最近ホットになった話題で例をあげると「ゲームとかファンタジーでおばさんキャラがいない」という話題。
もちろん指摘はその通りなのだろう。そしてそこには現代社会が抱える女性像が反映されている。社会学だとかフェミニズムだとか言われるような問題が横たわっている。
私の言いたい事は、知らぬ間に諸メディア形成されたイメージ偏り、あるいは社会において形成される「生きづらさ」などの構造をただ指摘する、それだけでは不十分だということだ。
メディアに表出されるイメージに改善点を見つける。違和感を見つける。営為としてよろしいことだ。ただ、それだけでは駄目だ。つまり「あれがおかしい、これがおかしい。ポリティカルコネクトネスに反する。」というだけでは駄目だということ。
なぜ改善すべき事態が起こっているのか? どうしたら改善できるのか? 改善すべきなのに、なぜ出来ない現状があるのか?
これらを考えなくてはならない。実現するかはともかく、考えることが大切だ。
既成概念の誤りや不十分さを指摘するのは簡単なことで小学生でもできる。脱構築は簡単なことだ。気付きさえすれば表出できる。
しかし難しいのは再構築の方で、では、よりよく改善するにはどうしたらいいのか? これはなかなか難しい。難しいからこそ考えなばらなないし、難しいからこそやる価値がある。
おばさんキャラの話だと、ブコメで事例があがっていたり、おばさんが登場するこういう話なら面白い、などの指摘があった。肝要なのはこうした思考を持つことで、ただポリティカルコネクトネスの齟齬を指摘するのでは不十分だということ。
最近のネットでは、誤りを指摘することだけで仕事した気になる中高生みたいな連中が(中高生含めて)多すぎる。その向こう側にある「なぜ?」あるいは「改善するにはどうすれば?」の再構築こそが大切なのだ。
またそうやって自分に都合がいい属性の人間が話題に挙げられた時だけ ご高説を垂れる
自分でやりゃいいじゃん。 「お前らは問題点を指摘してご満悦だが、改善点の研究や改善努力をしない」 ってのはまさに増田の書き込みそのものだろ。
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