はてなキーワード: 高野山とは
黒田騒動(くろだそうどう)は、江戸時代前期に福岡藩で発生したお家騒動。栗山大膳事件(くりやまだいぜんじけん)ともいう。伊達騒動、加賀騒動または仙石騒動とともに三大お家騒動と呼ばれる。他の御家騒動では処分時に死者が出ているが、黒田騒動ではお預けなどはあったものの、死者は出なかった。
経緯
黒田長政は世継ぎ継承にあたり長男・忠之の狭器と粗暴な性格を憂い、三男の長興に家督を譲ると決めて忠之に書状を送る。書状には2千石の田地で百姓をするか、1万両を与えるから関西で商人になるか、千石の知行で一寺建立して僧侶になるか、と非常に厳しいものであった。これに後見役の栗山大膳は、辱めを受けるのなら切腹をとの対応を忠之に勧める。そして600石以上2千石未満の藩士の嫡子たちを集め、長政に対して廃嫡を取りやめなければ全員切腹すると血判状をとった。この事態を重く見た長政は嘆願を受け入れ、大膳を後見役に頼んだ後に死去した。そこで大膳は忠之に諌書を送ったが、これが飲酒の心得や早寝早起きなど子供を諭すような内容だったため、忠之は大膳に対し立腹し、次第に距離を置くようになる。忠之は寛永元年(1624年)に藩主就任早々、忠之及びその側近と、筆頭家老であった大膳はじめ宿老達との間に軋轢を生じさせ、生前の長政が憂いていたとおりに御家騒動へと発展した。忠之は小姓から仕えていた倉八十太夫(くらはち じゅうだゆう。名は正俊、または家頼)を側近として抱え、1万石の大身とした。そして十太夫に命じて豪華な大船「鳳凰丸」を建造。さらに200人の足軽を新規に雇い入れるなど、軍縮の時代にあってそれに逆行する暴政を行った。これにより遂に藩は幕府より咎めを受けるに至った。
大膳も寛永9年(1632年)6月、忠之が幕府転覆を狙っていると幕府に上訴した。藩側は「大膳は狂人である」との主張を行い、寛永10年(1633年)2月、将軍徳川家光が直々に裁いた結果、忠之の藩側の主張を認め、所領安堵の触れを出し、10年に及ぶ抗争に幕を閉じた。大膳は騒動の責を負って陸奥盛岡藩預かりとなり、十太夫も高野山に追放された。なお、十太夫は島原の乱で黒田家に陣借りして鎮圧軍に従軍したが、さしたる戦功は挙げられず、黒田家復帰はならなかった。のち上方で死去したという。十太夫の孫・倉八宅兵衛に至り、ようやく再仕官を許されている。なお、この時に盛岡藩へ預かりとなった栗山大膳は、藩祖・黒田如水所用の兜も一緒に持参した。現在、もりおか歴史文化館に所蔵されている。
題材にした作品
江戸時代中期には江戸中村座などにて黒田騒動を題材にした歌舞伎が数多く上演された。最初は瀬川如皐作、外題『御伽譚博多新織』。のちに河竹黙阿弥により狂言『黒白論織分博多』として加筆集約化された。また幕末には合巻としては最長編である『しらぬひ譚』も歌舞伎化され、こちらも大好評を博した。
また、この事件を森鷗外が小説『栗山大膳』において、改易を危惧した大膳が黒田家を守るために尋問の場で訴えたとして脚色して描いている。十太夫は、島原の乱で一揆軍に加わり戦死したことになっている。滝口康彦の小説『主家滅ぶべし』では、利章は真面目で実直なものの、その忠義も独善的であるため主君と家中から疎まれてしまい、忠臣としての自身を保つために引き起こしたものとして描かれている。
齢29、既婚子持ち、社会人7年目。年々、「推し」ができなくなってきた。
思えば中学の頃にオタクに目覚めてからずっと推しがいた。推したちは私を時間も忘れるほど熱中させ、妄想させ、創作させ、心動かした。
推しのために聖地巡礼とし、一人で特急に乗って高野山に行った。知らない人ばかりのオフ会に参加した。ライブに行くために夜行バスに乗った。あんなに引っ込み思案で出不精だった私を外の世界へ引きずり出した推したち。
それが今はどうだ。忙しい?体力の衰え?老化(年上キャラが好きなので自分の加齢とともにストライクゾーンも上昇してく)?新たな推しに出会えなくなってしまった。
今までの推したちの存在がどうでもよくなったわけではない。ただ、私の場合推しとの付き合いはカップルのようなもので、
アツアツ期(出会いたて、鬼のようにコンテンツを漁る)→倦怠期(いったん落ち着く)→熟年夫婦期(さざ波のように穏やかに推しを眺める。アツアツ期ほどの情熱はないが燃料が投下されると一瞬燃える)
なので今まで出会った推したちは熟年夫婦期に到達している。私が出会いたいのはアツアツ期を堪能できる推しだ。
熱中できる推しに出会えることを期待して、一応毎期気になったアニメは観るしゲームも欲しいのがあれば買う。漫画も買う。しかしどれも、ストーリーが気になったり考察読んだりしはするけれど、アツアツには至らない。
新しい推しをどんどん発掘している友人が羨ましい。誰か何か現実以外のもの・現実から離れたものに熱中したい。過去資料集めに奔走したあの頃、1日に何時間もそのコンテンツを摂取していたあの頃が懐かしい。推しの存在で一喜一憂することのない平坦な日常がさみしい。
私生活に不満があるわけではない。かわいい子供にもいい配偶者にも恵まれている。ただ、それは最近つくられた家庭人としての私の話(要は新規レイヤー)。かつて私が推しに熱中するオタクという姿はアイデンティティだった。そんな私、家庭人という層ができる前の私はどこへ?推しに目を輝かせる私を基礎に家庭人の層が重なって私を作り上げているのに、基礎がなってない今の私は何?
信長というと、短気で気分しだいで人を殺していたとか思われがちだが、
20年来の宿老の佐久間信盛を解任する際も、暴君なら理由もなしに追い払ってしまうものだが、
信長は以下の長文をわざわざ直筆で書いている。
一、佐久間信盛・信栄親子は天王寺城に五年間在城しながら何の功績もあげていない。世間では不審に思っており、自分にも思い当たることがあり、口惜しい思いをしている。
一、信盛らの気持ちを推し量るに、石山本願寺を大敵と考え、戦もせず調略もせず、ただ城の守りを堅めておれば、相手は坊主であることだし、何年かすればゆくゆくは信長の威光によって出ていくであろうと考え、戦いを挑まなかったのであろうか。武者の道というものはそういうものではない。勝敗の機を見極め一戦を遂げれば、信長にとっても佐久間親子にとっても兵卒の在陣の労苦も解かれてまことに本意なことであったのに、一方的な思慮で持久戦に固執し続けたことは分別もなく浅はかなことである。
一、丹波国での明智光秀の働きはめざましく天下に面目をほどこした。羽柴秀吉の数カ国における働きも比類なし。池田恒興は少禄の身であるが、花隈城を時間も掛けず攻略し天下に名誉を施した。これを以て信盛も奮起し、一廉の働きをすべきであろう。
一、柴田勝家もこれらの働きを聞いて、越前一国を領有しながら手柄がなくては評判も悪かろうと気遣いし、この春加賀へ侵攻し平定した。
一、戦いで期待通りの働きができないなら、人を使って謀略などをこらし、足りない所を信長に報告し意見を聞きに来るべきなのに、五年間それすらないのは怠慢で、けしからぬことである。
一、信盛の与力・保田知宗の書状には「本願寺に籠もる一揆衆を倒せば他の小城の一揆衆もおおかた退散するであろう」とあり、信盛親子も連判している。今まで一度もそうした報告もないのにこうした書状を送ってくるというのは、自分のくるしい立場をかわすため、あれこれ言い訳をしているのではないか。
一、信盛は家中に於いては特別な待遇を受けている。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉に、根来衆を加えれば紀伊にもと七ヶ国から与力をあたえられている。これに自身の配下を加えれば、どう戦おうともこれほど落ち度を取ることはなかっただろう。
一、水野信元死後の刈谷を与えておいたので、家臣も増えたかと思えばそうではなく、それどころか水野の旧臣を追放してしまった。それでも跡目を新たに設けるなら前と同じ数の家臣を確保できるはずだが、1人も家臣を召し抱えていなかったのなら、追放した水野の旧臣の知行を信盛の直轄とし、収益を金銀に換えているということである。言語道断である。
一、山崎の地を与えたのに、信長が声をかけておいた者をすぐに追放してしまった。これも先の刈谷と件と思い合わされる事である。
一、以前からの家臣に知行を加増してやったり、与力を付けたり、新規に家臣を召し抱えたりしていれば、これほど落ち度を取ることはなかったであろうに、けちくさく溜め込むことばかり考えるから今回、天下の面目を失ってしまったのだ。これは唐・高麗・南蛮の国でも有名なことだ。
一、先年、朝倉をうち破ったとき(=刀根坂の戦い)、戦機の見通しが悪いとしかったところ、恐縮もせず、結局自分の正当性を吹聴し、あまつさえ席を蹴って立った。これによって信長は面目を失った。その口程もなく、ここ(天王寺)に在陣し続けて、その卑怯な事は前代未聞である。
一、大まかに言えば、第一に欲深く、気むずかしく、良い人を抱えようともしない。その上、物事をいい加減に処理するというのだから、つまり親子共々武者の道を心得ていないからこのような事になったのである。
一、与力ばかり使っている。他者からの攻撃に備える際、与力に軍役を勤めさせ、自身で家臣を召抱えず。領地を無駄にし、卑怯な事をしている。
一、信盛の与力や家臣たちまで信栄に遠慮している。自身の思慮を自慢し穏やかなふりをして、綿の中に針を隠し立てたような怖い扱いをするのでこの様になった。
一、信長の代になって30年間奉公してきた間、「信盛の活躍は比類なし」と言われるような働きは一度もない。
一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。
一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽の恥をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。
一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。
右のように数年の間ひとかどの武勲もなく、未練の子細はこのたびの保田の件で思い当たった。そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。
また、秀吉が浮気したときに、奥さんの禰禰にこのような手紙も送っている。
私の命に従い、この度、この地(安土城)にはじめて尋ねてくれて嬉しく思う。
その上、土産の数々も美しく見事で、筆ではとても表現できない程だ。
そのお返しに、私の方からも「何をやろう」かと思ったが、そなたの土産があまりに見事で、何を返せば良いのか思い付かなかったので、この度はやめて、そなたが今度来た時にでも渡そうと思う。
そなたの美貌も、いつぞやに会った時よりも、十の物が二十になるほど美しくなっている。
藤吉郎(秀吉)が、何か不足を申しているとのことだが言語同断けしからぬことだ。
どこを探しても、そなたほどの女性を二度とあの禿ねずみは見付けることができないだろう。
これより先は、身の持ち方を陽快にして、奥方らしく堂々と、やきもちなどは妬かないように。
ただし、女房の役目として、言いたいことがある時はすべて言うのではなく、ある程度に留めて言うとよい。
又々 かしく藤吉郎 女ども
のぶ
和歌山の特異性の根源は色々ある。
今もなお市のシンボルとしてそびえる和歌山城、また県庁脇の交差点には史実では徳川幕府を立て直し、ドラマでも「暴れん坊将軍」として名高い吉宗公の銅像とともかく徳川御三家のプライドを、特にその周辺住民の意識に深く刻みこんでいる。
高野山。
言わずと知れた日本仏教の聖地。空海が平安時代に開いたその地は世界遺産にも登録され、より一層存在価値を増し観光地としても世界的に注目されている。参拝者数日本一の寺院、成田山新勝寺も高野山真言宗の一流派、根来寺(和歌山県岩出市)の下部組織に過ぎない。
熊野古道。
神武天皇にも由来する日本サッカー協会のシンボル八咫烏、落差日本一の那智の滝などの熊野三山が平安時代からの信仰対象として貴族や朝廷でも人気があり、その参詣道としての熊野古道が世界遺産になったことで、県で最も経済的価値の無かった山間部でも経済効果を生み出している。
かつては同社の主力工場でもあったため、和歌山市には企業城下町の文化が今なお根付いている。ノーリツ鋼機や島精機をはじめとする様々な企業の発展もその恩恵に預かったと言っても過言では無い。
野球。
現在の県立桐蔭高校の前身和歌山中学が今で言う甲子園の選手権に第一回大会から出場し第7回8回の大会で優勝した。それで野球文化が広がり住金野球部の活躍からかつての箕島高校や現在の智弁和歌山などが活躍すると同時にそれら以外の学校からも今なお多くのプロ選手が輩出され続いている。
トルコとの友好。
明治時代、トルコのエルトゥールル号難破を潮岬周辺住民が救助活動したことにより日本との友好関係は現在も深く繋がっている。
生誕地。
がんばれ前畑の前畑秀子。
生誕地。
華岡青洲。
豪商。生誕地。
パンダ。
梅。
醤油。
発祥の地。
hyde生誕地。
コブクロ。
志磨遼平生誕地。
小林稔侍。
生誕地。
玉置成実生誕地。
このように、和歌山県は自慢ポイントが県内各地にあり、多岐に渡るため特異な県民性があると思う。本州最南端で山間部に囲まれ大阪や奈良からも隔離された地理的要因もあるのだろう。
そういった点では指摘された「独立国」というのもあながち的外れではないし逆に個性として主張すれば発展する要因になるかも知れない。
こないだツイッターで聖☆お兄さんが受け付けられないという投稿を読んだ。自分は楽しく見られる作品だけど、まじめに信仰する人からすれば、侮辱に値するように映ったんだろう。
昔の作品だけど、3X3 EYESが好きだった。(特に線が太い最初期)
あれもヒンドゥー教とか神話をモチーフにしたエピソードがあるし、別の作家だけど孔雀王はモロに密教色が濃い。(高野山高校へ進学した先輩が「裏高野なんてない!」と怒ってたなぁ)
BASTERD!!では天使と悪魔のところが好きだ。天使と悪魔に階級があるなんて知ったのはこの作品である。天使禁猟区で知った人もいるだろう。
日本って凄いよね。創作に宗教のエッセンスを取り入れられるなんて。あ、アメコミにマイティーソーあるけど、あれ北欧神話だっけ?
性に関する議論よりかなり少ないのは、日本人は無宗教派が多いからだろうか。もともと何でもアリな寛容な文化性なのか。
ネットによってマイノリティの声はどんどん届けられるようになった。思いもよらない事がハラスメントだと気付かされたり、「ハラスメントだ!」自体が逆説的にハラスメントに転じるのも見受けられる。
聚楽第なら秀次生存ルートかなと嬉しくて舞い上がっていたらフォロワーさんに破却されていない聚楽第という情報だけで秀次天下と捉えるのが分からないと言われたので、徒然なるままに三分を書かせてもらいました。
分かりやすさは放棄しておりますのでお許しください。また、あくまで妄想ですので批判等はお控えください。
1.聚楽第とは
聚楽第とは豊臣秀吉が天正15年(1587年)9月に京都にて完成させた建物であり、文禄4年(1595年)7月に秀吉自らの手で破却させている建物である。その期間四年余。その為、建物自体は現在に残ってはいないが、聚楽第図(広島市立中央図書館所蔵蔵浅野文庫『諸国古城図』)を始めとする絵図や京洛の社寺などには移築したと伝わる建物などが存在する。
元より聚楽第という名は楽しみをあつむるやしきと言う意味であり、宣教師ルイス・フロイスは聚楽を快楽と歓喜の集まりを意味すると記している。見た目も絢爛豪華で…と語っており派手好きな家康の片鱗を垣間見ることができるだろう。見目を伺うために伝わっている平面絵図がいくつか存在する。例を下記に連ねる。
②尊経閣文庫本
③三井文庫本
①〜⑤は周囲の大名屋敷の名称にバラツキはあれども構造が似通っているものである。⑥は後世の天保14年になり名倉希言が作成し明治17年に書写されたものになる。⑦〜⑧は景観を描いた屏風になる。それぞれの内容や絢爛さなどは自らの目でお確かめください。そんな聚楽第の意義とは一体何だったのだろうか。桜井成広氏の『豊臣秀吉の居城』及び中井均氏の『聚楽第』にて述べられている①京都に於ける政庁の役割であったと考える。しかし、秀吉は政治に関して大阪城と聚楽邸を行き来していたことがある。中井均氏はこれを聚楽第は公家としての居城であり、大阪城は武家としての居城であると書いている。
聚楽第が破却になったのは文禄四年の秀次滅亡後の秀吉による破壊である。
秀次の死は切腹であったが、それは秀吉によるものである。秀次は秀吉に謀反を企てているとあらぬ疑いをかけられ、関白の座を追われて高野山に追放。高野山を人質に切腹を迫られたためせざる得なかったのである。これは秀頼誕生後に相続問題から疎遠になり秀吉との仲が冷却されたとともに目立つようになった不謹慎な性行なども関係していると考えられるだろう。更に秀吉は親族の切腹まで命じており、元より秀頼を溺愛していた秀吉の秀次の謀反に対しての怒りを感じる。そして、秀吉は譲った聚楽第を破却。縄張り意識を中心に考えると、歴史上から秀次を完全に消し去ろうとしたといえる。
2.天正15年(1587年)9月〜文禄4年(1595年)7月迄に起こった歴史的重要点
今回のイベントに於いて歴史修正されたのは豊臣秀次の生存であり、ひいては豊臣政権の存続だと考える。
まずこの4年間に起こった大きな歴史的要項を挙げよう。大きな出来事のみの抜粋は天下が歴史修正に置いて影響すべきところを考えたためである。
①朝鮮出兵
それでは順に述べていこう。
①朝鮮出兵
朝鮮出兵は聚楽第存在時にあった秀吉が行った大きな出来事である。大陸の領土拡大を目指し、進行したものであるが敢え無く敗北している。歴史改変をする事が出来る場所とも考えられますが、否定として「歴史改変された聚楽第」と本家PVで言われていることをあげる。この“された”と言う言葉には「何かしらの作用や影響を受けているさま(weblio)」であり、この場合、影響をうけているのは聚楽第であり、朝鮮出兵は直接関係がないのでこの案は没になる。
(飛ばしてくれても構いません。閑話休題に余談ですが、憶測に過ぎないものであり、またステ本丸の出来事のためあくまで私的な妄想の範囲を出ない考察ですが、舞台刀剣乱舞において歴史修正主義者が関わる場面は必ず天下が関わってる気がします。それは、歴史修正主義者は人の強い思いと呼応して呼ばれている(と個人的に考えている)ので、朝鮮出兵は関係ないと思います。歴史修正主義者も刀も人の思いに応え現れてくれる。代わりに見る人によって善悪が変わる世界です。聚楽第において正史側の審神者と刀は歴史修正主義者になってしまう…。つらい。話を戻しましょう。)
②秀次切腹事件がなかった世界。用に謀反の疑いがかけられなかった世界。理由としては前項で述べた聚楽第が歴史改変を受けていると言うところが大きい。まず聚楽第が存在したのは4年間であり、大きな出来事といえば
しかない。その為、聚楽第が直接影響を受ける可能性があるのは1595年と考えたい。また、聚楽第が影響の象徴となるならば存在がある事が歴史改変であるとも言える。
俺はハゲだけど「ハゲは不浄だから土俵には上がれません」って言われたら普通に切れるわ。
例えば沖ノ島は古代から女人禁制です!と言われたら、そりゃすげえ続けなきゃって気分になる。
それが明治からってなったらうわショボ…となるのは当たり前でしょ。
もちろん初詣みたいに誰も困らない伝統なら、明治からだろうと大いに結構だけど。
今回のは女性差別というマイナスを正当化する理由として伝統を持ち出してるわけじゃん。
それが大した歴史じゃないならマイナスを覆すほどの説得力はないよねってだけの話だ。
漫画とかでポリコレ棒振りかざされるのは嫌だが、それは漫画の表現が制限されてつまらなくなるからであって、土俵に女性が上がろうが相撲がつまらなくなるわけじゃない。
高野山が女人禁制を解いたところで、誰も神聖さを疑わないのと同じだ。
増田 長盛(ました ながもり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣政権五奉行の第三席。父母は不詳、弟に増田長俊、子に盛次、長勝、新兵衛。官位は従五位下・右衛門少尉。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 仕官以前
2 子孫
3 主な家臣
3.1 一門衆
3.2 重臣
3.3 その他
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 関連項目
生涯[編集]
生地は2つの説があり、1つは尾張国中島郡増田村(現在の愛知県稲沢市増田町)[注釈 1]だったという説、もう1つは近江国浅井郡益田郷(現在の滋賀県長浜市益田町)[注釈 2]だったという説がある。上野国に存在した増田氏との関係は不明である。
秀吉に仕官する以前の経歴は明らかでないが、一向宗徒であったという説がある。永禄7年(1564年)側室との間に長男・長勝を儲けている。
天正元年(1573年)、28歳の長盛は、まだ織田信長の家臣であった羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に召し出され[注釈 3]200石で仕えた[1]が、この時期に正室を迎えたと見え、天正8年(1580年)、嫡男・盛次が誕生している。盛次の誕生に際し、銘吉光九寸五分の短刀を与えたことが盛次討死後、乳母の口から語られて記録に残されている。
秀吉の麾下で中国攻めをはじめ多くの戦に従軍し、鳥取城攻めでは「陣中萬の物商の奉行」を命じられた。天正10年(1582年)には奏者に任じられ、上杉景勝との外交交渉などを担当した。同年の吉田兼見の日記に名前が登場している。
天正12年(1584年)3月、小牧・長久手の戦いでは先陣を務めて兜首二つを取る功を上げ、この功績で2万石に加増され、翌天正13年(1585年)3月の紀州攻めでは、大谷吉継と共に2,000の兵を率いて従軍、根来衆の津田監物、西谷延命院を斬った武功があったとされ(『根来寺焼討太田責細記』)、従五位下・右衛門尉に叙任されている。
天正18年(1590年)の小田原征伐においては里見義康担当の申次となり、安房国で差出検地の施行と知行宛行状の発給を行っており[2][3]、後北条氏が滅亡すると、さらに下野・常陸・安房の大名に対する豊臣政権の取次となった[4]。この年、中村一氏が駿河国駿府14万石に移封になったのを受け、近江国水口6万石を拝領している。
太閤検地では石田三成、長束正家らと共に中心的な役割を担い、近江国、美濃国、越後国などの要地の検地奉行を務めた。普請に積極的で、京都では鴨川に架かる三条大橋・五条大橋の改修工事にもあたり、三条大橋には今も長盛の名が刻まれる。伏見城の改修も分担した。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では、石田三成、大谷吉継とともに朝鮮に渡って漢城に駐留し、奉行として占領地統治や兵站に携わった他、碧蹄館の戦いや幸州山城の戦いにも参加している。
文禄4年(1595年、豊臣秀次が秀吉の命で切腹する「秀次事件」が起きると、長束正家と共に秀吉との間に対立が生じた豊臣秀次の老臣を糾問するなどしている。文禄5年(1596年)にはサン=フェリペ号事件の処理で土佐に赴き、このときの対応が秀吉によるキリスト教(フランシスコ会)の弾圧(日本二十六聖人の殉教)の端緒を開いた。
文禄4年(1595年)、豊臣秀長の後を継いだ豊臣秀保が没すると7月、大和国郡山城20万石の所領を与えられる。高田一英・浅井井頼ら大和大納言家の旧臣の多くは長盛が召抱えた。長盛はまた郡山城に総堀をめぐらす大掛かりな普請を行った。東では秋篠川の流れを東に変えて水流を佐保川に落とし、西に多数の溜池を繋いで堀となすなどした。この普請のために大和中から夫役が徴発され、普請は翌文禄5年(1596年)に完成を見た。慶長元年(1596年)には紀伊国・和泉国の蔵入地の管理を委ねられている。秀吉の晩年には五奉行となる。慶長2年(1597年)には再び安房国を訪れて、総検地を施行している[2][3]。
慶長の役では開戦後国内にいたが、慶長4年(1599年)に予定されていた大規模攻勢では福島正則・石田三成とともに出征軍の大将となることが決定していた[5]。しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現しなかった。
慶長3年(1598年)に秀吉が没すると、石田三成は反徳川家康の立場を鮮明にし、長盛もこれに与して打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
伏見城攻めには自ら参加し[注釈 4]、重臣・福原清左衛門をして城内に籠る甲賀衆に寝返りを促し、落城に導いている(甲賀郡志)。大津城の戦いには一門の増田作左衛門を陣代として軍勢を派遣し、増田勢は大津城の湖水方面から城壁を越えて乗り込み攻撃した。同城の戦いではまた、家臣・中村金六が敵方の勇士・浅見藤右衛門と組み打ちし功名をあげた。 しかし、一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
後に高野山を出て岩槻城主・高力清長預かりとなる。慶長19年(1614年)8月、家康より召喚され大坂方への和睦の仲介を依頼されるもこれを断る。元和元年(1615年)、尾張藩主・徳川義直に仕えていた息子の増田盛次が長盛との相談の上で義直の了解を取り大坂夏の陣で尾張家を出奔して豊臣氏に与したが、戦後この責任を問われ自害を命じられた。享年71。
三白眼であり豊臣家を滅ぼした元凶ではないかと後世に語り継がれている。安藤英男は、長盛が三成失脚後に100万石以上に相当する豊臣氏の蔵入地を一括管理していた点を指摘し、長盛が家康に通じずに蔵入地の100万石がもたらす資金・人員を豊臣家及び西軍のために振り向けたならば、関ヶ原の戦況も西軍有利に転じた可能性があったとして輝元とともに西軍敗戦の原因と分析している。
墓所は埼玉県新座市の金鳳山平林寺。当初、騎西郡金重村にあった平林寺に葬られたが、松平信綱によって平林寺が移転された際、新座郡野火止に移った平林寺の境内に移された。明治年間、子孫が墓石を再度移転している。
行々林(おどろばやし)
飯山満(はさま)
幸田(こうで)
三ケ月(みこぜ)
三矢小台(みやこだい)
北方町(ぼっけまち)
松崎(まんざき)
安食(あじき)
都部(いちぶ)
中峠(なかびょう)
中尾余町(なかびょうまち)
日秀(ひびり)
高野山(こうのやま)
草深(そうふけ)
発作(ほっさく)
武西(むざい)
将監(しょうげん)
安食ト杭(あじきぼっくい)
酒直卜杭(さかなおぼっくい)
北風原(ならいはら)
猿楽場(さかくば)
香取(かんどり)
奉免町(ほうめまち)
国府台(こうのだい)
求名(ぐみょう)
砂(いさご)
砂古瀬(いさごぜ)
大豆谷(まめざく)
海士有木(あまありき)
飯給(いたぶ)
不入斗(いりやまず)
不入(ふにゅう)
廿五里(ついへいじ)
櫃狭(ひつば)
武士(たけし)
百目木(どうめき)
真砂(まさご)
小食土町(やさしどちょう)
生実町(おゆみちょう)
神門(ごうど)
臼作(うすくり)
馬乗里(まじょうり)
滑川(なめがわ)
墨名(とな)
欠真間(かけまま)
真間(まま)
神々廻(ししば)
狢野(むじなの)
登戸(のぶと)
園生町(そんのうちょう)
行川(なめがわ)
木内虫幡上小堀入会地大平(きのうちむしはたかみこぼりいりあいちおおだいら)
新(しむら)
城下(ねごや)
習志野(ならしの)
南波佐間(なばさま)
大谷流(おおやる)
小谷流(こやる)
勢田(せた)
実籾(みもみ)
生谷(おぶかい)
呼塚(よばつか)
篠籠田(しこだ)
船戸山高野(ふなとやまごうや)
平田(ひらった)
雪降里(ぶどうじ)
東芝町(ひがししばまち)
笠上町(かさがみちょう)
神余(かなまり)
部原(へばら)
丁子(ようろご)
新宿(にいじゅく)
羽計(はばかり)
滑谷(ぬかりや)
横渚(よこすか)
これ全部千葉県な。
http://anond.hatelabo.jp/20160827122113からの続き
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13163510618
言って欲しいか?今回のことはアンタが言ってはいけないことを軽はずみに投稿したことから始まる。
以前「始末書くらいでは済まなくなるぞ」と警告しておいたはずだ。以前のやり取りもプリントアウトして主監に提出だ、あなたはバカだから自分の投稿で包囲網をどんどん狭める(大笑)。
退職願の書き方は調べたか?「私は弘法大師を信仰していませんでした」とか「私はバカでした」とか、バカ正直に本当のことを書かなくて良い。「一身上の都合」でよい、よかったな、安心して退職願いが書ける。
依願退職だから、失業保険は無理だがはるかに多い退職金がでる、外道が退職するからといって高野山真言宗が退職金を払う必要なないと思うけれどあなたの人生ではそれなりの大事件なんだからもらっておけ、許す。
バカが騒げば騒ぐほど主監はバカをかばえなくなる、自分の首を絞めるだけでなく主監の選択肢を狭める、あなたの愚かさは主監を追い詰める。主監は「信仰者」だが本山は主監に「信仰者」として行動することを期待している。本山が絡むと主監はあなたをかばえなくなる。
あなたのように太い人脈はないが本山に知り合いが全然いないわけではないから、本山に知らせておいてやる。
諦めが付いたか??
ファイナルカウントダウンを始めたのはあなただ、自分でまいた種は自分で刈らねばならぬ、ジタバタするな、見苦しい。
日本仏教は世界最強の仏教だが欠点もある、inchiki_2004さんのような金持ち寺のバカ息子がいっぱいいて平均点を引き下げていることです。
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10163694695
過去の投稿を見ればわかる、頼むからもう少し仏教を勉強してくれ。
あなたが給料を得るのは普通免許を持っているから、私が給料を得るのは仏教徒だからだ。
「要普免」で高野山真言宗に貢献しているのか?釈尊と弘法大師の「信仰者」=仏教徒として給料を得ているのか?
世襲の寺に生まれたと言うことしか仏縁がない(本当に仏縁のある人がはたして寺に生まれるか??)住職が目標の外道と、成仏が目標の仏教徒とでは勝負にならんのだよ。
それゆえ、
削除するなよ。
プリントアウトすることは誰でもできる、内容は誰が出しても同じだ。
そんなにまな板の上にいるのが不安なら、自分でプリントアウトしてメモでもつけて主監のデスクに置いておくか、ご自坊に匿名で郵送すればよい。
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11164778016
ワイワイガヤガヤ楽しく妄語得上人法してますね、ゴミやガラクタがお互いをプラチナだ、ダイヤモンドだと言う。
(略)
「金持ち寺のバカ息子」の無能ぶり・バカぶり・怠惰・放逸・恥知らず等々、朝から晩までいやと言うほど現量=直接知覚してる。比量=推測・推理などする必要は全くない、目や耳が汚染され洗いたくなるくらいだ。
(略)
inchiki_2004さんはバカ(ヨガはヨーガが正しいのだからパーリ語はパーリー語が正しい!!)だから”現量”知覚能力はあるが”比量”推理能力は3歳児、肉体は健常だが精神に問題あり。
寺務長から「主監からお話がある、ちょっと特別応接まで」と何時言われるか?死刑執行が何時になるか?
多少でも仏教の知識があれば自分の犯した【罪】の程度を比量できるんだが、なにせ「金持ち寺のバカ息子」は「パーリー語が正しい」と「積極的に主張」!!する仏教ゼロだから、僧籍剥奪か?懲戒解雇か?退職願か?始末書か?退職金は出るかどうか?見当もつかない。
「おねげーでごぜーますだ、教えてください」と土下座リクエストする。
早く早くと死に急ぐな、遅かれ早かれ処分は出る。
他人のせいにするなよ、まな板のうえが心配・不安なのは仏教を知らないおのれの自己責任だ。
(略)
テーラワーダ外道いじめ、精神年齢3歳児をおちょくるのは面白いが、一人には高野山真言宗当局から「泣く子も黙る」厳しい処分??が下され、もう一人は10月15日に懺悔し悪口雑言を悔い改めてホンモノの「釈尊仏教」=「日本仏教」に転向するのだから今回はこのくらいで許してやる、ちなみに世親は大乗に転向したとき大乗を謗り続けてきたおのれの舌を切り裂こうとしたそうだがアンタの舌など別院に置いて行かれても迷惑なだけだからやらないように。
井の中の蛙、牛跡のボウフラ、穴の中でメクソとハナクソ、ゴミとガラクタがお互いにプラチナだダイヤモンドだと「妄語得上人法」していられるのもあとわずかだ!!
あなたのバカ暴走には同志○○さんもフォローのしようがなく困惑してると思う。
(略)
もとの言語がサンスクリットであれパーリであれ「短母音」と「長母音」を別の母音として区別する言語なんだから、その区別を反映しようとしない文字表記はローマ字であれカタカナであれデーヴァナーガリーであれ間違いである。
音を文字で表記するとき正解はないが間違いはある。「パーリー語」は間違いである。
ちなみにヨーガのオーがオじゃないのはオの長母音だからではない、オーは二重母音。
梵:Śāriputra シャーリプトラ、巴: Sāriputta サーリプッタ
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11167211446
高野山東京別院へ参詣してaksobhyavajraさんと会話してきました。
>もう犯人探しはしないがaさん(編注:野村氏の問題行動について高野山東京別院へ質問状を送った方)からの公開質問状の入った封筒をスマホで写真に撮っている職員を目撃してビックリした。
とおっしゃっていました。
ちなみに高野山東京別院は警視庁高輪警察署と隣接してるんですね、チットモ知らなかった!!別院で悪いことをするとすぐ捕まえてもらえますね。
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◆野村懐忍さんyahoo!知恵袋現アカウント:samantabhadra1611(旧アカウント:aksobhyavajra、aksbhyvj)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10153854700
inchiki2004さん
『ゼロポイント』のアマゾンレビューにコメントをいただきましたね、例年頼まれる新年の護摩札を今年は頼まれていない。
多分、年賀状も来ない、多分、12日の神田も来ない。1月中旬にははっきりする。
何年も随分良くしてもらって、大恩があると言っても良い関係だが。期待はずれでしたか?
K先生はすぐに見限ったようです、あなたは無いもの強請りではないか?
神田も正直、張り合いがない「丸い三角形は存在する」「だったら何?」「丸い三角形は存在しない」「だったら何?」「そんなこと良いから、テキストを読み進めてください」よくないやろ!!
どいつも、こいつも「アンタ、それで死ねるんか!!」だ。
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14158037979
仏事・儀礼はできるが仏教にはまるで興味も知識もない寺の子が同じ職場(高野山東京別院)の在家出身の積極的仏教徒である私の仕事ぶりが不満で高野山真言宗に貢献していないと言うことを「内部告発」してるんでしょう。
直接言うとか上司に言うとかすればよいのですが茶坊主の言うことなど私は弘法大師の教えで叩き潰してしまうのでこんなところへ投稿するしかないんでしょう。
(略)
やっているのはオン・ナマハ・シヴァーヤさんとバトルしていたときプロイールには書いてないじじいだという情報を投稿したインチキ2004さんでしょうが東京自由大学からたどって出てきた情報を公表したいんでしょう。
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11158037741
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10160429500
高野山真言宗から給料をもらっているなら周りにいるのが外道の茶坊主ばかりだと油断して軽はずみなことを言うと始末書ぐらいではすまなくなる、扶養家族が増えたんでしょ、ハローワークで行列するか?おじいちゃんに泣きつくか?どうする「お父さん」?
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13162941948
短い付き合いでしたね。
あなたはいなかったか?(こういうところから個人が特定できる)
主監のPCに私の「回答一覧」のページを登録させてもらった「どんな話を写経会や読経会で話しているか?簡単に見れます、読んでいただければ幸いです」と伝えた。
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