はてなキーワード: 車輪とは
青空文庫で「居場所」を用例検索してみたが、多くは普通の「○○が居る場所」という意味で使われていた。
強いて言うなら…ってのが宮本百合子著 二つの庭(1947年)
心と体の居場所がなくて、あちこちをふらついていた伸子は、漂いよったように古風な客間に入って来た。榧かやや楓、車輪梅などの植えこまれた庭は古びていて、あたりは市内と思われない閑寂さだった。竹垣のそとで、江田がホースを使っている水の音がきこえた。
伸子は竹村に対して、特殊の感情はなかった。よしんば竹村が、伸子にわかるような感情表現をしたとしても、伸子はそれで動けただろうか? この間、温室を見に行ったとき、夕飯の仕度をしながら、竹村と素子が手のことを話したときの微妙な感情の流れ、そこにも伸子は、自分の居場所から動けない自分の心を直感した。
音楽の要だしドラムが無かったら俺達はどうやってリズムを刻んでいいか道に迷っちゃうよね?
それなのにボーカルやギターやベースやショルダーキーボードやサクソフォンやトランペットやクラリネットやフルートやピッコロやタンバリンやヴァイオリンやヴィオラやチェロやコントラバスやトライアングルやカスタネットやハンドベルなどなどなどが
曲の盛り上がるときに観客を挑発するためにステージ前面に出張してくるときドラムはいつだってステージ奥でお留守番だ
ドラマーだって俺達の近くに行きたいだろうし、当然俺達もドラマーが近くに来てほしいんだ
そう、そんな願いを叶えることができるのがドラムを移動できるようにした車輪付き板だ
さあ全国のドラマー達ぃぃぃ!さっさと俺達のところに来いよ!
ならここまで子孫繁栄させてくれるのに貢献してきたエロはむしろ称えられるべきでしょ?
車輪がなくても絶滅しないけど性欲なかったら100%絶滅してるよ???
おかしくない?
みんな本当にそんなにエロが嫌いなの?
「エロは嫌われるべき!汚らわしい!」というノイジーマイノリティの声に表面的に同調してるだけじゃない?
そして、その声の主がだいたい子連れお母さんっていうのはなんなの?
アンタ、エロのおかげで子ども授かったくせに自分がアドバンテージ持ったら次は他人のエロを弾圧か?
やべえなマジで?
どこまで自己中なの?
出生率の低下とか独身男性の増加とかエロを表に出すとグロテスクなもの扱いする世の中に変えたからでしょ?
そんなハードモードの条件下でコミュ障気味の男性が女性にアプローチできると思ってんの?
続き。
http://www.amamiyashion.com/entry/2016/07/24/193000
日本社会の問題点として、「空気を読まずに意見を言う人間を淘汰しがち」ということを挙げてあれこれ論じています。
わかる。すごくわかる。日常生活で真面目に意見をぶつけ合うことってほとんどないし、ある程度結論が見えてて(もしくは偉い人の方針があって)形式的に議論してそこにたどり着くだけ、みたいなのが多すぎてバカバカしくなったりしますね。
でも雨宮さんの場合は「知らないことを知らないと認めない」「間違いを認めない」「それでいて知ったかぶりや間違った知識に基づいて、飛躍した論理で意見を展開する」「そしてそのことを指摘されると逆上する」から嫌われるのでは?
そういう人は日本でなくても嫌われますよ。というか、ドイツのように議論を大切にする社会のマトモな知性を持った人ほどこういう人を嫌いますよ。
雨宮さんの普段を知りませんが、このブログのような調子で議論に参加しているとしたら、それは「散髪直後で髪の毛を撒き散らしながらレストランに入店し、入るなり大声で所望の品を叫び、料理が出てきたらガチャガチャクチャクチャと耳障りな音を立てながら食し、代金を店員に投げつけるようにして退店する」というくらいの無作法です。つまみ出されて当然です。
議論好きのドイツ人といえど、議論できるレベルは結構ばらつきがあります。言いたいことを言うだけ(相手の意見をよく聞いていない・聞く気がない)という人も結構多いです。雨宮さんの周りにはそういう人が多いのではないでしょうか。
雨宮さん自身、せっかくドイツに長くいるのに飲食店でパートタイムで働いたりセコセコ内職したり微妙な大学に通ったり、ということしかされていない(学問もビジネスもされていない)ようなので、そもそもドイツ人とシリアスな議論をしたことがない可能性も大いにあります。
可愛い日本人の女の子に下心を持った男に「君は賢いね」などとおだてられて自信をつけた、というのもありそうです。ここまで来ると邪推ですが。
1.自分の意見には根拠をつけよ
例えを使うのは王道ですね。具体的な数値を上げるのも効果的です。自分のリアルな体験談を引き合いに出すのもOK。
例えや体験談は根拠にはなりません。根拠を補強するだけです。補助輪です。雨宮さん自信の主張に根拠があったことはほとんどありませんね。メインの車輪なしに補助輪だけでは走れませんよ。
2.意見を言ってまわりに問いかける
わたしはこう思います(意見)
なぜならこうだからです(根拠)
だからこうした方がいいと思いますが、どうですか(まとめ・提案、問いかけ)
という3段論法はオーソドックスで簡単かつ有効です。小論文なんかでも使われる手ですね。
えっと、これを3段論法とは呼びませんし、小論文に問いかけとか書きません。
まわりに問いかけること自体は大切なことですが、上記はよく意味がわかりません。
4.反論には先に反論しておけ
説得力が増すし、相手の反論ネタを奪うこともできます。
「どのように反論されても言い返せるように十分準備しておけ」という意味なら大賛成ですが、だいぶ違う様子。
「相手が言い返してきそうなことを予め否定しておく(ただ否定形にするだけ、根拠なし)」ということのようです。
「お前のことバカにするわけじゃないんだけど、お前って頭も悪いし不細工だし体力ないしどんくさいよなw」とかそういうことのようです。
説得力は増しません。単に「反論は受け付けません」と宣言しているだけです。図星を突かれるのが怖いから予め自分から晒すことで恐怖から逃れる、という幼稚な手法です。
5.相手に共感させる
これは大事です。
ということに基づく「平凡な日本人」に対する謎の優越感だけで、読めば読むほど「薄っぺらい(無知なのに尊大な)人間だなあ」という感想が湧いてくるのです。
これとか、「ご自分に向けて書いたんですか?」と尋ねたくなるほどです。 選民思想をこじらせてるただの自己中、多くない? - ドイツ発 雨宮の迷走ニュース
とはいえ、「外国人」とか「グローバルな視点を持っている(ように見える)日本人」の言うことを無条件でありがたがってしまう人たちというのも多いので、そういう人たち相手の「ブログという芸」で小銭を稼ぐ人がいるのも当たり前だなあ、という感じです。
路上の物乞いとか、不幸な身の上話をして小銭を集めて回っているような人に対するのと同じように哀れんでしまうけれど、本人が惨めに感じていないだけマシだな、とは思います。
観光地で陳腐な空中浮遊芸やってるようなエセ大道芸人と同じようなものですかね。
彼女の書いた記事で「その通りだね」となったのは以下の2つくらいです。
アスペとADHDを併発してる夫に、カサンドラ症候群になって別居中の妻が最近言ったり送ったりしたことをまとめなおしてみた。
あなたはいつもデフォルトの「あなた」がしっかりとあって、基本的に寝て起きるといつも同じ「あなた」からスタートする。
昨夜言い争った内容も、私の涙も、出ていない結論も、あなたに訪れた幸運さえも、きれいに「解決」「終わったこと」になっていて、
「えっ、なにそれ?」「ごめん、思い出せない」「いつの話だっけ?」と忘れ去り、毎日まっさらな気持ちで気持ちよくニコニコ笑っている。
私はこんなに悶々と悩みを抱えているのに。まだ、何も解決していないのに。
どうしてあなたはそんなに幸せそうな顔でいられるのだろうと、私は静かに憤りを感じる。
そのことに、あなたは気付かない。気付けない。
でも、私の雰囲気の変化を敏感に感じて、だけどそれが何かわからないので、
「どうしたのー?」とニコニコしながら頭を撫でてもらっても、今は私の気持ちを逆撫でするだけだというのがわからない。
私が「今はやめて」と言ってしまうと、あなたはどうすればいいかわからなくなって、泣きそうな顔でフリーズする。
そして明日になって、今日が昨日になってあなたがリセットされるまで、身体的接触自体に消極的になってしまう。
あまりに純粋すぎるあなたを前に、私はまた罪悪感から自己嫌悪に陥ってしまう。
あなたが「昨日」を引きずるのは、心身の調子がとても悪いときだけ。
常に私が話すとその場その場では真剣に考えてくれているのはわかるのだけど、何かで気が散ったりしてその場で結論に至らなかった場合、話が翌日に引き継がれることはなかなかない。
引き継がれているとき=考えすぎて身体にも異常が出てしまっている(大体急に40度近い高熱を出す)ときなので、
あなたが苦手な分野の話をするのはとても億劫になるし、熱を出させてしまうと申し訳なくなる。
毎日リセットされるので、行動も思考もほとんど変化がなく他人に影響されない。
ブレない自分を持っているあなたは、その基準の中で厳格で明快な判断を下す反面、
まるで精密機械にように、同じ結果、同じ結論に達するために同じ経過を幾度も辿るので、何度も何度も同じやり取りをして、同じ失敗をする。
あなたは気付いていないかもしれないけれど、私からは、毎日同じ段差に躓き、毎日車輪を再発明してニコニコ喜んでいるような生活を送っているように見える。
だから、最初からできることは確実にできるけど、できないことはなかなか、時には年単位で時間をかけてもできるようにならない。
実は前の失敗を踏まえてアプローチの仕方が変わっていたり、つまずくポイントが微妙に違ったりして、あなたなりに変化が全くないわけじゃないのはなんとなくわかるんだけど、
一度失敗したら、気を付けていれば普通二度と失敗しないだろう。と思うようなことで何度も失敗しているのを見ていると、面倒くさくなって頼むのをやめたり、つい手を出してしまう。
私が手を出すと、あなたはペースが乱れて混乱し、蓄積されかけていた経験値はあっという間にゼロに戻る。
あなたの歩みを見守るには、私には忍耐強さが足りないのだと思う。
一つ新しいことを覚えるのに、時間をかけて体と脳に染み込ませる必要があるし、大抵のことはリセットされて翌朝には元に戻ってしまうので、
一緒に暮らしていて相手として、相手に影響を与えている感じがしない。まるでよくできたロボットと暮らしているような気持ちになる。
カレーを焦がさず作る練習の為に毎日カレーを食べ続けるのはさすがに苦痛だし、仮に特訓の果てにカレーの玉ねぎは焦げなくなっても、野菜炒めはやっぱり焦がしてしまうのがあなた。
特に苦手な、自他の心情や情動の絡むことになると、そもそも全く一般的でない、突拍子もない考え方でこれまで生きてきていたりして、
一般的な感覚やリアクションに至る理由が全く理解できなかったり、「その発想はなかった!」ということばかりのようで、教えようとすると大変労力がかかるし、それも徒労に終わることの方が多い。
すごく頼れてしっかり者で、同年代の人よりはるかに精神的に大人な部分と、普通の人は当たり前にできることができない小学生並の部分が混在していて、そのギャップが激しすぎる。
だから、「ただもう少し気を遣ってほしい」とか、「こういうことを察して行動して欲しい」というような小さな不満が、
元の不満が小さいからこそ、『なぜこんな簡単なことが何度言ってもできないのか、それは私が大切にされていないからではないか』とどんどん膨らんでいく。
診断がついて、頭ではあなたの特性によるものだと理解しているつもりでも、あなたの優秀な側面も知っているからこそ、「そんな馬鹿な」「できるはずだ」「私でもできるのに」と、どうしても心が納得させられない。
あなたがもっとポンコツで、スッパリ諦めがつけばいいのに、諦めきれない。
あなたが私を愛してくれていることは、あなたの態度や行動からとてもよくわかるのだけれど、
あなたの表明してくれる愛情と、そういった未発達な部分からくる対応の齟齬で、私の心はひどく混乱し、罪悪感や自己嫌悪に蝕まれ、疲弊する。
口に出して頼みさえすれば、なんでも喜んでやってくれるのはわかっているし、その都度私があなたに言うようにすれば家庭が円滑に回るのはわかっているけれど、
全部言葉にして言わなければ伝わらなかったり、項目や手順を紙に書いて掲示しなければいけなかったり、やってくれても思わぬところで失敗したりするのがしんどくて、つい、言うよりも自分でやってしまう。
伝える労力と我慢を天秤にかけて、我慢を選んでいるのは私自身なのだけれど、それでも不満が蓄積されていく。
もっと早く診断がついていれば、言わなければわからないものなのだと知っていれば、まだ言っていく方向に頑張れたかもしれないけれど。
ずっと「普通は察して自発的に動けるハズで、それをしないのはやる気がないからだ」と思っていたし、
「なぜ私ばかりが言うという労力を払わなければならないのか(なぜ分からないのか)」
「なぜ書かないとわからないし、今から書く必要のある話をするということも察せないのか」
「なぜ記録を残さないと忘れるのか」
「なぜコミュニケーションをするために、準備に労力を払って、テンポの悪いやり取りをしなければならないのか」と、今もどうしても思ってしまう。
普通じゃないのがあなたの魅力でもあり、弱点でもあるのに、私はあなたに私の思う「普通」であることを強く望んでしまう。
カウンセラーとのやり取りの中で、あなたがあなた自身あまり意識はしないままに、幼いころから自分はなんとなく社会の中で居場所を確保できなさそうだと気付いて、
時間をかけ、工夫を重ねて、人とは方法が違っても概ね同じ結果が得られるように様々なことを訓練してきたことを知った。
その結果、表面上「ちょっと変わった普通の人」風に振る舞えるように努力し続けて、今現在社会的に自立した生活を送れていて、
それが同じような特性による不自由さを持つ人たちの中では、カウンセラーや医師が投薬を渋って今後に期待をかけたくなる程度には上々の成果とされることもわかっているつもりだし、
実際、なにが問題なのかさえ正しく認識できれば、大抵のことをゆっくり解決に向かわせられるだけの自己分析能力も問題解決能力もあって、
生活を改善する意識もかなり高い部類であることも、本などに出てくる様々なケースを読む中でわかってきた。
けれど、それでも、私が無意識に求めてしまう「普通」と、あなたの演じられる「普通」には大きな隔たりがあって、その溝はきっと今後も埋まらなくて、それがとてもつらいし、不安になる。
言語やフレームワークを先に考えるんじゃなくて、実現したいコト/解決したいコトが先でそれをとことん突き詰めて考えるコトが大事。
それがちょっとだけ良くなる程度のものだったら、そもそもそれはあまり問題では無いのかもしれないし、単純に当事者意識や情熱がなくてただ普段と違うコトがしたいだけなのかもしれない。
例えば、車輪のようなものは一見するとちょっとだけ良くなる程度のもののように思えるけれど、突き詰めて考えるとちょっとだけ良くなる類のものではなくて、シンプルだけれどすごく応用範囲の広い要となるものだったりするよね。
その応用範囲までもよく考えたものを、最初の段階から応用範囲に至るまでを効率よく実現するために、何を選択するかをよく考えよう。
海外の有名な会社が作ってるようなものが簡単に作れるからとかあの会社も使ってるから、ありとあらゆる部品が揃ってるや既に知ってるものだから効率が良いなんてものは、参考にはしても選択の理由にするべきものであってはいけない。
そんなコトを理由にしたら、私は自分の頭で考える力も何かを生み出す能力も持ち合わせていません。なんて宣言してるようなものなんだよ。
問題が起きたらまた一から作り直せば良いなんてのは大抵失敗するし、そのコストが支払えない場合は継接ぎだらけで局所的な問題が頻発するものになるコトが多い。そして、最初に感じた効率の良さなんてものはいつの間にか消え去ってしまってる。
必要な部品は何なのかをきちんと洗い出して、それらの部品を柔軟に組み合わせられて効率的に動かせるものを選択するコトなんだ。もしもそれらが存在しないなら、それらも含めて作り出すコトも視野に入れておこう。
こんなコトを言うとオレオレかよなんて声が聞こえてくるコトもあるけれど、初めからそうじゃないものは存在しないんだよ。誰かが作り出したから存在してるんだ。だからやると決めたらきちんとアピールしてディスカッションして継続的に改善しよう。
そんな風に世の中に数多くいる、言語やフレームワーク、アルゴリズム、UI、UX、システムアーキテクチャの設計開発研究をしている優秀な人たちの思考を真似てみよう。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm23488282
彼は社会学者としての立場から法律や改憲論者と論壇で登って答弁しているわけだが、オレには佐藤氏と古市さんとの間で話がまったくかみ合っていないように思える。
正直、この佐藤という人を含め、古市さんを叩いてる人にはマーケット感覚がないんじゃないか?と思うんだが、具体的にどうやってそれを示したらいいのか見えてこない。
山本みずき氏との論壇でも同様だと思う。山本みずき氏にはマーケット感覚がない。一方で古市氏にはマーケット感覚がある。
議論のレベルがかみ合ってない。山本氏も佐藤氏も、社会の泥臭い面や言葉通りにいかない部分が見えてない。古市氏の方が社会を間接的に知る手段が豊富で信頼できると思うんだが
同じように思ってる人はいないのかな。。。
一応個人的に考えてみた内容をまとめてみたので、知見のある方々の指摘や修正がほしい。
是非論駁してみてくれ。
個人的な思考なんだが、『佐藤氏』と『古市氏』のバックヤードに目を向けてみた。
ソースはwikipediaくらいしか簡単に示せるものはなく、佐藤氏のことはオレはほとんど知らないので、あまり知ったようなことは言えないんだが・・・
『佐藤氏』
『古市氏』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B8%82%E6%86%B2%E5%AF%BF
佐藤氏の両親は政治学者と弁護士。つまり歴史と法に重きを置く典型的な法学部タイプ。日本は法治国家で資本主義として成功した社会主義タイプなので、佐藤氏は典型的な右派で保守的なタイプ。
一方で古市氏は環境情報から社会学へと転向した。つまりバックヤードとなる知識や感性は科学者タイプ。
ゆえに、古市氏の論じる分野には必ず〝マーケット〟がある。お金と結びついて物事を考える発言がきちんと身についている。またそこに時価がある。
ここで勘違いしてはいけないのは〝経済〟や〝金融〟ではない、ということだ。要するに〝政治色〟が薄い。よく言えば庶民的。別の言い方をすると〝資本主義的〟。
また彼は友人に起業家を持っており、堀江貴文を含め、財界との繫がりも多い。ほりえもんちゃんねるなどにもよく登場する。
これを〝強い者に擦り寄る〟と表現するものもいるが、そのあたりの〝評価〟は置いておいて、マーケット感覚を得られる環境にいることは間違いない。
http://blogos.com/article/154867/
例えばここで古市氏は『すき家は企業が社会にもたらした社会福祉のひとつ』と述べたことで叩かれているが、なにが間違っているのだろう?と思う。
マイクロソフトをはじめとする新時代の新興企業の多くは、既存の制度を上手に利用して新しい形の報酬を従業員に還付している。
(※その代わり徹底的に税金を逃れている! ←善し悪しは置いておいて、事実そうである)
どの国に所属しているかよりも、どの会社に所属してその会社が与える福利厚生を受けられるか
ストックオプションを行使できるか、金融資産を持てるかどうかが豊かさへと直結する時代になったのに、いったい何故古市氏の述べていることが的外れなのだろうか?
シリコンバレーでは福利厚生を提供するサービスを行っている会社がYコンビネーター出身者によって起業されている。
ケータリングサービスやタクシーチケット、社宅システムなど、上げればきりがないと思うのだが・・・
http://asread.info/archives/722
日本に自衛権があることを古市氏は知らなかったと述べているが、これもある意味で間違っていないと思う。
実際のところ、実質的に自衛権を行使できなかったことには違いない。
・ミサイルを発射されながらもそれを撃墜できるのは日本に駐在している二機の米軍潜水艦のみであること。
・敵国が領空侵犯をしても命令がなければ撃墜できない。引いては物理的に〝敵飛行機を押す〟という意味不明な対処しかできない
これらの現行法の脆弱さをどれだけ学者やSEALsは理解してるのだろうか?
http://trafficnews.jp/post/46566/3/
自衛権は認められているが、〝実質的に言って認められていない〟ことと一緒。
であるにも関わらず、古市氏が『日本の自衛権って認められてるんだ…』という発言を〝知識がない〟〝教養が無い〟と評価する論調はいかがなものか。
一方で佐藤氏にはマーケット感覚が無いといえる理由はここにある。つまり法律や政治に関する学問を背景にしているところに問題がある。
この手の人間がやっかいなのは、やたらと知識や雑学は多く言葉に言葉を返すのは上手いのだが、思考回路に多くの前提条件や知識条件が抜け落ちていることが多い。
言ってしまえばマリー・アントワネットのタイプだ。
古市氏の発言が法学や政治に強い識者から叩かれやすいのは何故だろうか。
それは叩く者たちが〝歴史の変遷〟が、実は〝市場の変遷〟であること、をよく分かっていないからだ。
市場経済はより自然科学的だ。お金は政治や法律によって生まれたわけではない。自然に発生して、それが整備されて整えられた。実は人類が進化の果てに手に入れた概念だ。
軍事力と経済力のふたつは大国の力を現す両輪と考えられるが、実は歴史を手繰ると三番目の車輪があったことが分かる。その名も〝宗教〟。
鎌倉幕府の台頭に現れているように、歴史的に見ると既にこの頃から宗教の力は徐々に衰えを見せており、政治と軍事力の二つが世界を動かしていたと言える。
表の世界での政治はほとんどが宗教と密接に関わっており、もっぱらここが市民と政治の大きな接点であったと言える。
一方で軍事力は実質的な世界の掌握と統治を行う役割を担っていた。
少なくとも、日本においては明治維新でサムライが不要となるまではそうだったのだ。
しかし第一次世界大戦、第二次世界大戦に代表されるように、軍事政権は失敗を迎えた。
正しい仕方で行使されなかった軍事政権は、共産主義や社会主義を生み出したからだ。
一方で米国のような市場経済を中心として発展した国は一定の成功を収めた。士・農・工・商のうち、最後に勝ったのは商人というわけだ。
マーケットは〝国の力が弱まりつつある〟ことを明らかにしつつある。既に鎌倉幕府の時代から、政府が持つ立法の力は軍事力か経済力のどちらかを担保にしており、宗教はアイドルでありスケープゴートであったに過ぎない。
そして過去〝政(まつりごと)=宗教〟が中心だった国家は、現在政治の中心を〝経済〟へと移している。
軍事政権が実質的な掌握を行っていた政治は、現在では財界が実質的な掌握を行う社会へと変化した。そしてそれは加速していく。
実際、国が提供する福祉よりも企業が従業員に提供する福祉の方が優れている場合が多い。しかもマーケットに従った結果なので、相応の人材を兼ね備えており、無駄が無い。
パナマ文書にも代表されるように、国家の枠組みを超えた企業にとっては国境など存在しないも同然。
スターウォーズの通商連合のように、もはや国とは独立した別の政治形態と言って差し支えない。
戦後70年の間で形成されてきた常識などいくらでも覆る。今後の歴史は大転換を迎えると考えてまず間違いない。
その意味では、いまだに全時代的な歴史の踏襲と繰り返し論議を重ねる、マーケット論の無き法学者や政治学者が出る幕は実質的に言って存在しない。
宗教がその存在を弱めたように、政治もまた本質は思想であり宗教であるから、その実質である軍事力や経済力のいずれかに依存せざるを得ず、結果として時代に取り残される。
軍事力の台頭は世論が許さないだろうし、世界もそれを望んでいない。よって、これから重要になるのは、〝個人がどの市場経済に所属しているか〟である。
世界を牽引してきたのは技術革新と金融だ。宗教を背景にした政治はストーリーを創り出す力があったが、現代ではその力は失われている。
闇雲に政治を追いかけても歴史を追いかけても真実は見えてこない。
必要なのは産業界の歴史を追いかけること。経済史の発展と衰退の繰り返しの中に答えがある。
古市氏がどういう器なのかは知らないが、少なくとも歴史と現状を比較して将来を占う上で非常に恵まれた立場にいることは間違いない。
彼は川上の最新情報にアクセスできることが可能で、新時代のリテラシーも十分持っている。
法学者も歴史学者も、企業の間接部門でしかない。プロフィット部門ではない存在の者たちがとやかく言う論壇や議論に意味はない。
その点は古市氏も同様だが、彼は自分の立場が弱者であることを自覚している分、市場に対する的確な論壇を展開できる下地がある。
叩かれるのがその証拠だ。叩いてる奴らのほとんどはマリーアントワネットばかりなのだから、叩かれている姿を見てむしろ安心すべきだ。
時代はノーマライゼーションなんだよね。だったら、健常者がパラリンピックに全く出られないのっておかしくね?
障害者に比べて健常者のほうが体力あるからダメなの?障害者だって障害の程度によって体力著しく違うじゃん。だから車いすバスケはもってるハンデで点数つけるよね。健常者もハンデの点数決めれば対応可能だし、日本の大会ではそれやってる。ローカルな大会ではできるのに国際大会で出来ないのって何のせいよ。
障害者の生きがいを奪うからダメなの?ブラインドサッカーって、弱視の人間も完全に見えなくなるようにアイマスクするよね。普段見えてて試合や練習の時だけ目隠しする人より、元から見えない人のほうが有利じゃない?
義足ランとか対応できないものもあるのはわからないこともないけど、車いすマラソンなんか、車輪使うから普通のマラソンとは全然違うタイムでゴールするよね。そこに健常者と障害者を分ける意義、ある?
けっきょく、いたいけな障害者が頑張ってる、っていうイメージにお金を払ってもらうために障害者以外の参加ができなくなってるんじゃない?そうとしか考えられないんだけど。
だとしたらパラリンピックってかなり欺瞞の多いイベントだよね?感動を求めてとかって放送しているNHK、24時間テレビのこと笑えないよ。
卒業と入学、就職に伴い、引越しのシーズンが到来したが、中には自分でレンタカーでトラックを借りてやってしまおうという人も多いかも知れない。
そんな人に、運送業勤務歴がある増田がトラックを借りたら真っ先にすべき事をアドバイスしたい。
トラックを借りて真っ先にすべき事…
車検証のどこを見るのか?
「全高」を見るのだ。車の高さである。それを紙に大きく書いて、ダッシュボードに置いておく。
何故か?
トラックを借りる場合、恐らく箱車(メタルバン)を借りるだろう。若しくは幌付き。
言っておくが平車は難しいぞ。両アオリに壁を作ってテトリスのようにぴったり積まないといけない。
箱車の特徴は背が高い事だが、ただ背が高いのではない。
「運転席より後ろが高い」のだ。
だから目線よりはるかに高い荷台(しかも後方)の車両感覚なんて付いている筈が無い。
だから道を走っていて「高さ制限」の標識があったら見逃さず、メモの全高と突き合わせるんだ。
箱車は3.7mが多い。
これをうっかり忘れると「ドカーーーン」とやらかしてしまうわけである。
因みに車の破損は保険がおりる。しかし衝突で道路設備を壊した場合、保険はおりない。
それから、商店街には入ってはいけない。商店街は人通りもあり道もすれ違うには狭い。
そして何よりも「商店の軒先」が鬼門だ。雨の日の買い物客が濡れない為のビニールの日除けなどだ。あれには「全高」表示がない。
そして「運転席より高く、箱より低い」のだ。最悪だ。
つまり、すれ違いで気を使って路肩に寄せている内に運転席基準で軒に寄せすぎてしまう。すると数秒後に「めりめり」と後ろで聞こえると言うわけだ。
これは30万以上と思ったほうがいい。
また商店街の電灯から斜めに枝飾りなんかを出している事がある。これが幌に引っ掛かると、簡単に破れるのだ。
あと注意すべきは、川の近くの道だ。
川に近いところは管理者が河川局になっている場合がある。すると、警告や制限標識などの設置基準が他の道路と違う、特に劣る場合がある。
それに気付かずトラックで通行したら、いきなり3.6mのローカル線のガードなんかが現れたり、なんて事もある。
古くしょぼいガードだと速度が出ているとぶつかった衝撃でずれてしまう事がある。
そうなったら大変だ。エライ金取られて人生が終わること請け合いである。
ならば逃げてしまおうか?
死者が出た場合、往来危険致死に問われ、この法定刑は死刑か無期懲役だ。
そういう訳で、川の近くで道がしょぼくなったら特に注意が必要なのだ。
ついでなのでパンクした時の事も書いておく。
まず特徴的なのは、「トラックの左側のホイールナットは逆ネジ」という事だ。
これはゆるみ止めでそうなっている。左にいくら回してもナットは緩まない。
次に一番大事なのは、ジャッキで上げる前に「車止めを必ずしなければならない」。
サイドブレーキだけじゃダメという事だ。これはトラックの構造に由来する。
だから1輪をジャッキアップしても、どっちかの後輪が設置していれば車は流れない。
これに対し、トラックのサイドブレーキは「ミッションの出力軸」を締め上げる構造になっている。つまり車輪自体はクルクル回るのだ。
そして車の駆動輪には「デファレンシャルギア(デフ)」というものがある。これはカーブで左右のタイアの通る距離が変わるので、それを吸収するための機構だ。
電車では両車輪は直結になっているので、カーブでは軋み音がしてスリップする。電車は鉄車輪だからスリップしやすいが、ゴムタイアではそうは行かない。
このデフの悪作用で、片輪をジャッキアップすると持上がったタイアが回転を始め、車が動き出してしまう。
そうなると、当然ジャッキは外れて車は落ちてくる。
死ななくても、体勢的に足は挟まるだろう。その後はずっと片足義足の人生だ。
だから、タイア交換する羽目になったら「必ず上げる車輪の対角に車止め」を忘れてはいけない。
因みに、この「ミッションにサイドブレーキが掛かる」というのは、バスに乗っている時にも実感できる。
渋滞、終点等でバスがサイドブレーキを引いたときに前後に「ゆっさゆっさ」と揺れるのを感じた事があるかもしれない。
これはデフの歯車やジョイントの遊び、シャフトの捩れがあるからで、乗用車ではない挙動だ。
因みにトラックはMTでもエンジントルクが太いのでエンストしないから乗りやすいし、坂道発進支援装置(自動的にサイドが掛かって外れる)もあるから、運転は難しくないのだ。
この記事に感化されて10年ぶりくらいに日記を書きたくなった。
産んだばかりの赤子を置いて遊びに行く事もままならないから、そんなTLが楽しいわけもないしおおよそ素性をふんわりさせることが
暗黙の了解になってる(それが心地よくもある)女オタという特性がらリアル生活や育児の愚痴も書きづらい。
久々に日記でも書こうと思ったのはそれもある。
3月生まれ、0歳クラス何それ美味しいの?といううちの子に来た1歳クラスへの通知は「保育室内定」だった。
保育室…「待機児童を解消するための緊急対策として平成21年度から区が整備している認可外の保育施設」
主に待機児童の多い1歳児・2歳児向に認可保育園とほぼ変わらない金額で入れる認可外保育園くらいの規模の施設だ。
認可保育園の1歳クラスは当然のように落ちた。むしろ保育室も落ちたと思っていた。
なんで同じ申込書に書いた保育園と保育室の合否通知を2倍の送料かけて2通に分けて寄越すのか意味がわからないが
(そのせいで最初に開けた「認可保育園落選」通知で保育室も落ちたと思いその旨家族に伝えた後に2通目の封書に
気が付いて呆気にとられたものだ)とにかく「緊急対策」には引っかかった形だ。
「フルタイムで立派に勤め続けて子供も作った、そんな自分にこの仕打ちか」とはとてもじゃないが言える立場にない。
なぜなら私は昨年の秋まで無職だった。
「妊娠を機に」以前の会社を辞めた事にしているが、正直な話上司と折り合いが悪かっただけだ。
今通っている認可外保育園には到底通えるわけもないような額面だった。
実際「育休取ったけど認可保育園が決まらず結局辞めざるを得なかった」社員もいたという話を聞く。
そりゃ、あの給料で認可外通わすなんてどだい無理な話だ。
というわけで当初は「しばらくは働く事を考えず育児だけすっか」と考えていた私だったのだが、
減っていく貯金額を見ているうちに心のバランスが崩れ、突然就活を始めた。
表面上、保育園はフルタイム労働者だけでなくパートタイマーはもちろん、就活中の人だって利用できる。
だがそれだと当然「ポイント」が足りないから入れるわけもない。
11月の申し込み時点でフルに働いている実績が無いとだめだというから。
結果としてなんとか秋の間に仕事を決めることができた。契約社員だけど。
すぐに入れる認可外保育園を見つけてきた。電車で通う距離だけど。
以前勤めていた会社の人にも「あなたは社会人に向いてない」とすら言われた。
でも生きないといけない。
結婚式で親戚に「お前が結婚できるなんて」と面と向かって言われたくらいの私が、だ。
正直自分が良い母になれる自信も無いし上記のとおり主婦適性もないから、
三十路前に結婚したけどアラフォーになるまで子作りは待ってもらった。
そして何よりも私も夫も一人っ子だ。
「もう逃げ場が無い」
子作りにあたりそう思ったのは事実だ。
夫は正規雇用でフルタイム労働者だ。しかし悲しいくらいに給料が安い。
給料が安い以外はすごく良い夫だ。よくこんないいとこなしの私と結婚したなと思う。
出会った当時は今の倍の給料があったので「給料が安いから選択肢が無かったわけでもない。
今の仕事は少なくとも当時よりはずっと楽しそうだしやりがいもあるようだ。
私は再就職にあたり夫より100万多い年収の会社を決めてきた。
これでとりあえず「若年貧困層」から「中流以上」の世帯年収にはなった。
もちろんいつ切られるか分からない身だけれど。
というかそもそも「社会人に向いてない」と言われるくらいのポンコツなので多分来年には切られると思う。
そうしたらまた就活だが、それについては自分のせいなので仕方ない。
「保活」
なぜ当たり前のサービスを当たり前に受けるだけなのに「活動」が必要なんだ。
メディアは待機児童問題に絡めて面白おかしくこの言葉を取り上げる。
しかしその内容はすっかすかだ。
見学なんて「保活」じゃなくて普通のことだ。そもそも何十か所なんて数、どう考えても現実的に通えない場所も含まれている。
そしてメディアが言えない本当の「保活」はここにきちんと書かれていた。
絶対にやりたくない。
そういうわけで私は保活を一切しなかった。
…と、ここまで書くくらいだから自覚もしてるんだけど、私は「意識の低さ」ならぴかいちだ。
少なくとも「総合職でバリバリ働き納税してきたのに保育園に入れない働くお母さん」には到底及ばない。
「こんな意識の低い母親がいるなんて」と思われるのは何より子供に申し訳ないから匿名じゃないと書けない。
そんな意識の低い私だから端から認可保育園に受かるなんて思っていなかった。
ただ「受かる思っていなかった」ことと「実際に落ちる」ことは話が別だ。
そして保育室には内定した。
【今通っている認可外保育園】
・月8万5千円△補助金3万円=月5万5千円
【内定の出た保育室】
・月5万円△補助金3万円=月2万円
なんだよかったじゃん、意識低いくせに運だけ良すぎだろ…でもいいことばかりじゃない。
まず保育室は緊急対策施設のためか延長保育が無い。18時30分完全クローズ。
定時は18時。周りに頭下げながら定時ダッシュしたとて30分で保育室まで着けるわけもない。
そして2歳が終わると同時に卒園。一定の「卒園点」(笑)がもらえるとはいえまた吐き気のする「保活」を
視野に入れなくてはならないのかと思うと缶チューハイ開けたくなる。(授乳時期は過ぎました)
今は仕事があるけど非正規だし来年には無職になるかもしれない。そうしたらまた若年貧困層に逆戻りだ。
半認可ながら保育園は決まったけど、現実問題として本当に働きながら通えるか分からない。
我が家の未来はいつまでも不透明だけど、子供ができたら後戻りはできないわけだから、
まずは明日食べるご飯代を稼がなければならない。漕ぎだした車輪を止めたら親亀も子亀も転んでしまう。
生きよう。
…ところで私が住む杉並区は、数年前「お母さん一揆」が起きた事で有名だ。
もちろんそれでもまだ全然足りていないわけだが、実は今回内定の出た保育室はこの2年の間にできた施設だ。
あの時頑張ったお母さん達のお陰で、少なくともこんな生きることだけに必死なポンコツにもギリギリ手が差し伸べられた。
どこかでお会いすることができたらその点は本当に心からお礼を言いたいし、今後私にも何かできないだろうかとは思っている。