はてなキーワード: 証左とは
お嬢様キャラとかゾンビとか男子&女子高生の制服だとか、イケメンの髪形や性格や台詞とか、眼鏡キャラとか、とにかく現代の漫画作品では類型化が甚だしい。
何かみえざる暗黙の「ルール」に基づくキャラクター作りや設定作りが蔓延していて、その「ルール」の中での成績の良さを競っているかのようだ。
気を衒っているかに見える漫画でさえ、キャラや展開にいつもの「ルール」が見え隠れする。
敢えて時代を限定すると、2004~2005年ころ、メイドブームの成熟期からこの傾向性が高まってきたような感覚がある。印象論だけどね。
「メイド」の「ルール」が蔓延し、他の記号の「ルール」もこの後あまり時をおかず普及した。あとツンデレとかもこの時期だよね。
時代の変化ってのはグラデーションなんだろうけど、それじゃあ書いてて面白くないから、あえて一つの画期を示したぞ。
本当は昔から「ルール」はある。ジャンプの新連載の1話目なんて、伝統芸能かと思うほどに構造が定形的だ。
もちろん、これは漫画と言うジャンルが成熟した証左だと言えるのかもしれない。類型化したキャラの方が解りやすく、人気や売り上げに繋がるのかもしれない。
私はコミックスで言うと既刊含めて年間3000巻くらい読む。こうした「ルール」に違和感も感じながらも、自分がかなり「ルール」に馴染んでいるともまた感じる。
「ルール」は漫画の基礎的なリテラシーと関連する部分も多いから仕方がないのかもしれない。
けれどそれじゃあ、「ルール」が強すぎる昨今じゃあ、絶対的な革新は起こりにくいのかもって思う。「ルール」内での洗練は起こっても。漫画と言う文化と言うか振る舞いが100年先に延命できるような革新。これは起こりにくい。
サッカーではハンドしちゃいけないのだけど、実は漫画ではそれは可能だ。ただしハンドを押し通すための実力が必要だが。逆に「ルール」に従うのは楽っちゃあ楽なのだ。
一時期、ウェブで無料で見られる漫画こそが「ルール」を逸脱あるいは超越しうる存在ではないのか、と思っていた。
だが最近、ウェブで個人的にやっていた漫画が雑誌の企画になっていったり、あるいは出版社がウェブマンガ部門を建てることが一般化した。
ウェブの在野の漫画と、商業に乗る漫画とがインターネットの歴史の中で距離を縮める結果になった。双方歩み寄った。
ということでウェブで無料で見られる漫画も、そのほとんどが今は「ルール」のなかだ。
それでもちろんいいんだけど、じゃあウェブで、タダで、個人的に表現する意味って何なのだろう? とふと思う。
私は「ルール」があっても愉しい。愉しめる。だから「ルール」だらけでもいい。だけど「ルール」は変転していってほしいと思う。そうでないと漫画は未来に残らない。
連歌なんかがそうだと思うんだけど、「ルール」が多すぎる。だからどこかで途切れて、今は誰もやってない。現代ではカラオケで「○○しばり」とかして意味的に繋がりのある歌を歌うばかりだ。
http://ponpo.jp/madarame/を見てあまりに腹立たしかったので増田に書かせてもらう。
どうやら彼がこのページで言いたいことは次の点に集約されると思われる。
これが大学教授などを歴任して退官した人間のいうことだと思うとめまいがする。
そもそも原子力工学というのは、明らかに国策のための学問である。サイエンスとしては原子核物理という分野が存在していることからも明らかであろう。
(たとえば新元素発見は記憶に新しい。あのように加速した原子核ビームをぶつけて反応を見ることは核力を探る上で重要であるそうだ。また原発関連のtwitterで有名になった早野氏も本業はCERNでエキゾチック原子核を作っている。これも核力を見る上で重要らしい。いずれにせよ、両者とも原子力工学とはほとんど関係ない)
したがって、
の時点で、彼はその役割を十分理解しなくてはならなかった。もちろんこれはこのような人間を採用してしまった東京大学工学系研究科の責任であるとも言えるし、あるいはまともな人材がいないことの証左なのかもしれない。
そして、一度国策の学問に携わる身になり禄を食む以上、常にあらゆる可能性を考慮し、当事者としての責任の重さを理解しなくてはならない。実際科研費のサイト(https://kaken.nii.ac.jp/d/r/80092336.ja.html)を見れば
なのだそうだ。この題目で09年からの科研費を通しておきながらバカの一つ覚えのように「菅が悪い」とは呆れて物が言えない。
その場でなぜリーダーシップが取れなかったのか。なんのための研究をしていたのか。反省すべきはその点に尽きる。
ブコメを見ると、「大学の先生ってそんなもんじゃないの」という意見も散見された。いやいやいや、待ってくれよという話である。仮にも天下の東大である。
「そんなもの」で済まされるような人材をとってしまうこと自体許されない。もし彼があくまでもこの他人事のような姿勢を貫き通すのであれば東京大学の原子力国際専攻は直ちに解散すべきである。
そもそも東京大学、旧東京帝国大学は国のリーダーを輩出するためにできた大学である。明治維新から十年も経つ前、西洋列強に比べ悲しいほどの国力しかなかった時代に、それでも高等教育機関は必要だと既存の機関をまとめて作られた。
このような責任感のかけらもない人間がいたという惨状を知ったら、明治の元勲も草葉の陰で泣いているだろう。右巻きの人ほど斑目を糾弾すべきではないか。古き好き日本の伝統はどうしたんだ。
当時、(原子力は専門ではなくとも)原発由来の放射線の影響などを見積もり、それをわかりやすく世間に伝えようとした大学教員が多かったことを思い出すと、ますます斑目氏の無能さが浮き上がる。
積極的に発言していた人としては東大の早野氏、押川氏や学習院の田崎氏など、物理畑の人が多かったように記憶している。彼らは(特に早野氏以外など)原子力はおろか放射能測定すら学生実験以来の経験であったことは想像に難くない。
それでもなお、彼らが普段から国民の血税を使って研究活動を行っているのだからという理由で、自分たちの研究時間を削って文献を読み、なるべく正しい情報を伝えることで社会に貢献しようとしたわけである。
もちろん「メルトダウンは起きない」だとか、一部失言があったことは確かであるが、それでも何もしなかった当事者の斑目氏とは雲泥の差である。今日斑目氏のウェブページを見るにいたり彼らが如何に良心的であったか、を理解した。
もちろん例えば物理畑の人は普段何の役にも立たないことをやっているのだから非常時は何かをしなくてはいけないと思っただとか、少なくとも斑目氏たちの原子力工学よりは彼らのほうが基礎学力が高いだとかの副次的な要因はあるだろうけれども、エリートたるもの、かくあるべきではないのか。
斑目氏は、今現在はさぞや気分よく毎日を過ごされていることだろう。
とりあえず菅が悪いと言っておけば、みなから同情を買うことができる。時の政権も、民主党を批判できればそれ以上のことはしたがらない。
だがそれでよいのか。彼にもし一欠片でも良心が残っているならば、現状の原子力行政をまともなものにする努力を行うべきである。メディアに出たりマンガを書いたりして菅が悪いと言っている場合ではない。
女が、どんだけ誠実や清潔感とか愛とか言っても。
ドキュンやバンドマンがモテてるのみると、どんだけ女がレベル低いかお察し。
ドキュンやバンドマンに行かなかったと強弁する女もいるかもしれないが。
「そういう部分が女にあるってのが生物的にインプットされてるんだよね」っていうことの証左になってて論理が破綻してる。
つまりさ。
単に暴力的に支配されるのが好きなのに、さも人権もっていっちょまえの人間ぶるからイライラする。
女は、支配してくれる男を求めてます、理性部分なんて本当は持てないんだけど、持ってるフリしてなんとかやってます。
こんくらいだろせいぜい。
20世紀初頭、英国の経済学者であるケインズ卿は、主著の中で「考え方ほど強力なものはない」と説いた。つまり、人の行動要因のうち、最も影響力が強いものは、外部的要因よりもその人の内部要因、すなわち考え方だというわけだ。
ひるがえって現代の英国では、中東出身者の2世、3世となる若者たちがイスラム国(という名のテロリスト集団)へと帰属すべく、混乱を極める中東へと世代を超えた里帰りをしている。こうした若者たちが常軌を逸したテロリスト集団に忠誠を誓う要因は何だろう。ある人は欧米社会における中東系への差別が原因であるとし、ある人は貧困が原因であるという。しかし、これはあまりにも皮相的な見方ではないだろうか。どの国にも貧困と差別は存在する。それにも関わらず、なぜ一部の人々、特に豊かな先進国の若者が海外の狂信集団への参加を企図するのだろうか。
ここでケインズ卿の金言を思い出してほしい。何よりも人を駆り立てるのは考え方だ。もちろん、乾燥した砂漠地帯へと向かう若者たちの中には自意識をこじらせ、過激思想に染まった狂信者もいることだろう。だが、その多くは渡航直前まで通常の市民生活を送っていた一般人である(と報道されている)。ということは、通常の市民生活に浸透するごく一般的な常識の中にこそ、彼らを破滅的な行動に追い込む何かが潜んでいるとは考えられないだろうか。
健全な若者たちを追い込んだもの、近代社会の「一般常識」とは、「人は役に立たなければ生きている価値がない」という考え方だ。このあまりに妥当に思える考え方にこそ狂気が秘められている。
中東に渡航した若者の多くは、同国の他の若者と同等の高等教育を受けており、言い換えれば社会的に役立つ(と見なされるべき)存在である。彼らは教育によって社会常識と能力を身につけ、社会への参加と貢献を望む(ごく健全な)精神性を身に付けていたはずだ。だが、彼らはその意欲と能力を十分に活かすことが出来ない環境下にある。
無論、こうした差別や貧困だけが問題ならば、例えば南米や東南アジアのスラム民のごとく、それを人生の既定路線として別の生き方に適応することも出来ただろう。だが、彼らは私たちと同じように近代的な市民としての精神性を埋め込められた「一般人」なのである。
資本主義であれ社会主義であれ、近代社会おいて市民は、「人の役に立たなければ生きている価値はない」と考えられている。言い換えれば、人の役に立つことが人生の意味・意義・目的である。それは経済活動の本質でもある。だが、英国をはじめとする欧米社会は、中東系の若者たちが近代市民としてごく一般的で健全な希望を満たすことを許さなかった。結果として「人の役に立ちたい」という健全な欲求は、全く不健全で狂気の塊とでもいうべき集団への参加・貢献へと姿を変えてしまう。なぜなら、イスラム国はそうした近代市民として望ましい欲求の全てを満たしてくれるからだ。
あなたの人生には意味がある。あなたは人の役に立つことができる。あなたは必要とされている。だからこそ、私たちに参加・貢献してほしい。
こうしたメッセージが実存的な欲求を満たせずに鬱々とした日々を過ごす若者に届き、その心の隙間に棲みついたとき、彼らを押しとどめる要因、すなわち彼らを暴走させない「考え方」を欧米社会は提供できていたのだろうか。事実、イスラム国はすぐれて近代的な精神性を持つ集団であり、表面的な暴虐性と狂信性を剥ぎ取れば、そこにあるのは英国と全く同様なもう一つの近代社会であり、宗教というフックによって近代市民を惹きつける別種の帰属集団たりえるわけだ。よって、若者たちの豊かな社会から貧しい狂信団への「宗旨替え」という一見奇妙な現象は、単純に欧米社会の失敗と敗北の証左なのである。
ところで、これは私たち日本人にも無縁の問題ではない。むしろ喫緊の問題でもある。中東系の若者には(擬制とはいえ)神への信仰が残されているようだが、私たちには一体何が残されているというのだろうか。この社会による無言の死刑宣告に抗うため、私たちにはどうふるまう余地があるだろうか。自身の社会的価値の欠如を自覚し、世間という名の集団圧力に圧迫され、閉塞し、窒息したとき、私たちは静かに(そう、「誰にも迷惑をかけない」ように!)命を棄てる道しか残されていないのだろうか。
かつての武士階級にとって自死は、名誉を守る行為だ(という共通理解があ)ったが、近代市民たる私たちにとっては疑いなく、何の疑いもなく、言葉通りの犬死でしかないだろう。それとも、これも一つの考え方に過ぎないのか?
「女性は見た目だけで見られる」←化粧でドブスでもよくなるのでは、痩せればOKなのでは
化粧でよくなる下地と投資学習訓練を必要とします、これはプロが最高に美しくする花嫁ですら美しくない人がそこそこいることからも解ると思います、男は不細工でも体を鍛えて似合うしゃれた髪型でしゃれた服を着こなせば許されるところがあるので、雰囲気イケメンになる方が100倍楽です
「結婚とかイージーな時間は短い」←95%で勝てる時期に努力すれば勝てるってことの証左なのでは
20代の頃に同じ年齢のブスに言い寄られたと想像してください、結婚したいですか?
若い男はあまり結婚したくないわけですから、20代で結婚する難易度は男と女でそう変わりません。
20代狙いの40代となら容易いかもしれません、しかしそんなモンスターと結婚したいと思いますか?
「結婚してもDVとか」←男は就職して自殺するまで追い込まれる人数が女より段違いに多いから、比較すると楽なのでは
男と女はマッタク別物だと思う。
俺は男だが。女の人生に対しては、楽そうだなと思っている。隣の芝は~ってのはあるかもしれないが、どーしても楽に見える。
結婚すれば、後はパートでもしながら昼間ごろごろして、奥様方でランチでも食ってって感じをイメージして書いている。クレヨンしんちゃんのみさえのイメージか。
楽に見えることに対する女性側の反論もイマイチ納得がいかない。
「女性は見た目だけで見られる」←化粧でドブスでもよくなるのでは、痩せればOKなのでは
「結婚とかイージーな時間は短い」←95%で勝てる時期に努力すれば勝てるってことの証左なのでは
「結婚してもDVとか」←男は就職して自殺するまで追い込まれる人数が女より段違いに多いから、比較すると楽なのでは
こういう感じなんだけど。
どー考えても女性が楽に見える。
っと、ここまで書いて気づいたが。
ドーモ俺は、日本の男女を対立させて(アウフヘーベン的な意味であって、敵対って意味じゃないよ)考えているみたいだ。
日本の男女も無理やりくっつけられてきたけど、そもそもソレがダメだったのかもしれないな。
日本人同士だと、気が合わないんじゃないんだろうか。
日本人同士は男女で気が合わないという風なことかもしれない。
日本人男女がお互い関わらないで済む、そういう社会のほうがいいんじゃないかな。
日本の男女対立で、なんか、女のほうが楽じゃん、って感じの意見多いけど。
何のことは無い、自国民同士だからって、同じ目線でみるのが間違っているんじゃないかな。
日本女が何考えて日本男性を追い詰めるようなことしてるのか理解できないけど。
追い詰められたんなら、逃げたい、関わらないような社会を作るってのが大事なわけだ。
これだな。
女性に文句言わず。日本男性が関わりたくない日本女性と関わらないですむシステムつくりをしましょうってこった。
女に文句言うのは、お門違いだ。
自分が正しいと思う職場改善案を上司に言えないなら、それはお前が自分の意見が正しくないと無意識下で理解している証左であって、そもそも俺の意見に対する反論になってないじゃん。(ニヤニヤ)
やっぱ「正論と合理化で仕事のやり方変えたがるならテメエの会社持ってから言え」で終わりな話だな。
ちなみにお前の仕事には興味ないし、だいたいお前の仕事が何かなんてどうやって証明するんだこの匿名掲示板で。まあ、こんな人様の日記にヨソからいきなり噛みついてくるあたりからしてお前は会社に体よく使われる不満だらけの安サラリーマンだろうよ。
あとこちらはそもそも対話を望んでいないんだから対話になるわけがないんだし、“誰かを殴れば必ず殴り返される”それだけ覚えて、二度と話しかけてくんなよ。
山戸結希監督の『おとぎ話みたい』の初日公演がテアトル新宿であったので、行ってきた。
ずいぶんと言葉に愛着のあるひとなのだな、という印象だ。作中、高校生の主人公を通して山戸監督の言葉が「これまでか」という程に発せられる。
「元来、踊りとは身体を売り物にするものであって、嫌らしいものであるから。その身体性を意識して、私は踊るのです」
といったような台詞が連続してゆく。ぼくはこういった言葉が嫌いでなくて、むしろ好物であったりするものだから、楽しみながら観た。「こんな女子高生おるんかいな」という感覚は否めなかったけれども。
上映後に山戸監督がふっとあらわれて、いや、「あらわれて」という表現は適切ではなくて、ぼくがスタッフの女の子と認識していたひとりがいきなりマイクをもって、「監督の山戸です」と話をはじめたから衝撃を受けたというのが実際のところなのだけれど、とにかく山戸監督が話をはじめたとき、ぼくが感じたのは、「やっぱりこのひとは小難しい言葉を好むひとなんだ」ということだった。「証左」ということばをあなたは日常で使うか。三十年前の大学生はもしかするとつかったのかもしれない。
山戸監督をとりまくそれぞれに対しては、頭のなかで文筆をして、それを読み上げているような、そんな印象を受けていて、ぼくはやはり文章が大好きなものだから、それが若い女性の声で再生されるのを耳にすると、妄想の世界が現実になった気がして、「ああ嘘くさいけどやっぱり最高だ」、と思ってしまうのだった。
「これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です”って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって…。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)。まあ、半分は正鵠を射て、半分はブラックユーモアみたいなものだけど、そういう文明ってのは、惑星をあっという間に消滅させてしまうんだよね。」
「この間すごい話をしたんだ、松井さんが。私は膝をたたいてその通りだと。女性がいるから言えないけど…。本質的に余剰なものは、つまり存在の使命を失ったものが、生命体、しかも人間であるということだけでいろんな消費を許され、収奪を許される。特に先進国にありうるわけだ。でね…、やっぱりやめようか(笑)。あれが実は地球の文明なるものの基本的な矛盾を表象している事例だな。」
「そして、他の動物、他の生命体とのかかわりの中で、人間が人間というものの存在を主張し過ぎたために、非常に横暴な存在になった。そして、彼が例を挙げたのは、ほとんどの動物は繁殖、種の保存ということのために生きて、それで死んでいくが、人間の場合にはそういう目的を達せない人でも、つまり、人間という尊厳の中で長生きをするということで、彼はかなり熾烈な言葉でいいまして、私はそのときに、なるほどなといいながら、しかし、それは政治家にはいえないから、あなたみたいな専門家じゃなきゃとてもいえませんなといって、そのときに慨嘆したんだ。(中略)私が思わずひざをたたいた所以の一つは、私の友人でもありました深沢七郎氏が書いたうば捨て山という、あの、要するに「楢山節考」という、年をとったそのおばあさんを、その部落の貧困のゆえに、あえて生きている人間を捨てに行くという、これは年をとった女の人が、他の動物の生存の仕方に比べれば、かなり横暴な存在であるという表現の、実は逆説的な一つの証左でありまして、私はいろんなことを思い合わせながら、その松井さんの話を非常に印象深く聞いたわけです。」
この狂った発言後の選挙で彼はババアの熱い支持を受けて再選した。
私的には不思議だった。
石原曰く爺は生殖能力があるから生きる価値があると枯れたイチモツを自画自賛しとるがめったに爺が生殖なんてせんし、しても甘やかしたり障害児だったりでろくでもない子供が多いし、世間を見たら定年して濡れ落ち葉になった爺よりよほど有用で有意義に暮らしている婆の方が多いし、パートタイマーでは圧倒的に爺より婆が使えるし、家事や孫の世話などでも爺より役立っているが万が一女性政治家が
「文明がもたらした最も悪しきものは爺ですよ、婆は役に立ちますが仕事をやめた爺が生きているのは無駄で罪です(笑)」
みたいな事を何度か言ったら爺の熱い支持を受けて再選するのは無理ではと思うのだ。
婆はずーっと男からの侮辱的な言動を受け入れて、男から嘲笑われるのに慣れすぎているから笑って流したのかなぁよくわからん。
セクハラとかも婆はわりと平気に受け流すしな。
この惑星のある広い一圏域で信じられていることである。だれもこの起源を知らぬ。だが何千年の時を経た今でも信ぜられている。
これらを循環させ、そして、組み合わせ、12×10÷2で一巡させる。
10のエレメンツはあるときはまた異なる5のエレメンツの兄弟としても捉えられ(5×2)、あるいは方角を示す要素としても用いる。
十方位から吹きこむ風と考えることができる。
いくら科学文明が発展しようとも、こうした循環論理を人々は大切にして、例えば1年ごとに来年の神獣をうらなう。
誰がいつ定めたのかも知らぬこの神獣を、人々はこころから信じている。
どれだけ社会科学が発展し、貧困からの格差が次第に減少し、男女の社会性の差違が次第に解消され、科学に対するリテラシーが発達する時代になっても、
例えば年始の賀状にその次の年の神獣を書いては顰蹙を買うし、例えば旧年の神獣をデザインしても笑われる。
実はこれは、神獣とエレメンツとが循環しているのではもちろんなく、人々の認識が過去から未来へと連続している証左だ。
いつか、私たちが石器時代の精神性を忘却してしまったのと同じく、これの意味を忘れるときが来るかもしれない。だがそれまで、60年120年180年300年720年1200年36000年と続いて行くし、そう続くと今の私たちは想像できるのだ。
マクドナルドの業績悪化のニュースが頻繁に聞こえてくる。それは良いとして不思議なのが、反応の多くが「批判」であり(ヤフコメは勿論、はてブもそうである)、さらに批判の多くは「昔は良かったマクドナルドが今はこんなに・・・」という文脈なことである。「良かった昔のマクドナルド」は藤田田のマクドナルドであり、原田泳幸のマクドナルドである。そう。それはそれで皆さんが叩きまくった両社長のマクドナルドである。
たしかに藤田田、原田泳幸両氏は、終盤では手法が消費者から飽きられアイディアは枯渇し、施策の迷走が見られ、その印象から今では全否定のような書き込みも目立つが、日本マクドナルドを実力値以上に牽引してきた手腕は確かにあると思われる。日本の外食というのは生き馬の目を抜く業界である。古いビジネス流行語で言えばレッドオーシャンの代表格といえる。参入障壁がもっとも低い業界であり、個人経営店が大規模資本のチェーン店を向こうにまわして費用対効果込みで切り伏せるほぼ唯一の業界である。
外食業界では勝ち組と言われる企業ですら薄利であり、更には長く勝ち続けることもできない。「勝者なき血みどろの戦場」である。
・すかいらーくは低価格店ガストのヒットで上昇カーブの寿命を永らえたが2000年代には沈没し、野村、その後米国系ファンドに買収された。
・吉野家は倒産から立ち直ったもののBSE問題を契機に再度沈没しまるで今のマックのように経営不振を取り上げられ続けた。今は立ち直ったイメージがあるが前年決算は売上1800億円に対して最終利益はわずか9億円、何かひとつ事故なりあればあっという間に赤字転落である。
・吉野家を凌駕した業界の新覇者ゼンショーは労働問題を契機に沈没し昨年は100億円を超える赤字に沈んでいる。
・創業から成長が小説にもなった立志伝中のワタミも労働問題を契機に沈没し、昨年は100億円を超える赤字に沈んでいる。
モスフードは健闘しているかのように言われるが670億円の売上に対して最終利益はわずか6億円台。ロッテリアはファンドの傘下。日本ケンタッキーは昨年5億円の赤字、三菱商事が経営してこの状況である。ファミレス復活などと言われるロイヤルも1200億円売って最終利益は18億円。最近では東京ちからめしが彗星のように店舗を100店舗以上に増やし、彗星のように13店舗(たった今HPで数えた)まで減らしたことはまだ東京都民の記憶にあるはずである。なぜ堅実だった三光マーケティングが牛丼を焼いただけでイケると思ってしまったのか、理解に苦しむ。ロードサイドのハイエナ率いるステーキのけんも業績が悪化しているという。
このくらいにしておこう。キリがない。
マクドナルドは、システムは洗練されているが提供するものは十年一日の米国発ファーストフードチェーンであり、少なくとも食の世界では米国への憧れが消えた90年代以降にあって世界でもっとも厳しい日本の外食市場で今まで大健闘してきた、というのが正しい評価ではないかと思う。現在のカサノバマックの状況はちょっと酷すぎるが、原田氏後期の状況は不振というよりもそれが実力値であり、実力値にアジャストが起きたにすぎないと思う。ライトサイズまでリストラされて経営者変えればまたそれなりになるだろう。
1980年代くらいまでのマックは今のスターバックスのポジショニングであったのだろう(当時のことをよく覚えていないので想像だが)。当初日本で成功させたのが藤田氏であり、マックが日本で飽和し日常と化して飽きられた頃に再度息を吹き返させたのが原田氏である。原田氏も10年近くたって飽きられたわけだが、当時原田マジックは確かにあったのだ。2人に肩入れしているわけではない。私個人としては彼らの主義主張にあまり好感を持っていない。しかしながら事実の評価は正当になされるべきと考える。業績のかなり落ち込んだ原田マックを引き継いだはずのカサノバ社長が更に底なしに業績を悪化させているのは一つの証左である。日本の外食のプロでない人がなぜ経営できると思ったのか、過去に日本で勤務していたというがどこまで自身が現場で深く市場と格闘していたのか、本社のこの判断誤りは内部で責任を問われるに相当である。失敗が予想され、予想通り失敗している。アメリカやカナダとは市場がまったく違うのだ。
日本の外食を知っているやり手を経営者に据えれば原田マックの後期くらいには復活できると思われるので、外部に売却するというマックグローバルの方針のニュースを見たときには「え???早過ぎないか?」と思ったが、今後店舗整理で日本のマックはまだまだ損失を計上すると思われ、親会社決算に損失が反映されるのを避けたいのだろう。現在の持ち株比率は49.99%で連結はせずにおさえているけれど、損失は取り込まれるからね。持分法で簿かは切り下がっているから売却損も大きくは出ないし(更に優待目当ての個人投資家で株価は割高だというし)、立ち直って将来買いなおすと、キャッシュ的には安値で売って高値で買い戻すわけだから損だが、PL的には高値で買い戻しても損失が計上されるわけではない(のれんに計上されるだけで減損されない限りPL損は出ない。損を出す頃には次の経営者である)。米国投資家のEPSへのプレッシャーはとても強いし、短期思考の米国流経営ならではである。
日本の外食市場が世界で最も厳しい、というのは感覚値の話で、これを定量的にサポートすることは難しいが、ひんぱんに海外に出張する人なら同様に思うのではないかと思う。アジアを除く海外では安く食事できる外食の種類がそもそもあまりないし、ファーストフードの店舗は往々にして荒れている。店員の態度も、愛想があるないとか、そういったこと以前の水準である。下記のページをみつけたのだが、各国人口比のマクドナルドの店舗数が掲載されている。大量閉店前の2014年のデータではあるが、アングロサクソン系(US、CA、AU、NZ)以外の国では日本の人口比の店舗数が最も高い。一方食事のうまい国はおしなべて低い(FR、IT、SP)。日本は一応ミシュランの星数が世界最高だというので、食事のうまい国に入ると思われる。さらに内需の規模があるため群雄が割拠しており、サービスの品質もマックのマニュアルに頼らなくても非常に丁寧で高い。日用品市場で日本の消費者は世界一厳しいと言われるが、これはおそらく外食でも同じで、1000円以下の食事で定員の態度から清潔さからすべて完璧に近い水準を求めるのが日本の消費者であり、ライバルもそこで戦って鍛えられている会社たちなのである。
http://www.world401.com/data_yougo/mcdonalds.html
ところで本エントリを書きながらUSのマック本社の決算も見てみたのだが、今のレートでざっくり換算して、売上3兆円強、最終利益5700億円といったところである。たしかにこの3年ほど停滞しているようであるが、この絶対水準で業績不振と言われているのだからツライよな、と思った。
男の胸は出して歩いても文句を言われないのに、女の胸だけ隠すのを求められるのはおかしい!と訴えてる。
日本のフェミは不快かどうかを動機にして突撃するだけのゴミばかりだから、
否定するための後付の理屈として男性器と同じ!とか言っちゃうんだよな。
あいつらの主張によると、巨乳の女は街中で胸を晒す服装を着ちゃいけない。
サイズがなくてぱっつぱつの状態でいるなら、興奮した男性器を晒して歩いてるのと同じ、ドヘンタイエロ女だということになる。
これって、おっさんたちが巨乳の女はスケべでやりマンって言ってるのとまったく同じ感性だって気づいてるのかな?
巨乳が胸を晒す服装をしていると性的搾取を思い起こさせるからやめてほしいとかキチガイにも程がある。
女性の胸はいついかなるときも男性に搾取されるものだ、セクシーな服装にたいして日本の男はいついかなるときも性的な消費をしている、そういう決めつけがあるからそんなキチガイじみたことを言えるのだろう。
まぁ気づいてないんだろうな。不快を動機にして暴れてるだけだから、こう言われても、指摘された現実を受け入れられずにどうにか否定しようと発狂するのが日本のフェミニストには多い。
しかも、巨乳の女の人権を認めないゴミクズだと怒るのが男だけだと決めつけてるようで頭が痛くなる。
http://anond.hatelabo.jp/20151206202906
追記
男はおっぱいばかり連呼する←ネットで女叩きを見てすべての男はマーンとか叩いてる!とか言っちゃうフェミみたいだな、上に書いてるとおりすべての男は胸を見て性的消費しているというバイアスに従って理屈を組み立てるからこうなる
それに性的なものとして扱うべきでないと主張するならなおさらあのポスターを批判する側を批判する立場に立たないとおかしいわけ
http://anond.hatelabo.jp/20151208225601
巨乳への視線に対して怒ってるのではなく巨乳を公共の場で晒すなと発言されてる方がほとんどなので筋違いですね
そもそも視線に対して怒るのならばポスターには何の非もないという証左になりますし
ましてやもともとのうりんという漫画に出たキャラが巨乳という属性を持っていて巨乳を晒す服装をしていただけなのに巨乳の露出という部分だけピックアップしてるわけで
女の人格よりも巨乳という属性しか見ているのはフェミニストなんですよね~
生まれもった体型のせいで作業服の前ボタンが閉まらない女の子が恥ずかしそうな表情で困っている場面
あと鬼畜AVに食って掛かったら女優さんに否定されてバカを見たフェミもそうだけど、こうやっててめぇの脳内で勝手にエロい空想補完して他人に押しつけるのマジ勘弁だわ
コイツの中では巨乳が前ボタン止めてなくて顔を赤らめてたらエロい目で見られてもしかたない!って思ってるわけでしょ
それはエロいものです!と男の視線をますます増長させるって気づいてないんだろうなぁバカだから
女性の本能や生理部分が男にとってあまりに理不尽すぎるから、女叩きをする。
女にしてみればどーしようも無い部分で、変えられないが、男からすれば「男女平等ならあってはならない理不尽」がたくさんある。
③ イケメンに媚びて、ブサメンをディスる(過半数の男性はこのディスを受けたため、女性に舐められることを嫌う。高圧的になる)
④ 可愛い、キモいという感情論で結論を変える(過半数の男はこんな理不尽な感情論で損をしたことがあるので女性のこの手の判断を嫌う)
⑤ セックスさせてくれる可能性が無いくせに調子に乗る(セックス抜きで、どうやって女性のナチュラルな上から目線を下位男性は受け止めるんだ)
⑦ 生理前の理不尽な態度を許せといわれる。男同士なら許されない。
⑧ フェミのせいで少子化、しかも上位女性が得するだけで下位女性がいじめられているという目に見えた結論をなぜか女性が支持する頭の悪さ。男を悪者にできれば現実が見えなかったことの証左。
⑨ 小学校の学級会や、放課後の合唱の練習などでの、女子のうざさ。「ちょっと男子ー」と女性の本能に叩き込まれた男性差別が垣間見える。
⑩ つるまないと何もできない。全体を見た調和が理解できず、目の前の自分の利害得失しか見えない
このあたりの理不尽さを女性が改めない限り、これらに起因した理不尽を受けた男は延々女叩きをする。
逆に言えば。
男性が女性に行う理不尽については、女性も叩いていい。セクハラなり、ヤクザの暴力なりを訴えればいい。
それと同じレベルで、女性への理不尽について声を上げる。これが女叩き。
べつに差別でもなんでもない。正当な主張なんだよなあ。
女叩きしてる連中も、こういう女の本能を利用してるチャラ男も、中身は変わらないんだよ。
女への復讐だよ。
復讐されることを女は男にしてるんだよ。
僕の人生における目標が抽象的で、どう使っていけばいいのかわかりません。
目標は「楽に生きて天寿を全うしたい」です。
楽に生きるためなら、ある程度の苦労をすることと投資が可能な性格です。
皆さんなら、百万をどう使うことでこの目標を達しようとしますか?
「自分がこういう奴だったら~」と思って考えてくださるとありがたいです。
以上です。自己顕示気持ちえがったー!!!相談について答えてくださると嬉しいです。
これって冒頭のヤツらは自分たちが特別だとわざわざ障害のない人たちの生活圏の外に出て特別ぶってるから失笑されて当然だという証左にしかならないんだが
マジで解読してほしいんだが。
これって冒頭のヤツらは自分たちが特別だとわざわざ障害のない人たちの生活圏の外に出て特別ぶってるから失笑されて当然だという証左にしかならないんだが
普通のヤツラだってそうやってたらバカにして笑う連中が大半じゃん
障害者雇用の促進して普通の連中と暮らせるのを推進する事こそが理想って話は「障害者の能力を「持っていないかわいそうな人」と定義づけることにしかなってない」んだ
お前の中ではそうなんだふーんへーとしか言いようが無いな笑
それに「障害者の能力を「持っていないかわいそうな人」と定義づけることにしかなってない」っていうけど
実際にハンデが重くて対等だとは思えない人もいるって話を私が感動消費した人たちと同じようにさせなきゃかわいそう!!に持ち込むのって、