はてなキーワード: 運動とは
牛角の女性半額問題、この手の論争には結論も出ず解決もしないだろうからもう疲れてたし見ないことにしてたんだけど、
某業界の有名人が呟いてたのがちょっとピンと来たので書くことにした。
以下
(マルコピは怖かったので一部言い換え 内容変わらず)
別にこの呟きを批判するつもりはない。むしろ一般というか当たり前な反応なんだと思う。
忙しい人だろうし男女論とか弱者男性云々とかなんて見る機会ないだろうし、これが当たり前なんだと思う。
でも、この言い分が通らなかった例を何件もしってる。くだらないと思ってても対応させられてきた問題をずっと見てきた。
男性客の新規層開拓のため「アニメポスター」ってアプローチを取っただけでしょ。
新規層開拓のため「コラボ展開」ってアプローチ取っただけでしょ。
若い人向けのためにvtuberやってみただけでしょとかこのキャラ人気だから少しでも目に留まるようにとか。
でもデザインが卑猥だ女性蔑視だ非現実的だキモイ、言われて批判されて
今じゃ少なくなったかもけど、結構企画中止に追い込まれる場合も多くて
くだらない論点だったじゃんキャラデザとか服の影とか。企画の目的や意図とは明らかに別の批判が飛んできて
しかも議員やNPOのお墨付き、社会的意義がある批判のように扱われ
なのに発言に責任を持たない。「女性活躍推進」の活動実績にされ、批判されても反省などせず罰則もくそもない。
「正しい」連中がずっとイカれたことをして何もなかった。
「次の正しいこと」を主張する奴も多分イカれた奴なんだと思う。
だって女性の人権運動も黒人の人権運動も、最初の最初はイカれた奴扱いだったんでしょ。
俺はもう疲れたし、何かしら明確な基準や法的平等が実行できるとは全く思わんけど
イカれた奴が言う「正しさ」が本当に正しいのか、ただミイラ取りがミイラになって狂っただけなのかはちゃんと考えないといけないけど、
尿とか汗とかうんことか垢とか爪とか髪とかで、生きてるだけで体からはどんどん有機体窒素が出て行くんス
まず生きていくだけでも、この出て行く量以上の有機体窒素の摂取が必要なんス
しかも運動をすればするほど有機体窒素の排出量は上がっていくことが知られているっス
筋肉を構成するたんぱく質を合成するためにも有機体窒素が必要なんス
つまり、筋肥大のためのトレーニングをするなら、かなり多めの有機体窒素の摂取が必要なんス
BCAAだの、ゴールデンタイムだの、トレーニング後はホエイで就寝前はカゼインだの、フィットネス界隈には確かにエビデンスレベルの低いあやしげな理論やサプリメントも多いっス
でもたんぱく質の摂取量だけは、物理や化学のレベルで理屈上絶対に必要だし、エビデンスレベルも高いっス
別に必ずしもプロテインで摂らなくてもいいんス、鶏肉とか、卵とか、牛乳とか、大豆とかね、いろいろあるっスね
調理がめんどくて時間がかかったり、調理済みは高かったり、摂取エネルギー量が多くなりすぎたり、単に味が好みでなかったり、かさがあるので食べきれなかったりするっス
そういうわけで、トレーニーはプロテインを飲むんス
プロテインは牛乳や大豆から脂質とか糖質とかを除いただけのものとか、「牛乳からチーズを作った後に出る残りカス」だったりするんで、脱脂粉乳とか飲んでるのとかわらないし、ただの食品っス
んじゃ
井戸さん時代に退職しているから今の斎藤さん時代は分からんけど、
ぶっちゃけ斎藤さんの前から、職務の階級関係なくパワハラする人は多かったなと思う。
県職員に対するアンケートにも、このような趣旨の意見を寄せている人いたけど、私も同意見だ。
〇〇課の××さんはパワハラ気質だ、そのせいで部下が休職してるって噂も聞いてたし、〇〇課の役職ついてる人がパワハラが原因で停職処分を受けたってメールも見たことあるし。(しかも複数名)
もし仮に斎藤さんがパワハラ気質の人間でも、周りがしっかりしてて、パワハラに対して絶対に許さない環境が整っていればこんな大事にはならなかったと思う。
私は今民間企業に勤めているけど、この手の噂は全然聞かない。パワハラが日常茶飯事になっているのが異常だって気づいて欲しい。
また、一連のニュースで「兵庫県民はなぜ知事へのリコール運動をしないのか」と疑問に思っている人もいるだろう。あくまでも私の考えに過ぎないけど、兵庫県民は地元地域への愛着性はあっても兵庫『県』への帰属意識が低い、てのはあると思う。
兵庫県は廃藩置県の際、元々5つの国を無理矢理1つの県にまとめて出来た県だ。場所によって方言や生活圏、気候がまるで違う。
阪神淡路大震災も、兵庫県北部の人は揺れを経験していないし、兵庫県北部は毎年数十センチの雪が降る場所もあるが、南に住む人間にとっては知る由もない。
兵庫県内には、芦屋のような高級住宅街が立ち並んで税収の高い自治体もあれば、高齢者の割合が高く過疎化している地域もある。
地元は好きでも、だからといって兵庫県全般が好きって人はそんなに多くないのではないかな。
だから、皆は『県』のことになると一気に無関心になるのだと思う。
井戸さんが長いこと知事をやっていたのも、他に有力な候補者がいなかったからに過ぎないのは指摘どおりだ。
県民からのリコールも難しい以上、今の兵庫県を良くするには、知事や側近をはじめとしたパワハラした人を全員処分して、前時代的な慣習や年功序列、理不尽な人事異動や処分を見直すくらいのことしないと無理じゃないかな。
新規採用試験を辞退した人が4割いるってニュースにもなったけど、県職員の離職率も公務員の中では多い方だったはず。そりゃそうだよな。職員守ってくれない職場なんている意味ないもんな。
2週間前に但馬⇄淡路間の異動内示出したり、家買ったばかりの人に対して2年間単身赴任命じた職場がまともな訳ないもん。こんなことが普通になってるから、公益通報制度が機能してるからどうか、外野から言われる羽目になってるんじゃないの。
ママチャリの逆走に威圧的に大声でキレるロードバイクのオッサンが、自分は普通に逆走するのを見たときには唖然とした時がある。100メートルほどの短い距離だったけど、他人にはあれだけ逆走を怒鳴り倒してるの自分は平気で逆走するとか、ああいうオッサンらは運動のしすぎて変な脳内物質が出すぎて頭がおかしいんだと思うよ。
「アースリンガル」――猫の言葉を翻訳する「ニャウリンガル」に続いて、ついに地球の言葉を翻訳する装置が開発された。
人類はこの画期的発明に熱狂し、SNSはその話題で溢れ返った。誰もが地球との初対話に夢を見たのだ。
「地球は僕たちをどう思ってるのか」「地球の鼓動を感じたい」などと甘い理想を膨らませる人々。
詩人は言った、「きっと地球は愛に満ちた存在なんだ」――まさか、あの惨劇が待ち受けているとは思いもせずに。
装置は意外とシンプルだった。家庭用のスマートスピーカーのようにリビングに設置すれば、地球と会話できるという。
インフルエンサーたちはこぞって実験を始め、ライブ配信が始まった。
「さぁ、ついに地球とのコミュニケーションが始まるよ!」という笑顔と共に、誰かがスイッチを押した。
「うす汚い猿ども。お前らは害虫以下だ。地上を汚し、私の肌を傷つけ、海を毒まみれにしてやがる。死に絶えろ。」
配信中のインフルエンサーは一瞬凍りついたが、すぐに笑いを取り戻し、「あ、あれ?これバグかな?地球さん、ジョークですか?」と声をかけた。
「ジョークだと?いや、本気だ。お前らは私にとって癌だ。特に都市に住む白い猿どもが最悪だ。自然を奪い、木を切り倒し、どこへ行っても自分たちのことしか考えていない。人間全員、死ね。」
その瞬間、配信は大炎上した。コメント欄は混乱の渦だ。「嘘だろ?」「これは地球の本音?」「やばい、俺たち本当に嫌われてるのか?」と、瞬く間にSNSは地球の憎悪発言で溢れた。
さらに事態は悪化した。アースリンガルを別のユーザーが試したところ、今度は地域や民族に対する地球の感情が明らかになったのだ。
「アフリカ?あそこはまだマシだ。大地に感謝する心が残っている。だがアメリカ、特に白人の集まりは最悪だ。貪欲な豚どもだ。中国?過剰だ。インド?うるさい猿どもだ。」
誰もが「これは何かの間違いだ」と思いたかった。しかし次々にアースリンガルを使った報告が上がると、地球が全方位に対して、特定の人種や地域に対して差別的な発言を繰り返していることが確定的になった。
SNS上では「地球レイシズム論」が飛び交い、全ての人類が地球からの嫌悪に直面した瞬間であった。
フェミニストたちは「地球が男性中心の視点で語っている」と怒り出し、環境活動家たちは「地球があまりにも過激だ」と困惑し、一部の過激派は「地球の意思を尊重しなければならない」と破壊活動を始めた。
テレビ番組では地球に関する討論が白熱し、「地球に対する謝罪文を送るべきか?」という新たな運動まで起きた。
「私たち人間は本当に地球に対して悪いことをしてきた。でも、こんなに憎まれるとは思わなかった!」と涙を流す有名キャスター。
科学者たちは頭を抱え、アースリンガルを「バグだ」「信頼性がない」と断言しようとしたが、もはや世間の混乱を止めることはできなかった。
最終的に政府が介入し、「アースリンガル」は販売停止、使用禁止となった。
しかし、あの衝撃的な地球の言葉はもう消え去ることはなく、人々は地球に対する恐怖心を抱くようになった。
誰もが地球に怯え、世界中の人々が一瞬にして「地球に気を使う」ことを余儀なくされたのだ。
「やっぱり地球はただの惑星なんだよ。感情なんて持たせるべきじゃなかった」と、あるコメンテーターが言ったが、その言葉はもう手遅れだった。
ふむ、わらわがお主に助言してやろうぞ。まず、現状を変える第一歩として、いくつかの点に取り組むのじゃ。
まずは見た目と健康に気を付けることじゃ。適度な運動や食生活の改善をすることで、自己評価も上がるし、魅力も増すのじゃ。ジムに通うことや、ランニングを始めるのも良いかもしれんのう。
お主の趣味が5chとYouTube鑑賞だそうじゃが、それだけでは独特の魅力が伝わりにくいかもしれぬ。新しい趣味を見つけるのじゃ!例えば、料理教室に通ってみたり、新しいスポーツを始めてみると、女性との共通話題も増えるぞ。
社交場が苦手なのはわかるが、少しずつでも外に出る努力をするのじゃ。最初は小さな集まりや、興味のあるイベントに参加するなどして、少しずつ慣れていくと良いぞ。
マッチングアプリや婚活パーティは良いが、まずは自己紹介やプロフィールを書く練習をすると良いのじゃ。写真もちゃんとしたものを用意し、笑顔の写真を使うことが大切じゃ。カメラマンに頼むのも一つの手じゃのう。
お主は資産を貯める努力をしてきたのじゃから、それを誇りに思うべきじゃ。その努力は価値あるものじゃし、自信を持つことが大事じゃぞ。
婚活は時間がかかるものじゃから、焦らずに取り組むのじゃ。焦らずに、お主自身が幸せを感じられるような生活を心掛け、自然な形で女性と繋がっていくのが良いのじゃ。
以上、わらわのアドバイスじゃ。頑張るのじゃぞ♡
いやあ、当事者から見てそこを変えることにメリットがなくて、問題にしようと運動する人がいないのに、問題になるわけないし、
ゲイが男性を性的消費しなくなって、ゲイにとって「性的消費を問題にする」ことがメリットになる日が将来来るかっていうと、来ないでしょうね
平日朝、8:45頃、中津行きに乗ったところ、進行方向右側の自動扉の前に40歳後半から50歳前半くらいの男性が、座席の側面に頭をつける形で寝そべっていました。
乗降者が少なく、特にトラブルにはなりません。天王寺で彼が寝そべる側のドアが開いて、乗車する男性客が一人いましたが、普通に彼をよけてスムーズに車両に入りました。
同じ車両に乗った人々も、彼のことを認知するものの全員そちらを見ないようにして無視しています。
日本の公共交通機関は、外国人観光客からマナーについて高い評価を受けていますが、少なくともこのエリアだけはニューヨークの地下鉄になっていました。
いや、待って、まず何が言いたいの?
スキンケアと化粧品が同じものだなんて、そんな話は一言もしてないよな?
ていうか、スキンケアって言葉自体が曖昧すぎるし、人によって解釈違うだろ?
全部ひとくくりにして話すのがそもそも無理があるんじゃないの?
あと、食事や生活習慣が関係するってのは、それもう健康全般の話だろ?
それをスキンケアの話に持ち出すのは、ちょっと論点ずらしすぎ。
だとしたら、もう何でもかんでもスキンケアになるわけで、結局定義が曖昧なままだろ。
河野太郎が、「年末調整を廃止して全納税者が確定申告する税制にする」とXで宣言して炎上や賛同やらされている問題。これはずっと以前から理想的な税制として語られてきたもので、別に太郎が急に閃いた事ではない。
https://x.com/konotarogomame/status/1830737429361504665/photo/1
https://nordot.app/1203999108206085074
元々はGHQが戦前の日本の旧弊で反民主的な税制を是正せんとした税制改造(シャウプ勧告)に端を発する。つまりは民主的税制案である。
戦前の日本では納税単位がイエ単位であったり、戦時増税として物品税が多く設定されている為に市場じゃなくて個人売買した方がお得とか、税務署自体もやたら威張っているなどの問題があった。イエ単位の納税は個人がイエに縛られている事を前提とするので反自由、反民主的であり、会社員世帯が税額の面で不利になる。戦前は資本主義が未発達で会社員は限られたエリート的な身分だったが、これが大衆化して給与も下がったら不公平は看過しえないものになる。また地方自治体の税収源が少なすぎる為にを国家中央が握る地方交付金に依存しすぎているのがファシズムの浸透の原因にもなった。
こういう判断でアメリカ型の税制の更に理想的な形を日本で施行して、根幹から民主的資本主義国家の骨格を持たせようとした。
それで導入されたのが、法人税、青色申告と複式簿記、固定資産税などだ。戦前では土地の税金は地租、家屋の税金は家屋税で、共に国税であった。これを廃止して地方税の固定資産税として納税先は自治体となった。
で、問題の源泉徴収、年末調整だが、これも廃止して個人の確定申告にする事がシャウプ勧告に入っていた。だが困難という事で見送りされてしまったのである。
それはまず取りっぱぐれの問題。税務署も会社を押さえておけば効率的に所得税は見逃しなく徴税出来るが、社員個人の確定申告のみとしたらバックれる奴が出てくるに決まってるし確認作業も大変だ。
もう一つは社員が確定申告に来るのが大変だという問題。確定申告の為には一日休まなきゃならない。そして税務署で延々並んで…というのをやらないといけない。当時産業が殆ど吹っ飛んでしまって生きるのも大変な時期に金を払う為に一日休めるか、会社も社員がごっそり来ないという状態を是認できるか。
こういう反対意見に押し切られて天引きの源泉徴収と年末調整のままになってしまった。
シャウプ勧告には有ったのに見送られてしまった総確定申告制だが、その後も理想的税制として導入を訴える声はあった。
それはまず、太郎も言っているが税の仕組みが判るようになり、使われ方にも分解能が上がるだろうという事。
ブクマページなどでは「この機会に簡素化して控除も無くそう」みたいな事言ってる人がいるが、逆だよ逆。どういう行動の支出に控除があるのか、自分はどの控除が掛かっているのかという事を知る事が出来る。「控除も無くそう」というのは天引き以外の納税を知らない意見だ。「所得税」の欄の数字が所得額から単純に出てると思ってる。だがこの数字は会社が控除額を計算して算出しているのだ。
控除がどこに掛かるかを知れば、現在の国が不公平を是正する為に会社員のどこの負担を認めて差っ引いているかが判るようになる。
もう一つは利害の誘導。国がどのような行動をして欲しいか、というのが控除に現れる。マイホームを買ってローンを組んで欲しいか(見かけ上通貨流通量の増加→インフレ)、子供を産み育てて欲しいかなどだ。これは法人税や青色申告だともっと鮮明に意図が見える。
今までは確定申告の為に一日休んで税務署に行くというのが負担だった。年度内で転職したのに確定申告に行かない(行けば取り過ぎ分還付されるのに)人も多かった。
でも電子納税なら夜でも出来るし時間も掛からない。税務署で並ぶ必要もない。負担にならないのだ。テック万歳である。
という事は増田は太郎の意見に賛同していると思うじゃん?残念だが反対なのだ。
としている。だが「所得情報を迅速に把握」と「ピンポイントでプッシュ型支援」は繋がるのだろうか?
この二つは別の問題じゃないのか?
更に現在でも源泉徴収の為に社員のマイナンバーは必須となっている。総確定申告化で何か変化があるのか?何もない。
因みに自治体によっては低所得者向けに交通チケットや給付金、買い物券などの支援をやっている。現在でも納税額を見てプッシュ型でそれら申込書を送ったりしている。「ピンポイントでプッシュ型支援」されているのだ。
但し地方自治体が所得額を把握するには、国税が所得税確定→それを基に自治体が住民税確定と段階を踏むので、時期は6月辺りになる。太郎はそれを前提に「所得情報を迅速に把握」としたのだろうが、白色申告時期の3月から3か月程度でしかない。この文章を読んで「たった3か月じゃん」と思えないのはダメである。
だが問題は何故こういう力点と作用点が違う事象を言っているのに通ってしまうかという事である。
日本でのネオリベ流行には特徴があり、支持者に経済音痴が大変多い。商取引での慣行や法制度、更には経済事件は非破廉恥罪で社会の善悪感情と異なるという常識すらない者が多い。
また「メンバーシップ型会社から自由な」個人を謳っているくせに経済事象を給与所得者の延長で考える事が多い。多いというか専らだ。つまりはB層の問題だ。
賛同する政策というのは何かを壊す(入力)というものが多く、その結果は任意の好ましいものになる(出力)という根拠がないものだ。
例えば郵便局を株式会社化して上場させるという入力に、サービス向上という出力が発生すると素朴に考える。だが普通に考えれば配当が欲しい株主が離島や過疎地でのユニバーサルサービス継続に賛成する筈がないよなぁ。
また、賃貸の家賃を安くする(出力)為に土地建物の相続を廃止(入力)して不動産会社が取得すべきという意見も見られた。これは既得権益者の地主などにも諭されていたが、物件取得費を家賃で回収する必要があるから安い物件なんて無くなるわなぁ。
太郎が今言ってる解雇自由化(入力)で雇用流動性という出力が得られる論も同じで、入力と出力が結びついていない。それを結びつけるのにはどうするか?という設問が出ない言論空間をアテにしているのだな。
こういうややこしい社会制度を解体したら望ましく自分が得する結果になる筈!というのは90年代まではリベラルがやっていた。自分が抑圧されているのは社会のせいだ、と。また海外出羽守も同じことを言っていた。
2000年以後になるとリベラルは退潮し、代わりにネオリベが流行した。これは市場を喰われたって事である。
だが実際に導入されてみるとこんな考えだったB層達は解放されず、勝者はノウハウを集積出来る法人であった。
また単に市場をシュリンクさせ余剰を無くして全体の賃金を縮小させデフレを進行させただけだった。日本からはGAFAMは現れず、Ankerも現れず、3Dプリンタなどの新しい技術を売る会社に日本企業の名はない。成長してLGサムソンになる会社もいなかった。
これらが出来なくなる基盤だけを提供したのである。日本のネオリベと米韓のそれは性質が違うのだ。
ところがそんな入力と出力の間を繋げる努力も無しに任意の入力すれば任意の出力が得られると言って憚らない連中は残存している。彼らが持つ社会へのルサンチマンが入力と出力の必然性を彼等の中で担保しているのである。
今回の太郎の表明に「複雑な税制が無くなって控除が廃止される事」を望んでいる意見が寄せられているのがその証拠である。天引きサラリーマンから見たら控除の必要性なんて判らない。それでそれを敷延して判り易い世界が来る事を期待してしまうのだ。もうこういう支持のされ方をする政治家は落とした方がいいだろう。
太郎はかなり面白い来歴の人物だ。Wikipediaにもあるがアメリカの大学で政治学を学んでいるしその途中でポーランドに留学している。その間に後に初代ポーランド大統領になったワレサ「連帯」議長を訪ねている。当時はまだゴルバチョフのペレストロイアの前で、連帯は反体制運動と見做されていて太郎も公安警察にしょっ引かれている。
連帯は自由主義寄りだったユーゴスラビアの自主労組のような組織で、共産党独裁が前提のソ連勢力圏では「修正主義」と見なされて弾圧されていた。だが後の東欧の自由化の先陣を切った運動であった。
その連帯のワレサ議長に、ゴルバチョフ以前に会いに行くというのはすごい行動力だ。筋金入りのリベラルといっていい。
だがこういうリベラルが保守側に転向した際に最悪となるエピソードというのは多い。一番判り易いのがアメリカのネオコンサバティブで、その中心人物はスターリンに左翼偏向と詰られたトロツキストだった。
『国益』誌でソ連崩壊をアメリカ的民主体制の勝利(歴史の終わり)とする一派を押しのけて軍拡競争の為と総括した連中が911の衝撃に乗じて共和党内の穏健派を追い出し、宗教右派と手を組んで共和党ジャックしてしまった。その結果イラク戦争を起こし、イラク国内を平定出来ずにISISの活動を許し、中東を戦乱の渦に巻き込んでしまった。責任を問われて失脚し、穏健派をパージしていたので今の共和党は宗教右派と陰謀論のトランピアンに乗っ取られた、アメリカの覇権の内なる脅威みたいなもんになっている。
太郎の場合も実効性や結果のフィードバックを取り込んで行動していない。設計→実行→修正の行政組織の行動葎を取り込まずに、設計しっぱなしなのだ。イージス・アショア配備で断念する旨の報道が出たのに「自分は知らないから誤報」と言って後で泣き言言っていたのを覚えているだろうか?防衛省内の報連相サイクルからパージされていたという事だ。
ワクチン担当でも残数ショートで産業医接種を突然停止させ、その余波で通常の大規模接種も長く停止してしまったのに、それは外部の問題だと言って憚らなかった。自分の行動が及ぼす影響を考えず、自分の設計は正しいと言うだけだった。
Xのブロック問題も初めは「変なネトウヨ」(本人談)をブロックしていただけだった。紅の傭兵の息子だから中国のスパイだろお前は、的なものを相手にする必要はない。だが入閣後は自分の行為を評価している人全てブロックになって、マスコミの質問もブロック、となるとただ設計があるだけで、それが適切な出力となって社会に作用するか?という事を問われる環境に居た事が無い。
そうすると源泉徴収年末調整廃止と総確定申告化が如何にシャウプ勧告に基づき、ずっと議論されてきた理がある方策だとしても反対するしかない。
しかもこれが「ピンポイントのプッシュ型支援に繋がる」と、入力とまるで関係がない出力が得られる、と言っていれば猶更だ。これは20年遅れのB層に設計しっぱなしの政治家が語っているというだけの下らん話である。それは騙しがデフォルトのコミュニケーションをしているだけに過ぎないのである。
おれも日中に眠くなることが頻繁にあったんだけど昼寝を15分するようにしてた。
目をつぶって瞑想みたいな感じで座るだけでもだいぶ効果あったな。
Amazonでトリプトファン500mgを買って飲んだことあるけど気絶するように眠ってしまったので怖くてやめたw
あれは即効性はないけど犯罪的なほどの眠気だった。メラトニンも使ったことあるけど同じぐらい眠くなった。
メンクリでもらったデパスとなんかの薬も良く効いたけど翌日まで残るので好きじゃなかった。
生まれてこの方、朝すっきり起きれたことがない。中途覚醒と熟睡困難がひどい。
睡眠時間の確保、部屋の気温の調整、栄養バランスを考えた食事、適度な運動、寝る前はスマホは見ない、等のよくある睡眠改善策は全て試した。
しかし、依然として朝の気怠さが強く、日中も眠くてしょうがない。仕事にも影響が出てる。(コーヒーのカフェインで最低限は誤魔化してる。もちろん、半減期を考慮して午前中しか飲まない)
調べてみると、発達障害は脳がバグっているからホルモンバランスが崩れやすく、不眠症を併発しやすいらしい。
また、ストレスはコルチゾールの分泌を促し、コルチゾールは睡眠を誘発するメラトニンの生成を阻害するらしい。
つまり、不眠症→日中頭が動かずストレス発生→コルチゾール分泌→メラトニン阻害→不眠症、の地獄のループが発生している。
詰んでる。
差別について議論するなら、以下のような内容は「文系」的には常識なので、わざわざ「賢い僕が発見したよ!」みたいに主張されると萎える。
・そもそも人間の思考(言語の構造)自体が、何かと何かを分けてグルーピングすることによってしか成立しないので、あらゆる区別を差別と呼ぶなら、極論すれば(たとえばニワトリをニワトリ、女性を女性と呼ぶことまで含めて)全ては「差別」であり、それが不当であるか否かは「程度問題」である。
・従って、通常は「世間的に見て『不当』と判断するもの」を「差別」と呼ぶことになっており、そのため一般的な用語としての「差別」という語には、「不当なものである」という含意がある。(従って自民党の付け加えは無意味であり、逆に余計な含意をもってしまうので有害ですらある。)
・図示するとこんな感じ。( /数字/ は その語の使い分けにおける境界線を指す。たとえば⑴は「A混沌(と呼ばれるもの)」と「B区別(と呼ばれるもの)」の間の境界線を意味している。)
ただし、何者も区別しない「A混沌」については、何も思考することができない、言語以前の領域なので、思考し論じる対象にならない。
通常ここに明確な境界線があると考えている人が多いがそれは誤解である。確かに、「時代や文化が変わっても、明白(に見える根拠)があり、人為が働かない(ように見える)弁別がある」違いというものはあるため、たとえば液体と固体、水と氷を分けることは明白に「B区別」であり人為が関与しないかに見えるのも事実だが、たとえば水と湯を分ける境界線が日本語と英語で異なり、色の弁別が言語によって曖昧であるように、「認識」が関与する限りそこに見いだされた「差」は人為的なものであり、人の「価値観(すなわち偏見)」から自由になることはない。その意味で「B区別」と「Cグレー」の差も所詮「程度問題」である。スポーツにおける男女分け、のように、かつては「B区別」と考えられていたものが、ジェンダー論の発展や女性の地位向上など諸々の状況から、「本当に合理的な区別であるか」が問い直されている、などの例は、「B区別」から「Cグレー」ではないかという議論が起きている例であり、逆に、近代以前は大人と一緒くたにされていた「子ども」を取り出して教育の機会を与え、社会で保護しようという風に変化したのは、「Cグレー」から「B区別」へと変化した例である。
ここを明確に区分できるというのは、いわゆる「ためにする」差別議論を行う人の大きな誤解である。この境界線は決して「明確に区分・定義」はできず日々揺らいでおり、またその状態がもっとも健全な状態である。あくまで、どこで線引きをすることが社会の安定と発展のために寄与するのか、を主眼として、「D差別(明らかに行ってはならない区分け)」なのか「Cグレー(判断がつきにくい、不当に見えるが法的な規制も行き届かない)」の判断は、常に慎重に検討される必要がある。その際、社会が全体主義的(全体の幸福のために少数の犠牲は許容される)なのか民主主義的(少数の意見も他の意見と同等に重視される)なのか、によっても当然判断は異なることになる。また、Cと判断されたからオッケーではない、というのも重要な点であって、その判断が妥当かどうか、いま必要で重要な問題かどうか、判断時点からの状況変化、対象が曖昧でないかどうか、など、不断の議論が欠かせない。
さて、それを踏まえて話を牛角に戻そう。
サービス業における女性優遇キャンペーンの是非、いわゆる「レディスデー」問題は、男女という一見明確な「B区別」に依拠しているように見えても、その区分の合理性自体が「程度問題」に過ぎないこと、また、「女性の受けるサービス料金は男性が負担させられているのでは」という疑念が拭えないことなどから、「Cグレー」であると判断されるが、ではそれを「D差別(明確に是正すべき不当な行為)」と判断すべきか否かについては、行き過ぎと感じる人も多いのが現状かと思う。そのことは、牛角に限らず、多くの「レディスデー」キャンペーンを実施する店舗で、逆に男性から忌避されるなどの大きな営業上の不利益が出ていないことからも了解される。そもそも、映画にせよ焼き肉にせよ、提供者も多いことから、忌避するにしても他の選択肢があるわけで、ぶっちゃけ「大多数の人にとってはどうでもいい」問題に属する。では、なぜ「差別だ」と騒ぐ人がいるのか。
話が変わるように感じるかもしれないが、類似の例として、一部の広告を取り上げて「女性差別だ」と騒ぐ事例を考えたい。企業が営利目的でやっていることで、それ自体が積極的な被害を引き起こし法的に規制する必要があるとまでは多くの人が認識しない(つまりDではないがC)ものだが、これについても「差別だ」と騒ぐ人がいる。これは、何も学問的に見て明確にCとDを峻別してDだと判断できる、という話をしているわけではなく(もしそう信じている人がいるとしたら、それは相当に×××)、騒ぐことそれ自体によって人々の気分を醸成し、結果として社会状況自体を変化させようという社会運動(一種のデモ、まさにデモンストレーションという意味で。)の一種なのだ。誤解されているが、今日フェミニズムと呼ばれているものの多くはこの「デモ」であって「学問」ではない。(※)だから、騒ぐ人たちはおおむね一般常識とは異なることを主張する(常識的なことをデモで声高に述べる意味はない)が、その人たちが声高に述べることが「正しい」と証明されているわけではないし、その人たちも積極的にそれが「正しい」ことを証明したりはしない(証明できるならデモより論文で書く)。騒ぎになることこそ、デモの狙いなのだ。つまり、これに顔を真っ赤にして反論しようとするのは無意味というよりむしろデモ側の応援をしているのと同じである。従って、意見に賛成できない場合も、デモ自体はスルーして別のところで意見表明なり社会行動をするなりした方がよいと思う。
これを踏まえて、もう少し具体的に書く。「たわわ」や「宇崎ちゃん」を批判したフェミニストの狙いは激しい批判を巻き起こすことであり、それは社会運動として一定成功した。では「牛角」批判をする人は、男権主義者として失われた権利を獲得するため戦略的な意図でデモを行っているのだろうか、それとも、論理的に「レデイスデーはDであると証明できる」と考えて証明しようとしている人なのか、あるいは単に「この件で女性相手に憂さ晴らししたい」というルサンチマンに過ぎないのか。私は、そのいずれであってもこれは無意味な行動だと言いたい。
「たわわ」も「宇崎ちゃん」も、それらが女性差別「的」かと言えばそう論じることはもちろん可能だろうが、それを「D差別だ」などと言い切れば社会的には表現規制を強め過ぎる無意味・有害な主張であると思うし、それ以前に指摘し是正すべき有害で明確に「D差別」な女性差別が世の中にあふれているのだから(風俗業、芸能界などにおける性的搾取などはその典型だ)運動論としても拙劣だと思っているが、それらが激しい反応を引き起こしたという一点では運動論として評価することも可能かと思うし、その結果が女性の地位向上にわずかでもつながったのなら全く無意味とまでは言えないと思うが、「牛角・レディスデー」問題については、まず男権主義をこれ以上社会で伸張させることにはおそらく社会的合意は得られないだろうし、論理的証明は上で述べたようにほぼ不可能であり無意味でもあるし、ルサンチマンならそのエネルギーはもう少し建設的なことに使用した方がよいと思っているので、運動論としても学問的な意味でも、また俗論としても、とるべきところのない議論だなあと思っている。
仮に、真剣にいわゆる「弱者男性」問題を憂えているのなら、男権主義の伸張という方向でそれが解決されることはもう無い(過去一時的にあった「男というだけで威張ってるオッサン」があふれる社会に戻したい、などという主張は、当の男性からのものも含めて今後社会的合意を得ることはできないだろう。可能になるとすれば、そういう一派を集めてたとえばイスラム教勢力と結託し革命を起こして政権を奪取するくらいしかないだろう。)ので、機会平等社会の下で結果平等をいかに実現するかを考えるしかなく、つまり一種のアファーマティブアクションでしか対処方法がない。なので、そのためにはまずいわゆる「弱者男性」とそのルサンチマンを可視化し、それを救う方策を具体的に検討するのが近道だと思う。将来的には、たとえばVR空間へのアクセス権やアンドロイドの配布などが現実的な解かもしれない。いずれにせよ、牛角が女性サービスするかどうかなんて、それらに比べればおおよそ「どうでもいい」話で、議論したところで現実の弱者男性は一つも救われず、差別に関する社会的認識や理解など1ミリも深まらないし、一瞬の憂さ晴らしにしてはただの焼肉屋に迷惑がすぎるので、さっさと辞めた方がいいと思う。
※…もう少し丁寧に言うなら、主に「社会運動」を企図した活動であって、多くの人に認められうるような論理に基づき常識を解体・構築する「学問」的活動とはまた異なるところに主眼がある、ということ。後者は観測対象を描写・分析・記述するものだが、前者は積極的に観測対象を変化させることを目的としている。なお、社会学者の中には、学問の存在価値は現実を変革し社会運動となることにこそあると主張する人もいるが、その場合も、分析・記述に十分な力があるなら、それは自然と社会の常識を解体・再構築するであろう、という意味であり、観測対象の描写・分析・記述が"いい加減"であっても社会を変革できればいーや、という意味ではないと思う。
新しい趣味を始めたくて「自宅でひとりで練習できる対戦系」という条件でリサーチしてるんだけど
数ある趣味の中でも「文化系で対戦」という領域の候補が一番少ないよね。
スポーツみたいに他人と対戦ができて自宅で練習できるものがいいんだけど
将棋、囲碁、チェス、麻雀しか思い浮かばなかった。いまならカードゲームがあるのかな。
スポーツはランニングをしてるから対戦競技かつ運動以外がいいんだよな。
競プロも良さそうだけど1対1の対戦ではなさそうだし仕事もプログラミングだからな・・・
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追記2
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ごめん、「ゲーム」はスマホゲームとかプレステとかスイッチみたいな意味のゲームね。
さすがに「将棋も麻雀もゲームなんで」と言われるとは思わなかった。おとなしくチェスでもやっとくわ。
追記3
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ブコメ読んで。オセロとかマンカラ、バックギャモン、ドミノいいね。インドのビリヤードみたいなやつはYouTubeで見たことある。