2020-08-04

Switchを巡るゲーム店の苦悩

Switch転売を巡るゲーム店の苦悩。曰く「ゲーム店は、商品のものだけでなく、商品を通じて得られる体験提供しているのだ」という旨。他者のそれを破壊しうる転売行為は悪だと言い切れる、とのこと。悲しいくらい、情緒的なアプローチに終始している。市場経済論理は、一小売店が立ち向かうには巨大すぎる。この情緒的な『お願い』は、市場主義者には間違いなく響かないだろう。立っている論理が異なり、確固たる正義がある。彼らにしてみれば、「何故市場原理が悪なのか?情緒が何か救うのか?」というところ。

 まぁ、市場原理100%には情緒が無いので、それに依拠している方々に対して、「情緒無くして人間と言えるのか?」という問いはある。人間情緒動物なのか市場動物なのか。情緒動物も(おそらく)持ちうるが、市場人間以外形成しえない高度な機構なので、市場動物か?否、より低次であるからこそ、より根源に近いのではないか市場が無くなっても人は人であるが、情緒が無くなったら人は人ではなくなるのでは?情緒を全て排除した市場原理は、果たして“正しい”と言えるのか?

 こういう環境にしてしまったプラットフォーマー責任がある。「中古品を持ち寄ってやり取りして、みんなお得!」という考えは悪ではないが、そのプラットフォーム悪用(?)され、結果として情緒破壊してしまっている。であれば、プラットフォーマーはそれを収める責務がある。もっとも、プラットフォーマー市場主義者であれば、そんな責務知ったことではないだろう(彼らの原理に従うと、そんな責務は無いし、そもそも発生している事象も悪ではない)。つまり、そういう商売を停止するもっと大きな力(つまるところ政府)の統制が必要になる。

 そして政府特定企業営利活動に踏み入ることは、果たして是か非か。法律に反していればナタを振るえるが、今回は特段法律には反していないケースである。それを統制するのは、権力濫用ではないか経済活動自由のはく奪ではないかいくらでも反論が沸いてくるし、実際のところ濫用なので、直接的な統制は不可能であろう。結局、政府レベルでも、良心に訴えるくらいしかやることがない。

 しかしてまた、良心に訴えなければならない状況で、歴史的にそれがうまくいった試しがない。あるいはこの日本国で、良心に訴えて、それが万人に響く可能性があるのは、天皇皇后陛下上皇ご夫妻の『おことば』くらいだろうが、あまりに非現実

 情緒は美しいが、かくも脆い。日本人共通した倫理を持っていない。宗教でもあれば少しは共通良心くらい生まれるかもしれないが、現代日本ではまず不可能宗教が国を立てると言った聖徳太子はここまで見通していたのだろうか。

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