男性の低い声で各地の雨量や各市町村の避難所の場所が伝えられる。雨量が読み上げられる。波の高さ。風速。台風の進路。
「過去、水害時に自宅で亡くなった人の半数は、1階で亡くなっています。今夜はどうぞ2階でお休みください」
淡々と伝えられる書面上の事実の中に、ときおり強い指向性をもった言葉が折り込まれる。ラジオの前のわたしに話しかけている。そう感じる。
過去に人間がこのように死んでいる。だからあなたはそうならぬよう気をつけてほしい。
BGMはない。不安を紛らわす笑いもない。聞こえるのはただ雨と風の強さを示すさまざまな情報と、真摯にこちらを向いて語られる命の危険。
窓の外に目をやる。路面は濡れている。雨が降ったらしい。稲光は見えるが、雷鳴はない。台風の猛威からは遠く、ただ明日の朝は涼しいだろうと考える。
雨が降るたびわたしは、世界が水に沈めばよいと思う。子供の頃から心に描く風景がある。山中のログハウス。暖色の明かりが照らす寝床のそばには小窓がある。雨が打ちつけ、もう何年も止まない。温かいコーヒーを飲んで、わたしはその風景をずっと眺めている。
何かが壊れることに一片の爽快感を覚えない人はいないと思う。悲しい、驚いた、そのもっと奥の純粋なところに、気持ちいい、がある。
本来、自然現象による破壊に悲劇はない。ただし、人間が暮らしている場合はそれに立ち向かわざるを得ない人がおり、それが悲劇を生む。わたしは何も人が死んだり傷付いたりするのが楽しいわけではない。ただ、悪意ない、食い止めようのない力で何かが壊れるのが気持ちいいだけなのだ。
世界が終わっていく時もNHKはきっと放送をしてくれる。緩やかに、あらがいようのない現象によって、私たちは死んでいく。朽ちる大陸、沈む島々、燃える海、狂っていく原子時計、ひび割れる空気、それらをきっと、よく見知った言葉で平易に、淡々と伝えてくれる。終わりが近いことを感じながら眠りにつく。きっと安らかで、わくわくする。