Switch転売を巡るゲーム店の苦悩。曰く「ゲーム店は、商品そのものだけでなく、商品を通じて得られる体験を提供しているのだ」という旨。他者のそれを破壊しうる転売行為は悪だと言い切れる、とのこと。悲しいくらい、情緒的なアプローチに終始している。市場経済論理は、一小売店が立ち向かうには巨大すぎる。この情緒的な『お願い』は、市場主義者には間違いなく響かないだろう。立っている論理が異なり、確固たる正義がある。彼らにしてみれば、「何故市場原理が悪なのか?情緒が何か救うのか?」というところ。
まぁ、市場原理100%には情緒が無いので、それに依拠している方々に対して、「情緒無くして人間と言えるのか?」という問いはある。人間は情緒的動物なのか市場的動物なのか。情緒は動物も(おそらく)持ちうるが、市場は人間以外形成しえない高度な機構なので、市場的動物か?否、より低次であるからこそ、より根源に近いのではないか?市場が無くなっても人は人であるが、情緒が無くなったら人は人ではなくなるのでは?情緒を全て排除した市場原理は、果たして“正しい”と言えるのか?
こういう環境にしてしまったプラットフォーマーに責任がある。「中古品を持ち寄ってやり取りして、みんなお得!」という考えは悪ではないが、そのプラットフォームが悪用(?)され、結果として情緒を破壊してしまっている。であれば、プラットフォーマーはそれを収める責務がある。もっとも、プラットフォーマーが市場主義者であれば、そんな責務知ったことではないだろう(彼らの原理に従うと、そんな責務は無いし、そもそも発生している事象も悪ではない)。つまり、そういう商売を停止するもっと大きな力(つまるところ政府)の統制が必要になる。
そして政府が特定企業の営利活動に踏み入ることは、果たして是か非か。法律に反していればナタを振るえるが、今回は特段法律には反していないケースである。それを統制するのは、権力の濫用ではないか?経済活動の自由のはく奪ではないか?いくらでも反論が沸いてくるし、実際のところ濫用なので、直接的な統制は不可能であろう。結局、政府レベルでも、良心に訴えるくらいしかやることがない。
しかしてまた、良心に訴えなければならない状況で、歴史的にそれがうまくいった試しがない。あるいはこの日本国で、良心に訴えて、それが万人に響く可能性があるのは、天皇皇后両陛下と上皇ご夫妻の『おことば』くらいだろうが、あまりに非現実。
情緒は美しいが、かくも脆い。日本人は共通した倫理を持っていない。宗教でもあれば少しは共通の良心くらい生まれるかもしれないが、現代日本ではまず不可能。宗教が国を立てると言った聖徳太子はここまで見通していたのだろうか。