はてなキーワード: 成就とは
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/572/005572_hanrei.pdf
麻原彰晃は以下のように説法している。
例えば,Aさんという人がいて,Aさんは生まれて功徳を積んでいたが慢が生じてきて,この後悪業を積み,寿命尽きるころには地獄に堕ちるほどの悪業を積んで死んでしまうだろうという条件があったとしましょう。
このAさんを,成就者が殺したら,Aさんは天界へ生まれ変わる。
(中略)
ここで,例えば生命を絶たせた方がいいんだと考え,ポアさせた。
(中略)
人間的な客観的な見方をするならば,これは殺生です。しかし,ヴァジラヤーナの考え方が背景にあるならば,これは立派なポアです。
そして,智慧ある人─ここで大切なのは智慧なんだよ。─智慧ある人がこの現象を見るならば,この殺された人,殺した人,共に利益を得たと見ます。
例えば,日本赤十字がいて,日本赤十字がキャンペーン周知のために掲出した宇崎ちゃんポスターは過度に性的であるため、不快さを与えたり女性への抑圧を強化したりするだろうという条件があったとしましょう。
この宇崎ちゃんポスターの掲出を,フェミニストがとりやめさせたら,日本赤十字は問題なくなる。
(中略)
ここで,掲出をやめせた方がいいんだと考え,クレームをつけた。
(中略)
人間的な客観的な見方をするならば,これは表現規制の要求です。しかし,フェミニズムの考え方が背景にあるならば,これは立派な社会運動です。
そして,フェミニズムを理解している人─ここで大切なのはフェミニズムへの理解なんだよ。─フェミニズムを理解している人がこの現象を見るならば,日本赤十字,フェミニスト,共に利益を得たと見ます。
面白いポイントは、オウム真理教は「魂は存在しその魂に悪業がたまり地獄へ落ちる」と信じ込んでいるため上のような論理展開ができるのであるのに対し、フェミニストは「宇崎ちゃんポスターは女性への抑圧を強化するほど性的である」と信じ込んでいるためできるという点にある。そこには、オウムの根拠同様客観的な証拠など何もないのだ。また、フェミニズムへの理解が足りないとして切り捨てるような言動が観測される(茜さやに対する態度など)のも面白い。
新興宗教にはしばしば「教祖は神の生まれ変わりなので特別な待遇が許される」などの教義が存在するが、生まれによって権利が許される、もしくは許されないというのは現代的な思想からすれば立派な差別で、つまり教義の中に差別が含まれてしまっている状態である。そして、その神の生まれ変わりである教祖があいつはポアしたほうがいいと言えばポアされてしまうのである。そのような差別を含む教義の中で肯定的に殺人が行われるのがオウム真理教であった。
それに対しフェミニズムは一般的に女性を抑圧から解放するために存在するが、それは即ち女性が抑圧されているという差別の存在を肯定しないと、存在意義がなくなってしまうということだ。そして、どのような状態になれば女性が抑圧から解放されたのか、差別が解消されたのかという定義がなされない以上、どのような物事に対しても女性が抑圧を感じればそれを根拠にして際限なく、線引きも自由にフェミニズム的な社会運動ができてしまうということである。そしてそのような思想は「私は特別扱いされるべきだ」というようなナルシズムと親和性が非常に高い。誰でも教祖になれるのである。
どうしても心が落ち着かなくて、精神的にもかなりギリギリのところにいるので、書くことにした。
正直にハッキリ言えることも多くないため曖昧な表現になることで、何が言いたいのか分からない文章になるだろう。
つまり、ただのはけ口であることを前提に、長文を垂れ流すつもりだ。
気が付けばもう40を超えて、「人生80年」と言われてた時代を考えれば、折り返し地点である。
しかし現在「人生100年時代」との声があり、自身の祖母も102歳でこの世を去った。
確信めいたものはないが、私もよほどのことがなければ長生きする気がするほど、健康だ。
人付き合いは変化したなとは思うが、それは周囲の人がそれこそ、結婚・出産・転勤・転職等で生活環境を変えたことが要因だと言える。
さて「何も変わらない」と言われる私であるが、実際自分でもそう思っていたのだが、それは違った。
環境などと分かりやすい面ではなく、『感情』という部分が大いに変化していた。
例えば、であるが、私は非常に泣き虫であった。人目をはばからず涙を流す恥ずかしい子であった。
割と思うがままに感情を表に出していた気がした。
感情の起伏はさほど激しくはないが、笑って泣いて怒ってを繰り返して、ある意味「分かりやすい人」だったと言える。
でもこの数年で、それを失っていた事に気づいてしまった。
怒りも悲しみも寂しさや煩わしさ、楽しいとか嬉しいとかどこかへ捨て置いてきてしまったようだった。
人はそれを「平穏」というのかもしれないけど、私に至っては「無機」という言葉で表現したい。
若い頃、勝手気ままに自由にはちゃめちゃに生きていた私が、年を取ることによって、落ち着いてきたと言えば聞こえはいいかもしれない。
でも多分そうではない。「幸せ」とか「安定」とか「平穏」という周囲の言葉に惑わされて
「何もしちゃダメなんだ、深く考えちゃダメなんだ、変化を求めてはいけないんだ・・・・しなくていいんだ」
そしてその無気力状態を作り出したのを、敢えて人のせいにしようと思う。
もちろんそこに甘んじて維持し続けた私が一番の罪であることは、頭の片隅に置いておこう。
年数は省略させてもらうが、私には長付き合っている恋人がいる。
それゆえ、「結婚しないの?」という外野からの声は数えきれないほど聞いている。私が一貫して返す言葉は「しない」の一言だった。
少子化時代を騒がせる昨今、私は曰く非生産的な存在であり、政治家たちにとっては国家に貢献しない存在であるのだろう。
…話が逸れたので戻そう。
彼は真面目な人である。聞いている限りでは育ちが良さそうで、家族に愛され家族を愛してきた男である。人当たりがよく、女性に対しても丁寧で優しい人だと思っていた。長年浮気の気配もなかった。
そんな男に好意を告白されたときは「何を血迷ってるんだ?」と思い躊躇したものの、結果的に押しに負けてお付き合いをすることにした。
私は当時、非常に流されやすい女であった。
恋愛感情はなかったけど、彼の人となりと、そして周囲の猛烈な後押しで私は川の流れのように流されたのだ。
そんな私に一生懸命に接してくる彼に、徐々に好意を抱き始めた。
彼との付き合いは、最初はとても楽だった。
彼は束縛をしない男だった。
私は、彼と付き合っても人間関係が特別変化することもなく、友人とも大いに遊んだ。私が普段何をしているのかもしつこく聞いてくることもなかった。メールや電話を強要することもなかった。
いつも私の意見を尊重してくれている、理解ある男を存分に発揮していた。
一度だけ、私はある問題に対して彼にお願いをしたことがある。後にも先にも彼に要求を突き付けたのはそれ一度きりである。
「分かった」という言葉は消え、時間がたつにつれて要求は破棄された。
この頃から私の中で「諦め」が生まれてきた。何を言っても無駄。
時は過ぎ、その放置度合いはさらに拡大していったが、いつしかそれが「おかしなこと」と思わなくなっていた。
そう、完全に麻痺してきたのだ。
不満は消えた。怒りもない。寂しいとか悲しいとかもない。楽しい嬉しいと思うことも減った。
彼自身には諦めを持ち続けながらも、波風立たせることなく付き合い続けた。
彼の愛情が冷めることはなかったが、私の愛情の温度は「常温」まで下がっていた。
束縛をされず私の時間を自由に使え、煩く言ってこない存在は「恋人」という肩書を持っていても邪魔にならなかったのだ。
尚且つ、自身がさほど恋愛体質ではない上に、趣味もあって友人もいて毎日に不自由を感じなかった。
そして既に何年も付き合い続けてきた結果、彼はそれを「安定・平穏」だと思い、周囲からも諭され続け、考える能力を失うまでに至った。『感情』が消えた。
そんな私が一度だけ、常温の恋人との関係を考えたことがあったらしい。
「らしい」というのは、数か月前「他に好きな人がいないから」というような事を記してあったのを見つけたからだ。
おそらく「別れる選択をしない理由」を探し、そこに行きついたのであろう。
なぜ?と考えたときに、
というマイナスにしかならない理由に勝てる、他の理由を探した結果だと思う。もちろん、そのあと何か行動を起こしたことはない。
そう「他に好きな人」どころの話ではない。失っていた全ての『感情』という感情が一気に動き出したのだった。
長年憧れ続けた人のたった1言で、今まで抑えられていた想いが、一瞬にして溢れるように噴き出したのだった。
「憧れ」というものが変化した瞬間だった。
40歳にもなって何を恥ずかしいことをと思われるかもしれないが、私にしてみれば多分人生で初めてかもしれない感情が生まれたのだ。
あまりに遅咲き過ぎる「恋」に私の感情のタガが外れたと同時に、頭のネジもどっかに飛んで行ってしまったのか、私はその直後に、人生で史上最悪な事をしでかしてしまうのであった。
人生史上最高に後悔している。死にたくなるほど後悔している。精神的にギリギリなのはこのせいである。
私は今の恋人と別れたいのだろうか?
理由を探して別れてこなかったとはいえ、別れたいと本当に思っていたのだろうか?
それはいまだに私への愛情を見せる常温の恋人との、この長年の付き合いを捨ててまですることなのだろうか?
実は正直、史上最悪な出来事が表に漏れないのは、常温の恋人のおかげでもあるのは否定できないのだ。
それに新たに生まれたこの「恋」が一過性のものではないとハッキリ言えるのか?
可能性がゼロではないにしろ、それを自分は本当に手に入れることができるのか?
万が一全てを失ったとき、後悔しないと言えるのか? 耐えられるのか?
動き出した感情が、困惑、切なさ、嬉しさ、不安、後悔・・・さらなる要素をプラスして一日中動き回っている。独り言が増えて夜が眠れない(朝辛い)。
40年間、それなりに付き合ってきた人はいたのだがいずれも好意を受けての付き合いだった。好かれてなんぼのイヤな奴だった。だから、自ら好きになった人と付き合ったこともなかった。
私は、今までまともに「恋」をしてこなかったのだ。
この年になってその結果がこの体たらくかと思うと、情けなくて涙が出るし、みっともなくて誰にも言えない。
書き連ねたところであんまり解決にはならんが、でもまずは頭のネジを詰めなおす必要があることだけは理解した。
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<追記>
気が付いたらなかなかの反応に、正直少しビビっています。色々どうも。
いくつか書かれていますが、「恋」の人は既婚者じゃないです。不倫だけはしません。これは絶対に。
人生史上最悪な出来事は、何とか自力で方向修正しました(多分)。少しだけ気が楽になったという自己満。
常温の恋人は、急にああしようこうしよう言い出して(まだ行動はされてないけど)、何か私の変化に気が付いているのか。
新しい恋の人には、関係が先に進むことへの行く先を不安視され、足踏み中。でも、別れてまでという話がでないってことは、そういうことだと思う。
ただ、こうやって人の言葉を聞いて整理していくと、常温の恋人とはどんどん温度が下がっていくような気がする。でもずるくてビビりなので、決心がつかない。
あ、あとネジは詰めなおす、ではなく、締めなおす、ですね。
わたしは50歳既婚女性。2人子どもがいる。夫がわたしと結婚したいかどうかわからないまま結婚しちゃった。いまだにわからない。今となっては聞けない。聞きたくない。
ちょっと前まで、夫はひどいモラハラ野郎で、わたしは夫にとって、嫌々結婚した恥ずかしい妻でしか無いと思わされてきた。今は、収入も何もわたしに勝てないことに急に気付いて、捨てられたくなくてしがみついてきた。だから、結婚の時のことなんて聞いても、言葉を飾り立てるばかりで本音は聞けないと思っている。
男に、愛なんて感情は無いと思っている。女性の容姿や若さや子ども産めるの?を値踏みして、自分がここで動くとおいしいかおいしくないかで、決定し動く生き物だとしか思えない。まあ、そんなふうに絶望するようなひどい人生だったわけです。値踏みされて負けるような人生だったわけです。
わたしのことはどうでもいいのです。おんなとして終わっている人生なので。でも、なんというか、諦めたくないのです。知りたい。わたしの知らないところで、愛というものが成就しているのなら、それを知っておきたいのです。
私はどこにでもいるJKなのだが、最近マックで級友から興味深い話を聞いた。現代日本には「キモくて金の無いオッサン」という一群が棲息しているらしいのである。
キモくて金の無いオッサン。なんという悲しい呼称であろうか。属性がそのまま呼び名になっている。いくらなんでも投げやり過ぎやしまいか。我々がJKと呼ばれるように、頭文字を取ってKKNOと呼んであげることは出来ないものか。それだけでずいぶんポップになるではないか。PPAPのように。
そんなことはともかく、私はキモくて金の無いオッサンという生物に興味を持ち、色々と調べてみたのだが、どうやら彼らは概ね37才以上で、家賃六万円以下のアパートに独りで暮らしていることが多いようだ。特段、人生に不真面目であるわけではなく、むしろ性格は小心で、毎日、与えられた仕事を粛々とこなすものが多い印象である。ただ、様々な能力が平均より少しずつ劣っていたり、運が悪かったりすることで、劣悪な労働環境に適応せざるをえず、そういった暮らしの果てに「キモくて金の無いオッサン」に成ってしまったと言えそうなのである。私はJKなので詳しいことはわからないのだが、これはなかなか厳しい人生と言えそうである。
キモくて金の無いオッサンは、現代の労働市場において、最も弱い存在と言って良いだろう。知識や経験を蓄える機会を持たないまま生きてきたので、自然、最低賃金での単純労働に従事せざるを得ない。また、体力や脳の働きなど、個体としての衰弱も進行している為、集団内部でも下位に位置付けられてしまう。自分の息子であってもおかしくないような、髪を金色に染めた暴走族上がりの青年に、顎で使われたり、脇腹を蹴られたりすることもあるようなのだ。
キモくて金の無いオッサンは、労働後の歓楽に興じる機会も奪われている。周囲の年若い集団からは基本的に疎まれている為、酒席に誘われるようなことはまず無いのである。結果、発泡酒と値引きの惣菜を買い込み、帰宅してインターネット動画を漁りながら、明日の労働に備えることになる。 JKの私には信じがたいライフスタイルである。
キモくて金の無いオッサンは、人生の全てがバカらしくなり、大暴れして周囲に迷惑をかけるようなことはない。夜中にいそいそと自慰を行い、翌朝にはまた働きに出るのである。私はJKなので、これらはすべて想像に過ぎないのだが、なんだか泣きそうになってきた次第である。
キモくて金の無いオッサンは、時に恋に落ちたりもする。職場で一回り以上年下の女性に気安く話しかけられたり、笑顔を向けられたりすると、てきめんに恋をしてしまう。そして、これらの恋が成就した例は、有史以来、ただのひとつもない。それどころか、大抵は、悲劇に発展する。キモくて金の無いオッサンは、恋をすると、とんでもない間違いを繰り返し、キモさが数倍、時には数百倍にまで膨れ上がり、全身がヌメヌメと湿り気を帯び、激しい異臭を放ち始める。そうすると、いよいよ駆除の対象とされてしまうのである。
恋に落ちたキモくて金の無いオッサンは、職場を追われ、アパートの家賃も払えなくなり、親の年金に寄生するしかなくなる。一度寄生してしまったら、もう自立することは出来ない。社会の酷薄さを知ってしまったからである。それでどうするかというと、一日中、オンライン将棋に没頭するか、近所の図書館のソファーで瞑想に耽るか、いずれかである。
では、寄生先を持たないものはどうなるのだろうか。それはJKである私の口からは何とも言えない。いずれにしても、チョベリバである。
こんな想像をしてみる。ある朝、気がかりな夢から目ざめると、ベッドの上でキモくて金の無いオッサンに変ってしまっていることに気づくのである。私は昆虫のように固い背中を下にして、寝そべっている。ほんの少し首を上げると、無数の弓形の筋が刻まれた茶色の腹が見える。私の腹である。たくさんの細い足が生えている。私の足である。しかし、それらの足はあまりにか細く、力が弱いため、どうしても立ち上がることができないのである。
恋愛に発展させるのが怖い、気持ち悪い、めんどくさいと感じてしまう。
自分が好きになった人はいいのだけれど(と言っても恋が成就したことはない)、それ以外の人から「あ、こいつ私に気あるな」というのを察した瞬間その人が無理になってしまう。
じゃあ最初から恋人候補として出会っとけば大丈夫かと思い、マッチングアプリをやってみたが、やっぱりダメだった。自分が「女」として意識されているのだというメッセージを貰う度に吐きそうになった。
今も同じ会社の喋ったこともない人から色々LINEが来ている。最初は仕事の話だったが、段々雑談や私に関する質問をしてきて、今日ついにご飯に誘われてしまった。行きたくない。返信したくない。どうしようか。
気になる人はいる。だけど一回も話したことない。昔から好きな人には何も出来ない。恥ずかしすぎて。
その人とは同じ会社ではあるが全然関わりないので話しかけられる材料やタイミングもない。挨拶すればいいのに!と言われるが、今まですれ違っても挨拶しなかったのに急にしてきたらおかしいだろうと思って何も出来ずにいる。
「統計的差別」とは「個人の変えられない属性」と「期待されるパフォーマンス」に相関がある場合に、経済合理性を根拠として属性に対して行う差別を指す。某東大特任准教授の炎上で、この「統計的差別」が注目を集めているが、統計的差別には大きく2種類のパターンが存在するのにも関わらず、区別されず議論されることが多い印象があるのでここで整理したい。
「統計的差別」の一つめは、偏見(ステレオタイプ)による差別である。そして、昨今例にあがる偏見による差別はさらに2種類に分けられるように思える。偏見による差別の一つめは、偏見として本来は違いがないのにも関わらず、予言の自己成就(正のフィードバックループ)により、現状として差別が合理的になっているケースである。数十年前の男女雇用機会均等法が施行される前を想像してほしい。その時代であれば女性は女性であるために社会での適切な評価・活躍が望めないため、女性は教育を受けるインセンティブが弱い。そのため、女性は(平均的には)教育を受けていない分パフォーマンスを期待できず、結果として差別が合理的になってしまう。偏見による差別の二つめはAIによる差別である。現在の評価制度自体が女性差別的に行われている場合、偏見に基づいた教師データが作成されているため、AIによる予測自体が偏見に満ちたものとなってしまう。炎上したAmazonによる統計的差別はこれらの両者を含むと考えられる。これらの場合、短期的には差別が経済合理的になっていたとしても、差別の禁止することにより予言の自己成就や教師データの偏見を抑止することができ、長期的には社会の公平性・効率性を改善することができる。そのため、差別の是正は社会的に効率的と言える。
「統計的差別」の二つめは、生物学的な違いによる差別である。遺伝的な原因として母集団における分布に違いが存在している場合、属性に基づいた推測が合理的になる可能性がある。例えば、アフリカ系アメリカ人とアジア系・ヨーロッパ系アメリカ人の間では、運動能力の違いと同様に知能指数に明確な差が存在している。あるいは性差として男女の身体的な違いと同様に、男性の暴力的な傾向や女性の空間認識能力の弱さが明らかになっている。そして、これらの人種差・性差に基づく違いは生物学的な違いに根ざしている以上、(人種差・性差に比べて個人差の方が大きいと考えられるものの)偏見による差別とは異なり差別を禁止しても期待値としての違いが消えない。そのため、社会的な効率性という観点ではこの差別を禁止すべきかは明らかではない。
以上で記述的な議論を整理した上で、規範的な議論を行いたい。規範としては、仮に生物学的な違いとして統計的差別に合理性がある場合であっても、人種・性別のような「個人の努力で変えることのできない属性」による差別は禁止すべき、という思想が考えられる。能力があるにも関わらず属性に基づいた期待値が低いからといって差別されるのは、個人的な感情としては極めて不条理に感じてしまうのは自然であろう。しかし、「個人の変えられない属性」を差別の禁止の根拠にする場合、個人の能力の違いはどのように評価されるのだろうか。パフォーマンスに大きく影響を与える知能指数は、双生児法により遺伝が強く影響することが知られているが、これも「個人の変えられない属性」といえる。能力に基づいた差別は現状の社会制度・通念として広く受け入れられているが、生物学的な人種・性別による差別の否定を行うことで、必然的に能力差別も疑問が投げかけらていくのではないか。
なお、この整理に与えるバイアスの存在として私の個人的な思想を明らかにしておくと、現在の社会における能力差別はある程度は是正されるべきと考えている。某氏の「お前が終わってんだよ」には本当に嫌気がさす。
「感じさせられる女」「感じさせる男」という役割は、いつ生まれたか(田中 亜以子) | 現代ビジネス | 講談社
これな。中を読めばなるほどと思わされる近現代の面白いトピックがたくさん書いてあるんだけど、それはいいんだが、総論があまりにおおげさじゃね? 「男性が女性を『感じさせる』セックスをデフォルトとする価値観の誕生は、20世紀初頭の西欧に見出すことができる」とある。マジかよ、と驚いた。
「とはいえ、女性=受動的、男性=能動的とする当時の性別観は強固に維持された。(中略)『感じさせられる女/感じさせる男』の誕生である」ともある。そこに至る論旨がよくわからないんだが、なんか「女性=受動的、男性=能動的とする性別観」イコール「感じさせられる女/感じさせる男、という性別観」であり、そんな価値観は19世紀以前の地球人類には存在しなかった、と言ってるように読める。そりゃいくらなんでもおおげさじゃねーの。
そんなに最近生まれた特殊な価値観だとしたら、「昔のセックスは男女対称だった」という例が,いくらでも挙げられるハズだ。しかしどこまで読んでも、それは、ない。ないのはどう考えてもオカシイんだが、そう指摘するブコメもない。春画では男女が対称的に絡み合ってる、という仄めかしが冒頭にあり、全体の締めに「性的快楽の平等は、女性のリプロダクティブ・ライツの保障はもとより、社会的に女性が男性と対等な存在となることなしに、ありえない。そして、そのときこそ単純な『感じさせられる/感じさせる』という性役割も消滅しているのではないだろうか」とあるが、その割に、江戸時代の町人男女は社会的に対等で性的に対称だった、のかどうか、踏み込んだ検証もない。なんでないの。ないならなんで仄めかすの。
オスがアプローチし、
諾否の決定権はメスが持つ。
オスが攻めでメスが受け。
その構図が、西暦1900年以降の西欧で発明されたものだっちゅーの? アホか。地球上の大抵の虫も鳥も、カメレオンもクジャクもラッコもカメも、そういうふうになってるじゃないか。それでも普遍的とは言えない、というなら別にそれでいいけど、数億年単位の歴史があるものを「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
◉◉
精子は貧弱だが活発で無尽蔵、卵子は富栄養だが不活発で希少である。種の生存戦略としてそれが普遍的な正解だとは言わない。原初の地球の原初の海の所与の条件下で、たまたま結果としてそういうタイプが勢力を拡大した、ということなのかどうか、まあとにかく事実としてそうなった。そういうタイプの生物に於いては、オスが遺伝子を残す確率は、ほぼ、孕ませたメスの数に比例する。要するに、片っ端からヤリたがるのが正しい。
一方、メスはいくらヤッたって、一繁殖期当たり、通常一体のオスの子しか孕めない。当然、遺伝子を残す確率を高めるには、相手を厳選しなくてはならない。クソみたいなカスみたいなオスに孕まされたら一巻の終わりだ。なにせ卵子は希少なのだから。ヤリチンは英雄だがヤリマンは愚か。例外は「タマシギ」くらいしか知られていない。
ヒトの場合で言うと、オスは1年で300人を孕ませることだって(3000人だって)原理的には可能だが、メスはその間、一度しか妊娠できない。クソみたいなオスのアプローチを、時にかわし時に撥ね付け、同時に一方では懐妊のタイムリミットも気にしつつ、落としどころで妥協して決断して受諾するしかない。人気ブコメに「女が『やらせてあげる』(男が『やらせてもらう』)っていう表現や意識は絶滅してほしい」というのがあるけれど、そういう意識の根源はここにあり、絶滅はなかなかむずかしいと思う。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
◉◉
昔のブンガクの話をする。好色一代女は、「堂上家の姫君に生まれた一代女が、その道を踏み外して、快楽と苦悩とのないまぜになった売春生活の末に、次第次第に転落し、太夫から天神、私娼へと堕ちてゆく」話で、1686年刊、とWikipediaにある。
あるいは八百屋お七。これはどこまでが史実でどこが創作文学なのかわからないんだが、大火で焼け出されたうぶな少女が、避難所で遊び人にヤラれちゃって忘我の境地を知りメロメロになり、そのオトコに逃げられて想いを募らせ罪を犯すという話が、当時も、現代においても、深い同情と共感を呼ぶ。
あるいは竹取物語。男たちが求婚し、諾否の決定権は女が持つという、まさにそういう構図の話だ。
あるいは「逢ひ見ての のちの心にくらぶれば 昔はものを 思はざりけり」とか「つれなのふりや すげなのかおや あのようなひとが はたとおちる」とか、どうですか。エロいでしょう。西洋の寓話には「眠れる美少女がイケメンのキスで目覚める」というのが多く、男女逆のは聞いたことがない。あれも、そういうことじゃないんですか。
あるいはオウィディウスの「恋愛指南」(複数の和訳があるらしい。以下はネットで拾いましたすみません)。「私は[女が]自分の喜悦をついもらす声を聞くと嬉しくなる。私に待ってくれとか、こらえてくれとか、いってくれるのは嬉しい。女の愛の狂的な、もう参ったという目つきを見たいものだ。彼女をぐったりさせたい。もうさわってくれるなと拒ましめたい」「目当ての女性の膝に塵が落ちかかるようなことがあったら、指で払い取ってやらねばならぬ。たとえもし塵など全然落ちかかってこなくとも、やはりありもせぬ塵を払い取ってやりたまえ。なんでもいいから、君が彼女に尽くしてやるのに都合のいい口実を探すのだ」「接吻を奪ってからは、満願成就までなにほどのことがあろうか。ああ、なんたることぞ。そんなのは恥じらいではない、野暮というものだ。力ずくでものにしてもいい。女にはその力ずくというのがありがたいのである。女というものは、与えたがっているものを、しばしば意に添わぬ形で与えたがるものだ」紀元前の書らしいよこれ。
これらに接して素直に浮かぶ感懐は、オレの場合、ああ、エロ事情って二千年前から変わらねえんだな、というものです。お前ら様はどうですか。ちなみに怪人小谷野敦は、怪著『もてない男』の中で「近代以降と中世以前との違いばかり強調するのがいまどきの流行だが、共通点だって普通にある(大意)」と述べている。「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、ないわー。
◉◉
まあブンガクは置いとくとして、「ほとんどの生き物が、オスが性的にアプローチし、諾否の決定権はメスが持つ」というのは、珍説でもなんでもなく、大抵の人が知っているはずの事実だ。「ほとんどの生き物で、まあ控えめに言ってもほとんどの哺乳類で、メスは交尾の間、ただじっとしている」というのも「ヤリチンは武勇伝として語られがちだが、ヤリマンは呆れられる」というのも、大抵の人が知っている。「男の性欲は視覚からでも、あるいは内なるリビドーからでも一瞬で火が点くが、女の身体は時間をかけ手順を踏んで優しい接触から始めてもらわないとなかなかスイッチ入らない」とか、「多くの男は射精の快感を自然に知るが、多くの女は上手な男に上手に開発されないとなかなか目覚めない」とかいうのも、まあ俗説かもしれないが、フェミ勢を含む多くの人が直感的に、かつ体感的に、認めているのではないか。
「若い女は可愛い」というのも、無視できない。もちろん筆者なら「それこそまさに社会が押し付けるジェンダーロール」と言うだろうが、本当にそうか。「ヒトは、小さくてすべすべでふわふわで声の高い生き物を可愛いと感じ、愛でたくなるようにチューニングされている。子育てに有利だから結果としてそういう特性が優位になった」という仮説は、そんなにおかしくないと思うんだが。写真を見るとこの筆者自身、明らかにオレより可愛い。
「オスが攻めでメスが受けなのは性器の形状から考えても当たり前」というような一見バカっぽい主張だって、「いつ生まれたか」を本気で考えるなら、当然アタマをよぎるはずのファクターだ。
なぜ、それらをすべて無視して、20世紀初頭の西欧なのか。
それは、「いつ、なぜ生まれたか」を、本気で考える気がないからだ。
この人は「それは社会的な刷り込みに過ぎない。それもごく最近の、特殊な」という結論ありきでものを言ってる。だから、その結論に都合の悪い話は無意識にスルーする。
◉◉
「ホニャララという価値観はなんら普遍的なものではない」式の主張は、確かに快刀乱麻感があって気持ちいいが、そもそも価値観というものはすべて何らかの偏りであり、したがって「普遍的ではない」のは当たり前だ。それだけでは「価値観は価値観だ」と言ってるのと変わりない。
それが意味を持つのは、ホニャララフリーな世界も意外に広い、という事実とセットの場合だけだ。例えば「チョンマゲはカッコイイという価値観」に対して、「チョンマゲを奇異に思う世界の方が圧倒的に広い」と提示することには意味がある。また例えば「食事というものは主食とおかずから成る」と思い込んでる人に、そうでもない文化圏の存在を示せば、有益な目ウロコ落としになるだろう。だが「感じさせられる女」の論考には、男女が互いに感じさせ合う文化圏も意外に広い、というような例は、ぜんぜん出てこない。
そんなら、最初っからこう言えばいいんだよ。「普遍的かどうかとか、いつ生まれたのかとか無関係に、私はその価値観が嫌いだ」と。「想像してごらん、男女が対称的なセックスを。私を夢想家だと笑うかい? But I'm not the only one. I hope someday you'll join us」と。
オレは「セックスの快感の授与と受容において、男女はもっと対称的であるべきだ」という、なんとなくジョンレノンっぽい主張を、批判する気はない。特に賛成でもないが反対でもない。そう思う人はそう主張すればいいと思う。少なくとも、悪い意見じゃない。
また、男女の性行動の非対称性に自然な根拠があるからと言って、「自然な根拠があるから肯定・維持すべきだ」とも思っていない。例えば「痴漢は男が多い」ことには、生物としてもっともな理由があると思うけれど、だからといって痴漢を擁護する気はない。いくら本能的にもっともであっても、否定されるべきことというのはある。
だからね、その主張自体は、べつにいいんだよ。ただ、その主張を強化するために、客観を装ってもっともらしい嘘を述べ、あるいは誰かのもっともらしい嘘を本気にし、それをあたかも確定した事実であるかのように無批判に引用し、自分の主張の根拠とし、都合の悪い要素はスルー、という、その姿勢がイヤだ。恥ずべきだ。
◉◉
オレの方こそ些細な点をおおげさに問題にしてるのだろうか。
例えば「そういう価値観は太古からある。ちょっと20世紀初頭の西欧から概観してみよう」とでも書いてあれば何も文句はないんだし、脳内でさらっとそう読み換えて流すのが大人のたしなみなのかも知れない。だけどさー、「いつ生まれたか」というタイトルで、いやまあタイトルなんてものはね、著者の意向と無関係に編集者が後から勝手につけたりするもんだけどね、これの場合は本文中に「本稿では、『感じさせられる女/感じさせる男』という役割が、そもそもどのようにしてつくられていったのか、その歴史的経緯を概観したい」と書いた上で、直後に「誕生は、20世紀初頭の西欧」って、はっきり書いてあるんだもんよー。長くてごめんねー。
私は中高が一貫の女子校で、その間ずっと恋する乙女だった。恋した相手の数は4人。すべて片想いだった。それでも楽しかった。しかし女でありながら女の人を好きだと言うのを周囲にバレるわけもいかず、恋バナなんてしたことがなかった。高校を卒業してから何年も経ち、多くの友人は共学の大学に通うようになったり、バイト先や職場で新しい出会いがあるらしく、日々好きな異性のことを沢山話してくれるようになった。聞いていて楽しいけれど、自分も中高の頃隠さずにこんな風に片想いの話を彼女達と共有できていたらさぞかし楽しかっただろうなと思うので覚えている思い出を放出する。前置きが長くなってしまって申し訳ない。とても長い内容のうえに素人文章なのでご注意
中学の時に好きになったのは、同じ陸上部の三個上のA先輩だった。一年生でまだまだガキだった私はそれが恋とは知らなかったけれど、校内で見かけるたびにドキドキしてしまうのでうまく挨拶ができなくて先輩方に叱られた。一年として学年全体で怒られた後に、私に「うちらも怒りたくて怒ってるわけじゃないよ。悲しまないでね。現状を良くしたいだけなの」とフォローしてくれた。一年は居残り時間が30分短く、先輩よりは下校時間が早くて一緒に変えることはできなかった。何かと理由をつけて部活後も校内に残って待ち伏せしたけど話しかけることはできなかった。きもいな。恋だとはわからないままでも自分はすごく乙女だった。部活の汗の匂いが気になって近寄って欲しいけど近寄れなかったり、少しでも可愛くなりたくてスキンケア用品もお小遣い貯めて買ってみたりした。(とはいっても洗顔料と化粧水だけ)。部活中は一つ結びしか許されていなかったから、無礼講の部内クリスマスパーティでは髪型を少し変えて気づいてもらえるか試したりした。気づいてはもらえなかった。
中2の時に好きになったのは当時仲が良かった友達Bちゃん。体育祭の時に疲れたと愚痴ると膝枕をしてくれた。その子自身は体育の男性教員が好きだったからいつも胸がモヤモヤしていた。夏休み、家族でハワイ旅行に行った時に友達用にお土産を大量買いしたけれど、彼女にはちょっと特別なものを他の子にバレないようにあげた。その時の笑顔が忘れられないほど綺麗だった。でも恋だとは自覚しないまま終わった。
高一の時に好きになったのは同じクラスのcさんだった。すごく仲がいいわけでもなく、勝手に好きになっていた。席替えで隣の席になれた時にすごく嬉しくて、夏休みに入る目前、恋だと自覚した。自覚してしまうといろいろ早くて(思春期なのもあって)キスしたい、ハグしたい、裸で触れ合いたいとか思うことが増えたけど、そんなことは顔に出すわけにはいかない。夜1人で妄想して、朝になったら忘れて何事もなかったかのように隣の席に座った。挙動不審にならないようにわざと冷たく当たってみたりもした。それでも彼女は優しくて、廊下とかですれ違っても「よっ!」と肩を叩いたりしてくれた。久しぶりに私から話しかけると、「やっと話しかけてくれた…無視されて辛かった」と言ってくれたけれど、彼女のそれが恋愛感情からくるものじゃないのは明らかだった。誰にでも優しくて、他人に注意を払うのがとてもうまかった。夕暮れで視界が悪いのに下校途中で私に気づいて手を振ってくれるのはすごく嬉しかった。
高3になってもcのことが好きだった。毎年クラス替えがあったけれど、また同じクラスになった。すごくすごく辛かった。クラスの中心的なその子と話す機会は減った。でもまた奇跡的に隣の席になれた。天にも昇る心地だった。脳内お花畑だったからこれはもう運命では?とさえ思った。調理実習で作ったクッキーを食べて欲しかったけど、スムーズに渡せなくて、席が近隣の子達におすそ分けって苦しい名目で周りに配ったら別の子Dに全部食べられてしまってCの手に渡ることはなかった。Dには怒りが湧いたけれど「美味しかったご馳走さま」と言ってくれたので許した。
しばらくして漫画みたいな出来事が起こった。Dが同じ町内にひっこしてきた。歩いて五分くらいの距離に。私の高校は私立で、近所に同じ学校の人がいるという感覚がこれまでなかったので純粋に嬉しかった。これによって謝恩会の準備や話し合いが放課後に近所でできるようになって純粋に楽だった。実は、もともとDの印象はすこぶる悪かった。Dは中3のとき、離れ離れのクラスになったBが新しいクラスで仲良くしていた子だったから。当時Bが好きだった私は勝手にBを取られたような気でどうしてもDを好きになれなかった。
高3になるとみんな受験で忙しくて、委員会なんてする人はいなくなった。でもクラスに必ず数人いなくてはならない卒業式後の謝恩会委員というポジションがあった。これがなかなか決まらないため、ホームルームが終わらない。Dが一緒にやろうと言ってきた。お前は受験はいいのか、と思いながらほかに立候補者もいないし、なんとなくすることにした。私のクラスは私たち2人だけだった。謝恩会委員はやることが意外に多くて、Dの受験が純粋に心配になった。私はAO推薦でほぼ確定だったので積極的に作業していた…と思う。ある日、Dの分である作業をなんとなく勝手に進めているととても感謝されて腰のあたりに抱きつかれた。cの前だったから恥ずかしくて腕を振りほどいた。CとDは髪型がとてもよく似ていた。うちの高校はキリスト教だったので、全員強制参加の式典が年に何度かあった。秋のある日の式典で、私はどうしても暇でCを目で追ってしまった。それに偶然気づいたDが小さく手を振ってきた。お前じゃない、と思いながらも実はちょっときゅんとした。
ある日の放課後、雑談をしながら謝恩会の作業中、何気もなしに部活の後輩が好きだったことがあると言ってきた。とてもびっくりした。自分も女子校内で片恋ばっかしている人間だったけれど、それを他人に話すということが異文化すぎた。気が動転してそれからしばらくはDのことを避けてしまった。
冬になってまた別の校内式典があった。それは義務ではなくて、行きたい人が行くものだった。99.9%の人が大学進学を希望するのでクラスの中では本番の迫る受験のために欠席する人、気休めと文字通り神頼みのために参加する人の二分だった。CもDもとても頭が良かったから参加するかどうかなんとなく気になった。Cは来ないというのを教室内の会話で知ってがっかりしたが、Dは来ると言っていた。なぜかとても嬉しかった。もしかしたらこれが終わって三学期になれば自由登校で友達に会えなくなるからかもしれないと勝手に納得した。
それからしばらくしてDに放課後に呼び出された。理由は私が避けすぎたためだったらしい。Dは私が最近は目も合わせてくれないと言って泣いた。とても驚いた。避けている自覚はあったけれど目を合わせていないなんて自覚はなかった。だから今度は目を見て話を聞こうと思った。でも出来なかった。そこで初めて私はDが好きなんだと自覚した。目を合わせられないのはあの有名な歌詞通り、見つめ合うと素直におしゃべりできないからだった。急に恥ずかしくなって帰りたくなった。でも帰ったら一緒にいられないと思うとどうすれば良いのかわからなくなって、とりあえず適当に謝ってから家が近所なこともあって一緒に帰った。
謝ったと言ってもそれでまたDとおしゃべりなんてできるようになるわけがなく、言いたいことは全部紙に書いて伝えるようになった。本当に恥ずかしくて会話ができない。でもDと交流したい。Dは手紙にして返事をくれたりした。とても嬉しかった。それから冬休みに入って、三学期になって学校に行くことがなくなっても手紙のやり取りは双方にとって近所の公園に貼り付けるという約束になって続いた。
バレンタインになった。何か渡したいけれども渡す時間を取らせるのも申し訳ない。公園に手紙と一緒に食べ物を置くのも憚られる。代わりに手作りで学業成就のお守りを使って置いておいた(重い上にキモい)。お世辞だろうとも喜んでくれた旨が手紙に書かれていた。嬉しくて家でニヤニヤしていたら家族にキモいと叱られた。
その後、彼女の第一志望の受験前日は3つも神社をお参りしてクジを引いたら大吉だった。うれしくなって、おみくじのことと、明日の受験頑張れと書いた手紙を貼った。結果発表の日が過ぎてもDから連絡は来なかった。催促するのもよろしくないのでそれから次の登校日まで待った。
合格者発表から数日経った次の登校日、学校に行くとほぼ全員受験のストレスから解放されていた。教室ではDが他の子達となんと恋バナをしていた。他のクラスメートたちが、受験期中に同じ塾の男の子相手に密かに恋をしていたこととかを話していた。D自身はどうなんだろうか、不安になった。聞きたいけど怖くて聞きたくないので「いいなぁ楽しそう。もっといろいろ聞かせて?」と他の子に聞いた。するとDが「じゃあ〇〇も恋バナすればいいじゃん。好きな人いないの?」と聞いてきた。胸がとても痛かった。その日のうちにD本人から、実は第一志望に合格していたと聞いた。嬉しかったけれど、どうしてすぐに伝えてくれなかったんだろう。そんなこと話す間柄とすら思ってもらえてないのかと、また胸が痛くなった。
卒業式の帰り、謝恩会も無事終わり、クラスの打ち上げも解散に近づいた頃、Dに、今日は一緒に帰ろうと言ってもらえた。とても嬉しかった。私の大学は地方だったから多分これがDに理由もなく会える最後だと思うと泣きたくなった。帰り道は何も話さなかった。誤差の範囲だけれどDの家に先についた。お別れの時だ、と思ったら、Dがマンションの共有スペースまで上げてくれた。一緒にケーキを食べた。告白するべきかしないべきか、すごく悩んでケーキを食べ終わってもずっと無言で泣いてしまった。Dは私が何かいうのを待っているようだった。その時、母親からもう帰って来いと電話が来たので仕方なくさよならを言った。Dは地方でも頑張ってと応援してくれた。私は泣きながら短い距離を帰った。
本当のところはわからないけれど、おそらくDは私がDを好きだと気付いていたんだと思う。でもわたしには告白する勇気もなければ、このあと地方に自分は行くのに、Dが大学で彼氏を作るのを見ているのは辛くて無理だった。大学に入ってしばらくして、私は、自身では記憶にないが飲み会で盛大に酔っ払ったらしく、ライン電話でDに泣きながら告白していたらしい、というのは飲み会に参加していた別の友人に聞いた。Dのリアクションはわからない。電話口だったので私にしか聞こえていなかったし、私本人が酔って忘れてしまった。そのうち、私が1回目の帰省をする頃には風の噂でDに年上の彼氏ができたことを聞いた。私は泣いた。多分もうDとも関わることなんて、同窓会以外ないだろう。私はいつまであの時に囚われているのかわからないけれど、あれ以来人を好きになったことがない。もう22だけれど、中高で経験した以上の恋愛ができる気がしない。それでもいいと思っている。後悔もない。充実した青春だったし。これが私が学生時代、仲の良かった友人としてみたくても出来なかった恋バナの内容。
恋愛コンテンツを好きでいるけど恋愛という感情にであったことはない
それはムーを読んでる人やほん怖のファンの人たちとおなじような気持ちかもしれなくて、信じることと好きでいることは違っていても良いのかも、という話
ムーやほん怖のファンも、事実だと思って読んでる(観てる)わけではなくても、「でももしかしたら…!」みたいな気持ちを持っているんじゃないかと思う。その気持ちはわたしが恋愛コンテンツを楽しんでいる時の気持ちにす〜〜〜〜ごく似ている
世の中の人たちって、エンターテイメントとしての恋愛が好きだよね
じゃなきゃ月9は流行らなかったし、少女漫画なりBL二次創作も流行らなかったし、ボーイミーツガールという言葉も生まれなかった
我々が目にしている恋愛コンテンツってすべからく美しい。関係性の帰結として成就する瞬間の多幸感といったらない
なんなら友達が誰某と付き合うことになるまでの過程を見守るだけでもやたらと楽しいし、学生の頃なんてみんながみんな誰かのこと好きだったりして人生楽しそうでいいな〜と思ってた
だけどわたしは今だに恋愛というものを知らないし今後も出会う予感もしてない
それは、ツチノコに会ったことはないし今後も会う予定はなかったり、幽霊に会ったことはないし今後も会う予定がないのと同じことなのだと思っている
恋愛というものを信じてないから見えないのか、本当に存在しないから見えないだけなのか知りたい
まあ実際問題、恋愛とかものを実感として得ている人っているの???
フィクションで得た感情は入れないでほしい、それならわたしにもわかるから
恋愛体質の人に出会うと、わたしこそがツチノコだったのか???と思う、それなら一生探しても出会えないし
そういや何かの作品で、「みんな本当は愛なんてわからないくせに手に入れたものを必死に愛だと言い聞かせて自分を納得させて生きてる」みたいなことを言ってたんだけど、そういうのを聞いちゃうと、やっぱりわたしの考えてることは世の中的にも間違ってないのかも…と思ったりもする
何よりコンテンツとして主流になっているのが、非実在の根拠のような気もする。ムーだってほん怖だって女性誌だって、触れられない世界だからみんな欲しがるんだよね?だったら恋愛コンテンツもそうなんかなって思った
でも最近少女漫画の売れ行きが悪いとか、女性誌が売れないとか、月9の視聴率悪いとかなんとかで、本当にツチノコになる日も遠くないのかもね
だって現にわたしは恋愛をしてなくてもそれなりに楽しくやってて、愛とかいうものも物語を通して知っているし、体感することはなくてもそれが大事なことだと知っている
あらすじ
東京くんと雨ちゃんの壮大なラブストーリー。二人の恋模様が映像と音響を通して感情豊かに描かれる。
途中なんかちっこいホモサピが邪魔してくるけど、なんだかんだあって二人の恋は成就するし、ついでにホモサピ共も満足そうで大団円。よかったね。
予告見て、キャスト見て、新海誠はそっち方面で食ってく気になったのかと勘違いしてた。違ってびっくりした。
巷で言われているエロゲ的なそれがどうの、というのは、そういう文化を通ってきてないのでピンときてない。けど、おじさんたちがすごく興奮しているのでそういうことなんだろうと思う。
ハイコンテクストすぎる何かをやっているな、とは、それでも感じることができた。
瀧くんに圧倒的に足りていなかったポエム力を、穂高くんが取り戻していてとても良かった。
好きなシーン
ピロウズ流れたらメディカルメカニカに殴り込みに行ってた 危ないところだった
え、何すんの?マジで??そらそうなるやろ!!ってなってよかった
1位 3年経ったとこ
腹抱えて笑った
ニヤニヤを我慢しながらおうちに帰って、各自のマイベスト新海誠を見返したり、カタルシス中毒おじさん達の不満を見て悦に入ったり、各々好きにしたらいいと思う。
あー楽しかった。