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はてなキーワード: 表現論とは

2023-01-19

きらら大学生

マンガ文化についての授業を受講していて、期末レポートに『まんがタイムきらら』をテーマとしたレポートを書くことにした。

きらら作品』って表現論的に見ると厳しいけど、文化論的に見ると考察余地があるよね〜

って論調レポートを書いていたんだけど、ふと俺何やってんだと我に帰ったのよ。

これじゃあ「きらきら大学生」じゃなくて「きらら大学生」だなガハハ。 あーしんど

2022-04-23

Twitter等で検索してみると似たような主張が大量に発掘される、それをキャプ翼論法とでも呼ぶべきか・・・

つりがねむし @Tsurigane_mushi

漫画アニメなどの表現は人に影響など与えない」と言ってるオタクに「じゃあキャプテン翼の影響でサッカーを始めた人は?」と言っても、堂々と「それは悪い影響じゃないか問題ない」と返してくるので徒労になる 彼らはオタク表現無罪論を唱えたいだけなので、これがダブスタとの自覚すらない

https://twitter.com/Tsurigane_mushi/status/1479650987459907593

しお(汐街コナ) @sodium

女は淑やかにと言われた時代に描かれた「ベルサイユの薔薇」や「はいからさんが通る」は、少女たちに、もっと主体性を持って生きて良いんだと伝えただろう。

日本サッカーが「不人気なスポーツ」だった時代に描かれた「キャプテン翼」は日本どころか世界サッカー界も変えた。

https://twitter.com/sodium/status/1515157859906260992



表自界隈はこの不都合論法卑怯にも無視・・・してはおらず、周回遅れの議論であることが指摘されていた

手嶋海嶺ゆっくり生命体) @TeshimaKairei

DiamondらやFergusonらの査読付き学術論文を読んでいれば、「キャプ翼はどうなんだ?」みたいな雑な議論はとっくの昔に通り過ぎているとが分かるでしょう。

ダブスタというか、単につりがねむし氏@Tsurigane_mushiの科学的知見がアップデートされてないだけ。

性犯罪性差別に全く関心がないのね。

https://twitter.com/TeshimaKairei/status/1480086090749194242



表現悪影響論・表現規制論に対抗するための『理論武装』~その科学的根拠~|手嶋海嶺|note

汐街コナ氏の表現論、その問題点~多様性、悪影響、炎上~|手嶋海嶺|note

この指摘以降もキャプ翼論法やそれに類似した主張(例えば下記の記事コメント・・・飲食物論法?)は各所で擦られ続けているので、今後もリテラシーの低い周回遅れな議論は繰り返されることだろうが・・・

[B! togetter] オタクなら誰でも一度はマンガやアニメに影響されて特定の食品や飲み物を継続的に摂取した過去がある説→「ほぅ…炭酸抜きのコーラですか…」

みなさんフィクションの影響は受けないんじゃなかったでしたっけ?実際は良い影響も悪い影響もフィクションは及ぼす。

二次元現実に影響を与えない」と言い張る人達は、こういうのもちゃん否定しないとね。

2022-04-12

さよなら絵梨』についてのメモ

●『さよなら絵梨』の表現手法について

①横長固定四コマ

・「横長固定四コマ日常を描く」手法自体はよくあるが、それ1本で最後まで走りきる漫画は珍しい。

・「横長固定四コマ日常を描く」手法で一番多くの人が目にしたことがあるのは、たぶん『幽遊白書』の海藤の日常

・近年は定点カメラ時間を表す表現として、主に成人漫画一般化している

難病モノ、かつ固定四コマ最期まで走りきる読み切りとして『肩幅の未来(やまむらはじめ)』がある。泉信行氏がやまむらはじめファンサイト運営していたこともあって、一般的な知名度と比べてマニア人気のある短編

しかし、『肩幅の未来』再読すると『さよなら絵梨』とはかなり雰囲気が異なることに気付く。

・『肩幅の未来』における固定四コマは、あくま淡々と続く日常(そしてそれがある日突然終わることを予感させる)を表す。終わらない日常を描く日常四コマと同一の効果を狙ったもの

・これに対して『さよなら絵梨』はより固定カメラ及び手持ちカメラ画角表現するための意識が強い

・『肩幅の未来』より、アメコミ表現藤子・F・不二雄の諸作によくみられる時間経過を表す連続コマ表現に近い

手ブレ表現

・手持ちカメラのブレを表現した人物の線

・どこかに元ネタがあるのかもしれないけど、あまり見ない表現

●『さよなら絵梨』は何にオマージュをささげられているかのか

・爆発オチファイトクラブ

・ページ数、主人公名前吸血鬼という設定→ぼくのエリ?

メタフィクション

表現論?

・『ルックバック』の反響への回答?

●『さよなら絵梨』は何をしようとしたのか

・たぶん漫画フェイク・ドキュメンタリーをやりたかったのだと思う

念頭にあったのは、白石晃士フェイク・ドキュメンタリー作品

・『チェンソーマン単行本作者コメントにも、『コワすぎシリーズ』や『貞子vs伽椰子』についての言及がある

・以下、「映画の生体解剖 VS戦慄怪奇ファイルコワすぎ!(高橋洋稲生平太郎白石晃士)」より引用

フィクションドキュメンタリーの違いは(中略)フィクションキャメラ存在を消していくもので、ドキュメンタリーキャメラがそこにあるということを顕在化させていくもの

”そんな馬鹿なことがあっていいのかというぐらいのことが起きてても、「だってキャメラの前で起きてるんだから、『イッツ・オールトゥルー』じゃないの?という”

自分フェイドキュメンタリーを撮っててすごく魅力を感じてるのは(中略)フェイク・ドキュメンタリーという手法を使えばそういうことをすっ飛ばして、映画表現ものすごく原始的ものに戻せると思ってるんです”

●『さよなら絵梨』の感想

めっちゃおもしろかった

2021-08-02

anond:20210802172910

ネットやらない高齢者が多くて文句言わないもんね

今のクレーマー気質ネット層が高齢者になったら表現論争はもっと激化するよ

りある時間全部ネットクレームやって遊ぶんだよ

2019-01-03

西武そごうのあの広告

まず「今」を描いて、次に、描いた今をリフレインする中で「今」に含まれ未来への光を照らそうという、帯同の表明としてはクラシックなほどクラシック構造だと思うけど、どうやら「今」を描くこと自体がたくさんの人のPTSDに触れる上に社会的タブーでもあるらしくて多方面から理解の表明が挙がるの、さすがに不憫

(おかげでこの件では「下手くそ」とかみたいな表現論にはあまり触れられずそれはまあ別の機会に期待だな。もっと巧い人から見たら厨二的な「自分は正解側にいる」という稚拙な部分がある表現かもしれないけど、社会としては表現裾野を広げていかないとらならない差し迫ってさえいる段階だと思うので、方法論はもっとつみ重ねられて欲しい。今まで通りの日本だとすると、少しの天才と凡人ばかりの裾野、みたいな構図に慣れすぎているわけだから社会が巧くなるということが本当に可能かどうか分からないままだけれど。)


追記】例えば、こういうのでもよいんだよ。もっと読みたい。

https://twitter.com/cristoforou/status/1080371407328927744?s=21

追記2】まとめられてはいたけど、部分への反応が多くて作品全体を見失わないままで批判しているものがあまり多くない印象で、そういう意味では別ジャンル

https://togetter.com/li/1304848

追記3】

こちらが一番うまく言い表していた感じを受けたのでメモ追記2の反応が多かった説明でもあり)。

https://twitter.com/masayachiba/status/1080737066730774531?s=21

2018-10-18

anond:20181017182239

「『個人選択の結果の服装』って言い方」がどう勘違いなのか、「然るべき文脈」が一体どういう文脈を指すのか、またその「然るべき文脈」において3D現実洋服の違いがどう問題になってくるのか、申し訳ないけど自分にはちょっとよくわからない。

文脈について、以下の2つに分けて考えなくてはいけないと考えています議論レイヤーと言ってもいいです。

  1. 表現としてのVtuberや、二次創作での扱いなど、それを取り巻く表現論についての文脈
  2. フェミニズムによる批判や再批判、もしかしたら将来的には法律なども関わってくるかもしれない、社会問題としての文脈

で、自分基本的な主張は、前者の文脈での「人格」「魂」などの用語概念を、安易後者文脈で使うべきではないということです。なぜなら、社会問題領域で何らかの主張をする場合ロジックに強度と普遍性が求められるからです。

二次元絵の取扱については、児童ポルノ関連など、踏んだらやばい案件ゴロゴロしています。なので、ここで勢いに任せて変な主張をするのは危険だと思います

普遍性が求められるというのは、例えばこれから出てくるかもしれない、中の人が男の美少女Vtuberとかその逆とか、集団運営される場合とか。例えばキズナアイヌード写真集企画されたらどう扱われるかとか。

ういういろんな想定に耐えうるロジックになっているか心配しているのです。

基本的に、発端となった批判社会問題に属するものです。批判のもの妥当とは思いませんが、ともかくNHKサイト掲載された二次元絵が問題となりました。これに対する反論は、社会問題レイヤーで行われるべきであり、また、自動的にそう扱われるはずです。

話がわかりやすくなるか微妙ですが、議論レイヤーをもう一個増やしてみます

  1. 二次創作での扱いなど、表現論の内輪での議論レイヤー
  2. フェミニズムによる批判など、外部に開かれた議論レイヤー
  3. 裁判立法問題が扱われた場合無慈悲なまでに現実レイヤー

三番目について、裁判所で「3D現実洋服の違い」が議論余地が無いことはわかると思いますだって絵だもん。キズナアイの服飾デザインが、現実における服装とみなされることはありません。デザイン担当者作成した表現物として処理されるでしょう。

で、今回は二番目のレイヤーで話をしているはずなんですが、これは1番目のレイヤーと3番目のレイヤーのどちらに近いかってことです。近いというか、二番目と三番目は地続きだってことです。男女差別とかそういうたぐいの話だから、そうだよね。

で、そのレイヤーで話をするときに、無邪気にVtuber独立した人格論を展開して、第三層まで戦えますか?あのデザインはただの創作物ではなく、中の人自己決定権によるものだと主張することに合理性や将来はあるのかってことを疑問視してるわけです。今後いろんなタイプVtuberが出てきたときに全員をちゃん保護できるロジックになっているかもっとシリアス問題が発生したときに足元を掬われるようなことにならないかちゃんとそういったことまで視野に入れた上で、「キズナアイには人格がある」と外部に向けて主張しているんですか、と疑問に思っているわけです。

Vtuberは一人の人格として独立していると私は見なす中の人もいるし。

一人の独立した人格に対して、性的から公に出てくるなとフェミニズムが主張するのはおかしい。個人選択の結果の服装弾圧されるべきではない。

https://anond.hatelabo.jp/20181012051234

ここで主張されていることって、極端な話、キズナアイの造形を決定するにあたって憲法21条の表現の自由ではなく、13条の自己決定権によって行われてるってことだよね。それはおそらく外部に向かって通じる理論じゃないです。いきなり話がでかくなって自分でも違和感あるけど、外部に向かって議論をするときにはそのくらい考えておいたほうがよいだろうと思ってるよ。

この部分も「法的に『キャラとして設定も尊重されてる』わけではない」ことがなぜ「『キャラとしての設定として魂があって中の人人権尊重される』という言い分は無理があるって結論になる」のかちょっとよくわからないです。なにが「だから」なのか。

これは書き方が悪かったな。自分でも何言ってるのかわからん。まあやっぱり文脈次第でって話。

人間の扮装であることを理解しつつキャラとして設定も尊重されてる」

デーモン小暮本体はもちろん人権保証されてるし、エンタメ文脈では設定も尊重されてペイントのまま相撲中継したりしてるけど、公的場所、たとえば運転免許証写真では、ペイント落とさないと通らない。文脈によって、あのペイントの顔がデーモン小暮の素顔だという設定が無効になる。

同じように、キズナアイ中の人人権保証されてるし、エンタメ文脈では「キズナアイというタレント」という設定も尊重されるだろうけど、社会問題を扱う文脈ではその看板をおろさざるを得ず、3Dモデルの服飾デザイン中の人自己決定権によるものだという主張は難しいだろうって話です。

2018-10-16

キズナアイの件で、現実フィクション区別ついてない人多すぎ問題

もともとはあまり興味なかったが、なかのひとがどうの、魂がどうの言い出す人の多さに流石に頭くらくらしてきた。

現実フィクション区別」というワードは、これまで二次元児童ポルノの取扱に関する文脈で頻出していたが、どうやら多くの人たちがこの「フィクション」という言葉矮小化して考えていたらしい。心底驚いた。

おそらくノンフィクション(とされる表現物)との対偶として、「物語の設定や登場人物現実とは関係ないもの」を想像しているのだろう。

だがその区別は、表現物の内部の論理であり、現実社会問題で語られる「現実フィクション区別」とは別のレイヤーの話だ。

考えても見てほしい。現行法において、同じ二次元エロ漫画に、あとからノンフィクションだと銘打っただけで違法になるだろうか。それは望ましいことだろうか。

社会問題文脈の中で語られるべきは、「現実表現物の区別」であって、表現物の内部区分として「フィクションであるかどうかは問題とはされないし、されるべきではないのだ。

表現物の内部論理として、Vtuber既存アニメなどのキャラクターよりも人格性がある、魂があると認められるのは構わない。大いに結構だ。

だが、それはあくま表現論・表現者と二次創作者との倫理的距離感など、あくま表現という枠組みの内側での話であって、社会問題での批判に対抗する方法ではない。

キズナアイというキャラクターの造形が社会問題となった場合あくま表現としてのキズナアイ問題とするべきである

表現物の内部論理としての人格性を持ち出して、社会問題ステージで「このキャラクターには人格と魂があって、その自由選択の結果です」と反論することは、なんら現実を反映していないし、より厄介な問題はらんでいる。

仮にその主張が認められるならば、同時に児童ポルノ文脈においても人格と魂のある存在として社会問題ステージに立たなくてはならなくなる。それは誰も幸せにしない事態であろう。

2015-12-03

http://anond.hatelabo.jp/20151203120203

あの人の主張が正しいかどうかはともかく、主張そのものアニメにおける「表現」とそれを成り立たせている「文脈」について語っているのであって、現実吹奏楽部員の話ではないでしょう。

何というか、あの人の主張は(少なくともtogetterに出ている分については)裏付けに乏しくて個人的には「そう思うならそうなんだろう、お前の(ry」なんですが、表現論だということを踏まえずにただ脊髄反射的に的はずれの批判をしてる人が多くてげんなりする。

2008-11-29

Re: anond:20081129093133 または伝言ゲーム

http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html

なぜか元の元が消えているのでgoogleキャッシュ

http://72.14.235.132/search?q=cache:http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html&hl=ja

以下、わかりやすく翻訳しても長くて読みにくいのは変わらないので自分の読み取った結論を3行で書くと。

  • モノが違うんだから、原作アニメは違っていて当たり前。売るために同じにしたいみたいだけど。
  • 何を語るか、ではなく、どう語るか、で見るべき。それが今の時代だろうが。
  • 富野村上は全然違う。新房山本はまだ違っているけどやりにくい時代のなか先に進んでいる。見ている側、追いついてるか?

まあ、2ちゃんねるアニメ板界隈ではそれほど新しい主張ではないな、と翻訳しおわってから思ったけど。

では。

原作至上主義」のふたつの定義

  1. 作る側が原作に忠実であろうとすること。
  2. 見る側が原作に忠実であることを期待すること。

問題の提起

まあ、原作至上主義って言ってもいろいろ視点はあるよね。

  1. 原作(マンガとか)とアニメは見た目が違うよ
  2. 見た目が違うのに、原作をそのままアニメコピーなんてできないよ
  3. 見た目が違うのに「同じ作品だよ」と言って商売することが求められているよ
  4. 作る側も「同じ作品にしたいよ」「俺の作品にしたいよ」と言う人がいるよ(他にもいるかも)
  5. 見る側も「作品から生まれた発想を見たいよ」「なるべく忠実に再現してほしいよ」という人がいるよ(他にもいるかも)。

原作至上主義」って、これらの問題が混ざり合って出来てるよね。一応仕事だからこんな話があるのは知っていたけど、正直気にしだしたのは、noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言ったエントリに煽られたから。日だまりスケッチ×365とかかんなぎとかに関して「原作アニメのあいだ」とも呼ぶべきものが問題にされていて興味深かった。世の中わかった気がした偉い人が「統計学的な分析」とか「メディアが違うことを無視した分析」してるけど、この人は誰だかわからない、ってことは別にしてとても興味深いよ。

自分なりにまとめると、id:noir_kが「原作至上主義」について言ってることは、

ていうことだよ。

なので、この人の言いたいことはともかくとして、自分もその流れで「原作至上主義」について考えてみるよ。

批評」が利用する原作アニメの「間(あいだ)」という「ギミック

批評」って、見る側がするものだと思われがちだけど、作る側もするんだよね。作る側の批評というのは、過去アニメ作品とかアニメ以外の作品について、「批判」することなんだけどね。ガンダムエヴァンゲリオンはもちろん、アニメ以外のテレビ番組とか、ネットとか映画作品とかゲームとかコミックとか小説新聞美術作品とか、そのへんを「批判」するってこと。

みんなわかるとおり、今アニメを作る側の「批評」ってこんな感じだよね。

また、この辺が「新房昭之」「山本寛」あたりから始まる、ってのもみんなわかると思う。

まあこのへん「批評的な営み」って言うのかな、これ、

  1. 原作アニメがもの(メディア)として違う
  2. だから、表現としても原作アニメは違ってくる
  3. だから、アニメ原作を忠実に再現することなんか不可能
  4. でも今は原作アニメは同じものとして扱いたい(「横断可能性」)
  5. だから、表現として違うとか再現不可能とかそんな話は忘れる。

という流れを「忠実に反映」してると思うよ。

ちなみに、引用のうち、実写映画の技法、特に画面の構図とか物語の構成とか色合いとか撮り方編集の仕方に関する演出とか、に関するものは、それ出来るところが先にやったもん勝ち、っていう実情があるよ。

今はメディアミックスの時代だから、アニメ作る側も、原作アニメを同じものとして作ることが求められている。でも原作アニメって、片方は印刷したもの、片方は画面で音がついて動くものとして別のものなんだから違うものとして考えようよ、ってid:noir_kが「原作至上主義」に対して言ってることってなかなか良い意見だと思うんだ。

これらは仕掛けとして考えれば同じもので、見る側作る側はこの仕掛けを通じて共犯関係になる。そして「原作アニメが同じものとして作られるものだという空気」が、これらが、なにかを考えて作られたものだな、とみんなに思わせる目印になっている。この目印を越えて、今のアニメの演出が進むことで、アニメを作る側も見る側も、新しい批評が出来るとわたしは思うよ。

物語構造分析(未満)

こう書くと、ストーリーって重要な要素を忘れているのではないか、と言う人もいると思う。ただ、ストーリーって編集という演出の産物なんだよね。で、ストーリーは「ある内容」を「どう語るか」にあるわけだけだけど、「ある内容」ってもともと5から20個くらいのパターンしかないから、そこを評価しても仕方がない。「どう語るか」は批評対象になるかも知れない。ニューヨーク9.11テロを題材にした物語は無数にあるけど、それをどの視点からどのように語るかということが重要だということ。うっとうしく社会学で語ると、これが「批評空間」世代と「東浩紀宇野常寛ゼロ年」世代の差異だということ。後者はおもいきり戦略的に「物語論」へと反動的に回帰しているように思われるし。言い換えると、「表現論」派と「物語論」派がいるよね、ということ。

世代が新しくなってるから、「表現論」派の肩身がきわめて狭くなるのは当たり前だよね。現に、自分は「コードギアス 反逆のルルーシュ」が「表現論」的な演出を自粛した作品だと思っているし、そのあらわれとして「物語論」派から支持を集めることに成功してるし。そして、このアニメ2008年を代表しうるアニメだからね。

アニメーション歴史の忘却

アニメって、他のジャンルと比べても忘れられる度合いが例外的なほどに高いように思う。半年前のアニメさえ鮮明に思い出せないことの方が多い。これは何故だと思う?

それは、異常なまでに「物語」と「登場人物」(声優とか声優演技のしかたも含めて)が似ていて、なんか同じものの繰り返しになっているから。

アニメ以外の、コミックとかゲームはよく知らないんだけど、コミックを例に取ってみようか。まあコミックも簡単なパターンで作られているようにみえる。でも、「美術小説に関して明らかに規範的なテクニックを持っているのにもかかわらず、下手くそな画で馬鹿げた物語を語っている」漫画家が確かに存在しているのね。おまけに、存在しているのみならず人数も多い。

けれども今の時代、経済構造の都合でアニメ業界はそれができない。「原作のないオリジナル作品が作れない」っていう意味ではなく、「オリジナルなものが抑圧される」という意味で。俗っぽい例えだけど、「優れた直木賞」は受け入れられても「中途半端芥川賞」は抑圧されるということなんだよね。だから、ほとんどの作品が忘れられていくのは当然の事態なの。(より正確に言うのなら、「直木賞」と「芥川賞」の差もなくなっているし、アニメ歴史の問題というより、今アニメを作る人が信念を持って「特化」しようとすると、淘汰されるということかな。でも「特化」なんて言えるようになったのが90年代に入ってからのことなので、奇妙なねじれがあるようにみえるんだよね。この「ねじれ」を作家主義が引き受けたこと、そしてインターネット社会が同時的に誕生したこと、これが、「アニメーション歴史におけるヌーヴェルヴァーグ」〈山本寛の談〉と呼ばれる事態なのかな、とわたしは考えるよ。)

原作至上主義」は正しいのか、間違っているのか。

現代のメディアミックス時代における、アニメ作る側の「原作至上主義」、インターネット社会におけるアニメ見る側の「原作至上主義」。

相対主義を標榜するほどナイーブでもないので私見を述べると、どっちも間違ってる。

アニメ作る側がいくら「原作」を「模倣」しようが、メタフィクションパロディ引用自己言及、そして実写の早い者勝ち引用ゲームからは抜けられない。アニメ見る側がいくら「原作アニメはこんなに似てる」と言おうが、根本的にそれは異なるものだから。根本的に違うものなので、いくら似てると言っても意味がない。それとも、類似点を言っていればヘーゲルの時代に戻れるとでも思っているのかしら。

ヘーゲル小説のことを「市民社会ブルジョワ的な叙事詩」と定義した。要するにアニメの場合、「表現論」派に対して、世界の全体像の提示を旨とする「物語」派が復権するということは、奇しくもヘーゲルへの回帰をも意味するということ。言い換えればこれが「市民社会」論・「公共性」論・「安定的な社会秩序」を懐かしむことにつながると言うこと。でも、懐かしがって出来た物語は「秩序の混乱・解体→回復」という説話の構造でしかないし、その物語は「売れる=消費される」社会の現状維持的な肯定。果たして、それでよいの?

富野由悠季村上隆

ひっそりと深夜に放送されるアニメを作るのも見るのもまっぴらごめん、と言う態度は適切だし、ましていい大人、常識的な社会人が、という話なら正しい振る舞いでもある。

ただ、昔の人が反語的に言うような、アニメステータスシンボル(「オタクのしるし」とか)以上の存在価値を持ち得ないという議論は、あまりにも不毛で、杜撰で、素人じみている。富野由悠季まで戦略なしに不意に言うのを聞くと、断固として反論する必要があると最近思っている。そして逆に、圧倒的な「アニメコミック」表現に関する戦略性(プレゼンテーション歴史的な文脈づくり)で欧米諸国を震撼させた村上隆のような現代美術家に対しても、最近では諸手を挙げて肯定することは出来なくなっている。

富野ペシミズムと、ペシミズムの盗用により現代美術世界で名だたる作家となった村上隆

新房昭之山本寛

なんにせよ、この2人が、行き詰まっている現状でぎりぎりの戦略をとっていることは胸を打つ。この固有名詞が、アニメにやってくる。決して2人とも現状を抜け出すことには成功していない。2人ともテクニックはあるけれど、状況を突破するほどの何かを示してはいない。

でも、新房はテーマとの暴力的な遭遇(西尾威信小説アニメ化)によって現状を何とかしようとしており、山本アニメ作りと同時に言論活動を展開することで、自己弁明しながらも新しさを模索しているようかのようにみえる。

そして、まちがってもそれらは、『ef -a tale of melodies.』(※監督大沼心、監修:新房昭之)や『かんなぎ』のような作品で実現されているとは思えない。両者で見るべき点は、妥協および「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽ること」以外にないのではないか。

それから

けれども、「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽る」というとき、その恐怖心こそが、富野村上には見いだせないものであって。

くだらないテーマの指摘とか、原作アニメが違うだとか、ありふれた技法を指摘するだとか、歴史的にあれと似ているとか、そんな指摘は新房や山本が恥じらいながらも表現しようとしているものにまるで追いついていないのよ。

2007-08-04

東大卒の俺がプログラマになった理由

http://anond.hatelabo.jp/20070802021749

東大卒の俺がプログラマになった理由は二つある

理由1: プログラミングってすごい楽しい

理由2: プログラミングは食べてける程度には儲かる

種明かしをしよう。

東大情報系を卒業する頃には、

"ゼロから"

CPUの設計ができて、プログラミング言語を設計し、コンパイラが書けて、OSを載せて、

その上で例えばレイトレーシングを動かせるくらいの力量がつく。

が、しかしそれらは全てやり方さえ知ってれば普通高校生でもできる。

簡単なことを単語を難しくかえて書いただけだ。

C言語をマスターしてるかどうかを低レベルな話なんていってるほうが低レベルである。

SQL構文暗記してる?」くらいのレベルの低さだ。

C言語って意外と奥が深い。C99なんてもう何が何だかさっぱりだ。

4年生の卒論でやるのは、例えば、とあるLISP処理系GCを、

ある仮説を立てて、その仮説のもとで最適なアルゴリズムを設計し、

実際に処理系組み込み、仮説が現実にどれくらいあっているかを検証することで、

そのアルゴリズムの良さを測る、といったレベルだそうだが、これは平たく言えば

「ご本に書いてあることをその通りやって、キッチンタイマーで時間はかったら短くなりました!」

というレベルだ。卒論なんて東大といえどもそんなにレベルは高くない。

上記のことは普通プログラマーなら半年も訓練してれば簡単なことである。

また、ここで注意していただきたいのは、プログラミングなんて誰がやっても同じということだ、

という奴がかくコードは非常に雑であることが多いと言うことだ。

機械語を書く際の冗長な作業を軽減するためのプログラミング言語であり、

もっともプリミティブな部分が定義されていれば、あとはそれを別表現で定義すればいい。

だが、対象を別の対象へ写像して調べる表現論というのものは、数学の1分野にもなってる

ぐらい複雑な分野で、これを中学生でもできるとかいってる人の底の浅さがうかがい知れる。

ここ5年くらいの情報系での流行機械学習だ。

DSで使われている手書き文字認識や、

銀行で使われている静脈認証、

DNA解析、

携帯電話などの無線通信で使われている符号化、

動画エンコードで使われている圧縮技術などが関連している。

機械学習に関する情報のページ

http://ibisforest.org/index.php?FrontPage

東大生はこういうことを仕事にしている人もいる。

だが、開発をしてる東大生も意外と多い。

そして、こういうことを仕事にすると、

プログラマーの倍の労働時間で、同等の給料を稼げる。

もちろん、全くコードを書かないわけではない。

誰がやっても同じ部分であるプログラミングは外注する。

R&Dが高給だと思ってる人は一回民間に就職してる人に

聞いてみよう。給料はほぼ同等か少し高いぐらいで

毎日研究午前様労働となる。


もちろん、大規模なプログラムの設計は重要だ。

だけど、設計と吠える人ほど設計センスがないという現実がある。

本当に難しい部分の設計というのは、例えば、NTT Dataにいる東大生が丸投げしている。

あるいはSuicaのようなシステムならば、日立東大生。

JRのダイア自動制御システムJR東大生。

他にも大規模システムの例はいくらでもある。

だが、別に東大生だけがやってるわけではない。NTT Data、日立JR等は東大生の

推薦枠が大きいので東大生が多いだけである。特にNTT Dataは東大生は

推薦がとれなかったら学歴フィルターで落とされることが多いのも有名である。

だがどっちにしろ重要なのは、この辺の企業がほんとに重要な部分を設計

してるのではなく、丸投げしているということ。


あとがき

上の文章は特に誇張してません。

東大にいる80%の人は本気を出せばそれくらいのポテンシャルがある。

だけど、同様に一般人の78%の人も本気を出せばそれぐらいのポテンシャルはあります。

上位5%は常に本気。こういう人はほんとにすごいです。

でも下位95%はやる気がない。4年次に行列式の定義とか聞くと答えられる人はほとんどいません。

アメリカへつれていき、いきなり英語でスピーチをさせたら無難にこなすレベルもいるけど、

語学は人による差が激しいのでなんともいえません。

あとは・・・C言語をマスターしてるレベルといったら、東大工学部を連れてくると、丁度いいかもしれない。

だけど、文系の人はC言語なんて教えてもほとんどわかりませんよ。




そういや東大教養課程で扱うプログラミング言語Rubyになるらしいね。LLの適度なヌルさは教育向きだと思う。

情報系には別のカリキュラムがありますが、多分上位15%しか理解していません。

そもそも計算機プログラミングJavaだったころにも本当に理解してたのは上位15%程度でした。

2007-03-27

RE:まなびって何?

2次情報で腹一杯になる程度の飢餓感で、ナニが自称「アニオタ」だ。

そもそも「全部」とか「ギャルゲ」とか語彙に具体性が欠けまくってるうえに、「パクリは悪」とか得々として断罪するあたりレンジ叩きの厨房レベルがいっしょ。せめてあんたの大好きな、先駆的なカメラワークの、古くから読み継がれてきた不朽の名作たる、その「ギャルゲ」とやらの名前ぐらいは出しなよ。厨房だって「ドクターマリオ」くらいは言うぜ。

あんた、自称アニメ評論家表現論専門)のほうがお似合いだよ。

(ちなみにまなびストレート見たことありません)

 
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