はてなキーワード: 人工知能学会とは
そこまで言うならいかにBLが「正しくない」ジャンルなのかを説明してあげるね。まあどうせ釣りなんだろうけど。
なんか勘違いしてるかもしんないけど、BLの最大の問題点はエロとかじゃないからね。エロはあくまで付随的な問題。
女性を一方的に鑑賞される側におき、客体として消費することはフェミニズムにおいて長年批判の対象になってきた。女が、男に都合の良い客体である鑑賞物のように扱われることはよくないことである、という主張は強い賛同を集めてきた。とりわけ、女性差別が存在する現状においては。
であれば、同性愛者差別が存在する現状において、ゲイを、女に都合の良い鑑賞物のように扱うこともまた、よくないことだと言わなければならない。これは論理的に当然導かれる帰結だ。
要するに、BLはエロいから問題なのではない。マイノリティを客体化し、都合よく消費しているから問題なのだ。
とはいえ、抽象論だけ言われてもわけがわからないと思うので、具体的にどういう点が問題なのか説明してみよう。
何年か前、人工知能学会をめぐる炎上が起きたことがある。人工知能学会という学会が出している学術誌の表紙に、箒を持っている女性型ロボットのイラストが掲載されたのだ。これはまったくエロではないがフェミニストを中心に猛烈な非難が浴びせられた。
このイラストが批判されたのは、女は男に従属して家事をするものである、という女性に対する偏見やステレオタイプを助長するからだ。もちろん、日本には多くの専業主婦がいる。だが、たとえそれが統計的傾向として事実であっても「女は家事」というのは偏見でありバイアスである。そのようなジェンダーバイアスはけしからん、というのが批判側の主張だった。
NHKによるノーベル賞解説記事で聞き手役としてキズナアイが選ばれたとき、番組の構成や彼女の振る舞いに対して「男が解説し女はふんふん頷くものだというジェンダーバイアス」「女に理数系のことはどうせわからないという偏見」のような批判が浴びせられたのも記憶に新しい。
ところで、現代において、男同士のカップルには「男役と女役がある」あるいは「挿入する側とされる側は固定されている」というステレオタイプがある。実際に固定しているカップルもいるだろう。しかしそういう問題ではない。問題はそれが偏見やバイアスを助長するということなのだ。
つまり、攻めと受けとを固定している時点で、「女キャラは全員家庭に入って家事をしている/することを希望している」並の偏見に満ちた作品であるということになる。あるいはそれを暗示するのと同じことだということになる。
すなわち、CPの左右を固定している腐女子には、「この作品におけるこの描写はジェンダーバイアスなのでは?」などと物申す資格はない。
なるほど女がBLを真似て性犯罪を起こすことは身体の構造上ありえないかもしれない。だが女もゲイへの偏見の流布の加害者になりうる。
これはあくまで一例に過ぎない。他にも「『優しい世界』は差別の透明化なのでは?」「非当事者がマイノリティのセクシュアリティを題材に創作するのは文化の盗用だ」「同性愛かどうかを明示せずに『匂わせ』て視聴者を釣るのはクィア・ベイティングであり搾取だと思う」など、ポリティカル・コレクトネスの観点から見たときにBLは様々な観点から問題視されうる。
繰り返す。エロの問題ではないのだ。女性文化としてのBLは根本的に「正しくない」。
そしてもちろん、「正しくない」ことは「滅ぼすべき」を意味しない。開き直って「正しくない創作でも堂々と存在してよい。それが表現の自由だ」と吼えることもできる。というよりも、そう吼えるしか、BLにとって生き残りの道はもはや存在しない。
俺は長年の田中芳樹ファンだけど、残念ながらその頃と今回とでは「当たり前の批判」の社会的意味が違うんだよ。認識をアップデートしてよ。
タイトルの通り増田は20年来の銀英伝ファンですが、私が銀英伝を知りネットの掲示板や個人サイトなどを見始めた当時から、ファンによる「銀英伝の女性キャラはステレオタイプ過ぎる」とか「田中芳樹は女性を描くのが下手」みたいな批判は当たり前のものとしてありました。今回炎上した冒頭のツイートもそれと同系統のものであり、作品内の女性の扱いに対する感想としては見慣れた内容で特に違和感はありませんし、個人としての違和感を述べたうえでリメイクにあたってのアップデートを希望するものであって、それ自体問題があるものとは思えません(なお、「Die Neue These」はリメイクではなく「原作の再アニメ化」なので、その点は事実誤認なされているものと思います)
うん、銀英伝のファンのあいだでは「あいつ女を描けてねーよな」みたいな評は普通のものだったよね。そういう意味で、例の社会学者氏のツイートの認識はごくありふれた銀英伝認識を示したものだといえる。それだけを切り取ってみれば特に叩かれる要素はない。
でもさ、
ことと、
twitterという、簡単に支持者を社会運動に動員できるプラットフォームで、これまでさんざんコンテンツを燃やしてきた社会学者っていう属性の人が、表現の内容を変えるべきだと口を出したら、単なる批評の域を超えて作品へのバッシングを煽動してるようにしか見えないんだわ。
ジェンダーがどうこうというのも、そういうバッシングの際によく使われる常套句だからね。
「あっ、この状況、キズナアイバッシングで見たことある!」って思っちゃうんだよね。
実際にそれらの描写を変更すべきか否かはそれぞれで判断が異なるのは当然としても、こうした意見に対して「現代にそぐわないから変えろって言いだす社会学者やべえ」などと嘲笑するのは原作者のスタンスを含めて明らかに論点を見誤っていますし、「銀英伝を燃やしに来た」などと反応するのは過剰です。挙げ句に社会学者というツイート主の職業にフォーカスしてその職業全体を否定するような言説まで行うのははっきり言って異常だと思います。
もちろん、昨今のネットの社会学バッシングはどう考えてもおかしい。一部のおかしな社会学者の存在で以て学問としての存在意義まで否定されるべきではない。
ところで、「すべての男がそうじゃない」みたいな言い訳をする男に対してノットオールメンって言ってきたのってどういう人たちでしたっけ?
文系のはしくれとしてはノットオールソシオローグスと言いたいところなんだけど、フェミニズムに同調して社会問題に口を出してきた社会学者がそれを言うことは、まあ論理的一貫性の問題を惹起するよなあ。
本件もそうですが、ポリティカル・コレクトネスを巡る議論においては「過剰なポリコレを押し付けるな!」などと主張する批判側にも個人の意見に対して過剰かつ攻撃的な言動を繰り返す「反ポリコレを旗印に個人を抑圧するネット憂国騎士団」みたいな存在も目立ってきており、まともな議論が成立しづらい状況になっているように思います。
マトモな議論が成り立ちにくい環境を作ってきた責任を反ポリコレの側「だけ」に求められても困るんですが。
ポリコレが高邁な理想としての側面しか持ち合わせていなかったのであればともかく、実際には他の表現を抑圧する棒として使われてきていたという前史があった上での反ポリコレ側の過剰反応でしょう。
つい最近起きた騒動にだけ目を向けても、ジェンダーを専門とする社会学者によってキズナアイがバッシングされ、フェミニズムを掲げる弁護士や研究者によって献血ルームが攻撃され、「ミカンはお母さんが買うもの」などと宣うフェミ学者たちがラブライブの農協コラボを焼きに来た、といった話があって、その上で今回の社会学者氏の感想への過剰反応があるわけ。
ポリコレ棒でヒステリックに殴られてきた側がちょっとでもポリコレっぽく見えるものにヒステリックに反応するのは自明の理では?
悪いけど、ポリコレ棒を振り回して暴れ回ってきたポリコレ憂国騎士団の皆様にはもうウンザリしてるんだよ。
だからといってこちらも憂国騎士団ムーブをしていいことにはならないけど、ポリコレ側の憂国騎士団ムーブのことを棚に上げて反ポリコレ側だけを憂国騎士団と言われても困惑するほかないんだよね。トリューニヒトみたいな詭弁やめろ(憤怒)
実際問題、2013年の人工知能学会表紙事件以降、表現(特にオタクコンテンツ)をネットで叩いて社会問題化し、金と名声を得るというのは、社会学者の定番になってる。最も顕著だったのが宇崎ちゃん献血ポスター騒動
いや、ネットで表現を燃やしたところで影響力とか声望とか自尊感情とかはともかく金は得られんよ(少なくとも学者の世界では)。金目当てで彼らが動いているというのは被害妄想がすぎる。そりゃ有名どころのレーベルで新書とか書けばまとまった金は入ってくるかもしれんが、彼らは現段階ではtwitterで吠えてるだけで別に一般向けに売れそうな本を書いているというわけでもないし。
この界隈Twitterさえ見なきゃ起きてない論争多くない?ほぼネットそれもTwitterでしか「社会学者」を知らなそうな人多くない?
そりゃ、多くの人には表現を燃やしに来る「社会学者」の姿しか見えてませんし……
アカデミアあるいはそれと近いところにいれば、社会学といっても色々あって、ハマータウンの野郎どもを研究する人もいれば聖なる天蓋を論じる人もいて、ジェンダーやオタク文化に関心を持っているのは一部であり、表現を燃やしに来るのはさらにその限られた少数に過ぎず、もっと言えば社会学者といっても博士課程の院生から誰もが参照すべき大御所まで「権威」に勾配があることくらい理解しているだろうし「社会学者」を十把一絡げに論じるべきじゃないっていうのは自明の理なわけだけど、燃やされた被害者からはそのごくごく一部の姿しか見えないので。
アカデミアと縁のないそのへんのオタクにとって、哲学者や数学者や工学者や物理学者や言語学者や文化人類学者なんてろくずっぽ知らないのが「普通」でしょう。普通の人は良かれ悪しかれそんな学問について詳しい知識は持ってないんだよね(漠然としたイメージは持ってるかもだけど)。だからtwitterのオタクがロクに社会学者について知らないってのもある意味当然なのよ。
そんな学問についてよく知らない一般大衆は、まあ、自分たちの表現を燃やしに来た一部の社会学者の姿を見て「社会学者」のイメージを形成しちゃうよね。
もちろん「そんな社会学者ばかりじゃない」という異議申し立てはどんどんやればいいと思うよ。「そんな男ばかりじゃない」と同程度には正当性のある反論だろうし。
『ムーラン』と『銀河英雄伝説』が同時並行で話題になってホッテントリに出まくってるのに誰も『風よ、万里を翔けよ』の話してないのおかしくない!?
「青識亜論」氏と「架純」氏の対話から見える『AIさくら』問題
https://togetter.com/li/1483780
https://togetter.com/li/1434382
しかし当時と言い今回の人工知能と言うか人工無能と言う代物を嫌っている時点であの人達が純潔教育やキリスト系カルトとの関係が強いのも多いと言う話もある意味納得できるのも不思議。
この人達赤十字やJAの件から間を置かずにすぐにコロナ騒動で世間も険悪の中で寄りにもよってJR東日本にまで喧嘩を売っているのだから正気じゃないよね。
こうしてみると大口ばかりだよ。
普通に考えれば後が怖すぎだよ。
それとコロナとかでも一部のまだ予定や作業日程上、どうしても止められないから仕方なく仕事をしている所に対して、わざわざ止めさせる様なクレームの電話もあると言う話も聞いて、言う事だけ言えば、胸がスッとしたとかストレス解消目的の話も聞いたから、大方この様な行為はストレス発散目的でクレームをつけているのもあるのかも知れないね。
今は大部分は自粛ムードだけど全ての所が止められるわけではないのは判るだろうにね。
ただでさえ今は景気も底が突き抜けて、経営が苦しい所も多いからね。
またこの言う事だけ言って胸がスッとしたような類似の話は当時の赤十字の一件でも見られた事だしなー。
何にしろこの様な非生産的な行為やクレームばかりつけていればますますこれ等フェミニストこそ世間から毛嫌いされ、反社会勢力と認知されつつある状況を招いているのは必然だよ。
こんな事を続けていれば、今にこれ等の連中や団体の話も議員もまともに取り合わなくなっていく事だろう。
ようはフェミニズムやら子供の権利やら女性の権利やら弱者の権利を盾にして、体裁整えているけど、実際やっている事は弱者の権利を盾にしてお気持ちや思想を押し付ける道具に使うと言う生半可なクレーマーよりも余程悪質な行為をしているクレーマーだとしか言いようがないのだから。
https://togetter.com/li/1483947
世間がフェミニストの要求を無視してまともに取り合わなければ良いだけ。
本来あるべき解決策:男性型アンドロイドにも掃除をさせる絵を載せる
なのに、女性型アンドロイドに掃除をさせたのは配慮が足りませんでした。サーセン。
変な話だけど今から書くことには同意しないで欲しいただ吐き出したいから吐き出す。俺は人工知能学会の一件あたりからフェミニストがクレームつけてる様子を観察してきたけど、難しいとは言えなんだなんだ対話して妥協点を探ることは出来ると思ってたし攻撃に対して対話を重んじる勢力の姿勢には尊敬し賛同してきた。でも最近の暴走を見てるとフェミニストとの対話は不可能でアホを鉄砲玉にして大量に突撃させて潰すしか道がないように思えてきた。そもそもブロックで話しようがなかったり話してもそれをすぐに反故にしたり対話してどうにかなると思えない。現状を鑑みて対話しようとしてるのはWW2前の英仏がやった宥和政策みたいなものでただいたずらに敵の力を増大させるだけじゃないのか?当然こんなことをすればフェミニストと同じレベルになるんだろうけど一方的にボコボコにされてる現状は同じレベルどころか下のレベルに甘んじてるだけだろとしか思えない。頭では今書いたことがおかしいことなのは分かってるしだからこそ最初に同意するなって書いたわけだけど好きなものを攻撃され続けて感情をおさえるのもさすがに限度がある。多分俺はフェミニズム論争から離れて休むべきなんだろうけどラブライブとか宇崎ちゃんとか身近なものが攻撃されるとフェミニズム論争から逃れるのは好きなものを放棄するのと同義になってそうなったらいよいよ好きなものを捨てさせられたことに対してフェミニストに怒りを抑えきれなくなる。もしかしたら第二の余命三年時事日記事件を起こしてしまうかもしれない。なんとか穏便にこの流れが収まって平和になって欲しいそうしないと本当に気が狂いそうだ
私もオタクで表現規制反対だけど、それとは別に『萌え絵は有害であり、公共の場所に出す前に対策が必要だ』というのはいい加減にオタクもオタクでない人も事実として共有した方が良い。
今回のラブライブとJAコラボポスターや、それに先行する形となった宇崎ちゃん献血ポスター、キズナアイ、ラノベ表紙、のうりんポスター、碧志摩メグ、駅乃みちか、人工知能学会表紙などの騒動を見ても明らかだ。
萌え絵を見るだけで一部のフェミニスト、社会学者、弁護士、画家や彼ら・彼女らを支持する人は理性を失い、やたらと攻撃的になり、
自分とキャラクターの区別がつかなくなり、わけのわからない主張を始めるようになるという害がある。そのことはみんな良く分かっただろう。
だから、萌え絵を社会に出すにあたっては対策をする必要があるのではないかと思う。
つまり、そのように萌え絵を見ただけで理性を失うような人たちには強制的に治療を受けさせるなども考えたほうが良いのではないか。
「男の作った作品」という全般の概念が叩かれる事は多いが、やり玉に挙げられるのはハレンチ学園とかくらいで
実際はそんなに叩かれる事は少ない。
逆に人工知能学会の絵、女の世界は~系、ハーフの女を生みたい、女の友情は~等々、
対象者がはっきり特定されるものの大体は、女性が企画したり、表現したりしてるという事が多い。
ひょっとすると、女性より男性の方が、そこら辺の「セクハラ」の概念に対してはセンシティブなのかもしれない。
「アイズ」なんかも、水着姿を撮って雑誌に載ったのをからかわれたヒロインを主人公が守ろうとしたり、
盗撮魔から救おうとしたり、「女性を性的に消費する輩から守る」というヒーローを演じたいという少年たちの欲求を描いている。
男は女性を「女性扱い」するから、そういった男の生理的欲求を兎に角悪として描こうとする。
ハーフの女を生みたいとか、女の友情は何々とか、男が描くと逆にブレーキがかかったのではないだろうか。
逆に女性作家は、女性を「人間扱い」する。ハーフの子を産みたいだとか、目の死んだ女ロボットとかを、当然の生理や現象として捉えて描こうとする。
男の反応にしても、大半の男は欲求に素直なので、ヒーローを描いたりせず、エロに沸き立つ男を率直に当たり前の生理的欲求として描く。
フェミニストが「男が女を守ることが前提の社会」を目指しているのはよく指摘されている。
スラングで言われるような「チンポ騎士」に囲まれた生活を良しとして、それを当たり前で当然だと思っている。
差別と表現規制の話題を,人工知能学会誌表紙,キズナアイ,宇崎ちゃんポスターと追っているが,フェミニスト側の立論の雑さが目立つようになってきた.フェミニストによると,これらの表現は
という.
この2点について,多くの規制反対論者が「エビデンスはあるのか」と問うてきたが,フェミニスト側は真面目に答えようとしてこなかった.ここでは,市民にエビデンスを提供することが期待されているであろう,社会学者たちがいかに知的不誠実な態度に終始してきたかを見ていきたい.
ここでいう「エビデンス」とは evidence based medicine (EBM; 根拠に基づいた医療) や evidence based policy making (EBPM; 根拠に基づいた制作決定) におけるエビデンスで, 単なる「根拠」「証拠」より強い意味を持つ.例えば,EBMにおいては下記のようなエビデンスレベルというものがあり,一口にエビデンスといっても質の強弱がある:
I | システマティック・レビュー/RCTのメタアナリシス |
II | 1つ以上のランダム化比較試験による |
III | 非ランダム化比較試験による |
IVa | 分析疫学的研究(コホート研究) |
IVb | 分析疫学的研究(症例対照研究、横断研究) |
V | 記述研究(症例報告やケース・シリーズ) |
VI | 患者データに基づかない、専門委員会や専門家個人の意見 |
もちろん,社会科学分野では完全なランダム化比較試験は難しいという事情はあるだろう.それでも,行動心理学の研究や,具体的な事例の紹介はできるはずだ.以下で指摘するのは,表現規制の議論において,社会学者たちが,質の高いエビデンスを提示せず,最も低い「VI 患者データに基づかない、専門委員会や専門家個人の意見」相当の論考しか提示してこなかったという怠慢である.
宇崎ちゃん事件の発端となったのは弁護士の発言であったが,しばらくして,牟田氏による下記の論考が出た:
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68185
女性差別撤廃条約(1979年国連採択、85年日本批准)はジェンダーに基づくステレオタイプへの対処を求めており、日本政府への勧告でもメディアでの根強いステレオタイプの是正を重ねて求めている。
たとえば第4回日本レポート審議総括所見(2009年)では、勧告の項目「ステレオタイプ」に、「女性の過度な性的描写は、女性を性的対象としてみるステレオタイプな認識を強化し、少女の自尊心の低下をもたらす」と警告している。
上のエビデンスレベルに照らすと,条約や所見は最も低いVIに該当するであろう.もちろん,所見を作成する上で何らかの質の高いエビデンスが参照されている可能性はある.残念ながら,そのようなエビデンスがフェミニスト側から提示されることは現在までない.
と,有害性は明らかであるとする.自治体のガイドラインは炎上しないためのHow toであり,これに抵触したからといって即時に性差別にあたるわけではない.例えば,日弁連のポスターですら,形式的にはガイドラインに抵触することが指摘されている:
https://togetter.com/li/1425795
こういう立論の雑さが「お気持ち」と揶揄される一因になっているのではないか.
キズナアイ事件の発端となったのは千田氏による下記の論考である:
https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181003-00099158/
「相槌」がなぜダメなのかと思うかもしれないが、社会学では「権力」は相互作用の場面からもつくられていくと考えられている。コミュニケーションの場において、どのような言葉が交わされ、どのように会話が達成されるのか。コミュニケーションは当然、社会システムのなかで行われ、そしてまたその社会システムを再生産するのだ。
このNHKのサイトで「キズナアイ」に割り振られた役割は、基本的に相槌である。それは、従来「女性」に与えられてきた役割である。ある意味で、性別役割分業を再生産していると言えるのだ。
「性別役割分業を再生産」というのが上の「1. 現実の性差別・性犯罪を助長する,あるいは直接女性を加害する有害性を持ち」にあたるだろうが,この点に対してエビデンスは示されることはなかった.問題になっているキズナアイのイラストのように,ポルノとは言い難い軽度の性表現がどの程度人の行動に影響を与えるのか,質の高いエビデンスを示してほしい.
https://twitter.com/chitaponta/status/1047386005139906560
ズナアイは可愛いし、別に愛でてくれていいし、ノーベル賞のサイトから引き上げてくれとか要求もしてなくて、今後、同様の企画を作るときは、少し考えてくれと言っているに過ぎないんだけれど、「誰も傷つけていない」「考えすぎ」というのは少し違うと思う。思春期の自分は、やっぱり傷ついたから。
自分が年をとると快適で、性的対象として見られることがときに女性をいかに傷つけるか、想像もつかないことは理解できる。自分の趣味にケチつけられたら、腹も立つだろう。
ここでも,氏の言う加害がどの程度普遍的に通常人に成立しうるのか,なおかつ公共空間から排除すべき加害性なのか,提示されることはなかった.もちろんこれが社会運動なら,こういった「共感」に訴えるだけで事足りるだろうが,当該分野の専門家としての発言が「共感」に終わるだけでは,なんというか残念.
千田氏自身は,法規制を求めているわけではなく「市民的公共性」から自主規制を求める立場であるとする.なるほど,権力の介入を避け,市民の議論によって線引がなされるべきというのは同意できる.その上で,学者として,市民の議論の補助となるエビデンスを提示してもらいたい.
今年の4月,フェミニストから称賛された上野氏の祝辞があった.
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message31_03.html
上野氏は祝辞という限られた環境ながら,種々の研究を紹介し,数字を引用し,現在の社会にある男女差別を提示してみせた.統計の扱い方には色々と難があるし,私とて上野氏の思想で同意できるものの方が少ない.しかし,ここで注目したいのは,エビデンスを提示しようとする上野氏の姿勢と,表現規制でエビデンスから逃げ回る社会学者たちの姿勢とのコントラストである.
その①
https://anond.hatelabo.jp/20191120183622
その②
https://anond.hatelabo.jp/20191120185300
その③
https://anond.hatelabo.jp/20191120185607
・続いて、「グラビアが表紙の雑誌も撤去すべきだ」と言っている
→これはまさに表現規制であり、終わりがない。一歩も譲るべきではない
#家事をするのは女性、というジェンダーロールの押し付けであるとされ炎上
#体形を強調し乳首が浮き出ている、上気し男性に媚びた表情であり不適切とされ炎上
・のうりん
#企画内容と無関係な胸の露出、煽情的な顔つきが不適切とされ炎上
#男性の教授役に対して生徒役の女性、という配役設定がマンスプレイニングであるとされ炎上
#女性の身体を明らかに強調した絵を、無関係な献血のポスターに使用し公共の場に掲出することは環境型セクハラであるとされ炎上
・太田弁護士は女性のジェンダーロールについて批判をする一方、「容貌に劣る男性がマッチョにあこがれてサーフィンを始める」動画については絶賛している。これはまさにルッキズムであり筋が通らない
・「強力効果論(暴力的なメディアや、性的なメディアが、受け手を暴力的にしたり性的にしたりするという説)」は研究により否定されている
・モノ化とは→単なる道具として扱うこと
・容姿で評価されることは悪か?異性のパーツを好きになることは悪か?
・また、自分(石川)ではない人のツイートや炎上を紹介していたが、自身の発言でないものを指摘されても答えようがなく、別の事例について話したい
●表現について
・エロがいけない、萌えがいけないと言っているのではなく、「女性らしさ」「男性らしさ」ジェンダーロールを固定化した表現が問題と考える
・黒人の表現として黒塗りをすることは、事実アフリカ系の人種が色黒だとしても、社会的に認められていない
→規制ではなく、当事者の気持ちを慮った自主的な配慮として行われている
・TSUNAMIの自主規制も同様。あくまで被害者への配慮として行われており、表現を規制するものではない
・乳袋と言われる、胸を異様に強調した服
→実際には存在しない服であり、女性の性的魅力を強調しすぎている
・「女性の身体を持っている」ことを理由に被害を受けた人への配慮が不足している
・エロだからダメ、ではなく、女性性の強要が存在する以上、配慮が必要
・「ちょうどいいブス」
→表現者本人は女性だが、他者にこうすべきと役割を押し付けるのでダメ
●女性のモノ化とは?
●「お気持ち」について
お気持ちがあることは人間である以上当然であり、ないがしろにされてはならないものだ
・宇崎ちゃんのどこがモノ化?
・胸があることに対して受けた被害があるのに、それを他人が表現することがおかしい
・グラビアについては本人の意思だったりそうでなかったりするので難しいが、意思と主体性があればOKと考える
・キズナアイはイラストレーターも女性、声優も女性。では誰に許可を取れば使ってよいのか
・女性性の主体があるところ、すなわち全ての女性に配慮するべき
・イラストに関しては女性の主体がいないので認められる余地がないと言っているように聞こえる
つまり萌え絵、女体を表現に使うことが理論上不可能ということではないか?
事故に遭った人が傷つくから気持ちに配慮すべきであり、車のCMを規制するべきとなるが、
そのようにお考えか?
・クルマの広告はクルマそのものを売るためのものであり、献血と無関係な女性性を強調している本件とは異なる
・胸が大きいことがセクハラとしている人もいるが、逆に誇りに思っている人もいる、その女性をひとくくりに代表して「これは差別である」とすることは、個人の「お気持ち」の押し付けではないか?
・性的価値(女性の裸は価値があり、男性の裸は価値が低い)は商品になるが、それをすべて否定するか?
・よしもとの「不細工芸人コンテスト」は批判を受けていったん中止になったが、男性に限定して復活した。これをどう思うか?
・被害を受けたことに言及し活動することと、お気持ちを押し付けることは別の話である
・黒人差別と同様、被害にあっていない人がいるから規制すべきではない、とはいえない
黒人も、黒人であることを喜び、誇りを持っている人もいる。だからといって別の人に存在する黒人差別を許容するべきではない
・女性性によってプラスもマイナスもあるはず、性差があることは明らか。事実石川さんも女性だからグラビアの仕事ができた。
その利益を享受しておきながら、不利益は許容できない、というのでは筋が通らないのではないか
・プラスがあるからマイナスには目をつぶれという理論には賛同できない
被害・加害があるなら是正されるべきであり、声を上げるべきである
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
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00 | 93 | 13217 | 142.1 | 46 |
01 | 73 | 9026 | 123.6 | 44 |
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03 | 15 | 11211 | 747.4 | 163 |
04 | 12 | 1314 | 109.5 | 48 |
05 | 5 | 3255 | 651.0 | 195 |
06 | 34 | 4835 | 142.2 | 39 |
07 | 49 | 4946 | 100.9 | 31 |
08 | 75 | 4515 | 60.2 | 34 |
09 | 123 | 10624 | 86.4 | 44 |
10 | 157 | 13917 | 88.6 | 49 |
11 | 203 | 15819 | 77.9 | 35 |
12 | 275 | 24235 | 88.1 | 32 |
13 | 283 | 40755 | 144.0 | 42 |
14 | 216 | 11274 | 52.2 | 33 |
15 | 225 | 17655 | 78.5 | 34 |
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17 | 136 | 13710 | 100.8 | 31 |
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ところで、議論を混乱させるもう一つの問題として、アファーマティブ・アクションの話と、男女同権が達成されたその後の世界の話を混ぜて話している人がいるように見受けられる。たとえば、「必然性なく女性のみをアイキャッチ的に使うべからず」というのは、過渡期における一種のアファーマティブ・アクションとしては、一定の妥当性を持つと考える。一方で、真に差別が解決した世界では、そのような配慮は逆に不要になるかもしれない。たとえば、「必然性なくA型の人のみをアイキャッチ的に使うべからず」というガイドラインは、馬鹿げている。そもそも血液型など誰も気にしていないからだ。性別の問題も、真に男女差別がなくなった世界では、最終的にはそこに行き着くのかもしれない。類似の例として、アメリカなどでは、商品パッケージに人物を複数掲載する場合、人種の割り振りに対して神経質になるところがある。これは、特定の人種のみをアイキャッチに使う場合、人種差別を助長しているとみなされる可能性があるからだ。現在ガイドラインとして策定されているこのようなルールが、既存の不平等を是正するための措置であるという事実を無視して議論を展開することは、好ましい姿勢とは言えない。また、このようなガイドラインを「女性をアイキャッチに使うべからず」と極端な方向に誤読したり、「男性をアイキャッチ的に使用するのはいいのか」と、誤読を元にしたミラーリングを行うことは避けなければならない。
このようなアファーマティブ・アクションそれ自体が不公平あるいは不正義であり、そもそも認めない、という姿勢はあり得るかもしれない。また、単純に過度な配慮は不要であるという意見もあり得る。例えば、過去に発生したNHKにおけるキズナアイ騒動や人工知能学会誌の議論では、性的役割の固定に対する議論が行われたが、性的役割の是正を求める批判派(アファーマティブ・アクション派といえるだろう)、とそこまでの配慮は必要ない、あるいは(その後の世界では)むしろそのような配慮こそが差別である、とする擁護派の間で、意見の対立が見られた。個人的には、この2つの個別の事例に対しては、過度の配慮であると考えている。一方で、批判派の言いたいことも理解できるので、批判自体には問題がないと考えているし、耳を傾けるべき指摘であろう。なお、特にキズナアイ騒動については異なる論点もあったようだが、その点についてはここでは議論しない。
議論の多くは、おそらく件のポスターが性的、あるいは過度に性的かどうかに帰着するように思われる。そして、この点について、両陣営の合意は、ほぼ得られていない。
擁護派の多くは、件のポスターは性的ではない、あるいは性的な要素はあるとしても、問題になるほどには過度に性的ではないと考えている。一方で、批判派の多くは、乳袋や表情を理由として、ポスターは過度に性的であると見なしている。ポスターが過度に性的であると認められた場合、女性差別につながる表現であり、セクハラにもなるかもしれない。一方で、そもそも性的でないのであれば、セクハラにも女性差別にもならないだろう。
巨乳それ自体がいけないわけがない。また、ごく一部の過激派を除いて、大多数のポスター批判派も巨乳自体への攻撃はしていないように見受けられる。この点を議論するのはあまり意味がないし、ごく一部の過激派の意見のみを根拠に、相手陣営全体に対して「差別主義者」といったラベル付けを行うのは、誠実な姿勢とは言えないだろう。
これは全員にとって非常にクリティカルな指摘である。正直なところ、私自身も自分の認識が社会の平均と合致しているかどうかの自信がない。ポスター擁護派のうち、オタクを自認する人たちの意見が気になるところである。
例えば、「ビキニアーマー」は恐らく今となっては性的な表現のように思われる。肌に密着した黒タイツはどうだろうか。乳袋も本当にセーフなのだろうか。境界線は自分の中でもあやふやである。セーフな気もするし、性的な気もする。あるいら性的な要素はあると認めたとしても、過度に性的かどうかと言われると、過度ではなさそうか。みなさんはどうだろうか。
何を性的と見なすか、あるいは、何を過度に性的と見なすか、は個人どころか社会においてもあやふやであり、時代の変化にしたがって変化してく。
ポスター批判派は、(仮に今現在は認められていたとしても)今後このような表現は社会的に許されなくなり、状況は是正されていくべきだと考えている。これは、過去には普通に存在していた、水着の女性が(無意味に)アイキャッチとして使われていたビールのポスターが、近年ではほぼ絶滅した経緯と相似形である。
一方で、私は別の未来も想像している。それは、このような表現が、むしろ緩く認められる社会になるのではないかということだ。近年すでに指摘されている通り、「オタク」自体が一般化しているらしい。それに伴って、乳袋のような表現に過度の性的な要素を見出す層が減っていく可能性がある。言うなれば乳袋ネイティブ世代の誕生である。こうなった場合、乳袋は広く認められた表現になる可能性がある。
宇崎ちゃんは性的であるが、ワンピースのナミやセーラームーンは性的でない、という意見が見受けられる。これはポスター批判派からも出ている意見で、ナミは性的ではないという意見が見受けられた。
ポスター擁護派は、ナミも宇崎ちゃんもどちらもが乳袋を表現として用いていることから、仮に宇崎ちゃんが性的なのであれば、ナミも同じく性的であり、ナミを公共の場で用いることは認めら得るべきではないと考えている。同じくして、ナミを認めるのであれば、宇崎ちゃんも認められないと一貫性が失われると指摘する。
ここで興味深いのが、ポスター批判派の中でも、この点については意見が別れているということだ。これは、ポスター批判派が用いている「性的な表現に無自覚になっている」人々というのが、ポスター批判派の中にも存在するという事を意味しているように思われる。ワンピースは非常に歴史がある作品であり、オタクだけでなく、社会的にある程度の知名度を持って受け入れられている。好きな漫画といえばワンピースという人も多い。そのため、本来は過度に性的な表現を持ち合わせているはずのナミも、ワンピースという作品と共に社会に受け入れられてしまっている。ポスターに対して批判的であるが、ナミについては認められるという人は、乳袋ネイティブ世代に染まりつつあるといえる。私自身は、もし宇崎ちゃんのポスターが「乳袋は女性を性的に消費する表現である」として認められないのであれば、たとえナミであろうと、乳袋は許されないという姿勢を維持するべきであると考えている。ここで一貫性が崩れてしまうと、「(過度に)性的な表現」の定義が非常に困難になってしまうため、合意が得られにくい。「ナミは(見慣れているから|みんな好きだから|明るいから|強い女性だから)セーフ」という話になってしまった場合、個人の「お気持ち」と揶揄されるのは避けられないだろう。
セーラームーンについてはどうだろうか。すでに指摘されている通り、セーラームーンも公開当初はブルセラを想起させるであるとか、露出が多いであるとか、性的な表現についての批判が女性からもあったようだ。現在では市民権を獲得しているため、このような批判が行われることはまず見かけないが、たしかに絵面だけ見た場合、肌の露出は大きい。セーラームーンを使用した表現が公の場で許されるとしたら、なにが理由だろうか。
ポスター批判派からは、男性からの人気を得るために胸が強調された(宇崎ちゃん|ナミ)に対して、女性が良いと思う服装を女性に着せただけのセーラームーンは、性的消費には当たらないという説が挙げられている。これは、一理あるように思われる。セーラームーンは単に綺麗だったりかわいい格好をしているだけで、それを性的と見なすのは、見る方に問題がある、という考え方になる。韋駄天の例では、靴下を脱いだだけなのに、勝手にそれを性的と見なす男性陣によって問題が発生していたが、セーラームーンも同型だと言えるだろう。人には好きな格好をする権利があるのだから、女性がどのような格好をしても、他人にどうこう言われるのは好ましくない、というのは理解できる。
ここで、本人が望む格好は、どこまでなら許容されるべきであろうか、という議論がある。仮に、ある女性が自分にとっては裸がもっとも自然であると考えた場合、その女性を公の場に掲示されるポスターに使用することは妥当であろうか。そして、その裸のポスターを過度に性的であると誰かが見なす場合、それは見る側の問題であろうか。これは、冗談ではなくて、例えばヌーディストビーチの議論においては、既に似たような議論が起こっている。現在の日本において、恐らく多くの人は、裸の女性の写真を公の場に掲示することは、本人の意志はどうであれ、過度に性的であると見なすであろう。裸は極端としても、例えば胸の谷間が強調された服装はどうだろうか。このような服装を自発的に好む女性は存在するが、公共の場でポスターに使用することは適当であろうか。もし、そのような服装は適当でないと考える場合、あるポスターを評価する上で、本人の意思は、具体的な表現に劣後すると言えるのではないだろうか。つまり、本人が望んでいようとも、性的なものは性的であると見なされるということである。
ところで、海外の識者に宇崎ちゃんのポスターを見せたところ、ネガティブな反応があった、という情報がある。ここで、気になるのが、同じ人物にナミやセーラームーンのポスターを見せた場合、どのような反応があるか、である。宇崎ちゃんに対して否定的な反応がある場合、ナミやセーラームーンに対しても、これらの作品を知らない人からは同様の反応が帰ってくる可能性が、それなりに高いのではないだろうか。セーラームーンも、背景情報がなければ、過度に肌の露出が多い若い女性をアイキャッチに使っているだけのポスターに見える可能性がある。漫画やアニメに馴染みのない人たちにとっては、ナミも宇崎ちゃんもセーラームーンもどんぐりの背比べに映るのではないだろうか。そのような人にとって、セーラームーンを許容するあなたは「性的な表現に無自覚」であると見なされるかもしれない。
こういった観点を踏まえた場合、本人の気持ちや、背景情報といったものは、表現が性的であるかどうかを判断する上では、必ずしも重要な要素ではない、と考えることは可能である。「勝手に性的に見ている」という見方もできるが、多かれ少なかれ、だれもが自分の中の基準をもとに、ある表現が性的かどうかを判断している。そのため、「勝手に性的に見ている」こと自体を悪とする言説は、筋が悪いであろう。これは何も男女間にだけ発生するわけではなくて、世代間や宗教間にも発生する。そうであるならば、性的な表現の基準を考える上では、本人の意志や背景の文脈を考慮するよりも、物理的な要素(肌の露出度など)を用いるのが妥当である、という見方もできる。