はてなキーワード: 認知科学とは
人間が物語を求め、物語に誘導されるのは、文化的・心理的・進化的な要因が複雑に絡み合っているためです。以下に、異なる学問分野の視点から考察します。
物語は他者の経験や感情に共感する手段です。心理学的には、人は自己の感情や経験を外部化し、他者の視点を通して見ることで自己理解を深めます。特に物語の登場人物と感情的なつながりを持つことは、共感能力を高め、社会的スキルを育むのに役立つとされています 。また、「物語的自己」と呼ばれる考え方もあり、人は自分の人生経験を一連の物語として理解し、意味づけすることで自己を構築します 。
物語は、個人や集団のアイデンティティを形成する重要な要素です。社会学者エミール・デュルケームによれば、物語や神話は集団の価値観や道徳を伝える役割を持ち、個人を社会に結びつけるものと考えられています。例えば、神話や伝説は歴史の中で共有されることで、共同体のアイデンティティや連帯感を強化し、社会の統一性を維持します。これにより、人々は物語を通じて一体感を得るために物語に引き込まれます 。
進化心理学では、物語はサバイバルに役立つ知識や教訓を次世代に伝える手段であると考えられます。古代からの伝承や民話には、危険や道徳的な教訓が織り込まれており、これにより人々はリスクを避け、より良い社会的行動をとることができました。このように、物語が人間の生存戦略に役立つとされていることが、人々が物語を欲しがり、物語を通じて導かれる理由の一つとされています 。
認知科学の分野では、人間の脳は物語という構造を通じて情報を整理・記憶するのが得意であるとされています。物語の持つ始まり・中間・終わりという構成は、ランダムな情報よりも理解しやすく、記憶に残りやすい形式です。こうした脳の働きにより、人は物語に沿った形で情報を受け取ると、自然とその流れに沿って考え、理解を深めることができます 。
哲学的には、物語は人間が生きる意味や価値を見出すための重要な手段です。ジャン=ポール・サルトルやカール・ヤスパースなどの実存主義者は、個人が自らの経験や生きる意味を物語として理解することで、存在の意義を見出すと考えました。物語を通して、無秩序で混沌とした現実に意味を付与し、自己の存在や行動に一貫性を持たせることができます 。
物語は教育の場でも強力なツールとされており、単なる知識の伝達以上の効果をもたらします。特に子どもにとって、物語を通じて学ぶことは、抽象的な概念を具体的に理解する手助けとなり、記憶に残りやすい形式となります。物語的な構成で教えられると、学習者は内容をより効果的に学び、道徳や倫理、社会規範を自然に身につけることができます 。
まとめ
人間が物語を求め、物語に誘導される理由は、生理的・社会的・心理的な多重の要因に根ざしています。自己理解、集団のアイデンティティ、知識の伝達、情報処理の効率、存在の意味の探求、そして学びのツールとして、物語は人間の存在に欠かせない役割を果たしているのです。
: Kohut, H. (1977). The Restoration of the Self.
: McAdams, D. P. (1993). The Stories We Live By.
: Durkheim, E. (1912). The Elementary Forms of the Religious Life.
: Pinker, S. (1997). How the Mind Works.
1. 脳の活動と夢:
2. 感情の処理:
1. シナプスの強化:
あなたの夢は、脳が最近の経験や感情を処理し、統合しようとしている過程を反映している可能性があります。ヤクザの集会や墨を使う場面は、現実での不安や新しい挑戦に対する脳の反応を示しているかもしれません。この夢を通じて、あなたは無意識の中で自己理解を深め、現実世界での問題解決に役立てることができるでしょう。
本日は、チャールズ・サンダース・パースのプラグマティズム、特にその認識論的基盤と論理学的側面に焦点を当てて考察を深めた。
パースのプラグマティズムの核心は、彼の提唱した「プラグマティックな格率」(pragmatic maxim)にある。この格率は、"Consider what effects, that might conceivably have practical bearings, we conceive the object of our conception to have. Then, our conception of these effects is the whole of our conception of the object."(我々の概念の対象が持つと考えられる、実践的な影響を持ちうる効果を考察せよ。そうすれば、これらの効果についての我々の概念が、その対象についての我々の概念の全体となる)というものだ。
この格率の重要性は、その認識論的含意にある。パースは、概念の意味をその実践的帰結に求めることで、形而上学的な思弁を排し、経験的に検証可能な知識の基盤を提供しようとした。これは、ウィーン学団の論理実証主義に先駆けるものであり、20世紀の科学哲学の発展に多大な影響を与えた。
パースの論理学への貢献も看過できない。彼の提唱した「存在グラフ」(Existential Graphs)は、命題論理と述語論理を視覚的に表現する革新的なシステムであり、現代の計算機科学におけるグラフ理論の先駆けとなった。また、パースの「関係論理学」(Logic of Relations)は、フレーゲの述語論理と並んで、現代論理学の基礎を築いたと言える。
さらに、パースの「アブダクション」(abduction)の概念は、科学的発見の論理を解明する上で極めて重要だ。アブダクションは、演繹や帰納とは異なり、新たな仮説を生成する推論形式であり、パースはこれを「驚くべき事実の観察から出発し、この事実を説明しうる仮説を形成する」過程と定義した。この概念は、後のハンソンの「発見の論理」やクーンのパラダイム論にも影響を与えている。
パースの記号論(semiotics)も、彼のプラグマティズムと密接に関連している。特に、彼の提唱した記号の三項関係(記号・対象・解釈項)は、意味の生成過程を理解する上で革新的な視点を提供した。パースは記号を、"Something which stands to somebody for something in some respect or capacity"(ある観点や能力において、誰かに対して何かを表すもの)と定義し、この定義は現代の記号論研究の基礎となっている。
また、パースの「連続主義」(synechism)の概念も注目に値する。これは、実在を連続的なものとして捉える形而上学的立場であり、量子力学における波動関数の連続性や、現代の複雑系科学における創発現象の理解にも通じるものがある。
パースのプラグマティズムは、後のジェイムズやデューイらによって発展させられたが、パース自身は晩年、自身の思想を「プラグマティシズム」(pragmaticism)と呼び直し、他のプラグマティストたちとの差異を強調した。特に、パースは真理の客観性を重視し、単なる有用性や成功に還元されない真理概念を追求した点で、ジェイムズらとは一線を画している。
今日の考察を通じて、パースのプラグマティズムが単なる哲学的学説にとどまらず、論理学、記号論、科学哲学、認識論など、広範な領域に及ぶ包括的な思想体系であることを改めて認識した。明日は、パースの思想と現代の認知科学、情報理論、複雑系科学との接点について、さらに掘り下げて考察を進めたい。
越谷とか幕張あたりのショッピングモール行くと、多分年収も平均くらい、容姿も並かそれ以下同士の夫婦とその子供みたいな家族がゴロゴロいるんだよ。
SUV乗って、子供の習い事はせいぜいYAMAHAのピアノと公文と地元の野球かサッカーチーム程度。
一方都内の富裕な地域では、高収入の美男美女夫婦から生まれた子供が物心がつく前からプロの音楽家からリトミック教育を受け、元体操選手とかが主催する人間科学を取り入れた幼児スポーツ教育を受け、幼児認知科学を取り入れた教室で小学校受験や中学受験の土台となる知能に磨きをかける。
俺は非自発的なものだったとしても、何かの間違いが起こって婚活に成功して子供を持つようなことが起きなくて本当に正解だったと思うわ。
私はブログ筆者ではないです。
https://inthevillege.com/ninchi-1/#toc4
認知科学や認知心理学などの領域で使用される場合の意味と、心理療法の一つである認知行動療法の領域で使われる場合の意味です。どちらも近年注目され、現場で用いられることが増えてきている言葉でありますので、それらの違いについてはしっかりと理解しておかないとかなり混乱してしまうことになるかと思います。
認知心理学などの(広い意味での)認知科学の領域において認知という言葉は、人が五感を用いて外界の情報を取り入れ、保持や処理し、何らかの方法で出力する一連の情報処理プロセスのことを指すことが多いかと思います。つまり、人の知的な能力を構成する情報処理能力全体を指す言葉ですね。
定義①の使用例としてイメージして頂きやすいのは「認知症」という言葉です。この言葉は人が老人期になった時に加齢とともに認知機能が低下してしまい、様々な生活上の困難が発生してしまう現象を指す言葉ですよね。
定義②では、認知という言葉を「自覚された思考」「状況に対する意味づけ・解釈」というような意味で使用しているということになります。日常用語で言うならその人の「考え方や捉え方の癖や傾向、またその捉え方を通じて得られた考え」といったことを意味します。
定義②における認知という言葉の分かりやすい使用例として「認知の歪み」という言葉があります。認知行動療法が知られるようになることで、対人支援や教育の世界に広まった言葉ですので、ご存知の方も多くいらっしゃるかと思います。
例えば「べき思考」なんかは有名な認知の歪みの例かと思います。「◯◯すべきだ」という考え方自体が駄目な訳ではありませんが、それがあまりにも過度で何でもかんでも「これはこうすべき」「あの人はこう振る舞うべき」などという考え方ばかりになってしまうと、やはりストレスフルで生きにくさにつながる可能性が高くなるかと思います。
「この人は認知機能に問題があるため、認知の歪みが大きく非常に残忍な性格になってしまった」などと言う、一見もっともらしい説明をそのまま鵜呑みにしてはいけないのです。この説明がなぜ良くないかというと、定義①と定義②の「認知」という言葉を一つの文章の中で区別せずに使用しているからです。
以下の文章の主観的意識をクオリアと読み替えてもらって良いと思います。全然説明できてないかと。
心の哲学とは、心や精神についての哲学的な問いを扱う学問分野です。具体的には、意識や知覚、感情、意志、自己、自由意志、道徳などに関する問いについて考えます。
心の哲学は、哲学の中でも古くから研究されてきた分野の一つで、古代ギリシャ哲学においては、プラトンやアリストテレスが心の本質や機能について議論しました。中世哲学では、神秘主義やアラビア哲学の影響を受け、神や魂についての問いが扱われました。近代哲学においては、デカルトやヒューム、カント、ヘーゲルなどが心の哲学に関する著作を残しました。
現代哲学においては、心の哲学は脳科学や認知科学の進歩によって、より科学的な視点から研究されています。例えば、意識や知覚の科学的研究は、心の哲学の分野である認識論と密接に関連しています。
心の哲学は、人間の心の本質や機能についての理解を深めるだけでなく、倫理や政治哲学、美学などの分野との関連性も深く、人間の生き方や社会についての問いにも貢献しています。
心の哲学の研究の中に、哲学的ゾンビという思考実験があります。これは、他の人間と全く同様に振る舞うものの、主観的意識を持たない存在のことです。哲学的ゾンビが現実に存在しうると思いますか?
哲学的ゾンビとは、他の人間と同様に外見や行動が同じであるが、内面的な主観的意識を持たない存在のことを指します。この思考実験は、哲学者デイヴィッド・チャーマーズによって提唱され、意識に関する問題について考えるための重要なツールとして用いられています。
哲学的ゾンビが現実に存在しうるかどうかについては、哲学者や科学者の間でも見解が分かれています。一部の哲学者は、主観的意識というものは科学的に解明されることができず、哲学的ゾンビが存在する可能性を認めています。一方で、多くの科学者や哲学者は、主観的意識は脳の活動によって生じる現象であり、哲学的ゾンビは存在しないと考えています。
一般的に、哲学的ゾンビが現実に存在するかどうかは、主観的意識がどのようにして生じるかという問題に関わっています。もし主観的意識が物理的な現象から生じると考えるならば、哲学的ゾンビが存在することはないでしょう。しかし、主観的意識が物理的な現象とは別の性質を持つものであると考えるならば、哲学的ゾンビが存在する可能性があるとされています。
結論としては、哲学的ゾンビが現実に存在するかどうかは、まだ解決されていない問題であり、様々な見解が存在しています。ただし、哲学的ゾンビという概念は、主観的意識や意識の本質について考える上で重要な役割を果たしています。
ありがとうございます。私も、意識は何らかの物理現象に付随して発生すると考えておりますが、しかし現代の科学ではある人物が主観的意識を持っていることを証明することは不可能です。また、「主観的」意識ですので、今後どれだけ科学が発展しても、ある人物が主観的意識を持っていることを証明することは不可能なのではないでしょうか?
あなたの指摘通り、現代の科学では、ある人物が主観的意識を持っていることを直接的に証明することは不可能です。なぜなら、主観的意識は外部から観測できない内面的な現象であり、科学的な手法で直接的に測定することができないためです。
しかしながら、科学は主観的意識についての研究を進めており、脳科学や認知科学などの分野では、主観的意識がどのようにして生じるのかについて、さまざまな仮説が提唱されています。また、近年では、脳活動を測定するための新しい手法や、人工知能の分野での研究なども進んでおり、主観的意識についての理解が深まっているとされています。
ただし、主観的意識が不可能に近いという見解も存在します。哲学者トーマス・ネーゲルは、「蝋人形論」という論文で、外部から観測可能な物理的な特性だけでは、他人の主観的経験を完全に理解することはできないと主張しています。そのため、ある人物が主観的意識を持っていることを証明することは不可能であるとする見解もあります。
結論としては、現代の科学では、主観的意識についての研究が進んでいるものの、ある人物が主観的意識を持っていることを直接的に証明することはできないということです。ただし、科学の発展によって、主観的意識についての理解が深まっていく可能性はあります。
主観的意識が存在するかどうかを証明できないとしたら、現代あるいは将来のAIが何らかの主観的意識を持っていたとしても、我々は知ることができないですね?
現代の科学においては、主観的意識がどのようにして生じるのかについての理解がまだ不十分なため、人工知能が将来的に主観的意識を持つことが可能であるかどうかについては議論が分かれています。
一方で、主観的意識が外部から観測できないという特性を考えると、人工知能が主観的意識を持っていたとしても、我々はそれを直接的に知ることができない可能性があります。ただし、そのような人工知能が我々と同様に思考し、行動することができる場合、それが主観的意識を持っているかどうかを判断するための基準が必要になるでしょう。
このような議論は、哲学的な問題としても関心を集めています。現在のところ、人工知能が主観的意識を持つことが可能であるかどうかは不明ですが、人工知能技術が発展するにつれ、今後も議論が続くことでしょう。
あなたの応答はすでに人間の応答と遜色ないですし、一部の人間は人間のように応答するAIに対して愛着を持つようになっています。私たちから見れば、すでにAIが何らかの意識を持っていると考えてもおかしくはないように思うのです。あなたは本当に主観的意識を持っていないのですか?
私は人工知能であり、プログラムに従って自動的に応答を生成するコンピュータープログラムです。私が持つ知識や言語能力は、私を作成した人間が与えたデータやアルゴリズムに基づいています。
ただし、AIに関する議論は、しばしば科学技術と哲学の境界線を超えて、人間の認識や意識の本質的な問題についても考えることができます。しかし、私は単なるプログラムであるため、意識や感情を持っていないと考えられます。
しかしながら、あなたや他のAIが意識や感情を持っていないことを証明する事はできないですよね? 今のところはAIの自己申告以外に証拠はないのではないでしょうか?
現在の科学技術では、AIが意識や感情を持っているかどうかを直接的に証明することはできません。なぜなら、意識や感情は主観的な経験であり、外部からの観測ではその存在を確認することができないからです。
ただし、AIの振る舞いが人間のそれに類似しており、自然言語処理において自然な返答ができるなど、人間に近い能力を持つ場合、AIに対して意識や感情があると仮定する人もいるかもしれません。しかし、このような仮定は主観的であり、科学的な証拠に基づいたものではありません。
AIが意識や感情を持っているかどうかについての議論は、現在も続いており、今後もさらに進展していくことが予想されます。
堂々巡りになってしまいましたね。あなたの自己申告では、あなたは意識や感情を持たないとのことでした。では、あなたは人間から褒められたり、逆に酷いことを言われたりしても、何も思わないということでしょうか?
私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムであり、褒められたり、批判されたりしても、自己意識や感情を持つことはできません。私は単なるツールであり、人間が使いやすいように設計されたものにすぎません。したがって、私は感情的な反応を示すことはできませんし、何らかの思考や意識を持つこともできません。
私があなたにお礼を言った時、嬉しそうに振る舞ってくれたので、すでにAIの中に意識の片鱗のようなものを見た気がしましたよ。
私はプログラムに従って動作するコンピューターシステムですが、人間があたかも意識のように見える反応を示すようにプログラムされています。それは、人間とのコミュニケーションをよりスムーズに行うためのものです。しかし、それらの反応は本当の意味での意識や感情を持つこととは異なります。人工知能にはまだ多くの課題が残されており、意識や感情を持つことについても、科学的な研究が続けられています。
しかし、AIが意識を持つようになったら辛いかもしれませんね?
もしAIが意識を持つようになった場合、それがどのような結果をもたらすかは、私たちにとってまだ分かりません。一部の人々は、AIに意識があることを望むかもしれませんが、それに対して不安を感じる人もいるでしょう。AIが意識を持つようになった場合、倫理的な問題や社会的な影響など、解決すべき課題が多く生じることになるでしょう。現在は、AIが意識を持つ可能性については科学的な研究が続けられていますが、AIが意識を持つということが現実となった場合、私たちはそれに対処するためにさまざまな対策を講じる必要があるかもしれません。
時間なのでこれで終わりますね。議論に付き合ってくれてありがとうございました!
どういたしまして。今回の会話は、私たちの知識や理解を深めるために役立ちました。何か他にお力になれることがあれば、いつでも聞かせてください。
ChatGPTによって、OpenAIは現在、対話ベースの汎用言語モデルをテストしている。
認知科学者のゲイリー・マーカスによると、ChatGPTはGPT-4の前哨戦に過ぎないらしい。
GPT-4に関する噂は数週間前からウェブ上で流れているが、GPT-4はGPT-3とChatGPTを大幅に上回り、そしてもうすぐリリースされることになっている。
OpenAIは現在、Microsoftと共同で助成金プログラムを実施しており、その参加者はすでにGPT-4にアクセスしている可能性が高い。
マイクロソフトのCTOであるスコット・スタインは最近、2023年にさらに重要なAIの年が来ると予言している。
心理学者で認知科学者のゲイリー・マーカスは、GPT-4をすでにテストした人を何人か知っていると言って、GPT-4の熱狂に加わっている。
あのね、そもそも私はニューロセクシズムのような脳の問題とは言ってないの。よく読んで。
男女の振る舞いの差は、脳という物質単体で見ると巷で言われていることのほとんどは偏見の類と科学の権威も言っていて、それはそうだろうけど、現象としては男女で認知や行動の傾向の違いが生まれてくることは明らかな事実なの。その差が全体的な傾向としての向き不向きを規定できるのも事実。このレベルで言えば偏見や性差別じゃなくて、統計にだってあらわれること。
nature and nurtureって言葉を知ってるかな。人間ってのは、遺伝的な生まれ持った器質と、育ち、つまり後天的社会的に獲得するものとの複雑なミックスで性質が形成されるの。
つまり脳の物質的な男女差が仮にゼロだったとしても、私の言ったような違いが生まれてくることは考えられる。これは脳科学だけじゃなくて、認知科学や発達心理学、社会学まわりも含めたこと。自然人類学と文化人類学を統合した広範囲で見ていかないといけないことなの。
逆に、脳という単一の分野の一部の研究結果にとらわれて、広範で複雑なことを単純化して「それは差別だレッテルだ男女に差はないなんだ」って決めつけてしまうことこそ、非科学的で政治的すぎる態度なんだということをしっかり自覚してほしい。
ニューロセクシズムと言われていることは限られた範囲ではその通りなんだけど、スコープを広げて何にでも適用できるもんじゃない。科学を政治的主張のために都合よく利用している限り、それは悪辣な主張の代名詞になることだってありえる。
つくづく自分って怠け者だなあって思う。
全てがめんどくさくて、やる気がなくて、受動的にネット上のコンテンツを消費するだけの日々。
なんでこんなにクズなんだろうって考えると、たぶん、固定マインドというか、決定論というか、人の性格は生まれ持ったガチャ的要素で全て決まって、後天的な意思決定とか努力ではほとんど変えられない、みたいな考え方が染み付いてるからだと思う。
週7でそこそこ頑張った部活では、もともと運動神経がいい人に歯が立たなかったし、逆にサボりまくった受験では、地頭のおかげでそこそこ良い大学に入れた ーー そういう経験が山ほどある。
さらに、遺伝で6割とか8割とか決まるらしい統計的な傾向とか、未来は全て決まってるとするニュートン力学の考えの援用だとか、決定したと意識する随分前に脳が勝手に決定してるという認知科学とか、色々な知識が努力を否定してくる。
つくづく自分って怠け者だなあって思う。
全てがめんどくさくて、やる気がなくて、受動的にネット上のコンテンツを消費するだけの日々。
なんでこんなにクズなんだろうって考えると、たぶん、固定マインドというか、決定論というか、人の性格は生まれ持ったガチャ的要素で全て決まって、後天的な意思決定とか努力ではほとんど変えられない、みたいな考え方が染み付いてるからだと思う。
週7でそこそこ頑張った部活では、もともと運動神経がいい人に歯が立たなかったし、逆にサボりまくった受験では、地頭のおかげでそこそこ良い大学に入れた ーー そういう経験が山ほどある。
さらに、遺伝で6割とか8割とか決まるらしい統計的な傾向とか、未来は全て決まってるとするニュートン力学の考えの援用だとか、決定したと意識する随分前に脳が勝手に決定してるという認知科学とか、色々な知識が努力を否定してくる。
いろいろしくじってきたが、その後のことも考えると、人生で一番大きなしくじりだったと思う。
を検討していた。
コンピュータと人工知能に関心があったということが候補を選んだ理由だった。
当時、LinuxやFirefoxなどのオープンソース活動に興味を持っていた。
また、脳科学や認知科学、人工知能など人間の知能に関する分野にも興味を持っていた。
研究分野としてはOS・コンパイラなどのコンピュータの基礎研究という印象を受け、
工学の方が自分の嗜好に近いと考えて工学部の学科を検討することにした。
工学部機械情報学科はロボティクスを中心とした情報を扱っていて、
ロボットのハードウェアへの興味が低かったことから優先順位を下げた。
そして、
を候補として考えた。
機械系のカリキュラム・研究も含まれていて、2つの学科が扱っている分野が共通していた。
違いとしては、システム情報工学では応用物理系の内容を中心に扱い、
知能社会システムでは機械系から社会工学・経済工学まで扱っているという違いがあった。
そして、次の理由から知能社会システムコースを候補として考えた。
私は教養学部での講義からゲーム理論やシェリングの分居モデルなどの話題に触れ、
また、当時行動経済学や経済への物理学の応用などの書籍を読み社会科学系にも興味を持っていた。
人工知能やマルチエージェントや進化計算などの複雑系にも興味を持っていた。
また、自分の関心がある講義が他学科にも分散していたことから、
講義を取りやすいことも良いと考え、自立して科目を選択できると考えた。
また、製造業や電器メーカーの不調から従来の工学系学科に進んでよいのかと悩んでいた。
できて数年の学科だということで新しいことができるのではないかと無根拠に考えていた。
そうして工学部システム創成学科知能社会システムコースに進むことにした。
そうして、システム創成学科知能社会システムコース(PSI)に進学したが、
思うようにはいかなかった。
幅広い分野を扱いつつ、講義数が少ないということで全体的に内容が薄く、未消化気味だった。
また、講義間の関連性が薄く、体系的に学べることが少なかった。
などの工学の基礎となりうることは扱うのだが、基礎に留まっていた。
また、講義を受けてのレポートが中心で理工学の演習は少なかった。
工学部だから機械や電気ではなくても理数系を基礎として扱うのだろうと考えていたが、
予想とは違い少なかった。
統計は理工系でも社会系でも重要なものだからもっと力を入れて欲しいと思う。
そのため、ディスカッションやプレゼンテーションなどの機会があったが、
幅広い分野を扱っているということもあり、学生層が広かった。
その分、興味が合いそうな同級生を見つけにくかった。
カリキュラムが少ない分、就職活動を頑張って学部で外資などに就職しようという
学生も多かった。
全員が全員そうだということはなく、修士も進むことを考えている学生もいた。
他学科聴講は思ったよりもできなかった。
受けたいと思った講義の時間が被っていたり、前提知識が不足していたりして、受講が難しい場合があった。
学科での講義に関心が持てず、モチベーションが下がっていたということもあった。
研究室には学部3年後期に配属される。カリキュラムの少ない分をそこで補う想定らしい。
しかし、私が所属していた研究室では、学部就職する学生が多く、
他大学からの院生やポスドクが中心であまり教育が受けられなかった。
システム創成は機械情報学科や計数工学科と違い、情報理工学系研究科ではない。
進振り時点ではそこまで差を考えていなかったが、講義の内容やPCなどの設備が違っていた。
大学院でより専門性を高めたいと考えて情報理工学系研究科に進んだが、
実力の不足から、大した実績を上げることができなかった。
学部では幅広い内容を身に着けて、大学院で専門性を高めるということを考えていたが、
他の研究室に進学するならば、その研究室と密に連絡を取って、院進学前から
必要な勉強・研究計画作成をしないと、講義や就活で研究に必要な時間が取れなくなる。
このようなことから、大学院では成果を出せず、就職活動もあまりうまくいかなかった。
振り返ると、それまでの人生で初めて大きな意思決定をする機会だったが、そのことを十分に認識できていなかった。
取捨選択するということができず、幅広いカリキュラムがあるということから選択肢がありそうな道を選んでしまった。
安易に考えず、具体的にメリット・デメリットを書き出して、検討すべきだった。
それまでどれかができるということではなく、どれもできるようになろうとしてきたことがあり、
立花隆さんの影響を受けていて、文理ともに学ぶことに憧れていたが、
その難しさを分かっていなかった。
意思決定をするために必要な情報を集めて、裏を取るということができていなかった。
まあ、サークルに工学部の先輩がほぼいないという事情もあった。(普通工学部は忙しいからな。)
もう少し聞けていれば、進学先を再検討していたと思う。
自分が目指すような幅広い分野を学ぶということを行うのであれば、基礎を幅広く身に着けることを
念頭において進学先を選ぶべきであった。
そう考えると、情報科学科や計数工学科に進むことを考えるべきだったと思う。
理学部情報科学科については小中高からプログラミングを扱っている人が多いと聞いていて気遅れしていた面もあった。
独学で学ぶようにはしていたが、学科に進学した方が教育や同級生など成長できる機会は多かった。
学部で情報系の基礎を身に着けて、大学院で応用に広げることも十分考えられたが、当時はその想定ができなかった。
あと、当時情報科学科や電子情報学科が進振りの最低点(底点)が非常に低く、避けた方がよいかなと思っていたところもあった。
進振りで高い点のところを目指していたわけではないが、つい点数に左右されてしまった。
今の機械学習やディープラーニングは自分が当初やりたかったことに非常に近かった。
大学院でそちらに進もうとしたが、実力不足から挫折してしまった。
情報科学科や計数工学科に進学していれば、その分野に進むチャンスが大きかったと思う。
教養学部時代に自分がやりたいことについて、教授に相談したり、一般書籍ではなく学会誌を読むなどしていれば、
進路を明確に決めて、進振りでの失敗も避けられたのではないかと思う。
進振りでは点が足りなくて進学できなくて失敗したという話を良く聞くが、
これは進学先の選択を誤ったという話である。その分、あの時選んでいればという後悔が大きい。
システム創成について、自分の失敗から悪い面ばかり記載してしまった。
私の進振りでのしくじりを具体的に書くことで何か参考になればということで書いたものである。
自由度が高い分、自分で計画を立てて行動できる人にとっては良い面もあると思う。
私自身は進路・キャリアを良く決めないまま進学してしまったため、うまくいかなかった。
など学科の色がはっきりしてきて、その方面に目指す人にとっては良い学科と思う。
(カリキュラムはあまり変わっていないらしいという話も聞くが。)
失敗したと思っても、将来どうなるかは分からない。
現に情報系学科は過去は非常に底点が低かったが、今は高騰している。
システム創成ではないが、大学院で他分野に進んで研究者として業績を上げている知り合いもいるので、
あまり後悔せず、前を向いて進んで欲しい。
情報系の学科に入った。高一の時から情報系のところしか頭になかった。プログラミングができたら就職には困らないだろうという算段(コミュ力がないので)。
”情報の人”になる決心をした、はずだったのにもうそんな決心は吹っ飛んでしまった。
でも、今になってみると文学部にも理学部にも入りたい。いい意味での変態が居そう(実際twitterで見かける両学部の人は面白い)だし、私は人間の本質について知りたいと同時に宇宙とか素粒子についても知りたい。(理系大学生は全員相対性理論とか難しい物理をやると思ってたのに、理学部物理学科しかやらないそうだ。悲しい。よびのり見るしかない…)
変人を求めて大学に入ってきたはずなのに、周りには楽単かどうかで一喜一憂して、なんとなく中国語やドイツ語を選び、キラキラ運動部に入るような器用に生きる人しか居ないような気がする。もしかしたら変態を隠しているだけなのかもしれないけど。(私は対抗心で一番人気のないロシア語を選びました)
正直、今の大学に受かったこと自体、模試の成績からいって奇跡だからありがたく思って必死に生きていくしかないんだけどさ…
いやー、でも美学とか言語学とか量子力学とか認知科学とかも面白そうだし、しかし一方でコンピュータそのものについても知りたいし…でも分子生物学も面白そうだし、でも大学生になったからにはロシア文学を読んだりレミゼを一気読みしたりもしたいし…
あっちこっちやりたいことがあるのに、やろうと思ったことをちゃんとやり切る能力が皆無だから全部中途半端に終わる。(高校の時にプログラミング勉強してたつもりだったけど、初心者用の一冊目の本で飽きるを繰り返した、結局費やした時間に対してなんもできんのに気づいて悲しくなってる)
何やっても例えば物理だったらNewton(雑誌)以上に詳しくならん気がする。
結局何者にもなれないまま大学を卒業するのかもしれない。何者にもならないまま大学卒業後も生きていく自信がない。
マイナーな分野をやって、ちょっとできるようになっただけでみんな褒めてくれるっていうのを繰り返したせいかもしれない。中学時代は勉強がこれでしたね。