はてなキーワード: 帰りの会とは
あれは忘れもしない。5歳の頃に幼稚園でピアニカの発表会の練習をしていた時の事。
クソ寒い体育館?みたいなとこで練習してたんだけど、当時から陰キャ爆発してた俺はおしっこを漏らした。泣いた。周囲に気付いた人はあんまりいなかった。
この経験は人生初の壮絶な羞恥であり、今の俺の性癖の土台となった。
これも忘れはしない、広島の己〇小学校、四年生のとき、帰りの会でリコーダーで「パフ」という曲を全員で練習するのが当時の常だった。
俺は全力で演奏していたが、演奏中に隣の女子がリコーダーを置いて教卓の前に歩いていき、一人静かに出て行ったのを横目で見た。
全力の演奏が終わり、あとは挨拶して帰るだけ、なのに隣の女子は帰ってこないし先生も「待ってろ」と言い残して消えた。
ふと横を見ると水溜まりが広がっており、俺の机の足にもばっちり届いていた。おもらしだ。あの隣の内気な女の子が、おもらしをしたんだ。
もう9歳か10歳にもなるというのに、おもらしをした。それまでその子に興味を持ったことは一度も無かったのに、それからはその子の事を考えるだけで胸がはち切れんばかりだった。
5歳の頃でさえ、俺は死ぬほど恥ずかしく、泣きじゃくり、消えてしまいたいと絶望感が身を襲っていたのだから、倍の年齢である10歳でのおもらし、しかも教室中に知れ渡っている。
あの子の羞恥心と絶望感は筆舌に尽くし難いことを俺は知った。そして、酷く興奮した。
あの子は翌日普通の顔して登校した。いじめも起きず不登校もなく、みんな優しかった。俺はひとり「女の子はなんて強いんだろう」と感動し、また興奮した。
そして俺は今26歳になり、女の子が教室や体育館でおもらしする同人誌を買い漁っては抜いている。
放尿ではなく、着衣失禁で無いとダメだ。できれば人前が良い。大は範囲外。
漏らすまでずっと心の中の葛藤(「トイレ行きたい、でも手を上げたらみんなに『おしっこ我慢してるんだ』ってバレるし恥ずかしい」「あと〇分なら我慢できる…」)があるとなおよい。
そして葛藤とは裏腹にドンドンもじもじが強くなり、手はスカートの上から押さえてないともう漏れ出しそうな状況で、とにかく我慢するしかなくて、「おしっこしたい、おしっこしたい、おしっこしたい」以外の感情がなくなり、ふとした瞬間、押さえた手の隙間からおしっこが漏れ出し、何とか我慢するも止まらず、止められず、無力に自分の意志とは裏腹におしっこが溢れ出し、暖かさと微かなアンモニア臭が鼻孔をくすぐりながら、「もう〇歳なのに…」と不甲斐なさに絶望して泣きじゃくり、みんなに「漏らしてる…」と気付かれる終わり方。そういうので抜いている。
私が小学生時代を過ごした土地は、所謂ニュータウン。街がつくられる時にそのまま居着いたブルーカラーの家と、ベッドタウンとしていついたホワイトカラーの家が、住んでいる地域でわかるような土地柄だった。
とてもではないが治安がいいとは言えない街。小学生が放火をし、中学生が喫煙し、高校生がバイクで走り抜ける街だ。某児童売春斡旋組織事件発覚の発端となった小学生もうちの地元出身だった。
私の家は紛うことなきホワイトカラー一家だ。元ボンボン・サラリーマンの父と江戸っ子の母の間で、歳をとってから出来た一人娘として、それなりに大切に育てられた。世帯収入は高くも低くもなく、他に兄弟姉妹がいれば私立に行くのは許されなかっただろうレベルだ。しかし女子校に入れたいという父親たっての希望で、私の中学受験は私が園児の時に既に決められていたことだった。
そうは言っても、その受験計画は実にのんびりしたものだった。目的はあくまで「公立中学校に行かないこと」。小学校一年生から塾に行くような子もいる中で、私の中学受験は小学校四年生から始まった。それもSAPIXや日能研といった進学塾ではなく、まったりとした中堅の塾。10人に満たない同級生たちと、地元の中堅私立を目指す予定だった。
しかし、それでも学校の教員からの敵意からは逃れられなかった。
彼らは常にブルーカラーの子供たちの味方だった。ブルーカラーの子供たちはまさにギャングエイジといった風体で、私の学年は4年生になる頃にはすっかり学級崩壊に陥っていた。
そんな状況の中で、私のような「恵まれた家庭」の子供は、彼らを「根性論で更生させる」ための必要悪にするのに適していた。ホロコーストと一緒。共通の敵をつくることで、教員たちは彼らと連携をとろうとしていた。
まずは保護者会で、担任の教師が「私は中学受験と塾が嫌いです」と言い放つところからスタート。この言葉はあっという間に子供たちにも伝わった。小学生にとって、それがどんな不良小学生だったとしても、「先生の言葉は絶対」だ。「先生が悪いと言った」子は、いじめたっていいのだ。
休み時間に円周率の計算暗記表を見ていたら、担任にそれを取り上げられ、クラスメイトの前で激昂された。帰りの会で黒板の前に立たされ、「私は学校で塾の勉強をしました。本当にごめんなさい」と謝らせられた。それを皮切りに、ブルーカラーの子供たちからのいじめが始まった。
帰り道で待ち伏せされる。容姿についての罵倒や、時には両親への悪口もあった。ある時はマフラーで首を絞めあげられた。子供の力なので大事には至らなかったが、笑い声のなか、酸欠で頭がぼうっとしてきたことは覚えている。
「先生の言うことは絶対」。これは私にも有効だった。だから私は、自分は悪い小学生なのだと思い込んだ。
おうちが貧乏で、ちょっと不良みたいで、勉強は嫌いで、でも、中休みになったら一番最初に校庭に出てドッジボールを始める。そんな生徒が、「良い小学生」なのだ。クラスメイトたちが音楽室に立てこもって授業をボイコットしていた時、私は大人しく教室で待っていた。でも先生が好きなのは「仲間意識の強い」彼らなのだ。
悪い小学生なのだから、虐められて当然なのだ。そう思った私は、繰り返されるいじめを誰にも相談出来なかった。
また、これは本当は幸運と言えるのだが、殊にこの場合にのみ不運と言える、両親の誤算があった。私の成績だ。
私はどうやら「出来る子」に分類される子供だったらしい。入った中堅塾ではあっという間にトップに立ち、テストも満点以外とれなくなった。ここまで来ると両親にも欲が出てきたようで、私はバスで通える範囲に出来たS某超進学塾に通うようになった。そこでも女子ではトップの成績で、あれよあれよという間に御三家を目指すことになっていた。小学生にとっての成功体験は、その子の人格形成において重要だ。私は勉強するのが楽しかった。そもそも運動は嫌いで、中休みも図書館にいるような子供だった。かけっこしか見てくれない小学校の教員たちとは違って、塾の先生は私の「勉強の」成績を褒めてくれた。後は好循環だ。持って生まれたメンタルの弱さで、模試の前に嘔吐するようなこともあったが、私の中学受験は大方順調だった。
一方小学校生活は、ぼろぼろのメタメタだった。私の通塾先が変わったことがどこからか漏れ出て、「エリート意識を持った嫌な奴」の烙印を押された。低学年までは仲良くしていた子達も、私のことを大腸菌呼ばわりするようになった。
担任が、わかりやすく私に嫌がらせをするようになったせいだった。授業中に指されて答えても、「どうせ塾でやったんでしょうね」。覚えもないいじめ事件の首謀者にも仕立て上げられた。
だんだんと体調にも影響が出るようになっていた。学校に行く前に必ず吐いた。食道は焼けただれ、小学校5年生の冬には胃薬が手放せない体になっていた。
真面目な気質のせいで、私はそれでも学校に行くのをやめられなかった。親も流石に勘付き、担任に嘆願書を出した。しかしそれも虚しく、担任は私にその嘆願書を叩きつけ、「どうしてあたしがいじめなんて言われなきゃいけないんだよ!!」と私を怒鳴りつけた。
別の小学校に越境入学しようと思ったこともあった。別の中学受験をする同級生が、そそくさと学校を変えてしまったからだ。実際両親はその準備もしていた。しかし、自分の学校に問題があることが外部に晒されることを恐れてか、校長はそれに難色を示し、「○○ちゃんだって仲良しと離れたくないでしょ」と、結局その小学校から離れることは叶わなかった。
私の小学校時代は闇だ。小学生5年生の学芸会の劇で、悪役の親分のオーディションに受かったら、自分の母親と隣のクラスの教員が寝ていると噂されたこともある。最高学年になる頃には、私は両親と塾の教師以外の大人を信じられなくなっていた。
話は飛んで、中学受験の結果から言うと、私は第一志望には落ち、第二志望の女子校に通うことになった。そこは天国だった。私が休み時間に勉強していても、誰も怒らないし、誰も馬鹿にしなかった。正直それだけで救われたし、良き友人にも多く恵まれた。そして高校生活を経て、今私は東京大学に通っている。
もし父親に先見の明がなかったか、私が過度のストレスで受験全滅していたことを考えると、今でも寒気がする。
数年前の東大の入学式の祝辞は、ノブレス・オブリージュについての話だった。私も上野先生の意見に大方は同意する。しかし私は、もし「恵まれた人間」として支えなければいけないのが「あいつら」なのだとしたら、それは吐き気を催す話だと思う。
エリートが冷たいなんていうのは嘘だ。いや、もしかしたら真実な場合もあるかもしれない。でも、そんな言説よりずっと、「学のない連中は残酷で野卑だ」という言説が本当だと言うことを、私は知っている。
40秒で書き上げて出かけるわよ。
実際そんなこと出来たらいいんだけど。
あのさ、
いつも元気いっぱいでやってるけど、
実は風邪引いちゃってもう速攻で病院行ってジェネリック風邪薬もらって
それ飲んでご飯食べてお風呂入って寝たら一発で直っちゃったわ!
さすがに40秒で完治出来なかったけど、
おおむね体調はすこぶる良好で今日も中畑清さんばりの元気いっぱいよ。
そんでさ、
要はジェネリック薬でもいいよね?ってことだったと思うの。
でその薬価を調べたら1錠7円とか激安なのよ!
いやもとい
でも一瞬大友康平さんと虎舞竜の高橋ジョージさんと見分けが付かないことあるわよね!
私、大友康平さんと高橋ジョージさんが出てきても1組ペアが出来たってゲットしちゃうし
これってセーフよね!って言うわ!
そんなことより、
千円幾ら払って市販薬を買うより、
忍びないわね!ってそれトータルテンボスのツッコミの人ー!ってもう。
まあ早い話が
まだ火が通りきってないんじゃない?ってぐらい不安になるぐらいな炒め加減の方が、
余熱でどんどん火が入っていくから、
美味いモヤシ炒めの出来上がりよ!ってぐらい。
体調悪くなったら秒で病院行きなさい!ってこと秒だけに。
そういう時に日本の医療ってなんだかんだスゴいなーって思っちゃうのよね。
そんでさ
待合室で国会中継見てたんだけど、
ウーバーイーツとはってことでそれを丁寧に説明してた人がいて、
国会ってそんなレヴェルなのかしら?って
「誰々さんが誰々さんに噛みつきました!誰々さん反省してください!」って学級委員長がトークを回してる
まだ学校の帰りの会の方がレヴェル高いわよね!って思っちゃうことがあるから
なんかたまに国会中継を聞いてると
ぜんぜんほのぼのとしない感じと内容とのギャップで
たまに見ると面白いわよ。
どうせヤジ飛ばすなら、
ヤジじゃないけどボディービルの大会のかけ声した方が面白いわよ!
あれってあれをピックアップしたテレビ中継とかしたら私見そうなんだけど
そんな番組ないわよねーって思った次第よ。
と言うことでここまでで40秒たったので、
今日はこの辺にしておでかけするわね!
何もなかったら連絡しなくていいからね。
うふふ。
鮭おにぎり!
うかつにもパリパリ海苔のおにぎりをチョイスしちゃって車内で食べるには
しんなり海苔のおにぎりの方がよかったかしら?って思っちゃったわ。
と言うことで少し甘みを加えたハチミツも加えてもいいわよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
座っていた子が椅子から少しお尻を浮かせている間に椅子を引いて、その子が座ると椅子が無いため尻餅をつくやつ。
私も何度もやられたしみんなお互いに悪戯しあっていた。なので私も友達に同じことをしたらその子が泣いて先生に注意された。みんなやってるのに私だけ。
あとは、クラスの男子が私にちょっかいをかけてきたことがあった。あまりにもしつこいので頭を叩いたらその日の帰りの会で名指しで「叩かれて嫌でした」と言われた。
相手が先にやってきたこと、何度辞めてと言っても辞めなかったことを言おうとしたら担任に「いいから謝りなさい」と言われた。
納得がいかなかったが抗えないので謝る。相手はドヤ顔して帰っていった。
イライラしながら帰ろうとしたら担任に呼び止められ「ああいう時は大人になるんだよ」と言われた。まったくもって理解できなかった。あちらにも非があるのに私が悪者になれば全てが丸く収まるから、と意味がわからない。
あとは、給食にプリンがてたことがあった。プリン容器は食べ終わったあと、図工か何かで使うため各自洗って窓際で乾かすよう給食前に担任からみんなに言われていた。
私は言いつけを守りしっかり洗って窓際へ置いた。
だが、クラスの誰かが1人だけ洗わずに汚いままベランダに置いた。
それを見つけた担任は少し怒りながら「洗ってないのを置いたのは誰か?すぐに洗ってきなさい」とみんなに呼びかけた。だが誰も出てこず。多分名乗り出たら怒られると思ったのだろう。
先生も頑固なので犯人が名乗り出るまで待った。時間が経っても名乗り出ない。
挙句には「ちゃんと自分で洗っておいたなら置いた場所覚えてるよね?」と言い出し、自分が置いた容器を各自取りに行くよう指示した。
みんなどんどん取っていく中、あの洗われていない容器と1人の生徒が残った。だが、その子は自分が置いていた容器がなくなっていると言った。
先生は犯人を知っているようだがあえて自ら指摘せず、自己申告させたかったらしい。だが、帰りの会が長引くにつれどんどん名乗りにくい雰囲気が出てくる。
10分で終わるのが30分まで伸びた。
途中、習い事をしていた男子が「習い事に遅れる」と声を上げた。
先生は「このあと用事がある人は帰りなさい」と指示した。半分近くが帰った。
その後、カップが空いていた場所は教室の奥側の位置だったので前側の人は帰りなさいだとか、先生はあなたが洗いに行くところを見たのであなたは帰っていいとかどんどん人がいなくなった。
最終的に残ったのは私含め4人ほど。
それでも犯人は絞れなかったのでお開きとなった。
帰り際先生に呼び止められた。
じゃあ帰せよ。1時間以上残ったのになんだそれは、と小学二年生の私はイラついていた。
人が少なくなっていく中、自分の無実もはらせず、周りからは「あいつが犯人じゃない?」と陰口を言われたあの惨めな時間。とても辛かった。
結局犯人は日にちが経っても現れなかった。あの容器は見せしめのように教室の前のほうに置かれたままだった。犯人が出るまでこのままですと担任は言い切っていた。
だが、数日後、クラスの女子2人が「あのままだと気分辛いから洗いたい」と名乗り出て容器を洗った。
じゃああの無意味な時間はなんだったのか。私が1時間以上も無意味に拘束されたあの帰りの会はなんだったのか。
デービッド・アトキンソン先生の本を読んで思い出しました。
僕が根暗になるまでの話です。
僕には年の離れた兄がいます。
学校でも人気者の兄は僕の自慢でしたし、憧れでした。
そんな彼が地元のサッカークラブに所属していたこともあり、僕もサッカーを始めます。
が、これがてんでダメ。
僕はサッカーが全く上手ではありませんでした。
するとどうでしょう。
とりあえず試合には出してもらえるのですが、ベンチのコーチからは試合中に大きな声で幾度となく叱咤を受けることとなります。
『あ~、だめだよ、だめだよ、〇〇ちゃ~~ん…』
という具合に。
初めこそ「上手いプレーで見返そう!」と何とか食らいついていました。
しかしそれすらも上手くいかず、徐々に心がすり減ってゆき、結局は委縮してしまいました。
常にコーチに見られている。
正直、試合の勝ち負けやなんてどうでもよかったです。
そして"その場しのぎ"を覚えたのもこのあたりです。
とにかくコーチに怒られたくありませんでした。
理解してもらえないかもしれませんが、これに関して印象的なエピソードがあります。
一度だけ、どうしても試合中にウンチに行きたくなってしまいました。
普通ならば「おなかが痛いです」ってベンチに駆け寄って一旦交代で済む話なんでしょう。
でもコーチの性格上、『試合前に行っとけよ...』なんて言われるのは目に見えていたので、どうしても言い出せなかったんですよね。
言っている側の内心では「まぁしょうがないか」程度に考えての言葉でしょうが、当時の自分はその一言を受け止められるだけの余裕がありません。
そんなダサイ状況ですから、普段の学校生活なんかにも影響が出てきます。
一度でも他人が自分をどう思っているのかを気にしだすと、何もできなくなっちゃうんですね。
今までは大好きだった体育の時間、ウケたくて熱心な準備をしていた帰りの会での一分間スピーチも。
この頃にはだいぶ日本人らしくなってきましたね。
そうしてだんだんコミュニケーションが下手になっていくのを感じてました。
自分が殻に閉じこもってる様子がはっきりと自分で見えていました。
そうして時間を無為にしている自覚と共に、その場しのぎを繰り返してきました。
何もできないし、とことんネガティブな自分にどんどん嫌気が差していきます。
特筆すべき特技なんかありません。
ちょっとできた勉強でさえも、大学ですっかり自信を失ってしまいました。
自分の場合はサッカーでしたが、他の根暗達は運動会やいじめなんかがキッカケだったんだと思います。
なんで経済系の本を読んでこんな事を思い出すのか。