はてなキーワード: 依拠とは
日本人はよく無宗教と呼ばれるが、私はそれは当たり前だと思う。日本にキリスト教のような確固たる宗教が生まれるほどの素地もないし、その資格もないからだ。
宗教が生まれる素地とは、その宗教が生まれる土地の風土のことだ。風土とはその土地に住む人間の気質や文化の形成に関わる地理的、気候的環境のことである。
キリスト教のような一神教は自然の恵みの薄い中東の砂漠の風土から生まれた。そこでは神は人間の味方で、厳しい自然をも超越する。神の言葉である教典もその土地での生存戦略において合理的である。その信者は生活のありとあらゆる場面で神を拠り所にする。
一方で日本は伝統的にアニミズムという多神教の宗教観に依拠している。それは四季の変化や災害の多さ、生物種の多様さに起因していると言われる。そこで(沢山いる)神とはその様な自然環境の理由であり、アニミズムとはその中で人が生きる生存戦略である。故に日本において神とは必ずしも人間の味方ではなく、そこにあるだけの存在なのだ。神社が行う祭祀も神のご機嫌をとり、神と人間が共存共栄を図るための儀式である。
このような日本と中東の風土の差から、日本では信仰するに足る神様は生まれでてこないのだ。むしろそんな神が日本にいたらとんでもない憎き業を抱えた存在になるであろう(まあ、それを神と呼称することも無いであろうが)。日本には真の唯一絶対神は存在しえないのだ。それは仏教やキリスト教が伝来したときも変わらなかった。
無宗教というのは日本に外来の宗教が入ってきたときに、日本古来の習わしと共存共栄するための文化的産物であると思う。したがって無宗教は反宗教ではなく、むしろ宗教を維持する工夫であったといえる。そうでなければ仏教やキリスト教は今ごろ日本から排撃されていたかもしれない。
誤解なく言うと、私は日本において一神教の神を信仰することを否定したりとか、あるいは神道やアニミズム以外の信仰を認めなかったりするのではない。むしろ日本に住むどの人も何かしらの信仰を持つことを望んでいる。その時に同じ神を見ることは無いのだ。同じ所で安全に平穏に暮らしているその事実がより重要なのだからだ。
オスは多数のメスに遺伝子をばら撒いてなんぼの生き物なので、同じメスばかり抱いているとどうしても飽きてくる。
他の女に種をつけたくなってくる。
AVなんて男と女がパコパコするだけでどれも大して内容に差がないのに、
次から次へと新作が出て飽きられもせずに市場を形成しているのは、ひとえにまだ知らないメスに種をつけたいというオスの本能に依拠しているところが大きい。
一般的なタレントでいえばデビュー作など知名度が低く演技も下手で低予算でろくな売上も期待できないはずだが、
オスの本能に訴えかけるAV嬢の処女作こそが最大の売上を叩き出すのだ。
そのために名前を変えたり顔を変えたりして何度もデビュー作を出しているAV嬢もいる。
風俗も同じだ。店を移籍するたびにこの仕事を始めたばかりの新人のようなふりをしている子も大勢いる。男はみんな初々しいのが好きなのだ。
他に選択肢がない状況で彼女や嫁を抱いて楽しいのは最初だけで、そのうち機嫌取りや子作りのために抱いてやるという義務に変わるのだ。
このマンネリを打破するためにパートナーを交換して性行為するスワッピングに手を出すものもいる。
浮気や風俗に比べたら合意のうえでのスワッピングは合理的といえるが、世の中は建前で動くのでスワッピングが社会的に容認される日は来ないだろう。
風俗で他の女を抱くことで自分の嫁や彼女を再び新鮮な気持ちで抱くことができるとしたら風俗での出費など些細なものといえる。
ヴィーガンなのでわかりあえる仲間が異常に少なく、
たまにヴィーガン女性をみつけると、いろいろ話題をしたり、交友を深めようとするのだが、
「すみません、親しい男性がいるので」といった返しをされることがある。
そのたびに、
(そんなこと)きいてないよ!(ダチョウ倶楽部)
というツッコミを心でしている。
はっきりいっておブ○な方だったり、あるいは40代だったり、
煮ても焼いても食えないのだが(それは本人もわかっているはずだが・・・)、
しかもヴィーガンという共通項だけに興味があるため、その話題しかしてないのである。
「なんで↓そーなる↑のっ(コント55号)」
という感じである。
友人として交友を深めたいと思っているだけに、残念である。
女性は、すべての人間関係を、恋愛という枠組みでとらえがちなのではないか?
という想定をしている。
恋愛に依拠するということは、思考が自己の身体性から解放されていないということである。
そしてそれが女性の科学者が少ないことにつながっているのではないだろうか。
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一気に踏み込みすぎて不気味がられてるんだよそれ…
たしかに。
言い訳になるけど、とにかくヴィーガンと接触する場面がすくないのよ。
たまにであったりすると「ええ!?ヴィーガンなの!」「いつごろからですか?(鼻息)」
「いえ、地球保護です」と言われたときは「ファッ!?」となって、こっちから話題ふるのをやめた。
ヴィーガンってこんな感じで距離おかれるんだろなーって。自分もヴィーガンなのにw
女性は、別に美人だったり若かったりしない人でも、普通に楽しく話してたり親切にしていたらなぜか異性として好意をもたれることがあるので、そのことに対して配慮がない男性は女性となかよくなりづらいように思う。
「煮ても焼いても食えないのだが」という表現と、「女性は恋愛脳~」みたいな話題に女性蔑視を感じてむかついて語気が強くなってしまった
これは申し訳ない。
肉は煮ても焼いても食えない、ヴィーガンだけに!っていう激うまギャグでした(ウソ)
女性が恋愛脳っていう論は取り下げるつもりはないかな。蔑視ではなく分析ととらえていただきたい。
それであってますよ。
スーパーに行ったら9割のモノが買えなくて、
外食は米とポテトフライとサラダ(ドレッシング無し)しか食べれない状況、
を想像してみてください。
さっきも大豆肉を仕込んできましたけど、とにかく料理・レシピ情報というのは
ヴィーガンにとって一大事なのです。だから横のつながりが貴重なんです。
肉や魚は、素材がよければそのまま食ってもうまいじゃん?
でも肉や魚を喰いたくないから、めんどくさい大豆ミートに下味つけて食ってるわけです。
下味をつけるコツなんかは、仲間がいるとどんどん情報が広がっていく、というわけです。
あ、こんな話だれもご興味ない?
先方から見たら「一緒にあのレストランに行きませんか?」が割と早い段階で予想されるから普通の話題と少し違うのでは、とも思う。
ものすごく納得!
「今度ヴィーガンカレー店にいきませんか!?豆とココナッツしか使ってないのに美味しいんですよ!(鼻息)」
こっちがその気ゼロでも、相手は知りようがないし、最初から予防線をはるというのは女性としてフツーですよね。
「ヴィーガンなんて、趣味というか嗜好がたまたまバイクじゃなくて食事の話題というだけだ」
と甘くみていましたが、
はぁ~。だめだこりゃ。同じ人?
大人向け=幅があると思いこんでるのが悲しい。
トムジェリとか別に大人向けじゃないけど表情くるくる変わりますよ。
そして元増田もおそらく評価するカートゥーンなんて、自分の表情を鏡で見まくって描いてます。
これは描くものとして当然の行為だし、Gigazineソースかなんかで明示されてた記憶があります。
元増田を言えばAKIRA、俺も大好きですよ。フリクリも好き。
でもトップをねらえ!と言うと急にオタクカルチャーだと言って否定するわけでしょ。SFですらないと。
オタクの一部にオタク向けしか理解せずにサブカルを否定する狭量な人が居るのもたしかに事実だ。
しかしそれがオタクカルチャーの否定要素になるという言説自体が片腹痛い。
そしてオタクカルチャーが他のカルチャーに言及したとき、それが本格的ではなく稚拙だ、とするのはより滑稽。
まして増田のように感情表現に依拠させて否定するなど愚の骨頂。
俺はそれぞれの文化が花開けば良いと考えてるだけです。
俺もハンコ絵が一時期嫌いだったので実は深く意図を汲み取ると言いたいことはわかる。
でも萌え絵というものはそのバリエーションにこそ骨頂があるんだよ。
部分部分のディテールを損ねてでも「属性」という付加物で勝負する。
そしてその多様化で生き残ってきた。決してリアル系の作画、映画など他のサブカルチャーに引けをとっているという比較対象で使うものでもない。
藤本タツキはマンガ表現の中でなんとなくタランティーノっぽい空気を漂わせてるとどっかで書いたけど、藤本のそれにしたって心の片隅では「漫画でそれやらなくてもなあ」という部分と、こいつすげえなという部分の二種が混在する思いだ。
萌え絵はそれの中で優れた歴史表現を含めていて、それ自体が文化だ。
現行の同性制度でも選択的夫婦別姓制度でもどちらにもメリット・デメリットあるし、世の中の多くの人が望む方に合わせればそれで良くない?
法制度やコストの面で現実的ではないけど、分かりやすく国民投票で決められたらそれが一番理想的だわ。
なんていうか夫婦別姓賛成派の意見も反対派の意見も、単純な数で見た民意を覆して”必ずしもそうでなくてはならない”って言えるほどの『正しさ』に依拠する意見には感じないんだよなー。
反対派の言う家制度だとか分かりやすさだとかアイデンティティだとかも、仮に賛成派が多い世の中だったらその多くの人の意見を押さえつけてまで守らなきゃいけないモノだとは思わない。
逆に、賛成派の言う、苗字変更の手間だとか圧倒的な女性の変更率の高さだとかも、究極的には夫婦で話し合って、変えるのが嫌なら自分の苗字を守り抜けば良いんだから、仮に反対派が多い世の中だったら自分の我儘に社会をつき合わせるなよとしか感じない。
どっちが便利で気持ちが良いかなー? くらいの話題に対して、さもどちらかの意見だけが絶対的に正しくてそれに反する考えは『悪』とでも言うようなテンションで議論(笑)とかしてる人たち見るとアホくせーって思っちゃうんだよね。
自分の考える理想的な制度の良さを説いて、自陣の意見への賛同者を増やそうとするくらいのノリなら良いと思うけど。
ただ、俺のうろ覚えの記憶だと、条件付き賛成みたい意見も多かった覚えがあるし、細かいルール次第では賛否の傾きも変わりそうだけど。
ただその理由も、俺は漫画も小説もアニメも映画も好きで、そういうフィクションにおいて苗字って言うのはけっこう重要なファクターになることが多いから家族での苗字統一制度はなくならないでほしいなーって思うからってだけだ。
「違う苗字のキャラが実は両親の離婚で苗字が変わっていただけで本当は兄弟だったんだ!」なんて展開や、「奴らは○○の一族……」みたいな設定も、家族の別姓がまかり通ったら弱くなっちゃうじゃない?
こんな完全に好みのレベルの意見に論理に基づく正しさがないのは明らかだ。
でも所詮、夫婦別姓問題自体が好みの問題だと思っているから、俺は世論調査で聞かれたら躊躇いなく反対と答えるし、もしも投票で制度を決められるなら堂々と反対票を投じる。
一方で、世の中の多数が夫婦別姓を望むのなら、往生際悪く自分の我儘でしかない反対意見を通そうなんて風には考えない。
この程度の問題、今を生きる人々の好みで決めちゃって良いと思うんだけどなー。
動画勢の多かった2018上期ならまだワンチャンあったが、生放送主体の今新規参入してにじホロクラスの広告力を得るのは相当厳しい。
理由はVTuber見始めてみるか~と入門した視聴者がにじホロで可処分時間を使い切ってしまうからで、生放送コンテンツだからとしか言いようがない。
実際、この2つ以外の箱や個人のVTuberはいかにここのライバーと接点を持つかというのが成長の重要なファクターになっている。
まああそこまで成長しなくても収益は上がるので戯れで参入することはあるかもしれないが(サントリーとか)、広告塔というゴールを考えた時には自社Vの選択肢はない。
生放送コンテンツは演者のスキルやコネに依拠する成長要因が多いので、売れたいならどうしても「強い」演者が欲しい。
が、そういった「強い」演者は当然にじホロを筆頭とするVTuber事務所も欲しい人材である。
フェミニスト内部の意見対立を見ていると、悲しいほど学歴やそれに付随する収入がダイレクトに影響してきている気がする。
例えばトランス女性(身体は男性だが性自認は女性)に対する立場をとってみてみると、
と呼び方も異なるようだ。ラディフェミという呼称はかつてはフェミニスト内でも蔑称扱いされていた(少なくとも自称するものではなかった)が、「結局男に迎合しやがって」と、所謂「リベフェミ」の態度に憤った人達がそれと区別するために名乗るようになったようだ。
Twitter内で「アルファフェミニスト」と呼ばれている人間はこの二者だとリベフェミに分類される人間が多いらしく、ここ数日トランスジェンダー周りの話題が取り沙汰される中でそれに失望するラディフェミの姿が散見されている。
この姿勢の違いだが、どうにも「フェミニズムを学問として勉強したことがあるかないか」に依拠しているようにも見える。
近年フェミニズムを大学で勉強しようとした場合、「女性学」ではなく「ジェンダー論」が入口になる。入門的なジェンダー論はLGBT関連の歴史研究なども扱う場合が多いと共に、近年人気のあるジュディス・バトラーの研究はどちらにも応用できる理論なので、大学で齧ったことがある人間ほど「領域の近い問題」という意識が生まれ、トランス側とシス女性の間に連帯感を覚えがちだ。
それに対してラディフェミと呼ばれる人々は、「フェミニズムは女の女による女のための学問」という意識が強い。身体が男性であればその時点で敵認定する人も少なくない。彼女たちのツイートを観察してわかってきたのが、「勉強してるからって気取っちゃって」という反感が根底にあるようだということだ。既に自分は女性という身体を持って生きてきて、構造的差別に晒されてきたので、この体験をもってフェミニストとして活動するし、改めて勉強する必要を感じないという勢力である。そこに対して、リベフェミ側はよりによって「トランスの歴史についても学んでみてください」と語りかける。火に油だ。
ラディフェミとリベフェミは関心の強い領域も異なるため(性被害についてのスタンスは近いが、ラディフェミは表現、リベフェミはリプロダクトや政治・キャリアに話が寄りがち)、協力体制を敷くことも難しそうだ。
ジェンダーの問題は誰でも当事者であると言えるため、フェミニズムの論者たちの層もかなりバリエーションに富んでいる。ただでさえマイノリティのフェミニスト、この分裂は致命的なように見える。
あなたの指摘には中身が無いんですよ、「例示が下手くそ」「なんか全然そんなかんじしない」「文章も下手くそで読みにくいしメールしたくない」すべてあなたの感覚の話で、具体的な内容が無い。
何故これがまずいか分かりますか? どうとでも言えてしまうからです。
例えばあなたが例を上手く咀嚼できなかった場合、シンプルに考えて(1)私の例示がまずかった(2)あなたの読解力が無かった(3)その両方、の3パターンが考えられますね。
そこをあなたは特に(1)~(3)の可能性を検討すること無しに自分の感覚のみに依拠して(1)だとしてしまった。
仮に本当は(2),(3)のどちらかだったとしても、あなたは(1)だと言ってしまう。つまり、「あなたが(1)だと言った」事実は、(1)が真であることの根拠にはならない訳です。
分かりますか? あなたの言葉はほぼすべてがこれです。どうとでも言えてしまう事しか言っていないために、あなたの言葉は状況に対する説明になって居ないし、従ってあなたの言葉は実際には何の役にも立っていないのです。
これがもし仮に、あなたが(1)の時は(1)と言い、(2)の時は(2)と言い、(3)の時は(3)と言う理想的な論理フィルターだったとしましょう。そうであれば、「あなたが(1)だと言った」事実は状況が(1)であると判断する根拠になるし、その言葉は役に立っています。
作品そのものを守るために何をするかって話をしなきゃいけないのに
どっちが悪いとか責任がどうとかどーーーでもよくね?
どうでもいいというより、その2つは別々に考えられる話です。そして両方やればいい話です。
作品そのものを守るために何をするかは、私達でできる範囲は私と担当編集者で勿論話し合います。
それと、「何を「圧力」と呼ぶか」は別の問題として考えられます。そしてその「圧力」の持ち主であるかもしれない消費者側の責任も、独立して考えられます。
あなたは「作品そのものを守るために何をするか」の話を頑張っていますが、それがどうであれ消費者の責任はまた別に考えられます。
あと、「透明化」というワードを知らないのは正直に言うと驚きました。恐らく話が噛み合わないのはそのせいでしょうね。
あなたは私や出版社の話に持っていこうと頑張っていますね。それが何故か分かるでしょうか? あなたはあなた(を含む消費者)の責任の話をしたくないし、考えたくないからです。
消費者の責任の話になりそうになると、出版社側の話に持っていこうとする、それにより消費者の責任を考えなくて済むようにしたい、つまり消費者を責任主体のグループから外して透明にしたい、それが「透明化」です。
「透明化」はハラスメントやポリコレ、差別問題を考える上では頻出のワードです。例えば行政の子育て支援ポスターに母親の姿しか描かれていなければ、子育ての責任主体としての父親を透明化している事になりますし、
中絶に関する議論の際、母親の話ばかりがされるなら、居るはずの妊娠させた父親の存在と責任が透明化されたことになります。
そうした透明化の際、透明化の行為者は頑張って母親の話ばかりをし、母親の責任の話にどうにか持っていこうとします。
元増田や、消費者の責任を考えたくない他の人にも、こうした透明化の欲望は多かれ少なかれ有るのでしょう。
そしてそれらの問題は、「作品そのものを守るために何をするか」とは別の話であり、「作品そのものを守るために何をするか」を解決すればどうにかなる問題では有りません。
ごもっともだけど、それをやるとWeb口座振替なんて結構な銀行が提供してるし、いろんな機関が利用してるので全取り下げが必要やな。
現実的に考えればWeb口振受付はIB顧客限定で多要素認証必須にする、企業側でもインターネット経由では今回問題になった犯収法施行規則に基づく本人確認を認めない(犯収法本体の本人確認義務化)あたりかなとも思う。ひろみちゅ先生とかも言及してるけど、口座振替契約の慣行である相手側の本人確認依拠が破壊されたので、ゼロトラストで常に相手を疑うべし、方向に各種改正が走るかもね。
Switch転売を巡るゲーム店の苦悩。曰く「ゲーム店は、商品そのものだけでなく、商品を通じて得られる体験を提供しているのだ」という旨。他者のそれを破壊しうる転売行為は悪だと言い切れる、とのこと。悲しいくらい、情緒的なアプローチに終始している。市場経済論理は、一小売店が立ち向かうには巨大すぎる。この情緒的な『お願い』は、市場主義者には間違いなく響かないだろう。立っている論理が異なり、確固たる正義がある。彼らにしてみれば、「何故市場原理が悪なのか?情緒が何か救うのか?」というところ。
まぁ、市場原理100%には情緒が無いので、それに依拠している方々に対して、「情緒無くして人間と言えるのか?」という問いはある。人間は情緒的動物なのか市場的動物なのか。情緒は動物も(おそらく)持ちうるが、市場は人間以外形成しえない高度な機構なので、市場的動物か?否、より低次であるからこそ、より根源に近いのではないか?市場が無くなっても人は人であるが、情緒が無くなったら人は人ではなくなるのでは?情緒を全て排除した市場原理は、果たして“正しい”と言えるのか?
こういう環境にしてしまったプラットフォーマーに責任がある。「中古品を持ち寄ってやり取りして、みんなお得!」という考えは悪ではないが、そのプラットフォームが悪用(?)され、結果として情緒を破壊してしまっている。であれば、プラットフォーマーはそれを収める責務がある。もっとも、プラットフォーマーが市場主義者であれば、そんな責務知ったことではないだろう(彼らの原理に従うと、そんな責務は無いし、そもそも発生している事象も悪ではない)。つまり、そういう商売を停止するもっと大きな力(つまるところ政府)の統制が必要になる。
そして政府が特定企業の営利活動に踏み入ることは、果たして是か非か。法律に反していればナタを振るえるが、今回は特段法律には反していないケースである。それを統制するのは、権力の濫用ではないか?経済活動の自由のはく奪ではないか?いくらでも反論が沸いてくるし、実際のところ濫用なので、直接的な統制は不可能であろう。結局、政府レベルでも、良心に訴えるくらいしかやることがない。
しかしてまた、良心に訴えなければならない状況で、歴史的にそれがうまくいった試しがない。あるいはこの日本国で、良心に訴えて、それが万人に響く可能性があるのは、天皇皇后両陛下と上皇ご夫妻の『おことば』くらいだろうが、あまりに非現実。
情緒は美しいが、かくも脆い。日本人は共通した倫理を持っていない。宗教でもあれば少しは共通の良心くらい生まれるかもしれないが、現代日本ではまず不可能。宗教が国を立てると言った聖徳太子はここまで見通していたのだろうか。
内容には全く関係がないが、「文字をギュッとね!」というフレーズが浮かんだ。ああいかん、こうして見栄えのことだけに触れることもまたルッキズムだな…。
おっさん乙。
すまん、実は『炎の蜃気楼』読んでないんや。存在は知ってるってだけで……
北田の論文ではちゃんと「この論文では二次創作に興味があるオタクのことを二次オタクって呼ぶよ」っていう定義がなされた上で使われてるのでまあ問題はないと思う。この論文の中ではこういう用語法にしますよ、という話だから。
なのにtwitterでグラフの画像だけ切り取って拡散するやつがいるから勘違いされちゃうというね。その論文では一般的な用法とは違う用法をしてるって理解してくれー。
そんなに酷い本なのか、指摘されてる点が素人でも分かる程酷い
北田(2017)はあくまで本の1章やで……他の章に罪はないやで……参考文献にはちゃんと何ページから何ページまでって書いてあるんだからちゃんと見てほしいやで……
もとの調査は2010年やで。10年前のデータってのは古く思えるけど、2010年にデータ採って、それをもとに色々分析して、本の形で研究成果を発表したのが2017年でしょ? これだけの共同研究で7年なら、早くもないけど特別遅いってわけでもないよ。さすがにそれは言いがかりすぎて北田が気の毒。
『北田は、東浩紀(2001)のデータベース消費論に依拠しつつ』まで読んだが、その時点でもうほとんど相手する必要ない感がすごいある。謎の『二次オタク・非二次オタク』だったかの分類も意味わかんなかったけど。
いやその分類それ自体は別に悪くないやで……ただ分類に際して「興味がある」をそのまま「好きである、実践している」と同一視してる点とか、二次創作への興味を表す項目を腐女子の操作的定義に使ってるのが論理的におかしいって話やで……そういう分類も仮に適切に定義して適切に運用できるならまったく問題ないやで……
これ、「オタクの研究」じゃなくて「若者の趣味に関する共同研究」なので……他の章では音楽とか読書とかも扱われてて、オタクのジェンダー観の分析はその1章というだけ。
別に難しいことじゃないんだけどなぜか変なことしてるなぁ、という感じ。山岡(2016)の操作的定義は割とマトモだと思う。
なんで二次創作好きに絞って調査したのか気になる。一次創作好きと二次創作好きで分けて著作権意識について調査するとかなら必要性もわかるけど
それには、
という2つの要因がある。
北田は、男オタクは東浩紀の提唱した「データベース消費」をしているけど、腐女子はそれとは違う「関係性消費」をしていて、前者は既存のジェンダー規範に対して親和的だけど、後者は既存のジェンダー規範に対して批判的で、むしろ古臭い既存社会の構造に挑戦している、という議論をしているのね。
その文脈で二次創作に注目する、というのは、(議論の妥当性はさておき)まあわかる。
でも、北田のおかしいところは、「二次創作に興味がある」という項目から、これに賛同したやつはディープなオタクだろうとか腐女子だろうとか定義してるところね。「マンガの二次創作に興味がある女≒腐女子」ってのはデータがどうこう以前に論理的におかしい(『炎の蜃気楼』や『刀剣乱舞』で掛け算してる腐女子は「マンガ」で二次創作してるわけじゃないし、商業BL専門の腐女子もこの定義からは外れてしまうし、男女CPで二次創作やってる女オタクなんていくらでもいるし、好きなマンガをBLにするな! って毎日のようにBLを叩いてる女がいたとして、そいつは定義上「マンガの二次創作に興味がある女」ってことになるけどそれを腐女子と呼ぶのはどう考えても間違い)。これは山岡も皮肉ってる。
例えば、与野党の政治家、報道関係者、一般国民に至るまで、多くの者が総理大臣の言動に興味を持っているだろう。「興味を持つこと」と「好きであること」を同一視すれば……驚異的な支持率になる。……(山岡 2019: 21)
それと、男オタクと女オタクのデータベース消費うんぬんの話で東園子の先行研究を引いていて、これは私はまだ読んでないからなんとも言えないんだけど、『ヘタリア』と『東方』の差異で男女の消費の差異を論じてる箇所があるらしいんだよね。……『ヘタリア』、普通にギルエリとかヘテロCPもあったよな? 『東方』、男オタク界隈でも早期から百合(つまり関係性消費)の勢力が根強かったジャンルだよな? まあでもこれは東園子を読まないと何も言えないのでまずは読んでみますわ。
で、北田(2017)のツッコミどころはたいてい指摘されてて(てゆーか北田も一部については自己批判してる)、正直私がここでこんなこと書くのって車輪の再発明でしかないんだけど、あのグラフは画像として独り歩きしてて「男オタクは保守的、女オタク/腐女子は進歩的」の論拠として用いられることがまだまだ多いんだよね。だから、いやもともとの論文もけっこうおかしいよね? そんなとこから無批判に持ってきて男オタクを云々されるの困るんだけど? というのをブクマカ諸氏に訴えかけておきたかった。
ちなみに北田はその後noteで山岡(2019)に応答してるけど、今んとこ山岡からの再反論はなし。
https://note.com/gyodaikitada/n/nf3ec68635b4e
https://note.com/gyodaikitada/n/n64fa34704698
https://note.com/gyodaikitada/n/n1c5f282be513
ただこの夏に山岡が新刊出すらしいんでそっちで反論があるのかも。個人的には北田の反論もnoteとかでやってないでどっかの紀要とかに載っけてくれればいいのにと思うけど、まあ印刷物はすぐにはできないので気長に待つとしましょう。仮に去年の夏ごろに紀要に原稿投下してればそろそろ刷り上がってくるころかな(『現代思想』では江口聡のtweetを引用してdisってるんだから、ウェブ上の論争を紙でやることに抵抗はないのだろうし)。
フェミニズムの人って文献を批判的に吟味出来ているのかな?なんか北田のグラフをそのまま鵜呑みにしている反応を見たんだけど...
まあ畑違いの分野だったり自分に馴染みのないテーマだったりすると批判的に読むのすら難しいしねえ。同じドイツ近代史の真面目な研究者さんでもキリスト教に詳しくないとカール・レーフラーを見抜けなかったので……あと、フェミニストでも腐女子じゃなければ操作的定義のおかしさに気づくのとか難しいだろうし、腐女子でフェミニストでも研究についてよくわかってなければ吟味する能力がないのは仕方ない面もあるし。でも腐女子を自認してるフェミニスト研究者はさすがになんかおかしいと思わなかったのかよとは思う。
一応全部読んだんだけど、北田氏の言説がアレげな事はおぼろげにわかったが、それを突き詰めるために原典全部に当たろうとはとても思えない話だった
北田(2017)は日本語で50ページくらいの分量やで……選書だからページあたりの文字数もそこまで多くないしグラフも含めてのページ数やで……
引用しちゃダメな文献なんてないんやで。どんな文献でも引用してよくて、その中に肯定的に引用すると信頼度が落ちる文献とか自説を補強する目的で引用するとバカにされる文献とかがあるだけだから、もしも引用に値すると思うのなら匿名記事でもガンガン引用してええんやで。まあこんなガバガバ増田から引用するくらいなら素直に北田(2017)や山岡(2019)を引用しよう!
山北(リバあり)
そもそもがミソジこじらせてる連中が言う「俺らオタク」の定義がガバガバで、ジェンダー論に行く手前でもう突っ込みどころが満載なんだよなあ。アニメ漫画ゲーム以外にも山程オタはいるわけだし
twitterでたまに、男オタクは女や非オタク男と比べて「男は仕事、女は家事」のような性別役割分業を支持する割合が高く保守的である、という結論の棒グラフが回ってきているのを見かける(例:https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/phanomenologist/status/1228500960588124163)。あれはしばしばフェミニストによって「男オタクの女性蔑視の表れ」のように引用されるが、そもそもどういう文脈で出てきた棒グラフだったかちゃんと確かめた人はいるのだろうか? そして、あのグラフをめぐって学者同士の意見が対立していることはどのくらい知られているのだろうか?
ということで、以下であのグラフが出てきた文脈を紹介してみるよ! なお、増田は男オタクだけど、統計とか専門外だよ!
あの棒グラフの出典は、社会学者の北田暁大による若者と趣味に関する研究の一節である(北田 2017: 291)。だがもちろん研究というものはそれだけで完結するものではなく先行研究の積み上げた文脈のもとに成り立つものだ。そして北田(2017)が特に目の敵にして批判しているのが、心理学者の山岡重行による研究である。山岡は2016年の単著において腐女子を心理学的に分析し、腐女子の恋愛観だけでなく彼女たちに向けられたイメージについても論じた(山岡 2016)。
山岡の研究はどう評価すればいいのか難しい。確かに興味深い点が多く、たとえば2015年時点でもオタクに対する否定的イメージが存在し、そのなかでも腐女子は同じオタクからも否定的に見られているということを学術的に明らかにしたこと(山岡 2016: 99, 132)などは、オタクのあいだでは公然の事実とはいえ一定の意義があるだろう。しかし一方で、男オタクと腐女子は相性が良いんだからもっと恋愛すればいいのにというようなアドバイスは大きなお世話というかクソバイスの極みであり、腐女子の心理について質問紙調査のみに基づいてものを言うのはいいとしてもBL作品の構造を論じる上でテキストクリティークを欠いていることは理解しがたい(山岡 2016: 229-230)。山岡はデータに基づく研究の重要性を主張するが、物語の構造などの質的な面に踏み込むのであれば、数字で示されたデータだけでなく様々なテクストに当たって読み込むという人文学的な手法を採用する必要があるはずだ。心理学の実証研究としては面白いが、実証以外の部分で余計なことを言い過ぎている、という評価をするのが最も良いだろうか。
では、それを批判した北田の研究はどのようなものなのだろうか。実はこれ、読んでみるとわかるがかなりのツッコミどころの塊なのだ。
まず、北田がこの調査で用いた方法論について確認してみよう。北田が依拠しているのは、2010年に練馬区の1988年~1990年生まれの男女に対して行った調査である。つまり、2020年現在のアラサーに対して10年前に行われた調査に基づくデータである。このデータは、北田が中心となっている若者の趣味についての共同研究の一環として採られたものであり、北田(2017)が収録されている本に収められた他の論文も同様にこのデータを出典としている。
北田は、東浩紀(2001)のデータベース消費論に依拠しつつ、男オタクの消費が東の言うようなデータベース消費である一方で女オタクすなわち腐女子(ここ、「ん?」と思う人が多いだろうけどとりあえず脇において続きを読んでほしい)の消費が関係性消費である、という先行研究で提示される図式を踏襲する形で分析を進めていく。当然、ではこの論文で言う男オタクと女オタクってのはどんな集団を指すんだ、腐女子かどうかはどうやって決めるんだ、という操作的定義が求められるわけだが、北田がどんな定義をしているのかを以下で見てみよう。
北田はまずオタクの操作的定義を示すが、この時点で首を傾げてしまう。たとえば「ライトノベルが好きだ」という質問はいいとして、「マンガがきっかけでできた友だちがいる」や「アニメがきっかけでできた友だちがいる」という項目は、そりゃそれに当てはまるオタクは大勢いるだろうがコンテンツがきっかけでできた友人がいるかどうかはオタクとしての本質に何も関係ないよね? もちろんこの研究では若者と趣味というテーマを掲げていて、趣味と人間関係がどう連関しているかという点も研究対象に入るわけだからそういう質問項目が悪いわけではないのだが、それをオタクの定義に使われると困惑するほかない。やめてください! 友達がいないオタクもいるんですよ!
そして北田は、上記のような質問で定義した「オタク」を更に「二次創作が好きか否か」で分類する。つまり、オタクを「二次オタク」「非二次オタク」に区分し、それをさらに男女で分けるわけである。そしてこの「二次創作好き」というのを定義する指標として「マンガの二次創作(同じ登場人物で、原作のストーリーとは違うストーリーを考えたり読んだりすること)に興味がある」(北田 2017: 270)というのを持ち出している……えーっと、これだと、『銀河英雄伝説』も『炎の蜃気楼』も『東方』も『アイドルマスター』も原典はマンガではないので当てはまらないのではないか? この調査の後にヒットした『ラブライブ!』も『艦隊これくしょん』も『刀剣乱舞』も『ユーリ!!! on ICE』も、いずれも原作はマンガではない。仮に私が当時練馬区に住んでいてこんなアンケートを渡されていたら、「私が買っているのはアニメ作品の二次創作なんだけど……」と回答に悩んでいたことだろう。「作品」「コンテンツ」とでも言い換えれば済むところをなぜ「マンガ」と表現したのか理解に苦しむ。ゲームを全部ファミコンと呼ぶおかんかよ(この喩えもいい加減古くなってきたな……)。
さらにこの調査は、「二次創作が好きな女性オタク(女性二次オタク)」と「二次創作が好きではない女性オタク(女性非二次オタク)」を区別しているが、肝心の二次創作の中身については区別していない。つまり、BL同人を読んでいようが男女カプの二次創作をしていようが「女性二次オタク」だし、商業BLや一次創作同人専門の読み手で二次創作に手を出していなければ「女性非二次オタク」である。つまりこれは、二次創作が好きなオタクを析出することはできても、本質的に腐女子を析出できる調査ではありえない。もちろん同じことが男オタクにも当てはまり、女キャラが無駄に淫乱になって男相手にサカる同人誌も女キャラ同士がプラトニックにイチャイチャする同人誌も同じ「二次創作」である。種つけおじさんレイプと百合を区別できない質問項目をもとにデータベース消費と関係性消費の対立みたいなこと言っていいのかな……いやダメでしょ。
だが北田の定義のおかしさはこれに留まらない。彼はなんと、「二次創作好きでオタク度の高い女性を『腐女子』という言葉でまとめあげることにはもちろん問題がある。二次創作好きとBL好き、やおい好き、女オタクなどの差異を孕んださまざまな概念が交差する地点に『腐女子』概念は存在している」としつつも、便宜的に「『二次創作好きで、オタク尺度が高位2層である女性』を、操作的に腐女子と」定義している(北田 2017: 307)。はぁ???
言うまでもなく、腐女子の全員が二次創作に興味を持つわけではなく、二次創作に興味を持つ女性オタクの全員が腐女子でもないのだから(男女CPや百合の愛好者はどうすればいいんだ)、この段階で北田が研究対象を正確に捉えられていないことがわかる。「BLが好き」という質問項目を入れてないのに「腐女子」の操作的定義なんてできるわけないだろ! この問題については山岡からもtwitterでツッコまれているほか(https://twitter.com/yamaokashige/status/1131363111636615168)、「興味」と「嗜好」を区別すべきだとも批判されている(山岡 2019: 21)。妥当な指摘だろう。意地悪なこと言うけどさ、これを注に放り込んでるのって悪意ありますよね?
さらに、男オタクに関しても、「二次創作好きオタク男性≒ディープな男性オタク」(北田 2017: 294)と記述している。当たり前だが二次創作にはたいして関心もないがディープなオタクはいるだろうと言わざるを得ない。声優のおっかけを熱心にやっているオタクはディープなオタクではあるかもしれないが二次創作が好きなオタクとはいえないだろう。
総じて、北田の研究は、オタクとしてディープであるか否かとか腐女子であるか否かといったことを、すべて「二次創作が好きか」で測ろうとしている。だがそれはとんでもない勘違いである。二次創作が好きな人とディープなオタク/腐女子であることとの間にはある程度の相関関係はあるだろうが、あくまで論理的には一対一で対応しているわけではないのだから、ディープなオタクを定義したければ注ぎ込んだ時間やカネや知識量を、腐女子を定義したければBL趣味の有無を、それぞれ尋ねるべきだったのだ(特に、客観的な測定が困難な「ディープなオタク」と違って、腐女子かどうかは「BLが好きだ」という項目を入れた上で性別と組み合わせれば一発で判定できるのだから、ここで手抜きをしているのは許しがたい)。
少なくとも山岡の著書にはパッと見で「おかしいぞ?」と思うような操作的定義はあんまり見当たらなかったのに、北田の論文の操作的定義はパッと見でもわかるツッコミどころが多すぎる。これもうどんなグラフ出されても信用できないでしょ。データの処理とか以前に操作的定義がおかしいんだもん。
で、北田にさんざんdisられた山岡は別の著書(山岡 2019)を発表して北田に反論している。個人的にはその議論はおおむね妥当であるように思えたので、詳しく知りたい人は山岡(2019)を読むか、彼のtwitterを見てほしい。私は統計とか詳しくなくて、前提となっている操作的定義のおかしさは指摘できても、標準得点に差があることは「対極にある」ことを意味しない(https://twitter.com/yamaokashige/status/1125940271298990080)とか、このへんはまったく気づかなかったので。
最後に、北田と山岡のどちらの研究もおかしい、と思ったポイントがあるので言及しておく。
北田のデータは練馬区の若者から採ったものであり、山岡のデータは都内の複数の私立大学の学生から採ったものである。つまり、東京圏に居住しているか、通える距離に住んでいる若者のデータに偏っており、さらに後者は大学生のみのデータとなっている。これが血液型性格判断の話であればいいかもしれないが(よくないけど)、オタク文化の拠点が東京などの大都市に集積していることと、就労等によって趣味との関わり方が変化すること、そして趣味に学歴が及ぼす影響を考えると、「東京圏の若者」のみに焦点を合わせて「オタク」の全体像を論じることは適当ではない。そこで集められたサンプルは、オタクコンテンツが身近に溢れていて可処分時間が多く学歴も高いオタクのサンプルに過ぎず、オタクの代表例とも若者の代表例ともいえない。
とはいえ、では他にどういう調査のやりようがあったのか? というと、思いつく計画がどれも高額の研究費を要求するものになってしまって個々人の研究ではなかなか厳しい。少なくとも、東京だけでなく日本全国(最低でも、大阪や札幌などの東京以外の大都市圏)からもサンプルを抽出することは必要だろうし、そのサンプル調査には大勢の非オタクも引っかかる以上はサンプル数もそれなりのものにする必要があるだろうし……こういう大がかりな質問紙使った研究ってやったことないからイメージ湧かないんだけどどんくらい金かかるんだろう。
それと、北田も山岡も統計的データを重視しているので、あえて質的な研究には踏み込んでいないのだろうが、それでもやはりいずれの研究も当事者の言説分析を欠いていることは大きな欠点であろう。オタクは自分たちについて膨大な自分語りを残してきており、それを悉皆調査すべきだとは無論言わないが男オタクや腐女子が自分たちのことをどう語っているのかも踏まえた上で論じられればなお良かったんじゃないかな。もちろんそれは大規模な質問紙調査並にめんどくさい手続きであり、代表性とかどうやって保証するんだ、という感じではあるのだが、せめてオタク自身の手になる非学術的な文献はもっと多く引用されていてもよかったのではないか。それは一歩間違えば大塚英志(2018: 136-140)が指摘するような当事者の営為を無視した簒奪的な研究にもなりかねない、と思う(もちろん彼らは文化そのものを論じているわけではないので、文化を論じる研究者に求められるほどの慎重さは要求しなくてもいいとは思うが)。
いやでもやっぱりこれ北田(2017)のほうがひどいわ。山岡(2016; 2019)の操作的定義を見てると、彼自身がオタクではないにせよ、趣味によってつながる人間関係のありようみたいなのを肌感覚でわかってるって感じがするけど、北田の定義はトンチンカンなんだもん。もしわかった上でやってるならクソだけど、仮に本気でああいう定義を持ち出してきたんだとしたら、それはもう根本的に趣味でつながる人間関係がどんな感じなのか肌でわかってないってことだよね。趣味人としてのリアルからかけ離れすぎてるんだよな。
あと北田の研究がひどすぎるからって社会学全般が悪く言われないといけない理由はないので念のため。北田の研究は別に社会学者なら誰もが参照してしかるべきみたいな位置づけのそれではないので……
よく分からんのだが、その北田氏の研究がいい加減なものだとしても
2007年の練馬区の若者においては、漫画やアニメが好きで二次創作を好む男が
これ、回答の平均値じゃなくて標準得点を元にしたグラフなのよ。標準得点をもとにそんなこと言えるか? って山岡が批判してるからそれ読んで(https://twitter.com/yamaokashige/status/1126035720122953729)。
ワイが間違ってたわ。言えるっぽい。すまん。
続きはanond:20200722142616で。