はてなキーワード: ストーリーテリングとは
内容がバズるかどうか:マーケティング。どういう事柄や記事にニーズがあるか調べ、ニーズに合致するコンテンツ案を大まかに考え、その案をタイトルから文末まで読み手が次々に読み進めたくなるような文章構成に落とし込むこと。
文章にケチが付くか:論理と倫理への配慮が要る。論理への配慮とは、演繹と帰納と適切な根拠をもって自分の主張を支えること。倫理への配慮とは社会通念や法律に則した内容であるかチェックすること。
さっき、"「文章力」や「本当に欲しいもの」の定義は、自分が読んだり書いたりする中でしか磨かれないだろう。"と書いたが、これは事実の片面だけを切り取ったもの。自転車に乗れるようになるためには、自転車に乗っている人を参考にして、自分も実際に自転車に乗ってみるしかない。文章を書くことも同じなのでそう書いた。
ただし、見よう見まねで練習する以外のもう片面として、先人が蓄積している上手に自転車を乗りこなすための知恵を活用するという方法があるのも事実だ。文章を書くことについても、マーケティング、セールスライティング(コピーライティング)、ストーリーテリング、パラグラフライティングなど各論の参考書は色々ある。それらを読めば特に「文章力」の定義に関しては理解が進む。
しかし文章力の定義を磨いたところで、結局のところ、実例をたくさん読み、また、自分でもたくさん書く経験を積まなければ文章は上達しない(これを書いている自分の文章力を思うと恥ずかしい限りだが、それはさておき)。
とりわけ、自分が「本当に欲しいもの」に関しては、読んで書いての経験の積み重ね無しには磨けない。鯛を食ったことのない人間に鯛の味は分からない。世界を旅したことのない人間に世界旅行の醍醐味など分からない。味わってみて、やってみて初めて、「あれが良かった、これは良くなかった、今度はこうしようか」という感覚が掴めてくる。それなしに「本当に欲しいもの」の定義などしても空々しいだけだ。
これ https://akiba-souken.com/article/51350/
とか
これ https://pencroft.hatenablog.com/entry/2021/06/22/203412
とか。
こういうオーダーが出ているのかもしれないし、原作の残り部分でもギギとやらなかったのかよ?みたいにほかのマフティーのメンバーに言われてるみたいなシーンとかあるし、ケリアやエメラルダから寄せられる好意を露骨に鬱陶しがっているとかこういうテキストを書きやすい内容にはなっているとはおもうのだけどさ。
映画自体はそういうのじゃなくて、初代ガンダムでいうとハサウェイはアムロやシャアじゃなくて、ケネスやギギの中心にいるララァの役割の人間でなんつうかそういう童貞がどうのみたいな感じのストーリーテリングはされてないと言うのは見てる人はわかるわけじゃん。実際この感想書いてる人間でほんとうに原作読んでないやつってどのくらいいるのさっていう。だったらなんでこんなやっすい感想書くのさと思ってしまう。
たぶん半年とか一年後には続編がでて、ハサウェイの苦悩とかが描写されるわけだけど、そのときにもこんな童貞がどうのとか書くつもりなの?違うよね?ならなんで今こんなの書くのさ。ほんとね、もっといろいろと真面目にやろうよ。
今敏、内田けんじ はわいもすこ。コメディだと思ってるのあげてく
L ル・アーヴルの靴みがき Le Havre(2011年)
L 希望のかなた Toivon tuolla puolen(2017年)
L 浮き雲 Kauas pilvet karkaavat(1996年)
L 街のあかり Laitakaupungin valot(2006年)
L 地球は女で回ってる Deconstructing Harry(1997年)
L 恋のロンドン狂騒曲 You Will Meet a Tall Dark Stranger (2010年)
ギミック系は、メメントとかシックスセンスとかミストとか他にも有名どころは語り尽くされてるので
誰も触れて無い系だと、デビッド・フィンチャー監督、マイケル・ダグラス主演の『ゲーム』がすこ。小説版も好き
登場人物がみんなそれぞれ歪んだ愛を抱えて、自分の中の愛と社会が衝突していく。それぞれが愛を抱えていくことが出来なくなって挫折していく中、ただ一人主人公だけは自分の愛を貫いて、そして最終話、サムライフラメンコネイキッド。黒幕と相棒後藤に対して全裸での説得、プロポーズ。
私はクライマックスの流れ大好きなんだけど最後の思い出のメールを消されて逆上している後藤に対して全裸でのプロポーズというのはストーリーテリングとして本当によく出来ていて人の感情の動きとしてあり得る、説得力があると思うのよ。
完全に聞く耳持たない状態で本当の親友が素っ裸になって不器用に愛をぶつけてられ、逆上が収まっていつものように「馬鹿馬鹿」と罵倒するまでのあの心の動きをよく描き切ったと思うよ。
あの心の動きを描くためにはサムライフラメンコは全裸にならなきゃいけなかったし、全裸でプロポーズする必要があった。
この全裸プロポーズを唐突なものにしないためにも物語は心無い人が「ネタアニメ」と揶揄するほどシュールな展開を辿らざるをえなかったといえるよね。愛はたとえ歪で不器用でも真摯にぶつかれば敵も味方も世界も救う。サムライフラメンコは愛なんだ。だから僕はサムライフラメンコが大好きなんだ。良かったらうちでサムライフラメンコみようよ、カレーを食べながら。
以前に5chのコピペを元にして、メディアの絶賛は言葉が強すぎるのではないだろうかと言った増田があった
メディアと2ch界隈の断絶がより進んだだけじゃないかなーと思う。あと僕の文章勝手に大げさに改変して「言葉が強すぎるのでは」とか言われても困る
コピペは大げさに改変されたものらしいので、改変前の文章はどんなものだったのかを調べてみた
(3/14 いくつか元になったと思われる文章をよりそれらしいものに変更)
https://youtu.be/gTtbOwTrufs?t=444
↓
このゲームは買わないと駄目だと思います! 理由は、ヴァニラウェアという日本の宝のような会社を存続させるためにも1本でも多く売れる必要があると思います
https://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/200111a
「狂気的に傑作過ぎる」
↓
狂気的に傑作すぎた
「他のあらゆる媒体の事例を踏まえても例がない多層的構造のストーリーテリング」
↓
本作の物語は、直線型でもフローチャート型でもない、多層型(立体的)とも言うべき構造になっており、その各層が密接に絡み合うことによって、物語を理解していく楽しみ、深さを作り上げている。これはおそらく、今までのゲーム……というか、他のあらゆる媒体の事例を踏まえても、なかなか例がない形なのではないだろうか?
これは、単純にストーリーテリングのあり方だけをとってみても、本作がとんでもない挑戦をしている作品だということを意味している。
「アドベンチャーゲームのまったく新しい新種」
↓
アドベンチャーゲームのまったく新しい「新種」なのでは?と思うほどだ。
↓
(これはアドベンチャーゲーム全体の話で、十三機兵のみの話ではない)
「ゲームというメディアでここまで作家性が溢れ出ている作品がいったいどれほどあるだろうか」
↓
商業のタイトルで、しかも集団制作物であるゲームというメディアで、ここまで作家性が溢れ出ている作品が、いったいどれほどあるだろうか?
https://jp.ign.com/jyusankiheiboueiken/41091/opinion/
↓
アドベンチャーゲームがこれまで行ってきた正当性の担保を保証しないことが、この物語を正当化させた。『十三機兵防衛圏』とは、はじめから長いトゥルーエンディングそのものだ。これは紛れもない革新であり
「本作がアドベンチャーゲームの歴史において優れている理由」
↓
本作がアドベンチャーゲームの歴史において優れている一つの理由だと筆者は思う。
↓
「顧客満足度99%」
↓
↓
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やらない人は人生の五分の一ぐらいは損してる。
https://news.denfaminicogamer.jp/news/200127i
「SFの要素がごった煮で最後にどんでん返しが起きるストーリー、我々の知っているガジェットが詰め込まれている」
↓
SFの要素がごった煮になっていて、最後にどんでん返しが起きるストーリー、我々のよく知っているガジェットが詰め込まれている。
↓
https://note.com/tekken8810/n/n4c56ae99adff (これがねとらぼ副編集長の記事)
「ゲーム・映画・小説などなどあらゆるメディアを見渡してもここまでの衝撃を味わわせてくれる作品には出会えない」
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ゲーム・映画・小説などなど、あらゆるメディアを見渡してみても、ここまでの衝撃を味わわせてくれる作品にはなかなか出会えないんじゃないかと思う。
「まだこんな物語表現ができたんだ!と素直に感心してしまった」
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https://dengekionline.com/articles/22754/
「10年は語り継がれる」
↓
いまのなろうトレンドを見てると、音楽界にあった音圧競争的なものを感じられてならないね、というお話です。あ、そう感じただけで結論はねーです。
ウェブ小説サイト「小説家になろう!」は、日本でも有数のページビューを抱える化け物サイト。そこでは雨のあとでもないのにタケノコがニョキニョキニョキニョキ生えてくるような状況。なのでそこを勝ち登るためのメソッドがどんどん研ぎ澄まされてってます。
これについて雑に現象を収斂すると「長文タイトル(タイトルでどんな内容かを明示する)」「テンプレ化(人々が楽しみたい物語類型に従ったストーリーテリング)」の二つになるでしょうか。特に後者がやばい。ものすごい勢いで物語たちが生まれるってのは、新陳代謝、練磨の速度もそいつに伴ってきます。更に、ガンガン系やエース系、後は各紙のウェブ連載漫画などには、かなりその影響が波及している印象もあります。
が、この流れって、どこまで続くんでしょうね?
と言うのも、音楽業界に似た流れがありました。それが上で書いた、音圧競争です。
音圧ってえのは、簡単に言うと「同じボリュームで、どれだけ音が大きく聞こえるか」の指標です。音楽製作ってな、容量の決められた箱の中にどんなものを入れるか、みたいなところがあって、その箱の中により多く物を詰め込めると、それだけ音圧がでかくなります。
人間、好ましい刺激があると、もっと強い刺激を欲するもんです。音楽の場合、まさにこの「音圧」こそがそれ。でかいは正義。分かりやすい。そして、途中はすっ飛ばしますが、デジタル化で、めっちゃ詰め込みやすくなりました。スコップで穴掘ってた人間に、突然ショベルカーが与えられたぐらいのアレです。
ただね。結局、限界があるんですよね。
どんどんと曲の音圧が上がっていく。すると入れ物にギチギチになっていきます。そこに遊びがなく、息が詰まってくる。
もともと、音の大小ってのは静かなところがあってこそのハデハデしいところです。音圧競争の激化によって生み出された曲たちは、「ぱっつんぱっつんで、メリハリがない」と一部で嫌われるようになりました。その流れの末、 YouTube では「音圧でかけりゃいいってもんじゃねえぞオラ」てきな方策を打ち出します。一定以上の「音圧」がある曲が、強制的に音量を落とされるようになったんですね。このへんの具体的な内容はこちらに。
G.C.M. RECORDS
YouTubeの自分や他人の曲が何dB音量を強制的に下げられているか調べる方法
https://www.gcmstyle.com/youtube-gain-check/
これによって、一定以上の音圧を稼ぐことに意味がなくなりました。リンク先によれば、他の音楽再生サイトもこの流れにしたがっていきます。かくして音圧競争には終止符が打たれ、 「適切な音圧」の枠内で音楽たちは戦いを繰り広げるようになったわけですが。
これがね。いまのなろうトレンドの進み方にかぶる感じがして仕方ねーのです。
この辺の与太話を書こうとした動機。それは、めっちゃなろうトレンドを研究してらっしゃる方、「うっぴー/ライトノベル作法研究所」さんのこのツイートを拝見し、んん? と思ったことでした。
>> You Tubeで昔のエロゲのプレイ動画を見たら。 ・展開がダラダラと劇的に遅い ・主人公下げ。ヒロイン下げなどのストレスがちょこちょこ挟まり、すぐにこれが解消されない ・無駄と思われるシーンが多い。 エロゲは人生のバイブルですが、現代のなろう小説がいかに進化しているか、わかりました <<
https://twitter.com/ranokenn/status/1328484670778920961
うっぴーさんは別のツイートで、なろう作品では「共感させ、大活躍させて、すげぇと言われて、ざまぁすることが超重要」と説かれています。つまり、感情移入できる主人公が強くて、活躍して、ムカつくやつをやっつけて、称賛される。ついでに言えばモテる。それをいかに物語の骨子とできるか、が「なろうで勝ち上がるために」重要だ、と仰るのです。
主人公アゲが作中でなされればなされるほど、読者は高揚する。なので、それをより端的に、継続的に提供し続ける。そういう作品が、勝つ。更に言えば、「長文タイトルで」どのような方向性の主人公アゲがもたらされる物語なのかを、余すところなく語る。
ここで、主人公アゲを「アゲ圧」と呼びましょう。
月刊少年漫画誌の作品などは、「エピソードボスを倒す」というアゲ圧マックスポイントを作るために、途中ではアゲ圧を下げます。主人公のピンチ、初戦の敗北、回想シーン、などですね。これらを積み上げ、エピソードボス撃破、及び後日談というアゲ圧マックスポイント、いわゆるカタルシスを演出する。
っが、なろうではこの悠長なやり方が通用しません。一定以下のアゲ圧となると、読者の離脱が発生するそうなのです。ゆえに、常にアゲ圧の高さをキープ、なんならほぼ全編クライマックスくらいの状態を作るようにせねばならない……のだ、とか。
その精華が、うっぴーさんのツイートに現れているように思うのです。よりスピーディーに、より劇的に、物語を組み上げる。なるほど。けど、それってどこまで行っちゃうの?
「なろう系」を提供する総本山、小説家になろうは、レギュレーション違反以外のことで作品には介入しないのを旨としています。となれば、YouTube が見せたような「いい加減音圧競争やめーや」的介入はありえない。なろうトレンドバブルの崩壊は、自然発生的な形になるんでしょう。
ただ、ならそれがどんな形で発生するのか? また、バブル崩壊後の作品分布はどのようになるのか? こいつについては、自分みたいな半端者ではまったく想像もつかんのです。
以上の話、あえて結論を申し上げれば「おいおい、そのうちなんかおもしれーこと起こりそうだぞ、どーなのよ」となりますでしょうか。いやー、人類たのちい!
あら反応いただけて嬉しい。文通させてね。
一番多いのはこれよね。
信じてないですよ。どちらかと言うとこちらも批判的な立場です。ただし全否定もしません。「なろうという戦場の最先端近くにいる人たちを見ている」ことはすごくて、でも「それを語る氏のメガネ」は曇ってる。そう言う立場でいる中で、無双モテすげぇざまぁという感情を揺さぶるのが「なろうトレンド」という氏の発言には説得力を感じてます。油断するとすぐ否定的言説になるから、敢えてアゲ基調で書いてるけど。
ついでに言っとくと「真に受ける」じゃなくて「分析通りの状況になってる」から言及してるわけであって。今のなろうのランキング眺めてみ? うっぴー氏の分析どおりだし、あとキモいから。
「お前の作品はロミオとジュリエットのパクリだ」とか言われても「はいその通りです」としか答えようないものねー。読んで「パクり元に対してシリアスか」になってくるのかなって思うけど、正直わからん。
すげーいっぱいあるよね。ランキングにずらずら並んでるのを見て正直引いてる。
然り、然り。
このテーマね。申し訳ないけど、他ならないうっぴーさんが回答してるよ。「なろうは時間つぶし、暇つぶしに見る人が多い。こういう人たちは、たとえどれだけ頭がよくても、あまりものを考えずに読めるものが欲しい」ってね。
もと発言者を信用するかどうかはさておき、このテーマそのものは興味深いと思ってるよ。
これ、俺も正直よくわかんない。けど「書きたいものを書いてウケないよりも、書きたくないものを書いてウケたほうが嬉しい」って言ってる人もいるし、そうなんじゃないかな?
せやな。だからその辺の話してないやろ? 「目立つとかってだけ」の話しかしてない。
というかそもそも「ガチで読みたい」人ははじめっからランキングなんぞ頼んねえだろうよってゆうね。そしてガチで読みたい人なんてさらっと読みたい人に較べりゃ圧倒的にパイが少ない。そんな人が求める作品なんざどだいランキングになんぞ上がってこねーでしょう。
奇遇だね、俺もあなたの「珠玉金剛」って表現気持ち悪い。まぁ合わない人同士、ここは距離を置いときましょうや。
ありがとう。技術論云々以前の、こういう感覚的な部分って決して見過ごしちゃならないものだって思うんだよね。
人間、よりわかりやすく、より刺激の強いものを、ってどうしてもなるよねー。
ぐんぐん圧縮され過ぎて、そのうち新規参入の人が見たらただの奇形物にしか見えなくなるんじゃないかなって思ってる。ていうか正直俺には今のなろうトレンドって奇形物の集まりにしか見えない。
わかる。転スラ読んでギブアップしたのもそれ。
謎の圧力にさらされて疲弊するんですね、わかります。確かにそういう作品多い。
「限られた範囲で、いい塩梅で」ってのは、まぁ確かに簡単に実現できるもんでもないしねぇ……。
わかるー。オールオアナッシングのほうが楽だよねー。余計なこと考えなくてすむし。じゃあその方向で、ご自由にどうぞ。
こっちの書きたかったことが一切伝わってないのはわかりました。
もうありそう(こなみ)
完全に別の話だから分けました
元々の話題:
<略>
> ただ、こういったストーリーテリングがなぜこうにも女性のみが共感するのかは
> 『ベルサイユのばら』も一部はそうかも。
> 『ロミオとジュリエット』あたりが、元祖?ただ本作は女性のみに支持されている
> わけではないか。
↓
↓
そもそも直球で寄宿学校のジュリエットってのがマガジンにあるぞ
↓
恋愛が強調されるのがー
悲恋がー
女向け
『愛の不時着』が界隈でスゴイことになっている感じ。特に女性の間での共感が
ハンパない。だいたい20代~40代くらい?『冬のソナタ』よりは若干年齢層は
もちろん、全話見ました。で、感じたのは、物語の筋はめちゃくちゃベタな
恋愛話。
惹かれ合ってはならないとロジックとしては分かっている男女が
感情的には惹かれ合わずにいられない状況になり、ジレンマに陥る様相が
ひたすら最終話まで続くという展開。
つまり、
交わってはならない社会環境の中に放り込まれたソウルメイトの話。
この社会的断絶というのが今回の場合は国家的なイデオロギーの対立に
基づくという点がカギ。これは、さすがに現代日本が舞台では絶対に作れない。
台湾と大陸は可能かもしれないが、分断という意味では距離が離れているし
香港と大陸だと、一国二制度(今後は分からんが)なので、分断という
わけでは無い。
ここまで環境が特殊だと、ストーリーテリングが王道でも斬新に感じる
という点が多くの人の共感を生んだのでは?
ただ、こういったストーリーテリングがなぜこうにも女性のみが共感するのかは
『ベルサイユのばら』も一部はそうかも。
『ロミオとジュリエット』あたりが、元祖?ただ本作は女性のみに支持されている
わけではないか。
女オタクでやっていないともはやすでに人権を剥奪されかねない、今最も勢いのある、飛ぶ鳥も落とす、泣く子も黙る、超覇権ジャンル、それがツイステッドワンダーランド。
ディズニーにもヴィランズにも枢やなにも興味がなくても、ツイッターのTLに流しそうめんみたいに流れてくるからちょっと興味を持って始めたという人も多いはず。かく言う自分もその口である。
当方、ディズニーは何度かディズニーランドに行ったらくらい。小さな頃は家にディズニー映画のビデオテープがあった。まあ、話題の新作映画が面白そうなら観る。
先日、ディズニーに大変思い入れのある増田のツイステッドワンダーランドアンチ記事が一部で話題になったが、これはディズニーに大して思い入れのない人間のツイステッドワンダーランドアンチ記事である。ツイステッドワンダーランドファンには再び「お気持ち」「お気持ち」とぶっ叩かれガソリンを撒かれ火を放たれるかもしれないが、正直なところ「お気持ち」と腐される程の気持ちもない。
ただ、ファンダムがここまでの規模になると自由に好きなことを呟けるはずのTLでちらりとでもツイステッドワンダーランドに好意的でないことを呟こうものなら火を放たれるので匿名ダイアリーを書き殴る次第である。
理由はただ一つ、自分と同じように「え?これ面白いの?流行ってるけど全くわからん。自分のオタクとしての感性は死んだのか?」と慌てふためきながらトートイトートイ顔がいい〜と周囲に合わせて囀る悲しきオタク達に「君は一人じゃないよ」と手を差し伸べるためである。あと自分が書きたいからかな。書くとスッキリするからね。
以上より、ツイステッドワンダーランドファンの閲覧は推奨しない。と、記していても読む人は読むのだろう。
そもそも自分はソーシャルゲームもノベルゲームもほとんどしないので、毎日ログインしないとならないのが面倒くさいとか露骨なガチャ誘導が鼻につくとか文字送りがダルいとか細々としたソシャゲノベルゲー文化への違和感があるのだが、そんなところをあげつらうとキリがないので(1)ゲーム性(2)世界観(3)ストーリーの3つに絞って扱き下ろしていく。
(1)ゲーム性
擁護する隙もなくクソである。これはファンでさえ異論がないと思う。
このゲームがゲーム性を発揮する点は、バトル、リズミック、ノベル内の選択肢であるがどれも「ゲーム」と呼ぶにはお粗末な出来である。
バトルはガチャで集めたキャラクターをレベル上げして数字をぶつけ合うだけで、ほぼじゃんけんである。金と時間のある人間が圧倒的に有利なじゃんけんである。これ以上言及することは特にない。そもそもこのバトルはオートでとばすことが出来るのでゲーム的に重視されていないのだろう。
リズミックは、いわゆる音ゲー要素だが、まず音楽とノーツのタイミングがあっていない。この音ゲーを作った人間には致命的にリズム感が欠けている。ノーツが増えると動作が重くなって画面の動きがガタガタになるのでタイミングも合わない。
耳で聞いてリズムを合わせることも、目で見てノーツをタップすることも出来ない。
先日、リズミックでアイテムを集めるイベントが開催されたらしいが、一回もタップせずに画面を眺めているだけでクリアできるらしい。これは不確かな情報なので「こういう噂がある」と記すに留める。
最後にノベル内の選択肢であるが、これが一向にストーリーに影響している気がしない。しっかりと検証したわけではないが、どの選択肢を選んでも話相手のキャラクターの反応は変わらない。
なぜ選択肢が設定されているか分からない。ストーリーをオートで流していると選択肢のたびに止まるからやめてくれ、とさえ自分は思った。
(2)世界観
ゲーム性がクソであることはファンもアンチも異論はないと思われるが、このあたりから意見は分かれるかもしれない。
このゲームの世界観は、基本的にハリーポッターである。これはファンも「ツイステッドワンダーランドは治安の悪いホグワーツ」「ハリーポッターが好きな人はツイステッドワンダーランドをやって!」と放言しているので共通認識としていいだろう。
パクリだ、とは言わない。全寮制の名門校、特殊な入学許可、特色ある複数の寮、マジックアイテムによる組分け、動く肖像画、住み着くゴースト、魔法史、魔法薬学、錬金術――ハリーポッターが後世の魔法学園モノに与えた影響が絶大だというだけの話である。トールキンの指輪物語以降世界中の洋風ファンタジーが様変わりし、十二国記以降国内の中華風ファンタジーへの敷居は低くなった。我々は確実にアフターハリーポッターの世界を生きている。
だが、それを架空の世界の架空の学校の設定にそのまま持ってくるのは浅はかであるとは思う。ナイトレイブンカレッジはイギリスにあるのか?
そもそも生徒は多くの国から集められているようだが、その場合のナイトレイブンカレッジの立ち位置が分からない。公立ならば他国からの生徒は留学生なのか?私立ならばスラム出身などの裕福でなさそうな生徒は学費をどのように工面しているのだろう。奨学金のある世界なのか?あったとしてそれまでろくに教育を受けていなそうなスラム出身の生徒を迎える体制は整っているのか?
世界中から優秀な魔法使いの卵を集めているなら、ナイトレイブンカレッジの政治的な立場はかなり微妙になる。ナイトレイブンカレッジはどの国に所属しているのか。卒業生の進路はどうなるのか。他国の、王族でも金持ちでも何でもない生徒は国に帰ることができるのだろうか。
というか、生徒の出身地一覧も○○の国があったかと思えば✕✕の村との表記があったりして一貫していない。国と村を併記するのはどうなんだ、という疑問もあるがこの際置いておく。便宜上、国と称しているだけで連合体なのだろうか。それこそイギリスみたいに。
登場キャラクターが「そんな奴ツイステッドワンダーランド中どこを探してもいないよ」というセリフを口にするシーンがあるので、ツイステッドワンダーランドは国名か大陸名であるらしい。
気になるところは多々あるのでこのへんにしておくが、世界観については今の所ガバガバだなぁという印象しかない。
みんなハリーポッターの前知識があるからうっすらとこんな感じかなーと隙間を埋めているにすぎない。
せっかくディズニーの世界観を借りているのに、登場人物が全員白人風イケメンなのも個人的にはがっかりポイントである。そのへんは好みなので追及しないが。
日本国内だから好みの話で終わっているが、海外展開は難しいかもしれない。
(3)ストーリー
ここが一番ファンとアンチで意見が割れるだろう。アプリのレビューには「ゲーム性はイマイチだけどストーリー、キャラクターは最高です!」という意見が散見される。
個人的には「嘘だろ」と思っている。というか世界観がガバガバなのだからそれに付随するストーリーもガバガバになるのは致し方あるまい。
1章は毒親に抑圧されていた少年寮長が周囲を同じように抑圧していたが、反旗を翻され逆ギレ大暴れというストーリーである。個人的に特筆すべき点はない。
他の生徒の命を危険に晒したのに特にお咎め無しなことにはずっこけた。退学とまでは行かずとも、寮長は辞めたほうがいい。失敗は誰にでもあるが、それを指摘され顔を真っ赤にして奇声をあげキレ散らかし周囲の人間を殺そうとする者に責任ある立場を任せてはいけない。危険すぎる。
ストーリーとしては可もなく不可もなく、個人的には退屈だが、まあ凡といったところではないかと思う。好きな人は好きだろう。
2章は王家の不貞腐れた次男坊がスポーツ大会で不正をしようとするが露見し、逆ギレ大暴れというストーリーである。1話と変わらない?そのとおりである。
この次男坊はライオンキングのスカーがモデルと思われる。今もはや懐かしさすら感じる二言目にはメンドクセーダリーを口にする典型的な「本気出せばやれるんだぜ?」キャラである。その時点で薄ら寒いがそのへんは個人の好みだ。
スカー同様王弟の地位に満足しておらず虎視眈々と王の地位を狙っている……かと思えばそうでもない。どうせ俺は王になれないんだと腐り、憎い親の金で学校を二留している。やることと言ったら温室でのサボりか校内スポーツ大会のライバル選手を襲うこと。ショボすぎて泣けてくる。それも露見したら「あーだりーこんなの本気じゃねーしおまえらが勝手にやったんだろ」と不貞腐れるダサさ。おまけに憎いはずの兄の息子には懐かれていてタジタジである。意味わからん。
スカーをモデルにしているならば、兄も甥も手にかける覚悟のある男であってほしかった。
と、ここまでやって自分はこれ以上進めることを諦めた。ストーリー、うっすーーーー。ふつーにつまらん。
どこが駄目とか、ここが駄目とかじゃなくてシンプルに退屈。なんかどっかで見たことあるストーリー(有名なディズニー映画を下敷きにしているから当たり前か?)に00年代女オタク向けの謎の風味付けがされている。10代の子には新鮮かもしれないが、古のオタクは己の痛々しい過去を思い出して体中の穴から血が流れる。
トイレの鏡で前髪をM字にかため、上目遣い(本人は睨んでいるつもり)で「咬み殺すよ……?」「俺を怒らせたら怖いよ?」とドスをきかせる女オタクが跋扈した時代があったのである。歴史は繰り返すのだろうか。
これから髪にメッシュを入れ「締め殺すよ……?」とピチピチするいきのいい女オタクが現れるだろうか。すでに現れているかもしれない。自分はそれを優しく見守ることができるであろうか。
最後に
タイトルは「人気が分からない」としたが、まあなんとなく人気の理由は分かる。はからずもタイトルが釣りになってしまった。
二次創作の場が大きくSNSに移行している昨今「バズる作品」に求められるのは綿密な世界観でも繊細なストーリーテリングでもない。「みんなが知っていること」「みんなで盛り上がれること」だ。
そういう意味でディズニーという大看板と枢やなという大先生のチョイスは大成功をおさめている。
あとは妄想力たくましいオタクがガバガバ世界観もガバガバストーリーも好きなように埋めてくれる。
我々のようなまずは原作ありき、原作を骨の髄までしゃぶるオタクはすでにオールドタイプなのである。老兵は何も言わずにただ消えゆくしかない。
「狂気的に傑作過ぎる」
「他のあらゆる媒体の事例を踏まえても例がない多層的構造のストーリーテリング」
「アドベンチャーゲームのまったく新しい新種」
「ゲームというメディアでここまで作家性が溢れ出ている作品がいったいどれほどあるだろうか」
「本作がアドベンチャーゲームの歴史において優れている理由」
「顧客満足度99%」
「SFの要素がごった煮で最後にどんでん返しが起きるストーリー、我々の知っているガジェットが詰め込まれている」
「ゲーム・映画・小説などなどあらゆるメディアを見渡してもここまでの衝撃を味わわせてくれる作品には出会えない」
「まだこんな物語表現ができたんだ!と素直に感心してしまった」
「10年は語り継がれる」
なぜ、十三機兵防衛圏のヒットにステマなどと失礼な言葉が用いられるのか|川野優希(Yuki Kawano)|note
https://note.com/yukikawano/n/n82e9e6162a2d
メディアと2ch界隈の断絶がより進んだだけじゃないかなーと思う。あと僕の文章勝手に大げさに改変して「言葉が強すぎるのでは」とか言われても困る
https://b.hatena.ne.jp/entry/4681476972182423714/comment/tekken8810
描きたい内容を単純化しつつわかりやすい折り目をつけ、誰でもついていきやすい速度でありながら明確な変化を持って描かれる最大公約数的なストーリーテリング。画面を広く使いつつ視点を大きく動かさないようにする雄大なカメラワーク。日常と幻想の間に半透明の敷居を置き両者をはっきり区別しながら横へと並べる非連続的な非日常性。これがいい意味での細田守らしさ。
ショタコンにしてケモナー。自意識過剰なキャラクター。誰もが承認欲求に飢えているという断定の元に進む構ってちゃんストーリー。全てを自分の口で説明してしまう自信のなさ。ヒステリックさと寛容さの両極端。これが悪い意味での細田守らしさ。
未来のミライを面白かったと言えるかの全ては、細田守の悪癖、性癖、嗜癖を理解した上で、その発露を作家性として消費することが出来るかにかかっている。逆に、そういったものに対して一切無頓着に、ただ何も考えずに綺麗な映像が流れる2時間のパラパラ漫画だと思って鑑賞するかだ。
未来のミライには細田守の内面”だけ”が描かれている。”だけ”である。この映画は主成分が細田守なのではなく、すべての成分が細田守なのだ。全スタッフの労力、作業は製作の過程で全て細田守分として返還されてしまう。そこに慈悲はない。この映画は全力で細田守であり、それ以外のものが含まれることは認められていない。実際、この映画の制作にあたってスタッフに細田家のホームビデオが見せられたというエピソードすらある。スタッフが「家庭」というものに描くイメージを、「細田家の家庭」というイメージで塗りつぶし、他の家庭から異物を混入されることを防ぐ徹底した管理体制である。
甘えん坊でわがままで自分を認めてもらいたくてたまらない子供は当然細田守であり、彼の成長を通して鑑賞者から贈られる称賛を求めているのも細田守自身なのだ。彼が作中では徹底して直接その苦しみを認められることがないのは、そういうふうに世界を見る細田守が細田守の中に居るからである。電車好きである点などは細田守の実子がモデルとなっている。彼にとってこの映画は自分の子供が成長する姿を通して「かつて自分が子供だった頃に成長したことを客観的に見ることになった」という事実を描いたものでもあるのだ。ケモナー成分を取り込んだりハチゲームでクネクネしていたりと(ショタコンケモナー向け)サービスシーンも多く、彼が主人公であるということは、細田守にとってはケモナーやショタコンであることが自己同一性の核であることを示す。
客寄せパンダとして使われまくったのに、出てくるシーンは意外と少ない。未来という名前、赤ん坊であること、婚期を逃すことを気にする発言、最終的にくんちゃんに血縁上のつながりを思い出させる役目、これらの要素から「男女の関係によって子孫を残すこと」のメタファー、ひいては「(ショタコンではなく)普通の人間として生きること」のメタファーであることが伺える。同時に「世間で受け入れられ、未来に繋がる作品」のメタファーでもある。最初にキャッチコピーとして登場し、最後のクライマックスにおいてただの細田守回顧録であった映画を一般向けの娯楽映画へと引き戻す役目を追っていることからもこれが分かる。
仕事人間であり、子供の親でもある細田守。一般的役割に対して性別が反転しているのはジェンダーフリーというよりも、それぞれに細田守に繋がる要素をもたせることで、どちらもを細田守にするためである。時折ヒステリックなのも妙に余裕ぶってみせるのも、自分たちが変わってきたと殊更に言うのも、全て細田守の独り言なのだ。
オスケモ。王子だったという発言は、細田守の中で最も大事なものがケモナー性癖だったことの暴露である。それにかつてという言葉をつけるのは、今の自分はそれを卒業したという自負である。
ホモホモしい外見、言動、であるのだがそれがハッキリと語られることはない。ここまで赤裸々にショタコンもケモナーも自己開示してきて、それをあえて語らないのは、細田守の中において自分のホモセクシャルへの興味がまだ疑問の残るものであるからである。逆に言えば「それすらも」赤裸々にスクリーンに映し出したのだ。
上で述べたようにミライは『普通の家庭』や『世間一般の価値観』のメタファーであり、それが細田ハウスに持ち込まれるのは、ショタに興奮だけしていればよかった世界の終わりを意味している。ミライファーストの生活を否定する姿は、一般向け要素を散りばめた映画を作らされてきた細田守の姿である。その中で雑な反逆に出ては怒られる。悪い意味で細田守らしい映画を作ってきたことへの反省と、それに対する怒りが描かれる。『自由にショタでケモいアニメだけやらせてくれ』、くんちゃんが繰り返すミライ否定発言はつまる所こういうことなのだ・
『雛人形を毎年1日ずつ出し続けていたら1年ずつ婚期が伸びる』という会話は、ずっと結婚できないということを意味している。それを片付けてミライちゃんが未来で結婚できるようになった。これは、細田守が自分の中で幼少期から積み上げてきた結婚感を今一度棚卸しして、普通に恋愛をして普通に結婚をする人生を受け入れたことを意味している。作中に置いて、未来ちゃんが過去にやってくるのは、細田守の中で過去の細田守と共に今の細田守が気持ちの整理をつけた経験を描いているのだ。そこに犬が加わっている理由は、それが彼の性癖に置いて重要な意味を持つからである。普通に見ていると何がしたいのかわかりにくいシーンも、このように整理していくと理解できる。これが未来のミライの面白さだ。
これもうそのまま細田守が自分の親に対して「心の中で」やっていたことです。自分が親になって子供を持つ身となってそれで子供の頃の両親の大変さとか知って感謝してーっていうアレです。そのままかよ!そしてその中で全部セリフにしちゃうのかよ!このシンプルさ!観客への信頼の無さ!そして自分の表現への自信の無さ!これもまた細田守なんですわー。自分がちゃんと愛されているか不安だとそのまま口にするのは、自分の映画がちゃんと観客に伝わっているのか不安だっていう宣言でもあったりするわけで。メタいぜー。
ホモホモしいアンちゃんとの初体験。遠くを見据えろと語られるが、そのさきに見えるのは廃墟。この道の先に未来はない。細田守も分かっている。ショタコン一本では子孫は残せない。アニメだって歴史に残らない。分かっている。分かっているけど、そうして進んだ先で結果を出したのが今の細田守だろ?そんな叫びが聞こえてくる。補助輪無しで突き進むには、遠くに廃墟を見据えなきゃいけなかったんだ。そうしてバケモノの子が生まれてしまったんだ……。
自分を見失ったとき、戻ってくるためには家族の名前を呼ぶ必要がある。自分に流れる血の繋がりを思い出す必要がある。そして、そのためにはミライを認める必要がある。ミライは「普通の家庭」「普通の価値観」のメタファーであり、自分がそれと深くつながっていることを認めることが、自分を取り戻すためには必要だと、最後の最後で認めることになる。途中からひたすらショタキャラメインで妙な話ばかりしていた映画が、ここで突然なんとも一般受けしそうなキャラと共にさもストーリーがしっかりとある映画であるかのような物語へと戻っていく。細田守の敗北宣言だ。人間としての細田守がここにいるには、彼の父親や祖父がショタコン一本で通さなかったからである。映画監督としての細田守がここにいるのは、デジモンやサマーウォーズといった一般向けに迎合した作品を作ってきたからである。自分が今ここにいるなかで、ケモナーであったことや、同性愛的な面を抱えていたことはたしかにあったが、それでも『普通』を受け入れてきたからだ。そう認めることで、見失っていた自分は取り戻される。そして、和解は結ばれた。ケモノやショタへと一度は預けられた細田守界の王位継承権は、最後には『普通の未来』へと託された。
凄まじい映画だった。「作家性の塊」と呼ばれる映画はいくらでもあるが、純度99%作家性の劇物はそうそうはないだろう。アニメ映画というと娯楽作品ばかりで、文学性や哲学性を謳っておきながら結局は娯楽作品に片足と重心は置きっぱなしにした作品ばかりな中で異彩を放っている。そんな世界にこんなものが現れたらそりゃ受け入れられないだろうな。ましてそれを作った人間の最大のウリ文句がサマーウォーズや時をかける少女なんていう痛快娯楽一般層向け作品なら。サマーウォーズや時かけ期待してこれ見に行ったら羊頭狗肉も良いところだって怒りたくもなるだろうな。
この作品には作家性以外を求めちゃ駄目なんだよ。日本の広告業界や映画業界はそれを頑なに伝えようとしなかった。そこは紛れもなくEVILだね。
ミライちゃんがただの客寄せパンダであり、その使われ方も「はいはいこのへんでパンダ投入すれば良いんだろ?」っていう態度で行われることに、細田守の中に渦巻いた鬱憤を感じ取ろうっていう気概を最初から持って見る分にはね、いい映画なんですよ。
そこは分かってあげて欲しい。
でも娯楽映画としては本当に駄目だけどな。俺はこれを娯楽として楽しむことは出来たけど、それは正しい意味での娯楽じゃなくて単に俺の見方が捻くれてて性格が悪いから娯楽に出来ただけだわ。素直な心の持ち主が素直に楽しめる娯楽映画を作った方が最大多数の最大幸福だよ。新海誠の君の名はと、細田守の未来のミライ。このコントラストはある意味美しいけどね。
「裸がさらされた屈辱を丁寧に描写していない」ってそのままBLによく出てくる「登場人物はナチュラルにホモで同性愛者であることに葛藤しない」という設定に通じる問題では?
しない作品に「何故葛藤しないんだ!」「同性愛者は苦しんでいるのに!」って言われたらイミフだと思わないの?
「はあ、あなたは苦しいかもしれませんがこの作品のキャラはそうではないんです」で終わりじゃないの?
これって「男の羞恥心は男が自分の中で片付けるべきもので外に出してはならないし、外に出す人物は軟弱で魅力が落ちる」というジェンダー規範があるから
「BLの登場人物が同性愛に苦しむことは書き飛ばしても問題はないが、女の羞恥心は丁寧に描写すべきだ」という考えが生まれるんだとしか思えない。
もしこれが「いくら美術系の学校だからって自分の裸を許可もなしに掲載されてメンタルが傷つかない女というのは説得力に欠ける」という指摘ならまだわかる。