はてなキーワード: 車輪とは
子供が産まれ、ベビーカーを押すようになってから初めて気づく、ベビーカー使いには住みにくい国、日本。強く感じた事象を上げてみる。
・狭い駐車場
子供(12kg)を車から抱っこして下ろし、そのままベビーカーに乗せたのはいいが、車止めがあったりポールがあったりして、ベビーカーが通れない
道路のちょっとした段差につまずく。見た目には分からない角度の斜面に四苦八苦。格子状の蓋には車輪が挟まる。信号待ちをしているときの地面が斜面のため、ベビーカーが進まないよう待っている間ずっと支えている。
・オシャレなタイルの床
ショッピンセンターのオシャレなタイルの床は、タイルの継ぎ目を通るたびにガタガタ揺れる。
・小規模のパン屋
母も子供もパンが大好き。しかし、町のパン屋はベビーカーごと入るとすれ違えないほど小さいし、子供の手の届くところに商品があるため、入店を控える。
授乳室の扉が手で引かないと閉まっていく引き戸のため、片手でベビーカーを支えながら、片手で引き戸を引きつつ、全身でベビーカーを押し授乳室に入る。
・狭い店舗
ベビーカーがいるだけで、人がすれ違えなくなる店には入れない
その他、ベビーカー限定ではなく、乳飲子がいる場合、美容院、歯医者、眼科などの病院には、旦那や親族に子供を預けないと行けない。子供が産まれるまでは、普通に歩いていた道、普通に買い物していた店が不便に感じるとは思っても見なかった。
何かのニュースを報道する時、今のマスコミってあまりに勉強不足ではないかと思うことがある。
小さい話だか、この前MRJが初飛行した時「初飛行では車輪を格納しない」という常識を認識しておらず「車輪は格納しないんですかね?」とさもトラブルのように報道していたのを見かけた。
そういえば沖縄で中華航空が炎上した時も、事故った機体のロゴなどを白く塗るという常識を「事故でのイメージダウンを避けようとしているのではないか」と批判的に報道していた。
お前はお茶の間のおばちゃんかと。
お茶の間のおばちゃんが「あらこれ車輪が格納できない不具合なのかしら」と思ったことに対して「初飛行では車輪を格納しないのが一般的です」とフォローするのがお前らの役割だろうが。
おばちゃんと一緒になって「あらーこれ不具合かしらね」「イメージダウンを避けようとしてるのね許せないわ」って報道してどうすんだよと。
これってニュース番組がどんどんワイドショー化したことの弊害だと思うんだけど、マスコミの皆さんはもう少しプライドを持って、憶測なんかで物事を報道しないようにして欲しい。ちゃんと勉強してください。
19時台の東北本線下り、盛岡行のボックス席に俺は乗っていた。
車窓は一面雪の風景だ。車内に人は少ない。俺しかいないんじゃないか。
東北美人というが、本当にきれいな顔立ちの女の子たちだった。わるくない。
グループは楽しげに談笑していた。声が通る。なんでも聞こえる。おおらかな連中だ。
駅に停車するたび彼らの仲間は何人かずつ下車していく。
グループの残りは二人だけになった。二人が俺の斜め向こうのボックス席に残った。
二人の会話が聞こえてくる。大半は先輩女子が話している。
俺の場所からは先輩女子だけが見える。美しい。すっぴんであれなのか。
あんな美人でやさしい先輩がいたら俺の高校生活も楽しかっただろうなとうらやんだ。
あの先輩って後輩の指導がうまいよね、誰さんはグリッサンドがうまいよね、などと
会話の内容が聞こえてくる。微笑ましい。
きっと先輩女子は後輩男子が好きなんだろうな、俺にはそう思えた。
そんな会話が、気が付くと聞こえなくなっていた。
「あれ、彼ら、もう下車したかな?」
そう思って斜め向こうのボックス席に俺が目をやると、先輩女子の顔に後輩男子の頭が
重なっていた。
「おっと・・・」
曇った車窓を俺は手で拭く。まばらな明かりが見える。
車外はきっと寒いと思うが、車内の暖房はしっかりかかっており暖かい。
そのまま次の停車駅まで二人の会話はなかった。
会話はないが、見つめ合ってはにかんでいるようなやりとりは聞こえてきた。
停車駅だ。後輩男子が立ち上がり「降ります。また、明日」と、言葉少なに降りていった。
だいたいな、将棋とかいうクソは断れないんだよ。「将棋やろうぜ」と表面上は相手に選択の余地を持たせておきながらもう駒を並べ始めている。将棋とかいうクソゲー信者の最悪のクソ行動がこれ。しかも将棋とかいうクソはなまじ歴史と権威を普遍性を持っているせいか、
は通らない。まさにクソ。「やったことあるだろ?」とか「将棋もできないのか」などともうすでにしたり顔をキメやがる。アルハラはこれだけ認知されてるのに将棋とかいうクソハラスメントには誰も何も言わない。まぁゲームとしての面白さはあるんだろう。だが俺はやりたくねぇんだよクソ。勝てる可能性のないゲームをやりたがるクソがどこにいるんだ?
現代のどの対戦ゲームも一番重要なのはマッチングだろ。何が「頭いい奴は将棋が上手いからな」だクソ野郎。間接的に自慢したいだけじゃねーかクソ。将棋とかいうクソは地頭の良さとか関係ないだろもはや。一般人レベルだと。こっちががんばって独力で火の起こし方から車輪まで必死こいて再発明してる前で
「まだそんな文明レベルで消耗してるのwww?こっちはもう原子力発電所建てちゃったよwww」
とかクソしたりクソ顔でぼこぼこ駒をとってきやがる。うるせぇ俺はこの車輪の発明に命かけてんだよ定石に乗っかってるクソが偉そうに言うんじゃねえよクソ。将棋とかいうクソから漂う生白い饐えたチーズみたいなマッチョイズムが俺の気分をクソにする。
まぁどんなゲームも面白さに気づいたら面白いんだろう。それは否定しない。だがな。どんなゲームでもクソ中級者のクソ初心者狩りはクソだろ。例外なく。将棋とかいうクソはそういったクソが家庭レベルで起こるからクソなんだよ。マッチングをどうにかしろってのは無理な話だから、せめて断る権利くらい与えろよ。将棋とかいうクソは圧倒的な知名度を誇るがゆえに断ると角が立つんだよ。しかもなんか将棋が弱い=頭の残念な奴 みたいな扱いじゃねーか。血液型性格診断よりも俺は将棋とかいうクソを撲滅したい。いやすまん、撲滅は言い過ぎた。せめて「将棋?いややったことないです」が通じるまで衰退してくれ。もしくはマッチョイズムを撲滅してくれ。
羽生選手(選手っていうのか?棋士ってのは)が「人間が機械に勝てなくなったらルールを変えればいい」と言ってたらしい。俺はこの発言に全面的に同意する。何なら毎年ルールを変えてほしいくらいだ。そうすりゃ定石に乗っかっただけでしたりクソ顔をするクソから俺は解放される。
まぁ俺がこんなところでクソを叫んでも将棋とかいうクソの権威は揺らがないだろうけどな。
「定石知ってりゃある程度勝てるようになるんだから勉強すれば」とかのたまうクソがクソのようにクソグソしく湧き出してくるかもしれないが、そもそも俺は将棋とかいうクソに興味がない。
それにな。勉強し始めたら腕試ししたくなるだろ?
自分の強さを見せつけたくなるだろ?
そうなると「将棋やろうぜ…」と初心者を狩るために駒を並べ始める俺のクソビジョンがクソの如く見え始めてくるだろ?
俺はそんなクソスパイラルに加担はしたくない。マッチングもろくにできないこの将棋とかいうクソに取り込まれるのはゴメンだからな。こんなクソマッチングのクソゲーよりも格ゲーの方がマシだ。格ゲーもクソ弱いけどな。
どんなゲームにも愛好者はいるだろう。それは素晴らしいことだと思う。だがクソしたり顔とマッチョイズムと初心者狩りとレッテル張りだけはやめろ。それが生まれ出でた時点でそのゲームはクソとなる。
どうも、このタイトルにあんまり意味はないんですが、春の期と書いて「しゅんき」と読まず「はるき」と読んでください。
さて、長い冬もようやく終わりを見せ始め全国で桜が見ごろとなってきた今日この頃、「はてな村忌憚」という単語をホッテントリで見かけない日はなかったあのころをちょっぴり懐かしく感じたりしています。
当時は本当にうぜい、うぜいしきめい、と変な日本語の感情が渦巻いていたわけですが、そんなことを増田に書き殴るという知識どころか発想もなく、ただただ機械的に脳内フィルターに磨きをかけていました。
そんな折、増田で不快を表明する方がおられ、またそれがホットエントリーに上がるのを見て、「そういえば、そういうのもあるよな」という何か車輪を再発見したような驚きと「釣れてますなぁ」といういつもの無感動を同時に感じたりもしましたが、まあ、気が付けばはてな村忌憚がはてブからBANされるという謎の結末を迎え、個人的には大団円という感じだったわけです。BANに至った経緯の是非はともかく。
…なにがどうなんだ? とお思いの方が多勢かと思いますが、わんすあげいん。
だから、なにがどうやねん!? とお思いの…いやまあ、くどくなる前に吐いてしまうと、村上何某のアレですよ。そう、期間限定のアレ。
正直、はてな民は村上氏に関してもっと複雑な感情を抱いてるんじゃないかと思っていたんですが、なんだかこの一連のホットエントリー入りを見ると「無邪気なもんじゃのもんじゃ焼き」と謎の呪文を唱えたくなる衝動を抑えきれなく…抑えられませんでしたー。
私のはてな民に対するイメージはともかく、最初のころは「とりあえず」と読んでましたよ。はっきり言って村上氏に興味がなく、著書も1、2作しか読んだことがなくて「コインロッカー・ベイビーズ」とか…あ、これは別の村上さんですね。すみません、1作も読んだことありませんでしたー。
んまあ、そんな私がホッテントリだからと2、3読んでみたわけですが、よく言えばまともなこと言ってる。悪く言えば、別にたいしたことは言ってない。みたいな内容で、どちらかというと質問の内容の方が面白い、というか、興味深いため村上氏の回答がどうにも薄味でタイトル詐欺にでもあったような読後感を味わされて、なんでこんなもの有難がってブクマしてんだろ? と疑問しきりでした。
いや、確かに記事タイトルは秀逸だと思います。どう秀逸かと言えば、釣り記事のタイトルとして非常にクリック誘惑度が高いという意味で。ぶっちゃけゲスい。下衆心をくすぐられるタイトル・質問なんですよね。そこに大御所のネームバリューがどーん! さらに期間限定というレア感プシャァァー! だから、まあ、回答なんて当たり障りがなくてもホットエントリー間違いなしなわけですよ。ホットエンターテイメントですよ。そして毎回見たくもないエントリを脳内フィルタでお掃除お掃除しなきゃな日々が続くんだおなんですよ…ああ! 早くBANされねーかなー? 早よ! 春のBAN祭早よ!
というところまで来てしまったので、また、今回はまだ誰も増田で不快を表明する者が現れていなさそうだったので、僭越ながらこのわたくしが大役を務めさせていただきました、まる。
別に語れるほど知識もないんだけどさ。
最近ロボットが巨大で人型なメリットって何とか? 戦車じゃだめなの? とかを見て。なんだかなーって。
巨大な人型のなにかが暴れるのが爽快なんじゃないのかー!? なんて思ったりしてるんだけど。ロボットものにSF的な要素とか、科学考証とか求める人が多いんだなー。
ってのがなんかロボットものが少し元気のない理由なんじゃないのかな? なんて思ったりしたんだよね。
でさ、そういうロボットアニメにおける人型の必然性を求めちゃうのってガンダムからなのかなって思うけどどうなの?
手塚治虫のアトムや横山光輝の鉄人とか永井豪のマジンガーとかがロボットものの土台を作り上げてきたんじゃないかなーとか思う。
そんな時代を経て宇宙戦艦ヤマトの様な大人向け?SFアニメが放送され、満を持して機動戦士ガンダムとかいう戦争を描くロボットアニメが生まれた。のか?
なぜガンダムが生まれたのかとか、富野監督はどういう人なのかとかを語るきはないのだけど。多分ガンダムは当時ものすごく斬新だったと思うのと同時に必然的に出来上がった作品だろう。
アニメは子供向けかつ勧善懲悪で正義と悪を極端に線引きしてた時代があったらしい。それを何だか嫌だなーと感じてる人はいっぱいたらしく。富野さんとかもその一人で、なんでも海のトリトンという手塚先生原作の漫画をアニメ化した際に富野監督はラストをなんともいえない感じに変えてしまった。
子供だましを嫌う富野さんはアニメにリアルを入れようと、現実はそんなに単純じゃない正義と悪は色分けできない事を、まあやろうとしてたんじゃないかな?
当時を知らないのでなんとも言えないけど。
手塚先生はSFばかり描いてたらしいし、ゴジラとかウルトラマンとかの怪獣ブームもあったらしいし、永井豪ちゃんは徹底的に日本を巨大なものが破壊する漫画を描いてたし、スタートレックとかスターウォーズとか松本零次はスペースオペラ?とかを描いてて。
その流れでガンダムやろうって、ロボットっていうジャンルにリアルを入れようってなったのかな。
前置きが長くなったんだけどさ。
ガンダムがリアルだって言われてるというか、リアルロボットものって言われるのはさ。
ガンダムというモビルスーツの構造とか仕組みとかがリアルで物理法則がどうのこうので、科学考証がしっかりしてるとか、してないとか。ではないんだよね。
これは、よく言われてる話で。ガンダムのリアルは人間描写、人間ドラマの部分だ。なんて皆しってる。戦争を扱っていることとか、どちら側にも正義があるとか、ないとかであって。ロボット部分ではないと。どこかで聞いた事があるかもしれない。
たしかに俺もそう思う。20メートルの巨大ロボットが二足歩行するなんて冷静に見ればリアルじゃない。でもガンダムはそこら辺の事情を開き直ってる訳じゃないんだよな。
ロボットの扱いはあくまで兵器なこととか量産されてるとか。そういうところにリアルさを描いてるし、二足歩行や人型な理由も説明している。
例えばミノフスキー粒子とか、作業用ロボットを兵器転用したとか、宇宙空間では人型は対象物がないから大きさが分からずに人と間違えて、敵の戦艦に近づけるとか。AMBACシステムとか、頑張ってるんですよ。頑張って巨大なことや人型な事に必然性を持たせてるんだよね。後付とかもあるけど。
で、俺はガンダムって作品はロボットものにおけるいろんな部分をリアルっぽくしていこう、っていう流れをつくってしまったと思うんだよね。
より戦争という部分を濃くしたボトムズとか、現実世界でロボットを運用している雰囲気をうまくだしたパトレイバーとか、量産兵器としての二足歩行ロボットを描くガサラキとか、設定をしかり練ってSF考証をしっかりと散りばめているフルメタルパニックとか、一期は市街戦描写の多いコードギアスのナイトメアとか。
士郎正宗がメカやSF部分のリアルさを求めて、押井監督が甲殻とかレイバーとかを刑事ドラマみたいに作り変えて、カサハラテツローさんのライドバッグみたいな、ほとんどバイクみたいなロボット漫画もでてきている。
富野さんはガンダムで人間ドラマの部分をリアルに描きたかったのかもしれない。でもそこをリアルに描けば描くほど二足歩行や巨大ロボットという部分もリアルにせざるを得なくなってくるのかも知れない。
どんどん小型化していくロボット、足裏に車輪を付けて走り、ワイヤーを射出し街中を飛び回る。リアルっぽい!
あるけども、そういう方向でリアルさを求めれば求めるほど。
戦車でいいじゃん、戦闘機じゃだめなの? ミサイルでやったほうが効率よくない? なんていうロボットアニメ視聴者あるまじき突込みが返ってくる。
でもそれって当然のことで、マジンガーとかゲッターとかみたいに現行兵器よりも強いとか、エヴァンゲリオンみたいにもとから人型でしたーとか、勇者シリーズとかエルドランシリーズみたいなロボットものは、ロボットはヒーローであって、そんじょそこらのミサイルじゃなんともないぜってもんなんだよね。
でもガンダム系リアルロボット? は量産兵器であり、秘密組織でもない公の軍隊が運用している。じゃあなんで巨大でなければならないのか二足歩行のメリットは? 人型の意味は? ってなるのもしょうがないんだよ。
なんで人型なんだよ!? って突っ込みに対して、ロボットものだからって開きなおるんじゃなく。一生懸命二足である意味人型である必然性を考えてほしいよね。
俺がロボットものに求めるのは巨大感とかスケール感とかで、街を破壊し敵の怪獣を引き千切ってバシバシとなぎ倒していくようなもを求めているので、そこらへんを描写するロボットものが減ったのが悲しい。
※マネージャを多少悪者気味に書いていますが、マネジメントの大変さはわかっているつもりです。
マネージャ「たぶん2週間ぐらいでできますよ!wordpressなら学生のころバイトとかでもよくインストールしてたから楽勝です!」
デザイナ「完全オリジナルのwordpressデザイン2週間か、なんとかなるかな?」
.... 略 ....
上司「あれから2週間だけど、こんなにバグ多すぎじゃリリース無理じゃない?」
マネージャ「違うんですよ!デザイナーが全然テンプレートの使い方覚えてくれないし、あのプログラマ人PHPわからないとか言って仕事中にPHPの本とか読んでるから遅れたんです!たぶん自分だけだったらこんなに時間かなりませんよ。」
デザイナ(「XHTMLになってない!」とか余計な所に口突っ込んできやがって!)
プログラマ(PHPなんて簡単だよとか言ってJavaプロジェクトからコンバートさせたのテメーだろうが!)
原因
マネージャ「このスケジュールなんだけど、テスト期間長過ぎじゃない?」
プログラマ「え、でも機能もこれだけありますし10日程度は妥当かと」
マネージャ「いやいや、画面たったこれだけじゃない、通しのテストなんてみんなでやれば1日ぐらいで終わるでしょ?」
マネージャ「俺がレビューしてるんだからそんなでかいバグ出るわけねえだろ。ナメてんのか」
.... 略 ....
プログラマ「セキュリティ周りのバグもあるので、修正には3日程かかると思いますが」
マネージャ「ふざけんな!テストは今日で終わるスケジュールだろ!」
原因
プログラマ「前のプロジェクトでgitを使って便利だったので、今回のプロジェクトでも使いたいのですが…」
マネージャ「バージョン管理とか使ってるの?あんなの効率悪くなるからやめたほうが良いよ」
マネージャ「前に俺がやってたプロジェクトではフォルダで日付ごとに管理してた。同じ風にすれば大丈夫だろ」
マネージャ「古いフォルダからファイルをコピーすればいいだけだろ。馬鹿か」
.... 略 ....
デザイナ(間違ってファイル上書きしたのは黙っておこう)
プログラマ(ローカルにgitリポジトリあるのは黙っておこう)
原因
マネージャ「何このCodeIgniterっていうの?」
プログラマ「あ、それ最近流行ってるPHPのフレームワークで、URLのルーティングが…」
マネージャ「はぁ!?フレームワークとか使わないと開発できないわけ?これだから最近のゆとりはダメなんだよ。」
プログラマ「でも、便利ですよ?」
マネージャ「俺のプロジェクトではそういう怪しいやつは使わないから。バグがあったらお前責任取れるの?」
.... 略 ....
マネージャ「どう、俺の書いたURLルーティングライブラリすごく便利じゃない?」
マネージャ「あー、それは仕様だからしょうがないよ。mod_rewrite使えば問題無いでしょ?」
プログラマ(他人が再発明した車輪のバグを修正するのって本当に不毛だな…)
原因
猿の惑星ライジング見てきた。これ二作目なのね。ウイルスでほぼ滅びかけてから十年後の話。一作目見てないけど適当に感想。
ガッチガチの異文化交流モノ。そういう意味では超展開とかないので普通に楽しめます。僕はダンス・ウィズ・ウルブズ思い出した。
人類:廃墟暮らし。銃と車とコンピュータと電力を保持できるぐらいの頭数と文明力はまだある。新規生産はまだしてないかも。六歳ぐらいの子供が写ってたんでたぶん子供も産める。全員ウイルスには抵抗持ち。
猿:山暮らし。手話、音声言語、文字が使える。手製の槍、馬、鹵獲した銃を使ったそこそこ統率的な行軍。裏切ったり策を練ったりするぐらいの知能。原始的な狩猟生活。農耕なし、医学なし、工学なし、宗教なし。紙も車輪もねえ。たった一頭のボスが法。
全然負ける気がしません。どうするんだろ。戦争は人数と文明力が勝負なんじゃあ(AOC脳)
短期勝負で駆け抜ければなんとかなる、、、のかなあ。サンフランシスコ市ぐらいならなんとかなるだろうけど船も持ってないので外洋をコンクエストできねえ。あと海を渡るには最低限星が読めんといけんし。あと服(というかまともな兵站)がないと極地も無理そう。ナポレオンて知ってるかい?
ぺーぺーの若者が銃ジャムらせているくせに、それよりは知能が劣るっぽい猿がすぐに銃の使い方(弾薬とか、リロードとか、描かれてないけど無限に撃ってたし)を覚えて使いこなしてるのがちょっとなあと。
馬。たぶんほんとにインディアンみたいな「最低限度の文化を持ってる」的な描き方をしたかったと思うんだけど、どっから持ってきたの。山で鹿飼ってる時は使ってなくて、人類とのファーストコンタクトののち街に行くために急に調達してきた感じある。乗馬って馬を家畜化しつつ練習しないと保持できない技術だと思うんだけど。
冒頭のシーンの鹿のCGがショボかった。猿はちゃんと描けてるのに。
Twitter を見てると、太陽系の天体が螺旋運動するこのデマ動画が、いまだにRTされたりして拡散しているのでうんざりしてきた。
「太陽系 公転」「太陽系 運動」「太陽系 移動」「太陽系 回転」などで検索すると、この動画を真に受けて紹介しているブログなどが検索上位にヒットしてきて、さらに誤解を広める一因となっている。
あまつさえニコニコ動画にも転載され、字幕までつけられている。
結論から言うと、これはトンデモ信者が思い込みだけで作った信憑性ゼロの動画である。映像の出来だけはよいからか、昨年の3月頃からかなり広まっており、天文学者フィリップ・プレイト氏がブログでその間違いを指摘した記事を出している。プレイト氏は『イケナイ宇宙学 間違いだらけの天文常識』の著者で、世にはびこる間違った天文・宇宙ネタを斬って解説するブログ Bad Astronomy で知られている人。
この記事の和訳版が以下にあり、大変ありがたいのだが(動画が話題になってすぐのタイミングで和訳まで出たのは本当に感謝している)、残念なことに誤訳が目立つという指摘があり、いまもって修正されていない。
翻訳が不自然な箇所を以下にテキストで逐一指摘してくれている方がいたが、行きつ戻りつ確認しながら読むのが大変なので、勝手ながら指摘箇所を中心に翻訳を修正して以下にまとめ直した。いまだに信じて動画を広めてしまっている人に「それ間違いですよ」と指摘しようにも、記事の誤訳が多かったりするとちょっとなぁ、となるので。
なお、もし元の翻訳記事が適切に修正されれば本記事は消すつもりだが、和訳した方は当時Twitter で指摘されてこの校正テキストを読んだはずなのに、もう1年半ほど放置されているのであまり期待していない。
間違いを打ち消すために、まともな太陽系の公転運動を描いた動画があれば知りたいものである。
なめらかな動きでコンピューターアニメーションが太陽の周りを周る惑星の動きを、天の川銀河を周る太陽軌道のように解説する動画について、ツイートやメールがたくさん来ている。とてもきれいな動画に、説得力のある音楽、ていねいな作りの画像。
しかし、問題がひとつある。間違っているのだ。間違いは表面的なものではなく、間違った前提からきた根本的なものだ。中にはいくつかの有益な視覚情報があるが、私は(銀河サイズの)話題のタネだと思っておくよう警告する。
なぜか? 彼の主張の基礎は、「惑星は太陽中心の軌道を描いているのではなく、銀河の周りを渦巻き状に移動している」というものだ。
私は普段、こうした話題の間違いを暴くような面倒なことはしない。奇抜な主張はいつでもあるし、たいていは自滅していくからだ。しかし、この件についてはたくさんの人が私に知らせてきたし、明らかにかなり人気を博している――たぶん表面上は正しく見えるし、画像も大変きれいだからだろう。また、科学を知りつつもそこから離れて久しい人たちによって広まっているのではないかと見ている。このような話題を扱うときには、いつも少し深く掘り下げる手間がかかる。
そこで、シャベルを取り出してみよう。
動画の作者DJ Sadhuは明らかにコンピュータグラフィックスの才能がある。しかし科学は……まあ。私にはすぐさまこの動画が何を目指しているのかわかった。彼は率直に、太陽系の太陽中心モデルは間違っている、と述べている。しかしながら、この Sadhuの主張ははなはだしく間違っている。重力は存在しないと言っているようなものだ。
地動説とは、太陽が太陽系の中心にあるという考え方で、惑星はその周りを周っている(他にもいくつか大事なことがあり、たとえば惑星の軌道は楕円であるとか、軌道は同一平面上にあるのではなくて互いに傾いているとか)。この考え方は、地球が太陽系の中心だという古い天動説にとってかわった。天動説は、それをちゃんとした物理のモデルだと考えると、あらゆる種類の奇妙な仮定をしてやらないとちゃんと機能しない、とてつもなく複雑で考えすぎの物理モデルになってしまう(タイレノールなどの頭痛薬があるなら、epicyclesの項を見てみよう)。地動説はそれよりもずっと物理的に正しいし、ずっとうまく機能している。
私は、どちらのモデルにもそれぞれの使い道があると言いたいのだ。もし特定の惑星が天のどこにあるのか知りたいなら、天動説の座標を使うことになる。われわれは地球に住んでいて、地球は動かずに天の車輪が頭上を回転して動いているように見える、それは理にかなっている。しかし、もし惑星へ宇宙探査機を送りたいなら、太陽中心のシステムが必要なのだ。地球も惑星も両方とも動いていると考える方が、はるかに計算は簡単になる。
Sadhuは、地動説が間違っていて、実は惑星は渦を描きながら太陽を周る動きをしているのだと主張している。彼が実際に言わんとしているものは、渦ではなくらせんである。この2つは名前が違うだけでなく、物理的な動きもその特徴も全く異なる。らせん軌道を描く粒子は、太陽系のようにお互いには干渉していなくてもよいが、渦を描く粒子は抗力と摩擦を通じて互いに干渉している。
しかし、意味論的な論争はよそう。もう一度動画を見てみよう。Sadhuは太陽が惑星を先導しているかのように、太陽が惑星よりも前方に出て銀河を回っているかのように描いている(2番目のビデオだともっとそれは明白だ)。これは単に誤解を招くだけでなく、完全に間違っている。惑星は、われわれが銀河系の中を巡るとき、ときどき確かに太陽の前に出たり、ときどきその後ろをついてゆく(太陽を周回する軌道上のどこにいるかによる)。実際に夜空の惑星を見たことのある人にとっては明白な真実である。なぜなら夜空の一部は、地球や太陽が銀河系を周るときの進行方向にあたるわけだが、惑星はその部分にだって観測されるのだ。
ここでも、細かいことをあれこれ議論するのはやめよう。後述するように(「こうした考え方はどこからもたらされたのか?」の項)、惑星が銀河系内を動くときに太陽の後ろをついていくという考え方は、Sadhuがらせんについて述べるときの思考基盤となっている。しかしまずは、もうちょっと見てみよう。
太陽が銀河の中を移動していく様子を示している、彼が二番目に公表した動画では、もっとひどい状況だ。
公平のために言うと、今回彼は惑星の動きについて「らせん状」だと正しく記述している。しかし、まだ惑星が太陽の後ろをついていくように描いていて、これは間違っている。また特に動画の冒頭では、太陽中心モデルと、らせん運動についての彼の説明を具体的に比較しており、誤った「太陽主導」の考え方を補強している。
彼の動画における太陽中心モデルの動きを注意深く見てみよう。銀河を周る太陽が動く方向は、惑星の軌道平面と同じに描かれている。しかし、こうではないのだ。太陽系の平面は、車の前方への動きに対してフロントガラスが作る角度のように、銀河系に対して約60度で傾いている。
これは本当に重要な点だ。らせんモデルでは、銀河を周る太陽の動きにあわせて、太陽を垂直に周回するような惑星が描かれている。お好みなら「正面向き」といってもいい。これが間違っている。なぜなら、惑星の軌道は60度で傾いていて、90度ではない。惑星はときに太陽の前に、ときに後ろになる。これだけで、らせん描写が正しくないことがわかる。地動説という現実のモデルにおいても、順行-逆行運動というものは存在し、現実の空できちんと観測できる〔訳注:詳しくはこちら参照〕。
しかしそれだけではない。動画では、太陽が銀河を周ることを見せていて、らせんに沿って上昇、下降している。最初の動画のように、一部正しいところもあるが、大方は事実からかけ離れている。
われわれの銀河は、中心部が膨らんでいる平たい円盤で、端から端まで約10万光年の距離がある。この円盤は無数の星を内包し、その重力が合わさって、銀河中心を周る軌道に太陽を留めている。ちょうど、太陽の重力が惑星を軌道に留めているのと同じだ。
太陽が銀河系を一周する軌道の長さは、およそ2.4億光年ではない。銀河を周回するときには、だいたい動画にあるように、太陽は実際ぴょこぴょこアップダウンを繰り返している(とはいえ大体1周につき4回ぐらいなのに、Sadhuは動画内で数十回もアップダウンするように描いている)。〔訳注:太陽系が銀河系内を周回する軌道の図参照(垂直方向は強調されている)〕
このような運動が起きるのは、銀河円盤での重力の働き方のせいだ。ここが非常にクールなところだ。円盤よりほんのわずか上にあるものは、円盤に向かって全体的に下へと引っ張られる。円盤が巨大な物質の板であると想像してみて、太陽がその円盤よりも上にあるとする。円盤の重力は太陽を下へと引っ張る。星と星の間は遠く離れているので、太陽は円盤の間を通り抜けて下へ降りていく。そうすると今度は、下に来てしまった太陽を円盤がまた引っ張り上げる。このとき、太陽の動きはだんだん遅くなり、そして止まり、向きを逆にしてまた円盤へと急激に突入する。太陽は、銀河円盤の中心から上下にそれぞれ200光年ぐらいの浮き沈みをするが、円盤は1000光年の厚みをもっているので、結局私たちは銀河円盤の中にしっかり留まっている。しかしこうした摂動は永遠に続き、太陽は大海のコルクのように浮き沈みを続ける。
太陽は銀河を周回しているので、合わさった動きはすてきな波のパターンになり、浮きつ沈みつ回転木馬のようにまわり続ける。ゆえに、Sadhuはこの部分に関しては(多かれ少なかれ)正しい。
だいたいはね。しかしここに3つ目の要素が加えられている。ひねったらせんを描く太陽の道筋を、彼は歳差運動の性質だとしている。この部分は間違っている。非常に間違っている。
歳差運動は物体が回転するときにてっぺんをぐらぐらさせる動きで、回転の中心軸からずれた向きの力をてっぺんに加えたときに起きるものだ。コマのてっぺんを突くとぐらつく、それが歳差運動だ。地球自身も太陽と月の重力に引っ張られて歳差運動をしており、その軸の1回の揺れ周期は2万6000年だ。
明らかにSadhuは、動画の中でこれを表現している。しかし、ぐらつきは太陽にまったくなんの影響も与えていない。それはただ、地球が何かしているだけだ。しかし、Sadhuは銀河を周る太陽の動きに付け加えていて、それは意味をなさない。動画では銀河を周るコークスクリュー(コルク栓抜きのような螺旋運動)を描いているが、ときには銀河の中心に寄り、ときには遠くへ離れる動きを何度も何度も繰り返している。回転木馬のたとえでいえば、馬が真ん中で回って、上下に、また左右に動いているようなものだ。しかし、それは太陽の本当の動きではない。左右の運動なんてない(軌道ごと何度も銀河の中心に向かったり離れたりするなんて)。Sadhuの示すコークスクリューパターンは、間違っているのだ。
動画と解説文において、Sadhuはかなり頻繁に、座標系と力と運動を混乱させている。
彼はなぜこんな正しくない運動を描くのだろうか。それを掴むため、彼が元にした文献をあたってみた。
動画と彼のサイトによると、SadhuはPallathadka Keshava Bhatという人から学んだそうだ。Bhatによる「らせんの渦巻き:太陽系の動的プロセス」(“Helical Helix: Solar System a Dynamic Process”〔リンク切れのためこちら参照〕)と題された文章にこの考え方はすべて説明してあり、細かすぎる点は指摘しないが、ちんぷんかんぷんなものだった。まじめな話、どれもまったく意味をなさない。Bhatは地動説は間違っていると主張しているのだが、その主張を補強するために、虚偽のアイディアを次から次へと用いているのだ。彼の主張の間違いを暴くためにページを割くこともできるが、ここは短くまとめてみよう。
私はBhatの主張を何度も読んで、可能な限り好意的に考えようとした。私がかき集めたところでは、彼が言っているのは、太陽の動きによって、太陽を先頭にして惑星が後をついていくという形で、惑星は銀河系内でコルク栓抜き状のらせん運動をする、よって地動説は間違っているというものだ。Sadhuの動画の解説文によると、こうした動きをうまく描いているという。しかし、どれも完全に間違っている。もしそれが正しいのなら、外惑星(太陽から地球よりも遠くにある、火星や木星など)は太陽の反対側に遠く離れて見えないだろう。しかしいつだって、私たちには見えている。
それに、私たちは何度もほかの惑星へ宇宙探査機を送っていて、どれもいまだその軌道上にある。もしBhatがいうように地動説が間違っているのなら、探査機はいつになっても目的の惑星に到達できない。探査機を送るための軌道計算が間違っていることになるからだ。探査機の道筋を計算するときに銀河を周る太陽の動きを考慮する必要なんて全くないから、Bhat氏のいうことは正しくない。
太陽が太陽系の先頭で、惑星はその後ろをついていくという主張も、明らかに間違っている。太陽は、Bhatが主張し(Sadhuが動画で示して)いるように、銀河系を突き進む弾頭のように太陽系を主導したりしていない。惑星は太陽の周囲を周り、全体が一つのユニットとして銀河系を60度の傾きで移動している。これは、銀河の軌道に沿って惑星はときに太陽の前になり、ときに後ろに続くということだ。
これはそう、道を歩くあなたの頭の周りを、端にボールの付いた紐がぐるぐる周っているようなものだ(この円は60度傾いている)。ボールはときに頭の前になり、ときに後ろになる。道を歩くときには常にあなたと一緒だが、歩く速さには関係なく、相対的にはあなたと同じ速さでいつも移動している。あなたが自分の動きを線で表すとすると、ボールは傾いたらせんを描くだろう。これこそBhatとSadhuが説明しようとしたことなのだが、しかし間違った説明になってしまった。
Bhatは、その文章の中でいくつもの間違いと論理的誤ちを犯している。たとえば、Sadhuの地球歳差運動の誤用についてBhatが何と言っているか読み取ろうとした。しかし、とても不明瞭で(それに単純なミスもあり、彼は歳差運動の周期を22万5000年としているが、実際には2万6000年)ゴルディアスの結び目を解いているみたいだった。まだほかにも。彼は、もし地動説が正しいなら、日食は1カ月に1回起きなければならないと考えている(46ページと134ページを参照。ちなみに日蝕が一ヶ月に1回起きないのは、月の軌道が傾いているため)。また、彼は「太陽中心軌道は不可能であると意味しなければならない」と結論付けた部分で、地球が太陽の周りを周る回転について根本的な勘違いをしているようだ(文書の30ページを参照のこと)。実質、私が読んだ文章の1ページごとに基本的・根本的な間違いがあった。
そしてこれが、Sadhuの(間違っているにしてもステキな)動画が基礎としているものなのだ、いいかい? いっておくが、もしSadhuのサイトをのぞいてみたら、あらゆる種類の……んー、おかしな陰謀論……9.11陰謀説から、ケムトレイルから、デイヴィッド・アイク(本気で爬虫類型異星人がデンバー空港の地下に住んでいて世界を支配していると主張している)が怒り狂いそうなのから、名前しかない程度のものまで見つかるだろう。私は、彼のほかの考え方を念頭に置くことにした。
DJ Sadhuの動画は、とてもステキで、そのうちいくつかは真実を元にしたものだ。しかし、私の意見ではBhatのゆがんだ宇宙に対する見方のせいで、その核心が失われてしまっている。
彼の動画は正しいように見える。クールであるように見える。ものごとはこうでなくっちゃ、というセンスに訴えかけるものがある。しかし、物事がどうあるべきかと、実際にどうなのかということはいつも重なり合うわけではない。宇宙は本当にクールな場所で、とてもよく出来た一連の法則に基づいて動いている。私たちはこうした法則を「物理」と呼んでいて、それは数学で記述されている。そしてそういうこと全部を理解しようとする試みが、科学である。
クールなものがすべて科学ではない。しかし科学の全てはクールだ。これは普遍的な法則ではないかもしれない。けれども、私の見てきた限り、これは真実なのだ。
エコナビの自動運転が邪魔に感じるということは、ヘッドの動かし方が早過ぎるのが原因だと思うんだが、元増田は、掃除機の正しいかけ方を知っているだろうか。
うちの妻は、家事能力が総じて俺より残念なので、掃除機の正しいかけ方を知らない。掃除機の形状がデッキブラシやモップに似ているためか、ヘッドの車輪音を立てるほどの高速でヘッドを前後させるのが掃除機をかけることだと思い込んでいて、それは指摘しても治らない。故にエコナビの自動運転が働かない「強」のみで、掃除機をかけている。強だとたしかブラシもフル回転で摩擦音が増えるのでデッキブラシ的に掃除機をかけたいうちの妻の希望にも叶っているらしい。汚れを掻き出し、こすり落とすつもりなのか、ベッド下のような狭いところや壁際にも、高速で突入させているので、ヘッドは傷だらけ。なお、うちは全面クッションフロアなので、掃除機を用いて、デッキブラシ的に掻き出し、こすり落とすことにあまり効果はない。
デッキブラシやモップなら、高速で前後させ、床を激しく摩擦させるほど汚れが落ちるので間違いではないんだが、掃除機には吸入がメインなのだから、掃除機を使う際にはヘッドはゆっくりと地面を這わせるのが正しいし、そのほうがゴミが取れる。あと、ゆっくり動かすのはめんどくさいとか時間がかかると言い訳しているのだが、俺がかけても時間は変わらないほどに、高速でゴシゴシ床をこすっている。嫁が花粉症なので、高速でゴシゴシのほうがたくさんゴミが取れると思い込んでいるのだが、掃除は、体をたくさん動かしたかどうか、自分が満足したかどうかではなくて、ゴミがどれだけ取れたかどうかで評価すべき問題なんだが。
11月18日(月)
巨大な熊手を抱えながら、これで地球をぶっ壊したいなんて思っていた先週の金曜日。
満員電車のなか、最初はただ手が当たっているだけだと思った。しかし、尻だけだったのが股間にまで伸びてきたとき、さすがに痴漢だと気づいた。無理矢理振り返って相手を見ると、小太りで、ハゲていて、おまけに鼻毛まで飛び出した中年の男が、醜い顔でウインクした。ぶったおれそうになった。こっちはコンプレックスまみれの顔をマスクで覆い、やっと安心して街を歩いているというのに、こいつの謳歌する自由はなんだ。なぜお前は、そんなにも自分に甘くいられるのだ。
男の手は止まらない。不感症の私は、いっさい快感を得ることなく、ひたすら空虚だった。ガラスに反射した男の顔は、きらめく夜景と合わさったって、すこしも美しくはならない。それに比べ、マスクを着けた自分の顔は、やはり可愛い。股間をまさぐられながら、表情の練習なんてしてみる。すこし困ったような目付きが、驚くほど決まって見えた。
駅に着き、逃げるようにホームへ降りると、男は私の腕を掴み、頼むからオナニーを見てくれと懇願した。膝が震えるほど怖かったはずなのに、気がつくと、男と狭い個室トイレに入っていた。
男は巨根だった。しかし驚いたのは、その巨根を取り出した瞬間の顔の方だった。眉間の辺りから漂う、巨根ひとつですべての欠点を帳消しにせんとする傲慢さ。帳消しになんて、なるかよ! と呆れつつ、それしか誇りのない男が哀れになり、「おっきい」と言ってやる。うれしそうに光る顔がまた哀れだった。
男のオナニーは滑稽だった。一生懸命いやらしい表情をつくり、私を挑発するのだが、なにせ立派なのはチンコだけなので、まったく恰好がつかない。せっかくの機会なので、ちょっぴり握らせてもらった。もうどうにでもなれと、舐めてもみた。拳のなかで、男の巨根はまるで無機物のようだったし、なにか特別な味がするわけでもなかった。あーあ。ずっと夢みていた男のチンコというのは、こんなにも味気ないものだったのか。浅草の熊手のほうがよっぽど躍動的だった。
男が果てると、今度はキスを迫られた。それすら、欲しけりゃどうぞとくれてやった。ファーストキスだった。
そのお代として、50回ほど耳元で「可愛い」と言ってもらった。可愛い、可愛い、可愛い……。息継ぎでブヒ、と鼻を鳴らす男。苦しそうだったが、続けさせる。可愛い、可愛い、可愛い……。
http://mag.kawade.co.jp/syosinnikki/001300.html
4月8日(火)
母親は、二世帯暮らしの狭い家で、共に戦う同志だった。結婚当初、「頼むから親と同居してくれ」と泣いてすがったという父親は、女の前で泣く度胸はあっても、女を守る度胸はなかった。
そんな父親にかわり、私は必死で母親を守った。どんなにいやな思いをしても、母親との絆に癒された。
14歳のある日、ひとりで風呂に入っていると、当然のように母親が入ってきた。翌日、鍵を閉めると、怒号とともに母親が激しく戸を叩いた。
この寒い日に、裸の母親を締め出すなんて、お前はなんて冷たいんだ。
びっくりした。
戸に開いた換気用の穴から、ヘビのような目が覗いている。
聞こえないふりをして、死角に身を丸めた。しばらく待って、おそるおそる戸を見ると、母親はまだそこにいて、じいっと私を睨んでいた。
http://mag.kawade.co.jp/syosinnikki/001366.html
4月14日(月)
彼女と駅で待ち合わせ。焦らすような各駅停車に乗って、ひと駅ひと駅を噛み締めるように進んでいく。公園の桜は、もうほとんど散っていた。歩道をうずめる花びらを、両手ですくって嗅ぐと、体中に春が染み渡っていった。
広場の真ん中で、おそるおそる一人称を変えてみた。その瞬間、木々は槍になり、花はピストルになり、私に向かってくるかと思われたが、公園は変わらずのどかなまま。彼女は気に入った洋服の話をしている。
涙が出るほどうれしいのに、どこか寂しさも感じていた。
http://mag.kawade.co.jp/syosinnikki/001368.html
5月6日(火)
熱を出した母親がソファに横たわり、細い髪を汗で濡らしながら、喘ぐような声で言った。
私は「げ、きもちわる」なんて思いながら、とっとと荷物をまとめる。
軽く犬を撫でてから家を出て、ぐんぐん車輪を漕いでいく。不便で、ぼろくて、しみったれた地元の駅に飛び込み、急行列車に乗って、東京へ。
二回ほど乗り換えて駅に着くと、タクシーをつかまえて、ペンキの匂いのする白い階段を駆け上がった。慌てて鍵をつっこんで、ドアを思いきり閉め、その場にぺたりとしゃがみこむ。
それをぼんやり眺めながら、涙があふれた。
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結局少年アヤちゃんは、毒母に育てられて自身をゲイのオカマだと認識するようになったノンケだったんだろうか?
やばいね。
ラノベと文学のことを書いたまとめがあったけれど、その言わんすることは、
2.純文学は淘汰されつつある。
ということらしい。
それの根拠としてラノベを含んだ小説の文化史が並べられている。反応は、その文化史が正しいかのか正しくないのかに始終している。根拠なんだからそれが正しいのか、正しくないのかは大事なことだろう。ただ感情的な人間としては、結論が間違っているようにも思えない。
漢文や擬古文といったものが消え、口語体が主流になった。国語の教科書にでてくる森鴎外の舞姫を何の脚注もなしに読むのが難しいのだから、そこは間違っていないと思っている。
ただ、小説にでてくる口語体というのもまた時代の流れとともに陳腐化した。つまり、口語ではなくなった。昔の口語が、古いレコードのように書き言葉として残っているに過ぎない。いまぼくらが日常会話で使う話し言葉は、正式な文章ではお目にかかれないし、まともな小説と呼ばれるものには出てこない。
言葉を整理すると、ライトノベルが「純文学」の系譜にあるという文脈での「純文学」とは小説という文化での権威のことだ。純文学は淘汰されつつあるという文脈での純文学は、いまのジャンルとしての純文学のことを言っている。
また、補足すると小説という文化には権威とそれに従うもの、それから外れたものという階層構造が存在している。
そういうことを踏まえると、いまのジャンル純文学は権威を失いつつあり、次の権威はライトノベルが担う可能性があるということだ。
小説の文化が変化をしつづける限り、永遠に権威で在り続けることはできないということだ。いまの権威は純文学であるが、やがてそれは何かに取って代わられる。その可能性として高いのはライトノベルだということだ。それは単純にライトノベルがいま一番活況だからである。
人の少ない文化は衰退する。人の少ない純文学やそれに従うものは魅力を失っていく一方だ。
さて。
ライトノベルは次の小説という文化の権威となる可能性を秘めている。
ここからは感情論が強くなるのだけれど、昔からある何かが否定されるとき、否定する人間はその昔からある何かをよく知らないのではないとかと思っている。むしろ、知らないからこそ否定できるのだと思う。ライトノベルが純文学を否定する未来があるならば、そのときのライトノベルを書いている人間はおそらく純文学をよく知らない。
そして、先例というのはいつもあるのだ。
ライトノベルのタイポグラフィ的なところも西尾維新的な言葉遊びも調べれば調べるほどに先例がある。タイポグラフィ自体がかなり古いものだし、言葉遊びという意味では無駄に爛熟していた江戸文化で見られると思う。イタズラを悪戯と書くのだ。
知れば知るほどに否定できなくなる。だから、知らないほうがいい。「純文学なんて高尚すぎて退屈だ。俺がもっと面白ものを書いてやる」という気概こそ必要だと思う。
そして、この気概を持つためには、ライトノベルが否定されているという認識が必要だと思う。ライトノベルはクズだ、と言われているからこそ、見返してやろうという気が起こるものだ。もし、ライトノベルも立派な芸術であるだとか、そういうふうに賞賛されてしまうのであれば、挑戦する必要がない。それでは、権威となった純文学と同じだ。
元増田にもあるとおり、ビジネスにおける選抜にフェルミ推定を用いたいなら特にそう。
なぜならビジネスで要求されているのは、結果・数字・利益であって、能力ではないから。
ピアノ調律師が何人いるかが直接ビジネスに関わるのならば、ググレばいい。まじで。
それで答えが出てくるならそれに依拠するのが一番早い。ピアノ協会(あるかどうかしらねーけど)が
人数とか公表してるかもしんねーじゃん。検索結果の信憑性とかを言い出すならフェルミ推定の結果の信頼性も
どっこいどっこいですから。0を1にする端緒としてフェルミ推定とグーグルのどっちが上かは一概には決まらないよ。
むしろ論理的思考力なんて無くても答えにたどり着けるグーグルの方が優秀とさえいえるかもしれない。
多くの反論が予想されるのは
「画一的な答えが期待できないからこそ帰納的・演繹的推論能力を見るためにフェルミ推定をやるんだ」
ってやつ
いやー、でもこれ言い換えると「ビジネス上の問題にグーグルは答えてくれねーよksg」ってことでしょ?
だったら最初から「ググッてもいいよ」くらいの余裕が面接側にほしいよね。答えが無いって分かってるならさ。
ってことは事実上要求されてるのは知識の運用能力(と知識量)だよ。フェルミ推定を始める端緒としてぐぐれる環境が
あっても全然いーじゃん。
いっつも思うんだけど、企業の採用活動として、何を目的にフェルミ推定を面接過程につっこむ(べきな)のか
繰り返しになるけど、調律師の数字が問題なのであればむしろ必要な能力は
どこを掘るとその情報に出会えるか知ってることだよ。そんでもって人間の活動でまったく新しい何かなんて
ポストモダンな現在にあっては存在しませんよ。むしろXに迫るためにAとBとCとOとPとQのどれを組み合わせて
先行研究とすべきかという能力のほうが重要なんですよ。さらに言えばそういう先行研究の成功と失敗を踏まえないと
そこまでブレイクダウンして採用活動にフェルミ推定を導入しましたか?もっと言えば普段の活動をそこまでブレイクダウンしてますか?
そういうの抜きでフェルミ推定だけ採用活動に導入すると滑稽ですよ。
話が大分逸れてきた。
言いたいことは、フェルミ推定で要求されている能力が情報・知識の運用能力であるなら、
むしろグーグルをいかに活用するあるいはしないかというところも見ないと現代社会では無意味でしょということ。
そういう設問のフェルミ推定問題を作らないとダメですよということ。
そんでもってぐぐって得た情報でみんなが妥当な答えにたどり着けるならそれは出題側の問題だし、恐らく普段の業務も
ちょっとググれば答えが転がってることを棚上げにしてる可能性が高いってこと。