はてなキーワード: 尋常ではないとは
なんで大物扱いされてるの?
べつに批判したいわけじゃなくて、単純に謎。特に時事ネタなんて、サラリーマンの飲み会で言っても痛々しいレベルだと思う。
人によって好みもあるだろうけど、太田光を面白いと言っている人を見たこともない。
ちなみにおれは、好みでいうと、35歳ぐらいまでの松本人志が好きでした。それ以後まっちゃんは全く面白くなくなったけど、それまでの人気から地位を維持しているのは理解できる。
以下、追記。(2016/1/25 18:30時点)
ここで「いや面白いよ」と言っても個人の感覚の違いと言って終わりになるのでいいとして、売れた今でも若手に混じって新ネタの漫才やってちゃんと会場の笑いとってるのは本当に凄いと思う。
俺も面白くない派。一方で彼は努力家だとは思っている。元日のネタ番組で大晦日の紅白をいじる漫才が披露できるスキルは尋常ではない。
⇒たしかにね。
「太田光を面白いと言っている人を見たこともない」 ここに面白いと言ってる人が現れたとして(もう何人も現れてるけど)この人の考えは変わるんだろうか
⇒変わるかも。「面白いと言っている人を見たこともない」が「ほとんど見たことない」や「見たことはある」に変わるだけだけど。
面白いと思う。でも、それ以上にしつこい時とウザい時が多すぎるとも思う。三振かホームランみたいな印象だから、ついつい期待しちゃう。(そして外れる)
⇒確かに、しつこい時とウザい時が多すぎるね。おれがダウンタウン好きだったのは、そういうマイナスがほとんどなくて、安定してたっていう点もあるかも。松本の「一人ごっつ」に、しつこくてウザい時間帯はほぼなかったと思うし。(こういう発言は、昔の2ちゃんとかだと、ナイナイファンや爆笑問題ファンから「信者」として叩かれたもんですw)
別に爆笑問題を特別好きでも何でもないけど、自分が認めてないものが世間から評価されてる時にこんな風な思考になることにそろそろ名前がついて良いと思う。大物扱いとお前の好みは1ミリも関係ない。
⇒自分に理解できないものが流行ってたら「なんで?」って思うのは当たり前のことなので、べつに名前つけなくても良い気が。
既視感ある。太田ってテンプレ的にこういう意見沸くよね。面白いか?と必ずいうけど、実際はそこよりも政治的・文化的発言に相容れなくて反感持ってるんだろうなと感じる。
⇒俺は反感はべつにもってないけど、もってる人たしかにいるよね。
そう思った時期もあったけど、ラジオを聴いてガラッと印象が変わった。投稿を読み上げる太田光は、役者そのもの。自分に限って言えば、腹を抱えて笑うこともある。
太田さんというか爆笑問題が大好き。太田さんが時事や文学について語るのには「意見が違うなぁ」と思うけど、齢50を越えた二人が中学生みたいな喧嘩をするのがおかしくてたまらない。ラジオ聞けラジオ。
ラジオ聞けばわかるけど、あの人は他の誰かの筋書きを論評なり演出なりするのがうまいんであって、あの人自身がどう、ってのはあまりないんだよな/なんでみんなもっとウーチャカの狂気に気づくべき
⇒ラジオきけっていうコメントがたくさんあった。なるほどねー。ただ、昔ネットで、「伊集院光のラジオを聞くと彼が天才であると分かる」みたいな説を振りまいている集団がいて、聞いてみたら、そんなに面白くなかったという経験はある。
コネはあるよ
面白いとか面白くないとかではなく、アンタッチャブルなものに触ってくれるんじゃないかという期待感だけでそこに居る。
(まあコネというか、談志に非公式にではあっても後継指名されているのが無下には扱われない理由の1つではあると思う。あと奥さんの能力と)
マジレスするとビートたけしとパイプがあるからでしょ?同様にビビる大木も「抱き合わせ販売」状態ってどこかで見たぞ。カラクリはあるだろうにanonymousを叩くコメの意図がわからん。マウント取りたくて仕方ないのか?
⇒そうそう、信じるかどうかは別にして、こういうのが気になったの。べつに、太田がテレビに出てるのが嫌とかいうのは全くなくて、単純に、お笑いとしてのクオリティが低い(と俺には感じられる)のにそれなりの地位に付いている理由が知りたいなぁと思っただけ。
僕も爆笑問題は好きではないけど、こういうのはなんというかダサいな単に。/ 「太田光を面白いと言っている人を見たこともない」と「爆笑問題ファンから「信者」として叩かれたもんですw」が矛盾
⇒たしかに、「見たこともない」は言いすぎたな。しかしよく考えたら、昔「ダウンダウン信者」とネット上で抗争を繰り広げていたのは「めちゃイケ派」や「笑う犬派」だった記憶が蘇ってきたので、「爆笑問題ファン」をわざわざここに挙げるほどみてない気は依然としてする。
太田の面白さも理解しかねるが、「それ以後まっちゃんは全く面白くなくなったけど、それまでの人気から地位を維持しているのは理解できる。」こっちの方が理解できない。
⇒賛成できるという意味での理解ではなく「世の中そんなこともあるだろ」っていう意味での理解です。
あの人は不思議な感じで、面白いと思った事がないんだけど「俺が見てないとこで面白い事言ってるんじゃないか」という謎の期待感というかハッタリがきいている。/テレビ・ラジオっ子には分かるまいw
⇒なんか分かる気がする。
⇒そういう上手いボケを連発してくれる期待感がないんだよなぁ。
なんか思ったよりブクマがついて微妙にホッテントリに上がってて、太田さんに申し訳なくおもっておりますが、意外に「いや、面白いから」みたいなコメントがたくさんあったので逆によかったということにしときましょう。
言われた側はたまったものではない。インターネットにより増幅された憎悪が自分に襲いかかってくるためだ。数の暴力ともいうべき精神的なストレスは尋常ではないだろう。
増田にはこれを
2ちゃんねるで勃興したインターネットにおけるマウンティングはより具体性を持ってきており、インターネット文化には暴言をもって優位に立つような行為が根強い。
しかしながら、相手の顔をみない一方的なコミュニケーションには、危険性が多い。まず、ニュースで報道される文章には犯人や被害者の性格や人間性は全く予想できないことが挙げられる。
本来ならば正当防衛とも言えるべき行為であっても、行きすぎて死に至らしめるなど、悪意のない不注意に基づく事件などはより注意深く観察する必要があるだろう。
2ちゃんねるやTwitterにおいては、私刑ともいうべき言葉の暴力が横行しており、当事者に対する偏見や誤解に基づいた言動が多々見受けられる。
当事者の性格から離れて、レッテルによるテンプレーション的なマウンティングが行われているのである。
言われた側はたまったものではない。インターネットにより増幅された憎悪が自分に襲いかかってくるためだ。数の暴力ともいうべき精神的なストレスは尋常ではないだろう。
特に最近は、インターネットが普及しているためか、電凸やストーキングなど、実社会への影響も大きくなっている。
暴言を書き込む際は、言われた側の立場に立って考えなくてはならないだろう。そうでなくては、今後人間社会のコミュニケーションは独りよがりの自己満足として衰退していくに違いない。
本石町さんがFTを日本企業が買収することでイギリス国内で黄禍論が起こるのではないかと書かれていた。そこでThe Economistの本件を扱うニュースのコメント欄を覗いてみた。
記事本文
http://www.economist.com/node/21659831/comments#comments
コメント欄を見るとやはり否定的な意見だらけで、中にはなかなか苛烈な意見もある。ユーザー名をクリックすると過去の当該人物のコメントが読めるようなので特に激しい意見を書いている数人を調べてみたところほぼ中国人(過去のコメント内で自分自身で中国人だと書いているのを確認してる)、他に韓国人1人であった。
例えばこの中国人であるkommonsenses氏はこれまでの過去のニュースでも日本をひたすら非難し中国を賛美する書き込みを続けている。
http://www.economist.com/users/kommonsenses/comments
この人物も同様
http://www.economist.com/users/insidious%2Bwestern%2Bmedia/comments
過去の日本に関するいくつかの記事を見てみたがちょっと尋常ではない激しさの日本罵倒コメントが付いていて、そういうった投稿者の過去のコメントを読むと、不自然なまでに中国は素晴らしいという論調の投稿がたくさん見つかり中国政府が国策で海外の高級メディアサイトで世論操作でもしているのではないかと思ってしまったほどだ。
中国政府がバックにないとしても、流暢な英語で日本は終わった国だ、70年前は世界中で大虐殺を繰り広げた、今も世界を危険に陥れようとしている、ファシスト国家だのとたくさんの人物がコメントをつけまくっているのはあまり日本にとって好ましい状況ではないだろう。それらの意見に対してはRecommend(いいね!みたいなもの)がたくさん付いていて、コメントを付け合っている者どうしで押しまくっているのであろうと思う。
私が危惧するのはこのように自由に英語を扱える中国人は、自国以外の幅広い意見のニュースや記事も読めるはずなのだが、それでもある意味病的なまでの日本叩きをするまでに、反日に凝り固まっている中国人がたくさんいるということと、そのような意見を知的階層的に上位者が多く読むようなサイトで集中的に投稿しまくっているということだ。
確認していないが他のニュース媒体でも同様なことが起きている可能性がある。
英語のできる日本人に同様のことをして対抗しろとは思わないが、このような状況をただ無視しているのも後に禍根を残すのではないかと思う。
昨日、宮崎駿さんが後継者を育てられなかった、とかなんとか記事があって、そのコメント欄に、
「所詮、プロデューサーというのは自分の手足になってくれる人間を欲しているのであって自分の代わりはいらない」と言っていた。
けれど、その他の経営でもそうだけど、その業界での立ち位置や求められている役割の意図を理解し、提案できるプロデューサーであれば欲しいと思うだろうし…。
しかし、心で欲しいと思っていても、口では「やめておけ」と言ってしまうのは、監督、プロデューサー業とういうのは、尋常ではないぐらい厳しい世界で、
普通の人間なら、その椅子に座ってられないから、「やめておけ」とつい言ってしまうんだろうね。
可愛い自分の子供に、自分と同じ職業は「やめておけ」と、つい言ってしまう様なものだ。
監督・プロデューサーのポジションというのは言うならば、極寒の南極や北極などで、裸一枚で、食べ物は水だけで生きているようなもの。
昨今では忌み嫌われる長文で、たいして面白くもない内容なので誰も読まないだろうが、それでいい。
軽く自己紹介。精神科病棟で働きはじめて一年になろうとしている。看護助手の契約社員。今年で21歳になった。
一浪して合格した、世間的には難関と認識されている、都内の有名私立大学()を半年で退学して、今の職場に入った。高卒資格なしで将来食っていけるか不安なので、不況でも食いっぱぐれないと聞く、看護師を目指そうと今は考えている。それ以前はコンビニのアルバイトと日雇いの倉庫作業くらいしかしたことがなかった。退学した理由はくだらない。授業に出席せず、単位取得における必須出席率(三分の二)に満たなかったので、留年がほぼ確定していたからである。受験当初から志望校などなく、勉強もさほどせず、たまたま合格した大学にとりあえず入ったという塩梅で、絶対に卒業しなければならないという意志もなかった。中流家庭で経済的には比較的恵まれていたので、仮に努力さえすれば(一般的な大学生にとってはそれは努力ではなく普通のことなのだろうが)一留したとしても卒業はできたはずである。まったく親不孝な息子である。
わたしが働いているのは比較的症状が安定した患者が療養する慢性期病棟である。患者の平均年齢は65歳くらいで、ほぼ全員が統合失調症の患者である。平均入院年数は約15年である。医学的知識に乏しいので統合失調症とは何かといった説明はしないが、約100人に1が罹患するとされている疾患である。自分の身近に統合失調症を患った者がいても珍しいことではない。事実、わたしの身内にも罹患者がいる。距離的に頻繁に会うことはできず、ほとんど疎遠であるが自分と年齢が近いこともあり気にかけている。
慢性期の開放病棟とは言え、当然ながらそれは院内における開放という意味であって、自由に院外に出られるという意味ではない。あたりまえのことだ。また患者各々の処遇によって、院内開放の認められる患者とそうでないものがいる。前者は全体の三割ほどだろうか。それ以外の患者は看護師同伴での外出の外は、ほぼ365日病棟内で過ごすことになる。彼らの生活は異常なほどに規則正しいものになっている。規定の時間に起床を促され、看護スタッフの監視(長年にわたる薬の服用がもとで嚥下に問題がある患者が多く、誤嚥で窒息する恐れがあるため)のもと朝食を済ませ、その日が入浴日であれば風呂に入るよう半ば強引(彼らは清潔観念が乏しく風呂嫌いが多い)に促され、昼食を食べ、自主参加ではあるが作業療法に参加し、夕食を済ませる。食後は各々に処方された抗精神病薬を服用し、就寝前には看護用語でVDSと呼ばれる就寝前薬を服用し消灯、就寝となる。もちろん彼ら全員がすんなりと眠ってくれるわけではないので、必要に応じて追加薬として眠剤をさらに服用させる。それでも睡眠ゼロ時間で朝をむかえる患者もいるが。
規則正しい生活が健康を保つ秘訣であるとは言われるが、物事がすべて規則的に進む環境に長く置かれれば、精神的に健康な人間でも何らかの精神症状を示すようになるのじゃないかと思う。何事も適度にやることが大切である。仮に自分が彼ら患者と同じ生活をしてみるとなれば、1ヶ月も耐え切れないのではないか。
普通の人から見れば異常な規則的生活を強いられているばかりでなく、彼らはプライベート空間を与えられていない。病室は4人1部屋の総室であり、ベッドにはカーテンが備え付けられはいるが、必要とあればスタッフが遠慮無く開けるのでプライバシーの確保としては機能しない。唯一例外として挙げられるとすれば個室トイレであるが、それでも外側から簡単に鍵を開けられる。もちろん理由はある。ここは精神科である。患者を1人にするのはリスクが伴う。その最悪のリスクが患者が病棟内で自殺するというケースだ。自殺するのに銃もロープも包丁も必要ない。タオルやシーツ1枚で十分である。首を吊る必要もなく頸動脈を絞めれば尻をついた体勢でも逝ける。患者に希死念慮の疑いがあれば、保護室と呼ばれる個室で隔離し、常時モニターで観察する。必要であれば拘束帯で手足、体幹を拘束する。それは仕方のないことであると個人的にも思う。そのようなことがあれば直ぐに訴訟になり、病院だけでなく医師、看護師、資格を有していない看護助手も裁判にかけられるのである。人間が外部との接触なく常に1人きりで長時間過ごすことに耐えられないのは、拘置所などにおけるSolitary Confinementが精神に及ぼす悪影響を鑑みれば明らかであるが、それでも生活の中に1人の時間を設けることは精神の安定にとって非常に重要なことである。
一日の中で病棟が最も活気にあふれるのは3時のおやつの時間である。患者は小学生の小遣いほどの小銭を握りしめて、病院に併設された売店へと向かう。わたしも幼少時代、同じように手汗にまみれた小銭を握りしめ駄菓子屋へ足を運んだ記憶があるが、自分より2回り以上年齢を重ねた彼らが喜びと興奮の面持ちで売店に赴くのである。もちろん離院されては困るのでスタッフ同伴である。なかには1時間も2時間も前から「○○さん、おかし」とこちらが辟易とするほど頻回に訪ねてくる患者もいる。そのたびに「△△さん、時計見てください。今何時ですか?3時まで待ってくださいね」と説明する。しかし時間を把握することができないのか、理解に乏しいのか、その後にわたって同じやりとりが何度となく繰り返される。そしておやつの時間が近づくと、患者は詰所(ナースステーション)に詰めかけて「かいもの、かいもの」の大合唱がはじまる。入社して形式的な研修を終え、病棟で働きはじめた初日、その光景を目の当たりにし、「これはなにごとか、いったい今から何が始まるんだ」と誇張なしで思ったものである。一度に売店へ連れていけるいけるのは、多くて5名である。それに対して2名の看護スタッフが同伴する。離院のリスクが高い患者はマン・ツー・マンで対応しなければならないので、業務の都合上、最後に後回しにしざるをえない。この対応に納得のいかない患者は時としてもの凄い険相でこちらを睨みつけたりもするが、申し訳ないが待って頂く。いざ売店へとたどり着くと、患者は菓子の並ぶ棚を物色し、各々お気に入りの菓子や飲み物(十中八九コーラである)を買うのだが、彼らの選択肢はさほど多くはない。金銭的な問題もあるが、誤嚥のリスクが高い菓子類(特にパンや、硬いもの)は遠慮してもらう。病棟へ戻り、スタッフの目の届く範囲のテーブルで購入した菓子を食べるのだが、彼らの食べる、飲むの早さは尋常ではない。これは食事においても同じである。コーラを飲み干す早さは、ハイキングウォーキングのQちゃんにも引けをとらないだろう。
余談だがこの病棟にはデイルームに自動販売機が1つ設置されているのだが、患者が選ぶのは常にコーラである。コーラの横に並ぶ水やお茶などを患者が買う場面を見た試しがない。聞くところによるとこの傾向はこの病棟(病院)に特異なものではないらしい。特にかくコーラの消費量が半端ではないのである。1日になんども業者がコーラの補充に来る。仮に1日のコーラ販売数が最も多い自販機であったとしても驚かないだろう。
ここで少しOT活動(作業療法)について触れておきたい。その内容ではなく病院経営の観点から見た作業療法である。わたしは不勉強で参加者1人あたりの診療報酬がいくらで、具体的に自分の働いてる病棟で月あたりどれほどの利益が出ているのかといったデータは知らないのだが、現状でも結構な額の利益を稼ぎだしているようなのである。しかしそれ自体はなんら問題ではない。病院も利益を出さないかぎり存続が危ぶまれるわけであり、それは結果として直接的に患者の不利益になるので致し方無いだろう。しかし病院経営者としては、さらなる診療報酬の増収を求めて参加者の今まで以上に増やすことを病棟にプレッシャーをかけてくる。だが経営的観点からのみ作業療法を考えるのは、本末転倒であり、本来の作業療法の意義を見失いやしないだろうか。普段活動意欲の乏しい患者たちの他者と交流する機会の場を提供したり、同じことの繰り返しである日常に些細でも刺激や楽しみを見出させ、活動意欲の向上を目指す。わたしは作業療法士ではないので専門的な知識はないが、研修のとき作業療法士からそのような目的を聞かされた記憶がある。作業療法は任意参加である。もちろん参加したほうが治療的には望ましいことは間違いないが、患者自身が活動に対して主体的にならなければ効果は期待できない。仮に活動に参加しない患者には売店へ行かせない等のやり方で、強制的に参加を促したところで継続しないのは明らかで、それ以前に患者自身の金でおかしを買わせないとなると人権侵害である。ある患者は「おもしろくないから、わたしはいいよ」と参加を断り続けている。確かにプログラムがマンネリ化していることは否めない。病院の作業療法士が仕事に対して不真面目であるからではない。みな限られた予算のなかで真面目に患者のことを思い必死でやっている。要は作業療法で得た診療報酬はどこに還元されているのかという話なのである。言うまでもなく、参加をしぶっている患者に対して毎日声掛けしている現場スタッフには還元されない。それは別にいい。しかしOT部門への予算を増やす、給料面で還元するなど多少はできないのだろうかと常々感じている。慢性期病棟でほとんどの患者は退院が見込めないため、患者を金づるにし作業療法による診療報酬で利益を出そうとう考えなのだろうか。これは完全なる愚痴である。
わたしは今まで目的も夢もなく堕落的に生きてきたので、それゆえか「生きがい」だとか「なぜ人は生きなければいけないのか」といった面と向かって口にするのは恥ずかしい問題だが、漠然と考えてきた。
いままでは、どちらかと言えば普遍的な命題として考えていたのだが、統合失調症を身内に持つものとして、同じ疾患の患者と毎日のように接触を持ち、「彼らに生きがい、あるいは生きる目的があるとすれば、それはなにか」といった具体的な疑問に変遷していった。
ある患者に病棟での生活で一番楽しいことはなんですか、と尋ねたところ「(部屋の窓から)道をみること」という答えが返ってきた。わたしから見れば、そんな些細なことが彼女にとって一番楽しいことなのである。別の患者は「婚約者と結婚して二人で暮らすこと」だと言う。彼には婚約者もいなければ彼女もいない。すべて妄想なのである。しかし誰が「あなたの言ってることは妄想によるものですよ」などと否定できるだろうか。このような閉鎖的な環境で長年生きていれば、自分で虚構の世界をつくりあげてそれにすがって生きていくしかないのではないかと個人的には思う。
精神疾患に対して偏見を持っている者は多くいるだろう。わたし自身も実際に今の職場で働き始めるまで偏見を持っていただろうし、今も偏見はあるだろう。偏見というものは概して無意識のうちに身体に染み付いているものであって、「わたしは○○に対して偏見はありません」などと平気で言う人々は疑ってかかったほうがいい。自分のなかに偏見があることを自覚し、それを少しでも減らしいくことしか我々にはできない。ちなみに今までこの文章は、一つの精神病院にたった一年しか勤めていない人間が書いたものなので多分にいろいろなバイアスがかかっていることだろう。
(追記)
ここで、わたしは実際のところ統合失調症の患者です、つい先日退院しました、と書けば結構な釣りになるのだろうが、残念ながらそうではない。
上記の文章を読まれたかたは、鬱屈した患者たちの姿を想像されるかもしれない。彼ら患者たちは、閉鎖的な環境で長期間に渡る入院生活を余儀なくされている。憐れむべき現実だろう。病棟に飾られた造花の紅葉では秋の匂いを感じさせてはくれない。夏が過ぎ去った後の秋風の涼しさを感じることもできない。しかし患者たちの表情は思いのほか明るく柔和である。無論、ついさっきまでニコニコとしていた患者が、いまにも殴りかからんばかりの表情に急変することは多々あるのだが。概して、彼らは彼らなりに現在の環境に適応し、楽しみを見つけながら生活している。
彼らは退院することなく死ぬまで病院で過ごすことになるのだろうか。慢性期病棟に長期間入院する患者の退院が難しいことは言うまでもない。特に高齢者となると退院後の受け入れ先が限られてくる。また患者自身が退院したいという意欲に乏しいという場合もある。それもそうだろう。入院生活が十数年にも及ぶとなると、社会復帰をためらうのも無理もない。病棟の五十代のある患者は精神症状もほとんど見られず、一見して彼が精神障害者であるとは思えない。人当たりの良いハゲのおじさんといった風貌である。精神保健福祉士が先頭に立って、退院実現を図ろうと粘り強く退院促進をすすめている。退院後は病院のデイケアを利用してもらう計画である。それでも普段多弁である彼は、退院という言葉を聞くとそっぽを向いて耳を貸さない。
『ショーシャンクの空に』という映画がある。有名な映画なので観たことのある人も多いだろう。そのなかでモーガン・フリーマン演ずる囚人レッドがこんなことを言う。
「あの塀を見てみろ。はじめは憎らしく見えるだろうが、しだいにそれに慣れ、しまいには依存するようになる」
わたしは退院をしぶる彼を見て、長期入院している精神科の患者も似たような心境の変遷をたどるのかもしれないと考えることがある。ホームレスと違い、入院していれば働かなくとも毎日腹を満たすことができる。そのかわり自由は制限されるが、ときとして自由は重荷にもなりうるのである。しかし彼は年齢的にまだ中年であり、やりたいことも多々あるだろう。彼が恐怖心を断ち切り、入院生活に終止符を打つことを願っている。ダメだったら戻ってくればいいいのである。
精神科で働いてわかったことは、統合失調症という人格は存在しないという当たり前の事実である。彼らには統合失調症という共通項があるにしても、性格も精神症状も皆異なる。それがこの疾患のおもしろいところと言うと語弊があるかもしれない。しかし患者と日々接するのは、うんざりするどころか楽しいのである。たまに患者にヤクザ口調で怒声を浴びたり、軽く殴られたりもするが、病気のせいだと考えれば、それも仕事だと思える。頓服薬を服用して落ち着いた患者は、自ら「さっきはごめん」と謝ってくる。わたしは「べつに気にしないでいい」と答えるだけである。
最後に、ある六十代の患者さんは「葬式ないよね?」と頻回にスタッフに尋ねる。彼女が「姉さん」と呼んでいる妹さんが死ぬという妄想があるようで、妹の葬式はないかと確認しているのである。とりわけ、わたしに対して尋ねてくる。恐らくはわたしが坊主頭で、彼女に坊さんと呼ばれているからであろう。わたしが実際に坊さんではないことは理解している様で、ある時冗談で、「○○さん(彼女)が死んだら、葬式は僕に任せて下さいね」と言うと、彼女は笑った。ブラックジョークを理解するだけのユーモア精神のある患者さんである。
停滞感漂うはてな村に一人降り立ったid:netcraftは、さながら呂布の如き戦闘力ではてな村にでっかい風穴を開けてしまった。
オフ自体はグダグダで失敗とも成功とも言いがたい、ネットでは一番つまらない結末だったかもしれないが、数多くの村民を巻き込んで物議をかもした点はある意味成功だった。
サード達は影響力あるid:netcraftを自陣へ引きこもうと慣れ合いオフを開催。
オフ会以後ちょくちょくはてなに興味を示すショッカー、7月に入ってからブログ更新が増えてきたまつたけ、ブログ再開を宣言するぴぴぴ。
はてな女子も若年層とおばさま方との対立が日に日に顕著化してきている。
にわかにきな臭くなってきたはてなブログ界隈を横目に古参達も黙ってはいられないようで、「いやいや俺達だってそういう事やってたんだぜ?」的に反省会など開催。
サードブロガーVSid:netcraft一派の戦いが始まるのか、そして沈黙を守るフォースブロガー達の動きは?
ずっと彼女らのグループのCDを買っていたが、握手会には行ったことがなかった。
握手に興味がないといえばウソになるか、正確にはなんとなく恥ずかしかった。
そういうアイドル好きな友人もいなかった。
こんなキモメンの僕が一人で握手会に行く事なんてどうしてもできないと思っていた。
だが、ある時初回限定版についていた握手券を手にしたとき、とても天気の良い土曜日で、
なんとなくフッと、「握手会に行ってみよう」と思った。
本当になんとなくだ。こんなキモブサの僕でも嫌われないだろうと根拠なく思ったのだ。青空のせいかも。
そうして僕は握手会に参加し、初めてメンバーの子と握手することになった。
推しメンはいるのだが、絶対にその子がいいというこだわりもなく、メンバーであれば誰でもいいと思っていた。
そして、僕の番がまわってきて、その子と握手することになった。
笑顔のその子を見た瞬間、僕は鳥肌がたった。緊張からくるものなのか、実際に見たら美しくてそうなったのかわからないが、
「ありがとーございまーす☆」
と言って、手を差し出してきた。
僕も手を出す。
「むぎゅ」
手を掴んだ。手汗が尋常ではない僕の汗ばんだ手が、その17歳の子の手と密着し、
ぐちゅっと音がしたような気がした。
「ぐちょぐちょ」
手のひらと手のひらが密着、摩擦し、液体が混ざり合い、グチョグチョになり、
その17歳の少女も顔を赤らめて、きらきらとさせた瞳でこちらを見て、目が合った。
勃起した先端が次第にズボンを突き破って伸びていき、その子のみぞおちにぶつかった。
ぶつかった瞬間、その子は「うっ」と言い、ゲロをその場にぶちまけた。
ぶちまけたゲロの匂いが握手会のテントの中に充満し、中のスタッフ全員がゲロをはいた。
テントの中は阿鼻叫喚だったが、僕の勃起は止まることをしらず、そのままテントを突き破り、隣町まで到達した。
隣町ではちょうど今日生まれたばかりのゴジラが闊歩していて、町の住人を脅かしているところだった。
そのゴジラのアゴの先端に僕の如意棒がぶつかり、ゴジラは舌を思い切りかんだ。
空にはちょうど今来たばかりの巨大UFOが浮かんでおり、街全体を覆っていた。
その巨大空母UFOから大量の小型UFOが出てきて、街にビームを撃ち始めた。
地球の終わりだ。
僕の如意棒が巨大空母UFOを突き破る事はできず、僕はゲロまみれのテントの中で、
その17歳の子に抱きついて、世界の終わりの詩歌をつぶやいた。
女の子はぬらぬらと全身を濡らし、そして笑顔のまま、ふっと息絶えた。
その悲しみを僕が乗り越えて修業をし、巨大UFOに一人で立ち向かって破壊していく話はまた別の機会に。
世界は続いていた。ほらきみの目の前にも。
研究職にはついていない。
論文はある程度読み取れる。
stap関連のあれこれはそれなりに追っている。
とにかく声を大にして言いたいことは、これはサイエンスコミュニケーションにかかわる問題だということです。
科学者コミュニティ(だいぶアバウトなまとめ方ですが、便利なので使っていきます)からすれば、
小保方さんが随分と悪質な捏造を行ったことはほぼ確定ルートと言って良い状況と思います。
ここで修士を出た程度の僕があれこれ書き散らすまでもなく、
理研や有志の方々がいずれ粛々と事実を明らかにしてくださることでしょう。
そしてその結果得られた見解が科学者コミュニティ共通のものとなることに、
(そこまで専門性の高い知識がなくとも判断できる程度の捏造があるので)それほど困難はないはずです。
少なくとも小保方晴子という人の科学者としての信用は既に地に落ちていて、再び浮上することはないでしょう。
しかし巷の人々に聞けば、
「よくわからない」「結局stap細胞があればOK」「佐村河内は悪いけど小保方さんはかわいそう」「理研の偉い人に利用されて、尻尾切りね」
と言いますよ。尋常ではない割合の高さでこのどれかが返ってきます。
それこそがこの問題のすべてといっても過言ではない。
だからこそ僕たちはこんなにもこの件に関して憤っているのではないですか?
この問題がここまで広がったことの一因は、最初の時点での広報戦略でしたが、
理研が疑義についての会見を開いた後、あれだけ不利な状況で弁護士を雇って反論会見を開くなどと、
度肝を抜かれたのは僕だけではないはずです。
小保方さんという人は一般の人々に対する訴えかけが本当に上手だった。
一方で理研の会見から、一般の人々が何か読み取ることができたでしょうか?
僕はそう思いません。
小保方さんが不正をしたんだぞって雰囲気が、理研の会見にはほんとになかったな…。
これだけわかりやすい不正を、これだけ沢山の人々が認識できずにいることは、
わからないことを印象だけで判断し信じこんでしまう人々にも問題はありますが、
仮に分野外の人がこの問題に感心をもち、実際何が起こっているかを独自に調べ始めたとして、
この件に関して発信される情報のほとんどが、一般の人々に対する意味をなしていないのです。
例え話を使って上手に解説してくださっているブログ記事もいくつかありますが、数が少ない。
とにかく科学者の皆さんは、慎重で、控えめで、それは本当は素晴らしいことなのですが。
そりゃ、根拠となる資料は沢山公になっていますよ。
今回問題になった小保方論文だってオープンアクセスになっているし。
けれど真にフェアに問題を議論するためには、生命科学や論文作成、実験作法についての教養を身につけ、
論文を始めとする膨大な資料に全てあたってから論じなければならないわけです。
「あれだけ堂々とstap細胞あります!って言い切ってんだからたぶんあの子悪くないよ」って、なりますよ。
だから、科学者コミュニティが今しなければならないことは、ただ事実のデータを列挙することでも、
専門用語を駆使して不正を検証していくことでも、他の研究者の不正を洗っておくことでもなくて、
自分のフィルターを通して、この問題を一般にもわかる言い方で伝えていくことだと思っています。
小保方さんばかり追及してないで他の研究不正も、という主張の方もいらっしゃいますが、
内容のお粗末さもさることながら、
著名人にも小保方さんを的外れに擁護している方が散見されます。
挙句山中さんにまで飛び火して、科学そのものに対する信用の崩壊にさえつながろうとしている最中に、
悠長に他何人もの論文を調査して、「悪意のある捏造」の定義を詰めている場合ではないです。
ただそれを丁寧にやればやるほど専門化が進んで、コミュニティ内部でのみ効力を発揮することになっていくはずで、
少なくとも結果わかったことをそのまんま発信する意味はほとんどないと思います。
正しく正確であればいいってものじゃない。
もちろん、
研究不正を防ぐため、あるいは明らかにしてこれを罰するために何をすべきか。
研究ができればいいというものではない、研究者間の人間関係、権力争いのあれこれ。
など、
今回の件が提起する問題は山とありますが、研究不正はこの件に限った話ではないです。
ことstap論文問題について特筆される問題は、一般に対する訴求力です。
これに尽きます。このことをもっともっと問題視していただきたいと考えます。
僕の拙い文章で、うまく伝わるでしょうか。
きっかけは昨年の12月、気がついたらシャンプー時に抜け毛がすごい。
体中に抜けた毛がはりついてシャワーで流しても足りない、髪を洗った両手にはぶわっと髪の毛がくっついてきてとにかく尋常ではない量。
もともと髪の毛がものすごく豊富でしっかりとした髪質だったので、
抜ける量も人よりは多く、気にしていなかったのだけど、
あまりに気になって、母に頭皮を見てもらった瞬間、「ひゃっ!」と母が声をあげた。
面積にして500円玉3つ分くらい、すっかり頭皮が抜け落ちた清々しいくらい透明で白いそれが
そこに在った。
たしかに触ってみると、ふにっとした頭皮しかない。ない。毛が無い。
禿げてる、わたし円形脱毛症になってる。。。
その日から、私はハゲの恐ろしさと抜け毛の恐怖に苛まれている。
他の部分、むしろ頭全体の毛が毎日ものすごい量、無慈悲に抜けていく。
気がついたら、髪の毛の量が半分以下に減っている。
あれだけ量が多くてうざかった襟足部分はスカスカしていて、こころもとない。
前髪も薄くなったので、薄い部分を隠すようにいつも後ろから髪の毛を持ってきている。
いつもいつもとにかく抜けていく事を気にして、髪の毛を失うことにおびえて過ごしている。
亜鉛を飲んだり、イソフラボンを飲んだり、シャンプーを変えたりして
努力をしてきたけれど、この抜け落ちる髪の毛に私の努力は無力すぎる。
抜け毛ってほんと回復不可能なダメージを与えられるものなんだと
しみじみ感じた。男性も女性も関係なく、これはほんときついね。
どんどん自分に自信と余裕がなくなってく。
原因がわかればいいんだけど、加齢と言われたら仕方ないのか・・・。
経験したことのないような体の不調にさいなまれるようになるってのが
年をとることなのかな、ってさいきんしみじみ感じる。
なんだか抜け毛以外にも、生理痛激しいとか、膀胱炎にすぐなるとか、頭痛とか
地味に不調が続いてる。
年齢的な不調と合わせて、トントンみたいな感じ。
アラサーって揺らぐのかな、揺らいじゃうのかな。
確かなものなんて、なにもない。手のひらからこぼれ落ちていく髪の毛のように。
みなさん、がんばりましょうね。
そんな小保方博士は、ねつ造だなんだとたたかれたので、実験手順を公開した。
確かに、突っ込みどころを見つけたくなるようなセンセーショナルな内容だし、図だって言われてみればなんだかなあ、という感じの論文。
しかしだ。
私が思うに、彼女は神の手の持ち主かつ非常に自分の手の動きに敏感だから、こんなトリッキーな研究ができたんだと思う。
彼女は「ピペッティングの刺激が細胞のストレスになるから、幹細胞ができる」と判断したから、ここまで研究を進めた。
これはtwitterで歩弥丸さんが言及していらっしゃるが、尋常ではない。
https://twitter.com/hmmr03/status/428738964174819328
ではなぜ尋常ではないのか?
それはおそらく、自他ともに認めるずばぬけた実験の正確さと、すばぬけた手の動きへの敏感さが小保方博士にはあるからだろう。
「ピペッティングの刺激が細胞のストレスになる」という判断はおそらく、
・ピペッティングがマイルドだったときは幹細胞化した細胞が少なかった
・ピペッティングが粗暴だったときは幹細胞化した細胞が多かった
ではピペッティングをしてる人にお聞きしたい。
・多少の指の力や、ピペッティングのスピードや丁寧さを加減することができても、各操作の力やスピードの違いを覚えているだろうか?
・その違いを数量化して、実験結果に照らし合わせられるだろうか?
・さらにその違いを比べて議論できるほど、精度の高いピペッティングを普段からできているか?
ちなみに私はどれにもいいえと答えますwww
皆さんはどうだろう?
私は使えない人間なので外れ値なんかも知れないが...
もし彼女のような感覚と手腕が多くの研究者にあれば、そうとう生命科学は進歩するだろうなあ。
というわけで、そこまでの人間はめったにいないので、ほかの人が再現するのが難しいんじゃないのか、という気もする。
“気付いたら寝ていた”エピソードを挙げればきりのない私が、新しく始めた仕事(主にデスクワーク)であまりに尋常ではないレベルで寝てしまうようになり、怖くなって睡眠外来にかかった。
初めて聞いた。なんだそれ。
よくわからないが、カンタンに言うと脳の中での「眠れ指令」が本来の時間以外、日中にも絶え間なく出てしまい、十分な睡眠はとれているのにとんでもなく眠くなり意識を失うように寝てしまうとのことだった。
病院に行く前、単純に睡眠時間が足りていなくて眠いのでは?と思い予定を全てキャンセルし1日17時間寝て、翌日の仕事に臨んだのだがそれでも変わらず寝てしまい、自分の身体への恐怖で睡眠外来を探したのだ。
今にして思えば高校の入学式で即爆睡したのはおかしかったし(当時の私はたいした問題とは思っていなかった)、バイト中も監視カメラの位置や店長の動きを読んでバックヤードで睡眠をとっていたのもアレだ。友人に誘われたオールも一度も参加したことはない。絶対に寝るからだ。そのことは友人も十分わかってくれた。本当に寝るからな…一度くらい参加したかったな。
高校の担任にお前の睡眠は異常だから、おそらくナルコレプシーか何かの睡眠障害だ。病院に行ったほうがいいぞ!と強く言われたのだが、当時の私は何言ってるんですかセンセ、昔からねぼすけなだけだし病気なんかじゃないですよヘーキヘーキと受け流していた。でもまさか病気だとは夢にも思っていなかったし、今でも信じられない。自分は万年寝太郎の、他の皆は耐えているだろう眠気にも耐えられないだらしないクズだと思っていたからだ。
この病気の困難な点は、他人から見れば「仕事中に寝るクズ」としか捉えられないところだ。自己管理もできない、いつでも寝不足の、気付いたら寝ている寝太郎。社会ではそんな人間は生きていけない。
他人の眠気を体感することは出来ないが、特発性過眠症の眠気は「3日間徹夜をして、難しい数学の問題を解いているような眠気」だとどこかに書いてあった気がする。本当にそんな感じの眠気に襲われる。日中ずっとだ。だが私は、全世界の全員がこういった眠気を乗り越えているのだと思っていた。なので、運転手を生業にしている人たちは超人だと思っていた。
まだ薬は処方されておらず、次回の診察から処方されるそうなのだが、薬か…いままで鎮痛剤ぐらいにしかお世話になってこなかったので、副作用が怖い。
そしてこの病気は10万人に2〜5人というレベルらしく、同じ患者のブログなどもほとんど見つけることが出来ない。確かに即死に至るものではないし、苦しいものではないのだが。
ブログを始めようかとも思ったが、日中寝るという報告だけになるしなあ……
完治はまず望めないようなので、これから一生付き合っていくのだろう。
永眠するその日まで。
娘はもうすぐ17歳になります。
そもそもの原因は、このバカ娘が部屋を片付けない、これに尽きるのです。
私はきれい好き、異常なほどのきれい好きではなく、ごく普通のです。
まず床が見えない。ドアを開けたら足を踏み入れる場がないのです。
何十という服が団子状態で床にころがったまま、
洋服ダンスの引き出しは、服がだらしなくはみ出して全て開けっ放し、
使用済みのティッシュが床に散乱、ベッド下は食べ残しの食べ物((お菓子はもちろん、
ケンタッキーフライドチキンの骨とか腐ったサンドイッチ、果物とかもあったりします)
靴下、アクセサリー、紙切れ等挙げたらキリがありません。
引き出しの中に汚れた下着、使用済みの生理ナプキン(汚すぎてスミマセン)を見つけた時には閉口しました。
飼ってる犬が何やら口にくわえて嬉しそうに出てきました、まさかの使用済みパンティライナー...
部屋を片付けろ!のバトルが始まって6年ぐらいが経ちますが、その時は一応片付けます。
でも翌日には元通りです。
もうあまりウルサく言うのは止めようと思い、ここ何年かは1ヶ月ぐらい放っておきます。
でもたまたま娘に用があって部屋を覗くと、つい怒ってしまうの繰り返し。
これが娘を嫌いな原因ですが、それに加えて娘は13歳の頃から部屋にこもりっきり、
ごはんの時しか顔を合わせない、週末は友達や彼氏と映画に行ったり買い物に出かけたり、
それは別にいいのです。この年頃で親にくっついてる方が心配です。
が、部屋を片付けない、話しかけてくる時はお金が欲しいときだけ、
ほとんど家にいないことでだんだん娘への愛情が無くなったような気がするのです。
たまに食卓で娘と私の2人きりになる時があったりすると、その場にいたくありません。
家の中ですれ違っても目も合わせたくありません。口をききたくありません。
旦那は部屋が散れてようと、別に何とも思わないみたいです。(旦那も片付けない人)
だから娘に特別怒る事もない、だからでしょうか、食卓で娘が相手を特定せずに話する時は
旦那の顔を見て話します。あちらも私を嫌ってるということなんでしょうね。
でも嫌っている反面、今日は娘の好きなお寿司を作ろうとか、お腹すかせて帰ってくるから
アップルパイ作っといてあげようとかもあるんです。
これって、嫌いではあるけれど愛してはいるってことなんでしょうか?
娘が大きくなったら友達みたいな関係になりたいと夢見ていました。
自分の娘を嫌いとは、なんて悲しいくてショックなことでしょう。
こんな私は異常ですか?
ちなみに息子2人もいます。14歳と10歳です。
下はまだ小学生でかわいいですし、上の子は思春期に入ってますが、
部屋は娘のと比べれば宮殿のようですし、娘と違ってよく話しかけてくるし、
いっしょにゲームをやりたがったり、皿洗い手伝おうか?とかもあって大好きです。
これから私は娘にどのように接していけばよいのでしょう?
部屋のことにガマンして目をつむって怒らないようにすれば元に戻るでしょうか?
はてなの虚構新聞への憎しみは理解できない。もう謝罪から一週間近く経つのに虚構新聞とタイトルにある記事に憎しみのこもったブクマがつきまくる。
擁護するサイトまで親の仇のように集団で叩き続けるのは尋常ではない。世の中にはハム速とかデマサイトはたくさんあるのになぜ虚構新聞だけ執拗に叩くのか?
世間では猪瀬知事の汚職や秘密保護法案が話題だ。デマの悪質さにしてもEM菌やホメオパシーなどのインチキ代替医療のほうが被害は甚大だ。虚構新聞がいったいどれだけの被害をだしたのか?騙されて恥ずかしいぐらいじゃないのか?第一今回の件で虚構新聞のデマを信じた奴って誰?見たことないんだけど?
いったいみなさんは虚構新聞がどうなれば満足なんですか?
おとといの夜、家で夕飯を作って待っていたら、夫が、4歳と2歳のこどもたちを連れて帰ってくるなり、怒鳴り散らし始めたんですよ。
相手は、4歳の娘。
もう凄まじい剣幕で、(私にとっては)よく意味のわからない内容を捲し立てている。
少々背景を説明しておくと、夫は職場から直接保育園へ迎えに行って、そのまま子供たちを耳鼻科へ連れて行く日でした。
この耳鼻科がかなり混んでいまして、この日は特に、普段より1時間くらい帰宅が遅れていたんです。
長時間待てば子供たちも焦れるので、なだめすかす監督者としては、いろいろ大変なわけです。特に4歳の娘は口が達者になってきており、これまでにも何度も、夫と娘は喧嘩した過去がありました。
でもこの日は、ちょっと夫の様子が尋常ではない。言い分を聞いて、少しでも感情の高ぶりを散らそうと「なに、どうしたの?」と割って入る。
が、夫の話は、まったく要領を得ない。
相手に理解してもらう努力を一切放棄してしまうくらい、興奮しすぎていたんですよ。
あまりに4歳の娘がかわいそうだし、2歳の息子も呆然と父親を見上げる始末なので、「何言ってんだよ! 意味わかんねーよ。頭おかしいんじゃないのか!!」と強く言い返しました。
すると夫は、泣き崩れるかのように、
「頭おかしいんだよ!」
「疲れてるんだよ!!」
と叫んだんです。
父親にも「もう無理!」と声を上げる権利がある
夫はそのまま、2階へあがって行きました。
そのあとで夫の後を追いかけて、
「(大変なら)呼んでくれれば、車で迎えに行くから。全部ひとりで抱え込んでそんなんになってたんじゃ、自分だって大変だし、子供たちもかわいそうだよ」
言ったのは、たったひと言、それだけ。
私は、自分が子育てをするために、自由に時間を使えるフリーの仕事になりました。
夫には絶対に一人で抱え込まないでほしいんです。無理なら無理で、投げ出してほしい。
※「一人で抱え込まないでほしい」というのは正直、反面教師と言いますか、私自身のコンプレックスなんだと思います
夫はその日、普段の1.5倍くらいお酒を飲んで、私には冷たく当たる。理不尽だなぁと思いつつ、子供たちにはだいぶ柔らかく接していたので、まぁだったらいいかと。子供たちに優しくしてくれるなら、本望です。
ふだんは夫の分担になっている食器洗いを私がやり、子供たちを寝かしつけました(いつも、2歳の息子はたいてい夫と寝たがる)。夫は少しは自分の時間が持てたんじゃないでしょうか。
さらに昨日と今日は、夫の担当になっている保育園の送り迎えまで、私がやりました。
私はそのぶん仕事の時間が減るわけですけど(夕飯づくりも洗濯物たたみも私がやっているので、送り迎えの時間がけっこう馬鹿にならない)、でも子供たちを傷つけるよりは100倍もマシです。
私は、夫の「頭おかしいんだよ!」「疲れてるんだよ!!」という叫びを聞いて、ある意味ほっとしました。
もし爆発してくれなければ、「もう無理!」という思いは、たぶん表に出てこなかったはずだからです。
人間誰しも、精神的・肉体的に厳しいときは、余裕がなくなります。子供がだだをこねたときに、笑って応じられるときもあれば、必要以上に怒鳴り散らしてしまうときもあるわけです。
根性でどうにかなる問題じゃありません。精神的・肉体的限界は決まっていて、そのときに持っているモノでやるしかないんです。
それは私も夫もお互い様です。
父親だって、「もう無理!」という状態だったら、投げ出していいんです。
だって親はふたりいるんですから。本当によくできたもんですよね(蛇足ですけど、一人親は逃げ場がなくて本当に大変だろうな、としばしば思います)。
仕事しんどい。甘えだけどしんどい。時間が欲しくて派遣で働いてるのにしんどい。
業種的にはブラックじゃない。むしろ、同じ派遣仲間からはうらやましいと言われることも多々。
実際、他の部署ならば、ほぼ定時に上がれるし、カレンダー通りに休日があるらしいし、有休も取れるので、働きやすい環境なんだろう。
私も最初はそう思ってた。資格取得を目指しているので、逆にそういう部署でなければ働く気はなかった。
派遣ならよくある話だが、突然仕事を紹介されて、説明はほぼなく、悩む間もほとんど与えられず判子を無理やり押させられる。
それでも、前任からの引継ぎ期間があるし、朝早いけど定時も早い時間帯だから、働きながら目標の達成は出来ると思った。
現実は全く異なっていた。
この部署だけならば余裕でブラックである。営業に近いけど厳密には営業ではない、そんな部署。
私は事務員として派遣されたので、外回りには行かない。が、その部署には私以外の事務員がいなかった。
営業社員はほとんどの時間、外に出ずっぱり。引継ぎを終えたら一人、取り残された。
引継ぎ期間は1週間あったが、季節によって業務がだいぶ変わってくるので、あまり意味がなく、仕事も自分でやり方を模索するしかなかった。
私のいる室内には、別の部署が3つほど入っているが、誰もこちらの部署の業務は知らない。
派遣されて一ヶ月と経っていないのに、知らない仕事を押し付けられて、半泣きになりながらその場をしのいだことは少なくない。
私が派遣されてから、他部署には中途採用の正社員が4名入社したが、その人たちは丁寧に仕事を教えられているし、すごく丁寧な扱いをされている。これが社員と派遣の差か。
また、仕事の量そのものも多く、残業してたら社員は全員帰っていた、なんてことも多い。
前任の人曰く、繁忙期には終電近くまで残るのがザラで、それも、誰も派遣の仕事は助けないから、らしい。
資格の勉強なんて出来ないよ、と言われた。実際に今年の試験は一次試験で落ちた。去年は二次試験まで行ったのに。
同じ室内に人が多くいるが、私はいつも一人だ。ひたすら一人だ。同じ立場の人間がいない。
昼食の話相手もなく、作った弁当を10分で食べ終えて、あとはひたすらぼーっとしている。
普段に話す機会がないから何を話せばいいのか。営業社員同士だとよく話しているようだけど。
体調を崩すくらい忙しい人たちに、私の仕事が大変なんだ、という話はできないし。
普段、同じ室内にいる人たちにも、そういった類の話は出来ない。たぶん、ふーん、で終わる。
派遣元の会社は全く役に立たない。そもそもこのおよそ3ヶ月、ほとんどコンタクトがない。
派遣会社って少なくとも1ヶ月に1回くらいは様子を見にくるのが普通なんだけど、それもない。
そもそもにして、契約期間を1週間以上過ぎてから、契約更新に来たので、まあそういうところなんだろう。
また有無を言わさず判子を押させようとしたし、契約書をよく見たら、勝手に更新周期が半年になっていたので、流石にキレた。
なんかあと、私が派遣された理由が、たまたま空いている人間だったから、らしく、その件でも怒りが爆発しそうになった。
仕事を続けないと食ってはいけないから、続けなくちゃいけない気持ちと、本当にやりたいこと勉強したい、という気持ちがいつもせめぎ合っていて、いつ辞めようか、それとも頑張るかと堂々巡りしている。
ちなみに、私のポストにこれまで就いた派遣社員は、全員社員にならないか打診されたけど、全員断ったそうだ。
この前、またやったこともない仕事を渡された。幸い前職での経験のある分野だったので何とかなった。
でも、全然やったことなんてありません、って言って、教えてくれたり、助けてくれるのかな。
繁忙期が近づいてくる。そう思う度に、私はどうしてこんなところにいるのだろう、と思うのだ。
正直辞めたいけど、そろそろ軌道修正が効かなくなってくる年齢になる。どうしよう。
近々今いるコミュニティを離れることになるので、みんなにご馳走してぎゃあぎゃあわあわあ楽しく飲んだ。年単位で所属していたところでもあるし、また、これから僕が行くところがだいぶん遠いところというのもあって、みんなほんとうに寂しがってくれるし、それでも喜んで送り出してくれる。いい仲間達。
そのなかに、特別気の合う子が一人いた。僕は男で、彼女は女。一緒に入ってきて、僕が先にいなくなる。最初はゼッタイ泣いちゃうから飲み会には参加しないって言ってたんだけど、結局来てくれて。でも昨日はみんなと騒ぐ日、だったから、特別話を出来るわけでもなく、終わる少し前に帰っちゃってた。ほんとに、なんでも話ができる子で、賢くて、素直で、仕事上のライバルでもあり、飽きることなく議論もできるし、不満があったらまっすぐ伝えられる、そんな関係を築いてきた。もちろん女性的な魅力もあった。好きだったか?と言われると、どうだろ。そう思わないようにしてきた、かな。彼女も慕ってくれてはいるけど、恋愛感情はなかったと思う。
なぜかというと、僕には付き合っている人がいるし、彼女も相手がいた。どちらも僕らが出会った時からだ。僕と恋人はそれなりによい関係を築いている。彼女も、まあそこそこうまくやってるようだった。少なくとも僕はそれを壊せなかったし、壊せると思わなかったし、そもそも壊して乗り越えようとも思わなかった。ただ、僕は遠距離だったので(だったのでって理由にならないけど)、その子と一緒にいる時間を、ときどき異性といる時間として感じていたのも事実。お互いに相手がいると、逆に安心して一緒にいられるのだと思う。
昨日の飲み会の話に戻ると、解散してから、僕は彼女に電話した。最後にどうしても会いたかった。とくべつ何をしようと思ってたわけじゃない、でもただちょっと近くに感じていたかった、というよりはもう少し積極的な感情があった気がする。飲み会がある前からもともと決めていたようにも思う、ひどく酔う最後の機会に、その力を借りて、会おうと。二人で会うこと自体は普段からあることだけれど、こうやって感情的に会いたいというのは特別なことだった。それでも電話をかけるのに躊躇はなかった。
結局会えなかったのだけれど。
電話はすぐ繋がった、まるでその電話を待っていたかのように。会いたいと伝えると、いったんいいよと返事があったものの、ちょっと言い淀んでいたので、都合が悪いかと尋ねると、じつは今日は彼氏がきちゃったからちょっと、と。
そっかそっか、それじゃまた今度だねって、じゃあ彼氏にもよろしくねと言って、電話を切った。僕はやっぱりほんのちょっとだけ、下心があったかもしれない。彼女の方はただ僕を慕ってくれているだけだから、二人の気持ちはもともとちょっとすれ違ってる。それは男と女の違いかもしれないし、僕がだらしないだけかもしれないし、分からない。それでも二人とも、また今度はもう二度と来ないっていう気持ちだけは、共有していたと思う。電話が切れる音が耳にいたかった。
どうして好きになってしまうのだろう。僕は、恋をするべきだったのかもしれない、盲目に。僕はいつだって恋をしていいと思っている。でも実際の人生は大抵それほどドラマチックではない。ドラマチックな人生はそのために壊れるものも尋常ではない。そして僕も例に洩れず、恋をしなかった。そしてそれはそれで一つのとてもいいこと選択だったと思う。いつ恋をするのをやめるかは、自分で決めること。それでも、こうして少し二日酔いの頭で、ぼうっとしていると――
この感傷も、すぐにながれて消えていくことは分かっている。僕はここを離れて、次の場所にいくことになる。昨日会えなくて、よかったのかもしれない。ここ数年を、ずっとぼくと一緒にいてくれて、ありがとう、それだけの気持ちをここにおいていく。