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2024-08-12

anond:20240812170313

https://github.com/Zuntan03/EasySdxlWebUi/wiki/Animagine-%E3%81%A7%E7%B0%A1%E5%8D%98%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E7%94%BB%E5%83%8F%E7%94%9F%E6%88%90

ちなみにカプ絵を生成したいというものの完成イメージはこれ

ただこれは有名キャラしか組み込まれていないか推し学習されてない

とにかくキャラクターがマイナーすぎて健全カプ絵すら全く供給がないか自給自足したい

マイナー推しカプのR-18絵も生成できればそれに越したことはないけど

R-18カプ絵が生成AIで作られているのを見たことがなくてイメージが全く湧かない

anond:20240812135405

ワイさんの地元だと作新学院が強いけど、出身中学ほぼほぼ県内なんだよな。意外にも善良なん。対して県内で1番悪(?)質なのが、国学院栃木国学院栃木、なんか県大会の時点のエントリメンバーに1人か居ても2人かくらいしか県内中学出身がいない。ほぼ他県の生徒で構成されてる。今回初出場の石橋はもともと凄く野球!の学校ではないし、スポーツ推薦もなかった様な気がするんで、単純にすごいんだと思います宇都宮(県央)地域だと宇高宇女の次くらいに並ぶ高偏差値の優秀校。石橋はもともと学力吹奏楽が強いイメージがあったな。

anond:20240811120625

エジプトにいた増田です。

思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています

そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分出会ってきた)アラビア語イスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます

大前提ですが、自分は基本、道楽勉強してきた人間で、職業的研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくま個人体験を元にした個人の感想で、学問裏付けあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。

(いきなり余談ですが、わたし出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリジムスリム、つまりムスリム結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)

シリア人結婚シリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。

また日本在住のマリジムスリムでも、家族親族との交流クルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます

ほとんどの場合ムスリム男性日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)

先述の通り、わたしアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。

イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンアラビア語はお経みたいなものイラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います

お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。

日本仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味勉強すると思います。非アラビア語話者ムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。

何ならアラブ人にとっても、クルアーンアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。

(お世話になっていたエジプト人の先生クルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見アラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからんものです)

一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います

ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハー勉強します。普段使っているアーンミーヤエジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。

外国人視点で見れば、フスハーアーンミーヤラテン語フランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます勉強しないで自然にできるわけがありません。

話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。

キリスト教聖書は色んな言語に訳されていて、普通各自言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。

何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的理解できるもの第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。

現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップ全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味整合性全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味あいまって全体の美しさが練られると思います歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。

英語ヒップホップ歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉ダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為信仰というものは、容易に翻訳可能知的了解やすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。

特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語ヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。

クルアーン特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教ルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象イメージが多いですね。

音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょエピソード的な話が続くと、とてもわかりやす言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりフレーズがビシッと入りますごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。

またヘブライ語聖書旧約聖書)のエピソード知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。

こうしたエピソードっぽいフレーズ時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます

この文体翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります

わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーン読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。

良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。

余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記学問的な界隈では結構からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのはコーラン」ですよね。

カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります

クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います

では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。

英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。

ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセント表現したようです。

実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人感覚簡単カタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。

別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語ラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。

同様にラテン文字表記英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。

あと不思議なのはアッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。

これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います

その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為のものは単なる殺戮肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚殺戮であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。

では実際のところ、平々凡々たる市井ムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います

色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。

キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですからムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリム感覚同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから

この低水準の信仰感覚というのは、あくまわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います

大人ですから知的敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています

そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています言語文化宗教連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。

まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います

そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢しょうが、違う場所から違う視点ものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。

人生、旅じゃないですか。

anond:20240812124833

20代くらいをイメージしてるのか?

ここは40代以上が中心だぞ

SO(3)ってほんま美しいわな

今日はええ天気やなぁ。東北は雨ザーザーらしいけど、こっちはええ感じやで。ほんなら、SO(3)っちゅうのが何なんか、ちょっと考えてみよか。

量子力学数学

量子力学っちゅうのは、ミクロ世界説明するための理論で、抽象数学のいろんな分野とガッチリ結びついてんねん。

特に線形代数群論リー代数微分幾何学なんかが重要役割果たしてるんやで。

群論対称性

量子力学における対称性は、群論を通じて説明されるんや。

例えば、空間の回転対称性特殊直交群 SO(3) で表されるっちゅう話やね。

SO(3) は、三次元空間での回転を記述する群で、回転を合成してもまた回転になるっちゅうことで、群の構造を持ってるんや。

この群の性質理解することで、角運動量の保存則やスピン性質説明できるんやで。

リー群リー代数

SO(3) はリー群の一例で、リー代数はその接空間として定義されるんや。

リー代数は、群の局所的な性質記述し、量子力学における角運動量演算子の交換関係を表すんや。

リー代数構造定数は、演算子の交換関係を通じて、物理的な対称性を反映してるんやで。

表現論

量子力学では、物理系の状態ヒルベルト空間上のベクトルとして表されるんや。

群の表現論は、これらの状態がどんなふうに変換されるかを記述するための数学的な枠組みを提供するんや。

特に、SO(3) の既約表現は、整数または半整数スピン量子数によって特徴付けられ、スピン j の表現は (2j + 1) 次元の複素ベクトル空間上で作用するんやで。

微分幾何学と量子場理論

微分幾何学は、量子場理論におけるゲージ理論の基礎を提供するんや。

ゲージ理論では、場の局所的な対称性重要で、これが微分幾何学概念を通じて記述されるんや。

例えば、ファイバー束や接続形式は、ゲージ場の数学記述において中心的な役割果たしてるんやで。

量子力学抽象

量子力学数学抽象性は、古典的直感とはちゃう現象説明するために必要不可欠や。

観測問題波動関数確率解釈量子もつれなんか、これらの現象は、抽象数学を駆使することで初めて理解できるんや。

特にヒルベルト空間理論作用代数は、量子系の解析において重要役割果たしてるんやで。

まとめ

今日はこの辺にしとくけど、SO(3)っちゅうのが何なんか、ざっくりイメージできたんちゃうかな。

ちょっと難しい話やけど、これが量子力学深淵やで。

anond:20240812110814

アザラシオットセイだったら多少はマシだった気がする

トドに対するネガティブイメージって何なんだろう

発達障害の難しさってめんどくさがるところじゃないかと思う

会社障害者雇用で発達が入ってきたとして、普通の人は知的障害あんまり区別ついてない

能力低いけどその分一生懸命だとか素直だとかイメージする

でも実際は全然素直じゃない

ASDはよくわからない理屈こねてくるし、ADHDは怠けとみなされる特性が多い

簡単単純作業ADHDとの相性は最悪だ

twitterではたらく発達障害かいうスペース聞いてたけど、主催者旦那に養ってもらってるWebライターやねん

それさ、どんだけ稼いどるんや

はたらくって言えるのか

頭よければプログラマで食ってけるけど、ライターとかイラストレーターとか感受性に全振りなんやねんな

仕事につながらんのや

もうあかん

[]【高橋源一郎にきく】今あえて社会内面化しない勇気

本書は、3年毎日に連載されている「これはあれだな」の中から選ばれた文章を集め、過失したエッセイです。

「これはあれだな」とはどのようなコンセプトのコラムでしょうか。

何か気になった事件や本、作品などがあったら、それについて書くのが普通ですよね。それだけじゃ面白くないので、過去に同じようなことがなかったかと探し当て、その二つを比べて何が変わって何が変わっていないかを考えるというのがコンセプトです。

まり、例えば文学作品であれば、文学作品と何かの映画とか、100年前に同じようなことがあったとか、こういう事件があったけど、50年前に全く同じようなことがあったよね、といったことです。だからジャンルが違う場合もあって、例えば映画と最新作のアニメでは、これどこかで見たことあるなと思ったら、80年前のあの映画と同じことをやってない?ということです。

パッと5、6個思いついて「これならできそう」と思って始めたんですが、途中で「大変だ」ということに気づきました。少なくとも二つは見つけなければならない作業であることに10回目くらいで気づいたんです。普通は一つの話題で済むところを、必ず二つ見つける必要がある。多ければ多いほどいいんですよ。例えば今と大正明治で同じようなことがあった、とか。

時代は変わらないね、というのは面白いんだけど、めちゃくちゃ手間がかかる。読み直しを結構確認しなければならないですからね。一応記憶に頼って「こんなことあったな」と思い出しても、記憶曖昧になってきます。でも、本当にこれ面白いんだと。途中からは大体ストックがあって、これは似てる、逆に今のこれがあれだけど、あれから発想する場合もあるんです。昔こんなのあって、こんな面白ものって今にはないかな、と。

そうやって見ていくと、最近若い人の旅に出た記録が1000年前の元神尚の記録に似てるとか、1500年前のものそっくりだ、とか。そういうふうにしていくと、結構いろんな時代に似たものがある。特徴性が被るものがある。だから時代にそういうものを生み出す必然性があるっていうことを考えると、話としては面白いんで、ただ手間がかかる。

今回本にまとめられたのも、別に今回が初めてではないです。これで3冊目です。毎週締め切りがあると憂鬱なっちゃう。まずこれを見つけるでしょ?で、あれがなきゃダメなので、どんなに面白くても「これ面白いんだけど、ペアになるものがいないよね」ってなると、できない。

そもそも、ご自身文学作品を作るっていうのも、アイデアを出さなきゃいけない。アイデアはひねり出すんですけど、あれを見つけるっていうのはなかなか難しい。でもやっぱりコンセプトが光ってますね。やっててうまくいったときは「これ、よく見つけたな、自分でも」って思います

あの、本書の前半では、2022年9月13日フランス映画監督ゴダールの死について書かれています高橋さんにとってゴダールはなぜこれほど特別存在なんでしょうか?

これは世代的なもので、僕の世代芸術音楽映画文学好きな人ゴダールに影響を受けていない人はいないと思います

皆さん結構しますね、やっぱり。

当時はSNSもないし、情報だって今ほどは入ってこなかったから、例えば映画ニュースもなかった。テレビニュースやらないから、どこで知ったかというと、映画雑誌とか、映画芸術とか、そういうところにちょこっと載っていて、新作が出たって今だったら全部SNSでお知らせが来るんでしょうが、そういうのがなかった。だから新作が出たって言っても、日本公開がいつかはわからなかった。

僕は映画だと、アートシアターというのに入っていました。60年代、相当幼い時から、そういう会の会員になって、中学入ってすぐそういう会に入った。だから映画クレイジーキャッツからゴダールまで一緒に見ていました。そもそもそれを分けて考えるのはダサいって感じだった。

しかも極端なことを言うと、芸術ばかり見ていると馬鹿にされるから、逆にクレイジーキャッツとかGS映画を見ないと恥ずかしいって感じだった。そういう背景の中で、ゴダール作品はかっこいいと思ってましたね。彼の即興スタイル特に印象的で、シナリオを書いていかないんですよね。当日、その場でセリフを持っていく。そして基本的編集映画を作るというスタイル

引用が多い。ゴダール作品は、引用が多くて、ただ引用しているだけのものもある。それはオリジナリティに対する嫌悪なんだと思うんです。オリジナリティではなく引用作品を作る。だから過去世代否定する度合が一番強いのが彼で、その影響を受けていると思います

最後作品についても書かれていますが、イメージばかりが連続してくる、写真バンバンバンと順番に来るような映画で、画質は必ずしも良くないのに、なんだか異様に綺麗な映像が印象的でした。

どうでしたか?その最終作に対する感想は?というと、ゴダール作品が好きだなって感じですね。もういい悪いじゃなくて、好きだって感じですね。ゴダールはずっと「映画テーマがどうとかじゃなくて、90分なら90分、じっとその映画館に座って見ていればそれでいい」と言っていて、ただ画面を見ていれば幸せ映画ってそれでいいんだ、という考え方を持っていました。

ゴダールは、自分映画自殺映画だと言っていて、主人公死ぬ映画が多いんです。「気狂いピエロ」もそうだし、「勝手にしやがれ」もそうだし、最後主人公自分で目を閉じて死ぬ。あれはすごいなと思う。しかも、あれがデビュー作なんですよ。最後自分意思表現する映画を撮るという意味で、彼の作品は一貫してそのテーマを持っているんです。

「映画史」という映画も撮っていますが、ゴダールという監督は、常に作品現実境界を取り払うことを考えていたんです。作品現実が別々のものではなく、その境界を取っ払って、映画館で観ている観客に語りかけるという姿勢がありました。

映画の中で、主人公が観客に話しかけるというのは珍しいことではないですが、それを堂々とやったのがゴダールアメリカでも10年くらい前に「ハウス・オブ・カード」とかで流行りましたけど、ゴダールもっとからそれをやっていた。それがかっこよかったんです。

また、魚くんの電気映画「魚の子」や、中村喜子の「女と刀」、植物学牧野富太郎の「牧野富太郎自伝」などについて書かれた箇所を読むと、一つの観念や興味に取り憑かれて、非論理的であろうが、非経済的であろうが、自分の道を進む人が高橋さんの好きなタイプなのではないかと思いました。そういう方にどんな魅力を感じるのですか?

いや、面白いですよ。単純に普通面白くないですか?ちょっと病的な感じさえありますが、頭おかしいんですよね。でも、そういう人は見ていて面白いですね。付き合いたいとは思わないけど。

でも例えば、魚くんだと、そこに書きましたけど、魚くんも面白いけど、お母さんがすごいですよね。僕も読んで「あ、そうなんだ」と思いました。魚くんの主人公はお母さんなんですよね。つまり、こういう人はいるんですよ、きっと。街を歩いても変な人はいます。変な人はいるけど、大体は困るんですよね。それが普通で、生きる人の知恵です。普通に生きてるとそうなるんですよ。

でも、時々そうは思わない人が出てくる。だから、変な人も大事なんだけど、その変な人を受け入れる人の方が自由だと思っています。お母さんがそうですね。お母さんは自分の息子だけど、そのおかしさを全面的に抱きしめる。

普通おかしいって言っても結局排除されるか、直されちゃう。「お前、おかしいか普通にしなさい」と。でも、そのおかしさを育てるというのがすごいなと思います。それは他者とか異業のもの尊重するってことなんですよね。つまりおかしくても存在意義がある。

これは結局、すべての人に存在意義があることにつながるんですけど、普通の人は存在意義があると認められている。でも、おかしな人とか、魚くんならいいけど、例えば身体障害者とか、知的障害者の人たちは見たくないと思うこともある。でも、それでも家族でも受け入れられない人もいる。

僕も色々調べました。障害ある子供が生まれると、受け入れられる家族と受け入れられない家族がいます時間をかけて受け入れられるようになる家族もいます特に父親最初は受け入れないんですよ。でも、母親はすごいなと思います。お母さんは何でも受け入れるんですよね。

魚くんも牧野富太郎も色んな人が出てきますけど、その面白さとは別に、それを誰が受け入れたのかが重要なんです。牧野富太郎変人だけど、奥さんが受け入れたんですよね。牧野富太郎植物愛に没頭する変人ですが、それを受け入れるのは大変なことですよね。

でも、それを受け入れたからこそ、彼の生存保証されたんです。だから、僕が書いた美方ククスとかも超天才だけど、あれ夫だったら困るよ。でも、受け入れた人がいたから、その生存保証された。

でも、どうですかね。例えば、牧野さんとか魚くんとか、みんな著名になって仕事に繋がって成功しているけど、そこまでお母さんが考えていたか奥さんが考えていたかは分からないけど、魚くんになれなかった魚くんや、牧野富太郎失敗版みたいな人も絶対たくさんいたはずです。

結局、成功者の影には1000人の失敗者がいると思います。きっとそういう人たちのところにも、お母さんがいたんですよ。でも成功しなかったけど、いいんじゃない、それで。

これでも、親もすごいけど、1000人の失敗した人を見守ってた親がいて、その人たちが不幸だったかっていうと、そうでもない。そういう人たちは必要なんですよ、ということをよく考えますね。

セコさんの漫画マダムたちのルームシェア」とか、信友直子監督の「ボケますからよろしくお願いします」、早川知恵監督の「プラン75」など、老いと向き合った作品が多数言及されています。今、世界で最も高齢化の進む国と言われる日本で、高橋さんは何を感じていますか?

自分が年取ってきましたからね。今年で73歳です。もうやばいです。あと2年で後期高齢者です。やっぱり、身体的な衰えを感じます。確実に老いていくのがわかります。それに対して色々と体に気をつけています

一つは、老いを新しい経験だと捉える感覚です。確かにそうですよね、経験したことないことですから、新鮮です。僕もそうですよ。ちょっと年を取ってきて体が辛くなってくると「こんなの今までなかった」と思うことがあります

例えば、鶴見俊輔さんという哲学者の方が「限界芸術論」を書かれたんですが、90歳を過ぎて、「今日1日転ばないことを目標に生きよ」と書かれていました。「あ、そういうもんなのか」と思って、わかりました。

転びそうになるんです。僕、スクワットして足腰を鍛えているから平気だと思っていたら、筋肉じゃないんですね。バランスが悪くなっている。神経が悪くなっていて、神経は鍛えようがないから転ぶ。僕は筋力鍛えれば大丈夫だと思っていたけど、そうじゃなかったという新しい発見がありました。

そんな老いを新しい経験だと思って、余裕を持って受け入れることが大事なんです。実際、この国、これは日本だけじゃないと思いますが、68歳、70歳、72歳になると社会の窓が次々と閉まっていく。つまり、色々なことができなくなってくるんです。

例えば、家を借りようと思ってインターネットを引こうとしたら「72歳ですか、ではご家族契約になります」と言われたんです。「70歳とインターネット契約ができないってどういうこと?」と聞いたら、「こういう決まりなので」と言われて、「おかしいでしょ」と思いました。これってちょっと差別的ですよね。

プラン75もそうですが、年寄り不要だという考え方があるんですよね。これが寂しいです。今「シルバーデモクラシー」と言われて、年寄りが恵まれていると言われていますが、それは嘘だと思います。年を取ってみたら、社会の窓が閉じていく。シルバーデモクラシーという言い方で、年寄りが恵まれていると若い人に思わせようとしているんです。

でも実際には、全世代がそれぞれ抑圧を受けている。70代以上はこういう抑圧があるけど、20代30代も年金の支払いなど、みんなそれぞれ抑圧されているんです。だから、全世代連帯しなきゃいけないと思うんです。分断が一番都合がいいから、それをやめるべきです。

僕は政治テーマとして、全世代連帯すべきだと考えています。知らないかもしれませんが、70歳になったらインターネット引けないんですよ。72歳になったらローンもできないんです。なのに恵まれているなんて、ふざけているとしか思えません。

これは、土線(映画)とかでテーマになってもいい話ですよね。でもそれはなかなか声になりにくいんですよね。40代50代の時には知らなかったけど、68歳70歳72歳で新しい抑圧が出てくるんだな、と気づくんです。

社会ってさ、普通のことは知らせないようにしているんですよね。それぞれの世代とかジェンダーで、社会から抑圧されていることをお互いに調べ合って、連帯しなきゃだめです。

ジャニーズ問題玉音放送について、高橋さんテレビ局の幹部たちに「ジャニーズ問題無視するのか」と質問した時のエピソードについて書かれています。昨年末ジャニーズの性加害問題が巨大なテーマになりましたが、この間、どう感じていましたか

あそこにも書きましたけど、僕がちょうどBBC放送した直後に番組審査員を辞めて、最後番組で「これはダメだよ」と言ったんですが、沈黙がありました。その後、某テレビ局が漫画問題で騒ぎになって、それを良かったと思って続けました。

でも、やっぱりテレビ局は商業放送から視聴率が下がることが怖いんですよね。だから視聴率が下がる可能性があることはなるべく避けたい。僕は怯えすぎだと思うんですけどね。もうそんなに怖がらなくても、普通常識でやればいいのに、忖度している。忖度しない方が視聴者の指示を得るんじゃないかと思いますが、なかなかそうはならないんですよね。

今と昔を比較して、昔の方が保守的だったかというと、そんなことはなく、テレビ全体は進化している。ただ、メディア動画サイトSNSに壊れていく時にどうするかを同時に考えなきゃいけなくなっているので、やることも多いんです。

から、僕も言ったんですが、面白動画サイト番組テレビより面白いですよ。テレビバラエティなんてやめたらいいと思います個人で作っているものでも、ものすごくよくできた動画番組があるんです。それを見たら、テレビお金も人もあるんだからもっとできることがあるはずなんですよね。

Netflixドラマなんかも面白いですよ。コンテンツの中身も含めて、やれることがあるのにやっていない。同じようなラブコメばかり作って、誰が見るんだろうって思います

江戸川乱歩の「芋虫」を現代では取り上げることがかなり難しいということについて書かれていますが、以前、マルキ・ド・サド作品を絶賛されていた話もあります。今の時代言論空気感についてどう感じていますか?

メディアテレビラジオだけじゃなくて、小説も含めて、僕がデビューした頃に比べると、だいぶ書きにくくなっています。例えば「ピエロ」って言えないじゃないですか。今では「ピエロレフ」って言われることがありますが、検索しても出てこない。

一番怖いのはこれですよね。こういう名詞ごと削除されること。ポリティカル・コレクトネスで、こういう言葉を使いなさいというのは一つの考え方としてあるかもしれませんが、元々あった言葉が使えないというのは、歴史捏造じゃないですか。

今、「ジプシー」って言葉も使えないんです。「ロマ」とか言いますが、これは歴史捏造であり、存在させないという方向に進んでいるんです。例えば、ゴダールの「気狂いピエロ」も、僕はそれを見ましたからね。でも、「ピエロレフ」って言われてもわからない。

ポリティカル・コレクトネスについては、理解できるところもありますが、理解できないところも多いです。多分、それを推進している人も、やっていて変だと思っているんじゃないかと思います定義や限度が確定していないのが問題で、空気みたいなものから

ポリティカル・コレクトネスの一つの問題点は、日本が元々空気社会から空気で決めるというのはやばいポリティカル・コレクトネス空気で決められるようになっているのが、日本事情なんですよ。

上辺だけの議論が多く、社会的な不正義の問題は見ないで、言葉だけで物事判断する。ポリティカル・コレクトネスは、社会的な問題言葉だけで覆い隠そうとしているだけです。

その辺が、日本という国は忖度する社会から空気を読めということがずっと言われてきて、変わらなかった。変わるかと思ったら、ずっと空気を読んでいる。片方では多様性を唱えているけど、それは言っているだけで、実際には何も変わっていない。

大杉栄についても言及複数見られます思想生き方性格、私には高橋さんと似ている印象を受けましたが、大杉栄をどのように見ていますか?

大杉栄は、日本でも代表するアナキストですが、やっぱり感じがいいですね。友達になりたいなと思う。問題はいっぱいありますが、女癖が悪いとか、迷惑な部分も多いけど、その一方で愛すべき点がある。だから、あの人は人たらしなんです。

例えば、子育てをしていたんです。普通政治的な人は政治活動はするけど、家のことは見ない。でも、大杉栄は、伊東のと結婚して子供が生まれたら、赤ん坊選択をしたり、オムツを変えたりしていた。嫌じゃなくて、それが好きだったんです。

彼の中では、夫婦や男女の形は形式じゃなくて、対等であって、子供から自分 Permalink | 記事への反応(1) | 08:25

anond:20240720235716

これが良いとは言わないけど参考になれば。

1つ、記録をしてみるといいと思う。

仕事中の眠気が抑えられない、とあるが、毎日決まった時間で起きているのか、特定仕事ときに起きているのか、よくわからない。最低ライン仕事ができているという自負があるのなら、仕事はやってるはず。その中でどういう仕事なら起きていられるのか、または充分な時間が与えられているから途中で寝てもできているだけなのか、午前中は問題なく活動できるのか、仕事ができている期間を調べれば色々傾向があるのではないだろうか。

逆に、眠くなるのはもう仕方がないとして、いつどういうときに眠くなったのか記録してみるといいのではないか

この仕事ならずっと起きていられるというものが見つかるかもしれないし、どうしても眠くなってしま仕事は避けてもらえるよう調整できるかもしれない。

自分語りになるが、私はSIで働く社員で、いまだに眠くなることは多い。

学校の授業も寝ていたせいで頭もよくないし成績もよくない。客先の会議で居眠りして客から反感を買ったこともある。居眠りで業務態度が悪いといわれ賞与を減らされたこともある。執務エリアで居眠りしてしまったときの後味の悪さもわかる。直せば欠点が減るのにって言われても直せない。そんな感じで眠くなるというのが10年以上続いている。

ただ、私の場合は眠くなるのは興味がない仕事の時という傾向があった。製品評価テスト作業とか書類仕事が興味が湧かずつまらないとか、自分意見が求められることがない会議だとか。興味が湧かない仕事は、ゲーム感覚に落とし込んで例えば5分以内に終えるように頑張るとか目標設定して集中するとか、次に振られたときに楽できないか考えて自動化するスクリプトを考えたり書いたりしている。退屈な会議は、わからないところをひたすらメモしてパソコンで調べたり、会議とは関係ない別の業務仕事をしたりしている。居眠りの姿を晒すよりはマシなので。

要は、眠る隙を与えないように行動するようなイメージ

それでも眠いときは、コンビニまで歩き回って眠気が飛ぶのを祈ったり、そのままトイレに行って少し寝たりしている。

居眠りしている姿を晒すことはかなり減ったので、気持ちは少し楽にはなった。

2024-08-11

チー牛

自画像なだけあってたとえば「腐女子理想現実」ほど醜く描かれているわけでもなく

チーズ牛丼だってもともと弱者男性から好かれているというイメージはなかったのに

(なんなら現実には女性人気の高いメニューだ)

なんとなく弱者男性に対するレッテルとして機能していて

はっきりしたイメージのない漠然とした「チー牛」像が共有されているのが味わい深い

お前らが艦これ民に「コイツはいくら叩いてもいい」を続けるせいで、艦これ民が「俺達はどうせ何やっても叩かれるから何でもやってやる」に染まってきた

もう駄目だ。

艦これ界隈の民度は完全に終わってしまっている。

本当ならとっくの昔に自衛隊から「いい加減イメージが悪くなりすぎるから勘弁してくれ」と三行半を突きつけられてもおかしくないような状態だ。

だが知っての通り自衛隊という組織もまた極限まで終わっているせいで「俺達はどうせ左翼批判されるから、もう好き放題やるんだ。税金川重に渡して宴会場でコッソリPS5を貰うんだ」と好き放題だ。

そんな両者は同じ方面斜陽を転がり落ちているものとしてスッカリ意気投合

お互いが腐れば腐る程に「この苦しみを分かってくれるのはキミだけだよ」と更に繋がりを濃くしていく。

そうして海上自衛隊お墨付きという旗印を手に艦これはいよいよ調子に乗り、そして繰り返す迷惑行為により社会からはいよいよ離れていく。

奴らはもはや誰も止めることの出来ない怪物になった。

もしも、もしもの話だが、もっと早くお前らが艦これ民に「駄目な所だけちゃんと直せば、皆君たちのことを嫌ってるわけじゃないからね」と優しい言葉をかけてやれば・・・

目先の投石の気持ちよさばかり優先して奴らを全世界の敵として扱ったりしなければ。

本当にもう駄目だ。

奴らはもう艦これがサ終しても止まらないよ。

本家がサ終したらエミュ鯖を立てて堂々とプレイするだろう。

というか、俺達が知らないだけでとっくにエミュプレイが当たり前になっているんだと思う。

そうでなかったら「こんなことしたら公式もいよいよビビってゲームを閉じちゃうかも」と踏みとどまらなきゃいけないラインを何度も超えられるはずがない。

止められないんだ。

からでもまだ海上自衛隊が「コイツらはヤバすぎるので、流石に消えてもらうべきだと思いますね」と声明を出せば、ワンチャンはあったかもな。

だがもう無理だ。

海上自衛隊の側からすれば、この状況ではどんなゴロツキだろうが一人でも多く飲み方が欲しいと思うだろう。

奴らもまた世界を敵に回したゴロツキの集まりなのだから

anond:20240210183306

詰め替えの方が容量的にはお得である場合が7割くらいで

3割くらいはボトルの方が得だったイメージ

何の値段なんやろなと不思議だった

anond:20240810231119

しろこういうのって典型的ネトウヨが好きな強者ぶれる理論

はてなーはそれに対して綺麗ごとで御託を並べるっていう真逆イメージなんだけど

anond:20240810225339

民主主義機能勘違いしてるね

 

多数の叡智を結集して間違いの無い意思決定を行うシステム、だと

ちゃう

投票はただの多数決しか無い

多数決はどこまでいっても多数決に過ぎず無謬フィルターにはならんの

簡単に言えば多数派が間違えれば結果も間違える

 

封建独裁政治場合独裁者意思決定を間違えた場合

ステークホルダー国民革命を起こして次の支配者に置き換えるしか無い、莫大な犠牲が伴う

 

この部分を簡略化したのが民主主義

半数が損をして被害を被れば置き換えが出来る

 

為政者戦争を始めたとする

敵に反撃され領土を奪われ、国土荒廃し、王宮の壁まで敵が来ても、独裁者ワンチャンに賭け生き残り最後の衛兵一人にまで「行け」と命令するだろう

しか民主主義なら民主的戦争をはじめ、しかし半数が「あ、こりゃアカン」と気づいたなら、選挙平和主義者を選び直すことで転換できる、こっちのほうが犠牲は少ない。

 

昨今の若者抽象的な例示は通用しないので念の為に注意しておくが上述は観念的なイメージ図に過ぎないよ。

選挙までの期間がどーのとかそういう反論はクソなので死ね、先に申し伝えておく。

 

ともかく、民主主義を間違いないルール作りの仕組みだと勘違いすると、バカ選挙権を与えるなという思考になってしまうわけだが

間違えはどうしても起きるが多数派気づきさえすれば被害最小で軌道修正できる仕組み、と正しく理解していれば、多様性を認め平等を徹底するしか仕方がない、例外ご法度であることに気がつくだろう。

例外を設定した時点で民主主義は瓦解する、為政者は際限なく例外を都合よく広げる、一度例外を認めると例外例外では無くなるのだよ

 

民主主義は高コストで鈍重で時に理不尽なんだけど

それでも今のところこれが一番マシって政治システムに過ぎないのだよ

日経平均暴落とフワちゃん騒動南海トラフみたいなやつがいっぺんにおこって思ったこ

なんかこう見えない場所で膨大なエネルギーとかなんとかがたまってて、あるふとしたことをきかっけにドカーンってくる系のアレよな。

地球プレートのズリズリズリって感じのやつがズリズリしすぎたときにビヨヨーンってなるんだよな。

フワちゃんピクセルを使ってますみたいなきれいなイメージがたまりすぎていた。

日経も円きゃりーかいうぱみゅぱみゅが溜まってたんだよな。

他の国の労組平和だのなんだの主張してるの?

日本労組といえば ×会社側と交渉する集団 ◯平和憲法9条反自民反原発を主張する集団 というイメージしかないけど、海外労組もそういう感じだったりするんだろうか? 日本が衰退した理由の3割位はこの意味不明労組のせいだと思うんだよね。

anond:20240811020544

「チー牛という言葉本来チー牛同士の馴れ合いとして使ってたのに女が蔑称として使い出した」

よく見るイメージ絵は本人が自虐で描いた自画像っていうのは聞いたことある

本当かどうかは知らないけど

anond:20240810154643

めちゃくちゃ褒められて育って、内面化した自己イメージが立派なのに現実はそうじゃないことに苦しんでる人とかそんな感じだけど増田はどう?

自己イメージをぶっ壊す、客観的マイナス実績増やして現実ラインまで均すとかどうよ

試験コンクールに挑んで玉砕しまくるとか

文章を書くことは苦しい営為

中学生の頃からはてな、なろう、Twitter個人ブログnote、某ゲームファンサイトなどを渡り歩いて、エッセイからファンタジー小説に至るまで思いつく限りほとんどのジャンル文章を書いてきた。主戦場匿名はてなとXにして、小説を紡ぐことよりも自分の考えを言語化することのほうが増えたという違いはあるが、今でもこうして文章を書いている。

このような過去から察せられる通り、自分文章を書くことが好きだ。ただ、好きかどうかと得意かどうかは別だというのは世の常で、好きではあるのだがいつも途中で投げ出してしまう。長編小説には幾度となくトライしてきたが、結局一本も書ききることはできなかった。短編小説はてなダイアリーなどの比較的短い文章であっても、さらに言えば140文字制限があって小学生の作文用紙の半分以下しか書けないXの投稿であっても、ブラウザの戻るボタンを押して、途中まで書いた文章を、途中まで書いたという事実ごと消し飛ばしたことが多々ある。

最後まで書ききれないということに自分はある種のコンプレックスを感じる。「あいつ途中で辞めたな」とか思われたくないからやめるときサービスアカウントごと消すこともあるし、リアルでの知り合いにははじめから絶対に見せない。

このコンプレックスを解消するのはとても簡単で、ただ単にとりあえず最後まで書けばいいのである。こんな性分であっても、繰り返すようだが自分文章を書くのが好きなので小説家になるための本みたいなのを読んで自分の本が八重洲ブックセンターの目立つ棚に置いてあるイメージを膨らませたりもしていた。その本を執筆したプロ小説先生も「はじめはとにかく一作品書いてみよう」と仰っているのである。その本によれば、最後まで書くというのはストーリー矛盾やほころびには完全に目を瞑り、書きたかったラストまでを勢いで書き通して「めでたしめでたし」で締めくくるということだった。文章を書いている中で一番迷い、投げ出したくなるポイントストーリー構成がしっかりしていて、論理的妥当であるかどうかを黙考するところであるのでそれを無視していいのなら時間と道具さえあれば誰だってできる。

しかし、この誰にでもできそうなことが思ったようにできないのである。「難しいことはいったん無視していいよ」とどんなに高名な先生が仰ったところで、ほかならぬ自分自身がそれを許さないのである。とりあえず最後まで書く、ということが三日坊主自己嫌悪を解く鍵であって、その上で作品主観的客観的分析する初めの一歩であることは理解しているが、それよりも今目の前にあるプロットに悩むのである

このような事実について考えてみたが、結局文章を書くということは必然的に苦しみを伴うのだと思う。小説を書く場合でも、自分意見を表明する場合でも、脳内にある自分アイデアパソコンディスプレイ上に映っているときにはすでに元の形を残していない。言語化ができなくて自分脳内と外の世界の間にある壁を越えられないアイデアがあるし、脳内からうまく取り出した言葉の塊を読むに堪える文章にするためにつなぎが必要になる。要するに、自分脳内にあるもの自分が書いたものの間には共通項もあるが、脳内しかないもの、書いたものしかないもの無視できない量存在するのだ。しかも、文章化には自分が現時点でもっているありあわせの知識しか使えない。ところで『もしもピアノが弾けたなら』という西田敏行名曲があるが、この曲の中では「もしもピアノが弾けたなら思いのすべてを歌にしてきみに伝えることだろう」から「だけどぼくにはピアノがない きみと夢みることもない」と続く。文章を書くのも同様で伝えたい思いがあっても、それを媒介する道具がなければ伝えることができない。それは当然の事実ではあるがとても辛いことである。ありあわせの知識、というのは青を表すのに群青、藍、瑠璃色スカイブルーなどがあるみたいな表現するための単語としての知識だけでなく、物語に転機が訪れるのを天気の移り変わりに描写する、賛否両論あることについて自分意見を述べるときにはたしかに~と言われているが私は~と思うという議論の流れにする、みたいな文章の書き方の知識も含まれる。

そうすると言いたいことを言語化するとその瞬間、自分がもともと言いたかたことと一般常識が混濁するのだ。言語化するまでは、よしこれを文章にしてみんなに教えてあげよう、と思っていることが明確な仕切りをもって脳内にあるが、文章にする段階でありあわせの知識という不純物が入り、ボーダーラインが薄れていく。これは辛いことであるだけでなく、不気味なことでもある。自分の言いたいことを言っていたはずが、自分普段そんなこと考えないけど、知ってはいるような言葉が混ざっている。自分の書いた文章を読むと離人症のような恐怖に襲われる。この恐怖を避ける方法は3つしかない。1つ目は自分が書いたもの100%他人のものである断じてしまうことである中学生の頃の日記が掘り起こされたときに、「あれは黒歴史だ。」と言うのは暗に今の自分はそんなこと考えないし、そんなこと言わないと表明しているのであり、過去自分現在自分の間を壁で分断することで自己防衛を試みている。2つ目は繰り返し考えていた自分文章をまるごと消すという方法である。つい最近書いたものを見て、あれを書いたころの自分と今の自分は違う、と断言するのは無理があるので怖いものを見えなくするのは当然の反応だ。文章を途中で投げ出さないためには一番手っ取り早い恐怖の取り除き方を乗り越えて恐怖と向き合う必要がある。そのうえで自分自身と目の前の文章の間に壁を作らない方法で折り合う必要がある。つまり、3つ目の方法文章100%自分のものにすることである。もちろん、自分が書いた文章にらめっこするだけでは、ただ嫌気がさしてさらなる自己嫌悪に陥るだけであるし、バックスペースを押してすべてを無に帰すまでの時間を延ばすに過ぎない。まず自分が書いた文章を読んだときに感じる恥ずかしさやもどかしさを我慢する必要がある。そのうえで文章を丁寧に精査して、自分意見と異なるものに関して、別のありあわせの知識と置き換えるか、反芻することによって自分意見の中に吸収する。それを繰り返していくことでいつか自分脳内文章が一致する。

根本的に言葉というのは他者と、お互いの内面を交換するためのメディアであるから自分意見が初めから脳内に整然とした文章存在していることはあり得ない。そう考えると文章化というのはなにか義務のような行いで、自分意見言語化せずに完全な状態のまま保っておくのが良いように感じるが、恐怖に向き合って自分の考えを文章にすることに意義はあると思う。先ほど文章100%自分のものにする方法最後で、自分意見と異なるものを反芻して吸収すると言った。これによって自分意見言語化するあいだに自分意見をより大きくすることができるのだ。だから文章を書くことは苦しいが、何度失敗してもやめられないのだろう。

サンマルクってさぁ

スタバタリーズとかと並んでそうなイメージだったんだけど

実際、ドトールベローチェ以下だよね。ブランド的に。

なんか勝手勘違いしていた。

サンマルクパン、すごく美味しくない。

写真はおいしそうに見えるんだけど、本当に美味しくない。

anond:20240811001719

別の職場の同僚を誘うってイメージなんだが。未知の第三者は流石に呼ばんよ。同僚と遊ぶときに別の同僚誘うってよくあるし別段巻き込まれたとか思わんよ。

【自慢】スタバ童貞

スペック、52歳男、サラリーマン海外出張多いエンジニア、妻子あり

タイトル通りスターバックスに入ったことがない。俺の自慢だ

いか不味いかも知らん

 

田舎からねぇんだろ?

日本進出初期から生活圏内にあった

調べたら2000年に家から徒歩圏内開店している

だけど入ったことが無い

凄くね?

知らない店に入るのが苦手なだけだろ?

酒飲みで出張が多いので慣れてる

海外初見の店でもズンズン入れる

が、スタバには入ったことがない、凄くね?

コーヒー嫌いなの?

どちらかと言えばお茶の方が好きだけどコーヒーが嫌いなわけではない

セブンコーヒー人生で1000杯以上飲んでる

でもスタバは未経験、凄くね?

気づいたのは7,8年前で、ならばこの記録を伸ばしてやろうと以後注意してスタバに入らないようにしている

ドトールタリーズベローチェコメダサンマルクホリーズ

全部入ったことがあるし、テレワーク間中ホリーズにはお世話になり600回は使ったが

同じ距離にあるスタバゼロだ、凄くね?俺凄くね?

スタバが嫌いなの?

入ったことないのに恐縮だけど、確かに嫌いだ

いわゆる西海岸コピペ元祖イメージを持っている

2歩先のおしゃれ、みたいなスノッブ

しゃらくせぇわと言いたい

俺はジジババ集会所のホリーズが心安らぐ

とにかく、俺凄くね?

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