はてなキーワード: 一刀両断とは
大卒の人が大卒は正しいと喚く記事を読んで、学歴コンプレックスっていうコメントを見たわけだけど、これって学歴コンプレックスとは違う何かじゃないかなあ。
抽象的なはなしだけど、多分その記事の筆者は(そして多くの人は)「幸せが確定するチケット」を求めていて、この20年位、それは大卒の肩書だと思われていたし、購入者もそう信じていたのではないかな。
彼が記事の中で肯定しようとしたのは「大学卒業資格は人生を幸福にする」ということそのものではなくて、「過去自分が行ったチケット購入判断は間違っていない」ということなのだとおもう。
彼が守ろうとしたのはは「大学卒業資格は人生を幸福にする」という事実ではない。もちろん「幸福」ってのは主観的なものなので、統計で一刀両断にはできないんだけど、経済的な側面で言えば、大卒資格者のほうが高卒資格者よりも、生涯賃金が大きくなるというデータが有るのでそれですむ。示す必要すらなくて、彼自身がその統計を見て「そうだな」と思えばそれで済むので、そもそも記事を書く動機にはなりえない。
そういう経済面に限れば、大学卒業資格というものが、100%確定ではないにせよ確率論的にはある程度効果のあるチケットだったっていうのは有る。しかしそれは同時に、「確率論的」「ある程度効果のある」にすぎないわけでもある。「それを購入すれば購入者は確定した幸福を保証される」わけではない。効果の程は購入者によって程度の差がある。
(そもそも大学というのは研究/教育機関なわけで、そこに「幸せ」なんて主観的な、しかもチケット一枚で生涯を保証するようなものを求められても、大学側は「知らんがな、困るがな」でしかない。この件で大学が悪いわけではない)
筆者が守りたかったのは、「俺は大学を出て幸福だ」という以上の、もっと広範な「大卒チケットを購入した人間は幸福になれる」という「世界観」だったのではないか。それはすなわち「過去自分が行ったチケット購入判断は間違っていない」という保障でも有る。もうちょっと踏み込むと、「攻略法Xを実践すれば人間は幸福になれる」みたいな思想なんだとおもう。そして、これは、すごくわかる。
人間は日々を生きる上で脳みそ空っぽで生きるのは難しい。どうすればうまくいくか考えちゃうし、試行錯誤しちゃうし、うまく行けば嬉しいし、失敗すればなにが悪かったか考えてしまう。「セカイには攻略法が有るはずだ」って思想は人類進歩において巨大なアドバンテージだった。それは、自然科学分野においてはおおむね正しい。背景には物理法則があって、同じ入力には、同じ出力が返ってくる。技術研鑽や職人的な人生においても、概ね正しい。そういう態度で経験を扱えば、一定の知見が得られる。
だから「攻略法Xを実践すれば人間は幸福になれる」みたいな思想はすごくわかるし、自分を点検しても、この類型は形を変えていくつも発見できる。
でも実際問題、本当にこれが正しいかって言うと、ぜんぜんそんなことはない。人生という関数は入力が同じでもその個人ごとに出力がぜんぜん違うようだ。そもそも「同じ入力をする」ということ自体が人知では制御できないほど難しい。双子なのにぜんぜん違う人格になったり将来を迎えたりするわけで。人生という巨大関数はすくなくともワンチケットでフリーパスになるほどちょろいものではない。信用できるデバッガもない。
でも、その事実はかなり痛みを伴う。「人生に攻略法がない」というのは(もちろん確率論的にだが)「どんなに頑張っても不幸にしかなれない人間が存在する」ということを意味するからだ。
(※もちろんこれは一部宇宙の事実と異なります。瞑想とジョギングと野菜はすべての人生を攻略します。Yes、ぶくまますたー!)
そんなわけで、件の記事はなんだか悲鳴のようにも聞こえた。「この世界に攻略法は有るよ、ぼくらが幸せになれるチケットは実在するよ! ボクの過去の努力コスト支払いは間違ってなんかない! なぜならボクはいまそのチケットで暮らしているからだ!」――あの記事で筆者が説得したかったのは、誰より筆者自身だったのではないかと思う。
同様の光景はあちこちで見ることが出来て、それが先鋭化すると、論理が逆流を始め「(大卒資格が幸福チケットであるという)世界観を守るために、高卒以下の人間は不幸でないとならない」な方向に拗れてしまう(連中は全員DQNみたいな発言)。そうなると地獄の二次生産だ。だがどちらにせよ、それは学歴コンプレックスと言われているものとは、隣接しているけれど、もっと何か違うものなのじゃないかと思う。
表紙のギョロ目キャラに全然惹かれなくて読まず嫌いしてたけど、ふと読み始めたら止まらない
浪人か侍が主人公のフィクションだと思ってたら、新選組?を結成する前の沖田とか近藤の話だった
自分的にはマイナスイメージがよーやくゼロになったくらいで、毒にも薬にもならないマンガではあるけど、変に心を動かされずに淡々と読めるという意味では貴重なマンガな気がする
ひねくれもんだから、大概のエンタメに触れるときは、おもしろい!と思ってドハマリするか、クソだなと一刀両断するかの二択になることがほとんどなんだよね
だからニュートラルに楽しめるものってのは自分にとってはなかなか貴重なのです
作者調べてみたら毎月父さんの人だったのか
http://ketudan.hatenablog.com/entry/2016/06/06/194014
id:ketudanさんに自分のブクマについて言及していただいた。一週間も気付かずに放置して申し訳ない。コテンパンにやられたので特に反論とかはないのだが、
「一体なんなのか…このスターは」
という部分について、自分なりの調査結果を公表したいと思う。つまり、「無名ブックマーカーが簡単にスターを貰う方法」である。
1.エントリ先を読まない
スターをつける人は頭を使わずに脊髄反射で押してるので、彼らに合わせて頭を使わずに脊髄反射的なブコメを書くべきである。タイトルだけで理解し、内容は高速で流し読みするだけにとどめる。
2.上から目線で叩く
スターとは「よくぞ言ってくれた!」という意味でつけるものなので、その感情を掻き立てるように、はてな的偏向で上から目線で叩く。
一番簡単なのがネットフェミ思想。男は楽をしていて、馬鹿で、下等な生物である。一方、女は賢く、かよわく、それゆえに割を食っている。という基本を抑えればOK。
ネットフェミ思想に沿えば、童貞も男であり、馬鹿で、女を見下している。コミュ力が低いのは自己責任であるから、その甘えた根性を叩いてやるのが正義。
はてな民の選民思想を上手にくすぐり、彼らの中の正義感をうまく言語化してやり、彼らの代わりに一刀両断してやるとよい。
スターをつける人は頭を使いたくないので、ブコメでエントリ内容が要約されていればそれで納得してくれる。彼らの好きな内容に改変した要約を書いておくとよい。人間は見たいものしか見えないのだから。
他にも細かいコツはあれど、基本はこの3つ。最近は書く前に「これはスター来るな/来ないな」というのはわかるようになった。我ながら本当にくだらないことをしてるなと思う。しかしたまにやってしまう。
家族や人間関係に没入することで、自意識の不安から目をそむけるのは「賢い」生き方だけど、それができない人間も一定数存在するんだよ。
自意識というか、誰もが幼児期に一度は「神話」の崩壊を経験するそうだ。「人間はみんな死ぬ」とかに気づいてな。
ただ、一部の人間はそういう経験をずっと引きずって、死ぬまでそういう問いか目を背けられない。それが進化上何の意味があるのかは謎だけどな。
そういう連中は俗にいうメンヘラですらない。メンヘラと違って他人に依存したりしないし、基本的に迷惑をかけることもないしな。
ただ、他人と距離をおいて生きるし、周囲からは(人畜無害な)変人と思われる。『ハイジ』のアルムおじさんみたいに。
地味系モブキャラ『そんな…ッ! ボクはいつも彼女の事を考えてるじゃないか…ッ!
制服に自転車に財布…変えろといわれたものは全部変えた! ダイエットだって!
自分が地方新聞のWeb記事とか、夜中にやってたNHKの地方局が作ったドキュメンタリーとかで偶然知って興味深かった話とかを話すと、
「これだけ情報が拡散するのが早い時代だから」と、自分が今まで知らなかったことは存在しないか嘘だってスタンスで接するのが染みついてるっぽい人が周りに複数いる。
これもひとつのネット脳なのかなあ?なんか君が老害扱いしてディスってる人たちと同レベルのことしてない?って思う。
特になんか新発見の可能性とか、そういうのの話に対する反応が顕著で、話を振った俺としては、
「マジならすげぇよな!」「そんな研究を何十年もやってる人がいるんだね」
「もし本当ならこれまでの前提がひっくり返るから、次の世代の教科書では違うことが書いてあるかもな」ってな感じの会話がしたかったんだけど、
「そんなことあるわけないじゃん、もしそんなことがあれば今まで知られてないのはおかしい」
「もし事実ならとっくに拡散されて(自分の耳に入って)るハズだから、ありえないでしょ」とか言われて一刀両断にされてちょっとしょげる。
そしてそういう人の「なあなあこれ知ってる?」「○○って~らしいぜ!」みたいな話題がみんなそろってまとめサイトで数日前に目にしたような内容で、
しかも、(あーその記事見たなー、たしかあーでこーで)って思ってたら、針小棒大に騒いでみただけの話や、タイトルだけで一本釣りしてる記事の話を思いっきり真に受けてたり、
まとめサイトの記事の元になったニュースサイトの記事すら目を通してない感じの認識だったりしてびっくりする。
説得しなきゃいけない時に「昔まとめにも載ってたよ」って言うとおとなしくなるから便利ではあるんだけど……。
自分も大抵のことはニュースとか広報記事とかどまりで、いちいちソース探すなんてメンドイからやらないけど、
そういう距離の話題に関しては、「そういうこともあるかもね」「なんかそんな話聞いたことある」ぐらいにしておいて、
無理に肯定も否定もする必要ないんじゃね?と思ってるから、その場で嘘か真か一方的に認定しながら喋るのが余計に窮屈に感じて気になるのかなー。
「邦画が面白くない」問題について、色々な論が飛んでいますが、私の考えを述べます。
おおよそ2000年になるまで、くらいと考えるのが妥当でしょう。
その時代はまだまだネット普及率も高くはなく、必要な情報を検索して調べることが
できたのも一握りの人だけで、コミュニケーションツールとしてもまだまだ未成熟だった。
では人々は何を頼りにして映画を見ていたのかといえば、それはTVによる宣伝など
また、映画を評論する映画好きの人達も一定数いて、糞映画を何本も自腹でみては
その中から面白い映画を選りすぐり、評してそれらを参考に一般の人達は映画を見ていた。
広告代理店にしても、面白くない映画を売り出すことは難しいので、企画にまで絡んで
いただろうし、プロの宣伝人と、プロの企画者と、色々とプロな人達が提供するものを
これが良いかどうかは別として、やはりプロの人達が頑張った結果、それなりの水準のある
映画を作ることができていたのだとは思う。これは結果論として。
スマホの普及により、ネットコミュニケーションの闊達が著しくなった。
それと同時に社会情勢も踏まえて、娯楽にお金をかけることに最大のパフォーマンスを得れないといけないという観点が高まってきた。
今までは、そもそも他にどういう選択肢があるのかわからない状況で、TVの宣伝だけをみて、良さそうなところを選ぶ。
この時点で、それなりのプロが選んだフィルタリングがかかっているわけで、それなりの水準のサービスを享受できていた。
しかし、ネットの情報により、選択肢がそもそもたくさんあるということが見えてきた。
だとしても、選択に失敗をしたくないという人が多くいるので、ネットの口コミというのを参考にするというシステムが出来上がった。
当初はこれも、口コミをする人が、正常な大人だけで、よく機能をしていたが、
スマホのおかげで、どこの馬の骨ともわからない有象無象が、勝手な意見をする状況になってしまった。
ネットで話題が、正当な作品の評価によるもので話題なのであればいいが
今あるネットで話題は「シェアしても面白いかどうか」になってしまっている。
絵面が面白いとか、ツッコミどころがあるかとか、そうしたことがシェア要素になってしまって
また、作品を評価する人も単に「つまらん」「おもんない」という一刀両断切り捨てタイプが多くなってしまい
本当の意味で作品を評価できる人よりも、ただ気に食わないから低評価をする人の割合の方が多くなってしまった。
そうした評価をみて、多くの人が作品選びをするので、作品の質とは違った所で
作りて側もそうした、時流をみて、とにかく話題になることを1番に考えて作品を作るわけだし
見る側も、根拠の無い評論をするので、どんどんと場は荒れていくのはしょうがないことだと言える。
負のスパイラルに陥っていることは現状を見ればわかることだ。
・どうすればよいか
そもそも論として、映画を見るのに他人の評価を気にすることが無意味だと思うのだが、
実際の所そうして、安牌を選びたいという人が増えている現状なので、
それではやはり年間何百本と見ているプロに評価をお願いするのが良いのではないかと思う。
ネットの有象無象が作品もなにもかもぐちゃぐちゃにしてしまう世の中で、
「本当に良い物は評価されるはず」みたいな美談はもう成り立たない。
上述した通り、面白い映画をつくるだけでは、話題にならないので、商業的には失敗する、という状況になっているのです。
ネットで話題にならないと、土台に建てないのです。
卵が先か鶏が先かわかりませんが。
自分にとって面白いと思えない作品を見ることで、面白い作品がより際立つというもの。
視聴者側の沸点が低くなりすぎて、すぐに「クソ」とか言っちゃう。
別にいいじゃないか、映画にエンタメ性だけを望んだら、ハリウッド映画以外存在しなくなっちゃうよ。
あれこそ紋切り型でつまらないとも言えるし、露骨な商業路線だという人もいるはずです。
「1800円で2時間過ごせてよかったなぁ」くらいの気持ちで映画見ましょうよ。
一度浜村淳の映画解説を聞いてから、映画を見てみることをおすすめする。
邦画は2000年より以前から既に落ちぶれていた、っていう人の
(俺の中では)くそってなんでも言えるしな。
hobbling 洋画が面白いのはネットが普及してないからか!
↑
こいつアホだなー。
宗教がその代表格だと思うのだけど、現実を見ないことは本当に気楽なのだろうと思う。
逆か。現実をしっかり見つめることが本当に辛いことなのだろう。
時折、終末医療における科学的根拠を一切排除する人に対する是非なんかが耳に入ってくる。
人のことを好き勝手言うのは自由だが、いざ自分の目の前に死が迫った時にその辛さを受け入れられるかどうかは、その立場になってみないとわからないのだと思った。
どちらを選んでも余生にそれほどの違いがないならわたしは辛くない方を選んでしまうかもしれない。
この所よく年配者と口論をしていた。年配者といって60にも満たないくらいのまだ現役で働いているものたちだ。
彼らが口にすることは一様に現実的ではないのだ。
その最たる例は、「全てのアレルギーは簡単に治療できる」というものだった。
わたしの身の回りにはアレルギーで苦しむ子どもたちが沢山いる。
辛い治療に耐えながら、食べたいものも食べられず日々悩み苦しんでいる。思いがけず発症して苦しんでいる姿だって何度も目にした。
そんな姿を目の当たりにして、どうして「簡単に直る」などと口にできるのだろうか。
本当にそれが疑問でならなかった。
「俺が教えてやる。」一言そう言い放ったのだ。
当然相手は医者ではない。今まで誰かのアレルギーを直したこともない。
しかし本人がいうには、自分は治療法を知っているのに相手が聞こうとしないのが悪いということらしいのだ。
その一言で、議論をする意味も気力も根こそぎ奪われてしまった。
その瞬間は大切な時間とエネルギーを最も無駄なかたちで消費してしまったと悔やんだものだった。
ただ、正直そこまで突き詰めて相手の話を聞いたこともなかったわたしは、そのことがしばらく気にかかった。
どうしてそこまでに正しさへの自負がもてるのかが不思議でならなかったのだ。
それからしばらくして、とある著名はてなユーザーの行動が、その人と似ているということに気がついた。
いくつかの決め台詞だけで次から次へと記事を一刀両断していく痛快な人物だ。
(本当は感謝を伝えたいところだが個人名は避ける。憶測もやめて欲しい)
その日も彼はわたしの書いた増田をばっさりと両断して見せたのだが、よくよく考えてみるとわたしは自分が斬られていないことに気づいた。
しかしそんな彼がとある記事へのコメントで普段は見せないような姿を見せたことで、彼が何を斬り続けていたのかがわかった。
いつもは人を人とも思わないような態度で斬り捨てていくくせに、彼はその日、世界とは優しいものだといってのけたのだ。
それで合点がいった。彼が斬り捨てていたのは自分自身に対する甘さだ。
自分の見たくないもの、関わりたくないものを忌むべきものとして括り斬り捨てることで、自らの迷いを断ち切っていたのだ。
その時わたしには、そこに振り切らんばかりの強さと弱さとの両方が見えた気がした。
そこにある現実を受け入れることのできない弱さを、自分なら解決できると思い込むことで強さに置き換えているだけにすぎないのだ。
素直に弱さを認めていればさらなる強者に叩かれることもないのに、なんと悲しい生き方か。
そこで考えてみると、彼らには共通して彼ら以上に強い人間が周囲にいないことに気づいた。
選んだつもりが選ばれていたかのような、どちらにしても誰もが小さなコミュニティの上に立って孤立していたのだ。
わたしが是非を決めるまでもなく、すでに世の中から是非をつきつけられていたのだ。
わたしが強い人間だということをいいたいわけではないし、わたしは自分が強い人間だとは思っていない。
しかし、わたしより弱い存在がある以上、それらを脅かすものから守ってやりたいだけなのだ。
わたしが無意識に目を背けている現実はどれほどあるのだろうか。
知らず知らずのうちに誰かから何かを奪ってしまうことのないよう、自分の力とは正しく付き合わなくてはいけないのだと改めて思うのだった。
本当に殺されかけたらきっと、いや確実に抵抗する。
死にたい訳ではない。
だけど死にたいと思ってしまう。ここから抜け出したいというのともちょっと違う。
誰かにSOSを発する。
一刀両断される。
もっともだ。
暗い話をすると人が遠ざかる。
やめる。
身体の中に何かが溜まる。
他人で発散する事ではないのでそのまま溜まる。
そしてその結果死にたいと思う。
ただそれだけ。
ただ今、もちろん死のうとは思わないしそんなことをしようとは思わないが
もし自殺したらどうなるだろう。
「そんな兆候はなかったのに…」と言われるんじゃなかろうか。
そんなそぶりは見せずに逝ってしまった、という人達、こういう心境だったんじゃないのかなあ
苦しい、助けて欲しい
もちろん僕は死なないがふとそう思った。
フランスの漫画家ジョアン・スファール Joann Sfar は、シャルリー・エブドに2004年夏から2005年9月まで"Mon cahier d'éveil"(僕の情操教育ノート)という作品を連載していた。
その後、今年1月のシャルリー・エブド襲撃事件を受けて、ハフィントン・ポスト フランス版ブログに"Si Dieu existe" というイラストエッセイを発表。以下はその連載第2回、"Un concert pour Cabu"の日本語訳である。
イラスト部分は実際にハフィントン・ポスト フランス版でご覧いただきたい。
http://www.huffingtonpost.fr/joann-sfar/dessins-sfar-cabu-hommage_b_6658718.html
なお、ページ番号は連載第1回からの通し番号となっている。
これはお葬式じゃない。
13
カブっていう大した奴
いま君は泣いていないけど、それは君が砂漠みたいに乾いちまったからなんだ!」
14
それは本物のイスラム教じゃない。
みんなが正しい、そしてみんなが間違っている。
というのもイスラム教徒は信者をとりまとめる最高機関を持ってないからだ。イスラム教に教皇はいないんだ!
それゆえに独裁者達や過激派は、論破されることもなく、イスラム教を不当にも自分のものにすることができてしまう。
フランスでは、人道的なイスラム教徒を代表する人たちがテロリズムに対して抗議したけれど、その抗議の正当性は、世界的に認められたどれかのイスラム教の機関から来ているわけではなかった。
このところ僕は、「"イスラム教を改革する"必要があるんじゃないか」とみんなが口にするのを聞いている。
数え切れない程のイスラム教徒はいるけれど、彼らが信奉する戒律について、正当性があるのか無いのかを一刀両断で決めてしまえる「誰か」は存在しない。
15
「"バチカンII”ってアラビア語でどう言えばいいんだろう?」
目下のところ、僕は神経過敏になっている。
「もうしたよ」
16
僕たちがその姿を絵に描く権利があるにせよないにせよ、ムハンマドは剣を持ったただ一人の預言者だ。これは圧倒的大多数のムスリムの、寛大で平和な日々からとても隔たりがある。
逸脱した暴力は、この独特なイメージ、武器を持った神の使者のイメージの下に結集しようとしている。
そうだね、改革が必要だ。でも改革をもたらすのは誰だろう?フランスにはそのための充分な手立てがない。イスラム教を和らげるためにムスリムが声を上げるなら、その運動はペルシャ湾岸から起こらなければならないだろうし、そうすれば豊かなオイルマネーを活用できるに違いない。
もちろん、敵は原理主義者だ。そして今日、僕たちの言うことを聞いてもらうには、とてつもないイマジネーションと力強い声が必要だ。
僕はムスリムに心から敬意を表する。今日の暴力の第一の犠牲者はムスリムだ。そして、「コーランが推奨する聖戦は、何よりもまず心の中の悪魔と戦うことだと考えなければならない」と発言する勇気をムスリムは持っている。
それでも自己批判しろという声がムスリムには突きつけられている。
18
僕は、夜明けの光に照らされた雨の中のカブ夫婦の姿を思い出す。シャルリー・エブドの訴訟中のことだった。最後にカブへ挨拶したのは僕の映画の撮影の直前だった。僕たちはオデオンのそばのイタリアンレストランに居合わせたのだった。
僕が最後にヴォランスキと食事をしたのは半年前、サン・ジェルマンだった。
3週間前、僕はおばと会いにリュニベルシテ通りへ行ったのだけど、その時、サン・ペール通りの角で、20メートル離れたところにヴォランスキを見た。彼は僕を見ていなかった。僕は急いでいたので、彼を抱擁しには行かなかった。
19
カブを見る時はいつも連想的に、トレネの歌を聞かなければいけないぞ、と思ったものだ。僕はトレネのシャンソン全集を持っている。フレモー版だ。
「君はこんな時にも自分について話そうとしてるのか」って?
そうさ。ストレスを感じたワンコが自分のキンタマをなめて安心しようとするように、僕は自分のスタイルにしがみついて、昔の手帳に書いた話を自分に繰り返してみなければならない。そこに一つの意味を見つけるために。立っているために。僕はシャルリーをやめた。ハリケーン・カトリーナの日だ。ロマンチックで自己防衛的な理由だった。洪水に沈んだニューオーリンズ、それはもう僕にはひどすぎる出来事だった。
そして僕は私小説的なものやフィクションへ避難しようとして、時事ネタときっぱり別れようとしたが、やり損ねた。
ニューオーリンズの音楽が死んだカブのために演奏されている。それは僕の記憶を呼び起こす。僕は洪水の泥に埋まったファッツ・ドミノのピアノのことを考えている。
21
「シャンソンが好きなのかカブに聞いた。カブは答えた。トレネが好きなのだと。」
カブの友人達はブラッサンスの仲間達に似ている。ヒゲを生やし、肘に革をあてたコーデュロイを着ている。もちろん、彼らは涙で目を赤くしている。彼らは反レイシストの、反狩猟の、反闘牛の、古株の活動家だ。気のいい男子たちで、勇敢な女子たちだ。移民の為に、書類の無い入国者のために、そして誰もがこの国が立派だと感じられるように、彼らはずっと暴れ回っている。
今日、僕は、このとても優しくとても過激な人たちが、警察の活動のおかげで安心させられてしまっているのを見る。
22
マダム・カブは僕に語る。カブはなんでも引き受けて、絵でもポスターでも描いたし本も書いた。ある日彼が罪悪感を感じたのは、フライドポテトの移動販売のトラックの店先に絵を描く時間が無いことだったそうだ。
フレッド・マヌーキアンと楽団は続けてキャブ・キャロウェイの「ミニー・ザ・ムーチャー」を演奏する。
僕に起きる可能性のあること、僕を守ってくれるかもしれないことの中で一番美しいもの――
聴衆に挨拶するや、カブの兄弟がファンファーレを鳴らし、僕はマヌーキアンの楽団とファンファーレにサンドイッチみたいに挟まれているのに気付く。僕が描いているのは、オフィクレイドの音色が僕の真っ正面で鳴った時のエモーションだ。すまない、僕はずっと泣いている。オーケストラのおかげで泣き顔は隠れたから、僕は運が良かった。
P13. カブ Cabu(1938ー2015)、P18. ヴォランスキ Wolinski(1934-2015) いずれもシャルリー・エブド襲撃で殺害された漫画家。
シャルリー・エブドの漫画家達については鵜野孝紀氏のコラムが詳しい。http://books.shopro.co.jp/bdfile/2015/01/bd-19.html
P12.フレッド・マヌーキアン Frédéric Manoukian Big Band のリーダー。
P13.カブの兄弟 Michel Cabut氏。 https://youtu.be/ZX7rZCpl0x4?t=2m23s
P18.「僕の映画の撮影」 スファールの2本目の実写監督作"La Dame dans l'auto avec des lunettes et un fusil"と思われる。2015年夏公開。
P20.「手帳」 スファールはcarnet(手帳)というイラストエッセイのシリーズを刊行している。"Si Dieu existe"は11冊目の"carnet"となった。
P21. ジョルジュ・ブラッサンス Georges Brassens(1921-1981) フランスの歌手。https://youtu.be/84SMQ4Gyz5o
なお、このコンサートはテレビとラジオで放送され、ラジオ音源をFrance Interのサイトで聞くことができる。
http://www.franceinter.fr/emission-un-cabu-extraordinaire-soiree-speciale
「アスタリスクが私にとってのロック」でしょ。超ストレートな肯定じゃん。
でもそれを増田は「だりーの本心じゃない」とか「それは精神的なロックの話で」とか言い訳する。
なんでストレートに受け取らないの?って訊いてるんだけど。
「アスタリスクが私にとってのロック」というのは「自分がロックだと思ったらそれがロック」とセットになってるわけだ
アスタリスクの全てを肯定するものではない、アスタリスクで音楽性やスタイル備わったロックができると肯定しているわけじゃない
そして繰り返すけど
だりーなが、ギターが上手くなって、アスタリスクで、音楽性やスタイルが備わったロックをやればいいと思っている描写は?
だりーながやりたい音楽性やスタイルが備わったロックと、アスタリスクのギャップに悩んでる描写はあっても
だりーながアスタリスクで音楽性やスタイルが備わったロックをやれると思っている描写がないのだから
「自分がロックだと思ったらそれがロック、アスタリスクが私にとってのロック」宣言は
「アスタリスクでは音楽性やスタイル備わったロックはできないが、自分がロックだと思うロック」だと読むのが妥当
にかかるからこそ、「人の気持ち(=だりーなの心情)を勝手に決めるな」だし、「みくちゃんとユニットを組むのは…」につながるんでしょ。
「みくだって分かってるよ、李衣菜ちゃんがロックに本気なんだって。もっともっと本格的にロックやりたいんだって」
この察しが間違っている、みくが決めつけたものだということは
だりーなは、ロックに本気じゃなくて、本格的にロックをやりたいわけじゃないってなるんだけど
「いやアスタリスクはロックだ!」の「いや」はどこから出てきたの
そもそもみくはアスタリスクはロックじゃないと言ってるわけじゃなくて、アスタリスクはロックだけじゃないって言ってる
「アスタリスクはロックだけじゃない」に対して「自分がロックだと思ったらそれがロック、アスタリスクが私にとってのロック」と答えてるんだから
「アスタリスクはロックだけじゃないが、アスタリスクは自分がロックだと思うロック」と読むのが妥当
具体的にどこで?
みくと増田の中では「本格的にロックをやる」と「アスタリスクをやめて夏樹ちゃんみたいなユニットを目指す」が分かちがたく結びついていて、
「ロックに本気だから本当はアスタリスクをやめたいに違いない!」と思い込んでいるんだけど、
だりーにとっては「本気でロックをやる=アスタリスクでロックをやる」なんだから、みくや増田の言うことは「勝手な決め付け」なんだよ。
だりーにとっては「本気でロックをやる=アスタリスクでロックをやる」なんだから、みくや増田の言うことは「勝手な決め付け」なんだよ。
つまり
「みくだって分かってるよ、李衣菜ちゃんがロックに本気なんだって。もっともっと本格的にロックやりたいんだって」
これが勝手な決めつけだと言うわけだ
「アスタリスクが私にとってのロック」でしょ。超ストレートな肯定じゃん。
でもそれを増田は「だりーの本心じゃない」とか「それは精神的なロックの話で」とか言い訳する。
なんでストレートに受け取らないの?って訊いてるんだけど。
だりーなが迷わないよに、このユニットでよかったと思えるように、みくが主体的に活動して、だりーなの気持ちを動かすと読める。
無理やりすぎるよ…
みくだってわかってるよ。李衣菜ちゃんがロックに本気なんだって。もっともっと本格的にロックやりたいんだって。だったら本当はみくなんかより…
にかかるからこそ、「人の気持ち(=だりーなの心情)を勝手に決めるな」だし、「みくちゃんとユニットを組むのは…」につながるんでしょ。
「みくなんかより」→「みくちゃんとユニットを組むのは」で完全に対応してるじゃん。
その「察し」が間違ってるから「勝手に決めるな」と言うんじゃん。
みく「アスタリスクはロックじゃないでしょ」→だりー「いやアスタリスクはロックだ!」と解釈するのが素直な読みでしょ。
明らかにロックの定義を「自分がロックだと思っている」というところだけに求めていて、
「音楽性やスタイルでは夏樹ちゃんのユニットみたいなのが本来のロックだけど」なんてエクスキューズは含まれていない。
というか、みくが「音楽性やスタイル」に拘泥しているのを一刀両断している。
「夏樹ちゃんのユニットは確かにロックだけど私はああいう風になるのを諦めてアスタリスクを選ぶから」と解釈するのは無理筋。
「みくだって分かってるよ、李衣菜ちゃんがロックに本気なんだって。もっともっと本格的にロックやりたいんだって」
この台詞をどう読むの
みくと増田の中では「本格的にロックをやる」と「アスタリスクをやめて夏樹ちゃんみたいなユニットを目指す」が分かちがたく結びついていて、
「ロックに本気だから本当はアスタリスクをやめたいに違いない!」と思い込んでいるんだけど、
だりーにとっては「本気でロックをやる=アスタリスクでロックをやる」なんだから、みくや増田の言うことは「勝手な決め付け」なんだよ。
始めに、この文章は「元少年A」や『絶歌』に対する世間の大多数と反応と「真逆の主張」であることを先に示しておく。
馬鹿じゃねえの。
この中川淳一郎っていう奴の『絶歌』の書評( http://biz-journal.jp/2015/06/post_10431.html )を読んで、正直こう思った。
ハッキリ言うけど、お前に元少年Aや太田出版を外道だなんて糾弾する資格なんてないだろ。正義ぶって身勝手な書評を書く前に、我が身を反省してみたらどうなんだ。
おそらく、中川淳一郎はこう思ってるんだろうな。
「元少年A」は叩かれて当然の「極悪人」で、それを一刀両断している中川淳一郎は「正義の告発者」だからな。
世間の感情と同調している中川淳一郎はきっと、どれだけ「元少年A」を扱き下ろしても大丈夫だと、そう思っているんだろう。
フザけんな。
非難してやる。ネット上の他の全員がお前の書評を褒めちぎっても、俺だけは非難してやる。
元少年Aを「外道」だと罵るお前の方がよっぽど「外道」だと、この場で主張してやる。
俺が最も中川淳一郎の書評で怒りが沸いた部分は、元少年Aが「どうして人を殺してはいけないのですか?」という問いに対して答えた箇所に、コイツが吐いた感想だ。
一応、元少年Aの言葉を引用しておく。前述の問いに対して、元少年Aはこう答えた。
(引用)
『「どうしていけないのかは、わかりません。でも絶対に、絶対にしないでください。もしやったら、あなたが想像しているよりもずっと、あなた自身が苦しむことになるから」』(註:原文では「あなた自身が」の部分に傍点あり)
で、これについて、中川淳一郎はこんな風に言っている。
(引用)
あぁ、何もわかっていない……。どうしてこうも自分本位なのか。「あなた自身が苦しむから殺人はいけない」と言い、まるで自分が悲劇の主人公かのように「重い十字架」というエセ文学的表現を使う。人を殺してはいけない理由は、これである。
「誰もが他人の人権を蹂躙することはできないから」 「殺された人に近しい人が悲しむから」
酒鬼薔薇は被害者とその遺族よりも、自分自身(加害者)の側の論理でいまだに語っている。そしてこれがやっと見つけた唯一の答えとは、非常識かつ幼稚もはなはだしい。
ハッキリ言って、頭にきた。
何も分かってないのはお前の方だろう?
人の「本気の思い」をこんな風に平然と踏みにじる、お前の方がよっぽど外道だ。
確かに、元少年Aの答えは自分本位だよ。凶悪な殺人を犯したくせに、いまだに自意識の中でしかその理由を語れてない非常識で幼稚な答えかもしれない。
だけどな、ここにあるのは『本気の思い』だよ。事件の後の全人生を通じて、元少年Aが自分の頭で考えて言葉にした「人殺しをしてはいけない」ことへの『本気の思い』だ。
どれだけ自分本位で幼稚でも、本人があの事件を起こした後に見つけてきた『自分の答え』だ。
それを、お前は踏みにじった。
「あぁ、何も分かってない・・・・・・。」なんて、さも悲哀ぶった言い方で、お前は元少年Aの言葉から耳を塞いで、「自分の意見」で踏みにじったんだ。
「人殺しをしてはいけない」ことに、お前の考えや正義があるのは分かったよ。客観的に見れば、お前の考えの方に正当性があるんだろう。
でも、だからって踏みにじって良いわけじゃないだろ?
他人が自分の全人生をかけてたどり着いた『本気の答え』を、そんな風に無価値だと切り捨てて良い理由にはならないだろ? お前にとっては「何も分かってない」ような幼稚な意見でも、それが元少年Aにとっては「やっと見つけた正しさ」なんだぞ。
まあ、元少年Aの「答え」なんて、他人から見たらボロ布くらいの意味しかないのは分かってるよ。
ネット上の大多数、「元少年Aや『絶歌』に対する怒りを燃やす人々」はそれでもいいよ。
だけど、中川淳一郎。お前は違う。
お前は、婚約者を亡くしているんだろう?
正直、俺には信じられない。婚約者を鬱病の末の自殺で亡くしているにもかかわらず、あんな身勝手な書評を書くだなんて。
一応、読んでない人のために書く。
中川淳一郎の書評には、その昔、当時の婚約者が自殺で亡くなった件について書かれている。
そして、その際に本人が参考にしたのが『完全自殺マニュアル』・・・・・・『絶歌』の担当編集である落合美砂が、93年に世に送り出したベストセラーとのことだ。
これだけ書くと、まるで中川淳一郎が「『完全自殺マニュアル』のせいで婚約者が自殺した!」って主張してるみたいに誤解しそうだけど、そこまでは思っていないらしい。
ただ、その本が自殺した婚約者の本棚の中にあって、そこに書かれた「最も推奨されている方法」で自殺したという、それだけらしい。
中川淳一郎は言っている。「彼女が死んだのは鬱病のせいである。それは間違いない」と。
これは完全に憶測になるけれど、鬱病みたいな「心の病気」の最たる原因は「孤独」だ。
自分の抱えている問題を誰にも打ち明けられない、誰とも共有できない、そういう風に「一人でどうにかしなきゃ」という状況に追い込まれたときにこそ、「鬱病」みたいな精神病に人は陥る。
もちろん、実際にその婚約者が「孤独」だったかどうかは憶測の域を出ないけれども、誰にも相談できなかったことは間違いないだろう。
そうでなきゃ、『完全自殺マニュアル』なんて買うわけはないからな。
当たり前だけど、この本は自殺の「方法」を書いているだけであって、自殺を「推奨」しているわけではない。中川淳一郎も引用していたけれど、太田出版の紹介文ではこうなっている。
(引用)
「世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは、生命保険会社でも、破綻している年金制度でもない。その気になればいつでも死ねるという安心感だ! 自殺の方法を克明に記し、さまざまな議論を呼んだ、聖書より役に立つ、言葉による自殺装置。」
この文章で注目すべき点は、二つ。
一つ目は、「世紀末を生きる僕たちが最後に頼れるのは」という部分。この箇所から、この本は「生きる僕ら」が「頼れる」ものを示したものであることが窺える。
二つ目は、「その気になればいつでも死ねるという安心感」という部分。この箇所から、あくまでこの本は「安心感」を提供するためのものであることが窺える。
以上の点から、この『完全自殺マニュアル』はあくまで「生きるための本」であることが分かる。具体的には「自殺という『逃げ道』を示したから、後は安心して生きればいい」という本だということだ。
イメージが掴みにくい人は、『完全自殺マニュアル』を「精神科医」に喩えてみてほしい。「『いつでも安心して、私を訪ねてきて下さい』そう患者に言ったら、二度と患者は訪ねてこなかった」一度くらいこういう話を聞いたことはあるだろう。要するに、「いつでも訪ねられる」という「安心感」が重要なのであって、実際にその選択肢を取るかはさほど重要ではというないのだ。その「安心感」を提供されただけで、患者の心の問題は半分くらい解決しているらしい。
おそらく、『完全自殺マニュアル』も、そういう「安心感」を提供することが目的の書籍なのだろう。事実、前書きや後書きの部分には「いざとなれば自殺してしまってもいいと思えば、苦しい日常も気楽に生きていける」旨が書かれているようだ(https://ja.wikipedia.org/wiki/完全自殺マニュアル)。
というわけで、この『完全自殺マニュアル』はそういう、精神科医的な「安心感」を提供する本だ。
そんなものが本棚にあったということは、そんな「安心感」に頼らなくてはならないほど、その婚約者は精神的に追い詰められていたのだろう。
普通ならば、『完全自殺マニュアル』は買って読まれた時点でその役割を全うする。
「いつでも死ねるという安心感」さえ提供してしまえば、いつでも精神科医に相談できる患者のように、「生きる日常」に帰って行けるからだ。
『完全自殺マニュアル』に書かれている方法を実行して、本当にこの世から「逃げ」てしまったからだ。
その婚約者がいつ亡くなったかは分からないが、おそらく『完全自殺マニュアル』を読んですぐというわけじゃないだろう。
一度読んで、一度「日常」に帰って、そこで何かしらアクションがあったのだと思う。
そして、そこで「上手く行かなかった」からこそ、まるで精神科医に再び相談しに行く患者のように、その婚約者は『完全自殺マニュアル』に頼ってしまったはずだ。
そして『完全自殺マニュアル』に頼ったことからも明らかなように、その婚約者も「誰にも相談できない」状況に陥っていたはずだ。
それが行き着くところまで行き着いて、自殺だ。
何が言いたいかっていうと、その婚約者の死因は「周囲の無理解」だということだ。
中川淳一郎本人が語っている、「(自殺の)予兆に気づけなかった」という話が象徴的だろう。「婚約者」という最も近しい立場の人間ですら、本人の抱えている「問題」に気がつけなかった。
婚約者の男が居てもこの世を去らなくちゃいけないほど、自殺したその女性は「分かられていなかった」のだろう。
以上のことから、俺が言いたいのはこうだ。
「他人の言葉に耳を塞ぐ」ってのは、こんな風に人を鬱病になるまで追い込んで自殺させることもあるってことだ。
それを中川淳一郎は、「予兆」に気がつけず婚約者を自殺させてしまったお前は、知ってるはずじゃないのか?
にもかかわらず、中川淳一郎はよくも平然とあんな風に「人の思い」を踏みにじれるものだ。
自分の婚約者を殺したかも知れない「人の話に耳を貸さない」ことを、あんな風に実行できるものだ。
元少年Aの「問いへの答え」へ呟いた感想もそうだし、『完全自殺マニュアル』の「大義名分」を語ったこともそうだ。
確かこんな風に勝手に決めつけてたな。
(引用)
「自殺する自由はある」 「苦しい時の選択肢として、自殺もあっていいのでは」 「命の大切さを伝えたい」
こういった大義名分は『完全自殺マニュアル』発刊にあたってはあったのだろう。
きちんと紹介文を読めば、この発言が的外れであることが第三者にも明らかだろう。
『完全自殺マニュアル』は、「生きるための安心感」を提供する本なんだよ。本当は自殺のためじゃない。
婚約者が亡くなった後、「本当に後追い自殺をするつもりになり、彼女が愛読した『完全自殺マニュアル』を再度読んだ」ときに目にした前書きと後書きに、ちゃんと書いてあったはずだろうが。
そういう態度にこそ自分の婚約者が殺されたかも知れないことに、どうして気がつかない?
元少年Aは外道だと、いまだに悲劇の主人公ぶる幼稚な男だと、中川淳一郎はそう言った。
だけど、ハッキリ言うぞ。
元少年Aの「なぜ人殺しはいけないか」っていう問いへの答えを、お前は「自分本位」だとか「非常識」だとか「幼稚」だとか非難するけどな、お前の書評だって全く同じだ。
『完全自殺マニュアル』や落合美砂への「自分本位」の勝手な決めつけ、記念パーティでの「非常識」で「幼稚」な不謹慎発言。これらは元少年Aの態度と何が違う?
「酒鬼薔薇は被害者とその遺族よりも、自分自身(加害者)の側の論理でいまだに語っている。」ってお前は非難するけどな、だったら自分はどうなんだ?
自分が婚約者の自殺の予兆に気がつけなかったのを棚に上げて、『完全自殺マニュアル』や落合美砂という「外的要因に」文句をつけるしかないお前の態度はどうなんだ?
「『完全自殺マニュアル』を参考に恋人に自殺された、可哀想な自分」を気取っているお前は、「いまだに『罪の十字架』に苦しんでいる、可哀想な自分」を演出している元少年Aと何が違う?
「悲劇の主人公ぶっている」のはむしろ、今のお前の方じゃないのか。
他人の言葉に一切耳を貸さない、身勝手な「自分本位さ」にまみれているお前の書評は、いまだに被害者遺族の心情に寄り添うことのできない元少年Aの「自分本位さ」と良い勝負だ。
ハッキリ言っておく。
中川淳一郎。そして、元少年Aや『絶歌』を叩きまくっているネット上の大多数の諸君。
お前らがやろうとしていることは、れっきとした人殺しだ。
『絶歌』という本人の言葉を封殺して、元少年Aの人格を否定して悦に浸るその行為は、間違いなく「一人の人間」を社会から抹殺しようとしている殺人行為だ。
かつて、どこかの誰かの婚約者を自殺に追いやった「他者への無理解」を、今度はお前たちがやってるんだ。
かつて、どこかの十四歳が、か弱い十一歳の少年を殺したようなことを、今度はお前たちがやってるんだ。
元少年Aのことをお前らは「殺人犯」だって言って罵るけどな、今ではお前らの方がよっぽど「元少年A」に見えるよ。
正直な話、『絶歌』なんていう「ポエム」を出版「しなくちゃいけない」くらい元少年Aを追い詰めたのは、俺たち社会の方だと思う。
本当にこの書籍の出版を憎んでるなら、こんなものを出さなくて大丈夫なくらい元少年Aを社会の方が受け入れてやれ。
これが、俺の精一杯だ。
昨日世話になってる女史への誕生日プレゼントを買うべく、同じくその女史に世話になってる友人と男2人で色々回ってたんだけど、愛用してるコスメブランドのものがいいんじゃないかということになって、そのブランドが入っているデパートに行ったんですね。
で、うだつの上がらない野郎二人が完全にアウェイな高級デパートに鎮座するきらびやかな化粧品フロアに足を踏み入れると、館内放送がこうなじってくるのです。
「へーい、ここは快適な生活シーンを創造するプロフェショナァルが集い、最先端のオシャレを求めるセレブ達へ提案する高級デパート。
おいそこ!そこの風俗崩れみたいなWエンジンのチャンカワイじゃない方と首を一刀両断しやすそうな一茂、お前らだよお前ら!
キミ達は田舎の養鶏場の横で売ってる鶏糞をそのまま塗りたくってパックしてた方お似合いさ。あ、発酵タイプの方が効果倍増だからね?」
そんな懐かしのおしゃれ大戦的なネタはともかく、場違いな2人がそこのコスメブランドのブースで悩んでいると、販売員の人が「プレゼント用ですか?」と声を掛けてきたので「そうなんですけど、どういうのがいいのかさっぱりわからなくて」と返答。
したら「その方がカード登録しているなら名前と誕生日がわかれば履歴からお調べ出来ますよ」って言うんですね。
ここの段階で若干ん?と思ったんだけど、伝えたところカウンターにあるノートで打ち込んで検索、おそらく一致する人が出たようで電話番号の下4桁を聞かれて携帯番号の下4桁を伝えるも不一致、おそらく自宅の固定番号を登録してるようで思いっきりその4桁を口頭で言うわけです。
とりあえず「○○区だったら多分その人です」と伝えたら「○○区○○町ですね、○○歳の」と聞いてもいない町名と歳まで口頭で。
そして『履歴から見るとこれがオススメです』って買ったものは具体的に言わずアドバイスしてくれるのかと思ったら
「限定の○○色と○○をいついつお買い上げなされているので、こちらの色がオススメです」って購入品どころかいつ頃買ったかまで言ってて驚く。
確かに「前ここの~円の化粧水買ってた」と、女史と一緒に見に来たことがあるという具体的な話もしてたり(ちゃんとその商品もあって、値段も合ってる)誕生日用ってことで最初伝えてて調べたら本当に誕生日が近かったり、男1人ならともかく2人で来店してお互いの話も一致してたから疑われなかったんだろうけど、悪意あるなら話なんかいくらでも作ったり盛ったり出来るし、こっちの身分も全く明かしてないのにそこまで言ってしまうのって相当危険なんじゃないかなあと。
後情報だけどこういうのアパレル業界でもよくあるらしく、実際彼女へのプレゼントと偽って個人情報ゲットしたのもいるとのことで。
客の趣向を共有化するのに色々手元で見れるようにはしてるんだろうけど、末端の店員が全情報にアクセスできるってのは怖いなあ。
コスメ業界上位なとこがそうなんだから、アパレル含めそんなのは当たり前なのかもしれないけども。
こっち(IT関連)の業界だと管理してる個人情報そんな感じで喋ってたら懲戒レベルだし、そもそも末端じゃアクセスすら出来ないのにね。
十年前からネットに詳しかったであろうのに、今更「武田邦彦がデマばかりで」云々と噴き上がっている人たちを見ると、何を見てきたのかなあと思います。こういうことをする人だということが、2011年にはもう広く知れ渡っていませんでしたか?
ペットボトルのリサイクルは駄目という説に対する反論が目立たない理由
http://archive.wiredvision.co.jp/blog/fujikura/200804/200804041200.html
1と2の議論では、双方が主張する数値が違っている。武田さんは、「国のデータが信頼できない」から、「独自に計算」したデータを使っていると言う。しかし、環境省が実数を何倍もゴマかしているとはちょっと思えない。また、武田さんがPETボトルリサイクル推進協議会から引用したとする「再利用量」データは、「捏造」であるとデータ元とされた同協議会が指摘している。武田さんも協議会や環境省のデータが信じられないと主張するのならば、「独自」の計算の根拠を示すべきだが、見たことがない。
3の議論は、かなり前から武田さんが主張している。しかし、森口さんや安井さんが指摘するように、「お金が3倍かかるから、エネルギーも3倍かかる」という主張は理解できない。金額とエネルギー消費は必ずしも比例しない。グリーン車に乗るには普通車の2倍近いお金が必要だが、だからグリーン車での移動は普通車の2倍エネルギーを消費するとは言わない。リサイクルも同じ理屈である。人手を使って、分別収集すれば人件費がかかるのは当たり前だが、それによって化石燃料の消費が増えるわけではない。
武田さんの言説は一刀両断歯切れが良い。「駄目!」と言明する。しかも、リサイクルは良いという「常識」に挑戦している。だから、マスメディアにも受けるし、市民が受ける印象も強い。結局、多数の研究者の「学者っぽい」指摘よりも、武田さんの断言が勝ってしまう。
ちきりん女史の評判が悪い。
ここ2年ほどで、永らく切れ味の鋭いテキストで人気を博してきたブロガーの権威失墜が目につく。
いろいろ理由があるとおもうけれども、その一刀両断型のレトリックがあまりにもくりかえしつかわれたが故に
彼らが何をいっても「既視感」が醸成されてきたがゆえではなかろうか。
一度そういう感覚を得てしまうと、また同じ構造のテキストをみると「もうその手には乗らない」と身構えてしまうし反感も感じてしまうのだろう。
論客に対する信頼の担保になるのは、ロジカルな切れ味ではなく、最後には「テキストに倫理感が通底しているか」というところに尽きるとおもう。
倫理感がベースにない論客はもう賞味期限が切れたのだ。ひろゆき氏とか池田信夫とか(同列に扱うのはどうかと思うがイケダ某とか)
全国のトルシエ信者同志よ、今こそ声を上げるべきではないのか。オフト?あの当時のレベルをちゃんと教育できたってだけでしょ?岡ちゃん?二回とも想定外の代役でしょ?
いや別にトルシエもっぺん呼んで来いと言ってんじゃないの。あの時の真剣さ、ベンゲルに何度断られてもすがりついて、
そのベンゲルが推薦した人物を一に二もなく採用、どれだけマスコミにバッシングされても(一応)(ふらふらしながらも)守り通した、あの泥臭い精神を日本サッカー協会は思い出すべきなんじゃないのかってこと。
だってクライフとかにもオファーしてたんだよ昔は。バカだね。でも成り上がり新興中堅国がお利口さんでどうするの。我々は辺境の島国なんだよ。身の丈に合った手堅いチョイス、なんて上手く出来るほどの蓄積はないんだよ。
韓国みたいにせっかく神奇監督で金字塔打ち立てたのにまた自国人監督にこだわって、なけなしの自国英雄の名に泥を塗るのを繰り返してるよりはましだが、結果的にやってることはそう変わらない。(それにこっちには古英雄がそんなにいない)
2002年からこのかた日本サッカーの「地位」は一歩も進んでいない。そりゃ世界も進歩しているが、日本は遅れながらのたのた付いてきているだけだ。これが目指していた場所だったの?W杯自国開催(共催)できればもう終わった話なの?
中堅どころの監督なんて性格に問題なければたいていただの世渡り上手だ。メディアとは上手くやっていけても肝心の腕はそれなり。なら見どころのある問題児の方がいい。むしろ正確に難のある方が日本代表監督には向いている。
以前本田圭佑が「日本のストロングポイントはチームワーク」なんてことを言っていたが、もはやはっきりした。日本のウィークポイントはチームワーク。ザックやジーコのように「選手の自主性を尊重する」監督の下では日本代表は同じ症状に落ちいる。それは「エースの顔色を伺うサッカー」だ。ボールを持ったらまず本田を探す。「本田くんこれでいいかな?」というサッカー。ミスすれば「本田くんごめん!」というサッカー。今なら本田、昔は中田。
それを打開し秩序を打ち立てられるのがトルシエや岡ちゃんのような戦術主導の監督だ。エースと言えども戦術のためにはためらわず外す。(トルシエは中田を外すことまではできなかったが)
できればトルシエのように「俺が首領だ!」と主張するタイプがいい。そうすればサッカー選手に必要なお互いの対等意識が生まれる。
日本サッカー協会はトルシエで懲りたのかもしれないが、「日本の文化に理解のある外人」など選ぶべきではない。我々は厳しい勝負の世界で「和」を尊ぶことのできる民族ではない。気遣いと嫉妬と常識と僻みと気おくれと尊大と仲間意識と階級意識にがんじがらめになる民族である。
ゆとりちゃんは聞くなんてプライドが邪魔して…ってなるんだろうし、ゆとりじゃない自分は「聞いていいの!?ごめん、聞き方わかんない!どこまで聞いていいの?聞いていいって知らなかったからわかんない!教えて!」ってなってしまいます。
自分で考えられるところは自分で考えようとすると自分で考えてるより聞いてさっさとやったほうが効率いいだろって言われるし、ちょっとでも躓いたら聞こうとすればちょっとは自分で考えろって言われるし
それでも教えてくれる上司は優しいと思うし、仕事が遅れたら尻叩いてくれるなんて親切だなあ……って思います。
学生時代はわからないところを教授に聞きに行くと「なんでこんなのもわからないの? 授業の内容でこれが理解できないようならこの学校向いてないってことなんじゃないかな^^」と一刀両断でした。
いや勉強教えるのがあなたの仕事では……「君に熱心に教えたからって言って給料上がらないし。他の子はほっといても理解してくれるよ?」
卒研もほったらかしでした。「尻とか叩いてくれないんですか?」「僕になんの得があるの? サボってダブったら君の問題じゃない」
なにやら風評被害というものが、一部の扇動者の空虚な妄想による破壊行為であるかのような論調が目立つ。
かくなる無知蒙昧は、科学的真実の剣にて一刀両断できると信じているのだろうか。
政府の出した復興予算には、風評被害への補償がきちんと組まれている。
かく言う俺もその一人。
そして、厳然たる事実として、さっぱり売れない。
多くの人は、ある程度わかっているんだろう。その食品はきちんとした検査を経て、ある程度の安全が担保されたものであることを。
しかし、好んで買おうとは、思わない。
なんだか気持ちが悪いから。
福島産の野菜を好んで買う人であっても、チェルノブイリ産の大根も、スリーマイル産のアジフライも、好んで買うような酔狂な人はいないでしょう。
もう世界のマーケットでは、福島県の産品は、殆ど全て競争力が無い。
それは日本国内においても、そうなんだろうし、人々にその記憶がある限り、それはずっと続く。
それが風評被害であり、それらは(その人の信じたい)科学的なデータの裏付けを以ってしても、それを解決することはできない。
俺は原発に対する賛否を問われるならば、安い方がいいんじゃないのか、ぐらいの考えでしかない。
これはあまり意味のあるデータでは無いかもしれないが、一説には、原発一基あたり2千年に一度の確率で、重大事故が起こるらしい。
数百万年に一度とする(電力会社による)データもあれば、300年に一度とする(民間損保会社)データもあるが、概ね二千年に一度と見ていいだろう。
日本に50基ほどあるわけだから、40年に一度の確率で原子の釜が割れるというペースになり、現時点ではそれほど大きな乖離はない。
現在、化石燃料による発電で、燃料費が年間3.6兆円ほど費用が嵩んでいる。
対して、原発事故の処理には、その試算にもよるが、現在までに12兆円、以後廃炉までの数十年の間に年2兆円ぐらいが費やされるという。
今回のフェーズが終わった後の40年のサイクルで見た場合の、単純な損金の比較では、五十歩百歩といったところだろうか。
無論、今後、原発の技術が進み、放射能汚染の浄化技術も効率化することだろう。
また、化石燃料に依存していては、二酸化炭素削減の国際社会の趨勢に伴い、立場が危うくなることも予想される。
そして最も大事なのが、日本のエネルギーを海外からの輸入に依存するとなれば、戦略上非常によろしくない。
それら国家戦略上の潜在的なリスクは、お金に簡単に換算できるものではない。
当然、原発を存続させる事によるリスクは現在進行形で進んでおり、それは一々挙げ連ねることが億劫なほど大量にして雑多な、今現在向き合っている問題であり、今後さらなる問題が噴出するんだろう。