はてなキーワード: 結果的とは
https://anond.hatelabo.jp/20191118235152
↑のブコメで「トイレでどうやって寝られるのか分からない」というのがあったので、社内ニート歴5年の俺が教示してやろうと思う。
まずトイレで寝るのは幾つか「型」がある。
あ、トイレといっても、駅やデパートにあるような障害者向けトイレとか、赤ちゃんのオムツを変えられる台があるのは除外な。ああいうのは、そこに寝っ転がれば誰でも寝られるわけだからな。
話を戻して「型」だが、以下が俺が5年間で試してきた代表的な「型」だ。
1.直立型
文字通り便座に座り、ほぼ真っすぐな背中を気持ち便蓋に押し付ける感じだ。
メリット:なんとなく後ろめたさがない。
デメリット:寝るとほぼ確実に体が左右に倒れ、結果的に壁に当たる等、大きな音をたてることになる。
2.猫背型
基本的には直立型だが、もうちょっと尻を前に出し、丸めた背中を便蓋に預ける感じだ。
デメリット:直立型と同じ。また尻を前に出し過ぎると、殿方の場合は竿が便器の前部分にあたる可能性もある。
3.屈葬型
最初から膝を閉じた状態で、体全体を折り曲げる。縄文時代に死者を葬る際に用いられた屈葬のような形だ。会社的には死者である社内ニートにぴったりだ。
メリット:体がぶれない。
デメリット:やはり寝姿としては無理があるのか、起きると頭が痛い(たぶん血液が頭に上ってしまった?)、あるいは呼吸が苦しくて起きる場合が多々ある。また、便座の形が馬蹄形だと、ちょうど切れ目の部分に前髪や額があたる場合も考えられる。殿方が座りションをする場合、高確率でこのあたりには尿が飛散している可能性がある。
そして、これらを経て俺が編み出した方法が次の4.だ。
4.枕使用型
これは便蓋の後ろに貯水タンクや少し段になった部分(恐らくオフィスだとそこにパイプなどが収納されている?)が必要なのだが、とにかくそこにトイレットペーパーを置く。恐らくどんなオフィスでも予備のトイレットペーパーが個室に常備されているはずだ。それを使う。それを枕にして、後頭部を傾けてそこに預ける。イメージとしては自然に口が開いてしまうような角度だ。
メリット:寝やすい!ぱっと見は直立型と対して変わらないのだが、枕があることで圧倒的に寝やすい。そして安定もしているのか、体が横に流れることがない。個人的にはこの方法はハーバーボッシュ法に比肩しうる大発見だと思っている。予備のトイレットペーパーがなければ、最悪いま使用途中のトイレットペーパーを使用しても良いのだ。
デメリット:・・・こんな革命的な枕使用型だが、デメリットもある。それは「いびき」だ。先程「自然に口が開いてしまう」と書いたが、どうやら口が開くといびきも出やすいやすく、何度か自分がいびきを発している感を察知し、起きてしまったことがある。もちろん本当にいびきをかいていたかは不明なのだが、普段からいびきをかくような人はやめておいた方が良いかもしれない。
この他にも何度か試行錯誤していて、メリーゴーランド法(便座に前向きに腰掛けメリーゴーランドのように給水タンクを抱く(ないし段差に肘を置く))や、とぐろ法(床に寝てしまう。便器を巻くような態勢になるので「とぐろ法」と命名)なども試してはみたものの、どうもしっくりこない。
この匿名ダイアリーを見た人は、ぜひ会社のトイレで寝る黄金(意味深)法を是非お寄せいただきたい。そして、いつの日か異論の余地のないトイレ睡眠体勢を確立できればと思う。それこそが、会社ではなんの希望もない、自分の唯一の残された夢なのだ。
絶対に有り得ない。
役柄を毎回変える器用な役者ではないが、マッチョイメージってだけでラズベリーに選ばれたり、アクション俳優という「キャラクター」で不当に蔑まれてきた人だ。
スタローンの演技力の証明としては何より、「スタローンと競演した役者が輝く」という逸話がある。
『エクスペンダブルズ』のステイサムはわかりやすいが、『ロッキー』のエイドリアンにしても『ランボー』のトラウトマン大佐にしても、あんまり面白くない『暗殺者』で共演したバンデラスにしても、スタローンと絡んだ役者の活躍が記憶に残る。
共演者に花を持たせるのは「脇役役者」が持つ特性で、なんだ、主演の癖に脇役レベルじゃねえかと馬鹿にしたくなるかもしれないが、逆に脇役のように「他人を輝かせる」演技はうまくなければできないことなのである。
アイドルやタレントの主演作品で脇役を大御所俳優で固めるのと同じ事だ。
もちろんいくつも記憶に残るキャラクターを演じていることを考えれば、共演相手に食われているわけでは決してない。
あんなゴリゴリの見た目に濃い顔のアクション俳優なのに、自分が目立つのと同時に相手に合わせた「受け」の演技ができる柔軟さを持っている事に、みんなもっと驚くべきだ。
これはスタローンが演出家・脚本家としても優れているからこそできる芸当だろう。
(『ロッキーザファイナル』において、ロッキーの続編なんてと世間が馬鹿にする中、結果的に実力だけでその年の映画界の話題をかっさらった手腕を見よ)
ただの「筋肉バカ」「脳筋っぽい」と思っている人は、こういった彼の特徴に気づきもしないのだ。
伊達に、デニーロから超馬鹿にされながらも彼と共演して真正面からデニーロスタイルの演技対決を挑み、そして20年後にW主演で再共演を果たした男ではない。
世間からずっと馬鹿にされながらも、ファンはずっとスタローンの演技のうまさを唱え続けてきた。
そのたびにラズベリー賞なんていう何の権威も批評性もないただのお祭り騒ぎを根拠に、周囲からは馬鹿にされた。
その結果、「全盛期を過ぎてから評価する」でお馴染みのノロマなアカデミーでも、2015年、ついに『クリード』でアカデミー助演男優賞にノミネートされた。
わかる範囲で。
はてなブックマーク民は、知らないことを知らないと言えない人間が多すぎ。
なお、筆者は機関投資家勤務、SBI証券に口座はあるけれど(機関投資家勤務なので)売買は出来ない立場。なので、個人のトレーディングには詳しくないところはある。
個人で利用できる株式の売買執行市場は、東京証券取引所と、他に私設取引所(PTS)。これらは個人も機関投資家も利用する。
他の売買方法としては、ToSTNeTの利用、証券会社との相対取引、証券会社等が提供するダークプール等もある。ほぼ機関投資家のみが利用するし、利用できる。
今回の減少は、SBI証券で、プリセットの設定のまま、成り行きで売買したときに起きる。
SBI証券で売買する個人は、株を発注するとき(便宜のため、売りオーダーにする。)、スマート・オーダー・ルート(SOR)をONにしたままにすると、東証か、PTSの中で一番良いプライスの市場で売買される。
そこに、従来は「Immediate or Cancel」条件で執行されていたので、発注数量のうち一部でも執行できれば執行して(partial fill)、残りはキャンセルする執行方法だった。
これが、「Time in Force」条件、つまり、一定時間は「成り行きのまま板に晒す」という方法に変えられたことと、加えてその残存時間があまりに短い(日経によれば何百ミリ秒)こと、これが問題となっている。
Time in Force条件そのものは一般的にも使われる取引で、まあ、ノンビリと成り行きで板に晒しておくという意味になる。
ただ、その残存時間がミリ秒の世界になると、実質的には機関投資家のうち高速取引業者(HFT)しか取ることのできないオーダーということになる。
A市場とB市場(例えば、東証とPTS)の値段の差をついて、A市場で安く売られている証券を買ってB市場で売ることそのものは、悪い行いではない。
これが流動性の提供につながるし(市場が繁盛する、という意味)、市場間の裁定取引が働くことで値段が収れんするから。
ただ、今回SBIがセットしてた設定は(SORで、TIF設定で、しかも非常に短時間のTIF)事実上、高速取引業者(HFT)のみがテイクできるさや抜きで、不公正という感じはする。
※なお、TIFの残る時間がもっと長い時間だったとしても、結果的にはHFTがオーダーを取るとは思う。結論はかわらないと思う。
SOR設定かつ短時間のTIF設定を、利用者にわかりにくい形でプリセットにしていた点は、道義的な非難は浴びると思うが、金融庁や監視委員会が処罰する法令上の理由までは無いと思う。
形式的な該当条文は無い。誠実公正義務くらいしかない(第三十六条 金融商品取引業者等並びにその役員及び使用人は、顧客に対して誠実かつ公正に、その業務を遂行しなければならない。)。
とはいえ、個人投資家も、オーダーの際の条件(SORなのか、TIFなのか、Fill or Kill(一部出来なら約定しない。)なのか etc.)、細かい取引条件は自ら確認する注意くらいは負わないといけないと思う。
一義的には、金融商品取引法で定め、開示が求められている裁量執行方針に反していないのか、という形式面になる。
https://search.sbisec.co.jp/v2/popwin/info/home/bm_171129_16.pdf
問題となる可能性があるのはSOR対象銘柄の選定のプロセスの妥当性があると思う。
SOR対象として、東証以外の市場(=PTS)に回していた銘柄が、本当にそれで良かったのか? 発注者の利益のみを考えた選定だったのか?(あるいは、PTSに参加するHFTに便宜を図ったりしていた形跡がないのか。)。こういう検査は、やった方がいいと思う。
あと、SOR時の利用条件変更の同意の取り方は、不誠実だったと思うので、行政指導がされる可能性はあるかも。
HFTに明らかに有利な執行体系を、特にSBIが使っているXマーケット(個人投資家とHFTが両方利用する市場)で残しておくのは、不誠実かと思う。
明確な法令違反事項ではないが。
海外では、HFTだけだオーダーを取れないように、スピード制限があったりするので、取り入れるべきだと思う。
・速いコンピュータを使っている。
・東証が提供する、東証の処理サーバーのラックの至近に、サーバーを設置する権利を借りて、東証の近くでオーダーを処理している。
たぶん、そう。 HFTが居ないと売買量が減り、個人を含めた参加者の売買がやりにくくなる。
例えばダークプール(証券会社内部で、証券会社が抱える顧客のオーダーを、内部でぶつけて、約定させる。)での取引情報を、一部のHFTが得ているのではないか?という噂は常にある。
ダークプール内での大口オーダーの流れ(例:売りが強い)を見て、つまり市場にオープンになっていない情報を見て、市場で有利執行をしているのではないか?という疑念はある。
楽器が壊れた。
でも使用を急いでいる。すぐにでも使いたい。でも楽器はレンタルでも結構高額で、貧困若者の自分にはそう簡単に代替品を用意できない。
楽器店の店員は簡単な修理なら店頭でも受け付けていると言って、器具を取り出した。
けど十数分程格闘した後、「これは店頭では無理だから修理センターに送らないといけない」と言った。
本音はすぐにでも使いたいのだが、他のタスクを先に回す事で少し楽器が必要な作業を後回しにする事も出来た。
しょうがないのでそのまま修理を依頼した。
「もう既に返して欲しいのだが」という気持ちを胸にしまって修理を頼んだ。
今返してもらった所で使えない状態だし、自分では直せないのだから、今はおとなしく10日待って返ってくるのを待つしかない。
10日が経った。連絡はなかった。
まあ、連絡の行き来や物の行き来の都合はある、数日の遅延ぐらいはあるだろう。
15日が経った。連絡はなかった。
もうヤバい。時間がない。預けたあの日からもう3週間は経ってる。
「使うので返してください」これは自分の都合だから、お店に押し付ける事ではない。
でも「10日って言ってたアレ、今どんな状況ですか?」は聞く権利があるだろう。
それで18日が経った朝、連絡を入れた。システム経由でメッセージの送信をした。
自分「10日で仕上がると聞いておりましたがその後いかがでしょうか?」
いや混雑はそりゃしょうがないけどさ。修理担当の人に遅くまで残業しろとは言わないよ。
でも連絡ぐらいしたらどうなのさ。急いでるから最短メニューでってこっちも言ったじゃん。
クレームをつけるのは目的ではない。それよりも今はもっと建設的に、次の事を考えよう。
あとはちょっと代わりの楽器レンタル出来ませんかとかも聞きたいな。
自分「それはいつ出来るのか見通しも立たない状況という事でしょうか。急ぎの用があるので、もしまだ時間が掛かるようなら代替のものをお借り出来ないでしょうか。」
暫くするとメッセージの返信があった。一緒に知らない携帯の番号からの不在着信があった。
店長「大変申し訳ございません(略)申し訳ございません。(略)この度は大変申し訳ございませんでした。 店長」
店 長 名 義。
そして分かった。さっきの不在着信はお店から来た「謝罪のお電話」だと。
接客業において店長の出現は厄介客をなんとかして穏便に抑えようモードだと、接客業バイト経験のある自分は知っている。
自分は完全にクレーマーとして店に扱われているという事が分かった。
電話はもう一度鳴ったが、自分がどんな気持ちになるか想像がついたので出ない事にした。
確かに本来の期日を1週間以上ぶっちぎったお店は悪いし、それを不愉快に思ったのは事実だ。
それでも自分はただ建設的な会話がしたかっただけだった。謝ってほしい訳じゃなかった。謝罪じゃなくて楽器を調達したかっただけだ。
でもあのメッセージ欄には「申し訳ございません」が続くばかりだった。
……さてその楽器だが、「本日修理が終わって明日には受け取れる」のだそうだ。
これが「偶然にもその日修理が終わりだった」のか「クレーマー対応の為に都合をつけて優先して行ってくれたのか」は定かではない。
どうしたらクレームっぽくなくお店に提案や交渉が出来るのだろうか。
どうしたら店長謝罪ラッシュではなく、もっと建設的な会話が出来たのだろうか。
自分はどこで間違えたのか。
・「私はブサイクを差別しないよ、ブサイクでも気にすることないよ」
・「私は韓国は嫌いじゃないよ」
相手を褒めたり自分は差別主義者ではないというふうに見せかけて実は差別しているというディスり方ってなんか名前とかついてるの?
例えば「LGBTに偏見がない」と主張するのはLGBTに偏見があるという前提の上だから偏見がないというのは嘘だよね
■追記
うーん、I have black friendsは近いけどちょっと違うかな
なんというか「あなたはブサイクじゃない」ということで遠回しにブサイクだと相手に伝えるディスりとか
「黒人でもアジア人でも別け隔てなく接する」といいながら何故か黒人とアジア人だけを強調する矛盾というか
伝わらんかなーこの感覚
■追記2
MDMAって見た目可愛いから女性は悪い奴に騙されないように気をつけて。 pic.twitter.com/xQDVpTlfaS— Hide_Mura (@Hide_Murai) November 16, 2019
こういうのも、無意識なのか故意なのか知らないけど「女性」を強調することで結果的に女性も男性も間接的差別することになっているわけですね
■追記3
ブコメにあった
とそれに近い「カバードアグレッション」が求めていたものに近かったです!スッキリしました。ありがとうございます
■追記4
質問に対する答えなどのコンテクストであれば差別、マイクロアグレッションではないとは私も思っています
「あなたは嫌韓ですか?」「いいえ、私は韓国は嫌いではありません」は問題なくて、「私は日本を愛する普通の日本人ですが韓国は嫌いではないですよ」「私はストレートですがゲイも普通の人間だと思います」などを能動的に発信するのはマイクロアグレッションにあたるのではないかと思います
先生のお気持ちを損ねれば、それ以外でも先生の「いつか殺すリスト」に入っていたからだ
そんなことより思い出してみよう、あれほど見境なく他人を低能呼ばわりしていたはずの先生が、絶対に叩かなかった属性の数々を
「疑似科学」は時々権力を利用する側に回ることもあるからともかく、「左翼」「反原発」「フェミ」あたりは、今の社会で比較的「弱者」や「被害者」の側として扱われがちな属性だ
先生は「正義」の名のもと彼らに肩入れし、しかし結果的には彼らの敵よりも高い攻撃性を示してしまった
つまり、あの事件の主題はネットリンチ云々ではなく、「被害者意識と正義感の暴走」ではないだろうか
露悪的にヲチをやってる奴だけではなく、日頃正義ぶっている人にこそ、一歩間違えればああなるということを肝に銘じていただきたい
……けど、まあどうせ聞きゃしないんだろうなぁ
自分はそういうの分かったらすぐに声かけるタイプなんだが、返ってこない事の方が多い
でも世の中には今だ!ってタイミングで声かけたりして結果的に好印象持たれる人居るじゃん。心の波形でちょうど頂点来た瞬間を狙えるような。あれ何で判断してるのかな?
Hagex氏の事件の公判に関連するいくつかのエントリがきっかけです。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4677140659072830018/comment/masa_bob
たまに、というか定期的に、はてなで揶揄される(ヲチの対象にされる、と言い換えてもいい)エントリーあるいはユーザーが現れます。上記のブコメに書かれている、かつて「コメダ珈琲での新聞のホチキスの止め方を批判したユーザー」もその一人です。多くのはてなユーザーから揶揄され嘲笑される対象として扱われていたことは、ブコメから察せることと思います。
彼の言い分はとても狭量であり、その主張には違和感を抱く部分があったと自分は思います。
しかし、それにしてもはてなで晒し者にされ、悪意に満ちたネーミングをされていい人間などおらず、同時に、他人を“オモチャ”呼ばわりをする人間については、賢いかもしれませんが当該エントリー以上に狭量で悪意に満ち、品性下劣だと言わざるを得ません。
これは余談でしかありませんが、当時揶揄されたその方は、おそらくその件とは全く無関係ですが、その後精神を病み、現在は休職していることを最近ではブログに綴っています。
さて、話を戻します。Hagexさん事件の被告人は、確かにいわゆる“無敵の人”に類型されうるタイプの方だったのかもしれません。
しかし、すでに多くの方が指摘されているように、被告人の暴言は“叩いていい人と見るや寄ってたかって叩く”という構図への義憤に端を発していた部分もあるように思います(それだけが全てとは思いませんが)。
ネットリンチへの抗議が罵倒であることによって抗議の正当性自体も地に堕ちると自分は考えます。しかしそういう意味では、被告人は、加害者であり被害者でもあったのではないでしょうか。
そして、このことに無自覚であり続ける限り、必ずまた痛ましい事件は繰り返されるでしょう。
無敵の人からいかにして身を守るか、について議論は活発に交わされているのに比べて(身を守る術はない、という意見含め)、人を追い詰めないためにとるべき態度、というものについて、多くの人が言葉を割いているようには思えません。
自分は、痛ましい事件を減らすためには、経済的支援は必須であると考えていますが、その上で、これほど軽やかにリンチや私刑が起き、そのことが自覚されずに繰り返され続けていることについて、事あるごとに警鐘を鳴らし続ける必要があると考えます。
自分自身、これまでその醜い行為に加担したことがない、とは口が裂けても言えません。
意見への反論、間違いの指摘、そうしたものは活発に行われるべきだと思います。物事の反証や議論こそが、はてなの提供した素晴らしいもののひとつだと考えます。
しかし、時としてそれが、正しさをかさに嗜虐心を満たす自分を正当化する、自分自身への言い訳になっていないと断言できる人はどれほどいるでしょうか。
もちろん、どこまでがセーフでどこからがオーバーキルなのか、その見極めは決して簡単ではありません。
ただ、Hagex氏のような、人を玩具扱いするような発言がある種の“賢い”方の露悪的な、あえての振る舞いだったとしても、その行為は醜いと自分は思います。人を「低能」と罵倒することから被告人の呼称が「低能先生」だったとして、それはやはり蔑称であると思います。
氏が殺された動機は逆恨みでした。逆恨みではなかったとしても、人が殺されていい理由など、そもそも存在しません。しかし、原因の少なくとも一端はそうした構造にあったと考えれば、殺されていたのは自分であったかもしれないという可能性にも思いを馳せることはできるように思います。
誤解なきようにはっきりさせておきますが、今回の事件とは無関係の、冒頭にあげたはてな村で一時期いじりの対象にされた方が無敵の人になり得る、という意味ではありません。
痛ましい事件から何も学ばなければ、誰もが、被害者にも加害者にもなり得るのだということを、今一度はっきり主張しておきたいと思います。
はてなが、人間を容易に被害者にも加害者にもさせる悪意の温床とならないことを、切に望みます。事件はすでに起きてしまいましたが、わたしは、そこから学ぶことをもって、死者を悼む言葉に代えたいと思います。
広く読まれると良いと思って書いたので、読んでいただきありがとうございます。
すぐアクションしたかったのですが仕事の兼ね合いでできませんでした。
また、冒頭にあげた、事件とは無関係のユーザーについて。はてなでの罵詈雑言が精神を病んだ原因であるという趣旨の記述ではなく、醜悪な出来事の一つとして指摘したつもりでしたが、誤解をあたえかねない文章でしたので、修正済みです。
以下、自分の誤ちですのでちゃんと残しておきたいため修正はしませんがお詫びです。
自分に返ってきたブーメランは「はてな村」と「無敵の人」というレッテル貼りでした。
前者について、一応端くれとして住民である自負もあったので、自虐というわけでもないですが使ってしまいました。「はてなユーザー」とするべきでした。
後者について、自分は無意識で使ってしまっていましたが、安直なレッテル貼りという指摘をうけてその通りだったと気付きました。失うものの怖さを持たない、向こう見ずな犯罪者、ときちんと述べるべきでした。
「ならばこの迷惑犯を、どう呼べば良かった?」これに尽きる
ごめんなさい。これについて、自分も答えは持っていません。「被告」で通じる文脈を綴り呼称を避けています。刑が確定すればまた違いますが、「Hagex氏刺殺犯」「M被告」などと呼ぶしかありません。
事件以前、はてなにおいて当人をどう呼称すべきだったか。自分自身は呼称を避けていましたが(それほど日常的にコメントをつけてブコメもしないため)、むしろ「低能先生」と呼びながらも当人を諌め対話を試みていた人の方が誠実であったと思います。はてなのヘビーユーザーほどその扱いを持て余していたこともわかります。
ただ、どれほど逸脱した人間であろうと、それらすべてが自分の発言に端を発するものだったとしても、「低能先生」や、例えば「性の喜びおじさん」といった呼称は蔑称であり、不特定多数が1人の人間を名指すべきではないと、やはり自分は思います。
それもある種の自衛的行動であるのかもしれませんが、悪意に悪意で返すのも危険であると考えます。
当人自身がどう受け止めていたかとは別に、その蔑称がその後の言動や考えに影響を与えない、とは到底思えないからです。
自分に加害意識があるならハゲの人をスケープゴートしないで自分の問題として書けよ。あの人は自ブログで文責持ってやってた点だけは増田の100万倍誠実だろ
その通りです。彼は覚悟をもってそのリスクを自分で負っていたのでしょう。結果、殺されてしまいました。自分は臆病なので、人を傷つけるのも自分が傷つくのも苦手です。
もはや、当たり前のようにネットは現実と地続きになっています。だからなおさら、繰り返しになりますが、悪意に悪意で返すのは危険だと考えます。目の前で誰かが危険にさらされていれば止めなければいけませんが、危急の事情がなければ、通報し続けるしかありません(多くのユーザーが運営に通報し続けたことは知っています)。
過剰な集団リンチと正当な批判の境目は何処に
それについて言及する際に、言及する当人が考え続けるしかないかと思います。
低能先生は呼び名を変えるだけでは救われなかったし、増田の言っていることは完全に筋違いとすぐにわかる
あの人の言い分だとそもそも批判の仕方がどうこうとか関係なさそうなのでこの増田の言い分は一般的には兎も角この件では的を外してるように思う
後出しジャンケン。Hagexの下品な煽りは咎めておきながら500回複垢取得してidコールで罵倒してくる方をスルーするのは「人を刺した本物のキチガイ」という答え合わせが済んでるから。
これはひとりひとりへの警鐘程度ではどうにもならない問題。構造、システム、地形によって実現している現象だから。ツイート、コメントが無制限に集約される場とどうつきあっていくかというアプローチが要る。
すべてその通りだと思います。どう振舞っていても、時と場所、相手が違ったかもしれないだけで、結果的に痛ましい事件は起きたかもしません。
「後出しジャンケン」というのも指摘の通りです。ただ、後出しであっても、これまでもこれからもはてなユーザーである限りは、自分は考え続けるべきであると思っています。
そして、システムの改善について考えること、自分の行いを省みること、それらはどちらも必要であると考えます。
いじめは楽しいから続くのであって"醜い行為"とか言っても抑止にはならんよな
そんなことはない、と思っています。確かに嗜虐心を満たす行為は、それこそ病みつきになるほどの快楽を伴うことがあるのを自分も否定しません。しかしそれ以上に、例えば自分の場合は“ダサい”ことをしたくないという行動原理があります。
かっこよくありたい、見栄を張りたいという欲望も、人間にとっては強い魅力を持っています。
安全な場所から他人を不当に攻撃するのは醜い、ダサいと言い続けることには、効力があるがゆえに意味がある。自分はそう考えます。
駅の通路や階段に左側通行を示すサインがあるのに、ガン無視する人多いよね。
駅ではストレス減らしたいからサイン通り左端に寄って歩くんだけど、左側通行を無視して歩いてくる人が避けず、こちらが避けることになるとものすごく腹が立つ。
あと、電車の到着後に通路全部ふさがれるのも腹立つ。邪魔って顔されるけど、邪魔なの広がって歩いて通路ふさぐ貴方たちなんですけど?
階段もさ、わざわざ手すりで真ん中を区切っていても、当たり前の顔で逆走していくよね。
ただ、手すりが必要な老人やけが人とかは、左右で力の入れ方に制限あるだろうから、結果的にサイン無視して手すりにつかまって歩いていても仕方がないと思っている。
ようは、ルール守っている自分が遠慮しなければいけないのが悔しい。
みんなが左側通行守ればストレスだいぶ減るのに、ガン無視する人が理解できない。
心穏やかに出勤したいんだ。
今回、これを書くにあたりどうしようもない幼稚な自分の心と抱えきれないほどの所謂神作家様への羨望と、裏腹に抱える嫉妬心が限界を超えてしまったから整理の意味も込めて書きます。
読みにくいかとは思いますが、ただの心の整理なのでゆるく読んでください。
私は彼此十年ほど二次創作で文字書きをしています。しかし、元々は絵を描くのが好きでした。小学生の頃の夢はイラストレーター。小学生の頃に書いた、地域の新聞に載る私の夢の欄に「みんなが笑顔になれるようなイラストレーターになりたいです」と書いた記憶がこびりついて、離れません。
私の根本には人の役に立てる人になりたいという願いがありました。絵を描くのが好きなのも、今小説を書いているのもその発端がありました。勿論キャラクターが好きだからというのもあります。
小さい頃は絵を描くとみんなが褒めてくれた。笑顔になった。だから夢はイラストレーターだった。けれど、年齢を重ねるにつれて、金銭面だったり現実的なことを考えてしまいます。
私は夢を諦め、次に人に役に立てる職業といえば非常に短絡的ですが医療職だと思い勉強を始めました。
しかし、それも諦めの気持ちで仕事をしています。激務の中で小心者の私は、上手く立ち回れず空回りばかりをして結果的に失敗ばかり。
夢を追えばよかったのか今ではわかりません。あったかもしれない未来に想いを馳せながら、後悔ばかりを抱えて眠れない夜を過ごしてまたビクビクしながら職場に向かいます。
人の役に立ちたかったのに、人の目ばかり気になるのです。
さて、ここで冒頭に挙げていた話に戻るのですが。私の根本が人の役に立てる人間だということは書きました。
それを言い換えると、人の評価/目が気になってしまう人間なのです。
作品を作っている方はよくわかるかとは思いますが、作品を作っているとよくも悪くも評価というものが付きます。サイトでもそうpixivでもそうですし、Twitterでもそうだと思います。数の評価です。
才能のある人の作品はとても素晴らしいです。小説であれど、漫画であれど、なんにせよ人に影響を及ぼすことのできる人間というのは極一部だと思います。
神作家様の作品を見ると、勿論うっとりとしますし感動に胸が締め付けられ、抱きしめてキスをして沢山の愛を伝えたくなってしまいます。
しかし、ふと、自分の足元を見たときに圧倒的な数の評価の差に愕然としてあんなに好きだった作品が見たくなくなってしまうのです。凄く、きついです。好きなのに。
また、神作家様と言われる中であまり自分の好みと合わない作風もやはりあります。申し訳ないのですが。頑張って読んでみても、やはりその良さがわからない時がどうしてもあります。何故、こんなものが評価されているのだろう。何故、私のものがこんなに評価されないんだろう。
紙に落ちてしまったインクは取れません。滲んで、広がって消すことはできません。上から違うものを塗ったり、かぶせたりすることはできても翳せばやはり、透けて見えてしまいます。
Twitterではありがたいごとに、こんな私の作品を好きだと言って繋がってくださっていたりする方が多くいます。けれど、その数はとても多いというわけではありません。
その相互さんであったり、一方的にフォローしている方だったりでリプライが見えたりした瞬間、また嫉妬が芽を出すのです。
本当は繋がりたかった方と繋がれなかった自分。フォロワーさんが、その繋がりたかった方と仲よさそうにしていたり、表紙を担当されていたり。ああ、羨ましいな。と思います。同時にもっと自分に才能があったらな、とも思いますし、当然のことながらじゃあ話しかけたらいいじゃんとも思いますが相手の方から迷惑がられたら、不躾なことをしてしまったら、と考えると手が震えます。
自分の作品のブクマ数をみてはため息をつきます。他の人にマシュマロが来ているのに、自分には何ヶ月も来ていないのをみて胸が締め付けられます。本を出して感想が来ました、という方がいれば私には一つも来ていない、と思ってしまいます。全部全部、劣等感を持ちながら嫉妬をしながら、でも、それはいけないことだとわかっています。いけない感情なことは十分にわかります。自分が自分でなくなってしまいそうになってしまいます。
誰か私を認めて欲しい。
こんなことを言って、私の小説が好きだと言ってくださってる方に失礼なことは承知です。
人と比べても、自分で努力しないと、どうしようもないことはわかっているのに。自分が、自分のことを認めてあげられないのです。
上手く人とも話せない。仕事もうまくできない。絵も上手くかけない。人に幸せを感じさせれるような小説も書けない。
相手の人が迷惑だったらどうしよう、だとかそういうことばかりが先行して結局身動きができなくなる。連ねれば連ねるほど叫びが出ます。
情けないですが、これを書きながらずっと泣いてしまってしょうがありません。
私はこれからも、小説を書いていきたいです。ただ、ふと、時々筆を折ることを考えます。
しかし、筆を折るとそれこそ無価値な人間になってしまうのではないか、と思ってしまい怖くなります。勿論、そんなことはないことはわかっていますが。
午前三時。ふと、思い立って書いてみたもので乱文にもほどがあるものですが、もし最後まで目にしてくださっている方がいらっしゃいましたら、ありがとうございます。
先日締め切りギリギリに脱稿したのに、これは数十分で書いてしまっていつも小説もこれぐらいでかければいいのにと思いつつ、終わりたいと思います。
そういう「民主を支持する理由」をもっとアピールすればいいのに(今挙げたやつは流石に弱いけど)、「安倍が悪い理由」しかアピールしてこないので、結果的に自民消極的支持を撤回する理由がほとんどでてこない。
何より、オタクにしかわからないオタクコンテンツポスターよりもっとまずいものがありますよね?
好感度高い有名人の写真で献血呼びかけてるポスターですよ。
武井咲、新垣結衣、栄倉奈々、市川由衣、深田恭子、石川遼、羽生結弦、田中将大、
若くて見目良くて能力あって好感度高い人たちが献血ポスターになって呼び掛けてるわけです。
彼等のファンはそれを見たら頭がポーッとなって献血行っちゃうかもしれませんね。
これは自発性を損なってると言わないんですか?
写真だけでなく、乃木坂46はインタビューで文字通り献血に行くよう呼び掛けています。
自発性の阻害?
与田祐希 次の握手会やイベントなどでは、「(献血に)行ったよ」なんて言ってもらえると、私の言葉が届いたんだなと、とても嬉しく思います。
堀未央奈 誰かのために役立ちたいと思っている方は、絶対この機会に献血をした方がいいと思う。
山下美月 それと、献血を呼びかけるという、とても大きな責任感が私の頭のなかにあって、いつものお仕事以上に緊張しました(笑)。
堀未央奈 ファンの方同士でも、握手会の前や後に献血に行ったりして、「(献血に)行ってきたよ」っていう報告が増えると嬉しいです。
無償協力の阻害?
堀未央奈 だからこそ、誰かのために役立ちたいと思っている方は、絶対この機会に献血をした方がいいと思う。それに献血は「誰かのため」だけではないんです。血液の検査成績を希望すると、健康状態も知れて「自分のため」にもなる。
同 血液型を調べるついでに献血へ行くのもありかなって。血圧なども事前に調べてもらえるので、自分のためにもなりますしね。
星野みなみ 私自身も少しでも献血に協力したい気持ちでいっぱいです。そのために、もっと健康になって、いい献血ができるようにしておきます。
(注 半年後の取材で献血したかと質問されて誰も答えられず、逆にプライバシー侵害が問題と取材者が批判された。その後、海外公演参加により提供者の条件を満たさなくなったので、献血はおそらく未経験)
https://wezz-y.com/archives/70347
これを肴にちょっと思ったことをまとめようとしてぐだぐだになった。
基本的に、レズビアンに限らず、何らかのマイノリティはおおまかに以下のような流れで変遷していくと理解している。
この段階は、視聴者として言えばそもそもそのそのマイノリティの存在をそもそも知らない段階で、制作する側も(マイノリティを狙っているコンテンツならまだしも)マジョリティを狙う以上、同様に無視している状態。
例えば「オタク」を例にすれば昔の日本のドラマには全然登場しなかったし、「女性の社会進出」を例にしてもそういうネタは全然登場しない。
マジョリティ向けのコンテンツはマジョリティが理解できる範囲の世界しか描かないからこそマジョリティ向けなのである。
もちろんマジョリティに存在を無視され続けていたら流石に声を上げるようになるわけで、少しずつマジョリティの目には「新しい存在」が出てくる。
そうすると、今度はそういう「新しい存在」をバラエティ的に、面白おかしく消費する段階に突入する。
例えば「オタク」で言えば暗い部屋でニヤニヤしながらピザ食ってるようなのばっかり出てくるし、働く女性だって眼鏡かけてキツいだけの「テンプレートとしてのマイノリティ」がエンターテイメントに登場してくるようになる。
この段階では、視聴者はそのマイノリティを一つの(自分とは違う)属性として消費しているだけであって、別に理解を示したいわけでも何でもない。
ここで「オタクってのは本当はもっと多様だ」とか「働く女性の形はそんなんばっかりじゃない」とか騒いでも「いや別にドラマ見るときくらいそういう面倒くさいこと考えたくないしそもそも本筋じゃないよね?」というのが視聴者の感想だろう。
こうしてステレオタイプとして消費していくうちに、「これまで脇役としてテンプレートの形でしか登場してこなかったマイノリティの人たちを主役にした(ちょっと社会派ぶった、だけど受け入れやすい)コンテンツ」が登場してくるようになる。
オタクであれば「電車男」であったり、女性の社会進出であれば「働きマン」であったりと、スタート地点は上述のステレオタイプでありながら、そこに至った経緯やその人の半生にフォーカスをあることで、「マイノリティの人たちも頑張ってるんだね!」とマジョリティの人たちが暖かく見守ることができるコンテンツが登場するのである。
ここでようやく、視聴者は「記号化されていないマイノリティの人たち」を発見し、彼らについて一定の理解を示すようになっていく。
ただし、この段階はになっても「マジョリティがマイノリティの世界を覗く」という意味では観光やサーカスに近く、一種のファンタジーとして消費しているとも言える。
当たり前だが、マイノリティを主役にしたコンテンツはそれが希少だから面白いのであって、例えば「オタクを主人公にしたドラマが受けたから次から毎年一本はオタクを主人公にしよう」とはならない。
(なったとしても本当に一過性で終わっていく)
結果的に、視聴者の認識はファンタジーとして消費された時代からアップデートされないので、その頃のイメージのままで留まっている。
例えば、「電車男」以後しばらくの間はオタクの内面はウブでコミュ障のままだったし、「働きマン」以後長い間自らの身を粉にして働く女性が多数登場した。
かつてのように「偏見に満ちたまま適当にイロモノとして扱う」ことからは脱却したものの、描写の仕方がアップデートされないままなので、結局張られたレッテルが変わっただけに過ぎない。
そのうち、そういう「ちょっと特殊な扱い」で描写するのもだんだん飽きてきて、最終的に「普通にその辺にいる」扱いになる。
今のドラマに出てくるオタクは「何かに詳しいキャラ」をオタクと呼ぶだけに過ぎなくなり、内面の屈折したオタクだって多数登場するようになった。
ともすれば前時代のステレオタイプに戻ったように見えて、その実、かなり複雑化していると言える。
簡単に言うと、この雑に扱われる段階になってようやく「市民権を得た」状態となる。
ということで、上記の流れを踏まえて眺めてみると、レズビアンはまだまだ後進的に思える。
世界的にはアナと雪の女王に代表されるような、わかりにくい描写も増えてきて、少しずつ、多様性を獲得しているようには見えるのだが、日本に目を向けると、未だにレズビアンが主役のドラマは少ないように感じる。
(あったとしてもポルノ的な消費をされていて少し本流と違うというか)
それに対して日本ではゲイは「主役を張れる」レベルにまで一般化されつつあるのを感じる。
少し前までゲイは主人公(イケメン)のケツを狙うか、ナヨナヨしてるオカマかの二択だったのが、ようやく主役として一人の人間として描かれるようになったのだろう。
これは鬱病が再発したアイマスPがダラダラと書く、チラシの裏のような内容なので読まなくていいです。
頭と心のわだかまりを書き連ねて気持ちを整理したいだけなので。
※下記に書くアイマスライブ関しては全てライブビューイングでの視聴。
アイマスのライブもだが、他に好きなアーティストのライブを見ても気持ちとしては楽しいが、どこか何か物足りなさを感じて100%盛り上がれきれない。
恐らくこの時点で一度は寛解してた鬱病がジワジワとぶり返していたのだろう。セットリストを見返しても、盛り上がるの間違いないので演者側の問題ではない。
ただこの時点では気持ちとしては前向きだったり、行きたいと思える場所やイベントは多かったし、実際行動を起こせていた。
結果的に100%では無かったが、それでも7~8割は楽しめていたからお金と時間作って見に行った事は後悔してない。
ライブを見に行っている頻度としてはアイマス関係が多いのでアイマス基準で考えてしまうが、少なくとも2018年の初星宴舞やSS3Aの次点ではまだ楽しめていた。
正直な話、一度寛解するのに10年以上掛かった事もあって、鬱病がぶり返してきているという現実を直視出来ず、なんとなくその事に目を背けていた。
でも目を背けるのも限度があって、デレマスの6thの時点でとうとう鬱病の気配を無視できなくなっていた。
というのも、私の中で言う程盛り上がれなかった。
これもセットリストや演出は楽しめるものだったし、理屈としては不満なんて無い。寧ろ良いライブだった。
ただ、これをちゃんと楽しめないという事は病気の影響なのだろう。
そして「また鬱病と向き合わないとダメかと」諦め半分で思うようになった切っ掛けが今回のデレマス7thライブ。
2ヶ月前にやった公演に関しては、上記の事もあり行くかどうか悩みつつも結果的に行く事にした。
見た感想としては5割楽しめたかも微妙になっていた。行かなくてもよかった気がする反面、行ったことに対する後悔はしてない。
そしてまた、今月の公演に関しては行くかどうかかなり悩み悩んだ結果、
仮にチケットの抽選に応募した所で「チケットの抽選に外れてくれればいいのに」と考えてしまったので行くはやめることにした。
毎度の事なら振り返り上映もあるだろうしと思い諦めた瞬間、心の中が少し軽くなった。多分、自分が思ってた以上に重荷になってたんだろうな。
でもって今月の公演が終わり、セットリストやサプライズ関係を見てても、心があまり反応しなくなっていた。
中でもショックだったのは、自分の担当アイドルが久々にソロ曲歌ったり新曲貰ったりしているなんて本来なら歓喜するハズなのに、その担当の出来事すら興味を持てなくなっている今の自分が一番ショックだった。
あれだけ好きだったデレマスにもうここまで興味持てなくなっているなんてな。
いっその頃コンテンツ側がやらかして嫌いになれる事があるなら楽なのにな。
好きだった物に対してジワジワと興味を失っていくのって悲しいというか虚しさを覚える。
実際、公演を見なかった事に対して後悔の念が一切無い。
以前鬱病を患った時とはまた違う方向性で精神をジワジワと削られているんだなと思い知った。
ここまでつらつらと書いたものの、別に嫌いになった訳じゃない。
寧ろ、また好きになれたらいいなって思う。
戦後もGHQ主導でいろんな制度が整えられ、GHQに怒られない範囲で国内の指導者は自分とお友だちの利益を確保しようとした
この間、国民は指導者含めて、国家感や社会はどうあるべきかのような考えはなにも変わらず…
高度成長期は、もともとの日本人の勤勉性、というか、みんな同じように行動しようの根性と、いろんな設備の導入によって結果的に高度成長が実現された
この間も同じく全国民なんにも変わらず…
その後、今に至る…みたいな?
だって、安倍とか麻生とか見てる限り、彼らなんにも考えてないし、実際小泉含めその場のノリとお友だちの同士の利益のみ考えて政治してるじゃん?
それに国内の企業トップは、社員を生かさず殺さずでこき使う、これも軍部と同じ。
刀が銃に、銃がパソコンに、
変わっただけ?
だとしたら、日本が再び変わるためには中国に一回侵略されるくらいのことが起きないといけない?
別に広告自体がクソだとは思わないけど、インフルエンサーとか誇張広告はクソ。
広告や宣伝にいくら力を入れたところで、その商品自体の価値が上がるわけではない(周りが使ってるから価値が上がるみたいなものは一応あるけど)
だから広告に力を入れてる(高い金を払ってる)ってことは、価格に対する価値や質を下げてるって事になる。
じゃあ広告要らないじゃんって言うとそうでもなくて、僕ら消費者は商品がどんなものなのかって実際に使用してみるか分からないし、世の中にどんな商品があるか分からないから、その効果を知らしめるシステムとして広告だとか宣伝だとかは当然必要
その商品の効果を確かめるときにおいて、クソ邪魔なのがインフルエンサーとかステマとか言う奴ら。
「広告ですよ!」って物に対しては『ポジショントークだな』って言うのが分かって、ある程度の疑いの目を持って判断できる。そしたら『中立なポジションの人のレビューなり感想なりを聞こう』と思う事に対して、ステマとかインフルエンサーとか言う奴らが邪魔をしてくる。奴らのせいでレビューの価値が貶められて、良い物を探すコストが増えてる。
誇張広告って言うのは結果的に商品の価値を下げて、さらに良い商品にお金が流れるのを防いでる。当然そうなると質の高い商品を作るよりも、クソで安い商品を作って高い広告をした方が儲かると言う仕組みになって、世の中がクソまみれになる(なってる)。
映画ジョーカーが絶賛されている。わたし個人には違和感が強すぎた映画だった。ジョーカーやトーマスウェインが「らしく」なさすぎるから。米国内でも絶賛されてるのは社会福祉がそこまで充実してないことによる同調とかだと思ってる。
日本国内では、ジョーカーやバットマンのイメージがほとんどないと言っていいと思う。公開前に「あのピエロの映画見に行かない?ジョーカーとかいうやつ」などと会話するカップルを見た。バックグラウンドの共有というのがあまりできていないから、違和感は感じなくて当然だとは思う。
日本の作品で例えるなら、キザさのかけらもない怪盗キッドを見てしまった感じ。挙句、僕ちゃんが泥棒するのはお金くれない金持ちが悪いのだ!なんて言い出す始末。そんな実写映画見たい人がいるとは思えない。
トーマスウェインの例で考えるなら、実写化ドラえもんスネ夫視点で、出木杉君が差別的発言をしてクラスがスネ夫派と出木杉派に分かれた、みたいなストーリー。違和感すごくない??
ただ、この映画自体にはそもそもわからないようになっている部分が多い。ジョーカー(?)であるアーサーの妄想が混ざっていて、虚実混ざり合っているから。いちばん最後に急に場面が変わって、面白いジョークを思いついた、という辺りでそれまで見ていたものが全てジョーク(もしくは計画)である可能性が提示される。なら、アーサーは何者なんだ?
アーサーがジョーカーではないけれど、なんらかの計略を巡らして、バットマンを誕生させ結果的にジョーカーを生み出すような存在になる、という可能性もある。もしくはジョークかもしれない。でも、そんなことを思いつくのはとてもジョーカーらしい。
反対に、ジョーカーだ、と考えるとあまりにもジョーカーらしくなさすぎる。