宗教がその代表格だと思うのだけど、現実を見ないことは本当に気楽なのだろうと思う。
逆か。現実をしっかり見つめることが本当に辛いことなのだろう。
時折、終末医療における科学的根拠を一切排除する人に対する是非なんかが耳に入ってくる。
人のことを好き勝手言うのは自由だが、いざ自分の目の前に死が迫った時にその辛さを受け入れられるかどうかは、その立場になってみないとわからないのだと思った。
どちらを選んでも余生にそれほどの違いがないならわたしは辛くない方を選んでしまうかもしれない。
この所よく年配者と口論をしていた。年配者といって60にも満たないくらいのまだ現役で働いているものたちだ。
彼らが口にすることは一様に現実的ではないのだ。
その最たる例は、「全てのアレルギーは簡単に治療できる」というものだった。
わたしの身の回りにはアレルギーで苦しむ子どもたちが沢山いる。
辛い治療に耐えながら、食べたいものも食べられず日々悩み苦しんでいる。思いがけず発症して苦しんでいる姿だって何度も目にした。
そんな姿を目の当たりにして、どうして「簡単に直る」などと口にできるのだろうか。
本当にそれが疑問でならなかった。
「俺が教えてやる。」一言そう言い放ったのだ。
当然相手は医者ではない。今まで誰かのアレルギーを直したこともない。
しかし本人がいうには、自分は治療法を知っているのに相手が聞こうとしないのが悪いということらしいのだ。
その一言で、議論をする意味も気力も根こそぎ奪われてしまった。
その瞬間は大切な時間とエネルギーを最も無駄なかたちで消費してしまったと悔やんだものだった。
ただ、正直そこまで突き詰めて相手の話を聞いたこともなかったわたしは、そのことがしばらく気にかかった。
どうしてそこまでに正しさへの自負がもてるのかが不思議でならなかったのだ。
それからしばらくして、とある著名はてなユーザーの行動が、その人と似ているということに気がついた。
いくつかの決め台詞だけで次から次へと記事を一刀両断していく痛快な人物だ。
(本当は感謝を伝えたいところだが個人名は避ける。憶測もやめて欲しい)
その日も彼はわたしの書いた増田をばっさりと両断して見せたのだが、よくよく考えてみるとわたしは自分が斬られていないことに気づいた。
しかしそんな彼がとある記事へのコメントで普段は見せないような姿を見せたことで、彼が何を斬り続けていたのかがわかった。
いつもは人を人とも思わないような態度で斬り捨てていくくせに、彼はその日、世界とは優しいものだといってのけたのだ。
それで合点がいった。彼が斬り捨てていたのは自分自身に対する甘さだ。
自分の見たくないもの、関わりたくないものを忌むべきものとして括り斬り捨てることで、自らの迷いを断ち切っていたのだ。
その時わたしには、そこに振り切らんばかりの強さと弱さとの両方が見えた気がした。
そこにある現実を受け入れることのできない弱さを、自分なら解決できると思い込むことで強さに置き換えているだけにすぎないのだ。
素直に弱さを認めていればさらなる強者に叩かれることもないのに、なんと悲しい生き方か。
そこで考えてみると、彼らには共通して彼ら以上に強い人間が周囲にいないことに気づいた。
選んだつもりが選ばれていたかのような、どちらにしても誰もが小さなコミュニティの上に立って孤立していたのだ。
わたしが是非を決めるまでもなく、すでに世の中から是非をつきつけられていたのだ。
わたしが強い人間だということをいいたいわけではないし、わたしは自分が強い人間だとは思っていない。
しかし、わたしより弱い存在がある以上、それらを脅かすものから守ってやりたいだけなのだ。
わたしが無意識に目を背けている現実はどれほどあるのだろうか。
知らず知らずのうちに誰かから何かを奪ってしまうことのないよう、自分の力とは正しく付き合わなくてはいけないのだと改めて思うのだった。
相手の内心を決めつけて勝手に理解した気分になってウエメセで流してあげようとか思ってんだろうけど痛いとこ突かれた自分は存在しないかのように振る舞ってる時点でもうアレhttp://a...
白人に管理された時しかまともに機能しないのに先進国連呼とか 進駐軍が整備した法律でブラック企業叩きしてるくせに進駐軍がいなかった戦前戦中は今よりブラック労働環境まみれと...