はてなキーワード: 自由主義とは
資本主義という根幹をアメリカ中国の2者が共有しその根幹から利益を得てる以上、お互いがお互いを刺激できないでいるし、それは経済に軸を移したMADとも取れる。
冷戦のようにアメリカが中国に打ち勝つなんて考えもあるがその可能性は低いだろう。米ソ冷戦では、政治システムも経済システムも何もかもが異なっていた。だからこそアメリカはソ連を追い詰めることができた。その査証として、2者の対立は軍事面のみに絞られ勢力圏拡大の代理戦争が発生した。
米中対立はそこが違う。
政治システムは違えど資本主義を導入し利益を得ている点では両者は同じだ。また両者はお互いに依存しあっている。アメリカは中国のサプライチェーンと13億の市場に依存している。トランプが国内回帰を進めても完全な脱依存はできない。中国もまた、アメリカの下請けとして利益を得ているし、多くの留学生をアメリカに送り出す。これまでの中国の発展に寄与した科学者実業家の多くがアメリカ留学帰りの海亀だ。両者はお互いに依存しこれまで成長してきた。グローバリゼーション様々だ。だとしてもアメリカやそのお仲間の国々は中共の弾圧に制裁を課しているし、それがアメリカの勝利に繋がると思う人もいるだろう。しかしそれは無理な話だ。
89年の天安門事件後は西側の国々は中国に制裁を課したが打撃を与えるには至らなかった。その後中国は改革開放を経て今やGDPは世界2位だ。その上ウイグルチベット香港の弾圧に一体一路、一党独裁は継続している。やってることはナチスと何ら変わりないが中共は存在しているしこれからも存在するだろう。
世界の警察、民主主義自由主義の使者のアメリカですら自国の利益保護には抗えない。アメリカ産業は中国なしではいられない。前述の通り中国のサプライチェーンとその13億の市場は魅力的だからだ。だからこれから中共が何をしようともアメリカは完全に中国との縁を切ることはできない。旗役者のアメリカがこのような状況だからお仲間の国々も中国に対してデカい態度で向かうことができない。
アメリカが民主主義の代弁者であり、資本主義で最も発展した国の一つでもある二面性を持つ限り、米中デカップリングは発生し得ない。弾圧を批判しそれなりの制裁は加えるが貿易では稼ぐ、その様な状況が続いていたしこれからも続く。
中国の民主化なんてもっと起き得ない。それが起きるときは米軍が天安門を占領するときだろう。
ウイグルもチベットも内モンゴルも香港もこれからもその先も弾圧を受け“同化”するだろう。そして資本主義の波に埋もれるだろう。
その時民主主義人道主義を標榜する国々はどのような反応を示すだろうか。
まず日本は今の様に傍観するだろう。(自称)右派なんか良い例だ。ウイグルやチベットを利用して中国を叩きたい(自称)右派や内ゲバでお忙しい学生運動残りの左派には傍観しかできない。その頃には日本という国はもう無いかもしれないがね。
最後に、
おわり
改憲派の先鋒でありながら護憲の要石を地中深く打ち込んだ安倍総理が辞意を表明された。改憲に向けて日本がやってきた道のりをガキの泥遊びで全て台無しにした安倍閣下は護憲派にとって駐印イギリス軍にとっての牟田口に等しい。
ここにその輝かしい業績を記したい。
WWII以後も熱戦の時代は続き、世界は民族自決、植民地独立、冷戦下での大国介入に伴う戦争を経験してきたが、敗戦で武装解除された日本は関係のない話で、経済成長に邁進してきた。この路線を決めたのは吉田茂である(吉田ドクトリン)。
その冷戦下で9条の改正を目指すのが自民党、護憲が革新という図式が定着した。数で劣る革新だが思想的には優勢で、冷戦後期には自民党は改憲路線を表に出せなくなっていた。冷戦により国際政治的にも日本の専守路線が固定化されていた事と他国では熱戦が続いていて海の向こうでは若者の戦死が伝えられていた事もある。憲法学者と言ったらほぼ全てが革新で護憲派だった。
ところがここに「憲法フェティシズム」的な趣向が定着して行く。つまり現憲法は良いものだから朗読しましょう的な考えだ。反リアリズムである。
その為護憲=お花畑、空想平和主義という評価が出てくる。そして冷戦の終結により日本の立場は流動的となった。
そこに降って湧いたのが湾岸戦争で、ここで戦後初めて日本は戦争への協力を求められる事になり、世論は右往左往する事になった。秩序維持の為の戦争であるという大義名分もあるし、憲法9条が前提にしていたのは国連軍が結成されて国軍は縮小されるというカント的な世界観である。多国籍軍は国連軍とは違うが名分的には相似だから護憲派も一概に否定しにくい。
湾岸戦争を戦費拠出という形でお茶を濁した日本だったが、戦争に寄らず国際貢献をすべきとの議論が高まってPKO活動に自衛隊が参加するようになった。その第一弾はカンボジアの民主選挙の監視である。
また同時にそれまでタブー化されていた改憲の機運も上がり、護憲派ばかりだった憲法学者にも改憲派が現れ、メディアに出るようになってきた。その筆頭は小林節である。
先に書いた憲法フェティシズムのせいで、憲法学には「微妙」な空気が取り纏っていた。
憲法も法学なので法学部で扱う。だが法学一般は最終的に実学に接続しているのに憲法はそうではない。例えば国民主権の自由主義的な思想的意味が延々とこね回されたりする。
国民主権の主権は元は絶対王政の国家の正統性の為のフィクションであって、統治権、外交権、交戦権などを示すが、こういう肝心な事はスルーされて国民主権が思想的に称揚されるばかりだったりする。
例えば国際政治での人権の扱いなどが憲法学周囲から出て来ない。国際政治では人権は国家に対する対外的権力だ。
統治の問題は主権の壁によって外部から干渉できない。この前提が共有されないので人権がその壁を突破できる国際権力となっているという事が扱えない。特にコソボ紛争ではNATOの軍事介入の理由に人権が挙げられた。国民主権は扱うのにこっちに接続できない憲法論というのはリアルを欠いている。
コバセツはこんな左翼神学的な憲法学に割り込んで行って安楽椅子を蹴り飛ばして塗り替えたと言って良い。
改憲問題でエポック的な出来事があったので紹介しよう。2003年の朝ナマで西部邁がコバセツに追い返されたのである。
西部は改憲派のテーブルに座り「憲法9条や前文の精神が日本人に悪影響を」と長々語っていた。これはモロに憲法フェティシズムだ。憲法を唱える事で精神が浄化され理想的市民や国民が出来ると言う考えだ。
それでイライラMAXとなったコバセツは「そんなの相手にしなくていいから」と侮辱。衆前で面子を潰された西部は退出した。
これは左翼神学の単に裏返しで、コバセツはそういう神学的安楽椅子を蹴散らしてきたんだぜ。そんなを見たら撃てと訓練されたコバセツの前でそんな事言ったらバカ扱いされるに決まってる。
それでリアリズム的にもう9条一国平和主義は困難だし、ちゃんと改正しようという機運が高まっていたのだが、これに疑問符を付けたのがイラク戦争であった。
当初から戦争の理由は疑問視されていたのだが賛同者達は「アレは最初から予防戦争だった」等と誤魔化していた。だがISISが勢力伸長すると彼等も黙りこくるようになった。
これによって米国主導の国際秩序維持に付いて行くという路線を留保すべきという流れになるのは当然だ。しかも国連の影響を抑える為の政策を米国はしまくった。この為に国連路線を旨としていた日本の国際貢献もイマイチリアリズムを失ってしまった。国際貢献路線の空白である。
改憲の旗艦となった彼は新右翼の学生運動流れの学者を重用、党内の勉強会でコバセツは対立するようになった。
彼等の憲法観は嘗ての左翼神学の裏写しであった。コバセツが蹴散らした椅子に座りだして頭の悪い理想論を語るようになったのだから当然だ。
すると2007年にコバセツは自民党の憲法勉強会に呼ばれなくなった。パージである。
ここでリミッターが外れ、改憲論というのはお笑いでリアルと全く接続しない理想論を語るだけのものとなっていく。
例えば若者がチャラチャラして国家について考えないのは怪しからんので徴兵するなど。
日本会議の中枢に居るような新右翼の学生運動家には就職せずに大学に残った者も多い。また六本木にあった生長の家などで寮生活を送った者も多い。その集団的生活史が投影されている。
吉田茂は後に吉田ドクトリンは撤回して海軍力を増し海洋国家となるべきだと主張していた。これは日本の海岸線は長いので防衛力をそこに集中すべしという考えと、当時の日本が重厚長大産業国で造船がその筆頭だった事もある。
徴兵は海軍に向かず陸軍歩兵に向く。つまり海兵隊のような外地でのの占領などが多い事が前提になるが彼等にはそんな考えは無い。国家意識が希薄な若者は怪しからんから集団生活をさせろ、国を守るのは美しい行為だから戦争に従事させろというだけだ。
またいつのまにやら立憲主義は否定されて憲法は国民が守るべき事柄になっていった。
コバセツを追い出して何年も顔をつき合わせて「現憲法には国家を統制するような事ばかりかいてある、おかしい」とやっていたのである。
何年も何百時間も掛けてバカの思いつきを言い合って論議のつもりだったんである。機械ばらして直せなくなるガキかよ。
それに対する言い訳は「家族愛は良い事だ」などであった。良い事だから朗読しましょうというのが憲法だと思ってたんである。良い事を書くと良い国になると思ってるんである。
つまり彼等は憲法どころか毎日やっている立法の仕組みも判っていない。法律が肉付けされて権力を持つ仕組み=政令省令の事や閣法の提出過程も判っていない。
これは左翼神学的で実学に接続しないので憲法学者が微妙な扱いされていた20数年前の完全に裏焼きであろう。
そういえば日本会議の活動家たちが動いて成立させた国旗国家法や年号法などには政令が無い。普通の立法プロセスが付いていないのである。
こうして「改憲」は厨房タームとなり、現実に即した意見を言う人との評価が欲しい人は避けるようになってしまった。「南京虐殺は朝日新聞の捏造によるもの」とか「地政学的にナンタラ」と類似のコンテンツとなってしまった、
南スーダンの情勢が悪化し自衛隊がPKO活動をしている地域が危険に晒された。他国から派遣されている軍を置いて撤収していいのか?これは改憲上の一番重大な局面だ。
今回は撤収するにしろしないにしろ「国民の皆さん、憲法の枠内に納まるよう戦闘地域では活動しないという区切りでPKO活動をしてきましたが、コソボ以後のPKOは変化し、戦闘状況では積極的な介入により平定を維持するというポリシーになっています。今後もこのように情勢が悪化して危害射撃をする必要に至るでしょう。憲法とPKOポリシーを変える為の議論をする時です」というのが改憲派の筋である。そしてその時である。
なのにたかがその場の政局が荒れる事を忌避した聖帝閣下はそんな事に興味は無かった。日報を破棄させる圧力をかけたのである。現実に即した改憲に至る正統な道筋と思わなかった。改憲は既にガキ臭くて老害じみたルサンチマンを集合させる事でその手の固定票を集めるフワついた寝言であったから自衛隊と憲法の問題なんて気にも留めなかったんであるな。そしてその寝言化を成し遂げたのも聖帝閣下とお仲間の努力の賜物であった。牟田口閣下が前線から離れて芸者遊びを続けたような血の滲む努力の。
更にこの件では防衛大臣が辞任する運びとなった。
だが隠蔽の責任を率先して取ったのではない。後から無くなった筈の日報が出てきたのだ。
つまり自衛隊に後ろから刺されたのである。制服軍人をスーツの政治家が統制するのが文民統制であってこれが失われると国家は破滅に突き進む。そんな憲政上の大問題だ。
だがこの自衛隊が成した暴露は正当な行為である。やってはならぬ不正を成さしめそれを是正した事で文民統制上の問題となった。
しかも自衛隊の活動が蓄積された一部であって、改憲への正当な道筋ど真ん中の事を無きものにするという不正であって改憲派として正気の沙汰ではない。
だがこの時既にこの政権にまともな責任を取らせようという国民の意識は無くなっており、子供の間違いのように擁護されて忘却された。
ど真ん中改憲問題はこうして消え去り「家族は大事とか良い事が書いてある憲法を朗読しましょう」という流れは保護された。
アイドルのような還暦女性にポストを与えた防衛大臣が軍に後ろから刺されるという事態の深刻さにも晒されずに相変わらず神学徒達は安楽椅子でロリポップを舐め続けることができた。
だが集団的自衛権への移行に就いて憲法論議を国民に投げかける事はしなかった。
2013年に盛んに言っていたのが「戦後レジームからの脱却」だ。更に年末に靖国神社を参拝したところ、日米関係は戦後最大の冷え込みとなった。
太平洋地域の戦後レジームが米国のなした国際秩序という事に気が付かなかったんである。靖国参拝は英霊への感謝という言説に自家中毒になりA級戦犯合祀から問題化したという事を忘れていたんである。バカな…と思うがそれが聖帝閣下とその友達だ。
因みに日本会議中枢などの「新右翼」とは反米主義の右翼の事だ。戦後体制はYP(ヤルタ・ポツダム)密談による分割であるから打破するというのがその趣旨だ。
こうして2014年には聖帝はオバマに擦り寄るようになった。そんな中で米議会で発表されたのが集団的自衛権への転換である。
米議会であるのも理由がある。湾岸戦争以後、日本の憲法を改正させて米国の戦争をサポートさせるというのは共和民主問わず共同認識になっていたのだ。
集団的自衛権が必要なら当然改憲の重大な理由の一つになる。だが解釈変更という形で現憲法で合法としてしまったのだから改憲のカードは無くなった事になる。
PKOの歴史を知っていたらそのエポック性は無視できない。「日本が軍事的な国際貢献への一歩とした国であり憂慮している」ぐらいは言うべきだがそうはしていない。
尚、日本は民主選挙以前は外国に逃げたポルポト政権を承認していた。あの虐殺で国民の半分近くを殺しまくったポルポトを国家承認したままだったのだ。選挙監視にはそういう理由もある。
こういう風に改憲上の最大の障害は聖帝閣下とお友達なんであるが、この状態は方々に都合がよろしい。
護憲派は憲法9条が国際状況にそぐわなくなっている事を考えずに済む。あんだけのバカ草案を出したら改憲反対は当たり前であって、PKOポリシーの変化にどうするかなんて問いを考えなくて済む。コバセツ含む嘗ての改憲派の憲法学者も全て護憲派に寝返った。
一方、米国主導の軍事秩序賛同派はイラク戦争賛同の総括をせずに済む。ISIS支配地域にあの連中置いてくるべきだ、なんて意見に晒されずに済む。
そんな情況の空白地帯で先人の積み上げた蓄積の意味が判らんかった聖帝閣下は友達と泥遊びに明け暮れ、田んぼをぐちゃぐちゃにしてしまったが意味が判っていないからなんという事もない。お友達の稲田防衛大臣は制服に後ろから刺されたのににこやかに軍事パレードを行い、胸に手を当てて国家への忠誠を示したので上機嫌で去っていった。
こういう主張って、「報復」と「正義の実現」のどっちがメインなの? すごい気になってる。
「ちょっとでも腐女子的な発言をするとバッシングされた」→腐女子への迫害はひどいよね。許してはいけないことだね。
「なのにバッシングしてきた連中は自分たちの嗜好をおおっぴらにしている」→ダブスタだね。よくないよね。
「嗜好をおおっぴらにするのは間違っている。周囲に配慮するべきだ」→??????
「私たちにあれだけ厳しいマナーを要求したお前らは当然そのマナーに従うべき」という話がしたいの?
それとも「検索避けなどの配慮は社会で当然のマナーなんだからお前らはマナーに従うべき」という話がしたいの?
どっち?
この2つの主張、結論が同じでもそこに至るまでの論理が違うからそこはハッキリさせといてほしい。
「日本人にクジラを食うなと言ってきた西洋人が豚や牛を食ってるのはおかしい」と「動物を虐げるのは間違っているので西洋人が豚や牛を食ってるのはおかしい」って全然別の話じゃん?
もし前者なら、
「確かに腐女子を迫害していた男オタクはいたが、俺はそんなことをしていないし、後続の世代にはそもそも罪が無いだろう。関係ないやつらの罪を背負えと言われても困る」
「そんな配慮は特に必要とは思わない。自由な市民社会で生きる上ではときに自分にとって不快な表現に遭遇することもありえるし、それは自由主義のコストとして甘受すべきだ」
と反論するけど。
現在ニュージーランドに留学中のアルピニスト野口健さんの長女、野口絵子さんが語ってくれたニュージーランドの魅力☆純粋で無垢な彼女のコメントが心に響きます。#ニュージーランド— ニュージーランド政府観光局 (@PureNZinJapan) August 11, 2020
これへの批判
↓
TRION
@trion_jp
三浦瑠璃さん同様、野口健さんもレイシストですね。娘さんに罪はありませんが、野口健さんの娘、という肩書無くして、こちらの広告への採用はあり得たのでしょうか?
雪裏の梅花
@seturibaika
親が親だけに期待ゼロ
Charles Darwin
@dawinananddawi
俺の大好きな国、ニュージーランド。
子を起用して平気なのか
大森一樹系
@BAR2501kim
sheepsong55
@sheepsong55
SchneggemANTIFA
@sunegebohbohman
4時間
彼女に罪はないのだろうが、「野口健の娘」として紹介するのはどうなのよ。NZ政府は野口健という人物がどういう人物なのかわかっていないのではないか。
まとめ
リベラルな人たちが「ネトウヨの親玉の娘を使うな」という政治的に正しい怒りをニュージーランド政府にぶつけていて笑っちゃった— はんがー (@dqnchild2) August 21, 2020
自由主義によって「悪しき国粋主義で汚れた政治的に正しくない血統」が生じる現象、自由と人権を大事にしていて良い— はんがー (@dqnchild2) August 21, 2020
中国の独裁的なやり方が非難されてるけどそんなに悪いことなのか?自由がないと言われる中国や北朝鮮だって大多数の人間は普通に生活してるじゃん。
当然独裁政治の中では自由が制限されるのは分かってるけどデモとか参加したことないし政治的意見の表明もするなと言われても特別困ることはない。
むしろガチガチの監視社会を構築して犯罪が減るなら俺にとってはありがたい話とすら思える。
自由を認めてBLM運動みたいなのが起きて略奪、暴行の危険に晒されるのと自由を制限してテロ紛いのデモに怯えずに暮らせるのだったらほとんどの人は後者を選ぶんじゃないかな。
独裁には当然有用な意見も弾圧されるというハッキリとしたデメリットもあるのはわかるけど現状だとメリットも充分あるし一概に独裁は悪って決めつけるのはただの自由主義のプロパガンダじゃないのか
自由主義は金持ってるやつが無限に偉く、金持っていないやつは従えってなりやすい。
経済がきちんと動いている時は財サービスの需要が多く新しい商売のチャンスが多く、労働需要が多く労働賃金上昇と労働待遇の上昇が起きる。
だけど一度大規模経済危機を迎えると企業は保身に入り、金を溜め込み、設備研究投資をしなくなるので、不景気にある。なので新しい商売のチャンスが減り、労働者は買い叩かれ悪い待遇に置かれるようになる。
だから政府が一定経済に作用しないとならないというのが、1930年世界恐慌後の教訓であり、ケインズ社会主義だった。各種古物商関係の法律もそうだろう。
それは抽象化しすぎというか、具体的な場合を考えてなくないか?
例えば「性による権利の違いを解消する」という意見で一致しているとして、その中の手段としての主題の置き方やアプローチの仕方は全員一致じゃなくなるだろう。それに程度の問題もある。
広告のイラストを主題とするか否か、青少年の保護と性的消費のどちらを相対的に重視するか、表現の度合いのどこまでを許容するか、は全員一致じゃなくなる。
これは自由主義だってそうだし新古典派だってそうだし、何だって同じだろ。
次に、一人一派批判が多用されるには最近のラブライブポスター炎上あたりかなと思うが、これが議論であるなら対等にされるべきだろ。
便宜上フェミ v.s. オタク という図式を考えると、「オタクは意見がバラけてもいいが、フェミは意見を統一しないといけない」とした場合、オタクがフェミを一方的に叩けるようになってしまう。これは問題じゃないか?
フェミニスト以外のどんな学派だって細部の主張や程度の解釈は異なりうる、議論の際は対等にすべき、の2点でフェミだけ一人一派禁止は間違っていると思うがどうだろう。
今日はじめて映画『ぐらんぶる』のポスターを見た。多分これはかなり流行に遅れていると思う。申し訳ない
自分はフェミニストではなく、むしろどちらかといえば反フェミニストだ、しかしそこに確固たる意志があるわけではなく、宇崎ちゃんのポスター騒動の際にフェミニスト、アンチフェミニスト陣営どちらからもとびかう集団を対象とした人格否定に辟易し、そもそもの騒動を生み出したフェミニストという思想に嫌悪感を覚えた程度のものである。
私が昨日始めて映画『ぐらんぶる』のポスターを見た時、まず純粋にあったのは『驚き』だった。このご時世にこんなポスターがあって良いのかと思った。アレだけ性的搾取だと性的搾取だと騒がれているのに。
そして、一時間ほど考えたのちに、Twitterで『ぐらんぶる フェミ』で検索を行った。この時点で、私は匿名で無責任な強い言葉を投げ合うTwitterというSNSにどっぷりと浸っている。恥ずかしい限りだ。
そして当然『フェミニストはぐらんぶるのポスターには抗議しないのか』という意見があった。女性の性的搾取的なポスターにはアレだけの反応を見せたのに、『ぐらんぶる』のポスターにはなんの反応もしないのはダブルスタンダードではないのかという主張だ。
そして、少なくとも私の届く範囲では『ぐらんぶる』ポスターに関して数十人を巻き込んだ炎上はしていなかった。
それについて考えたことがあったが、このご時世SNSに投稿することは非常に危険であると判断したので、申し訳ないがここに書き込むことにする。
まず第一に、私はフェミニストが『ぐらんぶる』のポスターに対して反応を示さないことをダブルスタンダードだとは思わない。
その理由は明確で、フェミニストというものは男性の性的搾取に関して抗議する必要が基本的には無いだろうという考えがある。
フェミニストをグーグルで検索すると、トップに『1.女権拡張論者。』と出てくる。非常に明確だ。
女権拡張論者は「女性の性的搾取」について抗議するわけであって「性的搾取そのもの」に抗議する必要はない(支持を得るために「性的搾取」そのものを仮想敵にした結果、『ぐらんぶる』に反応を示さないことがダブルスタンダードになってしまった個人がいる可能性はあるが)
従って『ぐらんぶる』のポスターにフェミニストが抗議しないからと言ってダブスタなわけではないというのが今の私の考えだ。
しかし『性的搾取』に関してアレだけ騒いだあの界隈が、これに関しては少なくとも宇崎ちゃんほどの炎上していないという現状に違和感を覚えるという感情は理解できるし、私も瞬間的にはそう思った。
だが、フェミニストというのは女権拡張論者なわけだから、男性の性的搾取に関心がなくともフェミニストとしての筋は通っていると思う。少なこともこの件に対して思うことがある男性がいるのであれば自分で行動を起こす必要があるだろうと思う、私自身はこのポスターに抗議の感覚は薄いが、もしそのような活動が起きても不思議には思わない。あのポスター単体はそのくらい攻めている。
もう一つ思ったことがある。それは『フェミニズムという思想が「ジェンダー論に関しての正解を持っている」と思い込む必要はないし、「ジェンダー論に関してすべてが間違っている」と思い込む必要もない』ということだ。
フェミニズムに関してフェミニストがそれを絶対的な『正義』であると考えることは間違っていることではないだろうと思う。だが、この世界においてフェミニズムの論じる「女権拡張論」が絶対的に正しいという保証は何処にもない。その逆に、「女権拡張論」が絶対的に間違っているという保証も何処にもない。
保守主義である右翼、自由主義である左翼、さらに新自由主義で個人の自由も尊重するリバタリアン。これらの思想はそれぞれの支持者はそれを『正義』として疑っていないが、それがこの世界における『正解』である保証は何処にもなく、『間違い』である保証もない、むしろこの3つすべてが間違っている可能性も否定はできない。
フェミニズムは「理論」であり『正解』ではない。そして、フェミニズムを論ずる人間に反対する自由はある。賛成する自由もある。
だから本当はもっと議論を重ねて洗練させていかなければならない。時には反フェミニズムの人間と意見を交わす必要もあるだろう。それは反フェミニズムの人間も同じで、時にはフェミニズムの人間と意見を交わし、その中に納得の行く理由があればそれを受け入れても良い。それだけであなたがフェミニズムに屈したわけではないし、その逆もしかりだ。
今SNSで起きていることは両陣営の個人の失言をいかにもそれがフェミニズム、もしくは反フェミニズム全体の意見であるように吹聴しぶっ叩くショーである。そして意見は先鋭化していき、『極』な人間が作り出されている。
これについての改善案があるわけではないが、この現状は良くないのではないかと考えている。
最後にこの件に関して最終的に思っていることを書いて終わりにしたい
アメリカがTikTokをbanにするということを喜んでいるネットユーザーもいると思う。
だけれど、これ、ヤバい。情報戦の観点でいうと、喜んでいるのはきっと中国共産党だ。
その理由を挙げていく。
2020年代の世界が、アメリカ+自由主義国 対 中国+自由の乏しい途上国、という対立構造になることは、誰もが知っているとおり。
冷戦と同じ構造だ。この中で勝ち抜くには、その中で共有された価値観がモノを言う。自由という価値観は、有事には弱い面がある(今回のコロナのアメリカと中国の差を見てくれ!)。しかし、時間が経つと自由を重視していない国に必ず優ってきた。理由?簡単だ。自由がない国はつまらない、そして、権力者が腐る。頭のいいやつはなんとしてでも逃げ出して自由のある国に動く。アインシュタインはナチス・ドイツから逃げ、グーグルの創業者の父親はソビエトから逃げてきた。
特に中国との差があるのが、表現の自由だ。アメリカとその価値観を共有する国は、表現の自由を絶対に大事にするべきだったのだ。TikTokで持っていかれる個人情報なんてたかがしれている。あんなのを諜報活動に使ったところで、アメリカ人のJKの何割が肥満かぐらいのデータしかでてこない。だったら、「価値観が相反する陣営のものだって、ウチでは使えるぞ」という自由を示した方がよかった。
ところが今回のbanは習近平が行ったGoogleのbanと同じ香りをさせてしまった。本当に愚かだ。Huaweiだけにしておけばよかったのだ。
TikTokをアメリカ人に使わせたら、ウイグルの人権問題を告発する動画をアメリカ人のJKに作られてしまった。あっという間にシェアされて、中国本土にも届いてしまった。あれこそ表現の自由のない国からすると厄介なユニコーンだ。WeChatなどのように、自由主義国と分断されたSNSが中国には大事なのだ。
日本の中でもTikTokをbanだ、と騒いでいる人には注意したほうがいい。騒いでいる本人が工作員だとは言いたくないし、おそらくありえないが、工作を受けてしまった可能性がある。非自由主義国が情報戦で相手に自滅させるには、まず相手を分断させ、かつ、自国へのアクセスを減らすことが大事なのだ。インフルエンサーに近づき、一見すると愛国主義的なことを吹き込み、そして相手国の価値観に反することを煽る。結果として、自国の―この場合は中国共産党の―価値が悪くないという『刷り込み』が完了する。
私は安楽死を支持する。その早急な法制化を望む。それへの抵抗勢力は徹底的に粉砕されるべきだ。
そう考えるに至った経緯を、以下に書く。
何年か前、某所で尊厳死・安楽死に関する議論をしたことがある。私が安楽死について肯定的なことを書いたところ、反対派から反論されたのだ。私の書き方もあまり良くなかったので、議論を挑まれたこと自体は構わない。だがその議論で、私は安楽死に対する信念を強化することになった。
議論の中で、私は自分の家系について触れた。私の家系はがん患者が多く、しかも体中を蝕まれて苦しみながら死んでいった者が何人もいる。私もそうなることはほぼ確実で、だから私は苦痛に満ちた死よりも慈悲の一撃による安らかな死を望む、それを邪魔する安楽死反対派のことは支持できない、という趣旨のことを書いた。すると議論相手は、次のように書き込んだ。
「それでも、自殺することは禁じられていません」
唖然とした。私はさっきまで、体中がボロボロになってひどい苦痛に苛まれていた親族の話をしていたのだが。「自殺できるでしょ」って、苦しまない自殺を自力で遂行できるのは健康な人間だけだという程度の想像力も彼にはないのだろうか? そりゃ自分一人で自殺する分には法によるお咎めなどないことは私だって知っている。私はただ死にたいのではなく安らかに死にたいのだ。
さらに彼は、私の自由主義的な主張にも反駁を加えてきた。私は、同性婚や選択的夫婦別姓と同じく選択の権利を求めているだけなのに、同性婚や別姓の問題では同じ側にいたはずの人たちからなぜここまで否定されるのかが理解できない、と書いたのだが、彼は言った。同性婚や別姓を主張する運動は同性婚や別姓を選んだ人たちが幸福に生きるための運動をしてきたが、安楽死推進派は病に苦しむ人びとが幸せに生きられるための運動をしてこなかった、だからそれらは同列には論じられない、というのだ。
他人の幸福のための運動をしなければ、私には安らかに死ぬ権利すらないと言いたいのだろうか?
この時点で確信した。安楽死に反対する連中には人の心がない。彼らは私が苦しんで死ぬことを望んでいる。
もちろん彼にそんな意図はないのだろう。でも、彼は私の安らかな死を、よくわからない運動の都合とか、見ず知らずの他人の選択とか、そういったものの下に置いたのだから、結果としてはそういうことになる。私にとって見ず知らずの誰かが望まぬ死を強制されないかわりに、私は苦しんで死ねというわけだ。
優生学は間違っている。高齢者やALS患者や知的障害者が「社会のお荷物」だからというとんでもない理由で意に反した死を強制されるなんてことがあってはいけない。だから、安楽死を認めるが、その際には厳格な手続きを導入すべきだ、強制を排せる仕組みを構築しなければ、という議論なら私は賛成していた(というか、そういう施策を私は支持していた)。私は彼らに死んでほしいわけじゃなく、自分が安らかに死にたいだけだから。選択の自由を認めてほしいだけだから。
でも彼らは、意に反した死を強制されるかもしれない人たちを守るために、私が安らかに死ぬ権利は認めないのだという。
見ず知らずのやつらが自分の意志を貫けないという恐れのせいで、なんで私が苦しんで死ななきゃならないんだ?
それ、私には関係ないよね?
苦しまずに死にたいというのは、そんなに強く否定されるほど、他人の都合で却下されなければいけないほど身勝手な望みなのか?
安楽死に反対する人たちの書いたものを色々読んだ。彼らの書いたものの中には、苦痛のない死を迎える権利についてはほとんど書かれていなかった。彼らにとってそれはどうでもいいことらしい。
私の苦痛があなたたちにとってどうでもいいなら、あなたたちに死が強制されることも私にとってどうでもいいことになってしまうのだが。
あの議論を経て、私の考え方は変わった。安楽死反対派は本質的に、私が苦しみに満ちた死ではなく安らいだ死を迎えることはたいしたことではないと思っているということが理解できたからだ。だったら、ALS患者や高齢者が死ねという圧力に抗しきれず安楽死の書類にサインしてしまうことだって、私にとってはどうでもいい。見ず知らずの他人が意志薄弱すぎて死ねと言われて死んでしまうことは私には何も関係ない。私はただ、ひたすらに安楽死を支持すればいい。自分の権利を強く主張すればいい。
私は、私の苦痛を切り捨てる冷血漢どもよりは、私に苦痛のない死を保証してくれる人たちを支持する。結果として死を強制される人が出てきたところで知ったこっちゃない。だって安楽死反対派は、私に苦痛を強制しようとしてきたのだから。そんなやつらが死を強制されることを、なんで私が心配しなきゃならないんだ? あの冷血漢どもが私の苦痛を心配しないなら、私にもあいつらの死を心配する義理なんてない。
だから私は、たとえそれが新自由主義者であろうが、安楽死を推進する側を支持することを決めている。私が苦しんで死ぬことを望んでいる側にはつかない、そんなやつらには徹底的に立ち向かって自分の選択の権利を守ると、反対派との議論の中で決意したのだ。
安楽死は早急に実現されるべきだ。反対派に屈してはならない。彼らは人の心がない冷血漢で、他人の苦しみを座視する連中なのだから。
ところで、医者には応召義務があるのだから、安楽死を認めることは医者に殺人を強要することになりかねない、という主張もあり、これはもっともだと思う。だから、安楽死に際しては応召義務を解除しうる法整備をすればいいと思う。それはブラックリスト方式で、デフォルトは安楽死を認めるものとし、安楽死を拒否する医者は役所に届け出た上でそのことを周知する看板かなにかを設置しておき、そういう看板が予め設置されている病院では安楽死を断れる、としておけばよいのではないか。これなら死ぬ権利と殺したくない権利を両立できるかと思う。死にたい患者はその病院を避けて別の病院にかかればいいのだ。
俺アンチポリコレ派オタクだけどさ、ポリコレ派ってほんとバカだよね。
俺の周囲のアンチポリコレなオタクも、別に女は差別しろとかトランスはけしからんとか黒人は画面に映るなとか思ってないんだよな。
だから、「ハリウッドで完全オリジナル新作やります! 主役は女4人!」とか、「今度の映画ではトランスの人を主役に抜擢しました!」とか、「アフリカを舞台にした歴史ファンタジー大作です!」とかなら、別に燃えないわけよ。だってそれに反対する理由なんてよほどの差別主義者じゃない限りはないもの。『ブラックパンサー』に文句言ってる日本のオタクほとんどいなかったでしょ?
なのに、「過去の名作をリブートします! 主人公は男4人組から女4人組に変えました!」とか、「シスがトランス役やってるのはけしからんので圧力かけて引き摺り下ろしました!」とか、「ヨーロッパっぽいファンタジー世界だけど特に脈絡なく黒人出します!」とかやってるから、はぁ?????? って言われるわけで。
お前そんなん、差別主義者だけじゃなく作品ファンからも異議が出て当然だろ……
なのに、彼らは「異議を唱えている人=差別主義者」だという等式のまま、異議を唱えてる人全員に殴りかかってくるのね。そんなことしてたら敵が増えるだけだってなんでわかんないのかな。バカなのかな。バカなんだろうな。
おまけにさ、あいつら多様性とか言ってるけどさ、想定してるのはアメリカ的な人種構成に基づく多様性で、思い描いてるのもアメリカ的に人種の特徴がはっきり描き分けられる多様性演出なんだよな。「多様性」観が一様すぎる。
アメリカでは人口の1割以上が黒人だけど、日本では外国籍って人口の3%未満で、しかもその「外国籍」で一番多いのは中国人、次が韓国人。こいつら見た目で日本人と区別つかん。3位以下もベトナム人とフィリピン人とブラジル人、つまりアジア人とアジア人と日系人だよな。日本は見た目クリソツなアジア人だらけの国で白人・黒人は超マイノリティ、ってのを根本的に理解してないんじゃね。
もうさ、この人種構成を見ただけでさ、アメリカのような「パッと見でわかる人種的多様性」なんて日本にないってわかるべきじゃん。日本人・中国人・韓国人が大多数(この3民族を合わせたらほぼ99%に近いのでは)を占めている国で、10人中1人が黒人の国みたいな見た目でわかる多様さなんてありえないって理解してしかるべきじゃん。
なのにさ、日本に来て平然と「東京の街を歩いてみたが多様性に欠けるように見える」とかいうリポートしちゃうジャーナリストがいるわけよ。お前、頭湧いてんのか? ちゃんと耳を澄ませて東京の街を歩けば日常的に中国人や韓国人とすれ違ってるのがわかるわけだけど、お前にはその区別がつかんのか? そもそも駅で日本語と中国語と韓国語の放送してるの聞こえてるのか? っていう。まあどうせあいつらは日中韓が入り混じって歩いてることに気づきすらしてないんだろうけどな。
で、そういう社会で生み出された少女漫画風の表現が「白人に見える」とかケチつけてるわけよ。「白人だらけに見える! もっとrepresentationを!」とか真顔で呼びかけてた声優もいたけど、えーと、日本のアニメにはアジア人ばっかり出てくるんだが……日本における中東系の人口比なんて微々たるものなわけだが……っていうかあんたら中東系も石油王のファッションしてない限り我々の目にはヨーロッパ人と変わらん見た目なのだが……イスラエル系アメリカ人がアジア生まれアジア育ちのアジア人に向けて「アニメは白人だらけ」ってケチつけてるの悪い冗談としか思えないけどでも悲しいことに事実なのよね。
(このアホ発言したRyan Colt Levyって声優の顔写真見てみ。普通の日本人に見せたら「白人」って言うと思う。ちなみにそのケチつけてた声優が声をあててたのは『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風』と『魔入りました!入間くん』なんだけど、まさかこいつイタリアを舞台にしたアニメを見てアニメは白人だらけって騒いでたのか? アホすぎない?)
世界はどこもアメリカみたいなものだと勘違いしてアメリカみたいな描写をしろと言ってくる連中が本質的に多様性を理解してるわけねーじゃん、っていう。
日本のオタクってこういう、日本の文脈をまったく考慮せずにアメリカ基準で多様性を押し付けてくる「リベラル派」とか、そいつらにかぶれた意識高い系洋画洋ドラファンの連中にトランプ以前からウンザリしてるわけ。
で、最近だと「文化の盗用」とかいうクソ理論で、和服を着たり日本語のタトゥー入れたりしたセレブが燃やされてるでしょ。彼ら彼女らが日本のものを身にまとうことを非難されることで日本の日本人がどれだけ屈辱を感じているかなんて、魂がホワイトウォッシュされた連中にはどうせわからないんだろうけどね。バナナのこと意識高い系アジア系アメリカ人って言うのやめてやれよ。
そして『ラブライブ!サンシャイン』のポスター騒動、火をつけたアカウントが「多様性を認め☀️寄り添い🌏支え合う🌟」とか名乗ってたわけで、まあ多様性とかわざわざ声高に言う連中の言う「多様性」観がどれだけ画一的で多様性を欠くものであるかっていうのが再確認されたと思っていいんじゃないですかね。
こういうことの積み重なりによって、ポリティカル・コレクトネスがどうとか多様性がどうとかいう意識高い系フレーズが順当に「過激派のイチャモン」と見做されるようになり、その支持者も「ヤバいやつらだ」と思われ警戒されるようになっていったわけです。よかったですね、あなたたちの行動は我々の意識を順調にアップデートしていますよ! 主にウイルス対策機能の面で!
で、本題に戻るとさ、ポリティカル・コレクトネスだの多様性だのって、リベラリズムの本質になんも変わりないよね。
再分配の強化、公教育の充実、社会的自由の拡大、表現の自由の擁護、同性婚や選択的夫婦別姓の実現、これら現代的自由主義の主要なアジェンダはポリコレやら多様性やらがなくたって十分に唱えられるお題目だと思わない?
俺もリベラル派オタクだぜ。一緒にリベラル派オタクをやっていこうよ。刑法175条の廃止とか、リベラル派とオタクが矛盾せず成り立つ論点はいっぱいあるはずだと思うけどね。