はてなキーワード: げつくとは
豚肉 1パック
玉ねぎ 大1個
にんじん 大1個
残っている野菜 適量
ただ、俺はじゃがいもは入れない。入れるなら炒める工程は省いて煮る段階で入れるか、あらかじめレンチンしておいて最後に入れるといい。
油は米油を使ってる。クセがなくて体にもいい。
ルーはジャワとかディナーとか色々使ったけど、最近は安くて安定のバーモンドに落ち着いた。
切り方は何でもいいけど、俺は微塵切りが好き。
俺の作り方はまず肉だけ焼く。
しゃぶしゃぶ用の肉なのですぐに火が入る。
ちょっと焦げ目がつくくらい焼いたら、ひとまず取り出して粗熱を取る。
肉を取り出したら油を敷いて野菜を投入する。
ここでしっかりと炒めて水分を飛ばし、旨みを濃縮させる。大体15分から20分くらい炒める。
テフロンがしっかりしたフライパンならかき混ぜてるだけで焦げないと思う。
水分が完全に飛んでパチパチ音がしだしたら頃合い。
もしそれ以上炒めたい人は水を少し継ぎ足しながらやると焦げずに色がつけられる。
肉は後入れするスタイル。
大きいまま食べたい人はそのままでいいけど、野菜を微塵切りにしたなら肉も細かい方が食べやすい。
俺は昔から隠し味には中濃ソースかオイスターソースを愛用している。
水はルーに書いてある分量(バーモンドなら850ml)入れる。
何も考えなくていい。水は多すぎても少なすぎても駄目だ。計量カップでしっかり計って入れろ。
蓋をする人もいるけど、俺は蓋はしない。
もし蓋をしたいならもう少し水は少なくてもいいかもしれない。
基本的に放置でいいが、たまにかき混ぜるくらいはしていいと思う。
この時、火は止めていい。
一個ずつ落ち着いて箸で掴んで溶かしていけばいい。
全部溶かし切ったら均等に混ざるようにおたまでしっかり混ぜること。
この時の火は弱火。
油断すると底が焦げつくので、しっかりと混ぜながらルーの粘度を上げていく。
煮込み料理は原則として冷やす過程で味が染み込んで美味くなっていく。
一晩寝かせるのが理想だが、30分だけでも寝かせると一味違ってくる。
2022年、ロシアのウクライナ侵攻直前のオリンピック。ドーピング疑惑で世界の敵になったカミラ・ワリエワが私の推しだった。
多種の四回転ジャンプを難なくこなし、なおかつそれが難しいということすら理解のできないたおやかさで着氷する。それはあたかも高難易度のジャンプすらバレエの振り付けのひとつのようで、優雅でスムーズ、フリーレッグや手先まで極めて丁寧な演技をする推しは、誰にも勝てないと他の選手や他の選手のファンを震撼させるという意味で「絶望」と呼ばれていた。
彼女にはすげえ身体能力で軽々ジャンプを飛べる以前に、幼い頃から体に染み込んだバレエの素養がある。だから例えば彼女が20代後半まで頑張れたら、あるいは女性版羽生結弦のようになるのではないかとワクワクしていた。
そのとき私の推しはまだ15歳、リンクでは皆を容赦なく絶望させていても、エテリチームの妹みたいな可愛い少女だった。アジア系の少数民族の血を引く顔立ちは日本人好みのする愛らしさで、チームの先輩がおみやげに買ってきた日本アニメのぬいぐるみをずっと大事にしている、そんな子だった。
でも薄々は気づいていたような気がする。推しのリンクメイトがいいサプリを知ってから調子がいいのという発言をして周囲が血相を変えたりしたことはある。
それでもドーピングのことが報じられたときに耳を疑ったのは、どこかでエテリコーチは本当はいい先生であってほしいという願望があったからだと思う。
推しがグルーミングされているとき、ファンもまたグルーミングされているのだ。
実を言うとこの件のずっと前から、エテリコーチはスケートファンの嫌われ者だった。彼女に師事するロシア選手が好きな私たちも、エテリの指導方針のことは快く思ってなかった。ドーピングは陰謀論交じりの疑惑にすぎなかったが、児童虐待としか思えないウェイトコントロールが横行していることはみんな知っていた。選手本人がどれだけ私は頑張っているかの自慢として、ほとんど空気しか食ってないような食事内容を暴露しているので。
でも水で太る体質なので水さえも制限されているというインタビューにざわめいた後に、まともに食っているチームメイトがいて「揚げ物を制限されちゃった」とかいう比較的まともそうな制限の話をしているのを見ると「なんだー。それぞれの体質や性格に合わせて厳しい制限される子もいるだけで、自分でコントロールできる子はちゃんと食べてるんだね」と思っちゃったりする。
エテリはスケートのことしか考えてない使い捨てだという愚痴ツイートの後に、エテリコーチは選手に常々「私たちはスケートをしていない人生のほうが長いんだからよく人生設計と健康を考えて」と言い聞かせているほっこり話が流れてきて「なんだー」と思っちゃったりする。
頑張る推しを肯定すればするほど虐待に加担しているなんて、そんな事実に耐えられるほど、普通のメンタルは強くないのだ。コーチ陣と仲良しの写真や記事を見ればやっぱり「厳しいけど個々に合わせた指導をしてくれる名コーチ」「お母さんみたいな人」という言葉を信じてしまう自分がいる。そのソースを集めてきてしまう自分がいる。
1kg体重が増えればバランスが崩れて今までできていたことができなくなる競技だ。やりすぎだが必要ではある、という気持ちもあった。1kg増えるだけでできないとか、そもそも四回転ジャンプが飛べなければいけないということ自体が呪いだとは言えるだろうが、その「たかだかジャンプ」のために15年生きてきている人間を前になんでそんな残酷なことが言えるのかという感情もあった。
ちなみに私自身の立場としてはドーピングには強く反対していて、はっきりとドーピング反対とエテリチームへの批判を何度もツイートしているし、そういうツイートにたくさんいいねを押した。RTした。それはあたりまえ。
児童保護の観点とか、医学上の観点とか、まっとうな意見ばかり支持していたいけど、そればかりじゃない。もともとロシア女子のアンチだった人とか、なんとなく男子のトップ選手を超える身体能力を持つ女子選手が実在することが気に入らない人とか、とにかくロシアという国を馬鹿にして日本すごいということが言いたい人とかが、あることないこと言ってくる。そもそもロシアのスケートを推しているお前らには芸術やスケート鑑賞のセンスがないとまで言われる、オリンピックにしかフィギュアスケートを見ない人に。ジュニアから見てきた15歳の女の子に向かって、炎上している女になら何を言ってもいいと思っている人たちのセクハラまがいの発言や画像貼りが投げかけられるのもつらかった。ドーピング検査がシロだから何の問題もなく出場してるはずの他の選手まで、女子の筋肉じゃないから筋肉増強剤だとかいやいやむしろ実は女じゃないんじゃないのとかまで悪口を叩かれた。
果てはスケートの有識者ですロシアの有識者ですという人までが酷い陰謀論で記事を書き始め、それが良心で拡散していく。例えば「ロシアのスポーツ選手は貧しい少数民族から人身売買同様にモスクワに出されてきて家族は逆らえない」みたいなやつとか、当時の採点基準でなんにも問題がないスコアを出してきて「ロシアには採点の忖度があってやたら高得点な選手は真っ黒」とか言い出すやつとか。
推しがそんなデマで侮辱されているのが嫌で訂正しようとすると、ドーピング擁護派のほうにカウントされる。なんだこれ。ポジショントークで気持ちよくなってんじゃねーよオッエー。
ちょうどエテリチームの他の選手がドーピング検査をスルーしようとした話が聞こえてきたこともあり、ジャニーズ報道とそれにまつわる意見を見てたら、なんかあのドーピング事件のお気持ち長文を書いて吐き出したくなったのでした。
きっとジャニオタさんの中にはあのときの私みたいな気持ちになっている人もいるんでしょう。
反発するジャニオタさんにそんなに推しが見たいのか自分の欲望優先なのかという言葉が投げかけられているけど、私の身の回りのジャニーズ好きな人でジャニーや会社の対応に憤ってない人はいないです。
ただただ推しやファンにかけられたグルーミングに苦しんで、これ幸いと推しに投げかけられるデマやセクハラに苦しんでおられるんじゃないでしょうか。
でも駄目だ、ああいう児童虐待がシステムになってるところって解体しないと終わらないんだよ。ジャニーとかエテリとかだけ消えても。
あの次のシーズン、暗い怒りと挑発の表情でメディア批判のプログラムを滑ったカミラワリエワの目を忘れない。あれをまんまと国内プロパガンダに利用したロシアを許せない。あちら側に行ってしまった推しと画面越しに目が合って、その瞬間の焦げつくような怒りと絶望をどう言い表したらいいのだろう。
私の推しを搾取していたのは国だけど、ジャニーズは企業なんだからなんとかなるでしょ。解体されてほしい。
ただ、CM降板の企業はちゃんとこれはタレントに対してではなく「ジャニーズ事務所という組織」に対する抗議なんだと表明して不採用にしたほうがいいと思うな。
毎週日曜朝8時30分からの放送を楽しみにしていたデリシャスパーティ♡プリキュアが終わった。
デリシャスパーティ♡プリキュアはごはんをテーマにしたプリキュアで、お米がモチーフのキュアプレシャス、パンがモチーフのキュアスパイシー、麺がモチーフのキュアヤムヤムに加え、18話からはデザートがモチーフのキュアフィナーレも参加した4人のプリキュアと、個性豊かなサブキャラクターたちによってストーリーが繰り広げられる。
最終話を見た後、誰の誕生日でもないこの日に合わせて購入したキャラデコパーティーケーキを頬張って、アラサー女は声を上げて泣いた。
プリキュアシリーズは開始から今なお根強い人気を誇っているため、毎週放送の度Twitterのトレンドに関連用語が入る。私がデリシャスパーティ♡プリキュア(以下デパプリ)を知ったのも、次のプリキュアがデパプリになるという発表がトレンドに入っていたからだ。
キャラデザがべらぼうに可愛いと思った。プレシャスに一目惚れした。プリキュアは昔少し追っていて、いつの間にかやめてしまったが即再開しようと思った。仕事と家の往復しかない虚しい1週間に楽しみができるのは非常に良いことだ。それに日曜日に早起きができるとなかなかQOLが上がる。
摂食障害と言うには私の症状は軽いものだったと思う。そも未診断だし、なりかけと言った方がいいかもしれない。でもそうでない人と比べると自分の異常性は明らかだった。思考も発想も認知も歪んでいた。進んで骨と皮になりたがるのはやはり異常なのだ。それに、今だってそういう考えが完全になくなったわけではない。
きっかけはダイエットではあったが、直接のきっかけになったのは親友の存在だった。
親友(以下Sとする)は学生の頃からの付き合いだった。Sは無自覚の拒食症みたいな奴で、一日一食カロリーメイトだけ食べて生きてるような奴だった。同い年で身長は平均ほどあったが、体重は小学生のそれだったし、生理も止まっていた。太ももからふくらはぎにかけての曲線がない棒のような自らの脚を撫ぜ、もっと細くなりたいと言っていた。吐くとスッキリするからと頻繁に吐いていたら吐きグセがついて、食べたものがすぐ戻ってくるようになったとあっけらかんと語っていたこともあった。しかし遊びに行けば人並みに食事をしていたし、ヘルシーなものよりジャンクなものをよく食べていたので、私はSを病気とは思っていなかった(偏食だなあとは思っていた)。
私たちは性格も趣向も正反対だったが、一点だけすこぶる気の合う趣味があったのでそれで仲良くなった。
Sはどこか厭世的で、人間という生き物が嫌いな奴だった。"生きる"という行為そのものを嫌いっている節すらあった。自分の名前を嫌い、本名にかすりもしないあだ名で自分を呼ばせた。夜を好み、自由を好み、意思も感情も存在しない無機物を好んだ。かと言って死にたがっているわけでもなく、自分大好きナルシストで、常に楽で楽しそうな方に漂いながら刹那的に生きている奴だった。早い話が厨二病を拗らせていた奴だったのだが、それがさまになるくらいには顔が良く、雰囲気があった。
対する私はちょっと少女趣味を拗らせているだけの平凡な女だ。どこにでもいるような普通のオタクだ。ダイエットをしていたと言っても「痩せたーい」と言いながらお菓子を食べてたまに気が向いた時に運動の真似事をする程度のかわいらしいものだった。私から見ればSは非凡以外の何物でもなかった。私にはSのような後先考えない行動は怖くてできない。Sと会話していると考え方の違いに驚くことがとにかく多かったし、自分にないものをたくさん持っているSに憧れていた。
そしてSが、ふらふらとあちこちのコミュニティを転々としているSが、唯一私のことは好ましく思って離れずにいることに、私は浮かれていた。いつの間にか、Sが私の親友であることが私の自信になっていた。
アイドルに認知された、みたいな。どこにでもいる普通の女の子が超絶イケメンに気に入られる系の恋愛漫画のヒロインになった、みたいな。そんな気持ちだった。
平凡で普通の私でもSといればその枠からはみ出せる。Sが私を特別にしてくれる。
この人の隣に並べるような人間になろう。
最初のうちは、食事の量を減らせばスルスルと体重が落ちていった。減っていく数字はモチベーションになり精神安定剤になった。前よりも自信を持って可愛い服が着られるのが嬉しかった。空腹は水を大量に飲んで誤魔化した。いつも腹が鳴っていた。毎日SNSのダイエッターを見て試せるものを片っ端から試した。サプリの類も試したが便通が良くなるだけでほぼ効かなかった。そうこうしているうちに摂食障害界隈にもたどり着いたが、自分はこの人たちとは違ってうまくダイエットができていると思っていた。こうはなるまいとも思っていた。結果なったわけだが。
そのうち体重が減らなくなってきた。焦りと自己嫌悪で発狂しそうだったが、どこまでも平凡な人間である私には発狂すらできなかった。家にいるより外にいた方が気は紛れたが、誰かと遊ぶと食事が付き纏ってくるのが憂鬱だった。毎日、道ゆく他人に「私って痩せてますか」と肩を引っ掴んで聞いて回りたい気持ちでいっぱいだった。Sと遊びに行くのは何よりも苦痛だった。Sと並んで歩くと私は世界一デブみたいに思えた。すごく惨めで早く痩せたかったが、体重はずっと停滞していた。SNSで摂食界隈を見に行く回数が増えた。自分と同じような人がいて安心するのと同時に、安心する自分を嫌悪した。私は病気じゃないのになんで病気の人を見て安心してしまうんだ、Sだって私と遊んでいる時は普通に外食しててあんなに痩せてるんだから病気じゃない、食べて吐いたら痩せて当然だ、そうじゃないからSは特別だし私も特別になれるんだ、と自分に言い聞かせた。しかしこのあたりの時期にSに吐き癖があることを本人から聞かされた。この頃には私の頭はだいぶやられていて、Sはあくまで特別な人間で、Sを摂食と認めてしまうと私も摂食になってしまって私は特別では無くなってしまう、なんて思考回路になっていたので、吐きダコとかもないし逆流性食道炎なのかなあとか呑気に思った。
でもぼんやりと心のどこかで、やっぱり吐かないと痩せられないのかなあとも思った。
私は嘔吐恐怖症だ。
他人でも自分でも身内でも、フィクションでも聞くのも見るのも無理だ。職業柄字面だけは慣れたが話題に上がることもしんどい。ノロウイルスが流行る時期になると恐怖しかない。
摂食界隈には過食嘔吐の人が圧倒的に多い。菓子パンとか惣菜とかを大量に並べた写真を過食材と言ってアップしている人をよく見た。病気で苦しんでる人になんてこと思うんだとは分かっているが、私はこの人たちが羨ましかった。あんなに好きなだけ食べてるのに吐いてるから太らない。私だって吐ければもっと食べたいものがいっぱいあるのに。吐ければ今よりもっと痩せられるのに。私だって吐きたい。吐けさえすれば。恐れている嘔吐が甘美な響きに聞こえてきた頃が限界だった。
コンビニに行った。スーパーに行った。何軒もハシゴした。今まで我慢してた食べたかったものを全部買って、両手に大きな袋を持って、気になってた食べ物を片っ端から注文した。全部食べた。美味しかった。少なくとも舌は美味しかったと記憶していた。だからこれは病気じゃない。全部美味しかったから私は病気じゃない。病気だったら美味しいなんて思わないから。病気だったらもっと苦しいから。そう思った。
終ぞ一滴も吐くことはできなかった。
Sとは絶縁した。
デパプリの放送が始まったのは限界を迎えていたそんな時だった。やっぱりキャラデザがべらぼうに可愛くて、動いて喋るプレシャスは最高だった。1000キロカロリー程度のパンチじゃ私は倒れないなと自嘲した。
ただ、子供向け作品だからなのか、食というテーマと連動しやすいダイエットについての話が全くなかったのは非常に有り難かった。
デパプリは、素材の生産者や家族の食事のあり方まで、食というものをとことん丁寧に描いていた。出てくる料理もどれも美味しそうだった。真剣に食と向き合って作られた作品だと心底感じた。
プレシャスは、ゆいちゃんは、いい子だった。明るくて活発で好きなものに真っ直ぐで、優しくて仲間思いで、いつもみんなの中心にいて、それが当たり前で、この子がいる場所はそこしかないと思わせるような子だったけど嫌味がなくて、見ていて気持ちの良いくらいの主人公だった。誰かが立ち止まった時、どの方向を向いたらいいか考えさせてくれる、いつも導いてくれていたのはゆいちゃんだった。この作品の主人公はゆいちゃんしかありえないと思うけど、圧倒的な先導力で引っ張るタイプのリーダーというよりは、すぐ隣にいてくれる友達のような子だった。デパプリは遠い世界、自分と関係ない世界で起こっている話という感じがあまりしなくて、毎週、ゆいちゃんとその友達とで作られていくストーリーの中に、私が居ていい場所が用意されているように感じた。ゆいちゃんもゆいちゃんの周りの人たちもみんな優しくて、あたたかかった。毎週友達の話が聞けるようで楽しみだし楽しかった。
ゆいちゃんが大切にしていることや、みんなが大切に思っていることに特別な事は無かった。小学校や幼稚園、あるいは物心つく前から教わっているような、誰でも知っているようなことばかりだ。特別に何かの能力が優れているとか、他とは違う突出した何かがあるとか、多くの人が持っていないものを持っているとか、そういう事を特別扱いしていなかった。
異端を求めた。大多数とは違う存在になろうとした。死に向かっていけば、みんなが見ている方向と違う方を見ていれば、違う存在になれる気がした。私がしていたのは生の放棄だ。
食事を嫌った。食べることを、食べ物を美味しいと思うことを、何かを食べたいと思うことを嫌がった。食べたらまた生きてしまうから。美味しいと思ったら、また食べたくなってしまうから。
お腹が空くことは、食べ物を食べることは、満腹になることは、卑しい行為だと思い込んだ。生にしがみつく、浅ましい行動だと嫌悪した。
本当は食べることが好きだった。
全部全部大好きだった。
ずっと忘れていた。忘れようとして蓋をしていた。あんなに好きだったことなのに、どうして忘れてしまったんだろう。どうして嫌いになってしまったんだろう。忘れたくなんてなかったのに。嫌いになんてなりたくなかったのに。食べることが好きだった。大好きだった。好きなものを好きな自分のことが、好きだった。嫌いになる必要なんてなかったのに。何よりも自分が自分のことを、特別だと思っていたのに。
やっと思い出せた。
忘れちゃいけなかった。
誰よりも食べることが好きな彼女だから、食べることを大切に思っていた彼女だったから、「ごはんは笑顔」という言葉を信じ続けていた彼女だったから、毎週毎週真っ直ぐに、一年間伝えてくれたのが、彼女が、和実ゆいが、キュアプレシャスになってくれたから。私は大切なことを思い出すことができた。この作品に出会えて、本当に良かった。
毎週日曜朝8時30分からの放送を楽しみにしていたデリシャスパーティ♡プリキュアが終わった。
デリシャスパーティ♡プリキュアはごはんをテーマにしたプリキュアで、お米がモチーフのキュアプレシャス、パンがモチーフのキュアスパイシー、麺がモチーフのキュアヤムヤムに加え、18話からはデザートがモチーフのキュアフィナーレも参加した4人のプリキュアと、個性豊かなサブキャラクターたちによってストーリーが繰り広げられる。
最終話を見た後、誰の誕生日でもないこの日に合わせて購入したキャラデコパーティーケーキを頬張って、アラサー女は声を上げて泣いた。
プリキュアシリーズは開始から今なお根強い人気を誇っているため、毎週放送の度Twitterのトレンドに関連用語が入る。私がデリシャスパーティ♡プリキュア(以下デパプリ)を知ったのも、次のプリキュアがデパプリになるという発表がトレンドに入っていたからだ。
キャラデザがべらぼうに可愛いと思った。プレシャスに一目惚れした。プリキュアは昔少し追っていて、いつの間にかやめてしまったが即再開しようと思った。仕事と家の往復しかない虚しい1週間に楽しみができるのは非常に良いことだ。それに日曜日に早起きができるとなかなかQOLが上がる。
摂食障害と言うには私の症状は軽いものだったと思う。そも未診断だし、なりかけと言った方がいいかもしれない。でもそうでない人と比べると自分の異常性は明らかだった。思考も発想も認知も歪んでいた。進んで骨と皮になりたがるのはやはり異常なのだ。それに、今だってそういう考えが完全になくなったわけではない。
きっかけはダイエットではあったが、直接のきっかけになったのは親友の存在だった。
親友(以下Sとする)は学生の頃からの付き合いだった。Sは無自覚の拒食症みたいな奴で、一日一食カロリーメイトだけ食べて生きてるような奴だった。同い年で身長は平均ほどあったが、体重は小学生のそれだったし、生理も止まっていた。太ももからふくらはぎにかけての曲線がない棒のような自らの脚を撫ぜ、もっと細くなりたいと言っていた。吐くとスッキリするからと頻繁に吐いていたら吐きグセがついて、食べたものがすぐ戻ってくるようになったとあっけらかんと語っていたこともあった。しかし遊びに行けば人並みに食事をしていたし、ヘルシーなものよりジャンクなものをよく食べていたので、私はSを病気とは思っていなかった(偏食だなあとは思っていた)。
私たちは性格も趣向も正反対だったが、一点だけすこぶる気の合う趣味があったのでそれで仲良くなった。
Sはどこか厭世的で、人間という生き物が嫌いな奴だった。"生きる"という行為そのものを嫌いっている節すらあった。自分の名前を嫌い、本名にかすりもしないあだ名で自分を呼ばせた。夜を好み、自由を好み、意思も感情も存在しない無機物を好んだ。かと言って死にたがっているわけでもなく、自分大好きナルシストで、常に楽で楽しそうな方に漂いながら刹那的に生きている奴だった。早い話が厨二病を拗らせていた奴だったのだが、それがさまになるくらいには顔が良く、雰囲気があった。
対する私はちょっと少女趣味を拗らせているだけの平凡な女だ。どこにでもいるような普通のオタクだ。ダイエットをしていたと言っても「痩せたーい」と言いながらお菓子を食べてたまに気が向いた時に運動の真似事をする程度のかわいらしいものだった。私から見ればSは非凡以外の何物でもなかった。私にはSのような後先考えない行動は怖くてできない。Sと会話していると考え方の違いに驚くことがとにかく多かったし、自分にないものをたくさん持っているSに憧れていた。
そしてSが、ふらふらとあちこちのコミュニティを転々としているSが、唯一私のことは好ましく思って離れずにいることに、私は浮かれていた。いつの間にか、Sが私の親友であることが私の自信になっていた。
アイドルに認知された、みたいな。どこにでもいる普通の女の子が超絶イケメンに気に入られる系の恋愛漫画のヒロインになった、みたいな。そんな気持ちだった。
平凡で普通の私でもSといればその枠からはみ出せる。Sが私を特別にしてくれる。
この人の隣に並べるような人間になろう。
最初のうちは、食事の量を減らせばスルスルと体重が落ちていった。減っていく数字はモチベーションになり精神安定剤になった。前よりも自信を持って可愛い服が着られるのが嬉しかった。空腹は水を大量に飲んで誤魔化した。いつも腹が鳴っていた。毎日SNSのダイエッターを見て試せるものを片っ端から試した。サプリの類も試したが便通が良くなるだけでほぼ効かなかった。そうこうしているうちに摂食障害界隈にもたどり着いたが、自分はこの人たちとは違ってうまくダイエットができていると思っていた。こうはなるまいとも思っていた。結果なったわけだが。
そのうち体重が減らなくなってきた。焦りと自己嫌悪で発狂しそうだったが、どこまでも平凡な人間である私には発狂すらできなかった。家にいるより外にいた方が気は紛れたが、誰かと遊ぶと食事が付き纏ってくるのが憂鬱だった。毎日、道ゆく他人に「私って痩せてますか」と肩を引っ掴んで聞いて回りたい気持ちでいっぱいだった。Sと遊びに行くのは何よりも苦痛だった。Sと並んで歩くと私は世界一デブみたいに思えた。すごく惨めで早く痩せたかったが、体重はずっと停滞していた。SNSで摂食界隈を見に行く回数が増えた。自分と同じような人がいて安心するのと同時に、安心する自分を嫌悪した。私は病気じゃないのになんで病気の人を見て安心してしまうんだ、Sだって私と遊んでいる時は普通に外食しててあんなに痩せてるんだから病気じゃない、食べて吐いたら痩せて当然だ、そうじゃないからSは特別だし私も特別になれるんだ、と自分に言い聞かせた。しかしこのあたりの時期にSに吐き癖があることを本人から聞かされた。この頃には私の頭はだいぶやられていて、Sはあくまで特別な人間で、Sを摂食と認めてしまうと私も摂食になってしまって私は特別では無くなってしまう、なんて思考回路になっていたので、吐きダコとかもないし逆流性食道炎なのかなあとか呑気に思った。
でもぼんやりと心のどこかで、やっぱり吐かないと痩せられないのかなあとも思った。
私は嘔吐恐怖症だ。
他人でも自分でも身内でも、フィクションでも聞くのも見るのも無理だ。職業柄字面だけは慣れたが話題に上がることもしんどい。ノロウイルスが流行る時期になると恐怖しかない。
摂食界隈には過食嘔吐の人が圧倒的に多い。菓子パンとか惣菜とかを大量に並べた写真を過食材と言ってアップしている人をよく見た。病気で苦しんでる人になんてこと思うんだとは分かっているが、私はこの人たちが羨ましかった。あんなに好きなだけ食べてるのに吐いてるから太らない。私だって吐ければもっと食べたいものがいっぱいあるのに。吐ければ今よりもっと痩せられるのに。私だって吐きたい。吐けさえすれば。恐れている嘔吐が甘美な響きに聞こえてきた頃が限界だった。
コンビニに行った。スーパーに行った。何軒もハシゴした。今まで我慢してた食べたかったものを全部買って、両手に大きな袋を持って、気になってた食べ物を片っ端から注文した。全部食べた。美味しかった。少なくとも舌は美味しかったと記憶していた。だからこれは病気じゃない。全部美味しかったから私は病気じゃない。病気だったら美味しいなんて思わないから。病気だったらもっと苦しいから。そう思った。
終ぞ一滴も吐くことはできなかった。
Sとは絶縁した。
デパプリの放送が始まったのは限界を迎えていたそんな時だった。やっぱりキャラデザがべらぼうに可愛くて、動いて喋るプレシャスは最高だった。1000キロカロリー程度のパンチじゃ私は倒れないなと自嘲した。
ただ、子供向け作品だからなのか、食というテーマと連動しやすいダイエットについての話が全くなかったのは非常に有り難かった。
デパプリは、素材の生産者や家族の食事のあり方まで、食というものをとことん丁寧に描いていた。出てくる料理もどれも美味しそうだった。真剣に食と向き合って作られた作品だと心底感じた。
プレシャスは、ゆいちゃんは、いい子だった。明るくて活発で好きなものに真っ直ぐで、優しくて仲間思いで、いつもみんなの中心にいて、それが当たり前で、この子がいる場所はそこしかないと思わせるような子だったけど嫌味がなくて、見ていて気持ちの良いくらいの主人公だった。誰かが立ち止まった時、どの方向を向いたらいいか考えさせてくれる、いつも導いてくれていたのはゆいちゃんだった。この作品の主人公はゆいちゃんしかありえないと思うけど、圧倒的な先導力で引っ張るタイプのリーダーというよりは、すぐ隣にいてくれる友達のような子だった。デパプリは遠い世界、自分と関係ない世界で起こっている話という感じがあまりしなくて、毎週、ゆいちゃんとその友達とで作られていくストーリーの中に、私が居ていい場所が用意されているように感じた。ゆいちゃんもゆいちゃんの周りの人たちもみんな優しくて、あたたかかった。毎週友達の話が聞けるようで楽しみだし楽しかった。
ゆいちゃんが大切にしていることや、みんなが大切に思っていることに特別な事は無かった。小学校や幼稚園、あるいは物心つく前から教わっているような、誰でも知っているようなことばかりだ。特別に何かの能力が優れているとか、他とは違う突出した何かがあるとか、多くの人が持っていないものを持っているとか、そういう事を特別扱いしていなかった。
異端を求めた。大多数とは違う存在になろうとした。死に向かっていけば、みんなが見ている方向と違う方を見ていれば、違う存在になれる気がした。私がしていたのは生の放棄だ。
食事を嫌った。食べることを、食べ物を美味しいと思うことを、何かを食べたいと思うことを嫌がった。食べたらまた生きてしまうから。美味しいと思ったら、また食べたくなってしまうから。
お腹が空くことは、食べ物を食べることは、満腹になることは、卑しい行為だと思い込んだ。生にしがみつく、浅ましい行動だと嫌悪した。
本当は食べることが好きだった。
全部全部大好きだった。
ずっと忘れていた。忘れようとして蓋をしていた。あんなに好きだったことなのに、どうして忘れてしまったんだろう。どうして嫌いになってしまったんだろう。忘れたくなんてなかったのに。嫌いになんてなりたくなかったのに。食べることが好きだった。大好きだった。好きなものを好きな自分のことが、好きだった。嫌いになる必要なんてなかったのに。何よりも自分が自分のことを、特別だと思っていたのに。
やっと思い出せた。
忘れちゃいけなかった。
誰よりも食べることが好きな彼女だから、食べることを大切に思っていた彼女だったから、「ごはんは笑顔」という言葉を信じ続けていた彼女だったから、毎週毎週真っ直ぐに、一年間伝えてくれたのが、彼女が、和実ゆいが、キュアプレシャスになってくれたから。私は大切なことを思い出すことができた。この作品に出会えて、本当に良かった。
主人公「おれ」は自涜に惑溺している少年である。「おれ」は過剰な自意識を抱えて他人の目に怯えている。「おれ」は死について、自分が無になることについて、強い怖れを抱いている。十七歳の誕生日の食卓で「おれ」が自分の中でもあいまいな考えで皇室批判や自衛隊批判を口にしたところ、自衛隊の病院で看護婦をしている姉から着実な理屈で論駁されてしまう。「おれ」は逆上して姉を蹴りつけてしまうが、そのことにすぐ後悔し、自責の念にまみれながら、逃避的に自涜を行なって寝る。「ああ、生きているあいだいつもオルガスムだったらどんなに幸福だろう」
翌日は、古文の定期試験の日だったが「おれ」は試験に全く歯が立たない。試験が終わり、東大志望の優等生の連中は小賢しく試験問題の論評をしている。クラスの剽軽ものの「新東宝」は試験問題を下ネタにしてクラスの女の子を笑わせている。どちらも「おれ」には疎ましい。試験の次の時間は体育の800m走であった。「新東宝」は「おれ」が密かに恋情を抱いているクラスのマドンナの杉恵美子に「マスをかくやつはすぐへたばる」と怪情報を流したと冗談を言う。「おれ」は他の走者より完全に遅れてゴールインする。ゴールインしてみると「おれ」は走りながら失禁しており皆の嘲笑の的となった。
絶望しながら自治会をさぼって帰宅の途につく「おれ」に「新東宝」が声をかけてくる。右翼の街頭演説のサクラにならないかという。右翼のサクラをやっていることは「新東宝」の秘密のようである。連れ立って新橋駅前にいくと街宣車の上で「皇道派」の逆木原国彦が演説をしている。演説は全く盛り上がっていないが、逆木原はまったく気にせず演説を続ける。「あいつらは売国奴だ 、ヘドだ 。おれは誓っていいが、あいつらを殺してやる」「諸君、自分の弱い生をまもるためにあいつらを殺しつくそう、それが正義だ」「おれ」はこの言葉に胸を打たれる。
気がつくと後ろに三人組の女事務員がおり「おれ」を指差して「あいつ、《右》よ、若いくせに。ねえ、職業的なんだわ 」と言っている。逆木原の演説に感化された「おれ」は他人の目を跳ね返す力を得ており、こう怒号する。「 《右》がどうした、おい、おれたち 《右》がどうしたというんだ、淫売ども!」これをきっかけに「おれ」は「皇道派」に入党し、家を離れ「皇道派」本部で暮らすようになる。「きみは天皇陛下の大御心にかなう日本男子だよ、きみこそ真の日本人の魂をもっている選ばれた少年だ!」
「おれ」の学校での立場は180度変わる。「皇道派」のサクラを隠れてやっていたことが負い目の「新東宝」が宣伝係となって、俺の《右》としての武勇伝を学校中で広める。「新東宝」によると、800メートル走での「おれ」の失禁の失態は 、懲罰的にランニングをさせた体育教官への「軽蔑の 《右》的表現」ということになった。自治会の《左》の秀才が「おれ」に議論をふっかけてくるが、「おれ」は自分自身がかつてあいまいな考えのままにしていたところを突くだけでよかった。杉恵美子は「おれ」に興味津々の目でいう。「あなたみたいに時代錯誤の 《右》少年は防衛大学にでも行くことね 」
「おれ」には他人の目が怖くなくなってきた。逆木原に性欲を抑圧せず「トルコ風呂の女にきみの男根をひともみさせるんだね」と言われたときは不安だったが実際にいってみると杞憂だった。俺は「鉄串のような男根」を持つ男だった。「おれの男根が日の光だった、おれの男根が花だった、おれは激烈なオルガスムの快感におそわれ、また暗黒の空にうかぶ黄金の人間を見た、ああ、おお、天皇陛下!燦然たる太陽の天皇陛下」。「おれ」は他人の目を克服したこと、そして自分が天皇陛下の御子であることを確信する。
「おれ」は逆木原の書庫で天皇陛下をときあかす書物を探し出す。谷口雅春の 『天皇絶対論とその影響 』を読み、求めていたものをかちとる。 「《忠とは私心があってはならない》」 「天皇陛下に精神も肉体もささげつくすのだ。私心を棄てる、おれのすべてを放棄する!」「おれ」は自分があれほど恐れていた死の恐怖からまぬがれているのをさとる。逆木原が「七生報国、天皇陛下万歳」と書いてくれた稽古着で「おれ」は柔道や空手に熱中して取り組む。
安保闘争の国会デモでは「おれ」は十万の 《左》どもに立ちむかう二十人の皇道派青年グループの最も勇敢で最も兇暴な最も右よりのセヴンティーンとなった。デモの最中に女子学生が死んで、デモ隊が打ちひしがれて泣きながら黙禱していた時、「おれ」は強姦者のオルガスムを感じ、黄金の幻影にみな殺しを誓う、唯一人の至福のセヴンティーンだった。
高校生の時。モテるかな、と思って。近所のハードオフで買った。コードを押さえられなくて挫折。ギターが悪かった、手が小さくて向いてないと自分の中で言い訳。家族に譲った。
アコギからの派生。ベンドが上手くできなくて挫折。まだ手元にある。
・イラスト
昔の作品にも詳しいとカッコいいかな、と思って。結局抜きゲーで抜いていただけ。
・バイク
大学生の時。旅を趣味にしたかった。中古バイクを購入。機械もいじれるとカッコいいかと思ったけど、メンテもそんなにせず結局あまり乗っていない。まだ手元にある。
社会人になりたての時。買ったばかりの頃は馬鹿みたいに撮っていたけど、設定とかを覚えるのが面倒になってしまって埃をかぶっている。あと、レンズが高い。
同上。ヤフオクで買って、モルトプレーンだけ中途半端に入れ替えたけどまだ一枚も撮ったことがない。
・登山
近所の山をちょっと登った。高い山に登るのは面倒くさい。高かった登山靴は埃をかぶっている。
・キャンプ
バイク旅のために買ったけど、結局家でダラダラしている方が好きなことに気がついた。道具はまだ持っている。
・タロット
覚えているとカッコいいと思ったけど、覚えるのが面倒くさい。本だけ何冊も持っている。
・映画
名作と言われる作品は知っておきたいと思ったけど、数が多すぎる。見たところで語れるほどの経験も知識も含蓄もない。自分の浅さに自己嫌悪。
覚えることが多い。本ばかり持っている。でも読んでない。
・筋トレ
継続は力なり。ただ自分にはその力はなかった。めちゃくちゃ量のあるプロテインだけ持っている。ジムも契約したっきりほぼ行ってない。勿体ない。
文章なら俺にも!と思ったけど、そんなわけなかった。形から入るタイプなのでMacBook Proなんか買っちゃったりして。むろん埃をかぶる。
指輪物語、十二国記、ラブクラフト、シャーロックホームズ、アガサクリスティ、館シリーズ、鬼平犯科帳、グイン・サーガ…全部挫折。根気が続かない。作者で読んでみようとしてもまず続かない。
・作曲
高いソフト買ったのに、何も生み出せてない。
・御朱印集め
外に出ないので、ほぼ白紙。
やる友達がいなかった。
思いつく限り書いてみたけれど、まだ有りそう。
こうして見ると、如何に自分が人からよく見られるために色々なことに手を出しているかがよくわかる。
自分はこれをやってます!って胸を張って言えるようなものがないや。
・裁縫
・盆栽
・家庭菜園
・天体観測
・釣り
・自転車
押しつぶされそうだ。
※追記
コメントを頂いて、いくつか思い出したので残しておく。皆さん俺のことよくそんなに分かるね。
色々教えてくれてありがとう。
カチャカチャカチャって素早く揃えられるとカッコいいよね。買って説明書を見ながら数回6面揃えたけど、今は部屋のオブジェになってる。
今の仕事が嫌いすぎて転職を考えた時に。本も買ったよ。やってないけど。
道を歩いていて、「この花は〇〇だね」って言いたかった。図鑑を持ってる。
・読書
積ん読って言ったら聞こえはいいかもしれないけれど、結局根気がなくて読んでいないだけ。買ったことで読んだ気になってしまっている。自己啓発本とか、小説とか、詩集とか、図鑑とか、資料集とか。紙、電子問わず読んでいない、または読みかけの本が大量にある。
趣味と言えるかわからなかったから書かなかったけど、服もめちゃくちゃある。わかってもらえるかわからないんだけど、「定番」とか「一生モノ」って言葉に弱い。例えば、「このアイテムが欲しい!」ってなった時は一時的にめちゃくちゃネットやら雑誌で調べて、「これ買ったら間違い無いだろう」ってものを買ったら満足してしまう。たまに気がついて着るくらい。
・麻雀
ネット麻雀にハマって、麻雀牌まで買った。小手返しやってみたいな、と思ったけど手が追いつかない。あとやる相手がいない。
一時期通っていたけど、自分の身体の可動域の狭さにびっくりしてやめてしまった。
小説ダメならこっちだな、と思ったけどそもそも書けるようなネタがない人間がセンスを求められるこれらをやろうとしたところで、という結論に至った。
・競馬
このブームに自分みたいな人間が手を出してないわけないよね……。自分でも呆れる。
ダービーで800円、鳴尾記念で500円、安田記念で300円、エプソムカップで600円負けてるよ。
・ゴルフ
職場の付き合いで。クラブセットも持ってるよ。知人が「120に壁が…」なんて言っていたけど、そもそもそのレベルにも達していない。たまに職場でコースに出てもひたすらボールを追いかけてマラソンするばかり。
・料理
鉄のフライパン、中華鍋なんて買っちゃったりしてメンテを怠ってこげつくようになっちゃったり。調味料ばかり揃えてみたりして期限を切らしたり。自炊程度ならやっているけど、趣味なのかこれは。
・TRPG
これもやってた(やってないけど)。ソードワールド、クトゥルフ。ルールブックを買ってきて、キャラシまで作るんだけど「え、これ誰とやるの?」という疑問が出てやめている。オンセがあるのは知ってるけど、そこまでのバイタリティがない。
・データベースになろうとする。詳しくなろうとする。
ナンバリングタイトルやシリーズもののゲームを全部やろうとする(ドラクエ、FF、メガテン、ポケモン、ゼル伝などなど)。
ご指摘はごもっともで、多分自分は「趣味に打ち込んで、誰かに認められる」ではなく、「誰かに認められるためにとりあえずわかりやすいものに金を出して何か始める」パターンが多い。
誰かに認められた経験が少ないから手っ取り早く「すごい」と言われる手段を求めているのだと思う。承認欲求バリバリだね。
このネット社会、ちょっと調べるとどんな事象にも初心者向けのハウツーが転がっているので、自分にもできてしまうんじゃないか、という気がしてしまう。これを始めれば人生変わるんじゃないかと思って一時的にカッと熱くなるけど、すぐに冷めてしまう。その繰り返し。確かにこれは趣味と呼べないかも。
〇気になるコンテンツを見つける
→気になるコンテンツの作者が影響を受けたコンテンツやルーツとなったコンテンツを調べる
→これを理解しないとこの気になるコンテンツを完全に理解することはできない!
→手を出す
→量の膨大さ、内容の難解さに挫折
このパターンが非常に多い。指輪物語とか、クトゥルフとかが一番わかりやすい例だと思う。映画もそう。服買う時とかでもこういうことがある。(調べまくった結果、定番モノしか買わない、とか)
勉強、部活とか何かに打ち込んだり、成し遂げたりしたことがないからその反動じゃないかなって考えている。積み重ねがないから急いでそれを何かで埋めようとしている感覚。
AmazonとYouTubeとTwitterは余りにもキラキラし過ぎていて、人に影響を受けて流されやすい自分のような人間には本当に毒です。Instagram?だめだめ!
英語、キーボード(ピアノ)、動画制作、プラモデル、格闘技(ボクシングor空手)、アマチュア無線、DJ全部昔気になってたことだ。
発信者になろうと思って昔作ったブログの残骸もネットの海で化石になってる。発信するような積み重ねがないし。
部屋は汚い。よくわかったね。
お金はないよ。カツカツです。
ものがどんどん増えるのは、始めてしまったからにはやり切らないといけないって言う心底下らないプライドがあるのだと思う。
240かげつくらいないが?
そこからいくつかのエントリリンクをたどるとなんだか懐かしい文体。
この人の書くこげつくような感情が、好き、というか、なんで知っているんだろうと不思議で、惹かれて、ブログのいくつかの記事をブックマークしていた。
無性に読みたくなったけれど、もうネットの波の彼方。二度と読めない。のかな。
はてなを始めたのは確か10代、店長のブログを読んでいたのは20代、そこからいままでいくつもの夏を消費して。
世界は終わらなくて。
でもさ、いつまでも、八月の陽炎のなかに彼女は突っ立っている、会えるかもしれないその日まで。
一番気に入っていた記事は、そんな風に思える文章だったと思うのだけれど。
たまに引き出しの奥の箱の中の綺麗な石を眺めるように取り出して見ていたんだ。
でも錨みたいなそういう大切なものだった。
もう一度読みたいなあ。
http://anond.hatelabo.jp/20161017172856
ビギナー向けの料理本はネットで評判がよかったものを1冊購入しました。料理本に強火・中火・弱火の説明があったので恐らく理解できていると思います。
悩みを具体的に相談すると以下です。
野菜ならば齧ったり、爪楊枝を刺したりで確認ができますが、魚の切り身やハンバーグは中まで火が通っているのか判断がつきません。
あと最悪なのが、複数の食材を順番に炒めていくようなレシピです。例えば、じゃがいも→にんじん→キャベツの順に炒めるレシピだと、にんじんに火があんまり通ってない一方でキャベツが焦げたなどチグハグなことになります。
例えば、魚の切り身を焼くとフライパンにくっついて上手く返すことができません。結果、切り身がボロボロになって悲惨なことになります。焼くときの火加減が強すぎるのか、はたまた油の熱し方が足りないのかと色々格闘しているのですがさっぱりです。肉でも同様です。「鶏肉の皮をカリッと焼いて裏返す」なんてできたためしがありません。
煮物が鍋の中で綺麗に完成したのに、おたまで掬ってお皿に移す作業の間に具材が崩れてしまいます。(おたまが具材に突き刺ってしまう)
http://anond.hatelabo.jp/20160903104319
火力が食材に直接的にはたらいておいしく仕上がる効果を実感できるでしょう。ただ問題は手入れの面倒さ。
使い始めに火入れを行い、使うたびに水気をとばして油をなじませ、保管する際にもサビに注意する……
そのようなことを生活の一部として楽しめる方には鉄フライパンが向いています。
市販のフライパンはアルミ主材が圧倒的多数。その理由は熱伝導率の良さと軽さ。
一流ホテルのシェフや三ツ星フレンチ店のシェフが使っているのは銅のフライパンや鍋です。ただ銅製はたいへんこげつきやすく、
鍋やフライパンを毎日磨き込むようなプロの現場では何十年ともつ道具でありますが、家庭での使用には不向きと言えるでしょう。
熱伝導率では次点のアルミですが、扱いやすさやと軽さから市販フライパンのほとんどがアルミ製で圧倒的多数。あ、これさっき言いましたね。
そこでコーティングを施したものが市場に数多く出回っていて、市販のフライパン=アルミ製に焦げ付き防止のコーティングをしたもの・・・とほぼ言い切れます。
それゆえに、フライパンを選ぶときはコーティングの仕様に着目するべきです。
「テフロン」という耳なじみのあるワードは、フッ素加工におけるデュポン社の特許技術で、そのグレードのレベルは厳しく管理されています。
一般的ないわゆるフッ素加工は、その効果をはっきり実感できるのは長くて3年。アルミの問題ではなく、
コーティング材の耐久性ゆえに、アルミ製のフライパンは2~3年で買い換える消耗品であると、まずは認識していただきたい。
デュポン社が家庭用最高級グレードとしているのは「テフロンRプラチナプラス」ですが、これを付与されているものは信頼に値するといえます。
技術的にはもちろん、工場での生産工程もチェックした上でしか与えられないグレードであり、耐用年数はもっとも長いと思われます。
長くなったので、まとめましょう。
・フライパンは消耗品として割り切って全然OKな方→アルミ製のできるだけ安価なもの
・調理を「栄養素を摂取するため」の行為とする忙しい方→アルミ製のフッ素加工(高グレード)
というふうにライフスタイルに合わせて選ばれるのがよろしいのではないでしょうか。
こげつきにくい鉄フライパンも一部に販売されているようです。鉄の表面に凹凸加工を施すことによってこげつきを防ぐようです。
試してみたらレポします。