はてなキーワード: 陸上部とは
男の俺の写真をマスターベーションの妄想に使うオカズにしてくれても別に気にしないが。
陸上部で胸元がはだけ気味で写っていてセクシーだ… と凹んでいた。
変なの。俺は当時そう思ったよ。
男にアルバム写真でオナニーされる恐れ。女性はそういうのを気にする生き物らしい。
俺は正直、マスターベーションに利用されるのの、何がそんなに嫌なんだ?? って思う。
別に他人の頭ン中で、どう思われてようが、どうでもよくねーか。
男女でどうしてこんなにも違うんだろうか。
想像力が追いつかないから全然まったく同情できなくて申し訳なさが募る。
『オナペットにされる女の辛さ』 の男バージョンって何なんだ?
ある人の徒然なる、日記。
最近はちょっと走ることを大切にしている、元々陸上部だったからかな、あんまり嫌じゃない。
家の近くに1kmを周回できる場所があって、そこをちょうど何周か走っていた時の話。
帰国する前にちょっと話したSHEとの会話。SHEは彼氏がいて、それは僕もい”た”から別に問題ではなかった。
帰国してからというと、この地でSHEの姿ばっかり探していた。元々人の顔を見る癖があったけど、SHEっぽい人がいたらちょっと追いかけちゃうくらいに。悲しいな、
周回する僕のちょっと前を水色の自転車と、ダサいT -shirtsの女性が向かってきた。見たことのある黒シャツ、マジで気にしてない時の格好だ。
僕は一瞬諦め、その後すぐにやっぱり話したい、と思った。
風を切る、差が詰まらない。あの時練習していた僕は、もうどっかに消えていたってことに走りながら気づいた。
風というのは二パターンある、自然現象のパターンと自分が走ることで生まれるパターンだ。
昔の僕はきっと君という風に追いつくくらい風を切れたはずだ。でも今の僕にはそれができない、SHEは風を切って角を曲がって消えた。
風と共に去りぬという話がある。
きっと最初聞いた時は、風とともに去ら”ない”と誰もが思うはずだ。僕もそう思ってた。
でもそれは本当は”去った”という意味ってことを後から知る事になる。英語で見ればわかりやすい、"-Gone With The Wind-"である。
僕もSHEは風とともに”去りぬ”と思っていた、どっかでもう一回交わるんじゃないかって。でも本当は風とともに去りぬ、なのかもしれない。君の思いをアンビバレントに捉えたい、そんな僕の気持ちが裏返しになって。
彼女は風とともに去りぬ
小3からやっていたスポーツだったが、中学の時に持病の喘息が悪化したことから
高二の夏、地域のBBQに部活帰りジャージで妹を迎えに行った時、ビールを飲んでいた30代くらいの
初対面の男性に「部活何やってるの?」と聞かれ、「陸上部でマネージャーをやっています」
と答えると、「マネージャーって普通可愛い子がやるもんだけどね」と真顔で言われた。
ビックリして当時は何も言い返せず、隣にいた母が笑って誤魔化していたが、アラサーになった今、
たまに思い出してイライラすることがある。
確かにお世辞にも私の顔は可愛いとは言えないし、酔っ払ってたから思った事そのまま出てしまったのかも
しれないが、初対面の高校生に、しかも隣に母親がいるのに、酷すぎないか?
「その発言、大人とは思えないです。自分のお子さんが同じ事言われたらどんな気持ちですか?」
「きっしょ。」
「今の発言撤回して、謝ってください。初対面の人にそんなこと言われる筋合いありません。」
なんと答えれば良かったのだろう。
笑っていたわけではないので、冗談で言った訳ではないと思う。
思い出す度に、こう言い返せば良かった、その場で泣けば良かった、と悔しい。
あのオッサンが誰で、今どこにいるのかも知らないが、
マジでこういうこと言ってる人がいてびっくりする
電卓やパソコンをニュースで聞かないから使わなくてもいい、と思ってるんだろうか
ニュースバリューは変化の大きさを元に定められるので、絶対的な価値とはそれほど関連性がない
ちなみに同じことを7,8年ほど前のAIブームのときにも聞いた
といった感じで
まぁ確かに持ってるデータをとにかくAIにぶちこんでみんな失敗してたので
その後に幻滅期にしっかりと入ったのは確かだけど、誰がどう考えても無くなるわけが無い、と思ってたよね
と何が違うんだろうか
最近だとカメラで撮影したら全部答えが分かるようなものもあるよね
答えを知りたいっていうだけならそれを使えばいいと思う
ただ、宿題って答えを知るためにやってるんだっけ?
そもそも何を勉強しているのかを理解していないとそういう行動を取る気がする
主にMicrosoftが吹聴して回ってるんだが
Cognitive Searchと組み合わせることで社内に閉じた内容でもChatGPTが答えてくれるようになる、というもの
原理的には確かにそうなんだけれど、そもそも社内に閉じた内容がそんな綺麗にまとまってるわけがない
というか、内容がまとまっているならChatGPTに聞かなくてもいいしそんなに困ってない
仮にまとまっていたとすると、10クリックしないと情報に辿り着けなかったのにChatGPTに聞けば教えてくれる、という利点はあるけれど
じゃぁそこにいくらお金を出してくれる?というと、まぁ出さないよね
おまけにBingのChat機能、全然まともに答えてくれなくて結局Google使うことが多い
OpenAIのChatGPTか、Googleかのどっちかで十分な感じでBingは逆に中途半端になってる
同じノリで社内データを検索してもまともなの返ってこないと思う(というかやってみた感じでは返ってこない)
あと、ChatGPTはめちゃくちゃ膨大な量のデータと、めちゃくちゃクレンジングされた綺麗なデータを学習させてあるので
少なくともクレンジング作業はかなり必要だし、それができるデータならChatGPTいらないと思うんだよね
ChatGPTを使ったことがある人ならみんな分かるはずだけど
ビジネス利用するにしても、使う側の質問が完璧じゃ無いのに回答に完璧を求められるわけがない
大事なのは質問と回答を繰り返すことでだんだんと本当の質問と本当の回答に近付いていく、という行為だし
なのでChatGPTに期待するのは社内や地域特有のことを答えさせるように頑張るんじゃ無くて
ただただ会話相手になってくれるだけでいいんだと思う
https://anond.hatelabo.jp/20230628091536
文句を言うたら自分で作れ言うてじゃあ料理本立ち読みしたりネットで色々調べて弁当作ったろ思ったら食材勝手に使うな言われてだったら食材買う金くれやって言うたら無駄遣いするな言われて結局詰むやつを私も経験者したからわかるし小6のとき家庭科の授業でエプロン縫う課題出されたときうちにミシンなんかないからお前が針で手縫いしい私は縫い物なんかわからんから教えられんし最近お前が米を大量に食うせいで家計が逼迫してるんや的なことを言われて肩身の狭い思いをしながら家のばっちいタオルとか古着渡されて丈が足りひんもんだから同級生に笑われながら魚屋の前掛けみたいなクソダサい汚いエプロン作る羽目になって担任が焦って前掛けに筆と白い絵の具で魚の文字を書いてくれてこういうのも世の中にはあるからなって守ってくれたけど結局クラス中の笑い者にされたしもちろんそんな親だからお使いさせるために携帯は渡されてたけど当時流行ってたDSとかの娯楽品なんか一切買ってもらえんし私が学校で浮いてるとかでハブられて笑い者にされててもそんなん誰でも同じや大人になったらわかるとか言うて一切意に介さず親戚を呼んで酒盛りをするときには人生で唯一縁日で買ってもらって私も馬鹿だからそんなのでも親に買ってもらったものだからって大切にしてたんやけどスポンジ製の鹿の角を被ってピーナッツとか投げられながら親戚のキモおじとか母親の友人の息子に服脱いだりお尻を見せて卑猥な芸をすることを強制されたりして結局母親の友人の息子には犯されてそのことを親に訴えても相手にされんから自傷してホンマなんや信じてや言うたら世の中誰でもつらいんや甘えるな言うてビンタされて流されたし中学になると身長が170cm超になってお前そんな立派な体してるやんから運動しろやプロアスリートになって稼げや言われて無理やり陸上部に入れられたり美容院も行けなかったから前髪パッツンロング維持やったけど自分でハサミで切ってたし私が使ってええ言われてる家のシャンプーがかなりケミカルなやつで肌が真っ赤に腫れてボロボロになるしフケも大量に出るから変えてって必死に訴えても相手にされず真っ赤に腫れた頭皮を親に見せるために自分で一部を丸坊主にして頭皮がこんなに真っ赤に腫れてるのに何もしてくれないのって訴えてもやっぱり相手にされなかったとか本当に酷い扱いをされすぎた結果楽しみといえばお小遣いゼロの中欲しい物とか好きなものの絵をノートに描くことくらいだったけど友人関係には恵まれたので長期休みには家出みたいな感じで友達の家に長期に渡って泊まり込んだり高校のときには家に放置されてたベースを学校に持ち込んで同じ意味軽音部の子に直してもらって夜中にこっそり見てたけいおんの話題で意気投合してコピーバンドやったりその時だけは幸せやったけどマジで親ガチャミスると10代を棒に振るしうちは肉は体に悪いし贅沢品や日本人なら米で腹を膨らませろや味噌汁は最後の一滴まで飲めとかホンマヒドい食育で結局中学のとき栄養失調で陸上部の練習中にぶっ倒れて救急車呼ばれて病院行きになったけど親は意にも介さずお前体力ないなとか揶揄してきて結局親は両方とも塩分糖分摂りすぎで後年糖尿病になってるんやけどもう絶縁したしどうでもええんやけどあいつらどんな教育受けて育ったんや思うし今や学校クラス内での格差で自殺する事例もあるちゅうのに子供の訴えに耳も貸さずひろゆきみたいに論破して気持ちよくなってる辺り件の馬鹿女は本当に幼稚なんやろうな思うし親の役目は子供を保護することでもトロフィーライクなペット扱いすることでもなく子供を一人の人間として自立させることや的な話をそこかしこで聞いたが全くその通りやと思うしイライラしてるときに自分の子供につらく当たってスカっとしようとか子供の自立に必要な家事全般のスキルを一切習得させず子供と同レベルに立ってマウント取って何も成長させず一定期間が来たら人間不信を植え付けたまま勝手に社会に放逐するその風潮こそが少子化の原因やないんと思う次第だしトー横とかドン横オア下池公の子たちに聞いても同じような生い立ちやからやっぱり私やあの子達の親に当たる氷河期世代は碌に勉強せんとアニメゲームファミコンサブカルに代表されるキモオタコンテンツに夢中になって欠陥品に育って発達障害拗らせた結果大人になれんクズに成り下がってそれを見透かされて仕事貰えへんのを社会のせいや政府のせいやと責任転嫁してるだけちゃうかとホンマ思いますわ
時折、ふと思い立ってPCの画像を見返してると大きさ240x320の画像群がずらりと並んだフォルダを見つけて開いてみたら自作のアナログ絵をブツ撮りした画像が並んでて羞恥に塗れたリア厨時代の痛々しいネト活の記憶が光の速度でAMSから逆流するように蘇り心臓バクバクさせながらフクロテナガザルのケイジくんみたいな奇声を上げてイキュラスキュオライキュラスキュオラキュラスキュオラ!することってあるじゃないですか。ありますよね。あるんですよ。
私も昨日、昔撮ったきゃわいいきゃわいい飼い猫の写真を久々に見ようかと古い順に画像をソートしたら見ちゃいましてね……中学生の時に愛していた絵師様に向けて描いたキモすぎるラブレター的なアレとかアレとかアレとかをさ。
もうサムネ見た瞬間ビクッとなったんですけど、じゃあはよ消せよって話なんですけど、そんなんでも色々思い出が詰まってるんですよね。キモさの中にも美しさがある、痛さの中にも気持ちよさがある、親しき中にもレズがあり、みたいな。
そんな中学時代の汚らしくも輝かしい青春の記憶を今、絶妙に嘘松を交えながら赤裸々にここに綴る。
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私が絵を描き始めたのはそれこそ物心ついたときからで、母に聞かされた話によると同じ保育園に通ってたお隣の子が上手なおジャ魔女どれみの絵を描いて私に自慢しに来たのが始まりらしく、対抗心を燃やした私は連日おジャ魔女どれみを描きまくっていたらしい。その傾向は小学生になっても変わらず学校の休み時間はひたすら自由帳に絵を描き、帰宅しても夜まで絵を描き、休日は画用紙と絵の具を使ってカラー絵を描くという毎日を送っていた。
そして小学3~4年頃に美術館で観たアンドリュー・ワイエス展に衝撃を受け西洋美術に関心を持つようになり、本格的に勉強したいと思うようになるのだけど…。
5年生になった頃には私の身長は170cmを超え、親にも親戚にも「アンタそんな立派な体してるんだから何か運動したら」と事あるごとに言われるようになり、当人らは特に他意無く適当にそう言ってたんだろうけど、言い返せない、断れない性格の私にはその一言が重くのしかかり、渋々陸上部に入部する。
さすがに身長の高さゆえか男子女子問わずほとんどの部員より足が速かったためそれなりに記録を残すことができ充実感もあったのだけど、やっぱり勉強以外の時間は絵を描きたいし、特に休日に大会があるときなんかは切実に辞めたいと思った。でも親は陸上頑張ってて偉いね、なんて言うもんだから。別に親は悪くないんですけど。
そんな調子で2年間を過ごし、卒業まであと3ヶ月という頃にはすっかり絵を描くこともなくなってこの世で一番アンドリュー・ワイエスから縁遠そうな、カリカリに日焼けした野暮ったい私がそこにいた。そして中学進学に向けて色々と準備をするなか親に渡された携帯電話、これが私の人生を良くも悪くも大きく変えてくれたのだった。
当時インターネットなんて全くわからなかった私は、漫画誌に載ってたフォレストページの小さな特集を頼りに、検索でたどり着いたイラストサイトのリンクやランキングサイト経由でその手のサイトを読み漁っていた。そういえば私絵描くの好きだったなとか思いながら。そして、ある絵描きさんの作品に一目惚れし、その方のサイトの掲示板に初カキコ…ども…してしまう。そのHPは0zeroというドメインで、一番画像を綺麗に貼れるとかで絵描きに好まれていたとかなんとか。
コピックエアブラシで描かれた色鮮やかな夕焼けと少女、油絵の具の力強いマチエールの上に描かれた少女、鉛筆で描かれた量感溢れる少女の裸体、どれも本当に素晴らしかった。何で全部少女の絵なんだろ?と思ったけど。
もう一生懸命考えて思いつく限りの称賛を書いた長文を投稿した瞬間からドキドキですよ。もう興奮で夕飯も喉を通らない有様でF5アタックみたいに更新しまくってひたすら返信を待ち続けたのだけど、最初に貰ったのは社交辞令的な一行返信だった。がっかり…。が、後日めげずにこの絵はどんな方法で描いたんですか?それってどんな画材ですかなんて引き続き書いてみると丁寧にコメント返してくれて、油絵の具ってそんなに高いんですか!?私のお小遣い月1000円だからとてもじゃないけど手が出ませんね、なんて言ってみると「あなた何歳?」って。んで11歳です、と。すると、「じゃあ私の持ってる絵の具あげるよ、今度会お?」と言われて。
しばらく固まった。どう返信していいかわからなかった。それで母親にそのことを相談したら最初は「馬鹿な子だねそんな知らない人とやり取りして」そう怒られたけどどうしても油絵の具が欲しくて、最終的に私書箱経由で絵師さんが電話番号を教えてくれて、絵師さんと母が直接電話をし、母同伴で絵師さんと会うことが決まった。そんときリアルにジャンプしてガッツーズしましたよ。
そして絵師さんは隣府県に住むとても礼儀正しい芸大1年のお姉さんで、母としては好印象だったらしい。実際、母も当日たくさんお土産渡されて即堕ちしてたし。
春休みを迎える頃には私はすっかりお姉さんのサイトに入り浸り、連日絵を投稿しては色々アドバイスしてもらったりキャピキャピ雑談して大学生の世界を教えてもらったりと楽しい日々を送っており、さらにはお姉さんの通う芸大の卒展に連れて行ってもらったりして私はすっかり美術の世界に舞い戻り、既にお姉さんのことが好きになっていた。本当にお姉ちゃんが出来たみたいだった。そして両親に東京の美大に行きたいと言ったらすげえイヤな顔された。そりゃ確かに、費用がね…。
そして中学最初の夏休み、一緒に宿題を片付けて合間に絵を教えてもらうという名目でお姉さん宅に長期のお泊りをすることになるのだが、これがあかんかった。まああかんかったよ。
隣府県の郊外にある2Kのアパート、そこがお姉さんの住処であり創作の現場だった。部屋中に飾られた素描や水彩画、見たこともない大きなカルトン、イーゼルに立てられた描きかけのよくわからないけどかっこいいのはわかる油絵、全部を束ねればお姉さんの腰くらいになりそうな大量の絵筆と少しだけ錆びついたナイフが並んだテーブルに乱雑に置かれた混沌色に染まったパレット。そして棚に並べられた大量の本とCD。
やべ、カッコよすぎて漏らしそう。でも同時にいつもどおりの田舎臭いガキ臭い格好をしてこの部屋に足を踏み入れた自分が凄く恥ずかしくなった。
ただ、テーブルの上に飾られた「スーパードルフィー」なる人形だけは正直キモイと思ってしまった。学生服を着た二体の少女人形がお互い腰に手を回して座りポースを取っているのだが、その光景に何か変態的なものを感じたというかのちに私の勘は完全に正しかったのだと判明する。
うん、確かに宿題はすごい勢いで片付くし、特に苦手な数学は私が完全に理解するまで根気強く教えてくれて本当にありがたいし、絵は美大予備校でやるレベルのことを丁寧に惜しみなく教えてくれる。家事も一緒にやって料理もそのときにちょっとだけ覚えたし、お姉さんが影響されたっていうオノ・ナツメの漫画とかミギーのイラストとか、他にもボナールとかセザンヌとかいろんな画家の画集を見せてくれてカッケー洋楽を教えてくれたり一緒にビデオを借りに行って映画もたくさん見せてくれるという、いたれりつくせりの家庭教師っぷり。おお、私の田舎臭が浄化されていく…。
ただね、この人近いんすよ、距離が…。
ちゃぶ台に座って宿題やってるときはお互いの肩が密着するくらいくっついて耳に息がかかるくらいの距離で喋り、計算間違いしたり誤字ったりすると足裏をくすぐってきたり、考え込んでると腰に手を回して太ももを撫でてきたり、絵を描いてるときはまたも背中にピッタリ身体を押し付けて色々助言しつつも肩から肘までねっとり撫で下ろしたりしてきて、上手に描き終わったときは思い切り後ろから抱きしめて私を褒めながら脇腹をくすぐってきたりして、とにかくボディタッチが激しい。
で、私がくすぐったがるとお姉さんもケラケラ笑って冗談っぽい雰囲気になるので正直イヤなんだけど拒否しずらいというか私もちょっとくすぐり返したりしてるうちにお互い距離感も縮まり、遠慮がなくなってきてタメ口で喋れるようになったのもあっていつの間にかすっかりお姉さんのボディタッチを受け入れてたんですよね…。
そうこうしてるうちに2週間が過ぎ、翌日は待ちに待ったコミケに連れてってくれるというのでもう我は有頂天である。私はね、去年から流行ってたボカロが気になって気になってどうしてもCDが欲しかったのだよ。しかも事前に宿を取ってくれていて二日目も参戦できるという。そんなん友達に自慢しまくるしかないやん!!!!
その日の昼には車で東京に向けて出発し夜にはホテルにチェックインしました。
そして念願の初コミケ1日目はお姉さんのサイトに常駐している何人もの神絵師さんと会場で初対面し手描きイラストを沢山プレゼントしてもらい号泣しちゃったり、(特にSAINTさんという鳥居、紅葉、月夜と和服の女性をモチーフに厚塗りリアルタッチの作品を描いてる絵師さんが好きで、その人に貰った絵はその日一日中眺めてました。しかもクソイケメンだった)35度の炎天下で水分補給を怠った結果熱中症でゲロ吐いてぶっ倒れたりと惨憺たる有様でしたが、二日目には「ねんがんのSupercellのCDをてにいれたぞ!」したり恥ずかしながら寄せ書きコーナーでミクを描かせてもらったりと最高の一日になった…はずでした。その夜の出来事を除けば。
結果的に言うとその日の夜お姉さんに犯された。ホテルでシャワー浴びてるときにお姉さんが風呂に突撃してきて、私の身体を洗いながら今までにない冗談抜きのマジ顔で全身くすぐりまくってきて、特に脇腹と胸を執拗に愛撫されてイかされた。抑えきれない全身の痙攣に襲われ貧血でぶっ倒れたときみたいな状態になって何の抵抗も出来なくなったらベッドに連れてかれて体感的には一晩中乳首いじられながらクンニされて涙流しながら喉が枯れるほど叫んで何度も何度もイかされ続けた。ちなみにそのときの私は性的欲求なんて皆無だったしオナニーすらしたこともない。そりゃ12歳だしね。
そして帰りの車で初めて会ったときから私を性的な対象として見ていた、卒展で再開したときには実行するかはともかくこの計画を立てていた、そしてこの夏に私の日焼けした肌を見て、直接触ってみて欲求を抑えきれなくなったとの供述をし始めた。曰く私はくすぐりに対しての反応が非常によく、沢山くすぐって何度も乳首にタッチした日は洗濯物に出した私のパンツにしっかりヌルヌルしたものが付着していたので、着実に性感開発されててこれはいけると確信したと。
帰路はずっと涙が止まらなくて、でもお姉さんは自分は今で言うとこの性的マイノリティだとか言いつつ潜在的に君はレズだからこの経験は後に良いものになる、私のこともホントは嫌いじゃないはずとかぬかしやがってさ…。確かにまだ嫌いではないよバカ野郎。お前にされたことが予想外かつショックすぎて泣いてるだけだよ。んで家に帰ったらもっかい同じことするから嫌なら蹴るなり殴るなり親や警察に通報すればいいとか言い出しやがって。
で、その日の夜またお姉さんに風呂で全身くすぐられて乳首いじられながら玩具使いつつクンニされまくってイきまくった。俺は今度こそ限界だと思った。その頃にはマジで気持ちよくて、ていうか他人に逆らうのが苦手な気質のせいかお姉さんに反抗する気持ちが湧かなくなってたので。
その日以来、私はしばらくネットを止めてお姉さんとの連絡も断っていたのだけど疲れからか不幸にもお姉さんのサイトにアクセスし私書箱から久々の連絡をしてしまう。私もうすぐ冬休みです、と。
そしてサイトの掲示板ではクリスマスに皆でパーティーしようかという話にいつの間にかなってて、新しくサイトの一員になった秋間(かずひさんだっけ?もう名前忘れたごめん)さんというパステル画の達人も加わり互いの絵を持ち寄って見せ合おうという話になる。
大阪のカラオケボックスに集結したお姉さんに一生さんとかSAINTさんとか秋間さんとか特定されないよう他1名と記すけど5人の美大芸大ガチうま絵師さんたちの生イラストを観て立ち直らねば、あの日覚えた行為の名をググって知って自慰行為も知っちゃったけどやっぱ真剣に絵を描かねばという気持ちになるわけですけど、解散後にまたお姉さんに誘われていつものアレをされて、もう全部が台無しよ。
そして図々しくも来年の夏休みもまた一緒に過ごそ?とか言われて。まあ結局そうなるわけですけど。
でも翌年の夏休みは他の絵師さんにも事前に連絡を取り付けてお姉さんの住所を教えてたおかげで日中はセクハラされず夜限定になったわけですけど。そして夜にはお姉さんの所有する大人の玩具がつよつよすぎてまた屈してしまうというかそれ耐えるの絶対無理ってなって中2のときは毎週のように逢って電マの威力に屈服させられたりしてたわけですけどさすがにお姉さんも4年になると私を相手してる余裕が無くなったらしく卒業と就職の準備に時間を割き始めて私はお姉さんより3歳年上のSAINTさんと蜜月になって、彼は愛知住みだけど何度かデートしてたらお姉さんの耳にその情報が入ってしまい、また自宅に呼び出される。
SAINTさんは紳士すぎて何もしてくれないので久しぶりのお姉さんの責めに期待してたら駅前で対面即泣かれて、よくよくその理由を聞いてみたら「あなたホントは私のこと好きなのに男と付き合ってどうすんの思春期の一時の感情に惑わされないで絶対後悔するよそれはそうとしてまたあのときの快感を思い出させてあげる」とか言われてお姉さん宅連れて行かれたわけですけど、連れ込まれた先はいつものあの部屋とは思えない綺麗に片付いた状態で「私東京に就職に行くけど貴方は来れないよね」なんて言われてまた泣きつかれて。親には聞いてないけど多分無理でしょと答えたら今までにない本当にあたたかい感触でギュッと抱きしめられて「好きだよ…」と言われた。今だから言えるけど私もお姉さんのことが部分的には嫌だったけどやっぱり大好きだった。そしてもう今までのように会えないんだなって、その時悟って泣いた。
でもお姉さんに教わったことはずっと忘れないし、私は必ず絵の道に進むしそのとき必ずまた会えるよって言ったらお姉さんはコミケ帰りの私みたいにぎゃあぎゃあ泣き喚いてて、その姿が可愛くてギュッと彼女を抱きしめた。これが私達には一番心強くて、私達の絆を感じる行為だってわかってたから。そして携帯を取り出してお姉さんのサイトを開いて「私はいつもここにいるから、寂しくないよ、みんな一緒だよ」って。
その日はお姉さん家に泊まってずっと抱き合って一緒のベッドの上で寝てた。SAINTさんとの浮気をチクチク糾弾されながら。
その後、私が3度目の夏を迎えた頃にはお姉さんのサイトはすっかり過疎っていて、連絡しても一月に一回程度、たまに返してくれるくらいの頻度になり、絵を描きつつもバンド活動にハマってお姉さんにそのことを報告しようとしたら去年東京で結婚したとの書き込みを期に更新が途絶えていて。私もこのサイトのことは忘れよう、あの頃のことは忘れようとなってtwitterやpixivに活動の場を移すうち、いつの間にかお姉さんのHPは(0zeroからecacoへとドメインを変えて必死に延命していたらしいけど)サービスもろとも綺麗サッパリ無くなっていました。
一応中高で陸上部に入って運動はしていて、大学で卓球部(サークルではなく体育会)に入ったのな、
卓球部と言えども一応大学の体育会だったわけで、それなりに激しい飲み会だった。(もう20年ぐらい前の話だな)
そこで定番の一発芸を新入生はやらされるんだけど、そこは先輩たちが親切で、ちゃんとジョークグッズを一人一つ用意してくれるんだよね。
他のみんなに何が配られてたか忘れちゃったけど、俺に用意されたのは「飛び出るパンツ」。
マジックテープの止めを外すと、ばね仕掛けでちんこみたいなものがびよ~んって飛び出るやつ。
先輩「これ履いて開脚前転してちんこ出せばいいから。去り際はふすまにちんこ挟んで痛がれよ。」
それをきっかけにだんだんと人前に出ることが苦じゃなくなった。
あれがなかったら大学時代ずっと「あ・・・、う・・・・。」しか喋ってなかったかもしれない。
今でもいい思い出です。
中学校の合唱コンクールの練習で、私の前で歌っていた合唱部の子に一部分、音が外れてるから直せと何回も注意をされたことがあった。最初は直そうとしてみたのだけど何回やっても上手くいかず、たしか最後は声を小さくするか、口パクで歌っていたと思う。
その時に、音楽の先生に、注意されている事を話したら、CDを貸すから家で練習をしてこいと言われた。でも、その時に私は正直、学校の合唱コンクールでなぜわざわざ家にまで持ち帰って練習しなくてはならないのかと思った。もちろん、音楽の先生は練習してこいしか言うことはないだろうなと今なら分かる。
他にも、中学生の体育のリレー授業で、私の足の遅さが原因でペアの陸上部の子を怒らせてしまったことがある。
その子は別に怒っていた自覚も無いのだろう。ただ3年生の時期だったから内申点に響くのが不安でヒステリックに私にあたったのだと思う。中学生だから仕方ないと今は思う。
その子は仲間の陸上部の友達と3人で、リレーが終わる度、集まって、なんであの子のペアなの?なんで出来ないの?とか、私のことをこそこそ陰口を言っていた。プリントにはタイムを記入しなくてはいけないけれどタイムも見せてもらえなかった。3対1の圧で、当時の私は怖さと劣等感と恥ずかしさで、授業終わりまで涙を堪えることができず、リレーが終わり次第、授業終わりののチャイムが鳴るのを待たずに、体調が悪いと言って保健室に行き、泣いた。保険室の方が同級生に見られない、次の授業に遅れても大目に見てもらえると思ったからだ。
保険室の先生は優しかったけれど、そんなに泣くなら足を速くする努力をしたら?と言われた。でも、やっぱり私は、なんでそんなことに時間を使わないといけないんだろうと思った。相手が劣っていたらぞんざいな扱いをしていいのだろうか。
ここまでの話だと私は全く努力しない人間に見えるだろう。いや、実際私の努力なんて他の人から見たらゴミみたいなものの可能性だって大いにある。
こんな私でも運動が苦手なのに、結構ガチな運動部で毎日練習していたし、毎朝走る練習をしていた時もあった。水泳も泳げなくて授業で晒し者にされて、自分でプールに練習しに行った。(下手くそすぎて友人や知らないおじさんに馬鹿にされまくったけど)
進学後は絵が上手くなりたくて苦手なデッサンを勉強し、毎日授業後も残って描いていた。
苦手な接客がうまくなろうと、人と関わるバイトをしたり、発表のときに大きい声が出せるようにとカラオケで練習したり。
他の人の努力に比べたら些細なものだけど。(複雑で文章に出来なかったけどもちろんチームワークのために努力したこともあったよ。寧ろ、お節介だから、そっちの方が多いよ…)
何が言いたいのかというと、努力できることは人によって違うということだ。
私も、一応、苦手なものに立ち向かう意識はある。けれども、あまりにも苦手なことが多い人や、過去のトラウマで頑張る気持ちが潰されている人は、努力できない分類のものもあるのだと思う。
もちろん、なにもかも頑張ることができたらそれはそれでいいし、運動も勉強もリーダーシップもなんでもできる子はたくさんいた。その子達は努力していた。でもみんながみんなそうではない。一位がいたら最下位がいる。
社会に出たら、運動神経なんか必要なかった。なんでもできる子だけが輝いているわけじゃなかった。
今でも怒られたあの時私は、走るのを早くする練習をしなくてはならなかったのか?と考える。自分が選んだ道なら、ある程度のレベルまで引き上げる努力は必要なのかもしれないけれど、選んでもいない体育の授業、ましてや昔からからかわれて嫌な思い出しかない体育で、そこまで頑張ることはできないなと。私に強くあたったその子が美術の授業で足を引っ張っていたとしても(そんなグループワークはほぼないけれど)その子は改善する努力をするのだろうか。
結局は分からないけれど、
ただ私は逆上がりができない子がいても、絵が上手く描けない子がいても、勉強ができない子がいても、それを馬鹿にして揶揄う、ぞんざいに扱うような人が一番良くないと思っている。
できないことがあっても、無駄に劣等感を感じず、前向きに取り組める教育になっているといいなと思う。
【追記】
こんなに反応を頂けると思っていませんでした。なのでタイトルが大雑把ですいません。皆さんの意見、興味深いです。
体育は苦手でしたが、スポーツは好きで楽しめました。苦手なくせに、なぜか好奇心で部活をしていたから運動の楽しさを味わえたけれど、していなかったら味わえなくてもっと体育が嫌いだったのかなぁ。
最近の体育はタブレットで動画を撮って教え合うって聞いたことがあります。できないを揶揄するのではなく、できるように互いに教え合うって、最近の子は出来ないことがあっても対等の関係性を築けるのか。すごいなぁ、大人だなぁと。
タイトルは、努力は必要か?にしてしまいましたが、人に合わせて無闇矢鱈に努力することは必要か?できないからといってぞんざいに人を扱うことは仕方がないのか?ということが言いたかったのだと思います。結論を出すというよりは考えたくて、書いていました。
出来ないことがあるからってぞんざいに扱ってはいけないとか言ったけれど、私自身、相手に、なんでこんなことが出来ないんだろう?なぜ努力しないんだろう?と思い、腹を立ててしまうこともあります。でも、その人にとってそれは努力するべきことじゃないのかもしれない。実はそれでも努力しているのかもしれない。努力できる環境や、状態じゃないのかもしれない。自分の価値観で人の努力を測ってはいけないなと思ってはいます。
それでも、授業だと評価基準に努力点を入れるから何を見て評価すべきか難しいし、社会だと、もうちょっとなんとかならない?って人もいるし、努力してない人の支援は気持ちが進まないところも正直あるし…(でもそーいう支援はとても大事だとは思っている)なかなかハッキリと線引きはできず…
不安を煽られ、努力するのではなく、ポジティブに自分の理想のために努力できたら1番だなぁということをよく考えていたのでこんな古い昔の話を書きました。
あと、話は少し逸れますが、コメント欄にもあったように、私も努力のことについて考える時に障がいを持つ方を思い出すことがあります。
障がい支援にほんの少し携わったことがあるのですが、本当にその多用さに考えさせられました。良い場所だとそれぞれにあった支援をしていて、努力するための支えがしっかりしていて、そのような環境は、もっと他の場所でも成されるといいと思っています。
身内に障がいがある人がいたのですが、環境次第で大きく良くも悪くも変わったことがあったので…
長々とすいません。
今やってるサッカーW杯で「日本人女性初の主審参加」という話題があった。山下良美さんのことだ。
が、その山下さんは1試合も笛を吹くことなく帰国した。選ばれたのは良いが、6試合で第4審判(簡単に言うと「審判の補欠」で、アディショナルタイムや選手交代のボードを掲げる係)を担当しただけにとどまった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/573ce7bef5afba3434889fac00b5a4bdad46fd3b
山下さん自身には何の罪もないが、W杯で女性活用の実績を作るために日本サッカー協会はかなり無理をしていた。昨年初めてJリーグの審判員として登録され、J3で8試合主審を担当。
たったこれだけの実績で今年J1を主審として担当することになった。男性主審でこのような特別扱いはあり得ず、無理やり上に上げた格好。
山下さんに対する、Jリーグ主審としての評価はお世辞にも上の方ではない。「毅然としている」「ジャッジ基準が途中でブレない」と評価する声がある一方、「ファウルを取れない人なので選手の負傷リスクが高い」「男子の走力についてこれていないのか、距離感がおかしい」という不満が試合の度に出てくる。どんな主審でもファン・サポーター・選手からの不満ゼロと言うのは難しいが、大きな舞台でジャッジするにはまだ課題がある状態だ。
が、そんな状態なのに「女性活用」を旗印に上げたJFAがW杯主審として推薦し、W杯に採用されてしまった。
佐藤氏はJ1デビュー年度こそかなりジャッジでにぎわせた人だが、最近は安定していた人だ。
彼はもちろん審判としてW杯出場を目標としており、順調なら今回のカタールW杯でJFAは彼を推薦するはずだった。
・・・が、「女性活用」という佐藤氏にはどうにもならない力が働いてその夢はついえた。
これは青山学院大学陸上部の原晋監督の定義を借りれば「挫折」に該当する。
https://toyokeizai.net/articles/-/637174
山下氏がW杯主審に選ばれたと言うニュースの後、少しの間佐藤氏のジャッジは不安定だった。
いろんなことを犠牲にして実績を挙げ、目標に近づいてきたのに、性差別(あえて言う)でそのゴールが消えてしまった。
それでも今期最後は安定したジャッジを見せていた。天皇杯決勝や、J2の山形-岡山の「再試合」という注目度の高い試合も無難に裁いていた。
だが佐藤氏のモチベーションの低下は明らかで、昨日トップリーグの主審を勇退することが発表された。まだ全然やれるどころかピークの最中に見えたが、年齢的にも次のW杯はないので、仕方ないのだろう。
一人暮らしを始め、仕事を見つけ、何でもやるというつもりで生きた。
1年の間、私はがむしゃらだった。
それでも金だ、金が必要だった。
視野狭窄になり、ある程度金が貯まるまで私は文字通り昼も夜も働き続けた。
その合間に更に短い仕事中の休憩や、寝る間を惜しみ試験勉強をした。
そんな生活が1年近く、あっという間だった。
そしてセンター試験の申請をだし、残暑が過ぎて木枯らしが吹く10月頃に、
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私は倒れた。
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仕事中にひざが嫌な感覚に襲われて、変な方向を向いているのが見える。
倒れたまま立てない。痛い。ずっとグルグル回っていた時の視界のように、目が言う事を聞かず世界が回る。
私は救急搬送され、入院し、診断は過労と、右ひざの半月板損傷。
高額医療保障も、入院中の諸費については補償してくれなかった。
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リハビリは辛く、余計な事を沢山考える。
これから先の事、金の事。
死んでしまおうとすら考え、やり残した事を考えて、
そんな時、思い至ってしまった。
その後、妹も同じことになるのではないか、と。
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結果だけ言えば、私は大学を断念した。
体調が治り、センター試験の申請は終えていたので試験は受けたが、総合上位10%程に入る点を取った。
希望だった大学の推薦を受け、入学式に出て、その足で退学届けを出して帰った。
中退という名乗りの為と、籍だけ置いてすぐ抜ける事で金を抑える為だった。
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ー奨学金という借金をしてまで私は大学にそんなに行きたいのか?ー
流されて大学生になろうとしていただけだった私の答えは当然、NOだ。
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Wワークも再開し、また金を貯め始めた。妹の為に。
こんな苦しい思いをさせたくなかった。
全てはおそらく、あの幼き日の妹が服の裾を掴んでいた感覚が忘れられないせいだ。
あの時、独り立ちとは名ばかりでたしかに私はあの環境から逃げたのだ。
そして数年後、妹は大学生になった。
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大学生になるにあたって、一切の連絡を断っていた母に会い、
「妹の学費はこの口座から自動引き落としにしろ。あなたは勝手に使う事も残高を見る事すら許さない。」
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妹は専門学校へ進学した。
私の身長なんて追い越されていたし、身内びいき抜きにとてもスタイルもよくなっていた。
高校は陸上部だったそうで、健康に焼けた小麦色の肌をしていた。
ただ唯一、態度はとてもスレていた。
強気、と言えば聞こえはいいが、実際はヤンキーに近いかもしれない。
記憶もあいまいだったが、酷く非難されていた事だけはよく覚えている。
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高卒だがWワークの甲斐もあり、おそらく正社員でも稼げない中々の金額を稼ぎあげた。
そして入学式の時の会話を受け、私は学費を支払っている事を教えないことにした。
知ればきっと、何か心に負い目を持つかもしれないと愚案したからだ。
母にも厳命し、たがえれば仕送りの使い込みについて裁判にすると脅した。
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ある日電話が掛かってきた。
母からだった。
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「妹が留年した。退学するつもりかもしれない。どうしたらいいか分からない。私の話を聞いてもらえない。」
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それはそうだ、と私は思っていた。
そして次に「ああ、もう1年追加でこの生活、続けないとな…」
それだけだった。心は枯れ、擦り減っていた。
それでも逃げなかったのはやはり贖罪の側面が大きかったのと、
私が好きなゲームの配信者やリスナーにふと生活の愚痴をこぼし、一緒に嘆いてくれたからだった。
正直、もう家族のことを忘れ、一人で生きたかったが、それでもあと数年と気持ちを入れ直していた。
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私は妹に会い、話してみた。
「母の話を聞かないのは、アイツは見栄ばかり気にして私を操作しようとしてくるのが気に食わないからだ」
「もっと遊びたいのに許されないのは辛いから大学辞めて独り立ちしたい」
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何を言っているんだ?狂っているのか?
そう思いながら、私は真っ白になった頭を出来るだけ稼働し、
思いつく限りの語彙を総動員し、説得した。
私を見てみなさい、生活を軌道に乗せるために色々苦労があった。
そう話すと妹は不承不承ながらも納得し、大学にも留年しながら通いだした。
その時は正直私は「甘やかしすぎたのだろうか、それとも、ただ留年して一年下の後輩と同学年になるのが嫌なだけだろうか」と思っていた。
妹は薄々どこからお金が出ているか、大学生の中盤以降気付いているようだった。
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数年後、ようやくその時が来た。
長かった。辛酸、苦渋、体調不良、暗雲立ち込めたただただ易くはない道のりだった。
だがやり遂げた。
卒業する妹よりも、もしかしたら私の方が感動しているかもしれない。
卒業式の日、私は親類の席に座り、式を見送った。
涙はとめどなく、言葉は形に成せず、嗚咽に乱れ、近くの他の親御さんに心配された。
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そして式の後、私は校門で待ち受け、妹に祝辞を伝えるつもりだった。
それが間違いだったのかもしれない。
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「なんでここにいるの?気持ちわるっ」
「親面でもしてんの?身内だからって何で泣いてんの意味わからん」
「多分学費とか支援してくれてたんだろうけど、どうせ金だけじゃん」
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聞きたくなかった。
足元が瓦解し、暗い穴に落ちる感覚に陥る。
あの時と違うのは、私はもう耐えるだけの幼い子供ではなくなっていた。
たかが金?昼夜関わらずこの学校の学費を稼ぐのに、どれ程私が苦労したのか。
ただのバイトで、自分の生活をギリギリまで詰め、自分のキャンパスライフを犠牲に働き、
ましてや留年して遊びたさに退学しようとしたお前が、それを言うのか?
明確に、何かが切れた。
吹っ切れたと言ってもいいかもしれない。
ああこれが目の前が真っ赤に染まるという感覚か…
そう思って気付いたら妹の頬に赤い手形を残していた。
1度ではない。何回もだ。
妹は困惑の顔をして、妹の友人は顔を青くして後退りしていた。
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私はまた大粒の涙を垂れ流し、興奮極まり鼻血を流し、目は染まり、無意識に手が出てしまっていた。
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頭の中に私の声が響く。
「なぜ、どうして…」「もう全てが遅い」「勝手に感謝されるのを期待したのはお前」
自己嫌悪と、自分がしてきた事の無意味さをただ漠然と感じていた。
環境が人を育てたのか、血は争えないのか分からないが、私は選択肢を間違えた。
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私は教員や親御さんら男たち複数人に羽交い締めにされ、事務所に連れて行かれた。
ほどなくして警察が来て事情聴取をされ、半日近く経ってから解放された。
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私のこの数年
親に絶望し、親の代わりになろうした結果は
幼い頃に掴まれた裾をほどけず、握り返した先は
これなのだ。
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妹から追及しないから解放してやってくれと進言があったらしく、
私への咎めはなかった。