はてなキーワード: 真摯とは
貴方先日○○にいたよね?とか
言い出す女と同レベル
それは誠実じゃない。重いってことだ
この増田(anond:20200912141626)の批判はもっともだと思う一方で、津田氏を少しだけ擁護する。まあ擁護でもないけど。
増田の批判は非常に明瞭で、津田氏はこの批判を真摯に受け止めるべきだ。だが、いくらその行為が悪意そのものには見えなくても、本人には全く悪意がない(ゆえに悪意あるとの批判に耳を傾けない)可能性は、どんな場合にもあるし今回もまさにそうではないかと思う。本人が耳を傾けないと、批判はその力を大きく削ぐ。批判は正しく届いた方が社会的な益になるし、届かない批判は分断を起こし、それは社会的にマイナスだと思うのだ。だから、誰も頼まない調停役を務めようとしている、というのが私の立ち位置である。
さて、セクハラという概念がなかった時代。上司は女性社員の尻を触り放題であった……というと語弊があるが、触ったところで、馘首になるどころか、減給も、厳重注意すらなかった。被害者と加害者は同じフロアで同じ立ち位置で仕事をし続けた。今では考えられないコンプライアンスであるが、社会的に「そんなのはくだらないこと」という意識が徹底されていれば、それ以上にコストをかける意味がない。もちろん、プライドのある女性社員はこの状況をよしとはしていなかったし、なんなら被害者の女性社員に色目を使っている男性社員も、「クソ!部長め!」くらいは思っていただろう。だが、せいぜいそこまでで、その怒りは極めて個人的なものであった。これをレベル1の段階とする。
次に、セクハラと言う概念が誕生し広まりかけたころ、変わらず女性社員の尻を触ろうとした部長に対して、若手の係長が「部長、それは『セクハラ』ですよ」とニヤニヤしながら声をかける。部長が「せくはら、かね?」、係長「セクシャルハラスメント、略してセクハラです。」、部長「そうかね、なるほど少し控えるか。ワッハッハ」……みたいな時代があったのだ。社会的に意識が広まり始めるころ、啓蒙の役割を果たす人の仕事というのは、この係長のようなものだった。これをレベル2の段階とする。
そして最後に、完全にセクハラの引き起こす問題(件の女性社員は退社して、意識の高い同業他社に転職してバリバリ成果をあげている)が認知された社会、うかつなセクハラを行おうものなら、よくて罰金、降格、左遷、悪ければ馘首まで起こりうる時代。「女性社員の〇〇ちゃんて尻がデカくていいよね」などという発言ですら処分対象になる時代に、あるKKO社員が「〇〇さんいいですよねぇ~」と言ったのに対して、先の係長、今や課長が「●●くん、そんなのを〇〇ちゃんが聞いたら『セクハラです!』って言われるぞ!(ニヤニヤ」と言ったとしよう。その瞬間職場の雰囲気が凍りつく。「セクハラ? いや、それほどでは…」「課長それは言い過ぎじゃないっすか」「誰かがいいとかいう程度のことを大騒ぎにするのはちょっと…」これを聞いた課長が焦って「いや、女性のね、容姿を云々したりするのはさあ、仕事には関係ないわけでさあ、だからね、ウン、ぼ、ボクはね、軽~くそれを、し、指摘しようと思っただけでね、いやいやそういう意味じゃなくてね(汗」と釈明する。周囲は呆れたような顔になるが、課長は嘘を吐いているわけではない。彼はただ、以前と同じように振舞ったつもりなのだ。これがレベル3の段階である。
何が言いたいか分かっていただけただろうか。現代社会は、増田の認識のとおりレベル3の段階である。「この言説はセクハラだ」という指摘は、対象に対して極めて致命的なものにもなりかねない(宇崎ちゃん騒動をはじめそういう事例は枚挙に暇がない)。一方、レベル2の社会で係長だった津田氏は、レベル3の段階に意識がアップデートできていない(あるいは、普段ならそこまででもないかもしれなくても、レベル2の時代に自ら親しんでいたコンテンツのリバイバルという状況の中で、その時代の間隔でつい突っ込みをいれてしまった)だけの課長ポジなのだ。津田氏に悪意がなく、かつ、彼の言い訳が嘘ではないとしても、津田氏に問題がないわけではない。だからこれは擁護ではない。ただ、彼の行動が「悪意」に基づくというのは誤認かもしれない。むしろ、そこに「悪意」がある方が問題は単純だ。悪意というのは明るみに出た瞬間に無力化するからだ。それより、本人に100%悪意がなくても、こういうことは起こりうることであり、それだけにこれは解決の難しい問題でもある、ということを指摘しておきたかった。
私の言いたいことはこれくらいである。これは擁護ではない。だが、増田の指摘に対して、異なる視点を提示するものである。
(追記)
少しだけ追記しておく。銀英伝をそもそも私は見ていないが、そこに現代から見れば『政治的に正しくない』表現が入っていることは、極めてありそうなことである。そして、それをそのまま製作したら『政治的に正しい』を主張する人たちから槍玉に挙げられるという危惧も、決してあり得ない心配ではないだろう。だから私は、津田氏の指摘自体が全くおかしいものだったとも思わない。だが、上に挙げたような事情と、また、【ポリコレ棒で人を殴る行為】自体の問題に疑問の目が向けられつつある現代において、これを身分を明らかにしてTwittrで呟くという行為は、少し不用意であったとは言えるのだろう。もし本当に一ファンとして真摯に心配するのなら主催者に直接メールした方がよかったし、なんなら無料・匿名を条件に監修を申し出てもよかった。あるいは、もはや銀英伝は時代を越え得ない作品なのだ、Not for meなのだ…として黙って立ち去るという手もあった。ただTwitterで呟くというのは悪手だった、ということなのだろう。
あと、「未来を描いた作品なのだから、現代の価値観で…」云々を言うのは、作者・読者が現代人である限り無意味だ。作品は、作者や受け手の意識の共有によって成り立つのであり、たとえばいかに架空の世界を舞台にしていたとしても、そこに現れるのは「現代の意識」そのものであり、社会が問題にする(作品への支援や共感(プラス)にせよ批判(マイナス)にせよ)のはまさにその点だからだ。
例えば文献資料が少ないなんて言われてるヨーロッパ中世なんて、考古学的手法で発掘調査までやってその時代にあった細かいものまで比較研究で照らし合わせて、中には本当に実際に当時の器物を作ったりして実証したりしてるのに
日本は文献資料や現物さえ残ってるのに、実際の細かい部分に関しては誰も研究しないし何もわかってないんだよね、江戸時代の頃でさえ
だから江戸しぐさみたいなカルトが付け入る隙があるんじゃないの?って思う
例えば弓矢一つとっても、現在日本で使われてる和弓は構造的に江戸時代につくられたもので、それ以前に使われた物は構造や概念はわかっていても、実際どんなだったかって実験してみたりどれくらい使われていたかなんて細かいことを研究してる人がほっとんどいない
イギリスじゃ、大学が機材使ってロングボウの実験とかを行って博物館や子供向けの書籍にフィードバックしてるのに
元寇の時はカミカゼで勝ったとか神話になってるけど、実際は日本側が台風なくとも対策を十分に練って迎撃してたのが知られたのはここ2~30年の話、てつはうの有名な絵だって、加筆されたりしてたの発見したの小学生の素朴な疑問からだし、海外と違って豊富に当時の史料が大量に残ってるのになんでこんな体たらくなのさ、海外の日本文化研究の方が、よほど進んでいる場合さえあるんだぞ
ぶっちゃけ、そういう自国の歴史に対して真摯に向き合わないくせに、大和魂だ世界に誇る日本文化だとか都合よく思想の道具に振りかざさないで欲しいよな
男性の低い声で各地の雨量や各市町村の避難所の場所が伝えられる。雨量が読み上げられる。波の高さ。風速。台風の進路。
「過去、水害時に自宅で亡くなった人の半数は、1階で亡くなっています。今夜はどうぞ2階でお休みください」
淡々と伝えられる書面上の事実の中に、ときおり強い指向性をもった言葉が折り込まれる。ラジオの前のわたしに話しかけている。そう感じる。
過去に人間がこのように死んでいる。だからあなたはそうならぬよう気をつけてほしい。
BGMはない。不安を紛らわす笑いもない。聞こえるのはただ雨と風の強さを示すさまざまな情報と、真摯にこちらを向いて語られる命の危険。
窓の外に目をやる。路面は濡れている。雨が降ったらしい。稲光は見えるが、雷鳴はない。台風の猛威からは遠く、ただ明日の朝は涼しいだろうと考える。
雨が降るたびわたしは、世界が水に沈めばよいと思う。子供の頃から心に描く風景がある。山中のログハウス。暖色の明かりが照らす寝床のそばには小窓がある。雨が打ちつけ、もう何年も止まない。温かいコーヒーを飲んで、わたしはその風景をずっと眺めている。
何かが壊れることに一片の爽快感を覚えない人はいないと思う。悲しい、驚いた、そのもっと奥の純粋なところに、気持ちいい、がある。
本来、自然現象による破壊に悲劇はない。ただし、人間が暮らしている場合はそれに立ち向かわざるを得ない人がおり、それが悲劇を生む。わたしは何も人が死んだり傷付いたりするのが楽しいわけではない。ただ、悪意ない、食い止めようのない力で何かが壊れるのが気持ちいいだけなのだ。
世界が終わっていく時もNHKはきっと放送をしてくれる。緩やかに、あらがいようのない現象によって、私たちは死んでいく。朽ちる大陸、沈む島々、燃える海、狂っていく原子時計、ひび割れる空気、それらをきっと、よく見知った言葉で平易に、淡々と伝えてくれる。終わりが近いことを感じながら眠りにつく。きっと安らかで、わくわくする。
マジレスするけど、自分の好きなイベントであるからこそ中止を希望するという側面もある。
たとえば、1936ベルリンオリンピックは、様々な問題を抱えていたナチスドイツが、それを懸命に糊塗して開いた大会であるが、結局のところ、世界史的には、独裁政権がオリンピックまでプロパガンダの場にした大会、「ヒトラーのオリンピック」として記憶されている。また、1976モントリオール、日本的には1980モスクワ、東側諸国には1984ロサンゼルスのオリンピックは、いずれも諸々の事情により、ボイコット国が続出した大会として、不参加の国の代表にとっては苦い記憶の大会名となっている。
今回の東京大会は、「独裁政権によるプロパガンダ優先」のほか、「全然アンダーコントロールではない原発事情」「世界的なコロナの流行」のため大量ボイコットの危険もある、更に、大会後参加国関係者(中でもその国を代表するアスリート等)が帰国後コロナを発病したりしたとき、「なぜ大会を実行したのか」との批判を受けるリスクも大きい。そして、国内的には、酷暑に対する見込みの甘い対策、過小に見積もられ過ぎたせいでどんどん膨らんでいく予算、延期のせいで更に必要になった予算や他への影響……など、未解決の問題、リスクなどが山積みである。
このような状況にTOPが真摯に向き合い、きちんと方向性を示した上で大会運営を進めた結果、「2020トウキョウ」が素晴らしい記憶とともに刻まれる大会となるなら、応援することもやぶさかではない。だが、現状そういう姿勢は見えず、ただただ「やりたい。コロナリスクなんて反対派の宣伝だ」「ワシの花道を飾りたい(あとのことは知らない)」「選手の気持ちも考えろ(関係者の商売もな)」という、たいそう不誠実な姿勢しか見えないので、残念ながら素直に支援はできない、というのが正直なところだ。現状でやるのは、リスクが高すぎる。「2020トウキョウ」を悪夢の代名詞にしてはならない。現在の自民党政権は、国内でどんな問題が起こってもプロパガンダで握りつぶすことができる、と学習してきたため、失敗を認めて改善するということが大変下手だ。だが、その同じやり方で、世界を巻き込んだ失敗を起こしたら、電通にいくら金を積んでも何の意味もない。日本という国自体が世界から攻撃され、安くみられることになり、今後の経済、外交的に大きなダメージとなる。
むしろ、「開催したい派」の根拠は何なのだろうか? 商売の都合?(経済的にというが、それは極めて短期的な話ではないだろうか?) コロナリスクを低く見積もっているから?(疫病に関する問題は、政治ではなく科学の言葉で語るべきだ) やりかけたことを無駄にしたくないから?(そういう人には「コンコルドの誤り」という逸話を贈ろう) ……いずれも、私には説得力が感じられない。過ちて改むるに憚ることなかれ、という。中止の判断は、一刻でも早ければ早いほどよい、と思う。
メリットをずどどどっと追加されたことに首をかしげちゃう系派遣事務社員です。
有休取得はよっぽど繁忙期でない限り何も言われないし、
理由も聞かれないし、
お昼は一人で食べていいし飲み会は年2回程度だし、
基本定時帰りで社員同士さんの仲も良くて
「いいとこ当たったな~」と思いながら働いてる。
上記のような好条件が義務化されたことに思ったより絶望感が大きい。
具体案はまったく思いつかないけど、
ある程度の資格持ちとか条件ありにしてくれ~って思ってしまう。
触れる権限増えない?
万が一ミスしてもどうせ派遣だから最終的な責任は正社員がとるから大丈夫」
ってある種リラックスしながら取り組めてる現状からはじき出されない?
みたいな疑問符だらけになってる。
すごく良い制度だと思う。
ロンダリングじゃないけど、向上心がある人はそれでいいと思う。
私みたいな「とりあえず生活に困らなければいい、仕事にストレス積み上げたくない」
好条件激務<低条件なまぬる
って人には「非正規だけど正社員と同じ待遇だから正社員並みの仕事してね!」
って言われるリスク高くなる今回の派遣法改正はちょっとした絶望感。
っていうのを今年の3月だか4月辺りに書いてエントリせずに残ってた。ので供養上げ。
今のとこ超激務にはなってないけどコロナでどうなるやら。
派遣切りはなさそうなんだけど、どっちにしろ来年で期間切れるから
次のとこってなるけど派遣先が激減してるしなー
ある種の衝動的な思考であり書き留めないと経験として正しく蓄積できなさそうなのと、人の目に触れさせることで将来子供の役に立つかもしれないのとで、ここに記す。
先に断っておくが、誰が悪いという話ではなく、自己分析のようなものである。
直接のきっかけはパートナーがこちらの譲歩を引き出す交渉条件として「離婚する?」「そんなこと言ったら離婚するしか無いじゃない」といった物言いを2-3ヶ月に1度するようになったこと。2度までは「離婚の前に取れる段階はないのか」「離婚したらどういった生活が待っているのか」「子供や親はどうなるのか」など真摯に話していたが、何度も終わった話を蒸し返すので「そんなに言うなら離婚しよう」ということになった。相手の本気度はまだ読めない、まだ交渉材料として出しているだけかもしれない。
また結婚してしばらくは必要だと思って相手に限りなく譲歩していたのだが、このとき理不尽な要求だと私に見えるものを無理して飲んだことで、結局私の中に「この人は私のあり方を見ていない」「空想のパートナー像を押し付けている」「都合が悪くなれば私をいじめる」という理解が醸成されてしまい、私が離婚に逃げる口実を増やす結果になった。譲歩の期間そのものは相手が友人と相談した結果、私に過度な期待しなくなったことで終わったのだが、私の中にはこうしたしこりが長く残ることになった。数年後にもグチグチ言うほどとは、自分でも驚いている。譲歩自体はふたつの家・価値観がひとつになる過程でどうしても必要なのだが、譲歩しすぎたのが良くなかった。
家をひとつにするというのは非常に難しいことで、私と相手の親、相手と私の親は結局険悪なままだった。文化や常識を共有しないので、あちらも私に共感できないし、こちらも子供を見る上での労働力としてしか勘定しなくなった。互いに自らの親を担当することで表面上は事なきを得ていたが、より高齢になり介護をする日が来たら致命的になっていた可能性は高い。
最後に相手の無防備な姿を見すぎて性的魅力を感じなくなったこと、相手の魅力的に感じていた性格が失われたことが大きい。魅力があれば自分の非を認めて、あるいは傾聴を通じて相手を深く理解しようという思いも出るが、結婚した相手であるという義務感だけでは関係を維持するのは難しかった。お互いに歳を重ねたことも無関係ではないだろう。
核家族で子供を育てることはとても難しい。体の悪い親に頼るのは限界がある。親や家政婦、ベビーシッターは保護者ではないので、真の代わりにはなれない。例えば最近雇っていた家政婦は、不要だと言っても必ず子供が夕食を食べるのを手伝ってしまう。自分で食べさせろと何度言っても、手伝ったほうが仕事が楽なので、そちらを選ぶ。おもちゃの片付けもそう。家庭での教育は、親にしかできない。
そして親であることは24時間営業なので、休めない。パートナーが出張だったり休日出勤だったりすると自分の休める時間が無くなって詰む。つらい。自分の親が普通にやっていたこと、周りの家庭で当たり前のように行われていることが、ここまで辛いものだとは想像していなかった。片親の家庭はいったいどうしているんだ。
私もパートナーも子供が嫌いなのではなく、むしろ好きなのだが、言葉が通じる年になり力が付きワガママを暴力で通そうとする歳になると一気にストレスになる。1日中張り付いて自分の時間がなくなる。教育上重要な期間であるという知識がより重荷になる。ドラえもんのようにスイッチを切ることができたら良いのに、子供も他人なのだから自分の人生こそを大切にするべきなのではと、毎週のように思っている。
私が「自分の時間」の枯渇を強烈に忌避する存在だとは思っていなかった。
私が親の義務・責任に耐えられないほど我儘な存在だとは思っていなかった。
私が子供の戯言を笑って流すことのできない狭量な大人だとは思っていなかった。
私が家族がいることでキャリアの幅が狭まることを嘆くような頓珍漢だとは思っていなかった。
教育や家族との交流を、家族サービスを飛び越えて自己犠牲だと受け止めてしまう。優しい家庭で育った自分がこうした発想に至るとは、思っていなかった。
相手が離婚というワードを使うようになったきっかけはわかっていない。不倫ドラマの見すぎではないかという気はしているが、知性的な相手なのでそれだけではないだろう。
想像ではあるが、相手の親が離婚経験者なので、離婚が選択肢として常に無意識の中にあるのだと思う。私は離婚というものは選択肢どころか存在として頭にないので、こういうワードを出してくる相手に驚き、憤り、呆れてしまう。結婚式での誓いは何だったのかと。この相手の「親が離婚した」という経験を、もっと紐解いて解消することができるならば、それが一番だったかもしれない。
今でも、結婚した判断は誤っていなかったと思う。年齢的にもキャリア形成上でも、あれがベストのタイミングだったし相手だった。魅力も自分との相性も十二分な相手に巡り会えた。子供を授かったことも嬉しかったし、今でも誇りに思っている。ではどうすれば良かったのか。
恋愛経験を積む。それにより事前に知ることができたであろう自分の癖や交渉術は、ある程度存在する。可能かどうかは別として、もっと人との関わりを学ぶことに時間を投資すべきだった。
子育てを感じる。比較的晩婚だったので、同年代からも子育てのリアルを聞くことは十分可能だっただろう。他にも託児所や学童でバイトするとか、年下の兄弟の言動を見ておくとか、やりようはいくらでもあったと思う。子供の可愛さばかり見ていて、その裏の複雑さを見ていなかった。
適度に自分の都合を通す。今回は最初に相手を優先して、堪忍袋の緒が切れてから我を貫くようになったので、落差が大きすぎ最適な譲る量を見極められなかった。相手からしたら、普段は静かだが急に怒り出し我儘になる人間に見える。「それはちょっと嫌だな」「こういう風にはできない?」といった軽い表明を小出しにしていくべきだったのだろう。
ワンルームに住むのをやめる。ワンルームは相手の無防備な姿を見るきっかけを増やす。相手に性的魅力を感じなくなっていく。セックスレスになる、そのことを当然だと思うようになる。自分の時間を増やすために交流を減らすことを厭わなくなる。自分の部屋を持つこと、相手の部屋を作ること、共有エリアでは家族相手といえど節度ある服装でいることを家族内でルールとする方が良い。自分の魅力を保つために、食事や運動や学習に継続的に投資することも必要だ。
魅力魅力とバカのひとつ覚えのように書いたが、これが一番重要だと真面目に思っている。互いに魅力を感じる仲を保ちさえすれば、困難を乗り越える家庭になったのではないか。魅力がなくなり義務感だけでつながるようになると、思い出も色褪せるもので、自分に不利な契約をしてしまったビジネスパートナーとやりとりしているような気分にさせられる。自分の時間がなくなることと合わさって、自分は一体何をしているのだという虚無感に苛まれる。つらい。
https://news.yahoo.co.jp/articles/524aefaaed1f321543d1be1497fe6088ed594303
コメント欄での、教員には情報共有の必要があるんだから生徒には嘘ついてもばれなきゃいい・無断で約束破ってもばれないようにすればいい、みたいな考え方にすごく嫌だ。悲しい。
10代の悩める子が、ほんとうに真剣で深刻で真正な気持ちで先生を信頼したんだ。だからこそ秘密を打ち明けた。その信頼に真摯に応えようよ。軽んじるなよ。
教員間で情報共有は必要だってのはわかる。だったら、そのことを事前に伝えて同意をとったり話し合ったりすることが、この場合最も真摯だと思うし、それ以外はないだろう。
生徒指導教諭に対し『「担任と学年主任の教諭以外には他言せず、話が広まらないようにしてほしい」と伝えた。』のに、無断で多数の教員と情報共有するのは、そのピュアな気持ちに対する裏切りだよ。
つまり相談された教員以外の、情報の周知にて知った教員は最後まで知らないふりを貫くのが大事だと。いやいや、そこじゃないだろ、本質は。その手前で生徒の同意を得ておけば、知らないふりなど必要ないんだから。
嘘に慣れ過ぎじゃない?必要ない嘘も許容してないか?どうしても本人には知らせないとか知らないふりする必要がある状況って本件に限らず発生し得るが、今回はその必要ないでしょ。
教師が知らないうちに裏切っているかもしれない、あるいは裏切っただなんて、ショックすぎるよ。
記事の生徒は『驚きと不安』が募ったということだが、2度と先生・大人、ひいては他人を信頼しなくなる子だって沢山いるだろう。
ロリコンに和姦はある
13歳以上の真摯な恋愛~ は脇に置いても、成人とセックスすることはできる
性的指向に沿ったものにはならないが、出来るか否かなら、できる
だったら何だ、と思ったやつに逆に聞きたい
「ロリコンに和姦はない」って言うことで、何がいいたいの?
ペド野郎は必ず「特別な子だった」「真摯な恋愛だった」と言う。
苦しいのは分かるが、自分のを肯定することは被害者を生み出すことになると知れ。
耐えられなくなったらLOを読め。
同じ苦しみを抱えてる人たちと一緒なら耐えられる。
※被害の訴えなど緊急性の高いものは除く。(大人にも通常行う真偽判定は必要。)
高校生など未成年との性的関係は、同意があったとしても(「真摯な恋愛感情に基づくもの」と主張したとしても)、淫行として処罰される可能性がある。
なぜか?法的解釈では未成年は「心身の未成熟」であり、「それに乗じた」同意は無効だよね、マインドコントロールだよね、ということだからである。
そう、未成年は個体差はあれ、心身が未成熟なのである。そういうことになっている。事実、そういう根拠に基づいて罰を受けた者がいる。(婚姻までいくとやっと認められる)
故に、未成年が述べる意見というのは「心身の未成熟」に乗じて、他の成熟した大人が刷り込んだものである可能性が高い。恋愛感情がそうなのだから、当該者にとってエモーショナルな意見ほどそう見るべきだ。
それを未成年自身が「自分の意見」だと言っても、それは認めるべきではないのである。なぜなら「未成熟」だから。そういうことになっている。
身近で留まる場合は「子供の言うことだから」と無効化が働くことがままあるが、ひとたびメディアに流れればその言葉は大人の主張よりも人の印象に残る。大人からの反論は「大人げない」という悪印象により阻害もされる。
前述の通り未成年は「未成熟」であり、その意見とは基本的に「未成熟」に乗じて刷り込まれた大人の意見である可能性が高い。
未成年という属性を利用して未成年に外に向けて主張させることは、「未成年性の搾取」に他ならない。
当該未成年が成人して成熟したとき、自らの主張を自らで恥じ、精神的苦痛を抱えるもしくは自己正当化のために過激化し新たな「未成年性」を利用する危険性もある。
大人はこういったことから未成年を守らなければならない。だから自分の意見(だと思っている大人の意見)を大っぴらに言うようなことは、諸未成年のために阻止・無効化すべき(できれば優しく諭すべき)なのである。
https://note.com/yo_tsu_ya_3/n/neda17138f9f7
ロリコン・ショタコンを叩く連中が持つ差別心とその自覚の無さにほとほと呆れている。
上記noteでは「性的指向」と「性的嗜好」を分け、「性的嗜好」に過ぎない「小児性愛」の持つ加害性を自覚して自重しろと迫ってくる。
小児性愛は「性的嗜好」である。性的行動の対象にその人固有の特徴がある、という意味で、簡単に言えば「好みやこだわり」に分類される。ジェンダー間での、性的魅力を感じるパターンや性的なアイデンティティを指す「性的指向」とは全く異なる。
確かに「小児性愛」はアメリカ精神医学会やWHOによる定義で「性的嗜好」に分類され、精神障害とされている。
しかし「同性愛」もアメリカ精神医学会には1974年まで、WHOに至っては1993年まで「性的嗜好」であり精神障害だとされてきた。
現在「小児性愛」を「性的嗜好」で病気だと叩く人間は30~50年前だったら「同性愛」を「性的嗜好」であり病気だと叩く人間であろう。戦中であれば戦争反対を唱える者には非国民と罵声を浴びせたことだろうし、1950年代には漫画を悪書として校庭で焼いたであろう。
「同性愛」や「漫画」が今現在差別されなくなってきたのはこの50年の間に人類が賢くなって差別しなくなってきたからだろうか?
否である。「同性愛」や「漫画」が「逸脱ではない」という空気が醸成されたからにすぎず、社会的に逸脱しているとされる対象に対しては差別を続けている。差別はなくなったのではなく、矛先が変わっただけである。
上記note筆者は「小児性愛」の対象は社会的弱者である子どもなのだから実際に行えば直ちに犯罪だ、とも言っている。
当たり前だ。
ここに関しては掘り下げるときりがないのでサックリといくけども、精神が未発達の児童と成人が恋愛関係を達成する、ましてや性的な接触を行うことは、明確に児童の人権侵害に当たる。なので法で禁じられている。ここですでに「?」な人は、ちょっとどうしようもないので自分で色々調べてくれ。
人に云々言う前にお前が調べろという感じだが、日本の刑法で規定されている性的同意年齢は男女ともに13歳以上だ。児童福祉法とも関連があるから全てが合法というわけではないが(というか現実的に発生する18歳未満との性交の多くは違法だろうが)、相手が成人年齢を下回っている場合ただちに犯罪に当たるわけではない。その実態が問われる。
騒動の発端となったショタドール所持者がどうかはさておき、上記のような言い切りは「真摯な恋愛」をしている人に対する「無理解さ」の露呈であり、直球の「差別」である。
そして極めつけはこれである。
小児性愛という嗜好を社会へ受け入れてほしいならば、当事者たちが「そんじょそこらの大人より児童の人権に配慮する」姿勢が必要ではないか。
黒人青年が母から言われた「16のやってはいけないこと」が、黒人にとって警察がどれほど脅威かを教えてくれる
https://www.huffingtonpost.jp/entry/unwritten-rules-black-man-follow_jp_5edb3ee5c5b6a80a46d465f7
差別のない社会とは、同性愛者や黒人のようなマイノリティとされる立場の人がそれ以外の人と同じような行動を、なんら躊躇なくなんら留保なくなんら呵責なく行える社会である。同性愛者だから、黒人だから、とそれ以外の人より注意しなければならない社会は公平ではない。
こういうことを言うと、同性愛者や黒人と小児性愛者を並べるなと激怒する人間がいる。
しかし未成年との性交がただちに犯罪となわるけではなく、実際の様態に拠る以上、小児性愛者=犯罪者予備軍であるかのような言動は慎むべきであろう。
そしてかつては元服が11~16歳前後で行われていたように、成人とみなされる年齢も社会的相対性を伴うものであって、今後社会や科学の発展によって子どもの社会的成熟が早まらないとも限らない。50年前は同性愛が病気とされていたように、社会の常識や観念は変動しうる物と理解した上で、当たり前とされることから「逸脱」する者も包摂することが差別のない社会であり、今我々が真に求めるべきものではないか。
小児性愛者は病気であり、小児性愛者以外の人間より慎重に生きろ、そうでなければ社会は認めてくれないぞ、と脅してくる人間は1974年より以前の世界では同性愛がどういう扱いだったのか調べた上で己の差別心とその無自覚さに向き合ってほしい。
はてブの人らみんな勘違いしてるけど、別に安倍晋三は好かれてないんだよなあ。嫌われてないだけ
安倍首相お疲れ様みたいなSNSの投稿がバズってても、次期首相は誰がいいかってアンケで内閣の菅を差し置いて石破がトップだったり
支持率は過半数を超えてるような時期でも個別の政策評価では主だった政策が軒並みネガティブな評価が下されてたりするの見たら分かるじゃん
説教臭いしやることもちょっとズレてる上司とかいて、部下の間じゃ頻繁にそいつの愚痴で盛り上がるけど、定年退職する段になったら気を利かせて寄せ書きとか書いてみたり一丁前に寂しくなりますねみたいな挨拶したりして円満ムード出してあげるじゃん
で、退職後はしっかりみんな清々した気分でいるっていう。あれと一緒なんだよな
熱心に安倍批判記事とかホッテントリに上げてるけど、そうじゃないんだよ
別にみんな本気でねぎらってるわけじゃないし、感謝してるわけでもないんだって
実際のところ、安倍首相がどんなことをやらかしたのかに無関心なのと同じくらい、安倍首相がどんなことをやってくれたのかにも興味ないし別に知りたくもないんだよ
ここまで今の首相の一挙一動を逐一把握してそのために一喜一憂してあげてる連中って、ほんと政治家連中以外でははてブ民くらいなんだよな
正直言って、SNSでお疲れ様とか投稿してキャッキャしてる連中よりお前らのほうがよっぽど安倍晋三に対して真摯だったんだじゃないかとすら思えてくるわ
俺だけははてブで喚いてる連中を褒めてやりてえよ。お前らえらいよ
言いたいことは全部書いたつもり。
文章が長くてごめんなさい。
【概要】
この署名の目的は、株式会社集英社に特定の要求をするものではありません。
署名の主眼は、少年ジャンプを応援し作品を応援する人がこれだけの数いるのだと、集英社に知って頂く事にあります。
暴力や性、悪意といった汚いものを描いたフィクションが、傷つき抑圧された誰かの心を浄化・解放して救う事が確かにあります。
いろいろな批判は真摯に受け止めても、クレームには安易に負けないで下さい。
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昨今、少年ジャンプの漫画作品について、暴力シーンやお色気(性的と取れる)シーンを含む描写に批判の声がインターネット上であがっています。
そのうちのいくつかは、マンガ表現が読者に悪影響を与え現実の差別や犯罪を助長するのではないかという想像を根拠とし、治安向上のために表現の改変や規制を望む声が多く含まれます。
漫画作品が読者にどのような影響を与えるかは複雑で予想がつかないと同時に、一定の責任が付随するものと私も考えています。
しかし同時に、集英社様には安易にクレームに負けて作品取り下げや改変などといった性急な判断を下す事なく、漫画が果たしている様々な社会的貢献と責任について、あくまで慎重に考え判断してほしい、そして私達の愛する作品をどうか守って欲しいと願っています。
(※自分語りが入る事をお許し下さい。読み飛ばして下さってもあまり問題無いです。)
このような考えを私が持つに至った理由は個人的な経験に由来します。
まず私は少年ジャンプのラブコメ作品を正直あまり好きではありません。
おそらく一般家庭よりも性的に抑圧された教育を受け、また一方で性的嫌がらせとも言えるとても不快な行為を幼児期に経験してトラウマを抱えた私は、気が付けば「強い女性に男性が支配され傅き、あるいは苦しめられる描写」を愛好するようになり、恋愛もののフィクションでもそのような人間関係描写に憧れ、またポルノでもそういったジャンルでしか興奮できないようになっていました。
そんな私にとって、世の中のポルノに限らず純愛と呼ばれる恋愛ドラマ、ラブコメの殆どは生理的に不快なものとして映ります。少年ジャンプのラブコメ漫画も例外ではありません。昔から男女間の軽いセクハラを嫌悪し、純愛ラブストーリーにしらけ、ラッキースケベと呼ばれる不自然な性的描写にも眉をしかめていました。
しかしそれは、私のごく個人的な嗜好の問題に過ぎない事も強く自覚していました。
なぜなら、逆に女性が男性に暴力を振るうという暴力的・性的なフィクションがたしかに私の心を救ってくれて、汚いものを好み申し訳ない存在だと思っていた私でもこの世界に存在しても良いのだという自己受容を得る事ができたからです。辛い子供時代を過ごした私にとって、これは確かに必要なものだったのです。
私が価値観の違う他人を尊重し、その心情や痛みを想像する事を覚え、また卑屈にもならず自分の心を守る事ができる様になったのは、その自己受容のお陰による所が大きいです。
しかし私の「見たくない権利」を過度に押し通せば、大勢の人の「見たい権利」を侵害する事になります。
だから私は「見ない努力」をし「見ない自由」をできる限り行使して日々過ごしています。
【皆さんにお伝えしたい事】
私にとって、少年ジャンプには好きな漫画もたくさんありますが、個人的に不快に思う漫画も沢山あります。
純愛・健全と呼ばれるエロやお色気を嫌悪し、インモラルとも言える暴力・性愛を描いたフィクションに心を救われた私だからこそ、
暴力的・反社会的な表現が、抑圧された誰かの心を浄化・開放する事を知っています。
私の心を不快にする表現が、他の誰かの自殺を食い止め生きる希望を与えている事を知っています。
ハラスメントや暴力、性的描写をフィクションとして消費しながら、同時に人と健全な関係を築き、お互いを尊重し合う事ができる事を知っています。
エロに「健全なエロ」と「不健全なエロ」といった単純な区分など本当はできない事を知っています。
フィクションの表現が読者にどんな影響を与え、時に狂わせるかは製作者にもコントロール不能な難しい問題だと思います。
ジョン・レノンを殺害した犯人がライ麦畑を愛読し、コロンバイン高校射殺事件の犯人がマリリン・マンソンを愛聴していた様にです。(※賛同者さまからご指摘を頂いたので訂正します。当時メディアによって犯人がマンソン愛好者だと報道されバッシングが行われましたが、これは後にデマだった事が発覚しており事実無根のようです。)
刺激的で過激なフィクションが人の認知を歪め犯罪に走らせ、世の中を悪くする可能性が100%無いとは私は思いません。そういう事もあるのかも知れません。
しかし私は「事はそんなに単純ではない」と言いたい。
特定の表現を規制したから悪影響が減る、といったシンプルな考え方は思慮に欠け危険なものだと思います。
【最後に】
暴力や性、悪意といった汚いものを描いたフィクションが、傷つき抑圧された誰かの心を浄化・解放して救う事が確かにあります。
いろいろな批判は真摯に受け止めても、クレームには安易に負けないで下さい。
世の中の大勢の少年少女が読むであろう漫画を出版する企業として、本当の意味での責任は何なのか、深く考えて頂ければと思います。
もし私達がなにか問題を起こしたとしても、それは少年ジャンプのせいではありません。私達がもっと勉強すべきだったのです。
前提として、ロリエの広告を肯定する立場ではないということを明確にしておく。
自分は婦人科系の疾患で生理がものすごく重く、つらく、病院通いでお金も労力も精神も体力も摩耗した経験があり、生理についてそれなりに思うところがある。
ロリエの広告も見たけど、多くの人の反応と同様に「そうじゃないんだよな」と思った。
ただ、今回のロリエ広告への厳しい批判についても思うところがある。
もちろん、意見としては当然出てくるものだと思うし、RT数から見ても多くの人が同意を持っていることはわかる。
「生理を個性としてとらえさせようとするメーカーのせいでもっと生きづらくなる」「女のしんどさをキラキラで覆うな」「ロリエはもう使いたくない」「生理用品の税率10%はおかしい、政治家へメッセージを発信すべき」「生理を女だけの問題にしないで」「パッケージを男性がデザイン?女性にさせてほしかった」・・・・・・
うん・・・言いたいことはわかるし、意見が間違っているとは思わないけど、それはTwitterで文句言わなくて企業に直接メールなりすれば?と思ってしまう。
どれだけ影響力のある人なのかわからないけど、たとえフォロワー何万人レベルの人だとしても、Twitterでつぶやいた言葉が企業に直接届くと思ってるなら傲慢かなと思う。
本当に大きな問題で、変化するべきだと思うなら、届くかどうかもわからないTwitterで吠えたり、RTだけして済ませるんじゃなくて、自分の真摯な意見を企業に送ればいい。
そのうえで「こう思ったから、こんな風に企業に連絡しました」「そしたらこういう対応でした」と冷静に教えてくれたほうが有意義だなと思う。
真摯なご返信を読ませていただき、刺さるところがいくつもありました。
これはまさしくその通りで、何も主張しないのは責任から逃れる態度だということを以前子供に話した事があります。家庭内ではそこまでではないのですが、学校では「波風立てない」でやり過ごすのを処世術にしているというか…。
「私に決断をさせるな!」
こういう、けれん味のある表現はお年頃もあって好きかもしれません。作文を苦行ではなく楽しむのに効きそうです!
他人がどう思うか、を考えられるのはとても優しいお子さんなんだと思う。(中略)そこを褒めてみてほしい。
これは私には全くなかった視点で驚きました。色々な立場を考えるのは公平性とか可能性列挙癖のように捉えていました、が、おっしゃる通り優しさから他人の心を考えているのかも…。
ほかの部分も、とてもとても参考になりました。
本と関連「付けない」自分語り…
関連付けないことを意識するとまた荒れそうですが、自分語り自体はすることもある子供なので、できるかもしれません。
増田先生のおかげで、まだ試したことのない引き出しが増えて、多少(私が)落ち着きました。作文を書くのは子供なのに、親が勝手に焦っていました…。
これ書いた人。せっかくヨルシカのただ君に晴れを好きと言ったので、好き長文も書いてみる。
私の年代でギター伴奏・バンドサウンドのボーカル曲作ろうとしたら、カッコいいリフを作るところから始まると思う。リフ一発で黙らせる強さが欲しい。米津玄師のLOSERなんて、それこそ現代的でリフがかっこよくて歌謡曲要素もありながら韻踏みのラップ要素も違和感なく突っ込んでポンキッキーズのオマージュまで入れるように肩の力の抜きかたまで分かってる、老練な作曲家が「今の時代ならコレっしょ」と作るような曲を体現したような曲だ。サビのとこのクッソかっこいいマイナー→メジャーの転調の話とかもしたいが、主題じゃないので割愛。
この曲の良いところは、歌詞と声だ。suisの声の良さはもはや全国6兆人のsuisファンが語り尽くしてるからいいだろう。歌詞だ。全体としては「あの夏」の君の思い出を思い返している曲だ。「夏日 乾いた雲 山桜桃梅 錆びた標識」の名詞を紡いでいく歌詞なんかはボサノヴァの金字塔、アントニオ・カルロス・ジョビンの三月の水を彷彿とさせる。この時点で美しい、美しかった光景を書こうとしている意思は伝わってくる。「絶えず君のいこふ 記憶に夏野の石一つ」の、文学性とオリジナリティを損なわない程度の引用とか、凄く綺麗でうまいと思う。
そして曲名にもなっている「ただ君に晴れ」だ。実は曲中では1回しか出てこない。そして、その周りの詩だけ読むと、「ただ君に晴れ」は「ただ君と晴れの日だけが思い出にある」という意味にしか読み解けないようになっている。しかし、全体を通して曲を聞くとこの「ただ君に晴れ」は、「君にただ晴れの日があらんことを」という祈りにしか聞こえなくなってくるのだ。どちらも、極限まで短くすると「ただ君に晴れ」の6文字になる。どちらが正しいか?はPVに書いてある。後者だ。願わくば、PVにすら書かずに、誰にも真実を明かさないのに、誰もが後者と受け取るような芸術を見せてほしかった。ちなみに言っておくと、Youtubeの英語版タイトルが「Just a sunny day for you」になっているが、これは間違い。作者公式の英語タイトルは「Cloudless」。快晴である。このダブルミーニングなのに誰もが真意を読み取ることになる、それこそYoutubeの翻訳した人が真意の翻訳をできるくらいには、エモが過ぎる曲なのだ。他の歌詞は、いかにも内省的な、語彙貧弱な私が言ってしまえば陰キャじみた独りよがりな歌詞なのだが、「ただ君に晴れの日があらんことを」という真摯な祈りだけは恐ろしく真摯に聞こえるのだ。祈りというのは恐ろしくも、人が生きゆく、死にゆく際に最後に残るものだ。「幸あれ」という祈りは、般若心経の頃から連綿と続く歌の真意の1つである。人に、自分に祈るということこそ、音楽の、詩の、本質かもしれない。
ここまで読んでくれてありがとうございます。どうか皆々様に幸あれ。そして私の嫌いな者たち、最近やたら暑いですね。どうか晴れの日のあらんことを。