はてなキーワード: ナンセンスとは
そうか私が働いてるのか
教訓 頭は毎日洗ったほうがいい
働いたら負けかなって思っている
次は文章を書き続けて
とざまの考え方
ヘテロ劣勢でない
そんなにかんしょうするな
期待の裏返しだったらいいけど
なんのためにここにいるのっていうのじゃなかったらいいけど
給与発生してるなら楽やなってなるけど
エッジによっちゃってる
目をつけてる人はいる セトルしてるけど ここでたあとは
ぼくを外側からみようとする せんえつでナンセンス 実態にたどり着くことはできない
虚心坦懐に封印する すいませんっていって戻る
見えるときは府交感神経優位なのか
ホームレス 現状に満足 困ってない
300円 落とす振りした 卑しい人間だ
大学 流されて決めた
プライド高い
人生のモヤがとれない
おれがもらえてない ニン
流されて生きてきた
ダラダラしたいのかな
起きたら学生になってたらいく
ってことはダラダラしたいわけじゃない
選択を迫られるのが苦手
自ら環境を変えに行く人はなぜ
人間はなれる生き物
単純に価格が上がるというだけで反発は起きる。
消費税上げたら企業は増税分そのままとまではいかないまでもある程度は値上げしないといけないのは消費者も分かってるんだから。
さっき説明した消費税=売上税と分かってる人にとっては事業者への赤字黒字関係ない増税と分かってるからこれも理由に反発発生する。
消費税の逆進性問題やマクロ経済への負の影響からも反発する人もいる。
というか現状確定申告自分でしてる人の方が圧倒的に少数派なんだから全員が関与してる消費税への反発具合と比較すること自体ナンセンスでしょ。
仮に消費税に強い納税意識があるなら企業が消費税納入出来なかった場合その企業に”俺がお前に預けた税金を払え”とクレームいれる人がいてもいいはずだが、そんなやつがいたという話を聞いたことがない。
君が言ったのは「教唆成立」じゃろ?成立から完了になっちょるという言葉が理解できとらんのかな?
教唆「罪」成立とは言ってないという言い訳もナンセンスじゃなあ
「教唆」という単独の単語が法的概念として存在して、その「成立」が法学で問題にされているという基本的な知識もないことを自白してどうするんじゃ?
サイクルの一部を取り出して云々するのがナンセンスだということだよ
https://anond.hatelabo.jp/20240817215752
興味深い増田だったのだが良く分からない点があったので書く。なお本文章は山田太郎議員を擁護する意図を持たないが、結論としては「ワード規制を行わないと言質を取ったこと自体は、やはり暫定的に正解だったのではないか」になってしまうこと御了承頂きたい。もちろん私の書いていることが全部間違っててトンチンカンな可能性はある。
まず元エントリは(うがった読み方で恐縮だが)CSAMなら自動的、いっそ自然現象的に止められるようにも読めてしまうが、それは違う。誰かが声を挙げなければどんなCSAM(か何か)でも野放しにされてしまう。
だからある人は声をあげ、またある人や組織は声をあげられる面倒を怖れて自発的に規制する。空気や忖度(この言葉は好きではないが)、大企業が勝手にびびるのもGoogleがなんか言い出すのも、「現実的には野放しになるわけねーだろ」も、立派な「声の結果」なのだ。
言い換えれば、VISAだろうがアクワイアラーだろうがなんだろうが堂々と「fanzaやDLsiteはCSAMを扱いまくってるので抑圧します!」といくらでも公言していいはずなのだ。人を助けたり守ったりすることの一体何が問題なのか。もちろんVISA本社はやってないんだから公言もクソもないだろというのが正解なのだろうが、だとすれば誰が具体的に声を挙げた(あるいは架空だが重要な声をおそれた)のか。
とらのあなの例では『決済会社様より』と、VISA本社ではないにしてもプラットフォーマー側から文句が来たことは明言されている。だから我々が本当に要望しなければいけないのは、『犯罪とみなす基準を変えろ、である。』ではなく、『お前らのやってることは犯罪だから諦めろ、という主張を、隠さずきちんと署名入りで公言してほしい。』ということなのだ。生活や尊厳のために匿名性を必要とする個人や集団なら、そのような暴きは許されない場合も多く強くあろうが、クレジットカード関連のプラットフォーマー側企業なら署名入りでいいはずだ。
結果としてホッブズ的なつまらん万人泥試合が起きるかもしれないが、本来「話し合おう」とか「相互理解」とか「対話を拒否するな」ってそういうものである(そして繰り返すが相手は企業であり人間ではない。人間の集合体ではあるにせよだ)。まあ単に理念面ではなく実装面で難しいということもありそうだが(なんせクレカでお金を直接やりとりする界隈なれば、守秘義務はいろいろ大変だろう)。
もうひとつ気になったのは、CSAM(か何か)の具体的な抑圧方法についてこそ、ワード規制が十分有効と思われていることである。思われているってまあ私とかその辺のオタクが勝手に思っているだけかもしれないが、少なくとも「あいつらワード規制してるに違いねえ!」と推測(あるいは誤解)するに至った経緯ははっきりとある。DLsiteの用語言い換え問題だ。
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2403/27/news095.html
元エントリの例えと推測を借りて言えば、DLsiteは「コカインを”雪だるま作ろう”に、LSDを”TB-303なかよし”に……と淫語じゃなかった隠語に置き換えればなんとかセーフでは?」とあくせく努力していた訳だ。そもそもそういう手段に至ったことからも、ワードとCSAM等が密接に関連していた(あるいはDLsiteがそのように勝手に判断する事情が生じた)ことは伺える。
そもそも、あるコンテンツや表現がCSAMやそれに類する要規制表現であると——どちらかといえば理念より実装的レイヤーの話として、また基準が甘くなる売り手側ではなく厳しくあるべき規制側として——断定するにはどうするのか。いちいち一個ずつ動画やCG集を開いて確認するのか。確認者の価値観や倫理観(あと健康)はどう担保するのか。もちろん世の規制や確認には、マジで人力頼みでやってるケースがかなりあるそうだし(本当に健康を崩す人もいるという)、これをAIに代替させようという話は(2024年8月現在の日本国内では)実例あろうともまだまだ発展途上で「話を逸らすな」になる。
確実性はある程度妥協するとして、素早くCSAMっぽいものを一網打尽にするにはどうすればいいのか。というとやはりタグ、タイトル、それらに紐づく検索性……言葉を狩るのがもっとも効率的だろう。素早く、というのは社会に於いてクソ大事であり、表現で傷つく人を一刻でも早く助ける必要もあれば、その辺の暗黒メガコーポ風情の株価が分単位で傷つけられるのを防ぐ必要もある。
以上から、とりあえず心当たりのあるところ、のそれも上位から、「お前ワード規制した?」と聞きに行くこと自体は、そこまで無意味やナンセンスではないと考える。二次元CSAMが規制されて当然というのなら(まあ当然っちゃ当然だとは思う。程度問題に留めたいところだが)、堂々と「この基準と理由により我々が規制してやりましたぁ!!!」と首を獲った旨叫べばいいのであり、そうでないから我々オタクが「えー、基準が不明瞭ですと、CSAM以外の表現の自由も危ういのであり……」などとダラダラと騒いではいるのだ。
「読書力」(著:齋藤孝)という本に、「本を読まなくてもいい、なんて言う読書家はフェイクだ」的な記述があるらしい。僕はこの本を読んだ事があるのだが、実際、そのような記述があったような記憶がある。だが、そんな事は忘れていた。この前、Xでこの本を読んだ人が、その記述についてポストしていたのだ。ところで、恐らく、齋藤孝は「フェイク」などといった言葉は使っていない。大胆な意訳を試みた事になる。
さて、ここら辺で僕は教養に関する見解を雑多に書き殴ろう。昨今、中学、高校レベルの知識を元に、日本人の教養を誇る、大変恥ずかしいポストがよく流れてくる。耳なし芳一に至っては小学生や幼稚園児なのだが、これが「分かる」のが教養らしい。
問題は、彼らが日本ageをする時に、諸外国に比べて、実態的に、どの程度日本の教育が優れているかを体系的に論じている訳ではないことだ。もしくは、それを論じた論文の一つも引っ張ってこないことだ。この時点で教養がない。というか学術的態度を持ち合わせていない。無論、そもそもの突っ込み所は、日本で耳なし芳一という話が共有出来るのと同様に、諸外国でもそれぞれの国での逸話などが共有されている可能性の話である。そこの精査もなしに、日本を持ち上げるのはナンセンスだ。
ところで、日本人は教養がある、外国人に比べて、みたいな話はとても気持ち悪い。外国人が日本人に対して何か言ってきたのだろうか。そうまでして日本は凄いんだと言い張って、本心では何をしたいんだろうか。この発言は、事実に関するステートメントだが、この事実をピックアップしたい心理を考えてみよう。
言うまでもない。経済でボロ負けしている、上にクソブラックな労働環境で、諸外国の人々(アメリカとか)の方が金持ってて羨ましい、悔しい。こんな所だろう。ドイツ人は労働時間が短い。悔しいよおおおおおおお。発狂。日本人はIQが高い!それで?この態度自体がIQが低いし教養もない。
そもそも、教養というのは、「教養ない」のが大半で、「ある」人などひと握りである。世間的には教養があると言われる人は、「自分なんてまだまだ不勉強」と言うぐらいで、そこを突き抜けたごくごく1%ぐらいの人が教養人である。訳の分からぬ無教養アピールを展開し、相対評価で俺を付け上がらせるのを辞めて欲しい。僕なんて、まだまだですよw
こういう事を宣う大半が、殆ど学問と言われる営為を行っていないのは明白だろう。学術書なんて月1冊も読んでないのが殆どだ。コイツらに本物の教養マウントを食らわせてやりたい。
「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。」そもそも、学問なんてものは、「知りたーい❤」「楽しーい❤」ので、皆やりたい癖して、「私頭が悪いから…」とか「難しくてわかんない…」みたいな雑魚が楽しめない、厳選選民・雑魚淘汰趣味なんだよ。「教養なんていらないっすよ!衒学者乙!」みたいなのは、楽しくゲームが遊べない雑魚のすっぱい葡萄に過ぎない。楽しいからやるの!
読む意味あるの?とか学ぶ意味あるの?とかバカじゃねーの?プラトン読めて楽しくない事あるか?シェイクスピアの韻文を英語で読めて楽しくないとでも?つまり、学問という広大な世界に繰り出ないで、「いや経験が重要で…」とか言い出してるのが負け犬仕草なの。遊びなんだよこっちは。
というかね、ここが分岐点でさ。逆にこういう学術書とか読むタイプの人間は、大抵のアカデミックな話を友達にされても、分かりやすく説明されれば理解出来る。文理問わず。ところが、この手の教養負け組共は、理解できない上に教養マウントを取られたと思い込む。世界をエンジョイ出来てない奴らは更に人生クソゲー。面白いアカデミックな話が理解できない上に、そういう人間に嫉妬して仲良くなれない。可哀想!
最初の方にも書いた通り、教養があるなんて言えるのはごく一部の人間だ。だけど、この手の、若干のアカデミック力を身につけてないと、クッソ惨めな人間になるんだよな。「本当に教養のある人間は〜」とか、いやお前はどれぐらいの知識量があって、どれぐらい精神が涵養されているの?読書メーターを開示しろ。
という話だよ。Xで「教養」について語った奴、全員読書メーターを開示しろ。じゃないと話にならないよ。ところで、言っておく。君が読んでる本が、リチャード・ドーキンスだろうが、マイケル・サンデルだろうが、國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」だろうが、決して馬鹿にはしない。その大海原に一歩を踏み出そうとしている勇者は、讃えよう。
最近、生成AIに対して「電気の無駄遣いだ」という批判を目にするようになった。ちょっと前のマイニングと同じような感じだ。
この系の批判を見るたびに疑問に思ってるんだが、新技術なのだから電力を使うのは当たり前では。
例えば仮に”全自動洗濯物折り畳み機”が開発されたとしよう。当然全世界で普及し莫大な電気を消費するようになる、だがこれは無駄遣いなのか?
これが無駄遣いというのなら洗濯機はどうなんだろうか、ほかの家電は良いの?
こういう事を言うと「家電は生活に不可欠」と言われそうだが、じゃあゲーム機はどうなんだろうか。あれもかなりの電気を使っていそうだが。
俺は現役自衛隊なので「やす子」みたいな古巣をネタにする芸で食ってる奴らが嫌いだわ。
アイツらって結局は「自衛隊ってマジでアホですよね。何が敬礼!だよwwwwwww」みたいなネタでメシ食ってるじゃないですか。
でもそれって失礼じゃないですか?
たとえば昔ラーメン屋でバイトしてたと言ってラーメン屋のコスプレしてる芸人が「ラーメン屋って本当に馬鹿なんですよね。何がウチはスープから味わってよ!(腕組みしながら)だよwwwwww」とかやってたら凄い失礼じゃないですか?
少なくとも一時期はお世話になってた場所に対してそこまで露悪的な態度で接する必要があるのかなって?
辞めたゲームに対して10年も20年も「そもそもコンプガチャみたいなのやり始めた時点で終わってんなと俺も思ったのよ。でもサークルの友達とギルド組んでるのにそうそう辞められないじゃん?過去問とかも貰ってるしさ」みたいなことをネチネチずっと言ってる人みたいなキモさがあるなと。
つうかさ、結局の所は「俺もうコイツらとはやってけねーわ」と出てっておきながら、その格好を続けてキャラを立てるってなんか変じゃないですか?
ずっと「俺は香川出身だけどあそこのうどん狂いは本当にキモいよ。小麦の輸入規制でもかかって一度うどん依存を抜くべきだわ。白砂糖中毒とかだと思うんだよねもはや」と言いいつつ看板に「香川県出身先祖代々」と書いてるうどん屋さんみたいなもんじゃないのそれ?
マジでありえんと思うよあの態度。
性格の話じゃないのよね。
芸人としての姿勢、社会人としてのスタイル、縁のある人に対しての礼儀、そういう所の問題なの。
自衛隊を半分コケにしながら自衛隊のコスプレをして、その上で「元自衛官です」で売ってる。
その状況からマジメに「私が自衛隊を辞めてしまったのはこことここが駄目だったからです。これでは皆長く続けられませんよね」って真剣に語ってくれるならいいんだよ。
でもあの人って本当にただただ自分のキャラ作りのために自衛官の格好してコスプレ芸で笑いを取ろうとしてるだけでしょ?
たとえば全然ドラゴンボール好きじゃないのにフリーザやナッパのコスプレしてる芸人がいたらそれはただの冒涜じゃないですか?
そういう態度をね、国防っていう要るんだから要らないんだか分からないけど辞めたら中国やロシアがやってきて国が滅びはするってことだけはなんとなく分かるなんともモヤモヤするもののために働いてるナイーブかつエッセンシャルな我々にぶつけてくるのが本当にナンセンスだなって。
映画やアニメが好き、読書が好きって冷静に考えると趣味の説明として大雑把過ぎる。前々から思ってたけど。
実際おれも「映画が好き」という認識は普通に持ってるけど、じゃあどんな映画もあまねく好みかと言ったら別に全然そんな事はない。
あとそもそも答え方として変な気がする。それって媒体でしかない訳で。
ギターが好きは分かる。ギター演奏はギター演奏でしかなくて、それはまあ心地良い音を出す事のがほぼ唯一の目的だろうから。サッカーが好きもそう。サッカーはサッカーでしかない。サウナもスニーカー集めも座禅も同じ。
でも映画や本って違う。
フィクションでもドキュメンタリーでも解説でも何でもいいけど、とにかく何らかの題材がなければ何も始まらない訳で、メディアはその表現手段に過ぎない。目的ではない。
まあ題材なんて何でもよくて、そのメディアに接するのが好きというのもありえなくはないかもしれない。
内容は何でも良いから映画を垂れ流しソファでゴロゴロするのが好き、とか。ただそれはもう映画というよりリラックスするのが好きとでも言った方がより的確な気がする。
コレクションの対象として本が好き、みたいに情報を伝達するツールではなくモノとして見るなら、それはスニーカー集めみたくそれ自体に価値が発生するかもしれない。でも「本好き」と聞いて、常識的に考えてそういう楽しみ方を想定するだろうか。
積極的に内容を脳みそに入れる体験を伴う限りは、やっぱりメディアは常に手段としてあるんじゃないかなって思う。
上手い例えが思いつかないけど、箸を使うのが好きです、とかスプーンを使うのが好きですって言ってるようなもんじゃないか?映画や本が好きって言うのって。
普通は食べ歩きが好きです、こんな料理を食べるのが好きです、って言うと思う。
となればフィクション(じゃなくてもなんでもいいけど)が好き、という前置きをした上で、その表現手段とての映画が好きなんです、とでも言った方が的確なのではなかろうか。
どんなストーリーだって誰かの頭の中を漠然と漂っているだけではこの世に存在しないも同然で、それを言葉に起こして初めて脚本になる。言葉というメディアなくして世界には存在出来ない。
それを言葉のまま小説にしてみるか、あるいはアニメーションや実写映像に変換してみるか。メディアごとに特性というものがある。
あえて言葉でだけ伝えた方が読み手の想像力を掻き立てるかもしれない。
斬新な世界観に、まだ誰も見たことがないような映像をつければ衝撃を与えられるに違いない。
TVアニメなら短めのを何本も、映画なら数時間をまとめて一本ドンと、という利便性の違いなんかもある。
フィクションでなく社会現象の分析に関するアイデアだったのならわざわざ映像をつける必要もない。
メディアとそれを通じて得られるアイデアは互いに不可分で、その存在形式はしばしばアイデアの性質を反映する。
なら趣味をメディアの種類で語るのも、必ずしもナンセンスという事にはならないんだろうか。
でもやっぱ映画という媒体に先んじて具体的な中身の方が大事な気もする。好みも青春作品やヤクザ映画やSFアクションとかに偏ってるし。ミュージカル映画なんてまるで観る気がしない。
でもでもやっぱり好きなタイプの物語を映画というメディアでコンパクトに、目にも楽しく享受するのが好きって気持ちもある。アクションとか絵面の外連味を期待している時なんかは、内容にはさほどこだわりがない気もするし。もちろんマトリックスみたいに画も話も良ければ最高だけどね。
アニメなんかは更にメディアとしての特性に魅力を感じる。完璧に偽物の世界の中で、全てが等しく本物として存在するのはやっぱ美しいよね。そこに美しさを感じる。
映画のCGなんか、なるべくそれがそうであると気付かないようにあって欲しいと思ってしまうし。本物の人間が架空の人格を演じていたりするし。
あとシンプルに萌え萌えキャラクターは実写の人間の映像からは決して得られない感情を呼び起こしてくれる。
もちろん内容も気にはなるけど、アニメはアニメというだけで愛してしまう節があるかもしれない。
おれに限って言えば、特定の傾向の物語、及びそれに付随する必選の表現手段として映画ないしアニメの形態が好き。
VRChatでフレンドの話を聞いてVR演劇に興味を持ち、VR演劇のYoutube配信アーカイブを少し見てみた。
あらかじめ言えば、全編見るには耐えられず、飛び飛びで表現を確認しただけである。
ちなみに、実際にVR演劇をVRで1度だけ見たことがあり、それは全編見た。
私自身の演劇の関わりを話すと、学生時代は演劇が好きで、多いときは年間60本程度観劇し、自分で舞台を演出したことも何度かある。
最近は全く関わっていないけれど。
それで、VR演劇を見てみた率直な感想をいうと、現状ではVRで演劇の良さを表現できているとは思えなかった。
まず、個人的な考えとして、VRにも関わらずプロセニアムアーチの中でやる芝居はナンセンスだと思う。
正直言って、今の技術ではアバターにどんな細かい演技をさせたところで、リアルな人間から出るオーラに比べて、アバターから伝わるものは100分の1も満たないと思う。演技自体に魅力を感じない。
にも関わらず、VRという空間にもかかわらず舞台と客席をわざわざ分けて見れる部分を限定することは、あまりにもリアルに比べて不利な条件で戦いすぎていると思う。
勝てる要素がないどころか、演劇の魅力を一切表現できず、下手なお人形遊びを見せられているようにしか思えない。
お人形遊び感を更に増しているのが、アバターの統一感なさである。
アバターを統一感を持たせるのは大変だということはもちろんわかっているが、美少女とおじさんのアバターのテイストが違いすぎて、違うおもちゃの人形を使っている感がすごい。
前述のとおり、細かい演技も表現できないから、余計におもちゃ感。
それをカバーできる演技力もないから(当然で、一流のプロでも難しいと思う)、見るに耐えない。
そんな悪条件のなかでわざわざプロセニアムアーチの中で勝負する意味はどこにあるのだろうか。
やるだけ無駄。演劇の魅力を伝えるどころか、ただでさえ受け入れられていない演劇をよりつまらないものとして発信しているように思える。
その打開策として、最初は劇場のワールドだけど、開始すると劇場が壊れて、舞台セットが現れるといった演出を行っているのもあった。
プロセニアムアーチの破壊としての演出自体には、VRならではの表現方法としてなるほどとはおもったけれど、どうやら客席自体は固定で、観客は結局固定した位置から見ることしかできないみたいであり、プロセニアムアーチ自体は破壊しても、本質的な第四の壁の破壊にはならず、結局は同じことやっているなと思ってしまった。
第四の壁の破壊を目指したものとして、体験型VR演劇と銘を打った作品があり、これはなかなか挑戦的だとは思う。
観客自体がワールドを移動しながら、また物語としての役割を与えられて、役者から行動を促されながらストーリーが進んでいく。
これはVRだからこそ作りやすい作品ではあると思うし、VRならではの演劇を目指そうという気概は感じられた。
ただし、こういった体験型コンテンツというのは、現在はリアルでも相当アプローチをかけられている分野で、ネットコンテンツが全盛な今、リアルの生き残る可能性として大きく取り扱われているものだと思う。
単なる体験型として見ると、インターネットコンテンツとしては挑戦的かもしれないけど、やはりリアルコンテンツと勝負するとどうしても分が悪い。
もう一歩踏み込んだ演出がなければ、これも正直VRならではなものとも思えない。
VRでリアルに勝てる可能性のある分野はリアルでは再現できないほどの視覚表現を駆使することだと思うが、これは映像アーティストが本腰入れたらできるものであり、VR演劇を行うような団体でそれを駆使するのは、まだ厳しいと思う。VR演劇のほとんどは無料で、参加者の自己表現の範囲内だから、予算のかかることは難しいだろう。
映像アーティスト志望の人がVR演劇に可能性を見出してくれるような魅力を表現できれば、そういった道もできてくると思う。
現状でいえば、VR演劇は実際の演劇の何段も劣る環境下で、同じ舞台で勝負している印象があり、これでは勝負にならないどころか、演劇の魅力がほとんど伝わっていないなと思う。
もっとVRならではの視点での演出や構造を表現してくれれば、VR演劇の可能性を感じることができるのだけれど。
個人的には、VRならではの演劇演出というのは一つ思いついているものもある。
演劇ならではの良さを、更にVRで伸ばす事ができるという視点があると思う。
そんなに特異な演出ではないから、すでに誰かがやっていると思うし、もしかしたらうまくいっていないのかもしれない。
これについては、もう少しちゃんとVR演劇を見て、有効性が確信できたら書いて見るかも。
ちゃんと傾向がみえてきたら、VR演劇論的なものもできてくるんだろうね。
VRならではという意味では、まだまだ課題はたくさんあると思ってはいるけれど、私がVRChatを始めたばかりの2年前に見たVR演劇はVRとはまた違った視点で可能性を感じたことがある。
その演劇自体は、舞台上で行われる普通の舞台で、第四の壁を破壊する行為として、キャストが観客に語りかける演出があった。
それ自体はリアルな演劇のアプローチと一切変わらないものであったが、観客の反応が違った。
そのキャストが観客に語りかけるシーンは、登場人物の少女が競売にかけられるといった内容で、キャストが観客に対して「◯◯円からです。オークションスタートです」みたいなセリフ?(うろ覚え)を言って、観客を競売の参加者に見立てて問いかけた。
これがリアルならば、ほとんどの場合は観客は反応せず、あたかも観客が競売しているかのようにキャストが装い、劇を進行させることが多いと思う。もしくは観客に仕込みをいれるかだ。
でも、VRChatは違った。
観客が突然ロールプレイを始め「いくらだ!」「この娘ならこれくらいの価値はあるはずだ」みたいな声を上げ、演技をし始めた。
多分仕込みではなく、自然発生的に観客がキャストになったのだ。(仕込みだったら申し訳ないけど)
VRChatを行っている人がロールプレイをして遊んでいる人が多いからこそ、発生した事象だと思う。
また、それを行うことが許される空気がVRChatにはあるのだと思う。
いくらロールプレイに慣れている人でも、リアルの舞台で振られて、観客席からそのようなことができる人は少ないと思う。そして多分リアルだとその行為自体を嫌がる観客も少なからずいるだろう。
私はここに、新たな第四の壁の破壊の可能性を感じることができた。
これ自体はVRじゃなくてもできることであるが、ロールプレイという訓練をされた観客、また観客がロールプレイをして許されるという空気感。
これはリアルではなかなかできなかった文化の形成ができているということで、リアルよりもVRが進んでいるものだと思う。
これは反応がなければ白けるだけのリスクある演出だけれど、きっと演出側は観客がロールプレイをしてくれるという信頼の元行ったものだと思うから。
とにかくこれにはすごく感動した。
ライブのコールアンドレスポンスのような観客との一体感を演劇で出せるとは。
この舞台と観客の一体感というのは、ライブだからこそできるものだ。
そして、ライブ感というのはリアルに比べてVRではいろんな要素の欠落から、劣ってしまう部分がある。
けれど、観客側のアプローチによって、そのライブ感は現実にも勝る可能性を秘めていることがわかった。
演劇における観客との双方向コミュニケーションは、常に課題として挑戦されている分野で、それを解決できるなにかを感じ取れた。
今はまだ厳しいVR演劇というコンテンツだけれど、VRならではの演出と双方向コミュニケーションで、リアルを超えるような演劇体験ができるようになったらいいなと思う。
ただ、VRChatはすこしずつ流行ってきており、一般的なコンテンツとなってくると、参加者自体も一般化し、こういった要素は薄まってくるのかもしれないという危惧もあるけれど。
辛辣な感想にはなってしまったけれど、私がみた作品のクオリティが低いだけな可能性ももちろんあるので、良いVR演劇があれば教えてほしいところ。
余談だけど、VRのピアノの演奏イベントにいってきて、音楽はVRでもかなり楽しめるなと思った。
演劇の俳優は単純に技術の低い人が多いというのも大きな要素なんだとおもう。
演技は定量的な技術の積み重ねで表現するのが難しい分野なので。
音楽はある程度定量的な技術の積み重ねで行ける部分があるからこそ、定性的な表現の域に達している人も多いのだろうという印象はある。
演技も定量的に技術力がつけばいいのだけど、いろんな演技法があってもそうなっていないのが現状だと思う。
まあ、役者自体が他のジャンルに比べて、勉強不足ということも大いにあるのだけど。
少し前に、精子観察キットで自分が放った精子を眺める増田を書いた。
https://anond.hatelabo.jp/20240711233856
相変わらず仕事漬けの日々で、なかなか友達に会うとか旅行に行くような時間も取れず、最近は夜な夜な性教育の実技というか実験を試すのが楽しみになってしまっている。少し成果があったので、学んだことを書こうと思う。
前回の記事で、ロート製薬が発売している精液検査キット・ドゥーテストという商品が気になっていると話した。ドゥーテストというのはもともと妊娠検査薬のブランドのようで、そこに精液検査ができるキットが追加されたようだ。2回測定できて、5500円というやや高価なセットであるが、そこそこきちんとしたセルフ検査キットとなると、それくらいの値段が相場なのだらうなと言う感覚を受けた。
なぜ、このドゥーテストが気になったのか。それは他の精子観察キットにはないレンズに魅力を感じたからである。これまで試してきたSeemやメンズルーペは、小さなレンズをスマートフォンに貼り付ける方式を採用していた。しかしドゥーテストは置き型の筒状のレンズを採用している。しかも他の製品にはできなかったピント調節機構を有している。メンズルーペは安価に精子を観察できると言う特徴を有していたが、反面、精子の解像度には弱点があった。seemがサービスを停止したいま、高解像度な精子観察キットを探すことが筆者の中で大きな課題なのである。
ドゥーテストはロート製薬の通販で発売している商品だが、Amazonで購入できるようになっていた。実家ならしながらこんな研究に興味を持ってしまった筆者はAmazonの宅配ロッカーを愛用している。速さでいえばヨドバシに軍配が上がるとはいえ、ナイショなものはAmazonで買うに限る。
ある程度の金額を購入すると送料が安くなるため、今回のような高額商品は細かいアダルトグッズと抱き合わせで買うようにしている。今回は女性が立小便するときに使える使い捨てトイレ用品を抱き合わせで購入した。このレビューはいつか別の記事で紹介しようと思うが、そんなふうにあれやこれやを買っては秘密のレンタルロッカーに収納していける、便利な時代に生まれたことをこんなに喜べる瞬間があるだろうか。そうやってこの日も、時折コンビニに行ってはこそこそと不透明な紙袋を受け取った。ネカフェで開封して取扱説明書を読む。
箱の中身は至って普通の精子観察キットである。至って普通とは、精子を貯めるカップ、観察するためのプレート、レンズ、説明書、という組み合わせだ。取扱説明書は注意事項だけ書いてあり、主な使い方はスマホアプリでグラフィカルに誘導すると言う流れもだいたい共通している。そこで手が止まる。説明には「2〜7日の禁欲をすること」と書いてあった。しかし筆者は息子ともども我慢ができない。早くこのキットの真価を見たいのである。
そうは言っても、筆者の足を引っ張るのが、まさに股間の息子張本人である。男性諸君には理解してもらえると思うが、ちんちんとは自身の身体の一部ながら、自らの意思を全く尊重してくれない気まぐれな生物である。カメラを向いてくれない子供をオモチャで気を引くように、オカズを用意してみてもちっとも反応しない。ところが仕事で退屈な会議を聞いていると、突如として下腹部が突っ張り始めるのである。そして帰宅する頃にはすっかり眠ってしまう。まるで駅ではトイレに行かないくせに電車に乗った途端モジモジし始める子供のようではないか。
そんな息子を、まず「やる気」にさせる必要がある。別に、やる気にならなくとも、手で刺激すれば時代に勃起し、射精まだ持っていくことはできる。しかし筆者の体感として、射精時の精液の量はメンタルに大きく関係していると思う。
自慰行為において、快感と射精は必ずしも同時に起こらない。物理的に射精できたとしても、残尿感のように精液が出てこず中途半端な感覚を覚えたり、真逆に全く快感なく精液だけ放出してどっと疲れることもある。漠然と右手でシコるよりも、交際相手とキスをしながら手コキをしてもらった方が、快感も上回るし、コンドームを付けて出された精液の量も比べても気持ち多めのように感じる。精子の量が変わらないとしても潤滑剤になる前立腺液などが多ければ精子は活き活きするのだから、出せるものは出しておいた方がいいのである。
なにより、2発で5500円の高級キットを購入したからには、なんとしてでも"質の高い精液"を生み出したいのは、誰もが思うことであろう。出したい、けど、出せない。筆者の欲望と体力、そしてちんちんの意思が重なる時が訪れるのを待たなくてはならない。
某日、家族も寝静まった夜、漠然とテレビを見ていた時、それは来た。股間に建ったテントの中で遊んで欲しいと誘っている。時はきた。早速準備をするのだが、手間取るとあっという間に萎えてしまう。いざ挿入しようとコンドームを箱から取り出すうちに萎えてしまった経験はないだろうか。そこで、キットを準備する前にスキンシップを図る。
こんなこともあろうかと、あらかじめdlsiteでオナサポASMRを購入しておいた。これはダミーヘッドマイクと言う特殊なマイクを使って、耳を舐められる感覚を再現したり、耳元で囁かれるシチュエーションを再現した音声作品だ。「気持ちよくなっちゃうね」などと囁かれながら息子はご満悦だ。右手を竿に当て、左手に探し物をさせる。パッケージの封は予め開けておいたから片手で採精カップさえ取れればいい。
準備は整った。あとは耳舐めお姉さんにリードされながら竿に当てた手を動かすだけである。刹那、疼いていた下腹部がぎゅっと強張った。裏筋を抑えて漏れないように気をつけながらながら採精カップの底を尿道口にあてがって精液を注ぎ込む。これはseemと同じ使い捨てのプラスチックカップだ。計量はできない仕組みになっている。
出した精液を20分以上放置して、粘度がなくなるのを待つ。酸性の膣内に放たれた精子たちは長く生きられない。アルカリ性の粘液に包まれながら、子宮への道が中和されるのをじっと待っているのである。しばらくして子宮からもアルカリ性の体液が出ることで中和され、精液をエネルギー源にして精子たちは卵子は向かって泳いで行く。別々の生き物を繋げる仕組みとしてよくできていると感じる。
その待機中に機材のセットアップを行う。股間の息子はもう一仕事をおえて、もう筆者の眼中にもないほどに存在感を失っている。まず射精に専念し、そのあと機材の設定を行う。これこそが賢者のベストプラクティスというものだ。
前回の精子観察の課題として、スマートフォンのレンズの大型化を挙げた。今時のiPhoneはレンズが大きく、机に置いても水平にならないため、上に検査キットを置くと精液が流れてしまう。すると死んで流されている精子と泳いでいる精子の見分けが難しくなってしまう。
この対策を考えていたのだが、先日大手300円均一ショップでスマホスタンドが売られているのを発見し、300円なら失敗しても痛手がないと思い購入して試した。しっかり水平になった。そしてレンズを取り付け、ピント調節を行う。スマホのインカムの周りに滑り止めの両面シールを貼り、その上にレンズを貼り付けるのだが、ピント調節のためにクルクル回せば簡単にシールが剥がれてしまう。デモの映像はスムーズに回していたがどうやって対策しているのであろうか。
しばらく待っていると、スマホがカタカタと震え出した。固定がイマイチだったのかとスマホスタンドを確かめていると、今度は床が揺れ出した。地震だ! よりにもよってこんな時に揺れるのか。筆者の心臓は爆発しそうであった。家族が気にかけてやってきたら、こんな光景を目にしたらどうする。慌てて精液カップを物陰に隠し、寝室の動きを警戒しながら、セットアップを続けた。レンズを装着し、試料台に模様が映っていることを確認した。どうやら試料台に等間隔に溝が掘ってあり、この模様をゲージとして1区画に何個の精子が存在するかで精子濃度を測っているようだ。
液化した精液を試料プレートに垂らす。プレートは顕微鏡のプレパラートに相当し、カバーガラスが接着されている。精液を棒の先につけて、この棒を試料プレートに載せると、カバーガラスの間に毛細管現象で精液が染み込んでいく。カメラ越しにも、液体が流れ込んで粒々の精子たちがなだれ込んでくるのが見える。かなりの密度だ。しばらくすると浸透して、精子の流れが落ち着く。すると精子たちが四方八方に動き回る様子を見ることができるのである。
青い精子に再び会うことができたことに喜びを感じながら、測定を始める。しばらくして結果が出た。1600万匹/mlと言う数値で、WHOの基準より上回っているとの結果だった。しかし過去のデータを見れば、筆者は2400万匹/mlの濃度で精子を出せていた。あのころから月日が経ち、時代に健康診断で医者から注意される項目も増えてきた。身体の衰えには抗えないのかもしれない、と感じて切なくなってしまった。仕事も忙しいので一過性のものかもしれないが、このまま測定を続けて数値が上がらなかったらどうしようという不安もある。いや嫁もいない男が受精能力のことなど気にしても仕方ないのだが、大切なことは目に見えないのである。
それはそうとして、このレンズが精子をよく拡大してくれるところは面白い。改めて観察するとすでに半分くらい動いていないように見えるが、それを除けば元気に泳ぎ回っている様子を観察して、アプリとは関係なくスマホで動画を撮ってみる。同じような構造のレンズではseemのほうがピントがきっちり合って観察できたように感じるがこれほどの倍率はなかった。
ピントが合いづらい理由を考えてみたが原因はよくわかっていない。スマホの保護フィルムなどの厚みが焦点距離に影響してしまうのだろうか。しかし、精子観察のためにわざわざスマホの保護フィルムを剥がすのは、少し考えものである。真面目にやるならバキバキになってもいいiPhoneSEでも調達して観察した方が良いのではないかと思う。
一通りの観察を終えた。精子は受精卵にたどり着くことを使命とし、精液に守られながら子宮を目指す。したがって厳しい外界では長生きできない。
しかし前回の増田でこの精子にあれやこれや実験をしてみてはというコメントを見た。そして精子はまだ細胞でありながら生命ではない。片付けるついでに気になったことを試してみる。筆者はこの精子たちの生殺与奪を握っている。
試しに、試料台にティッシュペーパーの切れ端を載せてみる。液が吸い寄せられ、精子たちも漂うように吸い寄せられていく。しかし精子たちはそれでも元気に泳いでいる。
次に気になった点として、このキットを水洗いしてみると言うものだ。説明書では使い捨てと書かれているが、正確な数様に影響するにしても精子を見るだけなら洗えば使えるのではないかと思った。ものは試しだ。水につけて洗い流してみて、再びレンズの上に乗せる。
驚くことに、まだ精子がいた。本当に少なくなってしまったが、よろよろと泳ぎ回る個体がところどころ残っている。カバーガラスの間に水を流し込むのは難しいらしいが、水道水に流してもある程度は生きられるのかと驚いた。まだ精液の粘液部分を身に纏って生き続けていたのかもしれないが、筆者が想像する儚い細胞というイメージ覆った。
これではキットを再利用できないということを改めて実感したとともに、一度放たれてしまった精子を完全に追放する仕組みの難しさも感じた。もちろんカバーガラスの中の狭い空間というのは特殊な空間だが、膣内だって広い空間ではない。筆者な単純計算で一発で8000万ほどの精子を送り込むことができる。そんな数の精子たちが膣内に放たれてしまったら、僅かも子宮に辿り着いてしまったら。膣を水洗いするなんて簡単にはできないであろう。よくコーラを流し込めば避妊できるなんて俗説を信じるなという性教育を見かけるが、イメージに反して精子はしぶとく生きることのできる細胞なのかもしれない。
そしてここまで書いて気づいた。せっかくなのだからコーラを垂らして精子が本当に死ぬか確かめてみればよかったのだ。精子はもう片付けてしまったし、うちの冷蔵庫は三ツ矢サイダー派なのだ。なんて愚かなことをしてしまったのだろう。大学時代、理科実験はやり直しが効かないから実験計画の作成が重要であると散々言われたのを、今更思い出した。筆者の2800円がこうして散っていった。
ドゥーテストは、倍率も大きく、精子をよく見ることができた。さらに精子の量を測定してくれる貴重なサービスとなったので、妊活の指標としたい人には向いているかもしれない。
ただ、ピント調節が少し難しく、はっきりと精子を観察できるわけではないという点も課題として感じた。採精カップはメンズルーペが優れていると感じているので、メンズルーペのカップに射精し、ドゥーテストのレンズで観察するのが最も効率よく精子観察ができるのではないかと思った。またカップも使い回すと精子が残ってしまう可能性があるので、入念に洗うことが必要であると学んだ。
また、ドゥーテストの高倍率レンズは精子の動きを観察するのにとても良いので、可哀想だが精子にあれこれ試して動きを観察してみると面白いと思う。酸性の状態にしてどれほど生存できるか、などは特に気になった。しかしこう言う実験をするのであれば、闇雲に料理酢を流し込むなどと言うのはナンセンスで、pHを正確に測らないと意味がない。測定するための試験紙を買うのが良いのか、紫キャベツを煮出すのがよいのか、と頭を抱えながらamazonで調べると、2000円もしないpH測定器が売られているのを見る。ガチャポンを回すくらいの気持ちでオモチャと割り切って買うか、やめておくか。悩ましい。
そして筆者は実際の膣がどれほどに酸性環境なのかを知らない。どうやって測定するのがよいだろうか。一番シンプルなのは交際相手の女性に、「膣内にph測定器を突っ込ませてくれ」と頼むことだが、ひみつ道具の存在すら打ち明けられずにいる相手にこんな話をしたら精子をどうこうするまえに筆者の人間関係がどうにかなってしまうし、女性の性周期を知らない筆者にとって測定するタイミングも難しいと感じてある。どこかに膣のpHを趣味で測っている物好きなレディは居ないものだろうか。
「男性は顕微鏡を買うと精子を観察してみるらしい」とのこと。顕微鏡なんて一般のご家庭にあるわけがないだろうと、試しに500倍の顕微鏡の値段がいかほどのものか調べてみた。するとヨドバシに5000円くらいの子供向け顕微鏡があることを発見してしまった。最初からこれを買えばよかったのではないか……? しかし顕微鏡なんてますます置き場に困る。でも精子観察し放題、好きな時に好きなだけ射精して観察できるのである。20代の筆者がコンスタントに精子を観察して何十年かデータを溜めたら、それこそ何か世の中に役立てることができたりしないだろうか。いや精子よりもっと仕事とか町内会とかできちんと社会貢献した方がいいことはわかっているのだが。
あとは一案として、とりあえず顕微鏡を買って、しばらく精子観察に使ったあと、飽きたら近所の子どもらに寄贈してやろうか。子供を産むか産まないか、それ以外にも未来の世代にできることはあるだろう。
いや、思春期の学生に顕微鏡をプレゼントする財団でも作るなんてアプローチもあったかもしれない。これは教育振興である。まずは花粉とかプランクトンとか観察してもらって、科学に興味を持ってもらう方が重要で、そこからどういった方向に探究心が芽生えようとそれは本人の自由である。科学大国日本を支える若者を増やしたいと願っている筆者の気持ちに偽りはないのだから。