はてなキーワード: 社会規範とは
「文章として自分の中で整理をしつつ、得た知見を共有」と書いてあるので、
示唆に富んだものと思い読んでみたら何が書いてあるか全く分からんかった。
・「アラサー・交際経験無し・風俗通い」という不名誉な称号を得る日はそう遠くないと実感した
・アラサー交際経験無しというのは社会規範に照らし合わせて問題がある
・熱中できる趣味を持っていて、心のどこかでは彼女より趣味を優先したいと思っている
・熱中できる趣味を持つのになぜ彼女が欲しいのか、なぜ私がマッチングアプリを使っているのか、プロフィール文章を読んだ相手は腑に落ちない
・同期は、私が本当は彼女が欲しいと思っていないのでと強い疑問を持っていた
・熱中できる趣味を持っているにも関わらずなぜ彼女が欲しいか、相手が納得できるような内容を考え、プロフィール文章に含めるべき
ということなのかな。
ワールドトリガーは胸のカップ数(バストサイズ)表記をやめてほしい。
A面は、ワールドトリガーの単行本カバー裏に記載されている女性オペレーターのみ胸のカップ数が表記されていることに対して、やめて欲しいと記載している文章である。
大本のページは削除されている。魚の拓本については御察しください。
A面に対するレスポンスは、A面が個人の気持ち表明だとしつつも権威化するために個人の気持ち以上のものを持ってきていることはいかがなものかという文章である。
<A面に対するレスポンス>
https://anond.hatelabo.jp/20221010163416
私が、なぜやめて欲しいかについて語る前提情報として、基本的なコンプライアンスのおさらいを挟む。
コンプライアンスという概念はアメリカで生まれ、日本に持ち込まれた。
英語表記でComplianceと書く、Comply(従う、応じる)の名詞形のことを指す。
https://www.astron-japan.co.jp/pdf/chapter_01.pdf
一方、日本における「コンプライアンス」は「法令遵守」だけではなく、「その背景にある精神や価値観、倫理観や社会規範に従うこと」の意味で使われる。
つまり、「法令」だけではなく「規範」「社会常識」「倫理」「道徳」ひいては「CSR(企業の社会的責任)」をも守る必要があるといえる。
https://www.bandai.co.jp/csrkids/whatscsr/
また、「社会常識」「倫理」「道徳」はその時代により変化していく。現代においては「ハラスメントをしてはいけないこと」も含むだろう。
「女子オペレーターのバストサイズのみ、単行本の裏表紙に記載すること」は、コンプライアンス違反に値すると思う。
現実世界でもあるだろうが、創作作品上でバストサイズを「胸の大きさを女子が気にする。大きいと男子が喜ぶ。胸の大きさという本人の努力でどうにもならない部分のある容姿をからかうネタにする」ことがある。「バストサイズネタ」と言えば、だいたいの人がどういう内容か想像できるのではないだろうか。
私は、バストサイズをネタにすることは、現実の子供たちが「バストサイズはネタにしていいことなのだ」「バストサイズは気にするものなのだ。自分のサイズはどうなのだろう」「(周りがからかってくる場合)からかわれても仕方がないことなのだ」と判断することが嫌だ。バストサイズをからかうことはセクシャルハラスメントである。それを善しとする社会になって欲しくない。
その上で、ワールドトリガーは商業誌として株式会社が出版する書籍である。広く流通するし、年齢制限がある訳ではなく、子供が主人公なこともあり、沢山の子供たちも読む。子供の教育に影響を及ぼすと考えられないだろうか。
ここで関わってくるのが、「CSR(企業の社会的責任)」である。
「子供を顧客層に持つ漫画等の作品を多数取り扱う会社」には「子供たちの教育に対して社会的責任がある」のではないだろうか。私は「子供たちの教育」とは、「現代社会」の「社会常識」でいくと、「ハラスメント防止」が含まれると思う。
私は、ワールドトリガーという作品が好きだ。作り込まれた世界観やランク戦のルール、読んでいてストレスの溜まらない精神年齢の高い子供たちのやりとり、キャラクター立ちしている登場人物、違法行為をしていそうなのに表向き明るい雰囲気の企業、そのどれもに魅力を感じている。
そのように好きな作品であるからこそ、私から見て「ハラスメントに繋がりそうなことを、CSRを守らずに行い続けている」、コンプライアンスに違反しているように感じるから嫌だ。また、CSRを口に出していることからもわかるかもしれないが、出版社が企業としての責任を果たすためにも(作者の同意を得たうえで)掲載しないことや年齢制限を設けることで子供への影響を減らすなどの対応がもっともだと考えている。
同人の自費出版であればバストサイズを記載していただいて何の問題もない。好きにすればいいと思う。しかし、自費出版でも一般書店に流通を持ったり、何万部も頒布したりするような大きな力があれば、企業まではいかないにしてもそれなりの責任を持つ必要があると思う。
なぜやめて欲しいかを記載したため、どのような対応を望むのかについて記載していく。
第一に、「今まで女性オペレーターだけバストサイズを載せていたけれど、考えてみたらバストサイズを載せる必要は無かったので、今後は取りやめる。過去の分は削除する」と発表したうえで、新規掲載なしかつ過去分削除することである。
第二に、何も言わず新規発行の巻や増刷分から削除していくことである。
第三に、男性オペレーターも登場させてバストサイズを記載したり、そもそも性別関係なくスリーサイズを載せることが挙げられる。
第四に、過去の名作たちの本の冒頭ページに挟まっているような「本誌は掲載当時の価値観で描かれたものであり、差別の意図はありませんでした云々」というような但し書きをつけて販売することである。
いずれも、作者に対応させるのではなく、企業として企業が対応する必要があると考えている。作者の趣味で時代にそぐわないステレオタイプの描写があったら、編集者が変更させるべきだと思うのだ。
正直、バストサイズも嫌だが、それ以上に「オペレーターは女性、技術職員は男性」「迅悠一のセクハラ」について引っかかっている。
バストサイズ以外の描写であればコンプライアンスに違反していそうでも問題ないだろう、なんてことは勿論ない。
特にセクハラである「同意なく他人のお尻を触る」ことは「強制わいせつ罪」である。
それも、「旧ボーダー」「S級」「未来視」といった「組織にいなくては困るような重要な人物」からされたら、断れない人もいる。その上で「断れない相手を選んで行っている」ことは最悪である。
「オペレーターは女性、技術職員は男性」はしれっと削除して欲しい。
「迅悠一のセクハラ」は犯罪でありコンプライアンス(広義)ではなく(狭義)で完全にアウトなため、何も言わず削除するという選択肢はないと考える。「今まで放置していたが、欠点や親しみやすさを醸し出すためのキャラ付けとして描くには軽率な選択だった。今後真似する子供が出たり、行っても良いのだと思われたりしても困るため、削除することにした」と発表のうえ、削除して欲しい。
いずれも、作者に対応させるのではなく、企業として企業が対応する必要があると考えている。作者の趣味で時代にそぐわないステレオタイプの描写があったら、編集者が変更させるべきだと思うのだ。
その他事項についても、作者に対応させるのではなく、企業として企業が対応する必要があると考えている。まだ刊行の続いているかつ、アニメ化をするような勢いのある作品であれば、作者の趣味で時代にそぐわない描写を編集者が変更させるべきだと思う。
私は休載後にハマった新規勢だ。ハマってすぐに迅悠一が最推しになった。
しかし、どうしてもセクハラに大して拒否反応が出てしまい嫌だと思った。セクハラさえなければ悩むことなく完璧に好きになれたのにと思ったこともある。
インターネット上で迅悠一のセクハラについて書いている人がいないか検索し、文章を探して読んでは大きく頷くこともあった。好きなキャラだからこそ受け入れがたかった。(勿論、読者が無理にキャラクターを受け入れる必要などない)
2022/10/12現在修正も何もないので、作者の中では現実世界のようにハラスメントは厳しく罰せられることだと社会常識が変わろうとも、迅悠一というキャラクターはセクハラを続けるのだと解釈している。それでも私は迅悠一が好きだが、罪には罰をと考えているため、企業内の就業規則等に従い、厳格な処分が正常に下されていることを願っている。
マンデ族は、特に西アフリカの西側に多く存在する。マンデ族は主に東マンデと西マンデの2つのグループに分けられる。
西マンデ族の一派であるマンディンカ族(マリンケ族、バンバラ族、ディウラ族)は古代西アフリカ最大の帝国を建国したと言われている。マンデ族には、ソニンケ族、スス族、リグビ族、ヴァイ族、ビッサ族などの小集団がある。
マンデ族は、沿岸の熱帯雨林からサヘル地帯まで、さまざまな環境に住んでいる。料理や文化、信仰も多様で、主に言語グループによって組織されている。現在、彼らはイスラム教徒が多く、カースト制度に従っている。
サヘル地域に住むマンデ族、マンディンカとソニンケは、個々の部族の所属を超越していると言われている。マンデ族の影響は、歴史的にすぐ近くの地域をはるかに超えて、サヘルとサバンナに住む他の近隣イスラム西アフリカのグループへと広がっていった。マンデ族はニジェール川を下るか、または陸路で貿易を行い、ガーナ帝国、マリ帝国、カアブ、ワスールーの拡大とともに軍事的征服を達成した。
マンデ語を話さないフラ人、ソンガイ人、ウォロフ人、ハウサ人、ヴォルタ人は、程度の差こそあれ、マンデ族の世界観、衣服、その他の文化財(共通の文字、建築、料理、社会規範)と密接に連携している。
何かツイフェミ界隈でまた脱コル云々が盛り上がっているようだけど
そもそも日本で女として生きてきて今まで「装飾」が求められた記憶なんて全くなく、
寧ろブスは可愛い服を着るなとかピンクを使うなとか化粧しても無駄だとか言われて育った側だから
日本において「装飾」が求められるのなんて容姿に恵まれた上澄みの女だけだと思うし
あたかも日本女性が装飾を求められているかのように言うから違和感あるんだと思う
日本において女性に求められているのは、「装飾」ではなくて「身嗜み」でしょ?
日本女性に課せられている数々の抑圧……ムダ毛を剃れ眉毛を整えろダイエットして細くなれニキビやシミソバカスをなくせ……こういうのを「装飾」とは呼ばないでしょ。あくまで「身嗜み」だよ。小さくなれ、ゼロになれ、見苦しくあるなという形の抑圧。「装飾」という言葉は相応しくない
「脱コル」って、元々の社会規範が異なる韓国の概念をそのまま日本に持ち込もうとするから違和感あるんだと思う
日本では整形は基本的に悪だし化粧は詐欺扱い、服装や髪形もナチュラルである事が求められ、とにかく遺伝子が生まれつき優れている天然美人だけが高く評価される
これは何も容姿に限った話ではなく、勉強においてもとにかくガリ勉を嫌う地頭至上主義で、院卒でも院の名前ではなく学部の名前で判断される
これは、いろいろと考えさせられるいい文章だと思った。永井陽右という青年を振り回すかのように語る内田樹。こういうマウントは嫌いじゃない。
ただ、内田が、
「感情の器」って、あくまでも個人的な身体条件のようなものだから。
というとき、何か逃げた回答のような印象を受けた。
たとえそれが自分の中から湧き出す内発的なものだとしても、大昔にアダム・スミスが道徳感情論で追求したように、何かのテコで共鳴し、社会の規範を構成するに至るメカニズムが何かしらあるんだろうと俺には思えてならない。
そういう感覚を身に着けるのにどうすればいいかと問うた永井氏に、家風だとか、弟子入りだとか、そんな表現を内田氏がするのは、けむに巻いているようにしか思えなかった。
家風にしても弟子入りにしても、そのつながり方が、社会規範にむすびつくメカニズムがあるはずだ。
アレックス・カーが20年前に書いた本で『犬と鬼』という著作がある。
おりしも建設省に代表される特別会計の闇が浮き彫りになった時代。
アメリカの7倍のコンクリートを使って日本の山河をコンクリートで固めようとしていた、公共事業のあり方に疑問を呈した名著。
その『犬と鬼』のなかでカーは、そんな日本に至った問題を解明するヒントは「徳の逆説」にあるという。
「徳の逆説」というのは、国家も人も同様に、自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する傾向があるという、カーが常々思っている真理を彼なりに名付けたものだ。
A・カーは、フェアプレイの精神といいつつ、七つの海を支配した大英帝国の事例、平等を錦の御旗にしていた共産主義者のトップが黒海に豪奢な別荘を保有し、人民は実質的に農奴と変わらない生活だったというソ連の例などを挙げつつ、最後に、和を貴ぶ日本人がなぜ明治の開国後、対外侵略に夢中になったかという精神性に触れてゆく。
「徳の逆説」は、身近なところでも当てはまる。口うるさい親や上司の説教がブーメランに思えてならない、という経験は誰もがしているはず。そして気が付くと俺も親父と同じことを子供に、という連鎖。
最近、想起するのはやはり旧統一教会。家族の価値を高らかに謳いあげておきながら、その活動が原因で多くの家族が崩壊している、といった、「おまゆう」問題。崩壊させているがゆえにますます高まる家庭の価値、という悪循環。これもA・カーのいう「徳の逆説」が見事に当てはまる。これは人が自分自身を規律しようとするときの動機付けのメカニズムなのだ。
内田と永井の議論のテーマのひとつである人権・平等。あたかも普遍的な原理についても、
それを概念として具体化して社会が取り込んだ過程を決して忘れてはならない。
アメリカの建国者の一人、トーマスジェファーソンは人権宣言を起草した当時、200人以上も奴隷を抱えていた。
これは矛盾というよりも、むしろ奴隷制にどっぷりと漬かっていたからこそ人権宣言が生まれたという「徳の逆説」のメカニズムを見るべきだろう。
どんなに薄汚れた社会であっても、一度高らかに掲げた理想は、その社会を真綿で絞めてゆく。欲望大全開の人民を前提にすると、民主政は成り立つのか。多数決をすれば少数者が圧政に苦しむのではないか、これがマディソン含め、建国者の懸念だった。しかし、為政者の徳(アリストクラシー)と、欲望とは別に社会で正しいと思うことに投票する、二重人格的な資質が人民に備わっていると信じて建国者はデモクラシーを設計した。裁判を通じ、繰り返し憲法の価値観をテストする、という振り返りをビルトインした設計は本当に優れたものだ。結果として、最高裁が突き付けた奴隷制と財産権の矛盾が、南北戦争の北軍の正当性を決定的にする。
内田の議論に戻ると、外付けの人権というテーマと同時に、内発的なものとしての感情の器という、とても重要なキーワードを出している。それは他方で外付け実装された人権と、どのような整理ができるのだろうか。
「人としてどうふるまうべきか」を子どもに刷り込むのは「家風」なんですよ。子どもたちは親の背中を見て、人間としての生き方を学ぶ。それは教科書で教えることじゃない。
これは、親子を中心とした自分史と言い換えられるのではないかと思った。さらにいえば、自分史は必ずしも親は関係ないかもしれないのではないか。つまりこれまでの人生、来し方がキーなのでは。
内発的なものと外付けのもの、この二つはやはり、きちんと切り分けて、そして二つが、どうつながってゆくのか。以下、自分なりに整理を試みる。
舶来の概念というのは明治以来、洪水のように入った。民法など契約法の世界は、ほぼほぼ圧倒されたし、戦後は憲法そのものがアメリカの経験に基づいたものだ。
しかし、日本の人権教育は、残念なことに、人権の普遍性を論証することに熱を上げてしまって、そもそも誰の内発的な経験がもとになっていたかという成り立ちのメカニズムを忘れた議論が多い。公共の福祉論などをいくら学説や定義を整理してきれいに論じても、だから何?の議論だった。
戦後、人権を外付け実装してきた日本は、そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要がある。それは教養として。
今現在、旧統一教会問題で話題の、国家と宗教というテーマにしてもそうだ。
政教分離のキーワードとなるのは、恐怖からの解放だ。宗教に悩まされ、その扱いに苦慮するのは古今東西の課題だ。宗教といかに折り合いをつけた制度設計をするか、古代ローマ時代からずっと抱えてきた。宗教的寛容、これが統治のカギだと気が付いたのはカルタゴに勝利した古代ローマ。
そのテーマに対して、新天地アメリカに到着したプロテスタントたちの子孫が18世紀になってメイフラワー号の協約を思い出して試みたのは、旧世界では試みたことのない壮大な社会実験だった。百家争鳴な多様性のなかで社会を構成するには、誰が正しいことを言っているのかは誰も断定できない、という前提に立つ必要が再確認された。それが言論の自由の関係では、20世紀初頭にホームズ裁判官らに代表されるように、自由市場の比喩が生まれる背景ともなった。
他方、旧世界のフランスでは、唯一の正しさを神に代わって宣言するカトリック教会の権威と苛烈な弾圧が恐怖であった。だから公共空間の合理化を徹底し、宗教を一掃する制度設計になった。フランスの言論の自由は、その意味でカトリックを否定する権利が原点となる経験なのだ。だからこそ、フランスでは今でも神を冒涜する言論というのが非常に重要な意味をもっていて、先日、仏風刺紙シャルリー編集長が英作家ラシュディ氏襲撃を非難したことの歴史的な背景は深い。
このように、人権というものは、何に対して恐怖してきた歴史があり、生まれてきたものなのか、という原点に思いを致すことが大切だし考えるコツだ。利他性じゃなくね。
それは、実は国によって微妙にコンテクストが異なるものであり、普遍的価値として昇華できなくもないけれども、むしろ司法を通じて、原点となった恐怖を大切に思い出す機会が重要で、その社会が、その真理を繰り返し確信し、制度を強化し、再生産する重要な仕組みなのだと思う。逆に言うと、普遍的な価値なら、なぜ何千年も克服できなかったかの意味を問うというか。
しかし、外付けの倫理として受け取ったものを、思い出すかのように歴史を振り返るのは容易ではない。戦後の日本の裁判所も含めて。
でも、それこそが日本の人権教育に欠如したものだということは個人的には強く思うところだ。
その意味では、外付けではない、外国の借り物ではない、内発的なもの、感情の器からみえてくる倫理、これは本当に大きな価値がある。
内発的なものを自省するうえで、もっとも大切なのは、自分の国や自分の家族、自分自身の歴史だと俺は思う。
自分や自分の先祖が痛い目にあってきた経験、あるいは他者を痛めにあわせてきた経験というのは、その人固有のものであって、その自分史や国の歴史を忘れてしまうと、あとは外付けの倫理だけが残る。国レベルで言えば、それは端的に明治以降の日本のアジアや欧米との対外関係であり、開国以降、アメリカに敗北するまでの戦争に明け暮れた体験に他ならないし、国家神道によって死生観まで国に洗脳されかけた手痛い経験だ。
歴史というと大げさだが、要するに「自分たちに最も欠けている資質を最も高く評価する」、おまゆう精神を自覚することだ。これは教養として学ぶというよりも、もう少し内省的なものだと思う。
自分が理想とするものと現実とのギャップを振り返る作業といってもいい。
自分に欠けている部分、そこにこそ追い求めている何か理想的な姿の反転がある、という振り返り。
ネイションとしていえば、戦争体験の振り返りが重要なキーになるし、国家と宗教というのは、国家神道と戦争という経験で痛い目をみているのであり、ある意味、輸入された欧米の経験を教養として追体験するだけではなく、日本人が原体験としてもっていた大切な教訓。愛媛県靖国神社玉串料訴訟(1997年)の最高裁判決は行政が戦没者の遺族の援護行政のために靖国神社などに対し玉串料を支出したことを違憲とした歴史的な判決で、戦争の経験がしっかり振り返えられた、という点で、司法の仕事としてとても大きなものを残したと思う。建国の精神を振り返るのが裁判所の仕事の一つだと思う。
しかし、戦後77年。戦争体験が風化するなかで、「あの時代を生き抜いた」という共通の体験、共通項として持っていたものがどんどん失われているのが今の時代。
50年前の高度成長期だったら、戦争で死んだ部下を思い出しながら、仕事にまい進し、酒場で同期の仲間と語り合う、とか、厳粛に生きるための厳粛な死が記憶としてあった。
「あの頃は」という共通の過去で人はつながることができた。それが内発的なものとして60年安保闘争を支え、水俣の闘争があった。外付けの倫理ではない、思い出としての切実さの空気の共有があった。
つまり、舶来の外付けの価値観と内発的な器は、その頃はわりと調和していた、といえるのだ。
それが、失われ、外付けの価値観だけが、カラカラと空回りし始めているのが今の時代の特徴で、失われつつある寛容性の正体なのだろう。
永井氏はそんな時代に生まれ育った。彼は対談のなかで、大学時代に
と、外付けの人権から始まったと語っているが、外付けのものにも普遍性のみに着目し、それが生まれてきたプロセスを振り返らない、人権教育の失敗が見て取れる。
また、日本国憲法に組み込まれた歴史への反省(前文含め)も記憶の風化とともに、個々人の内省が、時代への共鳴という形で、共感を醸成しなくなってしまっている。
それはかろうじて80年代までは存在していた。「おしん」が異例の1年間の朝ドラで始まってしばらくすると、
視聴者からは、おしんは私自身そのものです、という声が橋田壽賀子のもとに多数届いたという。
しかし、時代は変わって、平成から令和になって「あの頃」といえば、昭和の末期なのだ。
しかもそれをノスタルジックに思い出す、三丁目の夕日的な振り返りだった。さらには、あさま山荘であり、学歴社会、バイクを盗んで走る尾崎豊であり、バブルの思い出なのだ。それは、その遺産に苦しんだ次の世代にとっては共感を呼びにくいものであるし、自分たちの社会の重圧と、戦争の記憶との関連が薄まった。当然、日本国憲法のリアリティが失われ、右派から改憲論議が盛り上がってくるのは必然的なことだった。そんななか、統一教会が国の内部を白アリのように巣くって愕然とした先月から今月にかけての出来事というのは、忘れかけた宗教と国家の結びつきの恐ろしさを、突如呼び覚まされるものだったに違いない。
しかし、いずれにしても過去の記憶と憲法の規範が直接に結び付かない、その世代の経験、そこに、永井が紛争国の辺境の地を自分のテーマに選んだヒントがあるように思えてならない。
紛争のリアルがそこにある。そこに普遍的価値として大学生のときに知った人権、そして憲法の価値を、自分なりの振り返りとして再確認する、動機付けがあったようにも思う。
しかし、たとえ社会の人々と共有されないものであったとしても、ひとは自分史のなかで、どうふるまうべきかを動機付けられる。
私は逆に、子どもの頃はよく母親に殴られたり色々と物を捨てられたりされていて、そのときに「この家では力を持った奴は殴ったり物を捨てたりしていいんだな」と思ってしまったんです。そして中学生になって殴られたときに「よく見たら小さいし別に喧嘩が強いわけでもないな」ということに気が付きまして。それでそこからは自分が母親のことを殴りまくるようになりました。ひどい時はアザだらけでしたよね。父親も単身赴任でしたし。
といったときに、内田はそこにしっかりと気が付くべきだったと思う。
「全然、人権派じゃないね(笑)。」と返した内田に若干物足りなさを感じたのは、まさにそこだ。
動機付けられるものが、必ずしも、家風であったり、模範的なロールモデルとは限らないのだ。
この体験と辺境の地での人権探し、自分探しは、多分無関係ではない。
読んだのは20年前だが、年齢を重ねれば重ねるほど、彼のいう、逆徳精神の考え方が真理に思えてくる。
A clue to the problem may be found in what I call the theory of Opposite Virtues. Nations, like people in this respect, may pride themselves most highly on the quality they most lack. Hence “fair play” is a golden virtue in Great Britain, the country that attacked and subjugated half the globe. “Equality” was the banner of Soviet Russia, where commissars owned lavish dachas on the Black Sea and the proletariat lived no better than serfs. The United States prides itself on its high “moral standard,” while perpetuating racial and moral double standards. And then there is l’amour in France, a nation of cold-blooded rationalists. Or Canadians priding themselves most on being so distinctively “Canadian.” In Japan we must look at the time-honored ideal of Wa, “peace.” Wa means security, stability, everything in its proper place, “knowing what is enough.”Yet a persistent irony of Japanese history since 1868 is that for all the emphasis on peace and harmony, they are exactly the virtues that Japan did not pursue. At the end of the nineteenth century, rather than settling back to enjoy its new prosperity, Japan embarked on a campaign to conquer and colonize its neighbors. By the 1930s, it had already acquired a tremendous empire in East Asia; this inability to stop led to its suicidal attack on the U.S. base at Pearl Harbor, as a result of which it lost everything. Something similar is happening again. Perhaps Japan values Wa so highly for the very reason that it has such a strong tendency toward imbalance and uncontrollable extremes.
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=3920s
Sara Ahmed, "You Are Opressing Us!"
「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うためのプラットフォームを与えられ続けたり、あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時、そこにはいつもパフォーマティブな矛盾がある。しかしそれだけではない。そこであなたが目にするのは、権力のメカニズムなのだ。」
「自分がすでに抱いている信念を裏付ける証拠を求める欲望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。
侮辱的な言語行為が次々と述べられるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだという証拠を望んでいるから、である。」
この枠組みを非常に早い時期に的確に指摘したのが、イギリスのフェミニストとして知られるSara Ahmedです。
2015年のブログ記事でAhmedは、ガーディアン紙に掲載された、これ別の書簡なんですがこれも公開書簡です、
「個人に対する検閲や口封じを許すことはできない」というタイトルの公開書簡を取り上げます。
トランスジェンダーについてあるいはセックスワークについて特定の批判的見解を持つフェミニストたちが、
大学で沈黙させられているというふうに主張するものでした。ちょっとここ分かりにくいんですけど、
2015年の英国のこの文脈では、沈黙させられているというふうに主張しているフェミニストたちというのは、
階級的にもそれからジェンダー・モダリティという点でも、いわば多数派の側になります。
Ahmedは、公開書簡で取り上げられている例というのが実際には、特定の見解を理由にした検閲だったりノー・プラットフォーミング、
ノー・プラットフォーミングっていうのはイギリスの運動なんですけど、
イギリスの学生運動の中で採用されてきた戦略で、非常に危険で受け入れ難いと見なされた見解とか信念、それこそネオナチとかです、
そういうものを公開する機会そのものを提供しない、そういうのがノー・プラットフォーミングといわれるんですが、
ただAhmedは、この公開書簡で取り上げられている例が実際には、
そういう検閲とかノー・プラットフォーミングには当たっていなかったということを、事実を確認した上で、
にもかかわらずこれをあえて、キャンセル、検閲、口封じ、ノー・プラットフォーミングという形で主張することで、
これAhmedの引用なんですが、
「誰かがノー・プラットフォームにされたと言うために
そういう発言をするためのプラットフォームというのを実際には与えられ続けていたり、
あるいは口を封じられたことについて延々と話をしていたりする時に、そこにはいつもパフォーマティブな矛盾がある。
しかしそれだけではない。そこであなたが目にしているのは、権力のメカニズムなのだ。」。
検閲され口を封じられたはずの側がより力を獲得する、そういう目的のためにされていると。
だからこそ、検閲され口を封じられること、言い換えればキャンセルされることというのは、ここではむしろ求められている。
キャンセルされたいんですね、どっちかっていうと。
次の引用ですが、
「自分がすでに抱いている信念を裏付ける証拠を求める希望は、時に、その証拠を生み出すための挑発や威嚇につながることがある。
侮辱的な」、これoffensiveですね、「侮辱的な言語行為が次々となされるのは、侮辱され気分を害してほしいという欲望があり、
他者が気分を害するせいで『われわれの自由』が制限されるのだというその証拠を望んでいるから、なのである。」。
だからキャンセルされると、そのキャンセルされた人ということでどんどん力が集まって、むしろキャンセルされたい。
キャンセルされるために、より侮辱的な、よりoffensiveな言葉が発せられるという、そういう仕組みができてるというのが、
Ahmedの見立てなんですね。
「この書簡は、フェミニストの発言は自由になされるべきで、健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話を可能にするものだ、と考えている。しかし、トランフォビアや反トランスの発言を、ハッピーなダイバーシティの食卓で自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消するべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、対話などしようがない。あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議や対話」をするとしたら、「討議や対話」はそれ自体が抹消のテクニックになる。特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである」
学問あるいは言論の自由というものを支点とした、抑圧側と被抑圧側の逆転の構図、
表現を変えるのであれば、抑圧されて周縁化されてきた側からの異議申し立てを封じるための口実、
今日の報告では、90年代からこの図式が少しずつ洗練されつつ引き継がれた様子っていうのをざくっと見てきたわけですが、
その図式が現時点で到達しているのが、自由が侵害された口を封じられたという主張が、
実は封じられることもなく自由に繰り返され拡散されることで、力をさらに獲得している、
クリックとアルゴリズムの時代のキャンセル・カルチャーというパワーメカニズムだ、ということになります。
だからこそ私たちは、国家や強力な組織、経済あるいは社会規範の要請などから、学問の自由というものを守ると同時に、
現代の今2022年時点の学問の自由というのが、もろ刃の剣であること、学問の自由の特定の利用には警戒すべきであるということを、
忘れてはならないと思います。
最後にこういう自由の濫用というものをサバイブするためにAhmedが提唱した戦略を引用して、私の報告を終わりにしたいと思います。
健康で活発な民主主義のしるしである討議や対話を可能にするものだ、というふうに考えている。
ハッピーなダイバーシティの食卓で自由に表明してよいような、ただのありふれた観点として扱うことはできない。
食卓を囲んでいる誰かが、別の誰かを抹消すべきだと、意図的あるいは事実上主張しているときに、そこに対話など存在しようがない。
あなたを会話から抹消したがっている誰かと「討議あるいは対話」をするとしたら、
特定の討議や対話を拒絶することこそが、したがって、生き延びる鍵となる戦略になりうるのである」。
ありがとうございました。
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
(太字強調は筆者による)
わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。
電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
[児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律 第7条第6項]
児童ポルノを不特定若しくは多数の者に提供し、又は公然と陳列した者は、五年以下の懲役若しくは五百万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。
電気通信回線を通じて第二条第三項各号のいずれかに掲げる児童の姿態を視覚により認識することができる方法により描写した情報を記録した電磁的記録その他の記録を不特定又は多数の者に提供した者も、同様とする。
これらの表現はたとえ大人相手にしか売っていなくても有罪になる。
児童ポルノの方は基準がおおむね明確である(もちろん過激な水着などボーダーライン上のものはある)。
では刑法的な『わいせつな文章、図画』の基準はどこにあるかというと、現在の基準は『無修正の性器』である。だから、大人しか見ない(ことになっている)アダルトビデオやエロマンガであっても日本では性器にはモザイクをかけねばならない。肛門はセーフである(はず。少なくとも2021年に発売されたアダルトビデオで無修正の肛門が映っている作品は複数確認している)。もちろん『修正が甘い』と判断されると違法になることはあり、以前薄消しが流行ってビデ倫の関係者が逮捕されたことがあるし、逆に『モザイク破壊』ものを制作した人も逮捕されたはずだ。
余談だが、AVで女性器内を内視鏡で見るシーンなどではある程度中に進むとモザイクが外れているのでどうやら基準は外性器らしい。
古典芸術(ダビデ像など)も例外であると考えられるが、ここでは一旦その是非は置いておく。
実は『18禁』に関する唯一の法的根拠はここにある。だが仕組みは分かりづらい。
条例そのものは多数の都道府県にあるが、東京都の条例を取り上げる理由は後述する。
この条例は『青少年に見せるには有害』であるコンテンツについて規定している。『大人が見ても有害』は想定していない。
そしてこの条例では『表示図書類』についての定めがある。いわゆる『18禁』である。
第七条 図書類の発行、販売又は貸付けを業とする者並びに映画等を主催する者及び興行場(興行場法(昭和二十三年法律第百三十七号)第一条の興行場をいう。以下同じ。)を経営する者は、図書類又は映画等の内容が、次の各号のいずれかに該当すると認めるときは、相互に協力し、緊密な連絡の下に、当該図書類又は映画等を青少年に販売し、頒布し、若しくは貸し付け、又は観覧させないように努めなければならない。
一 青少年に対し、性的感情を刺激し、残虐性を助長し、又は自殺若しくは犯罪を誘発し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの
二 漫画、アニメーションその他の画像(実写を除く。)で、刑罰法規に触れる性交若しくは性交類似行為又は婚姻を禁止されている近親者間における性交若しくは性交類似行為を、不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を妨げ、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの
第九条の二 図書類の発行を業とする者(以下「図書類発行業者」という。)は、図書類の発行、販売若しくは貸付けを業とする者により構成する団体で倫理綱領等により自主規制を行うもの(以下「自主規制団体」という。)又は自らが、次の各号に掲げる基準に照らし、それぞれ当該各号に定める内容に該当すると認める図書類に、青少年が閲覧し、又は観覧することが適当でない旨の表示をするように努めなければならない。
『18禁』をつけているのは誰かというと、基本的には出版社等の発行者自らもしくは自主規制団体がつけている。そのようなコンテンツは青少年に見せないようにする旨が書かれている。
それに対し、「出版社は18禁扱いしていないけれどこれは18禁にするべきだろ」というコンテンツは出てくる。そのようなコンテンツがいわゆる『有害指定』を受ける。
第八条 知事は、次に掲げるものを青少年の健全な育成を阻害するものとして指定することができる。
一 販売され、若しくは頒布され、又は閲覧若しくは観覧に供されている図書類又は映画等で、その内容が、青少年に対し、著しく性的感情を刺激し、甚だしく残虐性を助長し、又は著しく自殺若しくは犯罪を誘発するものとして、東京都規則で定める基準に該当し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められるもの
二 販売され、若しくは頒布され、又は閲覧若しくは観覧に供されている図書類又は映画等で、その内容が、第七条第二号に該当するもののうち、強姦等の著しく社会規範に反する性交又は性交類似行為を、著しく不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を著しく妨げるものとして、東京都規則で定める基準に該当し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあると認められるもの
そして重要な点として。東京都で有害指定を受けた書籍は、取次が扱わなくなるため“事実上”販売できなくなる。
ではその『一般指定』と『18禁』を分ける基準であるが、実のところ『器具の使用や人格否定などの表現(星崎レオ氏のtweetより)』はそれほど重視されていないと考える(出版社が受けている指導として編集者経由でそのように聞いたのかもしれないが…)。
増田が審議会の議事録を読んだ限りで言うなら、主なポイントは『性行為描写』ではなく『性器描写』である。
(というか、これは増田の個人的意見であるが『性行為描写』を基準にする方がアホらしいと思う。まさか『男性器を女性器に挿入する行為』だけをアウトにして他は野放しにもできないだろうが、『では何を広義の性的行為としてアウトにして何をセーフとするか』に基準が作れるとは思えない)
性器が無修正だとそもそも刑法175条違反というのは先述したが、『性器+モザイクなどの修正』だと基本は18禁になる。そこで『白抜きだけれど性器の輪郭ははっきりしているか、いわゆる“謎の光”で周辺含めて飛ばしているか』といったことが議事録には書かれている。(それがバカらしい、という点は増田も同意する)
その点で言うなら、星崎レオ氏に関しては有害指定された該当書籍は分からないが、、それ以前の単行本では『男性器の輪郭が分かる白抜き』が使われており、正直かなりボーダーライン上ではある。
もっとも、女性に関しては「そもそも股間に何も描かない」という手が使いやすいのに対して男性でその手は使いづらい、というのはあるだろう。
だが一方で、男性器と女性器は平等に扱うべきであり、男性の肛門と女性の肛門も平等に扱うべきだとも思う。胸は平等ではないと思うが。
しかし社会は両立させることが正義で、両立させないことは悪、何ならハテナでは育児放棄する父親はDV野郎みたいな感じになってるじゃん?矛盾してね?
特に日本人はとにかく臭いものに蓋をしたがるし、見たくないものを見ないようにするためならどんな支離滅裂なストーリーも平気ででっち上げる。
ていうかマジな話、仕事も育児も要求水準はどんどん上がる一方なわけで、俺やお前らは自分の能力や体力がそれに追いつく勢いでどんどん上がってると感じられるのか?全くそんなことないだろ?昔の小学生が1年かけて習得したことを1ヶ月でどうにかできるようにはなってないだろ?だったら全部やるのは無理なんだよ。どう考えても。