。
浮いてると思うよ。これはシナリオの歪みが集中してるせいだと思う。
これ、後でちょっと付記するけど、「シナリオの都合の上で」リアリティラインは高く見えるようにしてあるんだと思ってる。
例えば、東京駅前に当然あるはずの広大な敷地について劇中一切言及されていない。明らかに不自然。
筋論として、日本が米国に頼り、米軍が日本国内で武力行使する、という流れのハズ。
仮にも主権国家に対して、他国が熱核攻撃を短期間に強行する理由がない。
日本が壊滅するまで自由にさせておき、主権が及ばないところに出てからの攻撃になるはず。
ちょっと日本以外のまとまりが良すぎるというか、世界があまりにも日本に対して冷淡すぎる。
「ゴジラを生み出したのは、牧元教授という日本人では?」という点、
外務省や駐在武官を無視して政権が直接軍事について外交を行うと言う部分を抑えると
祖母が原爆による被害者であり、日系人でアメリカ政権に対して一定の譲歩を引き出しうる通常外交ルート外の存在は、
石原さとみ演じる米国大統領特使のカヨコ・パタースン以外であっても、
やっぱり荒唐無稽に見えるだろうし、どうしても浮いてしまうのは仕方がないと思う。
彼女はシナリオの不備による歪みを一手に引き受けて浮いているのだと思う。
まあ、じゃあどう直せば良いかって言うと、アメリカ側を描くには予算が足りなそうだな……
ゴジラに原子炉載せて、排熱への対処(生存本能)で進化するって道筋つけると、焼却 or 凍結ってのは判りやすい。
シナリオの都合でアメリカに熱核攻撃を担わせると、日本が特撮的な花である爆発(焼却)を使うのは難しい。
そもそも「カタルシスを得られない」ということそのものが、演出意図なのではないかなと思う。
一応、血を流すことから排熱に血流を用いているのではってのは合理性があるし、血液凝固材も30種類?試して効くのは確認してる。
元素変換する相手ならどこに投与しても一緒って意味では、口に見える部分に引っ掛けて体内注入するってのは効果的とも思う。
仮定に仮定を積み重ねて、地味な作業で原子炉の終息にもってくってのは、福島第一原発事故対応への直喩だろうし。
「ショボい」処理で、しかも「まだ終わってない」ってのを、東京駅に凍結させたゴジラで示しているのでは、と。
(政府が冷温停止を宣言したのも、冷やし続ける必要があるってのも、同じ構図だよね)
加えて、ヤシオリ作戦に関しては、矢口の陣頭指揮の部分にも中途半端さに違和感があり、これまで徹底して「対策室で対応する政治家」を描いてきて、結局最後は「主人公が現場の陣頭指揮を取りに行く」というのを描くのか、というのに少し落胆した。
一応は、逃げ遅れた人がいるかもしれないけどやる?とか、線量が予定よりも多いけど続行するのか?とか、判断はあったと思う。
どっちかというと、多分最初に感じたであろう「え?総理大臣は逃げるの?残らないの?」みたいな感覚を
「いや、指揮官は後方に控えてないと死んだら終わりだから」に観客の気持ちを変えたかったんじゃないかな、と思う。
それでもまあ、良くあるヒーロー映画みたいにゴジラに触れるような最前線までは最後まで行かないし、良かったんじゃないかな。
(良く言われる「陣頭指揮」を観客がどう捉えるかが、映画を見た後で変わったのではないか)
正直に言えば、予算の都合で、東京のみの話にしないと収拾が付かないと思う。
「福島第一原発事故」が「東京駅」で起こったとして、煽りじゃなくて日本としての機能がどうなったか考えるとゾッとする。
その俺の思いと重なるが、何度も「経済的」な話が出てくる。
経済的には莫大な損失とか、熱核攻撃を受けて世界から支援を受けないと復興できないとか。
損得勘定で熱核攻撃を仕方がないと受け入れる「論理」と、象徴的な意味で核攻撃を受け入れられない「感情」との対立軸にも見える。
「国」とは何なのかを観る人に問うシナリオになってたんじゃないかな、と。
まあ観たひとに届かないのであれば、そりゃ成功してないわけだけど。
まあ、観たひとに届かない思いは独り善がりなワケでダメなんだと思うけど、
最初に書いたように、そういう「普通の映画のダメ出し」してもらえるところにシン・ゴジラの価値がある。
と、思うわけで、やっぱり気になる点を俺も最後に列挙して置こう。
熱核攻撃をあの付近で行うことに対して、日本人が触れないってのはあり得ない。
「彼らはここがニューヨークでも同じことをするそうだ」とはセリフにあるけど、あれ「ワシントン」じゃないんだよね。
(あくまでも経済の中心であるというセリフであって、象徴的なんだけども)
突然地上にさまよい出た、排熱の為に進化した、冷却のために海に戻った。
突然さまよいでることも、デタラメに動くのも、再冷却の為に海に戻るのも災害っぽい。
進化の方向性として陸上に特化してしまったとして、海水を捨てて地上に出てくる理由が不明。
牧元教授が好きにした結果、ゴジラを生み出して、意思を方向づけたなら判らなんでもないけど。
(配偶者を原爆で亡くし、国と核を憎んだ牧元教授なら、先の大戦の直接の責任者である国の象徴にまず向かい、その後アメリカ上陸を目指すのは理にかなっている)
途中、スパコンの計算能力貸して欲しいって海外の研究機関に依頼するときに、
一旦「ウチの技術を盗むかもしれないから断ろう」みたいなセリフがあるんだけど、
もしも「間に合わなかったら首都が熱核攻撃を受ける」みたいな状態なら、
「ひとを信じよう」みたいなのんびりした話にはならないと思う。
(秘密裏に国連安保理が熱核攻撃を容認するって、日本は外交力ゼロってことになる)
(そうすると、フランスと裏取引する外交技術との整合が取れない)
シナリオが福島第一原発事故を念頭に置いてるからなんだろうけど、
ゴジラに対して調伏(焼却or冷却)しか選択肢が無くなってるのに違和感がある。
保護が無理、退治が難しそうなら、通常は追い出しの手段を検討するんじゃないか。
餌で釣るのか、行動パターンを読むのか、押し返すのかは別にして。
追い出しにリソースが避けないって言う描写は欲しかったかな……
(これはほとんど「他の個体についての言及がない」ってのと同じポイントだな)
映画を見ながら、実際に災害になったらどう逃げようか俺は考えた。
かなり踏み込んで災害を描いてるような気がするけれども、どうかな。
明朝体のテロップを入れつつも説明する気がまったくなさそうな速度で切り替わっていくカットに専門用語を早口でまくしたてるセリフ回し、そして未知の恐怖としてのゴジラ。
もーかっこいい。ヤバい。中盤ぐらいまでこれでもかと言わんばかりに詰め込まれてて眼福。
ほらシン・エヴァはこねくり回してもはやよくわかんないことになってんじゃん? だから何のしがらみもなく「ぼくのかんがえたこわかっこいいごじら」を素直にやれたからこれだけの品質になったんじゃないかな。
・ゴジラ怖え
vsシリーズを経て日本映画の顔となっていたゴジラは知己みたいなもので、恐怖の対象ではすっかりなくなっていたけれど、今回のゴジラはふつーに怖い。何してくるかわからない未知の巨大生物感がモロに出てて怖い。ほんと怖い。
このゴジラのっそのっそと歩く。人を見ても襲ってこない。てか視界に入ってない。だから食われるとかそういう怖さはないんだけど、その分どうあがいても止められない。何でいるのか何をしようとしているのかどこに向かっているのかどうやったら駆除できるのかわからない。何もわからない。
わからないって怖いこと。それを存分に教えてくれる。
劇パト2は国内でテロがあれば日本は変わるかっつーメッセージがあったけど、本ゴジラはもっと直截に3.11という国難に立ち向かった日本と政府を描いてるんで。
3.11の後はじめて核の落とし子たるゴジラを描くのにそこを無視するわけにいかんのは事実だけど、そこにフォーカスしてどーのこーのと場外乱闘してほしくはないなーと思った。
超巨大怪獣あらわれたー! プラレールどーん! を本気でやってる映画なんでね。ガキかよマジで最高だな! と俺は思った。
環境省かどっかの生物得意系女子で、いわゆるはみ出し者。この映画どの人物もだいたい早くしゃべるが、それに輪をかけて早口。優秀だけどそのぶんINT全振りみたいな感じで誰に対してもつっけどんで常に真顔。
で、この子、物語の終盤に一度だけ笑うんですよ。ゴジラが撒き散らした放射性物質が数年内に消え去る可能性があることを突き止めて。今までニコリともしなかったその子が見せた心からの笑顔がもう可愛いのなんのって。天使ですよ、マジで。これは日本中が恋に落ちる。
与えられた任務にただ忠実な優秀だけど冷たい感じの子かと思いきや、東京は甦るって知って、心の底から嬉しくなって笑うんですよ。実はぐう聖でしたってどんな大正義だよ。もう大好き。
ないよ。
それは今までの作品を見てれば、分かるよな?
みんなが褒めてるコピー機並べるシーンだって、踊る大捜査線で見たろ?
忘れたのか? しかも、あっちは本当にコピー機を活用してんだぜ?
庵野の恐ろしいトコは、3.11の原発事故の映像を見て、これはカッコいいと思ったに違いないことだ。
国内最大のポンプ車で冷やされる原発を見て、カッコいいと思ったのだ。
だからサンプリングしてああいうカタチで使った。最大級にカッコいいと思ったからこそ、あそこで使ったのだ。
幼生のゴジラが川を遡るときに流されていた大量のボートやひっくり返る車も、津波映像や広島の豪雨災害のサンプリングでしょう。
そこに、311後の日本の風刺という意図はあまりないと思う。意図はないが、結果的にそう見える形にはなった。
繰り返されるスクラップ&ビルドという主張も、ポリティカルな主張はないと思う。
庵野は世界を壊したいのだ。エヴァでも壊して、Qではもうこれ以上壊せないほど世界は崩壊してしまった。
そうしたスクラップの果てに何がビルドされるのかというと、庵野の精神が安定する、というそれだけなんだと思う。
エヴァでこれ以上理由もなく壊せなくなって、ついに庵野の精神もぶっ壊れたので、渡りに船とゴジラで壊しただけ。
B「具体的に誰?」
A「女の人全般の話しだよ」
A「全員とは言ってない。傾向の話しだよ」
B「傾向って何?調査でもしたの?」
A「調査なんかしてないよ。でもまわりの人やテレビ、小説、その他いろいろを見てればなんとなくわかるだろ」
B「それは個人の特徴であって女性の特徴とは言えないよね」
でも研究者でもないんだから日常の話題やネットでのちょっとしたボヤキや問題提起ぐらいでいちいちそんな調査なんかしないだろ。
Bは「イタリア人は女たらし」「アメリカ人に比べて日本人は内気」とかそういう話題すべてに突っ込みを入れたいのかな。例外があるのは当たり前として多くの人がそう信じてる(「多くの人」って何パーセントだ?www)ことってのは幾分かの事実や何かしらの原因があるだろうという推論は働かないのだろうか。
(なんでもかんでも主語が大きいと突っ込む人も同じ系統に属すると思ってる。)
反論したいならもう少し違う事を言えばいいのにね。
最初の例でいうなら
とか
B「『女に論理は通じない』と思い込むことで男が優位に立ちたいだけではないか?」
とか、いろいろあると思うんだよね。
最近はてな内における政治的な話を論じる面子に変化が生じてきた。
単純に言えばいわゆる「はてサ」と呼ばれる左翼勢力に対抗する右翼勢力の隆盛が目立ってきた。
ある一人を軸に議論が激化し始めており、メタブクマの数が凄まじいことになっている。
「ある一人」はブクマを日常的にしている人ならある程度はわかるだろう。
ちなみに別にその人が嫌いとかそういう話ではない。
ここ最近は慰安婦問題とドイツの難民問題や表現規制の問題等、2項対立的な話題が目立つ。
これらを軸に激しい論争を繰り広げており日常的にidコールによる手斧合戦も起きている。
前からあったんじゃ?という疑念も最もだが、「ある一人」は今までと違う部分がある。
基本的に今までのはてサ関連のエントリーを見ているとどうにも右側の人は「はてサ」を無視していた。
ところが「ある一人」は関連した記事に基本的にブコメをして対抗意見・指摘を繰り返している。
また、メタブクマで異論を投げかければ基本的に補足・反論を行っている。
その結果はてな内におけるポリティカルな論争が激化し始めている。
というより表面化したといったほうが正しいだろうか?
両者がかなり詰めたところまでコメントしあうせいかそれに賛同・反対するはてな民も徐々にだが左右が鮮明に分かれてきた感がある。
賛成派はこの人。
反対派はこの人。
と挙げやすくなってきている。
2chの例などを見るとほぼ必ず、激化した闘争の結果は右翼だらけ(+民)、あるいは左翼だらけ(嫌儲民)になりがちだ。
このパワーポリティクスの果てにはてなはどういった結果を生み出すのかわからないが行く末を見守りたいと思う。
新たなる地平に到達する可能性も含めてウォッチしていこう。
まぁ日韓W杯ってやっぱり、色んな意味で象徴的じゃないですか。
単純にサッカーの側面から考えてもやっぱり国内の目線で見るとすごい重要ですよね。
でも一方でネット右翼が隆盛する直接的な原因の一つであるとする言説ってすごい強いです。
色んな意味で象徴的になりすぎてる感じはありますけどやっぱり最近の日本のwebをポリティカルな側面から考えるとどうしてもネックになってくる。考えざるをえないなとは思うんです。
その辺をネトウヨではないが政治にある程度興味があり、サッカーに詳しい人達ってどう考えてるんだろうか。
最近ホットになった話題で例をあげると「ゲームとかファンタジーでおばさんキャラがいない」という話題。
もちろん指摘はその通りなのだろう。そしてそこには現代社会が抱える女性像が反映されている。社会学だとかフェミニズムだとか言われるような問題が横たわっている。
私の言いたい事は、知らぬ間に諸メディア形成されたイメージ偏り、あるいは社会において形成される「生きづらさ」などの構造をただ指摘する、それだけでは不十分だということだ。
メディアに表出されるイメージに改善点を見つける。違和感を見つける。営為としてよろしいことだ。ただ、それだけでは駄目だ。つまり「あれがおかしい、これがおかしい。ポリティカルコネクトネスに反する。」というだけでは駄目だということ。
なぜ改善すべき事態が起こっているのか? どうしたら改善できるのか? 改善すべきなのに、なぜ出来ない現状があるのか?
これらを考えなくてはならない。実現するかはともかく、考えることが大切だ。
既成概念の誤りや不十分さを指摘するのは簡単なことで小学生でもできる。脱構築は簡単なことだ。気付きさえすれば表出できる。
しかし難しいのは再構築の方で、では、よりよく改善するにはどうしたらいいのか? これはなかなか難しい。難しいからこそ考えなばらなないし、難しいからこそやる価値がある。
おばさんキャラの話だと、ブコメで事例があがっていたり、おばさんが登場するこういう話なら面白い、などの指摘があった。肝要なのはこうした思考を持つことで、ただポリティカルコネクトネスの齟齬を指摘するのでは不十分だということ。
最近のネットでは、誤りを指摘することだけで仕事した気になる中高生みたいな連中が(中高生含めて)多すぎる。その向こう側にある「なぜ?」あるいは「改善するにはどうすれば?」の再構築こそが大切なのだ。
「醜い子供系のキャラやあまり格好良くない主人公キャラ」ってのはポリティカルコレクトネスじゃなくてリアリズムだろうし
ポリティカルにコレクトなことはわりとリアリティと対立する場合も多いからそれごっちゃにできないだろうし
そりゃ数あるマンガにはかわいいキャラが登場しないのもあるだろうけど
話を美少女コンテンツに限ったのは一番話の発端の増田が「オタクが可愛らしい女の子を好むからフェミニストが叩く」っていう説に異論を唱えたかったからであって
ツッコミが色々とっちらかっててどの方面にツッコミ返せばいいかわからん。とにかく今の文脈に大友克洋は要らない。フォローワーの一人と思われる士郎正宗の描く女はエロい。
「女子に読んでほしい本」がそもそも主語が大きいのだから、その反撃もまた主語が大きくなるのは当たり前。
なんで前者の主語の大きさは棚に上げて、反撃の方の主語の大きさだけを批判する?
POPの出来が悪いことに起こっているのではない。
「女性の意見を一切聞かずに」と女性を無視したことを堂々と表明する無神経さとか
女は東野圭吾とか村上春樹ぐらいしか知らないんだろうという一方的な決めつけとか
あからさまな女性蔑視にあふれた文章が顰蹙を買ったのだと、記事本文でもブコメでもさんざん言ってるのに。
元記事にはない「ポリティカルコネクトネス」だの「ジェンダー」だのという言葉を引っ張り出して
元記事の怒りそのものを歪んだおかしなものに仕立て上げようとしてるのは何故だ?
なんで実際に書いてあることを無視して、書いてないことで批判しようとしてるのだ。
女を馬鹿にして見下してるのに
女がそれに対して怒りを表せば、その怒りを無視し、怒っている理由を別な話にすり替えて、さらに女を馬鹿にする。
ネット普及以前は言われっぱなしで有耶無耶にされるばかりだったけど。
増田がいかに姑息に論点のすり替えをしただけでまともに反論できてないかきっちり残るから。
http://anond.hatelabo.jp/20140524223631
元増田は実際傷ついたのだろうし、それはそれで気の毒ではあるのだが。
こういうことを言うのはポリティカルにコレクトではないのだろうと思うから増田に書くのだが、相手の男からしてみれば、ホテルに誘って「断られなかったのに」セックスしたらレイプ扱いされた、というんじゃたまったもんじゃないだろう。
男女が一緒に飲みにに行ったらセックスにも同意したということだ、という相手の(変な)論理に同意する必要はない。
その後ホテルに行くまでにちゃんと断れよ、という話。
もちろんパワハラ的な状況はあるかもしれないし、元増田のケースもそうだったのかもしれない。ラッセンの絵とか売りつける連中のようにやたら強引で人によっては断り切れなかったりするのかもしれない。何事にもグレーゾーンはあると思うが、それにしても。
いい大人が、意に沿わぬセックスを求められたら、まず断るのは当たり前だし、女性をそんなこともできない存在だと位置づけるのは思いっきり女性を馬鹿にした立場なんじゃないですかね。フェミなほうの人がそういうことを言うケースが多くてほんとにうんざりするよ。
http://anond.hatelabo.jp/20140525170929
こっちもなー。性的になにかされることをとてつもなく大事みたいに扱うのは、要は「純潔」を何よりも大事にするということにほかならないと思うんだけどなー。フェミなほうの人が以下略。
革命と同義付けるか。いやね、そりゃなんとでも言えるわね、そこまでいくと。
ただ、「小児性愛」を告白することは、何度も言うけど、「殺人大好き」を告白することと同義ね?
少なくとも、総考える人のが大半で、それは別に間違った考えではないってこと。
定義として、「犯罪をしたいと言ってる人」というきっちりとした物があるんだから。
で、現在、なんで禁止になっているかというと、その害が大きすぎると大多数が感じてるからです。
それこそ利害について、きちんと定義するのは難しい物もあるでしょう。
ただ、利について、あなたは何も正しいことを言えてないし、害はいくらでもあるし、
それを現在法律という形になっている、と言ってるだけなんですけど。
だーかーらー。個人の自由を制限して理性によって成り立ってるのが「社会」な?
「人間社会」が気に食わないのかもしれないけど「動物」の社会にもある程度のルールはあり、個人の自由は制限されてることはある。
お前のいってることは、本能のママ生きる、というアホな事を言ってるだけ。
人の物を盗もうが人を殺そうが、俺がしたいと思ったんだからいいだろ、個人の自由だろ、権利だろ、と言ってるんだって話。
えーと、それは誰が決めたのかな?あんただよね?んで、今の社会ではそうではないの。分かる?
あんたはの決めたことが正解ではないの。
理解できる?
えっと、だから、さんざん害について説明して、利が無いことを説明してます。
個人の権利だとかについてもそのあんたの軽薄さを散々指摘してます。
いいえ。完全に合理的です。
どこがですか?あんたは「本能のママに生きて何が悪いんだ?」としか言ってませんが?
消す!凄い発想です!
そうだよ?消すだよ?何言ってるの?
OK?これが原理だと思います。そして、これらは私としては正しいと思いますが、違いますか?
あなたが記号論理学理解できてないことはわかったでしょ?これ以上バカを露呈しないほうが良いですよ。
程度、というのは接触の程度ですか?
一方、近くによるだけで精神的な害を与えるでしょう。
したがって、近寄るだけで害です。程度としたら、接触するか否か、だけの判断ですね。
全部きちんと読んで反論に対して、都合の悪い部分を無視するのをやめてください。
優先順位を決めるのは、私です。
公言することが交渉が誰かによって行われる前であっても問題ありません。
えーと、あんたは小児性愛者なの?違うの?なんなの?
優先順位ってなんなの?
それを批判されるのは当然。
革命だかなんだかしらないけど、それらもルールが変わる前は批判されるのが当然なわけ。
それはただの思い込みです。
思い込み…あなたがね?
元の主張をちゃんと書きます
という話であって「メキシコシティオリンピックん時と対応違うじゃねーか、そこんとこちゃんと説明出さないとIOCがクズってみんな考えるのは当然ですよ」というのはまた別の話だと思います。
また、パク選手へ与えられたペナルティが妥当であるかどうかについては一切言及していません。
「今後の再発防止」を前提としているのに「今後のオリンピックではポリティカルな主張をしてもいいんだ」って考えているTwitterの人は馬鹿なんですか? とは言っています。
べつにオリンピックにもレスリングにも興味ねーくせに、ちゃんとプロモートしてきたテコンドーが入って歴史の上に胡座をかいて何もしてこなかったレスリングが外されるかも、と言う部分だけ取り上げてIOCを悪の組織にしたい人間が多すぎるバカッター。
韓国フットボールの銅メダルにしても、あれは再発防止・教育の措置や罰金、出場停止などのペナルティを受けた上でのことだっつーのに、これからのオリンピックはポリティカルな主張をしても良いんですねとか被害者面MAXで妄言を吐きまくりのよっぽどマゾなんじゃなかろうかみたいな感想ばっかりのバカッター。
と言う感じのエントリをd:id:kyoumoeあたりがいつ書くんだろうとwktkして待っている。