はてなキーワード: 製造者とは
これはいつもの国語増田じゃないかと思うが、内容が稚拙すぎる。ブリンカーを付けて歩いているのか?
https://anond.hatelabo.jp/20211106182157
国語と収入、所得の違いの指摘だけなら兎も角、倫理と対比して実習制度の奴隷使用を現実主義で擁護しやがった。
この「倫理を詰る者に対してその話者の立ち位置の倫理性を問う」というのは原発反対論者に電力の使用を詰るというのが有名だが、ブクマではフォーマットが同じなので安心して賛同する者が出ている。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20211106182157
はい、言葉いじりだけで実習制度の奴隷使用は是認されるべきものになりました。
学校というサンドボックスで国語の問題を解くのは得意だが学校ではない社会の事象に対してもそのサンドボックスから出ないで得意げにあーだこーだ言うのが国語増田の特徴だったが、やっぱこの増田もそれなんじゃないのか?
そもそもほぼ全ての農家が土地を持っているというのは米軍が倫理的観点で強行した為というのを忘れている。
戦前まで土地を持たない小作農が沢山居り、これが農村部の貧困の原因になっていた。大日本帝国の満州開拓への固執の動機には国内の水呑み百姓問題があった。
これを理解していた米軍は耕作地の所有権を小作に移転させ、その他農村の近代化も進めた。
これには世界恐慌時米国内での困窮農村救済プロジェクトがあった事も関係しているのな。教科書で習うのは農業調整法だが、それ以外にFSA(農業安定局)プロジェクトなどがある。
そういうプロジェクトに従事していた人らが戦後に徴兵されたりして技官や武官として日本に来てこういう政策を行った。
米国の農業資本は中南米ではプランテーションを行っていたし、未だに行っている。
でも占領時もそういう資本は入って来なかったし、日本の農民もプランテーション下で経済的に支配された身分にならなかった。
米国の化学肥料メーカーにも蹂躙されず、国内の爆薬製造者が肥料メーカーに転身しただけだった。
増田の立場では日本の貧農は外国資本や農主の下で働くことになるのは現実主義的に当然なんじゃないのか?
だが実際は倫理的に改革されて戦後の農業の形が出来ていたんだよな。その土壌で奴隷経営するのが出てきて言葉遊びでそれをごまかしているのだから批判する声が出るのが当然だ。
GHQは税制の改革も進め、その一つの大きな柱が「個人事業への企業経理の導入」なのな。青色申告とか複式簿記のあれだ。
法人税でも青色申告でも複式でつけた帳簿は税申告時には税務署に見せない。PLだけ提出して帳簿と領収書などは保管義務があるだけだ。だが税務調査が来たらすぐに見せなきゃならない。
これは国税当局と経営者が互いに信頼するという前提に立っている。公文書改竄と国会虚偽答弁した事で国税庁長官に昇進した佐川宣寿が結局すぐに辞職したのはこの為だ。善意と信頼に基づく税制なんて運用できないからな。
この米国企業式の経理と税制を個人事業の基礎に据えた為に農家も個人商店も複式簿記出来るし給与生活者があまり意識しない収入と所得を当然に分別出来るのだ。
それなのに倫理と現実主義を対置して倫理をdisってみせるというのはどういう事だろうか?
今は入管法が厳しくなりあまり居ないが、2004年くらいまではオーバーステイの外国人っていうのは沢山居た。それでビザの条件にも違反して労働している者も多く居た。水商売とか町工場とか偽装請負とか。後者では賃金を買い叩かれて働いていた。オーバーステイなんて大したことじゃなかったのよ。
だが年々入管法は改正され、当局の締め付けも厳しくなってきた。すると手入れを恐れて雇用するのが難しくなる。
そうなると工場の社長や水商売のオーナーはボヤく。曰く「商売あがったりだー」「仕事減らすしかねぇ」当たり前だ。
でもしょうがないので商売替えするか諦めて社員を雇うしかない。私は当時水商売に近い所に居たからボヤキを散々聞いた。「いいアイデア無い?」とも聞かれた。
偽装請負の中にはオーバーステイ専門の派遣で、社長自身が外人、要するにただのブローカーが法人格持ってるのも居た。
当然困ったろうが知ったこっちゃない。商売畳めとしか言えないし、そうなった。
元増田はこれらの人は擁護すべき立場なのだろうから、どうか入管の矢面に立って外国人キャバクラのオーナーとかブローカーとかを擁護してやって欲しい。
実習制度は昔からあるが、それが人権問題で国際問題化してきたのはこの10年程度の事だ。
どうしてそうなったかは上の説明読めば判るだろう。オーバーステイ摘発が増加した為にこの制度の悪用が代替手段として一般化したのだ。
そして昔は現地のブローカーが暗躍してた人身ビジネスに国家がハク付けをしてしまった形になる。
更にその悪用にオーバーステイ外国人雇用にあまり関与してなかった業界が参入する事にもなった。その一つが農家。
だから「100円のほうれん草食いながら」云々というのは、甘い味を覚える前の経営に戻るしかないというだけの事。
ずっと実直にやってた頃に戻ればいいんだよ。
国語の問題を間違えている人を発見して有頂天になっても、それは学校的な発想でしかない。
「学校」のサンドボックスから出て「現実的」な事を書いてみようとしても、倫理で詰る人のメタ倫理性を論うテンプレでしかないというのはホームルームで先生をやり込める「目覚めた」生徒のそれだ。
学校的空間ではそういう自己否定@山岳ベースを聞いてくれる先生がいるが現実はそうではない。原発も条件が揃えば爆発するし人権問題が後に国際問題として延々解決しない事にもなる。更に人の人生を破壊する。
高苗早市
これをコードとして解読すれば
苗は高く、市は早い
あるいは、早い苗、市で高い となる
早稲田や稙田という言葉も育ちの早い稲を意味するし、それが好まれることは大昔から変わらない
しかし市が早いとか苗が高いとは?
苗といえば、著名なのは大会社バイエルやモンサントである。農薬ラウンドアップ、また耐性苗の売上を伸ばしている
しばらくググってみると、これらの会社にはある共通の歴史があることが分かった
昔ベトナムで奇形児が増加して問題になったことがある 枯葉剤という化学物質が原因だった
IGFの取締役らは民間人でありながら戦犯として裁かれ、会社は分割され米軍に枯葉剤を提供
メインバンクはナチスの資金源のひとつアリアンツと同じらしいが確証はない
すると高苗早市とは…ひょっとしてその銀行を意味するのではないか?という疑問が湧く
我々の税金は黒い銀行に受け渡され、テロを起こすのかもしれない
とにもかくにも
不吉なコードに見えるのだ
1(https://anond.hatelabo.jp/20210828215226)のつづき
第九話では、トップジョイの正体と過去が明らかにされる。もともとダークスポーツ財団で「作られた」トップジョイは、ショックサーキットという枷を掛けられ、スパイ行為を「ほとんど」強制されていた。これまで意思を持ち、それを自由に行使できると思われていたロボットが、実はそうではなかったということが、ここで明らかになる。
もちろん、ショックサーキット自体は第一話の時点でマッハウインディに埋め込まれた形で登場している。ダークスポーツ財団がロボットたちに背反を許さないようにし、彼らの自由を奪っている事実は、物語の冒頭から提示されていた。
だが第九話から続くトップジョイの物語は、マッハウインディがショックサーキットに苦しみ、そして克服した第一話・第二話とは少し様子が異なる。マッハウインディが自らダークの元を去り、早々にショックサーキットを切除して完全にダークとの絆を絶ったのに対し、トップジョイはそこから第十三話まで、「自らの意思で」ダークとの関係を持ち続けているのである。
トップジョイが――シルバーキャッスルに好意を抱き、マグナムエースから手を差し伸べられていたにも関わらず――なぜ十三話までダークとの縁を切らなかったのかについては、明確な描写がなく、少々解釈が難しい。ここから先は憶測の比重が非常に大きくなるので、ご容赦いただきたい。
第九話で、トップジョイはフェアプレーを重んじるシルバーキャッスル、及びそれに共感する子どもたちを「理解できない」と言った。「ラフプレーをすれば客は喜ぶ」「客を喜ばせるのがアイアンリーガー」だと。
これは、シルバーキャッスルを内部から撹乱するというスパイ行為による言葉ではない。トップジョイの本心だ。彼は本心でラフプレーを正しい行為と捉えているのである。同じ本心で、第八話でキアイリュウケンとオーナーの絆に涙し、子どもたちと純粋に交流を楽しんでいる一方で。
同時に、九話ではトップジョイの過去と思いが垣間見える。「楽しむ」ことを大切にした結果、バスケットチームから放逐された過去。それでも忘れられない、バスケットリーガーである自分に向けられた観客の歓声。あの場所に戻りたいという思いが、トップジョイの根底にある。
彼がぎりぎりまでダークとの絆を絶てないでいたのには、この思いが大きいのではないだろうか。トップジョイがダークに従っているのは、ショックサーキットだけが理由ではない。もっと根底の、自分の存在そのものに関わる意思ーーあるいは、心ーーである。
これは完全に僕の推測であるが、第八話で示唆された「ロボットは、人間に役割を与えられ、それに相応しいように設計・プログラムされて生み出される」という事実を踏まえると、トップジョイのこの「意思(心)」もまた、ある程度製造者によってプログラムされたものではないだろうか。
作中で、ロボットの意思や思考、心が人間にプログラムされたものだという直接的な言及は(現状)ない。だが彼らが「注文に応じて製造される商品」としての一面を持つ以上、ロボットが人間の赤ん坊と同じようにまっさらな状態で納品されるとは思えない。彼らは製造された時点である程度の機体性能、そして知能と知識を有し、そこには人間の意向が相当程度反映されていると考えるのが自然である。
「トップジョイ」という名前であるがーー彼らがある程度完成された状態で世に出るとしたら、彼らの名前は、その機能・性能にちなんだものであるのだろう(もちろんまったく関係のない場合もあるかもしれないが)。ロボットの機能・性能は、つまりは製造者が彼らに込めた役割と期待である。「ジョイ」つまり「喜び」。彼は、人に「喜び」をもたらす存在としての役割を期待されたのではないか。故に、ああいった明るい性格に設定され、他者の喜びを自分の喜びとするような性格にプログラムされたのではないか。そして、そのプログラムされた心でラフプレーに喜ぶ観客たちを見て、それを自分の喜びとして、そして正しいこととして学習したのではないだろうか。
(製造された時点でラフプレーを正しい行為としてインプットされていた可能性もあるが、第九話のトップジョイの「教わった」という言い振り的に、その可能性は薄そうである。)
だが、その期待は裏目に出た。明るく楽しくを第一義とする性格はチームメイトの反感を買い、彼は本来活躍するはずだったバスケットコートに立つことができなくなった。その後、シルバーキャッスルにおいてはーー彼自身の純粋さから、本来のスパイという立場を越えて、彼らに好意を抱いているにも関わらずーー逆にラフプレーを許すことができないシルバーキャッスルの皆の心を理解できず、孤立してしまう。
そして、ダークから虐待を受けても、マグナムエースたちから手を差し伸べられても、本当に自分が望むことに気づきかけても、プログラムされた心で過去に学び、感じた喜びを忘れることができず、ダークとの繋がりを断つことができなかったのではないか。
人間の都合によってプログラムされた「心」によって、トップジョイは傷つき続けていたのではないか。
人間と全く同じように喜び、悲しみ、悩み、傷つく「心」を、人間の都合によって作り出すというこの世界の不気味さが、トップジョイによって突きつけられる。
そして、第十一話でのS-XXXの結末が、それを決定的にする。
S-XXXはこれまでのロボットたちとは違い、意思や感情の乏しい存在として描かれる。それは本来、僕たちが「ロボット」と聞いて思い浮かべるイメージに近い。
S-XXXはテンプレート的な「ロボット」として、命令だけを忠実に実行し、サッカーのフィールドで「戦争」を繰り広げた。そして最後は、マグナムエースによって破壊される。
第十一話では、これまでよりも明確にロボットが「商品」であることが語られる。S-XXXはアイアンソルジャーという「商品」として、敵を殲滅する者としての役割として与えられ、その破壊力を期待され、品定めされる。彼のロボット然とした意思や感情の薄さは、兵士として忠実に命令を実行することを求められ、そうプログラムされた結果なのではないだろうか。
しかし一方で、S-XXXは「敵を倒す」という目的に対し非合理的なシルバーキャッスルの行動に困惑し、動揺する。そして、マグナムエースの「新しい道」という言葉に、ほんの一瞬であるが、本来あるはずのなかった「迷い」を見せた。
S-XXXにも、心は存在した。
なぜS-XXXの製造者が「兵器」であるロボットに「心」が生まれるような知能を搭載したのか、その理由はよく分からない。スポーツ選手であるアイアンリーガーであれば、人間がある種のカタルシスを得るための機能として、人間と同じような心や感情を搭載する理由もある程度理解できるが、迷いが命取りとなる戦場に送り込む兵器に、それは不要のはずである。
もしかしたら「心」というものは、それは製造者の意図的なものではなく、自分で学習し、アップデートしていくことができるほど高度な知能には、逃れられない副産物なのかもしれない。
いずれにしても、例え人間にほとんどをプログラムされたものであったとしても、兵器であったS-XXXにさえ、心は存在した。そして僅かに、けれど確かに「新しい道」へと進む可能性があった。
にも関わらず、第十一話の商人たちは、彼を徹底的に「商品」として扱った。そしてS-XXX自身も、「戦場でない場所には存在不可能」と語っている。
ロボットは、人間によって役割を定義されている。そしてその役割を果たせなければ、彼らは自らの存在意義すら失いかねないのである。
この『アイアンリーガー』の世界に横たわる現実を受け止めるのに、相当な時間を要した。いや、実際まだ受け止められてはいないのかもしれない。人間は自らの都合によって、自分たちとほとんど変わらない心や感情を持つロボットを役割という枠に押し込めて生み出し、その存在をも人間の都合によって左右する。この神の模倣とも思える傲慢さに、幾たび怨嗟を吐いたかしれない。
一方で、自らの意志で生き、誇りを持って戦っているロボットたちを哀れみ、同情を寄せるようなことは、彼らに対する侮辱ではないかという思いもずっとあった。
僕の心は千々に乱れ、分裂し、二転三転し、自己矛盾に苦しむ日々が続いた。「ロボットがスポーツをする子ども向けのアニメ」を観てそんな感情に取り憑かれるなど、一体誰が予想できよう。
しかし、である。一通り憎悪と煩悶に身を投じた後に、ふと気づいたことがある。
ロボットたちが置かれた現実は、結局、僕たちの生きる現実と同じなのではないか、と。
僕が七転八倒している時、僕に『アイアンリーガー』を教えてくれた先達は、一つの問いを僕に投げかけた。「ならば、アイアンリーガーはどうなったら幸せなのか」と。
頭を殴られたような衝撃を受けたせいで、僕がその時どのように答えたのか、正確には記憶していない。「彼らが、やりたいことをやりたいようにやれる」のようなことを言ったような気がする。
月並みな言葉を振り絞りながら、僕はぼんやりと「どこかで聞いたような話だな」と思った。よくある話。人間の幸せを語るときに、よく言われるような言葉だと。
そして、僕の思考は再び振り出しへと戻った。『アイアンリーガー』に最初に感じた、違和感にも似て、それでいて温かかった感覚。人間とロボットが、同じ意志や心や感情を持つ存在として、同じように生きている世界。
第一話でマッハウインディはこう言った。俺たちロボットも「人間と同じなんだよ」と。
それはつまり、人間もまたロボットと同じであることを意味する。
この国で生まれれば(その実態はどうあれ)、僕たちは一応、自由意志(ここでは各種の哲学定義を無視して、単に「他から強制・拘束・妨害などを受けないで、行動や選択を自発的に決定しうる意志」という意味で用いる。)を認められた存在である。
しかし、完全に自由な人間など存在しない。人間もまた、さまざまな制約の中で生きている。親、夫、妻、上司、部下、教師、学生、老人、若者、友人……そういった役割や立場を与えられ、家庭環境、ジェンダー、経済力、文化、時代、価値観……そんなあらゆる枠に押し込められながら、社会の中での「あるべき姿」「あるべき意志」を定義され、それに応える「社会人」に育てられてゆく。それは、人間、あるいは「社会」の要請で意思や心をプログラムされるロボットと、実はそう大差ないのではないか(語弊を恐れずに言えば、教育とは一種のプログラミングである)。
真に自分の望むように生きている人間などほとんどいない。皆、社会の中で折り合いをつけながら成長し、社会の中で生きている。そして、労働市場の中で自らの価値を計られ、自己の存在意義を証明し続けることを要求される。
(そうあるべき、と思っているのではない。ただ事実として、それが資本主義社会の一側面であることは否定できないとも僕は考えている。)
その姿は、役割を与えられ、商品として売買されるロボットに重なる。
もちろん、『アイアンリーガー』においてロボットたちが置かれている状況は、僕たち人間より深刻だ。彼らは自らの存在の前提として役割がある。役割がなければ彼らは存在し得ないし、その役割への期待に基づいてプログラムされた意志や心の拘束度は、人間のそれよりも遥かに強い。
しかし、あらゆる寓話がそうであるように、度合いが強いからといって、それが全く違うということにはならない。制約の中で、それでもなお自らの意志を貫き通そうとするロボットたちの姿に、僕たちは僕たちの姿を見るのである。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに書いてあったことだが、アンガス・テイラーという人は、フィリップ・K・ディックの書くアンドロイドについて(「機械的な行動パターンに侵された」、あるいは「内面的に阻害された」)人間の隠喩、象徴であると述べたそうだ。そして訳者の浅倉久志氏は、この作品の中に「人間とは何か?」というテーマに取り組んだとしている。『アイアンリーガー』も、それと似たような物語ではないかと、僕は思う。つまり、『アイアンリーガー』に登場するロボットたちもまた、僕たち「意志を持つモノ」、つまり人間の隠喩であり、『アイアンリーガー』は、「意志あるモノが自由を手に入れる」物語ではないかと。
こんなことを考えているうちに、僕は『BEASTARS』のことを思い出した。『BEASTARS』の登場「動物」も、姿形は動物のそれであるが、やはり人間と同じような意思や感情を持つ。彼らを通して描かれているのは、そういった心を持つモノたちのドラマだ。人間と同じ意思や感情を持つモノたちが、しかし肉食・草食動物それぞれの身体的特性、言い換えれば宿命という強制と制約を背負いながら、学校という一つの閉鎖社会の中で苦悩し、ぶつかり合い、時には折り合いをつけながら生きていく。負った宿命の中身や程度は違えど、そこに描かれているのは紛れもなく心を持つモノーーつまり僕たちの物語である。
と、このような書き方をしたが、あくまでこれは『アイアンリーガー』(や『BEASTARS』)という作品に僕たちが心を動かされる「絡繰」、結果論をそれっぽく言い募っているだけである。『アイアンリーガー』は(恐らく)寓話ではないし、アニメスタッフが彼らロボットを人間の象徴、あるいはその苦悩の投影先として選んだ、というのも(なんとなくだが)違うような気がする。正直、単にロボットが好きなだけな気がしてならない。
これについては、象徴や隠喩というよりも、同じく『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の訳者あとがきに引用されていた、次のような表現が相応しいように思う。(原典に当たっておらず申し訳ない。)
「ディックにおいて、人間とアンドロイドの生物学上の、あるいは自然科学上の区別は、まったく無意味である。(中略)ディックは、『アンドロイド』と『人間』の形式上の区別には関心がない。(中略)ディックの世界では、そもそも人間と機械、自然と人工といった単純な二分律は棄却されている」(『銀星倶楽部』12 後藤将之氏「フィリップ・K・ディックの社会思想」)
『アイアンリーガー』に描かれているロボットたちの生き様を語るのに、彼らが生み出された経緯や理由に潜む人間の驕慢さなどは、意味をなさない。彼らの前で、人間が自分たちと同じ心を持つモノを恣意的に生み出すという行為の是非を問うことは無意味である。いかに彼らのルーツに薄ら寒い人間の欲望が渦巻き、彼らの意志が人間によって指向性を持たされているとしても、それは彼らが「その」自らの意志で決断し、戦い、生きてゆく征途の輝きを何ら曇らせるものではない。
彼らは、ロボットとしての宿命を背負う自らの存在を呪うことはない。背負った宿命の中で、心を持つ故に葛藤に苛まれながらも、心を持つ故に抱いた意志で、自らの宿命を乗り越え、未来を切り開いていく。フェアプレーをしたい。スポーツをしたい。道を極めたい。この場所にいたい。君と一緒にいたい。たとえ世界がそれを許さなくとも、世界がそれを笑おうとも、自らの意志で在りたいように在る。その姿は僕たちと地続きのものだ。彼らはロボットであるから尊いのではない。僕らと同じであるから、眩しいのである。
【追記】
https://anond.hatelabo.jp/20210807215837
>もうさ、お惣菜買うのを止めて挽肉で生きて行けばいいんじゃね?
ミートサプライはひき肉も出している。丸大からは逃げられない。
タイトルの通り。
就活大失敗して完全に心が折れた俺は完全に就活に恐怖し、親でも祖父母でも誰でも良いから金を持っている人間の脛にかじりつきながらフリーターで生きていくことを決めた。
しかしバイト先でめっちゃ仲良くなったフリーターがいて、色々話しているうちにその家族がやってる会社に転がり込むことになった。
会社は製造業。かなり小さいながらも設備はしっかり揃っており、製造者の実力さえあればなんでも作れてしまうほどだった。
俺は工業高校の出で、大学でもかなりサボりながらではあるが、建築系を勉強していた。
家族経営はやめとけ、と就活の時に沢山言われた気もするが、掛け持ちバイトにも飽きてきていたので思い切って飛び込んでみることにしたのが5年前。
社長(フリーターの父)、経理(フリーターの母)、社員(フリーターの叔父2名、社長の友人1名、)という小さな会社。
せっかくの節目?なので今の大体の感想を残しておく。
知り合いに米農家が、親戚に素麺屋が、野菜農家がいるらしくあれもこれも持って帰れと押し付けられる。
家族と離れて住んでおり一人暮らしの俺にとって食料の供給は死ぬほど有難かった。もはやこの為にこの会社に勤めていると言っても過言ではない。
出勤、退勤時間は特に決まっておらず、遊びに行くので休みますと言っても怒られることは一切ない。(勿論自分の仕事をこなしている前提)
どこ行くの?そこならココがオススメだよ、何が美味しいよ、お土産はあれがいいな、お金渡すから買ってきてくんない?お釣りは好きに使って(笑)などやりたい放題。
何ならちょっと1件だけ打ち合わせしてきて〜ということで交通費や宿泊費が経費で浮いたこともある。
やっぱり暇な時期っていうのが必ず出てくる。その時は一週間ぐらい会社休んでバイト詰めたりとかしてる。
俺の担当業務はパソコンがあればそこそこ出来るのでバイトの休憩時間とか、家帰ってから暇な時間に進めているので特に問題はなし。
飲食の勉強がしたい、ということで社長と話は済んでいる。時々俺の働いている時間に社員で飯食いに来たりしていた。
昼飯代やドリンク代、自転車通勤なので自転車メンテ代や雨具代など、大抵のことは相談したら大体経費でどうにか落としてくれる。
設計用ソフトやPCなど、本当に必要なものなら俺のプレゼン次第ですぐ購入が決まったり、実験的に取り入れてくれたりなど柔軟に対応してもらえる。
結果、日常業務が簡単になったり減ったりで社員に感謝されるし、俺も俺自身には一切負担が来ないので助かっている。
記念日、誕生日、大晦日に正月などのイベントに巻き込まれる。これは辛い人は辛いと思うし、俺も最初は辛かった。というか居場所がなく困った。
まあ5年も居たら慣れる。居場所は未だにないが雑用係に徹している。質の良いおこぼれがもらえるので俺的には問題なし。
厳しい納期前は長時間勤務も深夜勤務も当たり前、長距離運転も休日出勤も何でもござれ。残業代は出ないしボーナスなんて勿論ない。
就活が上手くいった奴と話す機会があったんだけど、分かりやすくドン引きしていた。
まあ5年も居たら慣れる。し代休ガッツリ貰えるから俺的には問題なし。
これは5年居ても分からない。アレ取って、あの件が、あれどうなった?あれ頼んどいて、など、家族として過ごしてきた年月が長いからこそ通じる「アレ」が
部外者の俺には一切分からない。いや5年でほんの少しずつ察せるようになってきたが、多分まだまだ分からないしこの先も完全に理解できる日は来ないと思う。
俺的にはこれが一番キツい。社長と経理で物凄い喧嘩が始まることがあり、俺は仲裁もしくは愚痴聞き役に回る。
俺は怒鳴り合いに対する耐性が全く無く、就活で折れたのも完全に圧迫面接の所為なのでこれだけは毎回メンタルに来る。
だかそこも家族、次の日には何事もなかったかのように今朝のニュースで一緒に笑ってたりする。
ざっとこんな感じ。全ての家族経営会社がこうだとは思わないけど、想定してたよりはずっと良い会社だった。
そもそもその家族自体も基本的に良い人だから助かる(例外はあるが)
コロナ禍で経営も危なくぶっちゃけ辞める前に倒れるかもしれないが、全てのやる気の喪失したフリーターを拾ってくれた恩はかなりデカイので、もうしばらく働くつもりだ。
日本の包丁というのは切れ味が格段に良くて海外からわざわざ取り寄せる人が居るほどカルト的な人気がある。
コロナ前はかっぱ橋道具街にも外国人が沢山いて数万円もする包丁がよく売れていた。
だが実はこの高級和包丁の原料を作っている会社というのはほんの僅かなのだ。寡占市場なんである。
その一番の鋼材供給元である日立金属安来工場の先行きが不透明である。
和包丁には作りが二つあって
1.刃物鋼を軟鉄でサンドイッチして鍛造する「霞」(割り込み包丁)
2.全身が刃物鋼の「本焼き」(全鋼とも)
一般的に霞より本焼きの方が高くて玄人好みなのだが、どっちの包丁でも肝心の切れ味を左右する刃先は刃物鋼という特殊鋼で作られる。
この刃物鋼には炭素鋼の白紙、炭素鋼にタングステン等を混ぜて切れ味を長持ちさせた青紙などがある。
だがこの白紙も青紙も作っているのは島根県の日立金属安来工場一か所なんである。
他に例えばステンレスの高級包丁などではV金10号なんていうステンレス刃物鋼を使い、これは武生特殊鋼という会社が作っている。こっちも独占市場だ。
でも和包丁と言ったらやはり鋼であって、この安来鋼と言われる刃物鋼はほぼ必ず日立金属安来工場製だ。
なんで製鉄部門を手放したかといえば日立グループの決済が悪化したからだ。
この原発輸出の失敗は非常に不思議な事で、例えば判りやすい方の東芝のウエスチングハウス買収では構造的に原発の新設が不可能と知られる所に巨額の投資をして失敗している。
アメリカの原発新設が不可能になったのは電力自由化とスリーマイル島事故の為というのは有名である。
電力自由化はペイできないリスクを抱え込む事を不可能にする。日本でも国策企業の電源開発がなければ原発新設なんて出来なかった。
そこへスリーマイル事故で安全基準が上がったら国策ではなくて商売としての原発新設なんて不可能だ。更に福一である。
こういう構造的な問題が知られているのに何故か東芝はWHの決済書を読んでいけると考えた。WHはどういう魔法でクリアしたのか?
蓋を開けると粉飾決済という魔法で、単に巨額資金で負債を買った結果となった。でもこの結果はそりゃそうでしょというもんで不思議でも何でもない。
日立の方はそこまで酷くないが、それでも福一で格段に上がった安全基準の為に償却の目途が付かずにご破算となった。
だがなぜ甘い見通しのままで巨額資金を投じているのか?
要するに重用された経産省の傍流革新官僚が持ちかけた投資話なのであろう。官邸の数人で児戯のような「国策」を設計してみた結果だ。
人に金出させて失敗した仕手筋なんて刑務所にブチ込まれるのが経済事件の常識だが、この革新官僚は未だ霞が関と溜池にいる。
それにしてもバブルの最中でもないのにこんな雑な投資話なんてそうそうない。どんな美味しい話をされたのか脅されたのか気になるところだ。
何れにしても日立金属は売却されてしまったが問題は事業規模だ。
日本は製鉄大国だ。それ故製鉄の取引額は莫大で韓国の世界一の造船を支え、アメリカ北部の製鉄業を壊滅させてラストベルトを作った。
刃物鋼は冶金や特殊鋼の一部門であってその特殊鋼の事業規模も製鉄全体から見たら非常に小さい。
つまり製鉄大国であるが故に、刃物鋼の生産というのは町久場レベルの極小事業なんである。
その為に地元では工場が整理されて閉鎖されるのではないかとの懸念が出ていて去年から商工会議所が知事に陳情したり県知事、市長を交えた会議があったり、知事が日立に要望出したりしている。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCC203NZ0Q1A520C2000000/
だが経済界では和包丁文化の取り替えきかない要だという事を理解する人は少ないようなのだ。
一方、料理人は?といえばどうも経済紙を読む人は少ないようで騒いでいる人は見ない。
今日も「和包丁は日本刀の流れをくむ文化で~」とかの言説に悦に入っているような人ばかりなんである。困ったもんだ。
因みに幕末まで刀鍛冶は大名に雇われた存在で、包丁などは野鍛冶、村鍛冶の仕事だった。職分が違う。
また冶金技術は戦後に鉄の流通が急拡大してから急激に伸びている。
戦前の製鉄は官需や軍需に過分に依存した歪な業界構造で、包丁など調理具はその官需軍需から離れた所にいた。
戦後は軍港の転換で造船所が出来、製鉄需要に火をつけて造船、建築、自動車などの大需要が発生してきたが、刃物鋼はやはりこの大市場の外部にいた。
経済人が唯一無比の高級和包丁原料製造者である事に気づかない原因でもある。
「和包丁は日本刀の流れをくむ世界に誇る文化」なんて程度の低い客向けの口上の筈なのに自分たちがその口上に酔ってしまい、業界構造を頭に入れずにその「世界に誇る文化」が危機に瀕しているのに気が付かない。
白紙の包丁が店頭から全て消えてからあたふたしても遅いのである。
因みに海外の調理具メーカーでも数万円ラインの高級品ではやはり安来工場の刃物鋼を使っている。
それから「紙」っていうのは、ロール状に巻いた鉄板とか数十メートルもあるH鋼なんかと違って刃物鋼はコピー用紙とか新聞紙レベルの板として取引されるのでそう言われる。
和包丁が無くならない事を願うばかりだ。
引っ越し先にローカルなスーパーがある。どれも新鮮でお惣菜もおいしくて助かっている。既製品もチェーンの商店とは品揃えが違って、日常の小さな楽しみだ。
お菓子コーナーのレトロなパッケージのクッキーを、何の気なしに買ってみた。これがなんだかとてもおいしい。ちょっとびっくりした。
中身だけ別の箱に詰めたら贈答用にもなりそうなのに、スーパーで買う日常のお菓子の値段。 12 枚で 300 円弱だったかな。身近な人にあげたくなったが、それはためらわれる程に古めかしいパッケージだ。紅茶よりは湯呑みの緑茶のお供にしたい佇まい。
おいしいから、 1, 2 枚でちゃんとしたものを食べた感じがあって、ずいぶんと長い期間を楽しませてもらった。さっき最後の 1 枚を食べて、どこのメーカーなのだろうと会社名を探す。
製造者の方の「湘南クッキー」で探すと、ファンは多く居るが売っている場所が限られているようだ。在庫が無くなるとそれきりとなってしまうことも多いスーパーだけれど、また買えるといいなあ。
書きながらパッケージを眺めていると、おばあちゃんが生きていた頃の実家の居間とか、元気な魚屋さんがいた今はもう無いスーパーとか、今まであまり思い出さなかった情景がふっと浮かんできて、なんだか鼻の奥がツンとしたりもした。
油が多く排水管にこびりつくとか、下水処理は油の分解をしていないので環境負荷が高いとか、下水処理施設の設備や微生物を傷めるとか聞いたことがある。
たまに食べるときは飲み干すようにしていたが、さっき食べたものはくどくてとても無理そうだ。
改めて調べたところ、新聞紙やキッチンペーパーに吸わせるか、吸水ポリマーや片栗粉で固めるとあった。どれも水分量は変わらず、焼却コストの上昇度は変わらないだろう。
それならばと、漏れないように袋に入れて可燃ゴミに出すことにした。でも収集車内で袋が破れると困りそうだな…。とっておいた緩衝材の紙を使うか。でもあまり吸わなさそう…と躊躇している。
結局皆はどうしているのだろう。食べる人は結構頻繁に食べているようだし、流しているのかなあ。
子供の頃からゴミ処理はもう限界だと聞いていたり、ゴミ処理施設を見学したりしていたので気になる。ラーメンに限らず、ものの廃棄は製造者が責任を持つことにいずれなると思うのだが、なかなかそんな動きにはならないな。
マニュアル人間のように、マニュアル、ドキュメント化、文章化を悪とする風潮が日本にはあるように思う
これが良くないのではないだろうか
いや、Zガンダムでもいい
ガンダムのマニュアルがなかったらアムロはガンダムを大地に立たせることができなかったのではないだろうか
もちろん、武器をマニュアルから見つける時間はなく、偶然押したボタンで頭部のバルカンが出た
しかし、マニュアルがなかったら心細かったであろうし、諦めてしまっていたかもしれない
形だけであれ、まずマニュアル、ドキュメントが存在するというのは心強いのである
ドキュメントがない、issuesに知見が溜まっていない、Stackoverflowで話題にさえならない
そんなソフトウェアはどんなに優れていても使っていて行き詰まってしまったら投げ出しやすくなるだろう
ソースコードが公開されていても、ドキュメントがないのでトラブルのたびにコードを読む、これはとても苦痛だ
命名規則が無茶苦茶なソースコードがあったらプロでさえ投げ出したくなるだろう
コメントから自動生成だけでなく、チュートリアル、Getting Started、Installation、バカでも一通り学べる文章が必要だ
そうでなければそのソフトウェアは流行する可能性はまったくないだろう
インハウスツールであったとしても投げられてしまい、ちゃんとドキュメントや管理できる別の社員が作り変えるかもしれない
つまり、恋愛も同じであり、マニュアル、ドキュメントが寧ろ必要なのではないだろうか
そこには概要やインストールから始まるように、まず最初の一歩はどうすればいいのか、がちゃんと書かれている
そして、恋愛の一通りの機能を学べるようにチュートリアルが用意されている
Zガンダムのカミーユだって父親のコンピュータから操作方法のマニュアル、ドキュメントを盗んでいたと劇中で述べている
ブライト・ノアは才能だと言っているが、自分はそれは少し違うと思うのだ
カミーユに至っては母親も材料物性のスペシャリストである、つまり金属などの分野である
ドキュメントを書く、文章を書くというのは技術をまとめる、開発したものの操作方法をユーザーに伝える、大切なものである
それが将棋や囲碁であれ、あやとりであれ、必ずその分野のプロがいるのである
しかし、恋愛のプロが書いた本があったとしても、碌なものがない印象がある、なぜだろうか?
まず、恋愛のプロである筆者が自己を正しく分析できていないことがある
つまり、なんだかよく分からないがモテる、みたいな人は自分が自分でどう優れているのかさえ理解できていない、いわゆる天才肌とも言えるものである
一般的に、天才というのは他人に自分がなぜできているのか説明するのが非常に下手なことが多いように思われる
例えば水泳について考えるとして、水泳の天才は子供の頃からなんとなくできてしまうパターンが多いように思われる
しかし、天才的な水泳選手が他人に教える、子供に教える、となると非常に下手になってしまう
その理由は私なりに考えるに、天才は自分がなぜそれができるのか、できるようになったのか理解できていないのである、天才だからである
しかし、天才には敵わなかったが、努力の天才とでも言うか、努力で実力を積み上げた選手は他人に教えるのが上手いのである
なぜか?
それは彼らが、自分はなぜできないのか?天才はなぜできるのか?それをひたすら考え、天才のフォームを観察し、仮説や実験、検証を繰り返したからである
苦労をしてきたからこそ、できないプレイヤーの欠点、伸ばせる長所などが分かるのである
詐欺的なもの、単なる自己啓発的なもの、ポジティブシンキングになれば引き寄せの法則が、みたいなものは尚更無意味である
恋愛のマニュアルもまた、恋愛を上達させるために努力を積み上げてきた努力の天才、恋愛の天才に努力で太刀打ちしようともがいた人が書くべきである
以上、まず恋愛にもマニュアルが必要だということを述べ、そこにはステップアップ方式で学べるチュートリアルも必要であり、
それらを正しく書くためには恋愛の天才ではなく、恋愛の天才を目指した努力の天才が書くべきだということを述べた
まず、マニュアルがないのが悪い、マニュアル人間は悪くない、という発想の転換、逆に考えてみることが大切なのではないだろうか
男性向けの上着は、街でも使える見た目(これ最重要)な断熱機能の高い上着が一杯出てるよね。
サーモライトとかシンサレートとかサーモアとか、そういうの。
あれいいよね。
軽くて暖かくて扱いも楽。
野外系ならあるけど、合わせる服を選ぶ。
例えば勤務時の軽装にノースフェイスやパタゴニア……変でしょ有り得ないでしょ。
普通に街中で着られる、軽くて暖かくて扱いが楽な断熱機能の高い上着が欲しい訳ですよ。
今年店頭を占拠してる羊毛の外套の裏地を防風にするとか、毛羽立った外套の生地をポーラテックにするとか、その程度でいいんですよ。
それをすると高くなるのは分かってる。
でも本当に使える物なら高くても買う。
多分みんなそう。