はてなキーワード: 成就とは
最近やたらはてなをにぎわせているので、いっちょかみしてみる。
まず思いついたのはこれ。いつもくだらない事でウジウジ悩んだり暗い事ばかり考えている福満しげゆきのエッセイ漫画。
初期の方は学校中退フリーター、童貞、漫画も売れない…とまさに「生きづらい男性」そのもの。
だがこいつは後に美人の嫁さんと結婚し家を買い子供も2人できわかりやすい社会的成功をおさめている。
印刷会社で働くさえないおっさんが主人公。友人のすすめで「アンリアル」の世界での恋愛にのめり込んでいく。
これも最終的にはアンリアルの世界の美少女月子と、現実の同僚の女性長尾さんに惚れられ取り合われるようになる。
建設会社で働くさえないおっさん黒沢が主人公。良かれと思ってやったことが殆ど裏目に出たり、公園にいるだけで不審者と間違われたり、
職場でも後輩にコケにされていたりと、今でいう「KKO」の先駆け。
最後まで金を手に入れることも無く、唯一出てきたレギュラーの女キャラはホームレスのおばあちゃん。
作中では最終的にホームレス達のリーダーになって、暴走族集団をやっつけたりはするので、完璧に何もないという事はないが、
・凪のお暇
節約だけが趣味のさえない事務員の主人公が、仕事を辞めてボロアパートに住み始める話。
ドラマ化するので一応入れてみたけど、凪は「顔がかわいい」「巨乳」「20代」という最強カードを持っている。
元カレもいるし、アパートの隣に住んでいる男とも男女の関係になる。
引っ込み思案すぎる性格や、収入面では生きづらいのだろうけど…。
ガチで生きづらい女性から見ると「ふざけるな」と思われるのではないだろうか。
漫画としては面白いが、「生きづらい」人目線だと微妙ではないか。
・その女、ジルバ。
スーパーの倉庫で働く冴えない独身40歳の新が主人公。貯金もないと作品内でしっかり明記されている。
近所の「熟女バー」で働き、人生の大先輩のお婆様たちとかかわり、前向きになっていく。
プロフだけだとかなり「生きづらそう」だが、性格が穏やかで倉庫の仲間やバーの御婆様達とも仲がいい。
実家とも良好で、お正月などは家で両親や弟夫婦と仲良く過ごしている。
割と「生きづらい女性」が楽しく生きる答えに近い生活なように思える
最後まで結婚もしないし、何か大きな事を成し遂げるわけでもないけど、「居場所」を見つけられている。
・たそがれたかこ
社員食堂の厨房で働く、暗い性格の45歳バツイチの女性が主人公。
ガチ生きづらい勢としては、一度でも結婚できて子供がいるんならいいだろ…と思うが、
息子ほどの年のバンドの男の子にハマり、初めてライブに行ったり、お洒落をしたり、ギターを買ったりしている部分はとても良い。
が、なぜか途中から同じアパートに住む中学生男子を好きになり、最終的には告白までしてしまう。
これは読者の間でもかなり非難囂々だったようだ。当たり前のようにフラれた所だけは救い。
・SEX
男性向けは全員最初は童貞だが(黒沢は素人童貞)、女性向けは全員非処女。
女性は若い頃がモテのピークな為、いい年して処女のキャラはリアリティが無くなるからだろうか。
女性は凪のみ元カレや隣人とのSEX描写があるが、他二人は無し。
魅力的な異性に取り合いされる程モテたたくろー
元カレはまだ凪を引きずっているし、婚活パーティーにいけばモテモテの凪
熟女バーで若者扱いされたりはするが、モテという感じではない新
元旦那は若い女と再婚し、ショタにはこっぴどくフラれるたかこ。
凪はいわゆる「雑魚モテ」というやつだと作中で説明されるが、少なくとも元カ宇レはイケメンだし、恵まれている部類にしか見えない。
・仕事
福満は漫画もそれなりには売れ、家も買っているので現代でいえば確実に勝ち組だろう。
女性向けは凪は無職。新は正社員かはわからないが倉庫とバーの掛け持ち。たかこは調理員。
一番金がありそうなのは福満だが、安定のしない自由業なので不安はあるだろう。
たかこは同居している母がアパートを経営しているので、それなりに余裕はあるのではないだろうか。
・友人関係
男性向けだとたくろーは学生時代からの友達とかなり仲が良さそうなので、そこは充実している。
福満は友達がいないという割には結構色んな人と遊んでいる非リアぶりっこおじさん
凪は元職場では気が弱い人としてちょっと見下されていたが、無職になった後ハロワで友達ができたり、隣の母子家庭と仲良くなったりする
たかこは友人描写皆無。さらには学生時代は不登校だったというエピソードもある。
ガチ人生積んでる勢の感想としては、黒沢以外はなんだかんだ全員リア充じゃねえか〇ね!と言いたくなるエピソードも結構ある。
女性の生きづらい系漫画は、意外と恋愛が成就することを結末には持ってこない傾向があるように見受けられる。凪はどう転ぶかわからんが。
対して男性の生きづらい漫画は、結婚でひと段落したり、女(お婆ちゃん)を守る事で自尊心を高めようとしたり、女に執着するエピソードが多い。
非常に面白いなと思っているので少しまとめてみる。少女マンガを色々と読んでいて登場人物の男にせよ女にせよ、頑張った方は負ける。これはシンデレラの時からすでにそうで、王子様に気に入られようと努力をしているのは姉達の方で、シンデレラにはそういう努力がない。そうあったらいいなぁという気持ちだけがある。『運命がすべてを凌駕する』というのが少女マンガの骨格のようで、そのために色々な意地悪をされたり困難が訪れたりするのだが、これをひっくり返すのは自分の努力ではなく運命的な出会いであるようだ。また主人公女にしても、いじめ、ブサイク、おっちょこちょいなどマイナス属性からスタートし、やはり出会いによってそのマイナスが解決され運命が成就する。賢い女性を主体とした物語を探しているのだが、賢い女性の場合、その人が興味を持つ対象、ファッションや読書、ダンス、音楽、仕事など様々あるが、その人の賢さが発揮されればされるほど、その人の人生はその対象にのめり込んでいき運命的な出会いはむしろ離れていく傾向にある。これは想像上においても賢い女性は運命的な出会いから離れていってしまうのか、それとも新しい出会いの形を見いだせていないのかはまだ分からない。
■年上の同期に恋をしている
仕事はできるけど年上の男性とは思えないほど柔らかくふわふわした雰囲気で、目を見るとドキドキしてしまう
まっすぐな瞳をみると心が揺さぶられる
言葉の選び方とか物腰の柔らかさ、それからぱっちりした目とにこやかな表情と、爽やかで文武両道なところとか、似合うものを身につけているところとか、品良く穏やかなところとか
通勤のバスが同じ便のとき、隣には座らずお互い1人席に座る暗黙の了解があるので私はいつもその人の少し後ろに座って姿を見たりしている
その手に持っている図書館のバーコードがついた、分厚い単行本はどんな本なのかとか雨の日耳につけたイヤホンからはどんな曲が流れてるのかなとかそんなことをいつも考える
職場恋愛なんて仕事がしづらくなるに決まってるから成就を望まない方がいいなんてわかってる
仕事はできるけど年上の男性とは思えないほど柔らかくふわふわした雰囲気で、目を見るとドキドキしてしまう
まっすぐな瞳をみると心が揺さぶられる
言葉の選び方とか物腰の柔らかさ、それからぱっちりした目とにこやかな表情と、爽やかで文武両道なところとか、似合うものを身につけているところとか、品良く穏やかなところとか
通勤のバスが同じ便のとき、隣には座らずお互い1人席に座る暗黙の了解があるので私はいつもその人の少し後ろに座って姿を見たりしている
その手に持っている図書館のバーコードがついた、分厚い単行本はどんな本なのかとか雨の日耳につけたイヤホンからはどんな曲が流れてるのかなとかそんなことをいつも考える
職場恋愛なんて仕事がしづらくなるに決まってるから成就を望まない方がいいなんてわかってる
被害者への取材に対する批判が盛り上がっている。内容はまあおおむね正論だ。でもその書き込みをしてる人たちに聞きたい。そのツイート、少しも「バズって欲しい」「共有されたい」という期待を込めなかっただろうか。
改行を工夫したり、改元に絡めてみたり、被害者への共感を煽ってみたり、上手いたとえ話を入れてみたり。その文面を作るとき何を考えていた?
youtuber、クラウドファンディング、パトロンサービス、投げ銭、バズったら宣伝、欲しいものリスト、note…、今や拡散は承認欲求の成就だけでなく金になる時代が来た。一時期過激なyoutuberが問題視されたが、もうその時のようにyoutube一企業が対応すればいい話ではない。
一般人がみな情報発信しフォロワーの数で人の価値を測るとき、「とにかく注目を集めなければ始まらない」というマスコミの理屈がすべての人にのしかかる。そんな時代に当たり前の道徳や倫理をもって埋もれる自分を許容できるだろうか。正道で目立てない人間は邪道に手を出すだろう。
ここ数年で個人送金の支援サービスが大量に沸いた。「個人支援で今まで埋もれていた多様な製品・コンテンツが日の目を見る」というようなお題目もあるが、なんてことはない「金の仲介は儲かる」からに過ぎない。実際には「目立つか否か」の要素がより大きくなったと言える。インフルエンサーに拡散されるか否かが成功のカギと言っても差し支えない。結局これからも優位に立つのは「発信力のある者」と「右から左に仲介する者」、つまり前時代のマスコミと中抜き業者である。
恐らく若い層はそのことを本能的に察知している。だから「炎上したい(目立ちたい)」というのだろう。これからのネットは個人に分散されたマスコミ権力の欠片を奪い合うバトルロイヤルだ。勝ち残るのは容赦を捨てて新たなマスゴミになれるような奴に違いない。
なんといっても台風の目となっているのが「夢見りあむ」。
この総選挙の全ての感情の中心を担っているといってもいいでしょう
彼女が総選挙のトップになることに否定的なものが多くあります。
その中で「彼女がストーリーがない」ことを挙げているものが多くあります。
曰く
総選挙というのは、上位になるべきキャラクターであるバックボーンがあり、
翻って夢見りあむはどうだ。
ストーリーなどない
それどころかクズというただ一点しか見ていない有象無象が面白がって投票しているだけではないか、と。
だから、あいつが上位になるべきではなく、もっとふさわしい人がなるべきだと
なるほどー、確かにバックボーンがないぽっと出の新人がなるべき場所ではないかもしれませんねー。
それこそ格というものがあるのでしょう。
シンデレラガールズの世界に対しての正義がそこにあるのかもしれません。
いや、そんな言葉があの忌子ともいうべき存在を生み出したといっても過言ではないです。
もしそれが正義だというなら
夢見りあむは、シンデレラガールズの「この世のすべての悪」を背負った存在になり始めています。
シンデレラガールズはもう7年目になるそうです。
思えば遠いところに来たものですが、コンテンツというのは長くやっていくと停滞していきます
シンデレラガールズも最近の展開としてどのようにすればいいのかという停滞の中にありました。
そこでストーリーが展開されることはあったとしても、
それは今までの積み重ねの延長でしかありません。
もちろんそれは長くなってやってきたことの利点でもあるのですが、
それと同時に積み重ねの中ではじかれてしまったストーリーも存在します。
シンデレラの中ではじかれてしまったストーリーには少なくないファンもおりました。
いま存在を多くの人に届けられていないストーリーは取捨選択の結果として選ばれなかったものでした。
土台シンデレラの物量が物量なのでそれは致し方ないことなのですが、
新しい風を入れる総選挙があっても、順当なキャラが選ばれ、予定調和的に一位が決まる。
そう感じてしまった人たちでシンデレラを去った人も多くいます。
そういった選ばれなかったストーリーは少しずつ少しずつガラスの靴の底で溜まっていったわけです。
その積もり積もったストーリーの「泥」は時たま漏れ出しましたが、シンデレラの中では見ないふりをされてきたものでした。
しかし、それも限界がきた。皆その泥の存在が空気感として見え始めてしまったわけです。
それにより、シンデレラはある種の停滞をしていました。
人は変わらずいる。しかし、やる景色や見栄えが大きく変わることはない状態でした。
このまま変わらないまま徐々に人が減っていくのではないか
そんなループする停滞感の中、今回の新キャラ追加があったわけです。
そして、夢見りあむが現れたのです。
夢見りあむはザコメンタルであり、くずであり、炎上癖のあるどうしようもない存在です。
でも彼女の本質は「空っぽの自分」を持ったまま「承認欲求を満たそうとする」ところにあります。
彼女は彼女が把握している限りにおいて「自分」というものがありません。
自分がないけど認められたい。
自分がないのにちやほやされたい
承認欲求とは「自分というものがあって」初めて昇華されますが、それ自体がなければ彼女は何を人に認めさせるというのでしょうか?
彼女は承認欲求という自動的な意思によってその外形を保っているという稀有なキャラなのです
それこそが先ほど言ったストーリーの「泥」達です。
切り捨てられた可能性
それらの形にあまりにも、承認欲求だけ求めるりあむの形は最適すぎた。
彼女はそのストーリーたちの殻として今回の総選挙に殴りこんだわけです。
だから、彼女にストーリーがないという批判はあらゆる意味で悪手です。
だって彼女の中に詰まっているのは切り捨てられ、存在をなくしたストーリーなのだから、
あなたたちがストーリーを追いかけて追いかけて追いかけた結果忘れてきたものなのだから。
あなたたちの目の前には今あなたたちが捨ててきた可能性が現れただけです。
おそらく、今の夢見りあむが願いをかなえた後はぺんぺん草も生えなくなるでしょう。
なぜなら、彼女が勝ったとしてもストーリーの泥は存在を認められるわけではない。
それは今はもう変質して後戻りもできなくなったなれの果てだからです。
もしかしたら、総選挙なんて願望機は破壊され、泥に覆われてなにも残らないかもしれない
ただ
そのストーリーが再度生えてくる可能性を夢見れるくらいには何もなくなるのなら
それは停滞と変わらないことを求めた何かに対しての悪のアンサーです。
キャサリンフルボディ。
購入してプレイしたことを証明したくてamazonのレビューに投稿したらamazonのレギュレーションに反するとかで掲出されなかった。
日曜日に6時間もかけてせっせと書いたのにのらなくて超ショック。
まあ、性器だの肛門だのセックスだの書いたからか。それともジェンダー書き込みはamazonさんNGなの?
どちらにせよ、書いたのが無駄になるのが嫌なのではてなさん初投稿。
誰か読んでくれることを祈る。
___
エンディングまでのネタバレまで書いているので、ネタバレが嫌な人は読まないでください。
セクシャリティに関して語りますので、性的な用語も書き込むと思いますので、その点もお許しください。
以下の感想は私の主観に基づくもので、全ての同性愛者やトランスジェンダーの方がこのゲームに対してそう思うというものではありません。
ですが、プレイした結果、私はこのゲームのシナリオはとても差別的だと思ったし、私(とプレイを傍らで見ていたパートナー)はアトラスのゲームが大好きな者として、とても悲しく思いました。
レビューでは主にどこが差別的だと感じたかに関して書きますので、シナリオへのレビューが主になります。パズルゲームとしてのレビューをご覧になりたい方は他の方のレビューをご参照ください。ちなみに本編パズルよりラプンツェルのほうが私は好きです。
リンとの恋愛を成就するルートでクリアしました。(初回は恋人ルートだったので、たぶん、リンルートかと思います)
最後まで一緒に見ていたパートナーはとても悲しい思いをしました。主にどこに感じたかというと、リンは同性愛者として描かれていますが、その描かれ方にとても差別的なもの、同性愛者へのステレオタイプな偏見を感じたからです。
詳細を書いていきます。ここからネタバレが沢山書いてあります。
リンは記憶喪失でヴィンセントと出会い、寄る辺がなくヴィンセントに世話になり、親しくなっていき、惹かれあっていきます。
リンは自分のことをワタシと呼称していて、どうやら記憶喪失ではあるものの、自分のセクシャリティに関しては自覚があったようです。なので、自分が同性愛者というか、ワタシというからには自分がトランスジェンダーと認識していたのでしょう。
その上で、ゲーム中盤でリンは男性器がついていることをヴィンセントに目撃されます。
コミカルな描写の上で、リンを拒絶し、リンを押して転倒させてしまう、というシーンがあります。全編コミカルな映画ならまだしも、真面目なトーンのキャサリンのようなドラマなら、欧米ではこんなシーンはもう流せないですよね。日本は遅れてるな、こんなシーンがあるなんて、と思いました(同性愛者は自分のセクシャリティを隠して異性愛者に近づくものだという偏見ですよね。そんな同性愛者は今時いないと思うんだけど)。強い違和感がありました。
ゲームを徐々にすすめるにつれて、これは製作者の偏見で、つまり差別なんじゃないか、と少なくとも私たちカップルはこのシナリオがとても差別的だと思いました。感じたことを書いていきます。まとめる能力がないので、ちょっと支離滅裂かもしれません。その点はお許しください。
リンはその後、ヴィンセントの前から姿を消すのですが、その後電話で「私、受け入れられてると勘違いしちゃってました。ごめんなさい」とヴィンセントに言います。このセリフにすごく違和感を感じました。
エロ目の携帯写真を送ったりして気を引き、明らかな恋愛の眼差しを向けていたにも関わらず、リンはヴィンセントに自分のセクシャリティを語りませんでした。何故だろう。普通、言うよね?なんで言わないの?と疑問に思いました。恋愛なんですから。ヴィンセントが同性愛かどうかなんてわからないんだから。意思の疎通を図ると思うんです。意思疎通しないで恋愛しないでしょ?自分が恋愛対処か相手に確認とるでしょ?リンのしたことはヴィンセントへの不義理であり確かに謝罪するべきかもしれません。けど、そもそもになんで謝罪するようなことになってしまったんでしょう?なんで、自分のセクシャリティを言わなかったんでしょう?
違和感はまだあります。「(男性であることを)受け入れる」っていう言葉が私にはわかりませんでした。私はパートナーに人間としては受け入れてもらってますが、恋愛としては受け入れる入れないではなくて、私とパートナーにとって同性を好きなことは当たり前のことで受け入れる入れないということではないのです。だって両方とも同性が好きなんですから。
そういった、リンのセクシャリティはなんなのか?意思のようなものはなんなのか?が物語ではこの時点では明かされなく、そして最後まで明かされないというか、存在しないように思います。
なので、このあたりから先ほど書いた「同性愛者は自分のセクシャリティを黙っていて、異性愛者を騙して寄ってくる」という作り手側の偏見からも、このゲームでは偏見によって物語がつくられているのではないか?と感じはじめました。
ヴィンセントはその後、リンを選ぶべきだと仲間から促される形でリンを選びますが、その選ぶ理由がとても希薄です。ヴィンセントはダメな自分をリンは受け入れてくれた、と言いますがその程度で異性愛者であった彼がリンとの恋愛を選ぶことはとても抵抗があります。ヴィンセントはバイセクシャルでだったということでしょうか?多くの同性愛者は異性愛者が恋愛をするように自然に同性を愛していると思います。
あと、全編にわたってエロというか性愛が凄く大切かのようにゲームで表現されていますので、ヴィンセントはリンと付き合うということは、リンとセックスをするということかと思います。が、セックスのシーンはリンに限ってのみないように思えました(他のルートであったらごめんなさい)。ヴィンセントのセクシャリティを確認し、リンのセクシャリティを確認し、どうお互いがセックスするのかということがリンのルートにはありません。男性同士のセックスにも多様性があると思うので一概には言えませんが、通常は肛門による性器の接触かと思いますが、ヴィンセントはリンとの行為ができるということなのでしょうか?リンに限っては出来る、ということでしょうか?リンが口内による行為を求めたらヴィンセントはできるということでしょうか?セクシャリティとかセックスってそういうお互いのしたいことの調整だと思うんですが、この流れの恋愛の上でそれがヴィンセントにできるとは思えませんでした。
セックスを題材にしているゲームなのに、リンだけセックスがぽっかりと抜け落ちていて、それが凄く凄く違和感があり、偏見というか、差別を感じました。恋人に関しては初夜のシーンすらあるのに。
描写したり言ったりしたら世の中の多くの人は引くんじゃないか、とか、そういう同性愛の性を描くことがグロテクスと感じているかのような、そんな空気をこのゲームからは強く感じます。リンのセクシャリティを軽んじている感じをとても受けます。そういったことを異性愛と同列に扱えないならばこのゲームのテーマと反するので軽々しく同性愛を扱わないで欲しかったです。
ここから先は同性愛者としての感想というよりは、個人的なことがらなのですが、その後、リンは様々あって人間ではないということが判明します。それが判明したときの私のパートナーは絶叫して泣き出しました。パートナーは親兄弟に同性愛を理解されず、化け物、人間じゃない、宇宙人だ、などと散々と言われてきて、ようやく都会に出てきて自分と同じ同性愛のコミュニティに入り、平穏を取り戻しました。そんな彼女が、このゲームの終盤にリンが宇宙人であることを知ったときの悲しみはとても深かったと思います。大好きなゲーム会社のゲームからすら、同性愛者は人間扱いされないのか、と、泣きました。
そのほかにも、記憶がもどったら一人称がボクになったり、宇宙人のお兄さんたちと再会したさいに、女装をしている理由もお兄さんたちが好きな格好をさせていた、という理由で、それもリンのセクシャリティのなさを感じ、強い違和感を覚えました。
あと、お兄さん宇宙人の容姿がお尻のカタチなのも同性愛をテーマにしているリンルートにおいて悪趣味だなと思いました。
映画の「モールス」のように恋愛対象が性別を超えた性器の存在しない者で、それとの恋愛ということであれば納得できたのですが、そこにセクシャリティが絡むと、全てがチグハグになり、製作者の偏見が全面に感じられて極めて不快に感じられました。
アトラスのゲームはPSPのペルソナ3とvitaのペルソナ4、真女神転生4とファイナルをプレイしたことがあります。ペルソナ3と4は特に、社会に馴染めない悩みを抱えた若者たちにより添い、共に歩んでいく弱い人間によりそうような優しさがあり、とても好きでした。こんな感情をゲームから得られるなんて思っていなかったので、本当にアトラスという会社はすごいゲームを作る会社だと、大好きになりました。プレイステーションの3も4も持っていないため、ペルソナ5はプレイできていませんが、アニメは見ていて、同じような優しさを感じるので、やっぱり好きなだなぁと思い、vitaでこのゲームが出たので買いました。ですが、このゲームにはそういった優しさは一切感じません。同性愛者をただゲームのネタのセンセーションな一部として扱っているような感じと、製作者の偏見が全面に出ていて凄く残念です。
リンのみならず、ゲームの本筋ではないですが、エリカとトビーの関係でのエリカの扱いがトランスジェンダーへの偏見というか不理解を助長する扱いをされていると同様に感じました。
とくにトビーがエリカとのはじめてのベッドインをバーで報告するシーンのセリフで、「経験がないからわからないけど、なんか入れた時に違和感あったんだよね」というようなセリフがありましたが、ゲームを終えて考えてみるとエリカはトランスジェンダーとして劇中では扱われているので、まるでトランプ大統領が話すような最低なトランスジェンダーへの差別ギャグのようだったんだと気づき極めて不快でした。
私の疑問はエリカがトランスジェンダーで性転換を行なっていたとしたら、性転換後の女性器であることを言うでしょうし(セックスに潤滑オイルのようなものが必要なはずなので)また、アナルセックスをするならば男性器はまだついているということでしょうから、ベッドインした段階で気づくでしょうし、性器がついていることが不快で除去したとしても、はじめてのセックスといえど女性器と肛門を間違えるとかありえないし、エリカが男性器がついているなら、豊乳手術をうけて胸を作っているのはどうしてなのかとか、よくわかりません。エリカという人のセクシャリティが極めて不明瞭でかつ、エリカもまた自分のセクシャリティを恋愛相手に共有していないことに強い違和感を覚えますし、エリカへの扱いはこれ以外にも一つ一つが彼女の存在を軽んじていて、オヤジギャグのネタのために存在させているような偏見と不快感を感じました。
私自身はLGBTの権利を声高に主張するようなことはしたことはありません。(そもそもに私はLGBTというくくりも好きじゃないです。)が、同性愛者としてまた一個人として、お金を出して買ってプレイしてとても不快な思いをしたので、その不快を書き込む権利はあるはずだと思って書いていたら長文になってしまいました。読んでいただきありがとうございます。
僕が自覚的なのはいわゆる「ガチ恋勢」ではないからかもしれないが、これは誰にとっても同じだ。僕たちはあらかじめ失恋している。
ステージ上の彼女たちの笑顔や歌声に覚える胸の高鳴り、チェキにサインをもらう間わずかに言葉を交わしたときの嬉しさ、次のライブの待ち遠しさ、
どれを取っても紛れもなく恋愛感情といえる。けれど、アイドルとファンという関係性が横たわる限り成就することのない感情だ。すなわち僕たちは初めから失恋している。
これは悲しいことのように思えるけれど、僕たちにとっては救いでもある。彼女たちと僕たちの関係性は容易く崩せるものではないのだから、僕たちは誰もが平等に片想いしていられる。
もっとも、距離の近さを売りにしている場合には崩れることもありそうだけれど、そこに適応しているファンは「ワンチャンある」ことを織り込み済みで、あるいはそれを狙っているのかもしれない。
彼女たちが文春砲に轟沈させられるような行いをしない限りにおいて、恋心を抱き続けることができる。圧倒的な現実を突きつけられてなお、片想いし続けられる自信が今の僕には無い。
これはエゴの押し付けと思う向きもあるだろうけれど、アイドルとして輝くことを望んだ時点で恋愛する自由は彼女たちには無い。彼女たちの小さな肩には無数の叶わない片想いがへばりついている。
無駄がなくテンポのいい展開、教育的になりすぎることなく南極という舞台を散りばめ、各キャラの葛藤と成長をまとめ上げた名作である。
いしづか監督以下製作スタッフには感謝の気持ちしかない。また新しい作品で感動を届けてほしい。
既に何百回も論考されたことを自分の言葉で書いてみたくなったので、下記は読み飛ばして構わない。
南極という行き先と閉鎖空間を舞台とすることで、各キャラの絡みや掘り下げを上手に演出できていたように思う。
では南極でなければならなかったのかという側面ではどうか。
もしかしたら同じような話をかけるのかもしれない。
しかし、南極という極地だからこそ、彼女たちの「別れ」への問題解決を後押しした側面はあるように感じた。
「よりもい」は「別れ」の物語だった。
日向や結月の旧友との別れ、報瀬の母との別れ、キマリとめぐみの別れ。もちろん、古い自分の価値観との別れの物語でもある。
「別れ」というのはエネルギーがいることだ。
南極渡航というジャイアントステップが彼女らに勇気を与え、異なる意見を戦わせるきっかけとなり、新しい認識が芽生え、「別れ」が成就した。
そんな風に捉えると、南極という極地は巧妙な場所だったように思う。
南米やアフリカは思っているより近くなり過ぎた。飛行機一つでいつでもたどり着くことができる。
我々がジャイアントステップを踏むためには、それだけエネルギーがいるとも言える。
先週投稿した「ハム太郎アンチのその後」が思いのほか見て頂けたようだったので、さらにその後の目立った動き・追った私感を雑に書いてみる。前投稿を見ていない人はそっちからどうぞ。
ハム太郎アンチ氏の書き込んでいるスレはワッチョイ表示スレのため木曜日を基準として1週間は強制コテハンが割り振られるが、逆に1週間経ってしまうと当然ながらコテハンはリセットされてしまう。
そのため、「個人の目線から見たハム太郎アンチ氏である可能性が高い人」を複数人追っていることに理解頂きたい。
◆ ◆ ◆
リルリルフェアリル ~魔法のペンデュラム~ 12(https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/anime/1530634569)
◆ ◆ ◆
前回記事投稿日の翌日木曜日、コテハンがリセットされるも朝一番でフェアリル叩きからのサンリオ叩き。(やや早朝の同時刻帯に2つのIDで行なっているため、どちらもハム太郎アンチである可能性が高い)
887風の谷の名無しさん@実況は実況板で (ワッチョイ 81d7-FfZb)2019/01/24(木) 06:05:40.40ID:1EgPGB9P0
>>882
確かに全部見たわけではないが、どうせ高が知れてるから残りの回を見たとしても感想は変わらん。
具体的な「何話のどこが悪い」の次元を超えているんだよ、フェアリルの失敗は。
888風の谷の名無しさん@実況は実況板で (アウアウカー Sa69-Nzzd)2019/01/24(木) 06:39:27.85ID:QhMxT3VXa
百万歩譲って、フェアリルのアニメ内容はそこまでボロクソに言うほど酷くないものとしよう。
だが、仮に内容が良かったとしても、ジュエルペットから引き続き作品を見てもらえるようなキャラ運営ができなかったのは、問題点なんだよな。
まだ玩具が上位に入ってたジュエルペットを唐突なタイミングで切ったのだから、それ相応にハードルが上がるだろうし、
例え>>884に挙がってる作品以上にフェアリルの中身が良かったとしても、作品を切り替えるときの後始末を怠ったら誰からも見てもらえない。
ジュエルペット最終回2週間前に初告知は、さすがにユーザーをなめてるとしか思えないし、バンダイやタカラトミーはそんなこと一切しない。
たまごっち→ここたま
「全部見たわけでは無いが」と作品を視聴していない事をわざわざアピールしている点は面白い。
◆ ◆ ◆
作品のファンがリルリルフェアリルに「童話のエッセンスを取り入れつつユニークな魅力がある点」を伝えても、「童話の模倣」→「大元のキャラクターに魅力が無い」→「キャラクターを頑張らなかったサンリオが悪い」と続けるハム太郎アンチ。
904風の谷の名無しさん@実況は実況板で (ワントンキン MM92-0BLB)2019/01/26(土) 02:42:55.94ID:4xmlzBfeM>>908
>>899
フェアリル1期2期では、複数のバディ(カップル)が結成され、人間×人間に変身した妖精、変身しない妖精×変身しない妖精 といったバディの友情やカップルの恋愛がそれぞれに発展していったけど、これらは
・妖精側から人間に恋することがあり、恋愛が成就したり悲恋に終わったりする
という 本作特有のユニークな設定があるからこそ、発想でき発展させていけたストーリー と思う
ある程度は童話の人魚姫や親指姫からモチーフを借りてはいるが、上記の3点の組み合わせがユニーク
908風の谷の名無しさん@実況は実況板で (アウアウカー Sa69-Nzzd)2019/01/26(土) 16:31:09.12ID:pwOv0uSaa
>>904
909風の谷の名無しさん@実況は実況板で (アウアウカー Sa69-Nzzd)2019/01/26(土) 17:32:55.12ID:pwOv0uSaa
キャラクターへの魅力の感じ方は人それぞれなのでそこに意見するようなことは無いのだが、「作品は見ない・レスも見ない・サンリオを叩くためにフェアリルを叩く」という一貫した流れには(おなじみの)狂気を感じさせる。
◆ ◆ ◆
狂気を振りまく様は遠目に見ている分には面白いが、困ったことに嘘も振りまいている。
キャプチャ画像を例に取り、それらしい語り口で作品の解像度がいかに悪いかを書き込んでいる。
(以下レスの解像度に関する内容は嘘であり、スタジオ関連の話も無根拠です)
923風の谷の名無しさん@実況は実況板で (ワッチョイ 81d7-FfZb)2019/01/27(日) 19:55:44.35ID:+aB3ahOy0>>926
>>918
最近の子供向けアニメは映像美もクオリティが高いことを知らないな。
一時期、放送枠が連続していた妖怪ウォッチと比較してもかなりスタジオ規模の差を感じるレベル。
http://s.kota2.net/1548586102.png
例えばこのシーンのひまわりの輪郭線。最もこのシーンだけじゃないが、
フェアリルの絵は基本的に今時なラスタ形式のペイントソフトで作画してるので、
キャラの輪郭線も、ジャギー(ドットの粗)が目立って目に余るし、
フルハイビジョンで画面を大きくすればするほど粗が目立つ。
このレスを皮切りに複数IDから畳み掛けるような「作品の質」叩きも行われる。
ところがそれを見た識者が上記レスの嘘を看破する内容の返答をしている。
・・・なお、当のアンチはこの返答をされたことにはスルーをしつつ、大量の風説でレスを埋めている。
その最たる例が以下の書き込み。
936風の谷の名無しさん@実況は実況板で (ワッチョイ e59b-HHjK)2019/01/28(月) 09:45:35.73ID:i8mlv0v70>>938
マイメロの時も同様で予算が減らされてすっきりは15分になったとか
3~4年目から予算を削っていくのがサンリオの常套手段みたいなので
フェアリルもそうだったのかも
◆ ◆ ◆
上記以外にもまだまだ突っ込みたいレスはあるのだが、あまり量が多いと見るのも書くのも大変なのでこのくらいで。
「ハム太郎アンチ」とツイッター上で検索をかけると、いわゆる各所にまとめられているような「作品に一通り目を通し、その上で事実を述べ批判するアンチの鑑」のような代名詞として使われている。
スレ違いなどお構いなし。
嘘も使って叩き、バレるや否や大量のたわ言で覆い隠す。
ご覧の有様。
・・・元も子もない事を言ってしまえば「アンチなんてこんなもん」という話なんですが。
しかし個人的に、自分自身を「ハム太郎アンチ」であると公言しておいてのこの所業なのがどうにも納得行かず、こうして観察・報告しているという(自分でもよく分からない行動に出ている)訳ですね。
というわけで、もしこれからあなたが会話やつぶやき・普段の思考の中でふと「ハム太郎アンチ」の名前を思い出したときに、認識を「昔のハム太郎アンチ」と改めてもらえたなら、これ以上の報いは無いなあという心境です。おわり。
映画チラ見して当時の物申すみたいな勢いの美醜周りへの批判とか思い出して色々考えたから覚書き
その当時の批判の主流は心の美醜が見た目に繋がるような表現に違和感があるみたいなのでそこに繋がる感じで野獣が王子に戻ったラストに心云々言っといて結局それかよ、美男美女かよだとか野獣の方がかっこいいしとか野獣のままでハッピーエンドでいいじゃん的なのが付いて回っててその時はあんまよくわかねえというか最初の以外はそれ批判以前のただの感想やんけ!(感想は自由)ってなってて(最初の違和感にも違和感があったけどそのままにやってた)それで今改めて考えたのはそもそも美醜で人間を判断してた王子がベルという美しくはあるけどそれに囚われない知性ある女性と心で惹かれ合い醜い心の象徴とするその野獣の姿で愛を成就しなんてざっくり内容からして物語としての教訓は見た目で判断する事の愚かさ真の愛はそこに囚われない(ロマンチック)って事だろうしベルの美しさはディズニーにおいてのプリンセスやヒロインに課せられるメタ的なルッキズム的価値観によるものでも当然あるけれどそれは美女と野獣という作品への批判としては的が外れているように思うしむしろこの作品においては美醜を扱う上でベルが美しいとされ知性や冒険心と並び持つとする事でこそその中からベル自身が何を選び大切にするかの選択が意味を持ち生きてくるように思うから王子の美しさと共に決して物語に必然性のない美貌ではなく魔女のそれにしてもまさにルッキズム的な王子に対する皮肉としてで解ければそこを否定する事になる呪いを与えてるとこからもむしろルッキズムを悪としているようにしか見えなくて批判で言われてた違和感への違和感の正体はそこへの漠然とした何でこの話でそんな事思うんや…というやつだったんだと思う
それはガストンに顕著で元々アニメでヒーロー的な外見でハンサムという設定ではあったけど見ようにはそうでもないキャラクターデザインだったガストンに実写でルークエヴァンスがあてられた事で美しい見た目に美しい心が宿るというようなルッキズムを否定するキャラクターとして野獣との対比もよりはっきりとなってそのハンサムさはベルや野獣の心を引き立てる装置としてやっぱり皮肉的に使われたわけだから作品としてルッキズムに則るのならそれこそシンデレラの最初のアニメ(作品追うごとにそうでなくなっている)のようにガストンがルッキズム的美醜観において醜いか善い人間であるべきで敢えてそうしていないのはそれがメッセージの一旦であるという証拠でもあると思う(すごいぞガストン)
じゃあ何でそんな批判を思うのかとも考えて単純に物語としてじゃなく表現の部分部分に気を取られちゃう形になっちゃったのかなっていうのと後はそういう発想それ自体が単なる美醜じゃなく絶対的で客観的な美がカーストのように存在するというようなルッキズム的前提でもって無意識にでも恣意的になされているのじゃないかって事で冒頭で野獣のかっこよさを示す事を批判以前の感想としたのは王子という美しい存在に対する醜いとされる野獣という構図の上で野獣の見目を讃えて"美"であるとする事だけではただの作中における美醜の定義への抗議またはむしろ逆に作品がルッキズム的であるという批判内容を否定する(野獣を客観的に美しいとするのは作中の醜いという定義は外見を指すものではないもしくはキャラクターの主観を越えるものではないとする事で作品として見た目に心を比例させているという批判は当て嵌まらなくなるように思う)もので美を是とするルッキズム的であるという前提に立った批判として体を為してないのではないのかと思ったからだけどもでもそれが野獣をかっこいいとする価値観はルッキズム的な本来の(あるとしている)美醜観に沿うものではないのでそこ自体への反発の提示が批判の一旦になるのだという発想の元されたと考えれば批判としてはそこの意味に限るなら理解できるしまた野獣の姿を醜いと定義するそれこそをルッキズム的だという意味でのまずそこからの違和感であるならとも思うけど批判とやってそこに客観性を持ち出すのであれば野獣をルッキズム的美醜観による被害者であるとするのはその見た目を作品内での単なる主観的文化的役割としてでなくルッキズム的な定義によって作品を越えたとこで醜いとやっているわけで本来ルッキズム的美醜と美醜はイコールではなく真理として絶対的な美を定義するものでもないのに作品内での美醜についての価値観を語るのにわざわざそれを作品へ持ち込み批判材料としたのはその当人がそこにルッキズム的基準における美醜を見たからに違いなく美女と野獣はルッキズム的価値観において野獣を醜いものとしている、という批判はそういう事ではないのかという話で
それらは全部今回自分で当時を思っての単なる仮定であるんだけどそんな批判を挙げたのと同じ層からその後シェイプオブウォーターを美女と野獣のアンチテーゼだとする意見が出て(監督は否定してた)明らかにそれが"彼"をルッキズム的弱者とする前提の上で敢えて美しさと定義しているとやって監督がただ美しいと思うものを美しいと描いているというようなルッキズムとはまさに反対にある主観的美醜観という視点が丸々端から欠如した美しいものをそう描く作品とそうでないものを美しいとする価値観で描く対比の構図と捉えたものだった事を思うとあながち間違いでもないように見えるし(客観的な美しさを定義するとしているルッキズムに美しさは一概には定義できず個人的宗教的文化的なものであるという主観的美醜観で対するのならアンチテーゼとし得るけどそういう論理での批判は自分は見かけなかった)美女と野獣のラストを美醜に重点を置き"結局それかよ"と受け取るのも"見目の美しさは心の美しさに比例する"と判断するその過程でその醜さを作品における主観的な域のものでないとするまたそれを見出すのに野獣という存在が含む要素やその世界での立ち位置でなく外見のみに焦点を絞るその視点も(実際フランス版では王子の外見的な美醜より傲慢さが醜さの象徴としてフィーチャーされている)見た目が重要だとするルッキズム的価値観に左右されてのものにも思えるし王子の姿にしても野獣の姿からの解放は作品で醜い心を象徴すると定義されている以上心の変化を客観的に証明するためのもので言うなれば愛の象徴であって(野獣の姿はベルに真の愛が満たされていない事を示す)外見なんて関係ないのならそれこそ望まれるものであるはずなのにそこを否定するのは"王子の美しさ"という見た目に囚われその他の要素より重要視している事に他ならないのだしそれはまさにルッキズム的価値観に則ってまずわざわざ美醜を選り分けてそこからそれらを"美しいもの""醜いもの"という絶対的な前提において肯定否定する事がルッキズムの批判になるというような無意識のルッキズムというかそれは言うなら
美しいか醜いかなんて誰が決めたの?ルッキズムなんて!見た目で判断とか最悪!
というのに次いでの
という言い様で○○ちゃんと○○ちゃんを普通にかわいいと思う人間の美的感覚をルッキズム的基準でそうでないぞと正面から否定しカースト内の位置を告げるみたいなものでシェイプオブウォーターにおけるそれは
××くん○○ちゃんのこと好きなの?見た目じゃなく中身で見るんだね!いい事だよ!
もしくは
××くん"には"○○ちゃんがかわいいんだね!素晴らしいことだよ!
というようなやつでその上で自分は美醜で人を判断しない公平な人間だと主張するような話でそれは批判として果たしてというかルッキズムへの批判のためにはルッキズム的価値観においての美醜を踏襲しなきゃいけないというパラドックスを思ってなのか(そんな必要には特にない)それこそ考えれば考えるほど違和感でいっぱいになるという話で
要はルッキズムとか言ってないでふたりとも愛を見つけてその証に野獣は呪いがとけてハッピーエンド万々歳やんけ!でいいと思ったという話
テキ屋が自由気ままなわけもない。いろんなサヨナラがあるわけ。それで、父も母もない。
そんな寅さん。育ててくれたおじさんおばさんの言うこときいて真面目に生きていくって、そんなことはしたくない。
モテない寅さん。でも、たまにモテる。好きなのに好きとは決していわない。他人には好きなら好きと言えなんていっときながら。
自分だってがんばれば成就できた恋がたくさんあったのに。旅に出ていく寅さん。
旅先でひとり、孤独な人たちやいろんな事情の人たちの話をちゃんときいて一肌脱ごうとする。なんの見返りもなしに。
本当に好きだから結婚したのかわからない人たち、本音を言えないで社会の中で我慢してきた人たち
見返りのない手助けはしない人たち、取り繕って甘い言葉しかささやかない口だけの心がない人たちがたくさんいて
みんなうんざりしているのに、みんなそうやって生きてるから、自分もそうやって生きる。
そんな中、世間に縛られずに生きる寅さんに肩を叩かれて励まされたんじゃないかな。
先週の金曜の朝、女の子と寝た。
その前夜、論文提出のお祝いに焼肉に行き、シャンパンを開けて、前に送っていたお酒を飲みたいと言って、家に行った。
そのまま帰るつもりだった気もする。
セックスしたくはなかったけど、セックスしそうになったときに失敗するのも嫌で、コンドームは一応カバンの中に入れておいた。
コンドームを買ったのはその前々日くらいで、それは1年ぶりだった。
焼き肉屋ではシャンパンだけじゃなくて、赤ワインもボトルで空にした。
帰りのエレベーター、知らない人と同じになって、そういう時間が一番恋愛感情を昂ぶらせる。
話したいことを話すとき、そこに辛抱がない、不足がない。
不足を埋めようとして、求めるとき、求める運動が恋愛感情として存在している。
求める運動が徒労に終われば恋愛は終息に向かうし、激しく、長く求めて、それが成就すれば、その経験は反復される。
恋愛感情が、あるいは、相手の家に足を趣かせたのかも知れない。
何かの話を聞いた気もするけど、他愛もない話をした気もする。
相手の家では、焼酎を少し飲んで、薔薇の花と花瓶とに見とれて、寝た。
寝る前に、布団を出すよと言われて、それに甘えた。もっとここで強く断れば良かったのだ。
朝は、感覚が尖る。
相手が起きて、幸せそうな表情を見て、お互いがお互いを求めた。
あまりに久しぶりだったけれど、経験は記憶されていて、これまでのキスが思い出されたのを告白しておく。
服はもうほとんど着ていなかったし、お互いの体は存分に確認されたけれど、挿入だけは無かった。
それは彼氏でない人に許された行為ではないと知っていたからである。
それで満足した。
満足して帰って、次の会う予定を連絡した。
しかし振り返ってみると、それは充分にセックスであって、会う予定は浮気であるか、さもなくば恋愛感情への侮辱でしかない。
だから何だと言うことはない。侮辱的な行為を人間は平然とする。
彼は看病してくれた友人の妻を寝取ったあげく、その妻のヌードを描いたら満足して捨てたじゃないか。
そうは言ってみても、まったく同様に人は倫理的であろうとする。良心の呵責に悩まされる。
次に会ったときの会話がどれほど楽しくても、どれだけ人間本性の理解があったとしても、罪の意識に対してあらがうことはできない。
人は贖罪のチャンスを求めている。