はてなキーワード: 帰りの会とは
深夜対応で家に帰れないかわりに一人職場に残る権利を得たのでみとらじ的なVtuberさんの生放送を聞き流しながら作業作業。
やっぱりこの人ゲーム実況するより、雑談の方が面白いわと思う。
帰りの会どこいった、押し課金熱量やべーとげらげら笑いながら聞き流していたらいつの間にか終わってた。YouTubeつけてたスマホは全く見てなかった。
波よ聞いてくれのコダミナレみたいに、
ノリと勢いでかき回した後に笑わしてたまには自滅してほしいななんて勝手に思う。
10年後の自分も仕事辛い帰りたいしか呟いてないだろうけど、多分委員長に似た人のリスナーになってかつてを振り帰る気がする。このラジオリアタイで聞いてたよという同僚がそばにいたらなお幸いだけど。
朝の通勤ラッシュで、きれいな紙袋を持った女性が(そして少数の男性が)目に付いた。
前日、近所の百貨店に母とチョコレートを買いに行った。母のチョコレート、何個いる?という問いに、義理と友チョコの勘定に1個上乗せした数を伝えた。小6の頃、当時気になっていた男の子にチョコレートを渡せたら渡すつもりだった。お互い両思いだったと思う。
小さな缶入りのキャビアチョコレートはどう見ても義理チョコだったけど、12歳の女の子の握り拳で隠れてしまうくらいの大きさで、さっと渡すにはこの方が都合が良かった。
六年生の最後の席替で運命的にw隣同士だったから渡すタイミングはいつでもあった。
でも恥ずかしくて、結局渡せなかった。
帰宅後、母からチョコレートどうしたの?と聞かれて、数間違えて買っちゃった、と濁した。
この後、その男の子とは何も無く、中学に上がり可愛らしい彼女が出来たことを知ったりして人並みに胸を痛めたりした。
不思議なことにその後なぜか数度人生が交錯する機会があったが、酷いことをしてしまったのを今でも後悔している。謝りたいが、これはこれからの私の人生の教訓として死ぬまで自責の念に駆られるつもりだ。
あの時渡せなかった缶は今でも手元にある。中身のキャビアチョコレートは食べてしまったけど、代わりに水飴のように私の心の隅にへばり付いて、てらてらと輝き続ける思い出を仕舞って、たまに開いて、その香りで胸を満たす。
クラスメイトが個々に小さ~い練り消しを作ったり、うまく作れない子が綺麗に作れる子のを
盗ったとかで喧嘩していたので、
「私が大きい練り消しを作るから、皆は少しずつ消しカスを集めて!
大きい練り消しは、私は手間賃として大目にもらうけど、残りは皆に分配するよ!」
みたいな企画を立ち上げました。
学級文庫の棚の横に大きめの缶を置いて、皆がそこにせっせと消しカスを集めてくれました。
ちょっと違うかもだけど、小規模な投資家から広く出資を募って成果をリターンする
という意味では、クラウドファンディングだったんじゃないのかなあ。違ったらすみません。
なお結末ですが、よく伸びる練り消しが作れると聞いて水のりを投入したところ、
Instagramには美しいもの、質の高いものだけを公開するべきだという自由な雰囲気があり、Facebook, Inc.の厳しい態度がヘイトをよく抑え込んでいて差別がなく、それがコミュニティをよりよくしているのだ、という。
Facebook的世界観では汚いおっさんは認識自体、存在自体、本質が苦痛であり、苦痛とはヘイトなのだ。善は偶然に生み出されるものだが、悪は意図しなければ生まれないものだ。そして意見とは同調であり、議論とは賞賛であり、コミュニティとは自己なのだ。おっさんは存在するという攻撃を行なっているのだ。
インターネットからFacebookと帰りの会から永遠に出られない合法小学生が死に絶えるまでおっさんの攻撃は終わらないだろう。終わらないでくれ。どうか生きていてくれ。
ポリコレ界隈を見ていると、いつもそう思うんだけどさ。
差別表現を叩くときの基準とか、それを叩くやり方には、ある程度の公平公正が必要なんじゃないの?
オタクみたいなキモい連中がやっていることには、ささいなことでも「差別」を見つけて糾弾する。
いっぽうで、私たちの社会にそれ以上のひどい差別があったとしても、そっちはスルー。
勿論、「これを批判するなら、あれも批判しろ」という意見はクソだし、権力者ではない市民が公平公正につとめる義務はないんだけど、もにょる。
実際、同じことをやったとしても批判を浴びやすい人、批判を浴びにくい人ってあるじゃん。マジョリティが慣習的にやっている差別はポリコレ棒で叩かれないが、オタクのような少数派がやっている場合は叩かれやすい傾向にあると思う。
たとえば女子がバレンタインデーにチョコレートを持ってきて、校内で交換しあっているとしても、それはぜったいに帰りの会でつるし上げにあうことはない。
しかし、スクールカーストの低い男子は、私物のオモチャを学校にもってきたとかでフルボッコにされる。そういう感じ。
結局、声の大きい奴、力を持っている奴が勝つんだよね。
これはこれで嫌だな。
年の離れた弟がいる。
弟はよちよち歩きが出来たころから、家の窓から靴下で脱走して行方をくらませていた。
遊びに行って、家に帰ったらパトカーが何台も停まっていて、母親が涙を流しながら弟を抱え、巡りさんと話していたのを覚えている。
あ~~~~またアイツいなくなったんだな~~~~~とボンヤリしていたら、母親からギっと睨みつけられて、怒鳴られた。
何で、弟を探しに行かなかったの?!弟がかわいくないの?!あんた、おねえちゃんなんでしょう?!こんな小さい弟が死んじゃったらどうするの!!
みたいなことを散々怒鳴られた。まだ小さかった弟は、母親の腕の中でヘラヘラ笑っていた。そしたら母親はまた泣きながら
○○(弟の名前)どうして急にどっかに行っちゃうの~~ママとっても心配したんだからね~~~~~~~~
正直馬鹿かと思った。弟が窓から脱走するのは弟を寝かしつけようとして先に寝ちゃって窓にカギをかけなかった母親が原因ではないかと思っていたから。
まぁ私親になった事ないからわかんないけど、これ読んでるお母さん、気分悪くしたらごめんなさい。
物を壊す、隠す、大体そんな感じのやつ。で、私だけが怒られる。なんでや。
母親曰く
だから弟に非はない。お前が悪い。お前のせいでこうなった。と怒られた。
今思えば弟も怒れや!!!って思う話なんだけど、私は本気で「私がちゃんとすれば弟はよくなるんだ~~!成程~~~!!」と思っていた。アホか。
元気よく挨拶をして、常に笑っているようにして、困っている人を見たら助けた。
弟の悪戯はよくなるどころか悪くなっていたけれど、それでも私だけが怒られた。弟の目の前で怒鳴られた。
普段は何もしないけど怒るときは10歳だろうが5歳だろうが男も女も子供も年寄りも容赦なくぶん殴る人だった。
私がテストで満点を取っても、そんなのは当たり前だ、と言い捨ててそれ以外の点数をとった時は俺の時そんな点数は取らなかったのにと言われた。
弟がある日、父親のものを隠した。本人はちょっとした遊び心だったのかもしれない。
それを父が許すわけがなかった。弟がどれだけ泣いてもわめいても叫んでも、父親の拳は止まらなかった。
私ははやく謝ればいいのにと思ったけど(口出ししたら私も殴られる気がして口にできなかった)弟は絶対に謝らなかった。
母親が泣きながら父親の足に縋りついて許してやってくれと叫ぶのをみながら、地獄みたいだな、と思った。
今思えばこの頃から弟は誰に対しても何に対しても、ごめんなさい、が言えない子供だったのかもしれない。
小学校高学年になって、私はクラスで虐められるようになった。理由は「塾に行ってないくせに100点とったから」だった。
無視されたし、私の触ったものはばい菌が付くと言われたし、クラスの面倒ごとは私の仕事になった。
帰りの会でよくある「今日あった嫌なこと」にはしょっちゅう私の名前が出てくるようになった。掃除をサボったとか、そんな内容だった。サボってないんだけどね。
クラスのみんなの前で怒られて、謝るように言われた。
だんだん学校に行くと腹を下すようになって、あだ名がゲリ子になる直前に私は学校に行かなくなった。そのころにはもう友達は
自分の部屋にあった観葉植物とボールしかなかった。で、また私は怒られた。
何で学校に行かないんだ。いじめられたくらいで学校に行かないなんてどうかしてる。学校に行け。行ってやりかえしてこい。
わかる人はわかるかもしれないんだけど、行きたくなかった。やりかえすことも倍返しされそうでできなかった。
担任はうちのクラスに虐めなんかありません!って言うし、校長教頭は虐められるのはお子さんに原因があるんでしょう?といって取り合ってくれなかった。
このころに私は、発達障害の診断を受けた。母親からまた怒鳴られた。
発達障害の人間は人を殺す。きっとお前も犯罪者になると言われた。(この頃発達障害者が殺人事件を起こしていた)
同時に私の事を頻繁に殴るようになった。殴り続けて手が痛い、といって棒や雑誌や孫の手なんかでビシバシやってきた。
父方の遺伝で私が発達障害だったこともあってか、母親はますます弟を可愛がるようになった。そのころ私は父親似、弟は母親似だったから。
この子は私と同じまともな子だ。私たちは健常者同士仲良くやっていく。って。
それから父親は私と一緒に寝るようになった。布団の中で服を脱がされた。体中触られたし、舐められた。
今思えば狂ってるとしか言いようがないけど、当時は殴られないから良いやとしか思ってなかった。父親と一緒にいれば殴られないから。
痛くないならそれでいいって本気で思ってた。
で、まぁ普通に父親からも痛い思いをさせられた。本番を実行しようとした。しようとしたって言うのは曖昧なんだけど、覚えてない。
直前まではなんとか思い出せるけどそこから先の記憶がプッツリなくなってる。私は自分が処女なのかそうでないのかもわからない。
気付いたら、今住んでる町にいた。
父親は単身赴任になったと聞かされた時、ほっとした気分とまた殴られるんじゃないかと不安になった気持ちがぐちゃぐちゃになっていた。
今度は弟が学校に行かなくなった。理由は「姉ちゃんが学校行ってなかったから」だった。この頃私は普通に学校に行っていた。
母親は私を殴るのをやめてくれたけど、今度は殺しにかかってきた。多分本気じゃなかったとは思う。
包丁も持って家じゅう追っかけまわされたり、寝込みを襲われて首を絞められたりした。いつもいつも「あんたのせいだ。あんたのせいで私の人生はめちゃくちゃだ。この悪魔」
って言われた。どっちが悪魔だよ。流石に殺されちゃたまんないから応戦するけど、そのたびに母親は金切り声をあげて「助けて!娘に殺される!」ってどっかに行ってた。
一生帰って来るなよって気持ちと、私のせいでお母さんを苦しめてしまった!って罪悪感がグルグル頭の中を回っている間に母親が帰ってきた。すごい、聖母みたいな笑みを浮かべて。
私の事を抱きしめながら、涙を浮かべながら「ごめんね、ごめんね、ほんとはあんたの事、世界で一番大事なのよ」って囁かれた。チョロすぎて悲しくなるんだけど私も泣きながら
「お母さん!悪い子でごめんなさい!!」って抱き付いていた。タイムマシンが完成したら真っ先にこの時代に行っててめーら馬っっっっ鹿じゃねーの?!ってチェーンソー振り回したい。
そんな折弟が金を盗んだ。私の財布から、私の月の小遣い全部。弟が自分でボロを出したので確定した。メチャクチャ怒った。
そんなことは泥棒のすることだ。私の弟は泥棒だったのかと怒っていたら母親が泣きながら、そんなこと言わないで、と言ってきた。
実の姉から泥棒呼ばわりしたら、あの子がどんなに悲しむか。お金はお母さんが返すから、それで許してやってくれ、と言い出して来たので耳を疑った。
金を盗んだことに変わりはないしそれで許されると弟が勘違いしたらこれから先弟が大人になってトラブルが起きた時、タダじゃすまされないと言っても、母親は聞かなかった。
謝るならお母さんが謝るから、弟を許してくれと土下座までした。目の前が真っ暗になった。
弟は一切謝らなくなっていた。私の金を盗もうと、窓を割ろうと、何をしても私が怒れば即座に自室に篭って出てこなかった。
そのたびに母が私に謝るという奇妙な家になっていた。
他にもエピソードは山ほどあるんだけど指も精神もそろそろ限界です。現在の事だけ書きます。
一番狂ってるのは、フツーに全員この家に住んでるってことです。
私は大学に行かせてもらえました。前の仕事を辞めて求職中です。お母さんに似てきたね、とよく言われます。
父親は戻ってきました。別の部屋で寝てます。求職している私を馬鹿にしながら生きているようです。仕事はちゃんとしてます。
弟は見た目が父親に似てきました。私に怒られたからといって一週間学校を休んだりしています。将来はアニメ関係の仕事に就きたいと言っています。無理でしょう。
母親は日に日に私が父親に似てきて気持ちが悪い、悪魔め、毎日が地獄だ、と言ってきます。
周りの人からはうちは幸せな家庭と言われています。たしかにかつてはそうでした。
だからきっと私もこの家を捨てきれないのでしょう。良い仕事が見つかればこの家を出ていけるかもしれません。
私には何もありません。特別可愛いとか、頭がいいとか、そういうのでもないです。
私はただの悪魔かも知れませんが悪魔にだって地獄はきっとあるのでしょう。今がそうです。
私が家族に思い切って昔の話をすると、しらを切っているのか本気で忘れたのか、そんなことは無かったと言われます。すべて私の妄想だと言われます。
誰が悪かったのでしょうか。誰を恨めば良かったのでしょうか。憎むのは悪い事だと言われて育ったけれども、恨む方がまともなのではないでしょうか。
私が覚えているうちに不特定多数の誰かに聞いてほしくて書きました。
聞いてくれて、読んでくれてありがとうございました。
あと、最後に一つ。
苦しい発達障害の現状を伝えようと思う
彼は多動性の強いADHDだと思う。そして私は軽度のADHDだ。なぜ軽度と言っているのかといえば病院などで診断を受けているわけではなく自覚症状として勝手にADHDの気があると思っているからである。傾向を見ると間違いなくソッチの気があると自分でも断言できるのだが、ADHDテストなどを受けると辛うじてクリア(健常)してしまい、自閉的な強いこだわりであるとか衝動性は少ないので目に見える違和感は少ない。それゆえ今まで友人が出来、恋人が出来、定職にもありつけた。しかし、これが苦しい苦しい。
ADHDとはどういう病気かと言うと、キーワードクリックして詳しく調べてくれと言いたいところだが、簡単に言うと多動性と不注意性に分かれる。彼の場合は多動の傾向が強く、いわゆるお調子者、クラスでうるさいガキというやつだ。調子に乗ってウザいと嫌われるときもあれば、クラスのムードメーカーと愛されるときもある。しかしこの病気は、うるさく騒ぐことが面白いとウケる=認められる=嬉しいと思うあまり”やりすぎてしまう”ことが顕著で、決して迷惑かけてやろうと思っているのではなくて快楽に忠実に従って「どこでやめたらいいかわからない」だけなのだ。怒られたりして冷静に考えるとたしかに自分の行動はよくなかったなと終わってから初めて思える。彼の行動原理が分かるために切ない。アスペと違うのは空気や行間はわりと読める、でもやめどきがわからない。高難度の空気は読めないということになる。発達障害が高機能自閉症と言われる所以はここにあり、普通の生活は営めるんだけども細かいところが分からないのだ。でもこの「細かいところ」日本ではとても重要視しているために生きづらさを強く感じる。
私は不注意の傾向が強い。注意力散漫がどうとか学術誌には書いてあるが自分では注意力が散漫とは思っていない。知らない間に怪我したり忘れ物が多いとか遅刻をしやすいとかがあるけれどもみんなそんなもんでしょと思って生きてきた。しかしこの遅刻やらケアレスミスの頻度が多すぎるのだ。人間誰しも一度はミスを犯したり、忘れ物したり、寝坊してしまったりがあると思います。ADHDはほぼ毎日なにかしらやらかします。そうすると信頼を失っていきますよね。自己嫌悪に陥るからタチが悪い。いっそ脳の認知度レベルも落としてくれと思うこともある。それを許されないのがグレーゾーンのつらさ。私は遅刻魔のレッテルを貼られているし、大事なもの(ライブのチケット、パリのお土産、鍵、定期、財布)を幾度となくなくしてきた。平和な日本では財布や携帯を落としても大体の人が拾ってくれることを知っている。ディズニーランドのパスポートを駐車場まで持っていたのに入場前でなくして凹み、買いなおして貰ったが申し訳なく罪悪感で楽しめなかった事があった。
人間関係においてはからかってやろうと思うと行き過ぎてケンカを売っている状態になり嫌われる。でもからかわずにいられない衝動に駆られる。何の呪いだ
話を聞いていなく(聞いている途中で無意識に気がそれる)移動教室がどこのクラスで行われるかわからず授業時間始まっているのにもかかわらず彷徨い続けたことが人生で2度もある。
先読みが出来ない。モタモタ行動は遅い。帰りの会が終わり教室を1番に出ることは6年間皆無だった。
自分が生き辛さを強く感じ発達障害を疑いだしたのは大学生のころだった。大学生にもなるとゆとり教育などとも言っていられず自立が求められる、なにより友人知人の関係性がとても浅くなる。高校生までであれば今日は風紀検査があるよだの○○で移動教室あるよだの教えてくれる人が一人はいた。休もうものなら心配してメールの1本入る。だが大学生が授業フケこんで休むなんてザラにある。仲の良い友人だっていちいちメールしてこないのだ。私は始業日を1日間違え、無自覚のずる休みをしていた。それに気づいたのは翌日登校し「昨日なんで休んだんだよ~」と声をかけられてはじめて知った。ショックだった。大学では持ち物やレポート期限などをご丁寧にレジュメに発行せず口頭で伝えるものだ。手帳を普段携帯しないしメモってもそれを見ないので忘れ物の数が半端じゃなかった。また君か。やる気はあるのか。鬱になった。2限から始まる授業のほうが遅刻していた。余裕ぶっこいてダラダラ支度し、遅刻決定している時間に焦って家を飛び出す。そんなこんなで就活の時期になり自分が愚図なのを自覚していたので、誰よりも早く決めてやろう、そう意気込んだ。就活期間は3ヶ月、短期決戦で集中した。驚くことに志望していた会社にきまった。3年の11月ごろに決まっている奴なんか私くらいしかいなかった。
しかしうまくはいかない。見る目がないのでブラック企業にストレートインしていたのだ。めちゃくちゃ体育会系の会社にADHDの愚図が合うはずもなくいじめに逢い1年でやめた。1年がんばったのは逃げたくなかったこととすぐにやめるとその程度の能力しかないと思われ次の就職先に響くと思ったからだった。でもさっさと辞めればよかった。無理して働いたせいで心身共に病み、完全復活するまでに1年半掛かった。働いていた期間より長い。その後転職エージェントを使い再就職できたものの空白期間は当然つっこまれる。留学したとうそをついた。ADHDは怒られないようにうそを平気でつけるようになる。クズに拍車がかかる。ちなみにその1年の間に物は壊すわ顧客に失礼するわ遅刻もするわでいじめられる原因は自分が作っていることにうっすら気づきながらもミスは無意識に発生するためどうしようも出来ない。フォローもやりかたがわからないしうまくできやしない。リスクを未然に防ぐ想像力がなく、それによって起きたリスクに う ま く 対処できないのが特徴。
私が言いたいのは発達障害だからって有効な薬もなく対処療法になるし、一生ついて回るものだしどうにもできない。できるだけ健常なみなさんに広い心を持っていただきたく、我々もミスることを自覚して慎ましく生きなければならない。
発達障害って最近認知された言葉だけれど、急にふっと沸いた人種なのだろうか。
クラスに一人はやばい奴認定されていた奴がいたと思うが、あいつらは絶対にそう。でも特別支援学級に行くまででもない。
ほかにおっちょこちょいなやつ、忘れ物多いやつ、どんくさいやつ、こいつら全部軽度の障害。
ねえ、そう思ったら多すぎませんか。
なんでも規則でしばって、ちょっとでももたもたしていたら障碍児って、安直すぎやしませんか。窓際社員がいたっていいじゃないか。働きアリは全員が働いているわけではなく何割かはサボっていて、よく働いているアリグループを別のゲージにいれるとその中でまたよく働くやつほどほどのやつ、サボってるやつで役割が分担されるという。社会というのは何割か使えない奴がいて初めてうまく回るんですよ。私のようなかなりグレーなおそらく病名が付かないで”傾向”で済んでしまう人はずっとこれからの人生このまま生きていかなきゃいけないんですよ。働いて生活できるようにしないといけないし、結婚して家庭だってもちたい。発達障害は遺伝するから子を産むななんて悲しい事言わないでくれよ。人間やぞ。ショックなんやぞ。自分が障碍者かもって思ったことあるか。ガビーンだぞ。ショックすぎてむせび泣いたわ。これから先困難が予想されるけども、もう仕方ないから受け入れている。ひたすらメモにとってせめて忘れ物や遅刻はしないように気を使っている。
発達障害は往々にして鬱
高畑敦子の愛情によって、通常なら鬱を発症するはずが、裕太容疑者は明るいキャラクターを通している。
これってすごいこと、私は母親の教育は失敗に終わっていないと思う。
発達障害児は失敗行動が多いのでとにかく叱られたり嫌われたり自分でもやってもうまくいかないので塞ぎこみがち、というか凹むしかない。私は物心付いたときから割りと反抗的な性格もあってまわりからは規則を守れない奴とみられてきた。するとどうなるか。鬱になる。ずっと性格に卑屈な面が出てきてテンション低い、低度の鬱状態が延々続いていく。非行に走らなかったのは親が厳しかったためであるが鬱で息苦しい鬱蒼な毎日だ。高畑家はどうだろうか。おそらくやつの個性を認めて明るく育ててきたのだろう。途中まではうまくいっていたのになんとも悲しい結末だ。
ハメられやすい
私も若いころ経験があるのだが、予測行動を苦手とするために悪意を持った人間にハメられたり騙されたり非常にしやすい。そして騙されやすい。アホに違いないがアホっていうかなんというか知能テストはクリアするものの純粋ゆえに人を信じて騙されているんだろうなと思う。詐欺に引っかかる人、認知レベルが落ちている(高齢者など)か発達障害の傾向がある人だと思う。今回の事件、被害者は実際に被害にあっていると思うが、これまでもあいつならちょろいぜと美人局的な事件に遭っていそうだなと客観的に思った。
障害児の親も往々にしてそういう傾向がある。昔はお見合いだったから相手が不器用が過ぎる人間かどうか気づかず結婚していたのだろうと推測する。遺伝の可能性は否定できない。
また、高齢出産の影響も強い。卵子のタイムリミットをしっていますか。これはこの年齢を境に機能がガクっと落ちることを意味しているのだけれど、37歳なんです。今日本で結婚を意識する年齢って30歳前後ですね。仮に30歳の女性が結婚したとしてあと7年しかないんです。短くないですか。女性の社会進出や医療の発達などで晩婚・高齢出産をしても安心して生めるように環境はそろったけれども、肉体としてはあまり進化がない。元々人間の寿命は50年ほどでした。いたずらに長く生き過ぎているのかもしれませんね。精子も劣化します。男性は生涯現役だとばかりにジジイになっても性欲はおちないものですが、ジジイになればなるほど劣化します。精子が劣化しているとそれだけ不具合を持った子供が生まれやすい。福山雅治さんが先ほど第一子の妊娠を発表なされ非常にめでたいのですが46歳の精子はなかなかですね。顔はきれいだろうけれど、障害グレーが生まれる可能性高いです。イケメンは隠し子の1人2人いてもいいと思いますよw若いときに作ったほうがいい。
ここまで長く書いて何いいたいんだろうって話ですが、あまり糾弾せずちょっとどんくせえなくらいに受け止めてほしいということ。そして障害を持つものも幸いにして知能は高いのだから怠けたい衝動に突き動かされず、やるべき社会的行動にロジカルに対応すべき。ルーティーン作業ほどミスるので、日常生活をマネジメントしたメモをいたるところに張ってそのとおりに行動すればまだましかな?まったくの健常者だって忘れ物くらいするのだから、お互いがんばりましょうや、ということです。
小学校の帰りの会で、ケンカ相手の男子生徒を憎むあまり「○○君はいけないと思います」つって直接関わってないクラスメイトを強引に自分サイドに引き込もうとする頭の足りないブスみたいだ。
んで引き込まれる人々のまた滑稽なこと。
甚大なダメージをくらったフランスを応援したいという気持ちもそれ自体はいい。
プロフィール写真に国旗を重ねるというその発想が気持ち悪いのよ。
国旗掲揚とは愛国心のひとつの発露であり自らの国民としてのアイデンティティを示すものだ。
震災以降の、頑張ろう日本の日の丸掲揚の数々は、そういった動機によるものだと理解している。
お前はフランス人なのか。親兄弟にフランス人がいるのか。フランス人の友達がいるのか。
あるいはフランスを旅行したときにその風土や国民性に魅せられ、なにがしかのシンパシーを感じているのか。
それならまだわかる。
友人に、フランスに短期留学を繰り返し、学んできたことを仕事に全面的に活かしている人がいる。
しかしそれ以外のやつら。
あるいはテロに対抗してるつもりになっていいことしてる気分になりたいだけだろ。
フランスを応援したいなら、フランスを応援しますという声明を出せ。
軽々しくプロフィール写真にそんな加工を許すな。
ただ顔写真が三色になってる大部分のやつらの軽薄さが気にくわないだけだ。
いじめはたしかに悪い事だけど、存在するだけで、周りの調和を乱す人っている。
そういう人に、どのように対処したらいいのだろうか。
例えば、昔、転校生がやってきた。小学4年生くらいだったと思う。
見た目はごく普通の女の子だったが、たったひとつ、ちょっと変なことをする女の子だった。
そして、それを食べるのだ。
衝撃的だった。あまりにも悪びれないでそれをやるので、みんなどうしていいかわからなかった。
この場合、たしかに大人の対応としては「人前で鼻くそをほじってはいけません」と本人に注意することが必要になるんだと思う。
とりあえず、陰で「あの転校生鼻くそ食ってるwww」って話題になる。
調子のいい男子が本人に聞こえるような声量で「鼻くそ」とか言い出す。笑いが起きる。教室に張り詰めた緊張がほぐれる。
先生は帰りの会で「いじめはよくありません」「いじめは犯罪です」という。
しかし、その女子がものすごい勢いで鼻をほじっているときに教室に張り詰めたあの緊張感。
そして、その緊張した雰囲気を破ってくれた、調子のいい男子の「鼻くそ」の一言。
こういう場合どうしたらいいの。誰が悪いの。
小学校低学年までそれなりに幸せに生活してたがいじめの徴候はあった。それは俺のだらしない生活態度が原因ではあるのだけれど。その時は意識していなかったが金持ちの子供で、周囲の子供の親より俺の親の年齢が高く感覚が違っていた、両親共にコミュ障でそれを受け継いでいた、等々理由はあるだろうがとにかく今自分で考えてみてもいじめられる要素が大量にあったと思う。それといじめの善悪はまったく別で単純にいじめは犯罪と思うけど。一言で言うと天真爛漫で傍若無人なガキだったんだと思う。
小学校五年生の時。クラスわけで中年の女教師になった。そいつがもう大変でヒトラーのような教師だった。それまで軽度のからかいや友達同士での喧嘩などがあってもそこまで深刻化することはなかったが、彼女のクラスになってからはそれが原因なのか毎日吊るし上げをくらった。集団をまとめるための生贄にされた。毎日、帰りの会で1~2時間立たされ罵倒の言葉を浴び、クラスメイトたちに嘲笑され、腰巾着の女子のクラスメイト三人に毎日粗を探された。一緒にいじめを受けた多動気味O君は一年で根を上げて転校していった。そりゃあ、毎日のようにビンタを張られて一人だけ黒板に机の前部分を付けさせられて隔離されて授業を受けさせられれば転校したくもなるだろう。六年生の次の年からはO君と仲が良かった俺が本格的にいじめられることとなった。
六年生になったがまるでこの世の地獄だった。クラスメイトの男子から暴力をふるわれたのにいつのまにか俺が立たされ、罵倒の言葉を浴びせられた。そのころにはもう辛すぎて現実逃避が上手くなっていた。今でもオレンジ色の夕日に照らされ、泣きながら立たされていたことを思い出す。それがとても綺麗だった。そのうち小学校低学年に時を戻したいと思うようになり、実際に巻き戻った夢を見た。過去に戻った俺は高学年の頭を持っているのでクラスをあっと言わせるのだ。現実の自分と強くてニューゲームをした俺、どっちが本当に自分なのかわからなくなった。というかどうにかして現実から逃げたかったんだろう。小学生の俺、可哀そうに。そういえば毎日のように些細なことで泣いていたと思う。
その後も家出したりなんなりありやっと卒業した。やっと開放されたと思った。だが現実は甘くなく、俺は学校生活が完全にトラウマになっていた。2年間かけて自尊心を根っこからカチ折られて、極度の人間不信と精神不安定になった。中学と高校で計5回程家出し、結局高校を中退した。もちろん精神科のお世話にもなっている。
今、こうして当時のことを振り返っているのは、やっとその時のことに向き合うだけの心の余裕が出来たからだ。それまでは思い出そうとすると動悸がして苦しくなりどうしても思い出せなかったからだ。あれから約20年がたち、愛する家族にも恵まれて、やっと向き合えた。
今、思い出してみればいじめの当事者たる教師やクラスメイトも哀れな人間だったのだと思う。
ちなみに親はまったく気付かず、俺も言わなかった。もし話していても頭の固い親を説得するだけの知恵はなかったから結局同じだっただろう。
いじめはなくならないだろうが社会の意識を変えることは出来ると思う。
もし今、いじめられている子がいるのならば思うのだけれど、出来れば死なないで欲しいと思う。人生めちゃくちゃになっても諦めなければなんとかなる。
私が小学2年生の時だ。
担任のNが提案した。
「これから毎日、帰りの会で『今日の反省』をすることにしましょう」
活発な生徒は率先して手を挙げる。
ある日担任Nは
「良い行いをみつけるのも、『反省』ですよ」
『反省』すなわち、悪さを暴き『シュンとする』ことこそが反省なのである。
それがキッカケかどうかはわからないが、
私は常に反省をしてきた。
反省すべき事柄は忘れてはならない。
怯えながら生きて大人になった。
誤ちとは、物を盗んだり人を傷つけたりする犯罪のことではない。
切手をまっすぐに貼るとか、
そういうことである。
ミスをすると取り返しのつかないことになる!!
ビジネスマンたるものタイピングは一分で何文字以上の速さで打たなくては。
ホチキスの位置と角度を等しく…
生きるとは、なんと辛いものだろうと思った。
提出した書類に誤りがあったって
上司は先輩を叱っても、必ず解決方法と再発防止策を提出させる。
先方に詫び、それでおしまい。
私の見たことのない生き方だった。
「反省をしなさい」とアラを探しては萎縮させるだけの2年生の帰りの会。
より良い未来を築くための提案会という趣旨だったのかもしれないが
ほのかなモラハラ臭かなとも思う。
腕を鋏で傷つけられて、来なくなった。
中学卒業までほぼメンバーは変わらない閉鎖的な近い将来が分かりきっていた。
怪獣が何匹もいた。
授業中に座って話を聞けなくて歩き回る子(今思えば多動性だったかもしれない)。
授業妨害は当たり前だった。算数の割合の授業がほぼすっぽぬけてたから塾に行った。
そのころ、ニュースで教育の元の暴力がタブー化されたことを盛んに報道していて、
口で言ってもわからない子がいても、簡単に子供を叩けなくなった。
「殴ってみろよ、クビにしてやるわ」と問題児たちは口を揃えて先生に言ってた。
何人かの問題児以外のその他大勢は、クラスの日常にだんまりだった。
そういうのをとめる子は誰一人としていなかった。
私も含めてクラスの中心人物の「ガキ大将」にいじわるされるのが、
当時はとてつもない恐怖だった。
ガキ大将といっても、恰幅のいいジャ●アン的な感じじゃない。
ハーフで眉目秀麗な男子だった。武道を習ってた。傍若無人だった。
母親が異国の人で日本語がほぼしゃべれず、子供に対して過干渉。
父親がは日本人で異常に厳しく直情的で、同じく過干渉。
そのストレスを学校で発散している、というのがクラスの子供達の中での共通認識だった。
問題のある子とそうでない子を分けてクラス編成し直してほしいという声が上がった。
その場に数人いた私達子供らにとってはすごく嬉しかった。念願だった。
そんな夢みたいな話があるのか?大人ってすごいと思った。
誰かがお母さんにお願いしたのかな?でも、これで、帰りの会が長引くのも、全校集会で怒られるのも、
算数の事業を妨害されるのも、いついじわるされるかこわかった毎日もみんな終わるんだ!と思った。
子供たちだけ別室に移されたときも、皆同じく高揚していた。泣いてる子もいた。やっと開放されると思った。
耳を疑ったのはすぐのことだった。
「他の子供たち(問題児以外)はみんなで支えあっていきたいって、仲間だってきっと思ってる!
そんな子供達の思いを踏みにじるんですか!個性を除外して、認めてあげれない学校なんですか!!」
この一言を言いはなったお母さん、泣いてた。なんで泣いてんだよと思った。
あんたの息子、問題児にいじめられてるって知らなかったのかな?
結局その一言で、淡い夢は終わって、わんふぉーおーるおーるふぉーわんという語呂がよくて気味が悪い
小学校卒業間近、タイムカプセルを埋めたいと皆で担任教師にお願いした。
中学にいっても、問題児たちは相変わらずだった。先生たちは一生懸命だった。
先生は、その子たちにつきっきりだったしね。悲しいよね。手のかかる子ほどかわいいよね。
学校生活の主役は間違いなく彼らだった。さっさとみんなでカラオケにいった。
でもいまは少し太って地元で平和や愛を歌うラッパーになったらしい。ピースフルだね。
取り巻きの問題児たちも、今はどっかで働いて、いまだにみんなでつるんでるらしい。こりないね。
どうなってたんだろうと、最近橋本さんの提案をニュースでみて思う。
それなりにまじめに生徒やってる子の人権は無視されてきたんだし別にいいじゃん。
(問題児をとめない周りの子が一番悪いという持論を展開する大人も一定数いるし)
それでも反対する人がいるのは、世の中の不条理さに慣れておく訓練を、
もう学級目標も、やられたらやり返せ甘えるな。とかにすりゃいいのに。
あのグミの木どうなったんだろ。
もう20年近い昔の話なので、詳細は覚えていないのだが、「同じ人間だ」と理解したということだけは非常に深く印象に残っている。
私は田舎ののんびりした町で生まれ育った。中学1年生のころまで、先生は難しいことを知っている立派な人だと思っていた。担任の先生のことは、若いイケメン先生も渋いオジサン先生も肝っ玉系おばちゃん先生も、だいたい大好きになった。
中学2年生の時の担任は、新任の女教師だった。何がそんなに嫌だったのかはもう忘れてしまったが、ヒステリックで理屈に合わない(と子供心に思うような)ことを言ったり説教したりしてくるので、私や友達はその先生のことが嫌いになった。陰で先生の悪口を言ったり、説教に反論して帰りの会を泥沼化させたりしたこともあった。
そんなふうにして中学2年生の1年間は過ぎ去った。だが残念なことに、3年生になってクラス替えが行われても私の担任は変わらなかった。一緒に悪口を言っていた友達は別のクラスになった。私は落胆した。
転機は修学旅行の夜に訪れた。旅館の部屋の床に布団が敷き詰められ、友達と枕を投げながらガールズトークを繰り広げる。やがて消灯の時間になるが、まだまだ話は尽きていない。明かりを消してひそひそ声で盛り上がる部屋に、担任が入ってきた。怒られる、と思ったが、そうではなかった。先生は私たちの話に加わって、一緒になって別のクラスの女生徒の悪口で盛り上がっていた。それを聞いて私は初めて、彼女も私たちと同じ人間だ、10歳も年の違わないただの小娘にすぎないのだ、ということを理解した。
生徒と一緒になって他の生徒の陰口を言うなど、教師としてあるまじき行為、かもしれない。だがこの経験は私にとって良い方向に作用した。
彼女が同じ人間であることを理解したら、彼女の理屈に合わない言動も少しは許容出来るようになった。いままで先生という存在に完璧を求めすぎていたのだ。この一件以来、彼女と私の関係もいくぶん良好なものになった。おかげで卒業まで穏やかに過ごすことができた。
朝会のあと、給食のあとお昼寝の前、お昼寝のあと、その三回だけ。
全園児数十人が廊下まで一列に並べられ、トイレの中で男の子は小便器に、女の子は個室へ別れていきました。
それ以外の時間に尿意を催したとして、先生にそれを告げて集団を離れることは、僕にとって、とても考えられない課題でした。
幸い、その周期に馴染むことができていたためか、おもらしをした記憶はありません。
それを見ながら、あれは恥ずかしいことなのだと覚えました。
幸い、僕におねしょ癖はなかったため、それについては多数派の目をしていました。
皆と違うということが、どれほど目立ち、恥ずかしいことなのかということを知りました。
ただ、僕にも皆と違うある特徴があって、自分が普通ではないということは自覚していました。
小学校に入って、休み時間には自由にトイレに行って良いことを知りました。
しかし、授業時間中に、先生にそれを告げて行くということは、もちろんできないことでした。
今まではトイレの時間を決められていたせいか、自分の尿意の間隔、その時間感覚が僕にはよくわかっていませんでした。
帰りの会で、全員で「さようなら」と挨拶をした瞬間、ついに限界が来て漏らしてしまったことがあります。
学校でお漏らしをしたのは、小学一年生の時、その一度限りです。
普通の子ではなかったため元々目をつけられていた僕ですから、床の掃除をさせられた後、長いあいだ、教務机をはさんで居残らされました。
理由を訊かれていたのか、反省を促したかったのか、内容はよく覚えていません。
ただ、自分の感覚がわからず、授業中に行くこともできない子供だったため、僕にとっては仕方のないことだったのです。
何を話すわけにもいかず、ただ先生の気持ちが収まるのを待つほかありませんでした。
事件が起きたのは二年生のときです。
昼休み。僕が堂々とせずに排尿しようとしたのを面白く思ったのでしょうか。
いつも僕に何かしらちょっかいをかけていた二人が、ジャージのズボンを下ろそうとする、
出て行ったと見せかけて素早く戻ってきては陰部を見ようとする、などの行動を繰り返し始めました。
その騒ぎは遊びのように他の男子にも伝染し、数の暴力となって僕の排尿時間を奪いました。
それは昼休み中続き、五時間目をなんとか乗り切り事なきを得たと記憶しています。
一人、止めようとしてくれた男子がいたように思いますが、いつだって少ない声は何も変えられないのです。
おそらく、それはいじめなどではないのでしょう。
彼らからすれば、全ては「ノリ」なのです。「空気」なのです。「遊び」なのです。
こちらから見れば、どんな罪が適用されるのかはわかりませんが、限りなく犯罪に近い迷惑行為です。
逮捕が可能になる14歳という年齢の直前の時期ですから、その線引きを恨むしかありませんでした。
当時の担任はそういったことに敏感な先生で、すぐに対応をとってくれました。
余程恵まれた人生を送ってきた人でなければ、このことにほぼなんの意味もないことは、わかるでしょう。
彼らが謝罪の心を持っていようとなかろうと、僕が彼らを心から許そうと許すまいと、何も変わらないのです。
もちろん、今となっては彼ら個人に対して強い怒りなどの執着はありません。
その影響がもたらしたものなのか、確証はありませんが、
それからの僕は、公共の場で排尿することがひどく苦手になってしまいました。
小便器に対面しチャックを下ろしても、同じトイレの中に人がいると、なかなか尿が尿道を伝わってこようとしないのです。
後ろになど並ばれては、とてもではないですがそのプレッシャーは尋常でなく辛いです。
時間の長さが不審に思われることが嫌で、排尿を終えたふりをして、出直したことも度々あります。
そのストレスを避けるため、個室に入ることもありましたが、やはり学校などのお互いを知られている可能性のある場所では使えない手段です。
自動車学校などはとても嫌でした。
普通の学校と違い教官も同じトイレを使うので、集団で、おじさん特有のあのノリで後ろに並ばれると、とても厄介です。
お蔭様で、学生ではなくなった今ではそういったストレスを感じることもなくなり、その感覚を忘れつつあります。
同時に、いじめ(便宜上、日本特有のこの表現を使う)という感覚を忘れかけていた自分に警鐘を鳴らしました。
喉元過ぎれば熱さ忘れる。
結局、当事者にしかわからない、根本的には解決できない問題ですが、
国民というものは知らず知らずのうちに、道路のように均されています。
秀でたものは利用し、しかし真に優れたものは頭を打たれ、平らにされ、
ひどく劣り凹んだ部分があると埋め立てられようとします。地盤のことなど微塵も考えずに。
年齢と住所だけで区別され、管理され、数十もの個体を密閉空間に放り込むことは、果たして効率以外に何の利点があるのでしょうか。
それぞれのブコメには賛同できたり、真っ向から「それはちゃうやろ…」と思ったり、新しい考え方に驚かされたり、オシャレすぎる発想にドン引きしたり、興味深い。
興味深いが、男女系・育児系・夫婦系のエントリへのブコメって、見ていると段々小学生中高学年の「男は損だ、女は損だ」を良い年した大人が相変わらずやってるだけに見えてくる事がある。
男性がなかなかできない妻への寄り添い方 http://papalabo.com/2014/02/01/post-4784/ 最近で言えばこちらのエントリ。エントリじゃなくエントリにつくブコメの話。
別に良い年した大人がネット上で泥団子合戦をするのが悪いとか言いたいわけじゃない。俺も泥団子投げるし。現実でやったら友達減るだろうし異性も寄ってこない。ネットでくらい好き放題言えばいい。
ただ、ブコメを見てると小学校の帰りの会が長引く時のアレみたいな気分になって、口の中に砂が入ってジャリジャリする感覚を思い出す。
http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1773671.html
これなんだが。
俺はこの記事を読んで、こんなネット教育はまったく論外だしとんでもないやり方だと思った。
ところがはてブコメントを見ると、約半数が賛成しててびっくりした。あまりにも意外だったので、ぜひ賛成している人たちの考えを聞いてみたいと思い、この増田エントリーを書いている。
《はてなブックマークの現状》
まずはどんな具合に約半数が「賛成」なのか現状をざっとまとめる。
現状といいつつトップ10コメントだけだが、はてブページは 2013/9/3 12:40 時点でこんな感じ。順番もはてブページの通り。
賛成か反対かは俺の独断で分けてみた。
一部のユーザが大量スターしてるため(見たところ賛成派、反対派ともに各1名かな)、スター数と順番の関係がおかしなことになってたりするが、大多数のユーザは1スター、たまに2スター3スターといった感じなので、状況としては、賛成・反対でまっぷたつと言っていいのではないかと思う。
あらためて賛成コメントを抜き出してみると、「この程度の」「体験させる」「経験しといた方が良い」「一つの試みとしてあり」といった言葉から、コメントした人やスターをつけた人が、この授業での経験を軽くて大したことじゃないものと考えていることがわかる。同様に「試行錯誤」や「体験」「経験」「試み」といった言葉からは、やり直しのきくものだとも捉えているのだろう。
ほんとうにそうだろうか。「誹謗中傷したら実名さらされちゃう経験」って軽いものだろうか。その後の学校生活にたいした影響を及ぼさない経験?
そうじゃないだろう。自分が誰かの悪口を書いたら、それが自分の名前付きで相手に伝わってしまうのだ。そうやって損ねた友人関係は簡単にやり直し修復がきくものだろうか?
大人でも大変なことなのに、学校が世界のすべてというような子どもにとっていかに重大なことか。
「誹謗中傷してはいけない」ということを伝えるのに、このような過大なコストを子どもに強いるのが適切だとは、俺にはどうしても思えない。
反対コメントでも指摘されてるように、別のメッセージが伝わってしまう可能性すらある。対人関係を教育するのに隣の席の児童の悪口を言わせて「ほら、○○君は嫌な顔をしただろう?誹謗中傷したらいけないよ」なんて教育はしない。別の方法がいくらだってあるだろう。
教師が実名ボタンを押す頃合いをちゃんと見てるからそこまで大変なことにはならないはず、とか、ネットでの失敗は結果が取り返しがつかないからこの程度の体験をさせることは必要、とか、そもそも誹謗中傷のような負の感情をもっている本人が悪いから自業自得だ、とか、そういう反論を受けるだろうか。
大変なことになるかならないかは属人的な要素が強すぎて、授業手法として一般化するには危険すぎるし、ネットでの失敗が取り返しがつかないことを伝えるという使命があるにしても、それと子どもの学校生活を引き換えにしてよいものではない。自業自得論については敢えてコメントすることもないだろう。
「この授業で伝えたいことは『誹謗中傷してはいけない』ではなくて『ネットが匿名だと思って調子に乗っているとひどい目に会う』ということだから、この手法で問題ない」
この意見は賛成する理由として少しは有望な気もするが、やはり子どもに負わせるコストが過大だという反論を覆すには至らないのではないか。
《まとめ》
当り前だが、俺はものごとには色んな意見があってしかるべきだと思っている。問題が複雑であればあるほど、正誤を判断するのは難しいし、そもそも何が正しく何が間違っているか確かなことは誰にもわからないことだってたくさんある。
消費税増税のタイミング、TPPの参加可否、移民受け入れ問題、原発再稼働か電気代値上げか、解雇規制緩和か派遣労働の拡大か、きのこの山かたけのこの里か・・・。
こういった複雑な問題は人によって意見が違うのは当然だし、さまざまな意見がぶつかりながら社会的コンセンサスを形成していけばよいと思う。
繰り返すが色んな意見はあるだろうとは思う。この授業のやり方にしたって一部の教育関係者が考えつくこととしては想定の範囲内かもしれない。考えついたことを実際に提案し、なんちゃら会議に諮り、そこで働くべきブレーキ機能が働かず実現に至ってしまった。今回の授業はおおかたそんな経緯かな?・・・そう思っていた。
それがたまたまメディアの目にとまり報道されたが、きっと世論でもはてブでも盛大な批判を浴びて、このような授業は二度と行われないに違いない。そんなことを考えながらはてブコメントを開いてみたわけだが、予想は大幅に裏切られ、約半数が賛成を表明していた。
俺が驚いたのはこのような授業が行われたことそのものではなくて、はてブの約半数の人間が賛成を表明していたことだ。
ごくごく少数ならば「えーーありえねーー」で済ますこともできるが半数だと理由を知りたくなる。こんな授業が当り前のように全国の小中学校で行われるような世の中にはなって欲しくないし、自分の子どもをそんな学校に通わせたくないからだ。
だからブコメ書いた人でもスターつけた人でもそれ以外の人でも構わない。
上の反対意見を見てもなお賛成なのか、俺が書いたことに対してどういう反論が成り立つのか、読んだ人、どうかよろしくお願いします。
id:salvatore8 「反対のトップは賛成意見」
反対のトップはid:nakex1氏のコメントことですね。このコメントは「全員に公開して相互不信のタネをまいてしまうのはやり方が雑」と書いており、この授業のポイントである「実名を公開すること」には明確にノーと言っており、俺の意見と近いという点で「反対」に分類しました。もっとも賛成反対は便宜上のものなので、異論があるのは理解します。
id:ktasaka 「誰に対するどういう方向の批判なのか不明。教師の学級経営がここまで信頼されていないものなの?自分でも簡単にできると思ってる?」
→わかりにくくてすみません。この授業手法の是非を「子どもに負わせるコストが過大だ」という俺の批判意見を読んでもらった上で、あらためて問いたいということです。教師の学級経営が信頼できるかどうかという属人的かつ大きな主語の話をするつもりはなく、あくまで今回の授業手法の是非の話です。どんな授業手法であっても結局は教師次第じゃないかと言うかもしれませんが、であればなおのこと、わざわざこのようなリスキーな方法をとらなくても、他にいくらでもやり方はあるんじゃないかという話をしています。「自分でも簡単にできると思ってる?」については「ネットリテラシー教育を自分でも簡単にできると思ってる?」という意味かな?「親として子どもにすべきことをしっかりしたい」と考えていますが、それはこの増田の主旨ではないです。
id:mizunons 「この人は、いったいどういうパーソナリティ傾向の人が「この学習で、うっかり他人を批判してひどいめに会う」と想定しているんだろう。その想定と、この懸案内容は一致していて妥当なんだろうか。」
→小学生くらいの年代であれば「この学習で、うっかり他人を批判してひどいめに会う」のは誰にでも起こりうることではないでしょうか。どのようなパーソナリティの子どもであれ、人を傷つける発言をしてしまうことはあるでしょうし(記事にも5分ほどで誹謗中傷が増え始めたと書かれています)、そうやって言われたことに傷つくこともあるでしょう。それが原因で当人同士の、あるいは友人まで巻き込んだ人間関係が壊れてしまうこともあるでしょう。もちろん全員がそうだという話ではありません。一般的に起こりうることとして想定可能な事態だと俺は考えてます。
Twitter @coneko 「匿名チャット実名表示授業への意見。締めに「自分の子どもをそんな学校に通わせたくない」と言っているんだけど、こういう状況になっても悪口を書かないような子供を育てる、という気にはならないのかな。」
→ここは誤解されているようなので補足します。俺も3人の子の親として、自分の子が匿名であれ実名であれ、事実であれ妄想であれ、悪口を安易に外に吐き出すような子になって欲しくないと思ってます。嫌いとか気に入らないという感情そのものは人として誰しも持ちうるもので悪いことではないけれども、それを外向けに表現するには配慮が必要だという、当り前のことを当り前に学んで育って欲しいと思ってます。この授業で問題なのは、そういうことを率先して教えるべき立場の大人が、チャットで実際に誹謗中傷が増えてきたのを確認してから実名ボタンを押し「ほーらみろ悪口なんてめったに書くもんじゃないぞ」という、俺から見れば最悪の方法で教えようとしているという点です。親としてなすべきこととは別に、こんな授業がまかり通ってしかも賛同を得ている事実に、俺は驚きを感じています。
なんか全レスに近いかたちになってきた。暇だなー俺。まあ誰に迷惑かける話でもないし「なげーよ」という批判には「ああなげーよ!」で返したいと思います。レスしてないブコメについては基本同意だったり、レスを必要としないブコメだったり・・・そんな感じです。同意してくれてるブコメにこそうんうんと頷いてレスしたいんだけど気持ちだけにしておきます。
トラバ「賛成: HNの相手に悪口いうことあっても名前だしていわないだろ」
http://anond.hatelabo.jp/20130903210843
→ブコメとトラバありがとう。そうだね。チャット上のやりとりまですべて匿名ならば少しはリスクは減ると思う。ちなみにどういったルール、どういった運用でやっているかは予測であれこれ書いてもしかたないと思ったので、実はいま岐阜聖徳学園大学附属小学校に問合せてる。まあ匿名ダイアリーの記事ごときで回答が得られるとは思ってないけどね(問合せは実名でやったよ)。
id:uduki_45 「万が一のシミュレーションにもなるし、何より問題を表面化させることが大事だと思う いじめに関しては手遅れになってから解決なんてまず無理な話なんだし」
→誹謗中傷はシミュレーションではないよ。そして、いじめの表面化の大切さについてはネット教育とはまた別の議論だよ。
id:kanjin30203 「小学生くらいの人間関係って陰口言っててもちゃんとゴメンナサイすれば大概元に戻る。中学生以上にやらせるのは確かに危なそうと思うけどね。先生の技量に大きく左右されるから全国でやるべきとは思わない。」
→「大概元に戻る」のが本当だとしても、この授業を実施する積極的な理由にはならないよね。
id:rx7502 「授業の手法にこだわってるけど、そんな小手先ではなくて、主眼が達成できているかや主眼が発達段階を鑑みて適切なのかで、授業を見るべき。成長させる上で、失敗させることも大切。」
→うーん、その失敗の重大さ、取り返しのつかなさを問題にしてるんだけどな。それからもうひとつは失敗のさせ方。友達との喧嘩やトラブルを通して子どもは人付き合いを学んでいくものだけど、だからといって大人が意図的に喧嘩やトラブルを発生させようとするのは無しでしょう。実名さらされてさ。自分がそういう目にあったらと思うと俺は笑えないよ。
id:akikan2 「少し関連記事を探せば、「特定のテーマ上で、特定の個人を誹謗中傷しないルール」で授業が行われたことが分かる。大して調べずに匿名ブログで物事を語る大人を産まないためにもこの授業は必要なのでは。」
→これかな。情報ありがとう。http://www.j-cast.com/2013/09/03182883.html?p=all ここには「特定の個人攻撃につながるものではありません」とはっきり書いてるね。いっぽうで日経記事には「5分ほどで相手を誹謗(ひぼう)中傷する言葉が増え始めた」と書いてあり、両者の記事は互いに矛盾してるよね。あなたは、なぜJ-CASTの記事が正しくて日経の記事が間違っていると判断したのだろうか。J-CASTの方が新しいから?でもこれは日経記事への反響をうけて教頭がインタビューに答えたものだよね。日経の記事は第三者である記者が授業を取材した事実が書かれており、J-CASTのニュースは当事者である教頭のコメントを紹介しているという点で、両者の言い分が矛盾しているならどちらを信じるかという問題だな。俺なら、第三者の日経の方に若干重きをおきつつ、予断ははさまずに態度保留するけどな。少なくとも後者を無条件に信じるのは少々危ういと思う。あとさ、具体的なテーマを与えるとなぜ特定の個人攻撃につながらないと言い切れるのか。俺にはなんの因果関係も感じられないよ。
id:QJV97FCr 「て言うか、あなたが何でこの授業に反対なのか書いてないよね」
→上記本文からコピペします。これが俺の反対理由→【「誹謗中傷してはいけない」ということを伝えるのに、このような過大なコストを子どもに強いるのが適切だとは、俺にはどうしても思えない。反対コメントでも指摘されてるように、別のメッセージが伝わってしまう可能性すらある。対人関係を教育するのに隣の席の児童の悪口を言わせて「ほら、○○君は嫌な顔をしただろう?誹謗中傷したらいけないよ」なんて教育はしない。別の方法がいくらだってあるだろう。】
id:tonapa 「多分に囮捜査的な手法だが、悪口はダメと理解していて当然の小六児童の間ですら、実際に「匿名前提の誹謗中傷が起きた」時点で意義ある授業だと思う。机上の知識だけで感情や悪意を抑え込める子供は意外と少ないよ。」
→その囮捜査は本職の警察ですら是非が問われてる(というか禁止されてなかった?)というのに、「机上の知識だけだと効果が少ないから」という理由だけで、その囮捜査を子どもにしかけるとは、それこそ問題では?
id:blue1st 「この人の論点とはちょっとズレるけど、「バレる可能性があるからダメだよ」的な方向での啓蒙は果たして正しいのかな、と疑問には思った。」
→コンビニ店長も同じ主旨のコメントしてたね。その通りだと思う。
id:kotetsu306 「"自分が誰かの悪口を書いたら、それが自分の名前付きで相手に伝わってしまう" ←「陰口たたいてたら『帰りの会』で晒し挙げ」なんて何十年も前からあるけど…?」
→ならやってOKということにはならないし、それを「大人が後出しで」やるのがどうなんって話よ。まったく別の問題です。
id:alph29 「そりゃベストではないけど、ただ「インターネットで人の悪口を書いてはいけません」と言う授業よりは(どうして駄目かを理解するためには)ベターだとは思うよ」
→ベターかな。どうだろう。そうは思えない理由は本文に書いたつもり。そこに同意してもらえないなら仕方ないな。俺の思い込みが強すぎる面もあるのかもしれない。実際にはそんな心配することじゃねーだろ、こんなんで壊れる人間関係なんてないよ・・・てことかな。
id:kain397 「例えば、生徒全員に対して個人面談を行うみたいな指導方法もアリだと思う」
→多いにありだよ。ただ学校にいる教師だけでは時間がとても・・・という話になって、結局は教育予算の話になる。この記事では私立小学校の話だけど、それでも予算ありきで動くのは変わらないし、なによりこの問題は最終的には私立公立関係なく、すべての子どもに共通する問題だからね。
ちょっと脱線するけど、現状では教育カリキュラムがネット社会に対応したものにないというのは、親として俺が日々痛感していることで、それ抜きにしても、親が子どものネットとの接触、エログロとの接触やゾーニングについて積極的に動かなければいけないと思ってる。だってさ、ファミコンしかなかった時代と、スマホやタブレットで隠れていくらでもSNSやエログロに接触できる時代とは、気を配らなきゃいけないレベルがまったく違うんだよ。小学低学年の娘に見せたくないコンテンツがいっぱいある。大げさな話じゃなくてさ、仮に積極的に見ようと思わなくたってスマホでウェブ閲覧すると下の方にアンアン言ってる広告がすぐ出てるよね。
もうここまで書いちゃうと何書いても嫌われるパターンかもな。俺ネットリテラシーなさすぎ。ごめんなさい。
id:fiiguy 載せたでー!
その2はこちら → http://anond.hatelabo.jp/20130904124430
小学生の頃、帰りの会で、毎日、先生が一言何か言うコーナーがあった。
それをずっと意識して生きて来て、今年30になり、
良かったと思うので、ここに書きたい。
先生はこのように言った。
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いいですか、みなさん。
勉強というのは、その70年を楽しむためにするのです。
役立てるための努力をしていないのです。
どうか惑わされないでください。
松っちゃんがテレビで、「いい国作ろう鎌倉幕府」に関するギャグを言ったとします。
だけどもし、みなさんが、鎌倉幕府を知らなかったら。
パスタを茹でる時、お湯を沸騰させないといけません。
だけどもし、君たちが、お湯の沸騰を知らなかったら、パスタさえ茹でられないのです。
みなさんが歴史の知識があれば、その場所は興味深く、物凄く楽しい場所です。
知らなければ全然楽しくありません。
例えば、話題になっている小説。
それを読みたいと思ったら、基礎的な小説の読み方を知らないといけません。
ただ、色々な公式を覚え、基礎を積み上げれば、必ず解ける問題です。
この、「基礎を積み上げれば必ず解ける問題」は、
これを論理力と言いますが、大人になって考え事をするときに必要な力です。
是非覚えておいてください。
去年は、阪神大震災がありました。
地震はどうして起こるのか。
どうしたら防げるのか。
何が必要だったのか。
身近なニュースを読み説くには、これから君たちがする勉強が重要です。
世の中や物事の仕組みが分かれば、楽しめることが増えます。
どうかその70年を楽しんでください。
楽しむために、たくさん勉強してください。