はてなキーワード: べらぼうにとは
第72期ALSOK杯王将戦7番勝負は、藤井聡太王将が羽生善治九段を4勝2敗で破り、王将位の防衛を決めた。本当に、本当に面白かった。手に汗握る、ヒリヒリするような名勝負の連続。名実ともに歴史に残ることとなったこのシリーズを振り返っていきたい。
棋士は「勝負師」「研究者」「芸術家」の顔を持つ。そう唱えたのは永世名人の谷川浩司である。この3要素は、どれか1つが10割というものではない。一流棋士は、これら全ての要素を持ち合わせ、盤上において切り替えながら戦っていく。それが、一流棋士の一流棋士たる所以である。そうはいっても、棋士によって個性、より強く出てくる要素というものは確実に存在する。私見だが、藤井聡太にとってのそれは「研究者」、羽生善治にとってのそれは「勝負師」だと考える。そして、羽生の「勝負師」としての側面が、何よりもこの番勝負を白熱させたように思う。
6局が指された番勝負で、羽生が勝利した第2局と藤井が勝利した第5局は特に名局だった。第2局は羽生の先手番で相掛かり。59手目、盤上のそっぽに放たれた金が驚きの一手。どこから飛び出てきたのかという異筋の金打ちだが、浮かび上がってくるとこれがべらぼうに厳しい。簡単に指せる一手ではないが、羽生はこの手をノータイムで着手。凄まじい事前準備、乾坤一擲の番勝負に懸ける決意をみた一手だった。しかし、この一手だけでノックアウトされる藤井ではなく、将棋はその後も難解な進行を辿る。羽生の本当に凄かった一手は、その後の銀打ちだ。盤上の中央で威張る藤井の馬にアタックする一手。理屈としては分かるが、それにしても怖い。この手を指すと、自らの玉頭に風穴が空く。無傷では済まされない変化だが、それでも羽生は果敢に飛び込んでいった。対する藤井、「許さん」とばかりに猛攻に出る。銀をかち込み、馬と角の睨みで羽生玉を一気に仕留めにかかる。危険極まりない羽生玉だが、ここでほとんど唯一といってよい、絶妙な凌ぎの手順が存在していた。そして、羽生はそれを読みきっていた。これが本局のハイライト。藤井の猛攻を正確にかわし続けた羽生が、シリーズ初勝利をものにした。何という勝ち筋か。銀打ちの一手は、藤井をこの変化に誘い込んだ渾身の勝負手だったのかもしれない。羽生が最後に放った香車は唯一の正解手である。持ち駒も打ち場所も多いが、ここにこの駒を打たなければ助からないのだ。傍目には怖すぎる変化にも果敢に飛び込んでいった勇者羽生。投了図は、勝負師が生んだ最高の芸術であり、羽生の名局である。
第5局は藤井の先手番。戦型は羽生が誘導して横歩取りとなった。飛車角が空中を乱舞するスリリングな戦型で、かくして本局も華々しい展開となる。激しいやり取りがあり、羽生陣は空中分解の寸前。玉が露出し、またしても危険極まりない状態となった。戦況は藤井有利から優勢へ。このままじっくり勝ちを固めてもよさそうなところだったが、本局の藤井はアクセル全開。防御を完全に放棄する驚愕の手順で、一目散に羽生玉に襲い掛かっていった。このまま押し切れば藤井の快勝譜だったが、その先で羽生が放った金が受けの妙手。藤井の攻めから逃れるために作った即興の囲いだが、この懐が妙に深い。アクセル全開だった藤井の手はパタリと止まり、戦況は混戦へともつれていった。本当に、妙なところに懐はあるものだ。将棋の奥深さ、恐ろしさ。羽生がどこまで狙っていたのかは分からないが、藤井の快勝に思われた一局は一気に混迷を深めていった。形勢は逆転し、むしろ羽生がよくなった局面もあったようだが、あまりに難解で、羽生はこれをつかみきれなかった。最後は藤井が抜け出し、シリーズを一歩リードする3勝目。攻めの藤井と受けの羽生。互いの特徴がよく出た名局で、深淵な羽生の受けは藤井の手をも止めさせた。藤井にとっては薄氷の勝利だったといえるだろう。
最終的には、4勝2敗で藤井が制した番勝負。しかし、星の差以上に競っていた、紙一重の局面が多かったように感じる。ここで冒頭の話題に戻るが、これは「研究者」と「勝負師」による名シリーズだったように思う。藤井は「研究者」。盤上の真理、最善を追求し、そのためには持ち時間を一気に注ぎ込むことも惜しまない。相手の戦法は全て受けて立ち、相手によって戦い方を変えるということをしない。横綱、王者の戦い方である。一方の羽生は「勝負師」。もちろん将棋の研究も超一級品には違いないのだが、羽生は相手によって戦い方を変えることも多いように思う。相手を見て、その相手に有効と思われる勝負手を果敢に仕掛けていく。勝負への抜群の嗅覚であり、勝負勘。「羽生マジック」と呼ばれる絶妙手の数々はまさにそれで、時には善悪を超越した一手で勝利をつかみ取ってきた。そして、本シリーズでもそんな「勝負師」としての一面を遺憾なく発揮した。特徴的だったのは羽生の戦型選択である。今期の藤井は、先手番で圧倒的な勝率を誇り、なんと一時は28連勝を記録。特に角換わりは絶対的なエース戦法であり、付け入る隙がないという強さを誇っていた。これを踏まえた羽生は、後手番で戦型を工夫していく。第1局は一手損角換わり、第3局は雁木、第5局は横歩取り。苦しいとされる後手番で、羽生は藤井の絶対的エース戦法を避け、様々なコースにボールを散らすことを選択した。何を投げるかというところから勝負は始まっている。球種の多さで、狙いを絞らせない。羽生の勝負術は、「次は何を繰り出すのか」と将棋ファンを魅了し、この番勝負を白熱させた。もちろん、角換わりを避けたからといって簡単に勝たせてくれる藤井ではない。どこにボールを投げてもその応手は的確で、結果として羽生は藤井から後手番で白星を挙げることはできなかった。それでも、羽生が後手番で繰り出した3種類のボールはどれも見応えがあり、複雑なねじり合いを生んだ。後手番で必死に食らいつきながら、先手番の2局では会心の内容で勝利をもぎ取った。心から、素晴らしい番勝負だったと思う。
防衛を果たした藤井王将は、羽生九段との番勝負について問われ、「羽生先生の強さだったり自分の課題を感じたところがあった」と振り返った。藤井がインタビューで対戦相手の名前を出すことは非常に珍しい。なぜなら藤井は、前述のように盤上の真理を追究するタイプであり、対戦相手がどうこうというタイプではないからである。今回、藤井が「羽生先生の強さ」と述べたのは、それを肌で強く感じたところがあったのではないかと推察する。羽生の強さ。すなわち、勝負術であり勝負勘。これまで何度も目にしてきたつもりだったが、本シリーズではその真骨頂を見せられた気がした。そんな羽生を相手に防衛を果たした藤井王将のことを、心から讃えたいと思う。
五冠を堅持し、さらなる頂に向かって突き進む藤井王将が将棋界の絶対王者であることは全く疑いようがない。その他の棋士は、極めて厳しい戦いを強いられている。しかし、厳しいからといって戦うことをあきらめてしまえば、その時に将棋界は終わる。今回、52歳の羽生がこれだけの戦いをみせた。勝負を仕掛けた。このことが、将棋界に良い化学反応を起こしてほしいと願う。選ばれしプロ棋士たちには、藤井という絶対王者に対し、果敢に「勝負」を仕掛けていってほしい。必死に戦い続けてほしい。そのように願う。
羽生さん。敗れはしたが、あなたは本当にかっこよかった。藤井王将は、その勝負術に正面から触れ、この番勝負で吸収した。今後は「勝負師」としての要素も強め、さらに手が付けられなくなるほど強くなるのではないか。そういう確信に近い予感がある。それでも言う。さらに強くなった彼に再び挑むのは、あなたであってほしい。
オレの育った地元はよくある冴えない地方の町だったけど、こんなのよくある話だったぞ。
だいたいこの手の話があったのはシンママ家庭。都会のシンママは知らんけど、田舎のシンママはもうヤバい奴しかいない。
男の加害性を自覚しろ、みたいなイカレたことを言うフェミがいるけど、シンママの加害性はマジだからな。十中八九、シンママ家庭の男子は親から性的被害に会ってたぞ。
こういう日本男児(笑)よりも韓国男子や欧米男子や中国男子が人気なの、理由がわかるよね
国内だと差別に気付かない教養も人権感覚もない性格オワコンキモ男子がうじゃうじゃいて、毒入りロシアンルーレット状態
国内で年収300万と結婚するくらいなら、ふらっと海外旅したりワーキングホリデーで年収400万の他国男子と付き合った方が幸せだからね
安心して欲しい、北朝鮮とかコンゴとかよほど特殊な国から選ばない限りは、日本男児よりはずっと対女性民度が高いから。あと、キモい白人男性とかはやたら日本女を探してたり、アジアンと付き合いたいとか、日本に行きたいとか言ってるからね
日本女なら、べらぼうにモテるし、やたら日本女に鼻息荒い地雷男のことはすぐ見抜けるはずだ。
まともな男はこういう奴らを駆逐しないと、ホモソに無関心で見ないふりしてると、同じ穴の狢ですよねって一連托生にさせられるからね
飲み会とかでキモい男がいたら、きっちりと上に報告して辞職まで追い込んで、セクハラや差別発言は問題視して、法的措置をとるようにして、見逃さないであげてな。
いいから原神はすぐにでも始めろ。
これはスマホゲーだがPC・コンシューマーゲー相当かそれ以上のクオリティのもので実際PCかPS5でやったほうが映える。ガチャがある=ソシャゲに見えるが実態はソシャゲではない、常識がまるで違う上位の概念の何かだ。オーパーツ級と言って良い。
ソシャゲと違って毎日必死にイベント走らなきゃならんような疲労感もない。大抵は期間内なら遅れて始めても1日集中すれば終わるようなものでありつつ、毎回異なる凝ったミニゲームやキャラの魅せ方で制作費のかけ方の違いを見せつけてくれる。コンシューマ的なタイパと充足感がある。アップデートごとに追加されるマップやシナリオのボリューム・質・そして頻度もいままで20年ネトゲを渡り歩いてきたが見たことのないレベルで開発リソースの桁違いさを感じさせる。それもそのはずでおそらくゲーム史上もっとも金をかけて運営されてるオンラインゲームだ。初期開発費110億、年間運営開発費220億×3年とされている。
ガチャもガチャではない。定量配布制とでも言うべきシステムだ。溜めたなけなしの石で出なくて萎えて辞めるみたいなことが、特殊なガチャシステムを理解していれば起こらない。変動確率制で、ベースの排出率は極めて低くなっていてまず出ないが、74連目あたりから急上昇していき80数連でまず出る。名目上の天井は90となっているが90を叩いた人を見たことがない。そこまで行くのに手持ち石0からの全課金としても2万、ただこの初回の天井はピックアップキャラが出るかは50%で、ここで外して恒常星5を引くと次の天井で確定、そしてピックアップは常に1人なので最大でも4万、平均3万で引ける。これはスマホゲーの相場からしてべらぼうに良心価格。さらにこの天井カウントは次回のガチャバナーへと引き継がれる。つまり、無駄石が存在せず、大爆死というものが原理上起こらない。そのため、一見ガチャ風だがランダム性(=射幸性)が低く、適切にペース配分すれば狙ったところで確実に引いていける。このリアルラック格差をほぼ排除できるシステムによって精神的な安定感がすごい。ガチャに対する過剰な不安なく本筋の物語や探索を満喫するモチベーションが維持される。
また本作のマップデザイナーは死ぬほど優秀で先へ進めば進むほど入り組み方がヤバい。シナリオもかなり巧妙に作られていて世界観の読み解きに世界中の人を引き付けている。
なので一旦ブランクをあけてしまっても、暴力的なまでの量と質の味の違うガムやら飴やらクッキーやらを基本無料で受け取ることができる。元素反応システムの奥深さも寄与して、味がないガムに極めてなりにくいゲームと言える。
お金がないし時間もないのでキャラが全然充実しなくても問題ない。イベントでお試しで使える機会が多々あるので、所有はできなくともキャラクターに親しむことはできる。星4キャラでも遜色なく強い。元素を理解すれば詰まることはない。
もう本格的にゲームする時間がない。大丈夫だ。公式YouTubeの動画を追っているだけでも凝ったムービーやエピソード動画、ワクワクさせるアップデート前番組、有料配信でもおかしくないはずのオーケストラコンサートなどが定期的にアップされる。大筋のキャッチアップは容易だ。
なんか心が疲れちゃった。問題ない。幻想世界テイワットの風景は壮観で、目的もなく歩き回るだけでも癒されるスポットに事欠かない。トゥーンシェーディングでこれほど印象的に世界やキャラを精緻に描写しているゲームは見た覚えがないほどだ。
これほど公式からの供給に恵まれたゲームコミュニティがいまだかつてあっただろうか。いやない。HoYoLABというコミュニティフォーラムを公式に持っているゲームだが、もっと早く始めていればという声が毎日のようにあがってくる。
はじめどきを探っているようなチキンムーブをしている暇はない。全力でコミットしに来い。世界で一番売れている二次元ゲームにはそれなりの理由がある。俺はちゃんと布教したからな。ではさらばだ。シュバッ!
毎週日曜朝8時30分からの放送を楽しみにしていたデリシャスパーティ♡プリキュアが終わった。
デリシャスパーティ♡プリキュアはごはんをテーマにしたプリキュアで、お米がモチーフのキュアプレシャス、パンがモチーフのキュアスパイシー、麺がモチーフのキュアヤムヤムに加え、18話からはデザートがモチーフのキュアフィナーレも参加した4人のプリキュアと、個性豊かなサブキャラクターたちによってストーリーが繰り広げられる。
最終話を見た後、誰の誕生日でもないこの日に合わせて購入したキャラデコパーティーケーキを頬張って、アラサー女は声を上げて泣いた。
プリキュアシリーズは開始から今なお根強い人気を誇っているため、毎週放送の度Twitterのトレンドに関連用語が入る。私がデリシャスパーティ♡プリキュア(以下デパプリ)を知ったのも、次のプリキュアがデパプリになるという発表がトレンドに入っていたからだ。
キャラデザがべらぼうに可愛いと思った。プレシャスに一目惚れした。プリキュアは昔少し追っていて、いつの間にかやめてしまったが即再開しようと思った。仕事と家の往復しかない虚しい1週間に楽しみができるのは非常に良いことだ。それに日曜日に早起きができるとなかなかQOLが上がる。
摂食障害と言うには私の症状は軽いものだったと思う。そも未診断だし、なりかけと言った方がいいかもしれない。でもそうでない人と比べると自分の異常性は明らかだった。思考も発想も認知も歪んでいた。進んで骨と皮になりたがるのはやはり異常なのだ。それに、今だってそういう考えが完全になくなったわけではない。
きっかけはダイエットではあったが、直接のきっかけになったのは親友の存在だった。
親友(以下Sとする)は学生の頃からの付き合いだった。Sは無自覚の拒食症みたいな奴で、一日一食カロリーメイトだけ食べて生きてるような奴だった。同い年で身長は平均ほどあったが、体重は小学生のそれだったし、生理も止まっていた。太ももからふくらはぎにかけての曲線がない棒のような自らの脚を撫ぜ、もっと細くなりたいと言っていた。吐くとスッキリするからと頻繁に吐いていたら吐きグセがついて、食べたものがすぐ戻ってくるようになったとあっけらかんと語っていたこともあった。しかし遊びに行けば人並みに食事をしていたし、ヘルシーなものよりジャンクなものをよく食べていたので、私はSを病気とは思っていなかった(偏食だなあとは思っていた)。
私たちは性格も趣向も正反対だったが、一点だけすこぶる気の合う趣味があったのでそれで仲良くなった。
Sはどこか厭世的で、人間という生き物が嫌いな奴だった。"生きる"という行為そのものを嫌いっている節すらあった。自分の名前を嫌い、本名にかすりもしないあだ名で自分を呼ばせた。夜を好み、自由を好み、意思も感情も存在しない無機物を好んだ。かと言って死にたがっているわけでもなく、自分大好きナルシストで、常に楽で楽しそうな方に漂いながら刹那的に生きている奴だった。早い話が厨二病を拗らせていた奴だったのだが、それがさまになるくらいには顔が良く、雰囲気があった。
対する私はちょっと少女趣味を拗らせているだけの平凡な女だ。どこにでもいるような普通のオタクだ。ダイエットをしていたと言っても「痩せたーい」と言いながらお菓子を食べてたまに気が向いた時に運動の真似事をする程度のかわいらしいものだった。私から見ればSは非凡以外の何物でもなかった。私にはSのような後先考えない行動は怖くてできない。Sと会話していると考え方の違いに驚くことがとにかく多かったし、自分にないものをたくさん持っているSに憧れていた。
そしてSが、ふらふらとあちこちのコミュニティを転々としているSが、唯一私のことは好ましく思って離れずにいることに、私は浮かれていた。いつの間にか、Sが私の親友であることが私の自信になっていた。
アイドルに認知された、みたいな。どこにでもいる普通の女の子が超絶イケメンに気に入られる系の恋愛漫画のヒロインになった、みたいな。そんな気持ちだった。
平凡で普通の私でもSといればその枠からはみ出せる。Sが私を特別にしてくれる。
この人の隣に並べるような人間になろう。
最初のうちは、食事の量を減らせばスルスルと体重が落ちていった。減っていく数字はモチベーションになり精神安定剤になった。前よりも自信を持って可愛い服が着られるのが嬉しかった。空腹は水を大量に飲んで誤魔化した。いつも腹が鳴っていた。毎日SNSのダイエッターを見て試せるものを片っ端から試した。サプリの類も試したが便通が良くなるだけでほぼ効かなかった。そうこうしているうちに摂食障害界隈にもたどり着いたが、自分はこの人たちとは違ってうまくダイエットができていると思っていた。こうはなるまいとも思っていた。結果なったわけだが。
そのうち体重が減らなくなってきた。焦りと自己嫌悪で発狂しそうだったが、どこまでも平凡な人間である私には発狂すらできなかった。家にいるより外にいた方が気は紛れたが、誰かと遊ぶと食事が付き纏ってくるのが憂鬱だった。毎日、道ゆく他人に「私って痩せてますか」と肩を引っ掴んで聞いて回りたい気持ちでいっぱいだった。Sと遊びに行くのは何よりも苦痛だった。Sと並んで歩くと私は世界一デブみたいに思えた。すごく惨めで早く痩せたかったが、体重はずっと停滞していた。SNSで摂食界隈を見に行く回数が増えた。自分と同じような人がいて安心するのと同時に、安心する自分を嫌悪した。私は病気じゃないのになんで病気の人を見て安心してしまうんだ、Sだって私と遊んでいる時は普通に外食しててあんなに痩せてるんだから病気じゃない、食べて吐いたら痩せて当然だ、そうじゃないからSは特別だし私も特別になれるんだ、と自分に言い聞かせた。しかしこのあたりの時期にSに吐き癖があることを本人から聞かされた。この頃には私の頭はだいぶやられていて、Sはあくまで特別な人間で、Sを摂食と認めてしまうと私も摂食になってしまって私は特別では無くなってしまう、なんて思考回路になっていたので、吐きダコとかもないし逆流性食道炎なのかなあとか呑気に思った。
でもぼんやりと心のどこかで、やっぱり吐かないと痩せられないのかなあとも思った。
私は嘔吐恐怖症だ。
他人でも自分でも身内でも、フィクションでも聞くのも見るのも無理だ。職業柄字面だけは慣れたが話題に上がることもしんどい。ノロウイルスが流行る時期になると恐怖しかない。
摂食界隈には過食嘔吐の人が圧倒的に多い。菓子パンとか惣菜とかを大量に並べた写真を過食材と言ってアップしている人をよく見た。病気で苦しんでる人になんてこと思うんだとは分かっているが、私はこの人たちが羨ましかった。あんなに好きなだけ食べてるのに吐いてるから太らない。私だって吐ければもっと食べたいものがいっぱいあるのに。吐ければ今よりもっと痩せられるのに。私だって吐きたい。吐けさえすれば。恐れている嘔吐が甘美な響きに聞こえてきた頃が限界だった。
コンビニに行った。スーパーに行った。何軒もハシゴした。今まで我慢してた食べたかったものを全部買って、両手に大きな袋を持って、気になってた食べ物を片っ端から注文した。全部食べた。美味しかった。少なくとも舌は美味しかったと記憶していた。だからこれは病気じゃない。全部美味しかったから私は病気じゃない。病気だったら美味しいなんて思わないから。病気だったらもっと苦しいから。そう思った。
終ぞ一滴も吐くことはできなかった。
Sとは絶縁した。
デパプリの放送が始まったのは限界を迎えていたそんな時だった。やっぱりキャラデザがべらぼうに可愛くて、動いて喋るプレシャスは最高だった。1000キロカロリー程度のパンチじゃ私は倒れないなと自嘲した。
ただ、子供向け作品だからなのか、食というテーマと連動しやすいダイエットについての話が全くなかったのは非常に有り難かった。
デパプリは、素材の生産者や家族の食事のあり方まで、食というものをとことん丁寧に描いていた。出てくる料理もどれも美味しそうだった。真剣に食と向き合って作られた作品だと心底感じた。
プレシャスは、ゆいちゃんは、いい子だった。明るくて活発で好きなものに真っ直ぐで、優しくて仲間思いで、いつもみんなの中心にいて、それが当たり前で、この子がいる場所はそこしかないと思わせるような子だったけど嫌味がなくて、見ていて気持ちの良いくらいの主人公だった。誰かが立ち止まった時、どの方向を向いたらいいか考えさせてくれる、いつも導いてくれていたのはゆいちゃんだった。この作品の主人公はゆいちゃんしかありえないと思うけど、圧倒的な先導力で引っ張るタイプのリーダーというよりは、すぐ隣にいてくれる友達のような子だった。デパプリは遠い世界、自分と関係ない世界で起こっている話という感じがあまりしなくて、毎週、ゆいちゃんとその友達とで作られていくストーリーの中に、私が居ていい場所が用意されているように感じた。ゆいちゃんもゆいちゃんの周りの人たちもみんな優しくて、あたたかかった。毎週友達の話が聞けるようで楽しみだし楽しかった。
ゆいちゃんが大切にしていることや、みんなが大切に思っていることに特別な事は無かった。小学校や幼稚園、あるいは物心つく前から教わっているような、誰でも知っているようなことばかりだ。特別に何かの能力が優れているとか、他とは違う突出した何かがあるとか、多くの人が持っていないものを持っているとか、そういう事を特別扱いしていなかった。
異端を求めた。大多数とは違う存在になろうとした。死に向かっていけば、みんなが見ている方向と違う方を見ていれば、違う存在になれる気がした。私がしていたのは生の放棄だ。
食事を嫌った。食べることを、食べ物を美味しいと思うことを、何かを食べたいと思うことを嫌がった。食べたらまた生きてしまうから。美味しいと思ったら、また食べたくなってしまうから。
お腹が空くことは、食べ物を食べることは、満腹になることは、卑しい行為だと思い込んだ。生にしがみつく、浅ましい行動だと嫌悪した。
本当は食べることが好きだった。
全部全部大好きだった。
ずっと忘れていた。忘れようとして蓋をしていた。あんなに好きだったことなのに、どうして忘れてしまったんだろう。どうして嫌いになってしまったんだろう。忘れたくなんてなかったのに。嫌いになんてなりたくなかったのに。食べることが好きだった。大好きだった。好きなものを好きな自分のことが、好きだった。嫌いになる必要なんてなかったのに。何よりも自分が自分のことを、特別だと思っていたのに。
やっと思い出せた。
忘れちゃいけなかった。
誰よりも食べることが好きな彼女だから、食べることを大切に思っていた彼女だったから、「ごはんは笑顔」という言葉を信じ続けていた彼女だったから、毎週毎週真っ直ぐに、一年間伝えてくれたのが、彼女が、和実ゆいが、キュアプレシャスになってくれたから。私は大切なことを思い出すことができた。この作品に出会えて、本当に良かった。
毎週日曜朝8時30分からの放送を楽しみにしていたデリシャスパーティ♡プリキュアが終わった。
デリシャスパーティ♡プリキュアはごはんをテーマにしたプリキュアで、お米がモチーフのキュアプレシャス、パンがモチーフのキュアスパイシー、麺がモチーフのキュアヤムヤムに加え、18話からはデザートがモチーフのキュアフィナーレも参加した4人のプリキュアと、個性豊かなサブキャラクターたちによってストーリーが繰り広げられる。
最終話を見た後、誰の誕生日でもないこの日に合わせて購入したキャラデコパーティーケーキを頬張って、アラサー女は声を上げて泣いた。
プリキュアシリーズは開始から今なお根強い人気を誇っているため、毎週放送の度Twitterのトレンドに関連用語が入る。私がデリシャスパーティ♡プリキュア(以下デパプリ)を知ったのも、次のプリキュアがデパプリになるという発表がトレンドに入っていたからだ。
キャラデザがべらぼうに可愛いと思った。プレシャスに一目惚れした。プリキュアは昔少し追っていて、いつの間にかやめてしまったが即再開しようと思った。仕事と家の往復しかない虚しい1週間に楽しみができるのは非常に良いことだ。それに日曜日に早起きができるとなかなかQOLが上がる。
摂食障害と言うには私の症状は軽いものだったと思う。そも未診断だし、なりかけと言った方がいいかもしれない。でもそうでない人と比べると自分の異常性は明らかだった。思考も発想も認知も歪んでいた。進んで骨と皮になりたがるのはやはり異常なのだ。それに、今だってそういう考えが完全になくなったわけではない。
きっかけはダイエットではあったが、直接のきっかけになったのは親友の存在だった。
親友(以下Sとする)は学生の頃からの付き合いだった。Sは無自覚の拒食症みたいな奴で、一日一食カロリーメイトだけ食べて生きてるような奴だった。同い年で身長は平均ほどあったが、体重は小学生のそれだったし、生理も止まっていた。太ももからふくらはぎにかけての曲線がない棒のような自らの脚を撫ぜ、もっと細くなりたいと言っていた。吐くとスッキリするからと頻繁に吐いていたら吐きグセがついて、食べたものがすぐ戻ってくるようになったとあっけらかんと語っていたこともあった。しかし遊びに行けば人並みに食事をしていたし、ヘルシーなものよりジャンクなものをよく食べていたので、私はSを病気とは思っていなかった(偏食だなあとは思っていた)。
私たちは性格も趣向も正反対だったが、一点だけすこぶる気の合う趣味があったのでそれで仲良くなった。
Sはどこか厭世的で、人間という生き物が嫌いな奴だった。"生きる"という行為そのものを嫌いっている節すらあった。自分の名前を嫌い、本名にかすりもしないあだ名で自分を呼ばせた。夜を好み、自由を好み、意思も感情も存在しない無機物を好んだ。かと言って死にたがっているわけでもなく、自分大好きナルシストで、常に楽で楽しそうな方に漂いながら刹那的に生きている奴だった。早い話が厨二病を拗らせていた奴だったのだが、それがさまになるくらいには顔が良く、雰囲気があった。
対する私はちょっと少女趣味を拗らせているだけの平凡な女だ。どこにでもいるような普通のオタクだ。ダイエットをしていたと言っても「痩せたーい」と言いながらお菓子を食べてたまに気が向いた時に運動の真似事をする程度のかわいらしいものだった。私から見ればSは非凡以外の何物でもなかった。私にはSのような後先考えない行動は怖くてできない。Sと会話していると考え方の違いに驚くことがとにかく多かったし、自分にないものをたくさん持っているSに憧れていた。
そしてSが、ふらふらとあちこちのコミュニティを転々としているSが、唯一私のことは好ましく思って離れずにいることに、私は浮かれていた。いつの間にか、Sが私の親友であることが私の自信になっていた。
アイドルに認知された、みたいな。どこにでもいる普通の女の子が超絶イケメンに気に入られる系の恋愛漫画のヒロインになった、みたいな。そんな気持ちだった。
平凡で普通の私でもSといればその枠からはみ出せる。Sが私を特別にしてくれる。
この人の隣に並べるような人間になろう。
最初のうちは、食事の量を減らせばスルスルと体重が落ちていった。減っていく数字はモチベーションになり精神安定剤になった。前よりも自信を持って可愛い服が着られるのが嬉しかった。空腹は水を大量に飲んで誤魔化した。いつも腹が鳴っていた。毎日SNSのダイエッターを見て試せるものを片っ端から試した。サプリの類も試したが便通が良くなるだけでほぼ効かなかった。そうこうしているうちに摂食障害界隈にもたどり着いたが、自分はこの人たちとは違ってうまくダイエットができていると思っていた。こうはなるまいとも思っていた。結果なったわけだが。
そのうち体重が減らなくなってきた。焦りと自己嫌悪で発狂しそうだったが、どこまでも平凡な人間である私には発狂すらできなかった。家にいるより外にいた方が気は紛れたが、誰かと遊ぶと食事が付き纏ってくるのが憂鬱だった。毎日、道ゆく他人に「私って痩せてますか」と肩を引っ掴んで聞いて回りたい気持ちでいっぱいだった。Sと遊びに行くのは何よりも苦痛だった。Sと並んで歩くと私は世界一デブみたいに思えた。すごく惨めで早く痩せたかったが、体重はずっと停滞していた。SNSで摂食界隈を見に行く回数が増えた。自分と同じような人がいて安心するのと同時に、安心する自分を嫌悪した。私は病気じゃないのになんで病気の人を見て安心してしまうんだ、Sだって私と遊んでいる時は普通に外食しててあんなに痩せてるんだから病気じゃない、食べて吐いたら痩せて当然だ、そうじゃないからSは特別だし私も特別になれるんだ、と自分に言い聞かせた。しかしこのあたりの時期にSに吐き癖があることを本人から聞かされた。この頃には私の頭はだいぶやられていて、Sはあくまで特別な人間で、Sを摂食と認めてしまうと私も摂食になってしまって私は特別では無くなってしまう、なんて思考回路になっていたので、吐きダコとかもないし逆流性食道炎なのかなあとか呑気に思った。
でもぼんやりと心のどこかで、やっぱり吐かないと痩せられないのかなあとも思った。
私は嘔吐恐怖症だ。
他人でも自分でも身内でも、フィクションでも聞くのも見るのも無理だ。職業柄字面だけは慣れたが話題に上がることもしんどい。ノロウイルスが流行る時期になると恐怖しかない。
摂食界隈には過食嘔吐の人が圧倒的に多い。菓子パンとか惣菜とかを大量に並べた写真を過食材と言ってアップしている人をよく見た。病気で苦しんでる人になんてこと思うんだとは分かっているが、私はこの人たちが羨ましかった。あんなに好きなだけ食べてるのに吐いてるから太らない。私だって吐ければもっと食べたいものがいっぱいあるのに。吐ければ今よりもっと痩せられるのに。私だって吐きたい。吐けさえすれば。恐れている嘔吐が甘美な響きに聞こえてきた頃が限界だった。
コンビニに行った。スーパーに行った。何軒もハシゴした。今まで我慢してた食べたかったものを全部買って、両手に大きな袋を持って、気になってた食べ物を片っ端から注文した。全部食べた。美味しかった。少なくとも舌は美味しかったと記憶していた。だからこれは病気じゃない。全部美味しかったから私は病気じゃない。病気だったら美味しいなんて思わないから。病気だったらもっと苦しいから。そう思った。
終ぞ一滴も吐くことはできなかった。
Sとは絶縁した。
デパプリの放送が始まったのは限界を迎えていたそんな時だった。やっぱりキャラデザがべらぼうに可愛くて、動いて喋るプレシャスは最高だった。1000キロカロリー程度のパンチじゃ私は倒れないなと自嘲した。
ただ、子供向け作品だからなのか、食というテーマと連動しやすいダイエットについての話が全くなかったのは非常に有り難かった。
デパプリは、素材の生産者や家族の食事のあり方まで、食というものをとことん丁寧に描いていた。出てくる料理もどれも美味しそうだった。真剣に食と向き合って作られた作品だと心底感じた。
プレシャスは、ゆいちゃんは、いい子だった。明るくて活発で好きなものに真っ直ぐで、優しくて仲間思いで、いつもみんなの中心にいて、それが当たり前で、この子がいる場所はそこしかないと思わせるような子だったけど嫌味がなくて、見ていて気持ちの良いくらいの主人公だった。誰かが立ち止まった時、どの方向を向いたらいいか考えさせてくれる、いつも導いてくれていたのはゆいちゃんだった。この作品の主人公はゆいちゃんしかありえないと思うけど、圧倒的な先導力で引っ張るタイプのリーダーというよりは、すぐ隣にいてくれる友達のような子だった。デパプリは遠い世界、自分と関係ない世界で起こっている話という感じがあまりしなくて、毎週、ゆいちゃんとその友達とで作られていくストーリーの中に、私が居ていい場所が用意されているように感じた。ゆいちゃんもゆいちゃんの周りの人たちもみんな優しくて、あたたかかった。毎週友達の話が聞けるようで楽しみだし楽しかった。
ゆいちゃんが大切にしていることや、みんなが大切に思っていることに特別な事は無かった。小学校や幼稚園、あるいは物心つく前から教わっているような、誰でも知っているようなことばかりだ。特別に何かの能力が優れているとか、他とは違う突出した何かがあるとか、多くの人が持っていないものを持っているとか、そういう事を特別扱いしていなかった。
異端を求めた。大多数とは違う存在になろうとした。死に向かっていけば、みんなが見ている方向と違う方を見ていれば、違う存在になれる気がした。私がしていたのは生の放棄だ。
食事を嫌った。食べることを、食べ物を美味しいと思うことを、何かを食べたいと思うことを嫌がった。食べたらまた生きてしまうから。美味しいと思ったら、また食べたくなってしまうから。
お腹が空くことは、食べ物を食べることは、満腹になることは、卑しい行為だと思い込んだ。生にしがみつく、浅ましい行動だと嫌悪した。
本当は食べることが好きだった。
全部全部大好きだった。
ずっと忘れていた。忘れようとして蓋をしていた。あんなに好きだったことなのに、どうして忘れてしまったんだろう。どうして嫌いになってしまったんだろう。忘れたくなんてなかったのに。嫌いになんてなりたくなかったのに。食べることが好きだった。大好きだった。好きなものを好きな自分のことが、好きだった。嫌いになる必要なんてなかったのに。何よりも自分が自分のことを、特別だと思っていたのに。
やっと思い出せた。
忘れちゃいけなかった。
誰よりも食べることが好きな彼女だから、食べることを大切に思っていた彼女だったから、「ごはんは笑顔」という言葉を信じ続けていた彼女だったから、毎週毎週真っ直ぐに、一年間伝えてくれたのが、彼女が、和実ゆいが、キュアプレシャスになってくれたから。私は大切なことを思い出すことができた。この作品に出会えて、本当に良かった。
飯を食った
地方は不便だろうと新車をポンとプレゼントするような太い実家と優しい両親に愛され、自己肯定感を育まれた容姿端麗な友人がお裾分けしてくれた名前も分からん洒落た肉料理を食った。
こんな私のことすら気にかけてくれる優しい彼女の両親がついでにと持たせてくれた、初めて見る姿形のケーキも食った。ちなみに私には親はいない。
どっちもべらぼうに美味しい。こんなボロアパートで食うには勿体無いほど洒落た夕食だ、私は友人一家に大いに感謝した、そして1人泣くのだった。
彼女は容姿端麗でこんな私と友人でいてくれるほど性格もいい、当然だがモテる、交友関係も広い。今回貰った肉料理も飲食店を営む友人から学んだらしい。ソースに使った柑橘類は知人の農家から貰ったと言っていた。私にはそんな知り合いはいない。彼女は決してそれらをひけらさかない、性格の悪い私は彼女に嫉妬して、卑屈になった時期もあったが今ではそれは当然と割り切っていた。しかしそんな私の見積もりは甘かった。
あの美しく包まれた差し入れに彼女と私の『差』、その想像を絶する格差の全てが詰まっていた。
あまりに自分がみじめに思えた、太い実家も、優しい両親も、美しい容姿も、人を思いやる心も、多くの人から愛される愛嬌も、広い交友関係も、それを構築するための努力も、知性も、何一つ持っていない、何一つ与えられていない、なにひとつできないままこの歳になった。
その料理の美味しさを実感するほどまた涙が溢れてくるのだった。その姿が醜いことも、そんなことを考える自分が愚かしいことも重々承知だ。人生は配られたカードで精一杯努力するだけだ、持たざる者には持たざる者の生き方がある。
ただ私にできることは、しなければいけないことは彼女一家に精一杯感謝を伝えることだ。そすうればまた今晩のような素敵な晩御飯にありつけるかもしれない。次に会う時は手土産を持っていこう、今日泣いたことはおくびにも出さず。
はじめに 俺は年収300マン! おわり(人生の行方的な意味で(おわり))
とりあえず自分なりの健康で文化的な最低限度の生活を維持するのに年250万ぐらいかかる。
これを日数で割ると1日7000円ぐらいだ。
平日の可処分時間がおよそ4時間、休日が10時間として、一週間で40時間となる。
それに対して必要なお金が4万9000円で、およそ5万円である。
つまり、自由な1時間をおよそ800円で購入していることになる。
さて、ここでクリアに50時間かかるゲームを1万円で購入したとすると、1時間に使うお金は1000円になる。
今回考えたいのは、1時間800円出して無料のゲームを遊ぶのと、どうせなら1時間1000円出してもっと面白いゲームを遊ぶことのどちらが幸福であるかの比較である。
もう答は見えている気がする。
親に庇護されるだけの子供でもない限りは、ただ生きて可処分時間を得るだけでそれなりの金がかかるのだから、そこに少し足して面白い時間の使い方をしたほうが絶対にいい。
ただし、この計算はゲームのような減価償却の効率がべらぼうに良いものを対象にしているのでちょっと卑怯だ。
たとえばこれが漫画本の場合は1時間で3冊ほど読めてしまうのに1500円ほどかかるわけだからして、1時間800円に対して1時間2300円という膨大な経費増が発生する。
この場合を比較すると、「漫画だったらアプリで読んだほうがお得では?」という考え方になるだろう。
ただこの場合はアプリの成約のせいで無駄に時間を使うので、50分を800円で1時間960円の実質の160円プラスで買う形になっているとも言えるのだが……まあそれでもまだま安い。
まず映画を映画館でみると移動や早めの入場、大量のCMで結構な時間ロスがあるのだ。
電車の中でスマホをいじって過ごすにしてもCM待ちはあるわけだから30分は無駄にするとして電車賃込で1000円ほどだろうか?
これがアマプラだったら1本辺りの増加が+100円ぐらいなわけだから、まるまる+3000円払ってでも映画館で絶対見たくいという気持ちがないなら配信待ちでいい。
ぶっちゃけそこまできたらIMAXぐらいつけてしまった方がお得だと言えるだろう。
5000円ぐらいの価値はあったと思うのでペイしている。
終わってしまった。
ソシャゲの無課金プレイをするより買い切りゲーの方がいいとは言い難いぐらい最近は無料ゲームもクオリティが高い。
そもそもどっちも上澄み同士で殴り合わせることになるのだから、下々のゴミは最初から考えなくて良いのだ。
とはいえたまにあるのがプラットフォームの宣伝のために無料で配られるゲームだ。
名作だったら丸々お得に感じるが、自分に合わないならちょっとやってすぐ捨てていいと思う。
セールを待てば2000円程度で買えて20時間で遊べるゲームなら、1時間800円が1時間900円になるだけだ。
1時間+100円を惜しんで微妙なゲームを遊ぶぐらいなら、やりたいゲームをやるべきだ。
買った直後に無料になると悲しいので、セールでも積みゲーをキチンと崩せているか把握して買うべきだろう。
ただここでも「買ってしまったことに固執して微妙な気持ちで1時間800円を過ごすなら、1時間1000円で楽しく過ごすために新しいゲームに乗り換えちまえ」が成立するだろう。
しかしあれだな、こうやって考えていくと基本無料ゲーの「楽しい時間を味わうためにサッサと金を払ってコンテンツを開放する」という商売のやり方は理に叶っているように思える。
意地になって無料で手に入れようとするより、さっさと買うほうがお互いにWIN-WINな感じはあるな。
まあ小学生やニートでお金がないなら無料で手に入れることの喜びを求めていくのもありかも。
買って終わりではなくガチャで手に入れた「ゲーム内での生活レベル」を維持するためにはガチャを書い続ける必要があるからだ。
1体1体のキャラは永遠だが、最新キャラを持っている状態でプレイし続けるのには金がかかり続ける。
最序盤に決め打ちで人権キャラを引いてしまうというのは未来が予知できているならありかも知れないが……。
とはいえ5万円使った場合、その減価償却が1時間500円になるのでさえ100時間のプレイを必要とするので結構な重さがある。
500時間プレイすれば1時間辺りは100円で済むが、そこまでプレイし続けるかを予想するのは難しいだろう。
まあ……元々の可処分時間の値段が1時間5000円とかなら、500円ぐらいは誤差なんだろうな。
ガチャゲーは身の程に合わせて遊ぶゲームということでやはり確定のようだ。
金を持っているが使い道のない人にはオススメの遊びだろう。
「500万円で身長を10cm買った」“骨延長手術”で身長177cmを叶えたイケメン医師が語る4回にわたる“壮絶な手術”
https://bunshun.jp/articles/-/52538
この記事によれば「一方、アルメニアでの費用は約500万円で、日本の約4分の1です。」とあり、手術にかかったのは約500万円らしいけれど、
女性の美容整形垢とか見ているとけしてべらぼうに高い金額って訳ではないと思う
この女性なんか2000万もかけたらしいし
https://news.yahoo.co.jp/articles/a402def3849aa3a79c43174bfdda23a73d077c5b
前提として、子どもが将来必要となる学費などは現金で積み立てておくことにする。投資は余剰資金でやるものなので、十数年後に確実に必要となる資金を突っ込むわけにはいかないからだ。
そうなると、投資の原資はどこから出るのかといえば、ずばり俺の小遣いなわけだ。
30年間、毎月の小遣いを2万円から1万円に減らし、延々とインデックス投資で積み立てる。
運良く年3%の利回りで運用できたとすると、30年後には元金の50%くらいが運用益として得られるので、180万円くらいが手に入るという計算だ。
……正直、180万円ってのはめちゃくちゃ少ない。30年間、小遣い1万円で頑張る代償として全然見合わない。
毎月1万円あれば、子どもが小さいうちは月に8〜9冊くらい絵本を買ってあげられるし、もう少し大きくなったら、子どもが興味をもちそうなもの (本とか画材とか楽器とかPCとか電子工作パーツとか工具とか) を買って一緒に遊ぶことだってできる。2ヶ月我慢すれば、べらぼうに美味い焼肉を家族で食いに行けるし、10ヶ月我慢すれば、家族で温泉旅館にだって泊まりに行ける。
正直、こんな楽しみを全部放棄してまで、老後の180万円を得たいとは到底思えない。こういうことに金を使って楽しめるのは若い時だけなんだから、今のうちに目一杯楽しみたい。
どうせ年を取れば昇給していくんだし、子どもが独立して生活費が激減した後、10年くらいでガッツリ稼げば老後はなんとかなるさ。
もちろん、月に10万ずつ投資に回せるような富豪なら、30年後に1800万円の運用益が出るので話は別なのは理解している。まあ、俺みたいな小市民には関係のない話だ。
最近20~30代の子と話をすることが増えたのだが、みんながキラキラしていて眩しいよ
私たちの世代は、腐女子が創作活動をするときに、ネットがなかったので本を出すしかなかった
本を出す人なら分かると思うが同人活動は金も時間もべらぼうにかかる
彼氏とうまくやりつつ同人誌を大量に出すなんて不可能で、しかし自分の書いた物を見て貰うには同人誌以外に手段がなかった
個人サイトが現れてもまだpixivはなく、小説はまだ見て貰えても長編漫画などはやはり本になってしまう
なので私のように創作しまくっていた人間は未婚者がけっこういる。気がつけば子供も産めない年齢となっている
創作するのにかかる時間や金を考えると家事を親に背負って貰える子供部屋おばちゃんの人も多い
でもさ、今の子たちは創作したものを表に出すのはTwitterもあればpixivもあるんだよね
自分が20代~30代だったころにpixivとTwitterがあったらと考えてみると、多分一人暮らしをして彼氏も作って、本まではこんなに必死に作らずにネットで公開して楽しんでただろうなって思うんだ
実際今の若い子は彼氏の話とかを同人垢でもTwitterでしてるし旦那が~って書き込みもよく見る
いいなあ、うらやましいなあと思うけれど、正直これが時代の流れという奴で、私たちの頃は結婚してもかろうじて仕事が続けられはしたが、出産したら辞めてね、ムーブだったので、仕事したいけど
泣く泣く辞めていった先輩もたくさん見た
そういう人達も、「私ももう10年遅く産まれていればなあ」って思ったんだろう
自分としてはこうして、何かを犠牲にしないとなにかができない環境がどんどんとネットの進化や時代の流れでなくなっていってることはとても嬉しい
今の子達を羨ましいと思うけれど、「何よ腹立つ!」と思っているわけではない
ただ、もうこの先の人生が見えている自分にとって、可能性や選択肢の増えている今の若者を見ると胸がキュッとなる
上手く説明できない
子供部屋おばちゃんで結婚も投げ捨てて創作をひたすらしていた私についたのは画力
絵だけは上手になったので、どのジャンルに突撃してもそれなりに売れるしそれなりにかまってもらえる
今はやってないが十年くらい前は絵で副業ができるくらいでもあった
その代わりにそれ以外を捨てた感はあるし、絵がたのしすぎて結婚も出産も、うーん、できたらね…って感覚だった
今もいいなあ、とは思うが年老い、車の運転もできなくなった親を放置して一人暮らしをしたら結局親の痴呆は早まり、自分の介護負担が増えるだけで、親を看取るまではそういう事は考えられないし、まあこの年の女と結婚するおじさんもいないだろう
少子化が進んでいるとは言うが、オタク界隈を見る限り、若いオタクは私たちの世代に比べて結婚率が高い気がする
少なくとも昔は同人誌を作る事でしか創作意欲を解消できなかった人達が、気軽にネットでアップできることで、同人誌という全ての時間をもぎ取るハードな物に飛び込まなくてもよくなったことだ
同人誌とイベントは先細りだと思うが、その理由の一つに、コロナもあろうが、やっぱり本を出し、イベントにでるための労力(金や時間など)があまりにも重すぎるというのがあると思う
その道に飛び込む覚悟を決めると他の趣味などを投げ出すしかなかった世代の人間としてはそう思うし、もう少し気軽に活動したくても、本を出す以外に活動手段がなかった。ネットがなかったので。
なので若い世代のオタクたちは、子供部屋おばちゃんの妙に画力や文章力のあるアラフィフアラカンオタクを見た時に、プークスクスせずに優しく接してくれると嬉しい
「結婚も出産も全て捨てて同人誌を作っていた奴らだ。面構えが違う」ってやつだ
この間大学病院の外来にかかった友人から「助教だの診療助教だのだれが偉くてだれが偉くないのか分からん!」と言われたので書く
ちなみに俺は微塵も医療業界の人間ではないし医学部卒でもない(ので添削よろしく)
「学長」と「病院長」のどっちが偉いかどうかはその大学によるけど、だいたい「学長」。そもそも”医学部附属病院”なので大学側が主体のイメージ。まあ派閥とか権力の差はあるから一概には言えない。
病院長は外来もやることが多く、学長より医師としての仕事が多いイメージ。学長は何してんのかよくしらん。
で、肝心のそれより下の方々。
各科の「科長」がまあ大体一番偉いと思って差し支えない。
デッカい総合病院なんかはその上に「内科科長」と「外科科長」に分かれてたりするらしいが、うちの近所の大学病院では無い。
ただ、慣例的に「この科(内科だったら消化器内科、外科だったら脳外科、みたいな感じで)の長が内科/外科のトップ」みたいな序列は若干ある。各科によって人数・売上(っていう言い方していいのか分からん)違うから権力も大きく差があるしね。
ただこの組織編成はあくまで病院内のもの。大学側はまた少し違う。
病院の診療科と同じ区分の大学もあるのかもしれんが、大体はちがう。
大学側の科区分には「なんちゃら講座」とつくことが多く、所属している人員は病院の方より少ないことが多い。病院では「消化器内科」だけど、大学では「内科学第一講座」「第一内科学講座」(ほかの内科と合同)になってる、とか結構ある。もちろん第二もある。
これは大学側の予算と病院側の予算が全然違うから…なのかどうかは知らんが、寄付金講座や、稼働しているのかいまいちわからん講座や、まあ多岐にわたる。
言いたいことがとびとびになってしまったが、「科長=教授」ではない。教授は大体科長だが、科長はかならずしも教授ではない。上の例で言うと消化器内科・免疫内科が一緒に内科学第一講座になった場合(ここのふたつを一緒にしてるところはあまりないと思うが…)、講座の教授枠はひとつしかないので、消化器内科の科長が教授になると、免疫内科の科長は准教授や講師等それ以下の役職になる。ややこしいよね。
てかここまでだらだら書いてきたけど肝心のヒエラルキー全然書いてなかった。
「教授」「准教授」「講師」「助教」「診療助教」「医員」「専攻医(ここ最近できた)」「初期研修医」。だいたいこんなもん。
一番勘違いされがちな「大学院生」は基本給料が週数時間以内分とその他手当(当直とか)しかつかない上に病院としての役職は実はついていない。いや例外はあるけどね。
年齢としては30代前半が多いかな。「診療助教」と「医員」の間くらいのポジで、ここで専門医とか色々とってゆくゆくは出世するわけ。院卒じゃないと上いけないから。
病院での給料がべらぼうに安いせいで外病院でアルバイトしまくらないとやってけないので、体力のある若いうちじゃないと厳しいし、子供が小さいと奥さんは苦労する。この話はあんま関係なかったわ。
ちなみに「病院教授」とか「特任教授」とか頭にいろいろついてるのもあるけど、基本的に無印教授が一番偉い。無印教授って、要は「大学教授」のことなので。「診療助教」より「助教」の方が偉いのも同じ理由。助教以上は大学の講義もする。
「病院教授」と「特任教授」だったらどっちが偉いんだろ、うちの近所の大学だと「病院教授」の方が偉いです。
「教授」になるには実績(研究成果とか)が必要になるわけだけど、正直そんなん一般患者には関係ないわけで。
偉い人が必ずしも名医とは限らんし、こんなちんたら書いといて結局、肩書に意味はあんまりないよって話です。ただまあ、その科の教授より年上なのになぜかまた現役で科内に居座る医師っていうのはたいていやべーやつなので、外来等であたったら注意。医者世界は派閥の次に年功序列(学部卒年度から数えた歴)なので、近所の大学では教授が新しい人に変わったら、その教授より年上の人は全員どっかにとばされたり辞めて開業したりするのが普通。教授になれずに還暦までいる老害はもれなくやばい。
親身になってくれる度としては家庭も仕事もある程度落ち着いている助教の先生あたり(40代前半とか)がまとも率高い。ただし上からは圧をかけられ下からは突き上げをくらっているのでストレスが尋常じゃないため余計な迷惑はかけないように。
お世辞が微塵も嬉しくない性質なので、「上手くなりたい」というボヤきに「上手いよ!」と言われても1ミリも響かず、気を遣わせてしまったことばかり気に病んでしまう。
とはいえ同じことは人にはやってしまう。励ましたいという気持ち。「褒められて嫌な人なんかいない」という声のデカい主張に自分も準じて「とりあえず褒める」けど、自分自身が褒められるの嫌いな人間なのでその主張が間違いであることはよく知っている。
結局のところ欲しい評価しか欲しくないのかも知れない。煽るつもりで出したものは怒った人がいると嬉しいし、嫌がるだろうなと思って出したものは嫌がられると嬉しい。古き良き荒らしというやつ。「いやこれ下手すぎるw」みたいなのには「これはヤバいw」くらいの反応もらった方が安心するし、「これはいいものができたぞう」と思って出したものを褒められるとべらぼうに嬉しい。そして「なんかもう微妙……」と思ったものを褒められると「え……?」と疑心暗鬼になる。多分欲しい反応としては「むう……(黙る)」くらいのことなのかも知れない。上位存在でない人からのアドバイスには多分キレ散らかすし。
年々面倒臭すぎる事故物件の気配が隠せなくなっており、だからこそ誰も彼も「そんなことないよ」って判で押したように言ってくれるんだと思う。でももうそれ、既読マークくらいの意味しかないよね。自業自得だけど。自分でも自分の面倒臭さがヤバいなと思う。
どうすればいいんだか。